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2021年8月13日金曜日

われわれはみな原始人である

 


忘れてはならない。太古の[archaïque]という語をフロイトは使っていることを。太古の分析 l'analyse à l'archaïque]とは、厳密にわれわれの根の分析であることを。原点としては、われわれはみな原始人である[nous sommes tous des primitifs.  (J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 29 MARS 1989)


自我の核(私は後にそれを「エス」と呼ぶようになる)は、人間の魂の属性の「太古の遺伝」であり無意識的である[der Kern des Ichs (das Es, wie ich es später genannt habe), dem die »archaische Erbschaft« der Menschenseele angehört, unbewußt ist,](フロイト『集団心理学と自我の分析』第2章、1921年)


フロイトをはじめとする精神分析家たちが「原始人」に関心をもつのは、主に現代に生きる個人の原始時代、つまり幼児期のリビドー生活を探るためである。


リビドー理論を私の考えるように正しく発展させるための第三の流れは、幼児や原始人の心的生活を観察し解釈することから生じてくる。原始人のもっている特性は、もしもそれらが個々に存在しているとするならば誇大妄想の部類にいれることのできるものであろうが、われわれがそこに見出すのは自己の願望や心的作用がもつ力の過大評価、「観念の万能」Allmacht der Gedanken、言葉のもつ魔力への信仰、外界に対する技巧、これらの誇大妄想的な前提の徹底的な応用として現われる「魔法」Magie などである。児童の発達は原始人のそれに比べるとわれわれにはずっと不明瞭なところが多いが、われわれはこれとまったく類似した外界に対する態度を現代の児童に期待するのである。(フロイト『ナルシシズム入門』第1章、1914年)


フロイトは1914年に上のように、観念の万能[Allmacht der Gedanken](思考の全能性)という表現を使っているが、前年の1913年に書かれた『トーテムとタブー』の第三論文にはこうある。


われわれは、観念の万能とアニミズム的思考方法を確認させるようにな印象に「不気味なもの」という性格を一般にあたえているように思われる。Es scheint, daß wir den Charakter des »Unheimlichen« solchen Eindrücken verleihen, welche die Allmacht der Gedanken und die animistische Denkweise überhaupt bestätigen wollen, (フロイト『トーテムとタブー』第三論文「アニミズム・呪術および観念の万能」第3章、1913年)


「不気味なもの」とは、「外にある家(不気味なもの)」で示したように、フロイトの異物(異者としての身体)と等価であり、トラウマのことである。


トラウマないしはトラウマの記憶は、異物(異者としての身体 Fremdkörper )のように作用する。この異物は体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ。das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt, welcher noch lange nach seinem Eindringen als gegenwärtig wirkendes Agens gelten muß(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年)

現実界のなかの異物概念(異者としての身体概念)は明瞭に、享楽と結びついた最も深淵な地位にある。une idée de l'objet étrange dans le réel. C'est évidemment son statut le plus profond en tant que lié à la jouissance J.-A. MILLER, Orientation lacanienne III,-16/06/2004


享楽自体、トラウマである、ーー《われわれはトラウマ化された享楽を扱っている。Nous avons affaire à une jouissance traumatisée. 》(J.-A. MILLER, Choses de finesse en psychanalyse, 20 mai 2009)


人は成人になってもこの異物=トラウマが回帰する。


結局、成人したからといって、原初のトラウマ的不安状況の回帰に対して十分な防衛をもたない。Gegen die Wiederkehr der ursprünglichen traumatischen Angstsituation bietet endlich auch das Erwachsensein keinen zureichenden Schutz; (フロイト『制止、症状、不安』第9章、1926年)


人は「成熟」したり「修行」を積めば、この異者としての身体に対して完全に防衛できると思い込むのは、(少なくともフロイトラカンにおける)精神分析観点からは「傲岸不遜」ーーカトリックの大罪である「傲慢」(ヒュブリス  ὕβρις)と事実上同じことだとしておこうーーである。せいぜい飼い馴らしが可能なだけであり、しかも折を見て不気味な異者は、自我の制御の檻を突き破って野獣の姿を顕わす。古代からある祭(カーニバル)の機能、その放逸は、制度的に野獣に餌を与える仕組である。現代でも、たとえばスポーツ観戦にときに伴う放縦は、その穏やかな形態であると言い得る。


さてここで「個人的先史時代」を語っている中井久夫を引こう。


幼児型記憶と成人型記憶との間には、幼児型言語と成人型言語との差と並行した深い溝がある。それは、幼虫(ラルヴァ)と成虫(イマーゴ)との差に比することができる。エディプス期はサナギの時期に比することができる。

