かつては何度も引用を繰り返した、ビクトル・エリセと蓮實重彦との間の美しい語りがある。
蓮實重彦)『エル・スール』の場合は、オフのナレーションが素晴らしいのですが、この構成はシナリオ段階から決まっていたわけですね。 ビクトル・エリセ) ええ、あのナレーションの声は、すでに大人になった女、つまりエストレーリアがその成熟した女としての視点から語っているのです。彼女が、少女時代の根源的な体験を、もはや触れえない何ものかとして語っているわけです。それは、内面の日記かもしれない。文学的な作品の一断片かもしれない、しかしそれが文学的なものとして語られることを私は望んだのです。 |
蓮實重彦)その少女時代の根源的な体験の中で、父親が重要な役目を果たしています。ところが、この父親と娘という関係をめぐって「この発想はあからさまにフロイト的だ」という批評を「カイエ・デュ・シネマ」誌で読みました。好意的な文章なのですが、こういう言葉で単純な図式化が行われると、作品の豊かさが一度に失われて残念な気がしました。 ビクトル・エリセ) おっしゃる通り、私は仕事をしているときに、その種のことはまったく考えていない。もちろん、これまでの生涯で目にしたある種のイメージとか、体験したある種の感情とかを映画の中に生かそうとはするでしょう。でも、フロイト的な発想などというものが最初のアイディアとしてあるわけではもちろんありません。私は心もとなく闇の中に歩きはじめる。私が何かを理解するのは撮影が終わった瞬間なのです。映画とは、そうした理解の一形態なのであり、あらかじめわかっていることを映画にするのではありません。〔・・・〕 |
エリセ)アルゼンチンのある精神分析者が、『ミツバチ』をもとに両親と子供との関係を分析した本があります。そういうことはありうるでしょう。しかし、それは、発想のもとに精神分析的な図式があったというのとは別の問題です。自分の子供時代の記憶とか、誰かから聞いた話などが断片的に入り混じっている作品から作者の統一的な意図を引き出すという知的な解釈に私はしばしば驚かされます。(「心もとなく闇の中を歩みはじめるように」1985年、ビクトル・エリセへの蓮實重彦インタヴュー、『光をめぐって』所収) |
➡︎「Ladra el Sur, Amanece el péndulo」
この態度が大事だ、とくに「芸術家」の場合。フロイトもラカンもそう言っている。
われわれの仲間の一人が『グラディーヴァ』に出てくる夢とその解釈可能性に関心をもった〔・・・〕。その人が当の作家に直接会って、あなたの考えに非常によく似た学問上の理論があることをご存知だったのかと尋ねれみた、はじめから予想できたことだが、これにたいして作者は知らないと返答した、しかもそこには多少不快げな調子がこもっていた。そして、自分自身の空想が『グラディーヴァ』のヒントをあたえてくれたのだ、……これが気に入らない人はどうかかまわないでいただきたい、と言った。…作者はこのような法則や意図を知っている必要などまったくないし、だから彼がそれを否定したとしてもそこに微塵の嘘もないのである。〔・・・〕 |
われわれの方法の要点は、他人の異常な心的事象を意識的に観察し、それがそなえている法則を推測し、それを口に出してはっきり表現できるようにするところにある。一方詩人の進む道はおそらくそれとは違っている。彼は自分自身の心に存する無意識的なものに注意を集中して、その発展可能性にそっと耳を傾け、その可能性に意識的な批判を加えて抑制するかわりに、芸術的な表現をあたえてやる。このようにして作家は、われわれが他人を観察して学ぶこと、すなわちかかる無意識的なものの活動がいかなる法則にしたがっているかということを、自分自身から聞き知るのである。だが彼はそのような法則を口に出していう必要はないし、それらをはっきり認識する必要さえない。 |
Unser Verfahren besteht in der bewußten Beobachtung der abnormen seelischen Vorgänge bei Anderen, um deren Gesetze erraten und aussprechen zu können. Der Dichter geht wohl anders vor; er richtet seine Aufmerksamkeit auf das Unbewußte in seiner eigenen Seele, lauscht den Entwicklungsmöglichkeiten desselben und gestattet ihnen den künstlerischen Ausdruck, anstatt sie mit bewußter Kritik zu unterdrücken. So erfährt er aus sich, was wir bei Anderen erlernen, welchen Gesetzen die Betätigung dieses Unbewußten folgen muß, aber er braucht diese Gesetze nicht auszusprechen, nicht einmal sie klar zu erkennen (フロイト『W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる妄想と夢』第4章、1907年) |
