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2021年10月31日日曜日

主体の二種類のパートナー「言語と喪失」

「主体のパートナーは言語」、「主体のパートナーは喪失」という同じ主流ラカン派(フロイト大義派)に属する者の発言がある。

主体の生の真のパートナーは、実際は、人間ではなく言語自体である[le vrai partenaire de la vie de ce sujet n'était en fait pas une personne, mais bien plutôt le langage lui-même ](ジャック=アラン・ミレール J.-A. Miller, Retour sur la psychose ordinaire, 2009)

主体の根源的パートナーは、享楽の喪失自体・喪われた対象から成っている[le partenaire fondamental du sujet est fait de sa propre perte de jouissance, son objet perdu.](ピエール=ジル・ゲガーン Pierre-Gilles Guéguen, Encore : belvédère sur la jouissance, 2013)


この二つの一見相反する文は、二種類の主体を言っている。


主体にはシニフィアンの主体と享楽の主体がある[sujet qui est le sujet du signifiant et le sujet de la jouissance.](J.-A. MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE, 11 MARS 1987)


これが「言語の欠如と身体の穴」で示した次の図の意味である(シニフィアンの主体とは欲望の主体のことーー《享楽のシニフィアン化をラカンは欲望と呼んだ[la signifiantisation de la jouissance…C'est ce que Lacan a appelé le désir. ]》(J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999))




ミレールの言っている「主体のパートナーは言語」とは、プルーストやニーチェもそう言っている[参照]。

芸術も事実上、言語だ。例えば、バルテュスは「絵画は他の言葉では表現することができない言語活動だ」と言っているし、ジョン・ケージは、ソルフェージュは抽象的言語だと言っている。


他方、ゲガーンの言っている「主体のパートナーは享楽の喪失・喪われた対象」とは、直接的にラカンから来ている。


主体はどこにあるのか? われわれは唯一、喪われた対象としての主体を見出しうる。より厳密に言えば、喪われた対象は主体の支柱である。Où est le sujet ? On ne peut trouver le sujet que comme objet perdu. Plus précisément cet objet perdu est le support du sujet (ラカン, De la structure en tant qu'immixtion d'un Autre préalable à tout sujet possible, ーーintervention à l'Université Johns Hopkins, Baltimore, 1966)

反復は享楽の回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance]。〔・・・〕フロイトは強調している、反復自体のなかに、享楽の喪失があると[FREUD insiste :  que dans la répétition même, il y a déperdition de jouissance]。ここにフロイトの言説における喪われた対象の機能がある。これがフロイトだ[C'est là que prend origine dans le discours freudien la fonction de l'objet perdu. Cela c'est FREUD].   〔・・・〕フロイトの全テキストは、この「廃墟となった享楽」への探求の相がある。conçu seulement sous cette dimension de la recherche de cette jouissance ruineuse, que tourne tout le texte de FREUD. 〔・・・〕


享楽の対象としてのモノは喪われた対象である[Objet de jouissance …La Chose…cet objet perdu](Lacan, S17, 14 Janvier 1970、摘要)


※フロイトのモノについては、➡︎モノ簡潔版x


ラカンの喪失とは穴(トラウマ)、去勢と等価である。喪失=穴=去勢である。


もっとも去勢には色々な種類がある。


われわれはフロイトのなかに現前するものを持ち出すことができる、それが前面には出ていなくても。つまり原去勢[la castration originaire]である。これは象徴的去勢、想像的去勢、現実界的去勢の問題だけではない。そうではなく原去勢の問題である[Il ne s'agit pas seulement là de la castration symbolique, imaginaire ou réelle, mais de la castration originaire]J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS COURS DU 17 MAI 1989)


モノの喪失というときは、原去勢と現実界的去勢に関わる。原去勢とは「母胎の喪失」であり、現実界的去勢とは、その代表的なものは「母の乳房の喪失」である。どちらも幼児が自己身体と見なしていたものの喪失であり、ラカンの享楽は自己身体の享楽(フロイトの自体性愛[参照)と定義されるが、より厳密に言えば、喪われた自己身体の享楽=モノの享楽[la jouissance de La Chose]である。


このモノの享楽は穴の享楽[la jouissance du trou]とも呼びうる。


ラカンが認知したモノとしての享楽の価値は、穴と等価である[La valeur que Lacan reconnaît ici à la jouissance comme la Chose est équivalente à l'Autre barré [Ⱥ] ](J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)


ミレールは穴と斜線を引かれた主体を等置さえしている。


穴は斜線を引かれた主体と等価である[Ⱥ ≡ $][A barré est équivalent à sujet barré. [Ⱥ ≡ $]](J.-A. MILLER, -désenchantement- 20/03/2002)


つまり、主体の根源的パートナーは喪失=穴どころか、厳密な意味でのラカンの斜線を引かれた主体自体が喪失なのである。

現実界のなかの穴は主体である[Un trou dans le réel, voilà le sujet]. (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)



斜線を引かれた主体にかかわるラカンマテームは、次のようにまとめることができる(参照)。