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2021年12月19日日曜日

自我はエスの影に過ぎない

 



身体自我[Körper-Ich]と身体エス[Körper-Es]で示した通り、この底部の異者が女だよーー《ひとりの女は異者である[une femme …c'est une étrangeté.  ]》(Lacan, S25, 11  Avril  1978)


エスは女だ。自我はエスの影に過ぎない。


人の発達史と人の心的装置において、〔・・・〕原初はすべてがエスであったのであり、自我は、外界からの継続的な影響を通じてエスから発展してきたものである。このゆっくりとした発展のあいだに、エスの或る内容は前意識状態に変わり、そうして自我の中に受け入れられた。他のものは エスの中で変わることなく、近づきがたいエスの核として置き残された 。die Entwicklungsgeschichte der Person und ihres psychischen Apparates […] Ursprünglich war ja alles Es, das Ich ist durch den fortgesetzten Einfluss der Aussenwelt aus dem Es entwickelt worden. Während dieser langsamen Entwicklung sind gewisse Inhalte des Es in den vorbewussten Zustand gewandelt und so ins Ich aufgenommen worden. Andere sind unverändert im Es als dessen schwer zugänglicher Kern geblieben. (フロイト『精神分析概説 Abriß der Psychoanalyse』第4章、1939年ーー「エス文献x」)


ーー《異者としての身体[Fremdkörper]…それは 、原無意識としてエスのなかに置き残されたままである[bleibt als das eigentliche Unbewußte im Es zurück]》. (フロイト『モーセと一神教』3.1.5 Schwierigkeiten, 1939年、摘要)



これが西脇順三郎の「男は女の影にすぎない」を

ーー失礼ながら精神分析的に陳腐化したーー

つまり散文的に翻訳した内実だ


女も自我である限りでは男だよ、

言語秩序とはファルス秩序なのだから


身体自我のイメージは常に言語に支配されている

いま寝転がって書いている先にある

膝や足の指がそれであるのはファルスのせいだ


これがファルス化された身体=身体自我の最も単純な意味だ

わかるかい?





イマジネールな世界、シンボリックな世界には、

女なるものは存在しない[La femme n'existe pas]

女たちにとっても存在しない

リアルな世界に置き残されている



耳を澄まさないとな、



いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる。ああ、ああ、なんと吐息をもらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

ーーおまえには聞こえぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかけるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?


- nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!

- hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu _dir_ redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」1885年)



これは睡眠時だけにはまったく限らない

「自我」をマガオで信奉している連中は

耳を澄ます能力がないだけだ

ラカンが最初期から強調したように、

自我は《影と反映 qu'ombres et reflets に過ぎない




別の言い方をすれば

寧ろエスが私のけふの自我を歌ふんだ


耀かしかつた短い日のことを

ひとびとは歌ふ

・・・

私はうたはない

短かかつた耀かしい日のことを

寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ


ーー伊東静雄「寧ろ彼らが私のけふの日を歌ふ」  


葬儀に帰られたKさんと総領事が、伊東静雄の『鶯』という詩をめぐって話していられた。それを脇で聞いて、私も読んでみる気になったのです。〈(私の魂)といふことは言へない/しかも(私の魂)は記憶する〉


天上であれ、森の高みであれ、人間世界を越えた所から降りてきたものが、私たちの魂を楽器のように鳴らす。私の魂は記憶する。それが魂による創造だ、ということのようでした。いま思えば、夢についてさらにこれは真実ではないでしょうか?


私の魂が本当に独創的なことを創造しうる、というのではない。しかし私たちを越えた高みから夢が舞いおりて、私の魂を楽器のようにかきならす。その歌を私の魂は記憶する。初めそれは明確な意味とともにあるが、しだいに理解したことは稀薄になってゆく。しかしその影響のなかで、この世界に私たちは生きている……  すべて夢の力はこのように働くのではないでしょうか? ……(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第三部)



私の魂を楽器のようにかきならすもの

あれはなにか?

目を閉じればすぐわかる筈だ


わたしのほかに誰が知ろう、アリアドネが何であるかを!……これらすべての謎は、いままでだれ一人解いた者がなかった。そこに謎があることに気がついた者さえいるかどうか疑わしい。(ニーチェ『この人を見よ』1888年)


「アリアドネが何であるか was Ariadne ist!」は、当初は 「Wer Ariadne ist(アリアドネは誰であるか)」であったが、最終的に「was Ariadne ist! (アリアドネは何であるか)」に変えられている(フロイトのエスの起源、『エスの本』を書いたグロデックによる)。