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フロイトとともに思い起こさねばならない。芸術の分野では、芸術家は常に分析家に先んじており l'artiste toujours le précède 、精神分析家は芸術家が切り拓いてくれる道において心理学者になることはないのだということを il n'a donc pas à faire le psychologue là où l'artiste lui fraie la voie 。 (ラカン 「マルグリット・デュラスへのオマージュ HOMMAGE FAIT A MARGUERITE DURAS 」、AE193、1965年) |
繰り返せば、「心もとなく闇の中に歩きはじめる」ーーこれが肝腎だ。前回示した図で言えば、上階から下界へと冥府下りすることが。 |
他方、下界から上界への観点をもつある時期以降のフロイトラカン的精神分析においては、極論を言えば、『エル・スール』の場合、次の一文で片付いてしまう。 |
強い父への固着をもった少女の夢 Traum eines Mädchens mit starker Vaterfixierung, (フロイト『夢解釈の理論と実践についての見解』1923年) |
要するにに愛の条件の固着とその反復だ。 |
忘れないようにしよう、フロイトが明示した愛の条件のすべてを、愛の決定性のすべてを。N'oublions pas … FREUD articulables…toutes les Liebesbedingungen, toutes les déterminations de l'amour (Lacan, S9, 21 Mars 1962) |
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性的抑圧[Sexualverdrängung]が取り去られず単に背景に押しやられているだけの患者は、すべての愛の条件[Liebesbedingungen]を持ち出すことになすがままになる。すなわち彼女の性的憧憬の幻想のすべて[alle Phantasien ihrer Sexualsehnsucht,] 、恋におちいる固有の特徴[alle Einzelcharaktere ihrer Verliebtheit]を。そして彼女の愛の幼児期の原因[infantilen Begründungen ihrer Liebe]に自らを委ねる。(フロイト『転移性恋愛についてBemerkungen über die Übertragungsliebe 』 1915) |
初期幼児期の愛の固着 frühinfantiler Liebesfixierungen.(フロイト『十七世紀のある悪魔神経症』1923年) |
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フロイトが Liebesbedingung と呼んだもの、つまり愛の条件、ラカンの欲望の原因がある。これは固有の徴ーーあるいは諸徴の組み合わせーーであり、愛の選択において決定的な機能をもっている。Il y a ce que Freud a appelé Liebesbedingung, la condition d’amour, la cause du désir. C’est un trait particulier – ou un ensemble de traits – qui a chez quelqu’un une fonction déterminante dans le choix amoureux. (J.-A. Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010) |
ーー《われわれが現実界という語を使うとき、この語の十全な固有の特徴は「現実界は原因である」となる。quand on se sert du mot réel, le trait distinctif de l'adéquation du mot : le réel est cause. 》(J.-A. MILLER, - L'ÊTRE ET L'UN - 26/1/2011) |
愛は常に反復である。これは直接的に固着概念を指し示す。固着は欲動と症状にまといついている。愛の条件の固着があるのである。L'amour est donc toujours répétition, […]Ceci renvoie directement au concept de fixation, qui est attaché à la pulsion et au symptôme. Ce serait la fixation des conditions de l'amour. (David Halfon,「愛の迷宮Les labyrinthes de l'amour 」ーー『AMOUR, DESIR et JOUISSANCE』論集所収, Novembre 2015) |
だから無駄に触れないほうがいいよ、
フロイトラカンなんて。
とくに〈きみたち〉の場合。
冥府からの上階へのことばかり記している
蚊居肢ブログも読まないほうがいい。
もっとも次のような面はある。
