ああきみ、それはまったく誤謬だよ。モノ=異者=不気味なものであり、不気味なものは死の欲動だよ
死の欲動は現実界である。死は現実界の基盤である[La pulsion de mort c'est le Réel …la mort, dont c'est le fondement de Réel ](Lacan, S23, 16 Mars 1976) |
フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel] (Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
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モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger, ](Lacan, S7, 09 Décembre 1959) |
異者がいる。…異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974) |
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不気味なものとして感知されるものは、内的反復強迫を思い起こさせるものである[daß dasjenige als unheimlich verspürt werden wird, was an diesen inneren Wiederholungszwang mahnen kann.](フロイト『不気味なもの 』第2章、1919年) |
われわれは反復強迫の特徴に、何よりもまず死の欲動を見出だす[Charakter eines Wiederholungszwanges …der uns zuerst zur Aufspürung der Todestriebe führte.](フロイト『快原理の彼岸』第6章、1920年) |
わかるかい? 今、一部を引用しただけだが、これはフロイトラカンのどこをひっくり返したってこうなる。
私は現代日本で生きている思想家では、柄谷を第一に置くがね、その柄谷でも間違っている。トラクリで、不気味なものは(イマジネールな)自己投射なんて言ってんだから、《「不気味なもの( unheimlich)」とは本来「親密なもの( heimlich)」である。つまり、自己投射にほかならない。》。
ウィトゲンシュタインは私的言語あるいは独我論に対して、社会的な言語の先行性を主張したといわれる。だが、そのようにいうことは、彼の「懐疑」をほとんど無効にしてしまうだろう。彼が否定したのは、「証明」というかたちをとる共同主観性あるいは対話それ自体の独我論性なのだ。私は、ここで、独我論とは、自分一人しかいないという思考ではなく、自分にあてはまることが万人にあてはまるという考えのことであるといおう。なぜなら、後者においては、結局他者は自己の中に内面化されてしまうのだから。同時に、私は、対話とは、規則を共有しない他者との対話、あるいは非対称的な関係にとどまるような対話であると定義したい。そして、他者とはそのような者である、と。といっても、他者は、人類学者がいうような異者(不気味なもの)ではない。フロイトがいったように、「不気味なもの( unheimlich)」とは本来「親密なもの( heimlich)」である。つまり、自己投射にほかならない。また、われわれがいう他者は絶対的な他者ではない。それもまた自己投射にすぎない。われわれが考えるのは、むしろありふれた相対的な他者の他者性である。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年) |
これは『探求』でも似たようなことを言っている。柄谷でさえときにはこうなんだから、そのあたりでチョロチョロしているアブクのような連中がとってもボケたこと言うのはやむえないよ。たとえば千葉雅也。彼は現代日本言論界では「相対的には優れている」のは間違いないけどさ。 |
通常vs.ファルスの構図は、ドイツ語でいえば「通常=馴染み=我が家的である=ハイムリッヒ(heimlich)」なものと、「不気味なもの=我が家的でない=ウンハイムリッヒ(unheimlich)」なものの対立として記述できます。ここで私が第3の道として提起したいのは、ファルス的=不気味ではなく、かつ通常でもないもの。それは、通常のものと極薄の違いしかもたない、「不気味でない(ウン・ウンハイムリッヒ[un-unheimlich])」ものです。〔・・・〕 「例外vs.通常」という構図から外れること。それは後期ラカンでいうところの、男性の式から外れて、女性の式へと向かうことです。女性の式においては、単一の例外者が存在せず、それと相関的である「他のすべて」もない。ゆえに女性の式については「すべてではない(not-all)」という独特の概念をラカンは提示しています。 不気味でないものは、「すべてではないもの」である。 …(千葉雅也「「切断」の哲学と建築──非ファルス的膨らみ/階層性と他者/多次元的近傍性」10plus1、2016/12) |
これは、ラカンの教えにおいて1974年以降、価値下落のあった1973年のアンコールの性別化の式に基づいてこう言ってるのだから、いくらか情状酌量はしなければならないが、それ以前に「ファルス」について無知なんだな、ファルスが不気味なものなんて言ってんだから。
ファルスの意味作用とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない。Die Bedeutung des Phallus est en réalité un pléonasme : il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus. (ラカン, S18, 09 Juin 1971) |
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言語、法、ファルスとの間には密接な結びつきがある。父の名の法は、基本的に言語の法以外の何ものでもない。Il y a donc ici un nœud très étroit entre le langage, la Loi et le phallus. La Loi du Nom-du-Père, c'est au fond rien de plus que la Loi du langage ;(J.-A. MILLER, - L’Être et l’Un, 2/3/2011) |
