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2021年8月12日木曜日

フロイトのニーチェパクリ(?)


宗教は賎民の関心事である[Religionen sind Pöbel-Affairen](ニーチェ『この人を見よ』1888年)

生は悦の泉である。が、どんな泉も、賎民が来て口をつけると、毒にけがされてしまう。[Das Leben ist ein Born der Lust; aber wo das Gesindel mit trinkt, da sind alle Brunnen vergiftet. ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第2部「賎民 Vom Gesindel1884 年)


ここでの宗教は一神教であり、ニーチェは多神教あるいはアニミズムを否定しているわけではない。


神性はある。つまり神々はある。だが神はない![Das eben ist Göttlichkeit, dass es Götter, aber keinen Gott giebt!](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第3部「新旧の表Von alten und neuen Tafeln 」第11節、1884年)

私は多くの種類の神々があることを疑うことはできない[Ich würde nicht zweifeln, daß es viele Arten Götter gibt.](ニーチェ遺稿、Nachgelassene Fragmente, PDF


さらにニーチェは神は至高の力だと言っているが、神は欲動だということだ。


神は至高の力である。これで充分だ![Gott die höchste Macht - das genügt! ](ニーチェ遺稿、1987

科学や知において、欲動は聖なるものとなる。すなわち「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である。知を備えた人間は、聖性において自らをはるかに超える[In der Wissenschaft, im Erkennen sind die Triebe heilig geworden: "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht". Der erkennende Mensch ist in der Heiligkeit weit über sich hinaus. ](ニーチェ「力への意志」遺稿第223番、1882 - Frühjahr 1887

すべての欲動力(すべての駆り立てる力 alle treibende Kraft)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt.(ニーチェ「力への意志」遺稿 , Anfang 1888


これはすでにクロソウスキーが言っている。


永遠回帰〔・・・〕ニーチェの思考において、回帰は力への意志の純粋メタファー以外の何ものでもない[L'Éternel Retour …dans la pensée de Nietzsche, le Retour n'est qu'une pure métaphore de la volonté de puissance. ]〔・・・〕

しかし力への意志は至高の欲動のことではなかろうか[Mais la volonté de puissance n'est-elle pas l'impulsion suprême? ](クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)


要するに、神は実存の永遠の砂時計[Die ewige Sanduhr des Daseins]だ。


お前は、お前が現に生き、既に生きてきたこの生をもう一度、また無数回におよんで、生きなければならないだろう。そこには何も新しいものはなく、あらゆる苦痛とあらゆる悦[jeder Schmerz und jede Lust]、あらゆる想念と嘆息、お前の生の名状しがたく小なるものと大なるもののすべてが回帰するにちがいない。しかもすべてが同じ順序でーーこの蜘蛛、樹々のあいだのこの月光も同様であり、この瞬間と私自身も同様である。実存の永遠の砂時計 Die ewige Sanduhr des Daseins]はくりかえしくりかえし回転させられる。ーーそしてこの砂時計とともに、砂塵のなかの小さな砂塵にすぎないお前も!」


»Dieses Leben, wie du es jetzt lebst und gelebt hast, wirst du noch einmal und noch unzählige Male leben müssen; und es wird nichts Neues daran sein, sondern jeder Schmerz und jede Lust und jeder Gedanke und Seufzer und alles unsäglich Kleine und Große deines Lebens muß dir wiederkommen, und alles in derselben Reihe und Folge – und ebenso diese Spinne und dieses Mondlicht zwischen den Bäumen, und ebenso die ser Augenblick und ich selber. Die ewige Sanduhr des Daseins wird immer wieder umgedreht – und du mit ihr, Stäubchen vom Staube!« (ニーチェ『悦ばしき知』341番、1882年)


この実存の永遠の砂時計 Die ewige Sanduhr des Daseins]、この永遠回帰、これが不気味なもの[Unheimlich]だ。


不気味なものは人間の実在「 Dasein]であり、それは意味もたず黙っている[Unheimlich ist das menschliche Dasein und immer noch ohne Sinn ](ニーチェ『ツァラトゥストラ 』第1部「序説」1883年)


ーーより詳しくは「不気味な実存の永遠の砂時計」を見よ



これらはフロイトとピッタンコであり、パクったんじゃないかね


神は不気味なものである[Gottes …Er ist ein unheimlicher](フロイト『モーセと一神教』2.41939年)


外にある家(不気味なもの)」で示したように、フロイトの不気味なものとは、反復強迫=永遠回帰=死の欲動である。


同一のものの回帰という不気味なもの[das Unheimliche der gleichartigen Wiederkehr]〔・・・〕


心的無意識のうちには、欲動蠢動から生ずる反復強迫の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。〔・・・〕不気味なものとして感知されるものは、この内的反復強迫[inneren Wiederholungszwang を思い起こさせるものである。(フロイト『不気味なもの Das Unheimliche1919年)


同一の出来事の反復の中に現れる不変の個性刻印[gleichbleibenden Charakterzug]を見出すならば、われわれは(ニーチェの)同一のものの永遠回帰[ewige Wiederkehr des Gleichen]をさして不思議とも思わない。〔・・・〕この反復強迫[Wiederholungszwang]〔・・・〕あるいは運命強迫 Schicksalszwang nennen könnte ]とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年)


われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす[Charakter eines Wiederholungszwanges …der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.](フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年)


というわけで、ツァラトゥストラのグランフィナーレのお呼びだ。



悦が欲するのは自分自身だ、永遠だ、回帰だ、万物の永遠にわたる自己同一だ[Lust will sich selber, will Ewigkeit, will Wiederkunft, will Alles-sich-ewig-gleich.]〔・・・〕


すべての悦は永遠を欲する![alle Lust will - Ewigkeit! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』「酔歌」第91885年)

完全になったもの、熟したものは、みなーー死を欲する![Was vollkommen ward, alles Reife - will sterben!」(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第9節、1885年)




何はともあれ、ニーチェはとってもえらいんだよ



ニーチェによって獲得された自己省察(内観 Introspektion)の度合いは、いまだかつて誰によっても獲得されていない。今後もおそらく誰にも再び到達され得ないだろう。Eine solche Introspektion wie bei Nietzsche wurde bei keinem Menschen vorher erreicht und dürfte wahrscheinlich auch nicht mehr erreicht werden."  (フロイト、於ウィーン精神分析協会会議 1908 Wiener Psychoanalytischen Vereinigung

ニーチェは、精神分析が苦労の末に辿り着いた結論に驚くほど似た予見や洞察をしばしば語っている。Nietzsche, […] dessen Ahnungen und Einsichten sich oft in der erstaunlichsten Weise mit den mühsamen Ergebnissen der Psychoanalyse decken (フロイト『自己を語る Selbstdarstellung1925年)




でも日本的超訳ニーチェ、つまり骨抜きニーチェのたぐいだけは避けないとな、そのあたりのチョロチョロした研究者の注釈も似たようなもんだよ。