「若きパルク」は「誰が泣くのか、過ぎ行く一筋の風ならで/いやはての星々とともにひとりあるこのひとときに」で始まる。『ドゥイノの悲歌』は「誰が、たとえ私が叫ぼうとも、天使たちの序列の中から私の声を聞いてくれようか」で始まる。いずれも鋭い、答えのない「誰が?」で始まる。 そうして「若きパルク」では個人の意識の中に、『ドゥイノの悲歌』では人間の現存在世界とでもいうべきものの中に、ずんずん下って行く。『荒地』だけは問いかけではなく、「四月は残酷な月だ」で始まるが、中途に「誰が?」「誰だ?」という問いかけをいく度も放ちながら、現代社会の荒廃と索莫の地獄めぐりを行う。いずれの詩も最後近くににわかに上昇に転じ、肯定で終わるが、肯定は唐突であり、どこかに弱さがある。読み終えた者の耳に残るものは不安で鋭い問いかけの方である。 |
これらの詩を二十世紀後半の詩と隔てるものは何であろうか。 私たちは三歳から五歳以後今まで連続した記憶を持っている。むろん忘却や脱落はあるが、にもかかわらず、自我は一つで三歳以後連続している確実感がある。それ以前の記憶は断片的である。また成人型の記憶は映画やビデオのように、いやもっとダイナミックに動いているが、ある時期の記憶は前後関係を欠き、孤立したスティール写真のような静止画像である。成人型の記憶と違って、言葉に表しにくい。 「若きパルク」も『ドゥイノの悲歌』も、『荒地』でさえも、映像も言語も成人型の記憶のように動き流れていく。断絶や飛躍を越えて連続性がある。前後関係があり遠近がある。 |
これに対して、二十世紀後半の詩は孤立した鋭い断片であって、成人以前の記憶が禁止を破って突き上げてきた印象がある。このタイプの映像は幼い時の記憶だけでなく、たとえ成人であっても耐えがたい心の傷を負った時には、その記憶がとる形である。 たとえばパウル・ツェランの詩が痛ましさを以て迫るのは、その内容だけでなく詩句もそれが呼び起こす映像も外傷的記憶の形をとっているからであると私は思う。それはもはや冥府下りでなく、冥府からの途切れがちの声である。(中井久夫「私の三冊」初出1996年『アリアドネからの糸』所収) |
つまりは重度のトラウマへの固着者ーーいや、父の名の消滅、神の消滅の世界を十全に引き受けた究極のアンチ神経症者といってもいいーーの「冥府からの途切れがちの声」とは地階から上階への声だ。これ以外の人は中期以降のフロイト、後期ラカンなどには関知しないほうがよい。 |
夢は反復的夢となる時その地位を変える。夢が反復的なら夢はトラウマを含意する。le rêve change de statut quand il s'agit d'un rêve répétitif. Quand le rêve est répétitif on implique un trauma. (J.-A. Miller, Lire un symptôme, 2011) |
トラウマへの無意識的固着[die unbewußte Fixierung an ein Trauma]は、夢の機能の障害のなかで最初に来るように見える。睡眠者が夢をみるとき、夜のあいだの抑圧の解放は、トラウマ的固着[traumatischen Fixierung]の圧力上昇を現勢化させ、夢の作業の機能における失敗を引き起こす傾向がある。夢の作業はトラウマ的出来事の記憶痕跡を願望実現へと移行させるものだが。こういった環境において起こるのは、人は眠れないことである。人は、夢の機能の失敗の恐怖から睡眠を諦める。ここでトラウマ的神経症は我々に究極の事例を提供してくれる。だが我々はまた認めなければならない、幼児期の出来事もまたトラウマ的特徴をもっていることを[aber man muß auch den Kindheitserlebnissen den traumatischen Charakter zugestehen ](フロイト『続精神分析入門』29. Vorlesung. Revision der Traumlehre, 1933 年) |
ーーこれは『ツァラトゥストラ』第2部の最後の節「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」にあまりにも鮮明に現れている。
ニーチェは冥界からの声の人だ。冥府下りでは決してない。地階の「蜘蛛の回帰」の人だ。だから上階の人に過ぎないーー「最も静かな時刻」を知らないーー神経症的学者たちはいつまでたってもニーチェが読めない。
学者というものは、精神の中流階級に属している以上、真の「偉大な」問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。Es folgt aus den Gesetzen der Rangordnung, dass Gelehrte, insofern sie dem geistigen Mittelstande zugehören, die eigentlichen grossen Probleme und Fragezeichen gar nicht in Sicht bekommen dürfen: (ニーチェ『悦ばしき知識』第373番、1882年) |
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で、この記事は何が言いたいんだろうな
たぶん〈きみたち〉を馬鹿にしてんだろうよ
それしかないね
だから蚊居肢ブログは読まないほうがいいのさ
アバヨ!