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ファルスってのは言語だよ。モノ=不気味なものをファルス化(言語化)する機能だ。 上に性別化に式のデフレがあるとしたが、それは次のこと。 |
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性別化の式において、ラカンは、数学的論理の織物のなかに「セクシャリティの袋小路」を把握しようとした。これは英雄的試みだった、数学的論理の方法にて精神分析を「現実界の科学」へと作り上げるために。しかしそれは、享楽をファルス関数の記号のなかの檻に幽閉することなしでは為されえない。 Dans les formules de la sexuation, par exemple, il a essayé de saisir les impasses de la sexualité à partir de la logique mathématique. Cela a été une tentative héroïque pour faire de la psychanalyse une science du réel au même titre que la logique mais cela ne pouvait se faire qu'en enfermant la jouissance phallique dans un symbole. (⋯⋯結局、)性別化は、「身体とララングとのあいだの最初期の衝撃」のちに介入された「二次的構築物」にすぎない。この最初期の衝撃は、「法なき現実界 」 、「論理なき現実界」を構成する。論理はのちに導入されるだけである。 …sexuation. C'est une conséquence secondaire qui fait suite au choc initial du corps avec lalangue, ce réel sans loi et sans logique. La logique arrive seulement après (J.-A. MILLER,「21世紀における現実界 LE RÉEL AU XXIèmeSIÈCLE」2012年) |
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事実、後年のラカンは《ひとりの女はサントーム[une femme est un sinthome ]》(Lacan, S23, 17 Février 1976)、《ひとりの女は異者[une femme, … c'est une étrangeté.]》 (Lacan, S25, 11 Avril 1978)と言っている。つまりひとりの女は不気味なものであり、死の欲動だ。 ジャック=アラン・ミレールの上の文に「身体とララングとのあいだの最初期の衝撃」とあるが、ララングとは母の言葉であり、結局、モノと結びついている。 |
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ララングが、母の言葉と呼ばれることは正しい。というのは、ララングは常に最初期の世話に伴う身体的接触に結びついているから。lalangue… est justifié de la dire maternelle car elle est toujours liée au corps à corps des premiers soins(コレット・ソレール Colette Soler, Les affects lacaniens, 2011) |
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サントームは言語ではなくララングによって条件づけられる。le sinthome est conditionné non par le langage mais par lalangue (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 10 décembre 2008) |
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ラカンがサントームと呼んだものは、ラカンがかつてモノと呼んだものの名、フロイトのモノの名である[Ce que Lacan appellera le sinthome, c'est le nom de ce qu'il appelait jadis la Chose, das Ding, ou encore, en termes freudiens](J.-A.MILLER,, Choses de finesse en psychanalyse X, 4 mars 2009) |
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モノは母である。das Ding, qui est la mère(ラカン, S7, 16 Décembre 1959) |
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より詳しくは、「ララング文献集」を見よ。 ま、要するに世界というのはこの程度のものであって、柄谷でさえああなんだから、そのあたりのチョロチョロしたヤツの話をまともにとったらダメだよ。
……………… 何はともあれ、2016年の時点でああいうことを言っているヤツってのはあらゆる意味で致命的だよ。あれは解釈の相違云々の話ではまったくない。しかも東大の表象文化論の若いのに向けてああ言ってるんだからさ、実態を知ったら蓮實が泣くよ。
要するにファルスと不気味なものは、左項と右項だ。 |
三馬鹿トリオで『欲望会議』やらなんたらと言っているが、相対的にはスグレテイルーーそのあたりの批評家やら社会学者やらに比べてーーのだから、無知のことは知ったかぶりしなければいいんだがな➡︎「欠如と穴(外立)」