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2021年12月11日土曜日

唯一の真理

 簡単に言おうか。享楽のトラウマってのは去勢だよ。

去勢ー出産は、全身体から一部分の分離である[(Kastration – Geburt) um die Ablösung eines Teiles vom Körperganzen handelt](フロイト『夢判断』1900年ーー1919年註)


要するに、去勢以外の真理はない[En somme, il n'y a de vrai que la castration]  (Lacan, S24, 15 Mars 1977)

享楽は去勢である[la jouissance est la castration.](Lacan parle à Bruxelles、 26 Février 1977)


で、身体の一部分の喪失としての去勢の根は出産トラウマだ。


喪われた子宮内生活 [verlorene Intrauterinleben](フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)

例えば胎盤は、個体が出産時に喪う己の部分、最も深く喪われた対象を表象する[le placenta par exemple …représente bien cette part de lui-même que l'individu perd à la naissance , et qui peut servir à symboliser l'objet perdu plus profond](ラカン、S11、20 Mai 1964)


フロイトは他にも不死の半分[unsterbliche Hälfte]の喪失とか言ってるがね。これはラカンも言ってる、不死の生[vie immortelle]の喪失と。他にも羊膜の喪失とか臍の緒の喪失とかあるな。


これがフロイトラカンにおける精神分析の唯一の真理だ。


プラトン (『饗宴』)のアリストパネスの話の去勢は人間の半分だからちょっと違うんだが、ま、似たようなもんだ。



似たようなもんって言っても、フロイトラカンにおいては、去勢された身体を取り戻すエロスの実現は死であり、ここがアリストパネスとはだいぶ(?)ちがう。


生の目標は死である[Das Ziel alles Lebens ist der Tod](フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年)

タナトスの形式の下でのエロス Eρως [Éros]…sous  la forme du Θάνατος [Tanathos] ](Lacan, S20, 20 Février 1973




これが自己破壊欲動としての欲動のトラウマ=享楽の穴=マゾヒズムだ【参照】。こうして欲動あるいは享楽がマゾヒズムと重なることが明瞭化される。


人はみな歩く去勢、歩くマゾヒストである。自我はそれを否定する。だがエスの意志ーー欲動要求ーーにおいて、人はみなマゾヒストである。エスの意志[Willen des Es]はマゾヒズムの意志[Willen des Masochismus]だ。



このマゾヒズムの意志としての自己破壊への意志[Willen zur Selbstzerstörung]が享楽の意志だ(ニーチェ用語なら悦への意志[Wille zur Lust]、力への意志[Wille zur Macht])


享楽の意志は欲動の名である。欲動の洗練された名である。享楽の意志は主体を欲動へと再導入する[Cette volonté de jouissance est un des noms de la pulsion, un nom sophistiqué de la pulsion. Ce qu'on y ajoute en disant volonté de jouissance, c'est qu'on réinsè-re le sujet dans la pulsion].(J.-A. Miller, LES DIVINS DETAILS, 17 MAI 1989)


欲動、…それは「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である[Triebe … "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht"](ニーチェ「力への意志」遺稿第223番)

すべての欲動の力能は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない[Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt...](ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888)


ーー《生成の永遠の悦そのものになること、破壊の悦をも抱含しているあの悦に[die ewige Lust des Werdens selbst Zusein, jene Lust, die auch noch die Lust am Vernichten in sich schliesst]》(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」第5節『偶像の黄昏』1888年)


ニーチェ学者のあいだで解釈の多義性がある次の文も付け加えておこう。


より深い本能としての破壊への意志、自己破壊の意志[der Wille zur Zerstörung als Wille eines noch tieferen Instinkts, des Instinkts der Selbstzerstörung](ニーチェ遺稿、den 10. Juni 1887)



いつもの悪い癖でニーチェを挿入して論点がぼやけ気味になってしまったが・・・というわけで? 「去勢が唯一の真理」ってことは「享楽という原マゾヒズムが唯一の真理」ってことだ。これで冒頭の引用に回帰した。


真理についての唯一の問い、それはフロイトによって名付けられた死の欲動、享楽という原マゾヒズムである[cette question qui est la seule, sur la vérité et ce qui s'appelle - et que FREUD a nommée - l'instinct de mort, le masochisme primordial de la jouissance](Lacan, S13, June 8, 1966)



これ以外はすべて妄想だよ、妄想ってのは欲動のリアルに対する防衛だということだ。ニーチェの表現なら仮象だ、ーー《「仮象の」世界が、唯一の世界である[Die »scheinbare« Welt ist die einzige]》(『偶像の黄昏』「哲学における「理性Vernunft」」 1888年)。


仮象というのはラカンの見せかけ[Semblant]と等価だ、事実、ラカン文献のドイツ語訳は SemblantをScheinと訳している。ーー《見せかけはシニフィアン自体のことである! [Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même !]》(Lacan,S18, 13 Janvier 1971) ➡︎《Die­ser Schein ist der Si­gni­fi­kant an sich selbst》


で、脇道にまた逸れたが、欲動のリアルの話だ。



欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)

自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自己自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であるだろう[Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年)

マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。・・・そしてマゾヒズムはサディズムより古い[Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. …daß der Masochismus älter ist als der Sadismus]〔・・・〕


我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。

[Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. ](フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)


マゾヒズム=自己破壊 =死の欲動とあるが、去勢されたもの=喪われたものを取り戻そうとする欲動なのだから、究極の愛の欲動でもある、➡︎ 「愛の欲動は死の欲動である[Liebestriebe ist Todestriebe]」。



愛することと没落することとは、永遠の昔からあい呼応している。愛への意志、それは死をも意志することである。おまえたち臆病者に、わたしはそう告げる。Lieben und Untergehn: das reimt sich seit Ewigkeiten. Wille zur Liebe: das ist, willig auch sein zum Tode. Also rede ich zu euch Feiglingen! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』  第2部「無垢な認識」1884年)




・・・ま、何度も言ってるが、臨床の根にある人間の原動因に関しては、フロイトはニーチェのパクリさ、用語までそっくりだ。ラカンはその隔世遺伝だ。