 

私たちは成人文法性成立以前の記憶には直接触れることができない。本人にとっても、成人文法性以前の自己史はその後の伝聞や状況証拠によって再構成されたものである。それは個人の「考古学」によって探索される「個人的先史時代」である。縄文時代の人間の生活や感情と同じく、あて推量するしかない。これに対して成人文法性成立以後は個人の「歴史時代」である。過去の自己像に私たちは感情移入することができる。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーーひとつの方針」2003年『徴候・記憶・外傷』所収P167-170


ラルヴァ期の記憶は、分析困難であっても必ず残存している。この残滓がジャック=アラン・ミレールのいう「原点としては人はみな原始人」の含意である。


さらに中井久夫は、幼児型記憶は外傷性記憶としつつ、フロイトの「異物」概念を使って次の如く記述している。


外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」初出2000年『徴候・記憶・外傷』所収)


この幼児型外傷記憶を分析することが、後期フロイトの「太古の分析=エスの分析」の基本ということになる。前期フロイトの「自由連想」とは、このエスの分析には馴染まない。せいぜい力動的無意識、すでに心的装置内にある前無意識ーーフロイトは「無意識の後裔」と呼んだーーに対応しうるだけであり、原無意識、異物(異者身体)としての「欲動の根」には対応できない。


「太古の遺伝 archaischen Erbschaft」ということをいう場合には、普通はただエスのことを考えている[Wenn wir von »archaischer Erbschaft«sprechen, denken wir gewöhnlich nur an das Es ](フロイト『終りある分析と終りなき分析』第6章、1937年)




何よりもまずここに、一般的な心理学とフロイト的なメタ心理学[Metapsychologie]との相違がある、ーー《幼児の最初期の出来事は、後の全人生において比較を絶した重要性を持つ。 die Erlebnisse seiner ersten Jahre seien von unübertroffener Bedeutung für sein ganzes späteres Leben,》(フロイト『精神分析概説』第7章、1939年)


この幼児期の出来事の別名がリビドーの固着(欲動の固着=享楽の固着)である。



人の生の重要な特徴はリビドーの可動性であり、リビドーが容易にひとつの対象から他の対象へと移行することである。反対に、或る対象へのリビドーの固着があり、それは生を通して存続する[Ein im Leben wichtiger Charakter ist die Beweglichkeit der Libido, die Leichtigkeit, mit der sie von einem Objekt auf andere Objekte übergeht. Im Gegensatz hiezu steht die Fixierung der Libido an bestimmte Objekte, die oft durchs Leben anhält. ](フロイト『精神分析概説』第2章、1939年)

享楽は欲望とは異なり、固着された点である。享楽は可動機能はない。享楽はリビドーの非可動機能である[La jouissance, contrairement au désir, c'est un point fixe. Ce n'est pas une fonction mobile, c'est la fonction immobile de la libido. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008)


ジャック=アラン・ミレールの言っているように、享楽と欲望の相違は固着にかかわる。


享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 20/5/2009)

分析経験の基盤は厳密にフロイトが「固着」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)



いわゆる「健常者」における愛の条件自体、この固着にかかわる。


忘れないようにしよう、フロイトが明示した愛の条件のすべてを、愛の決定性のすべてを。N'oublions pas … FREUD articulables…toutes les Liebesbedingungen, toutes les déterminations de l'amour  (Lacan, S9, 21  Mars 1962)

愛は常に反復である。これは直接的に固着概念を指し示す。固着は欲動と症状にまといついている。愛の条件の固着があるのである。L'amour est donc toujours répétition, […]Ceci renvoie directement au concept de fixation, qui est attaché à la pulsion et au symptôme. Ce serait la fixation des conditions de l'amour. (David Halfon,「愛の迷宮Les labyrinthes de l'amour 」ーー『AMOUR, DESIR et JOUISSANCE』論集所収, Novembre 2015


これは、プルーストが「肉体の傷」という表現を使って、次のように記している内容と相同的である。


ある年齢に達してからは、われわれの愛やわれわれの愛人は、われわれの苦悩から生みだされるのであり、われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷とが、われわれの未来を決定づける[Or à partir d'un certain âge nos amours, nos maîtresses sont filles de notre angoisse ; notre passé, et les lésions physiques où il s'est inscrit, déterminent notre avenir. ](プルースト「逃げ去る女」)


ドゥルーズが《愛する理由は、人が愛する対象のなかにはけっしてない[les raisons d'aimer ne résident jamais dans celui qu'on aime]》(『プルーストとシーニュ』第2版、1970年)としたのは、この意味である。