《自らを「穴吊し」の刑に処した》のではなく、どうしようもなく穴の引力に引かれたのだよ、安吾は。そこに文学のふるさとがある、崇高なふるさとだ。
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崇高による動揺は、衝撃に比較しうる。たとえば斥力と引力の目まぐるしい変貌に。この、構想力(想像力)にとって法外のものは、あたかも深淵であり、その深淵により構成力は自らを失うことを恐れる。 mit einer Erschütterung verglichen werden, d. i. mit einem schnellwechselnden Abstoßen und Anziehen […]. Das überschwengliche für die Einbildungskraft[…] ist gleichsam ein Abgrund, worin sie sich selbst zu verlieren fürchtet; (カント『判断力批判』27章)
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崇高の深淵は引力と斥力の交差である。
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愛と憎悪との対立は、引力と斥力という両極との関係がおそらくある。Gegensatzes von Lieben und Hassen, der vielleicht zu der Polaritat von Anziehung und AbstoBung (フロイト、人はなぜ戦争するのか Warum Krieg? 1933年)
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愛の引力と憎悪の斥力。ここでの愛は通常の愛ではない、リビドーという愛の欲動である。
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リビドーは愛の欲動である[Libido ist …Liebestriebe](フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年、摘要)
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究極的には死とリビドーは繋がっている[finalement la mort et la libido ont partie liée]. (J.-A. MILLER, L'expérience du réel dans la cure analytique - 19/05/99)
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享楽の名、それはリビドーというフロイト用語と等価である[le nom de jouissance…le terme freudien de libido auquel, par endroit, on peut le faire équivaloir.](J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 30/01/2008)
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つまり愛の穴の引力とはーー、
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死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qu'on appelle la jouissance. (ラカン, S17, 26 Novembre 1969)
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死は愛である [la mort, c'est l'amour]. (Lacan, L'Étourdit E475, 1970)
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さらに別の言い方をすればーー、
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破壊は、愛の別の顔である。破壊と愛は同じ原理をもつ。すなわち穴の原理である[Le terme de ravage,…– que c'est l'autre face de l'amour. Le ravage et l'amour ont le même principe, à savoir grand A barré](J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999)
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破壊は唯一、愛の享楽の顔である[le ravage, c'est seulement la face de jouissance de l'amour](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme 18/3/98 )
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柄谷は現代日本で、最もすぐれた思想家であり批評家であるだろうが、あまりにもフロイトの死の欲動の読み方が甘い。穴の原理、愛の享楽とは、《死の欲動とエロス欲動との合金化(融合) [Legierung von Todestrieb und Eros]》(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)である[参照]。
柄谷はフロイトのマゾヒズム論をしきりに引用しているのに、なぜ最も肝心な箇所から目を逸らしたままなのか。
で、穴とは究極的には母の穴だ[参照]、安吾の作品にはそれがいたるところに現れている。もっともこれは柄谷も十全にわかっている、「母の不在という不快さ」という表現で。ーー《不快は享楽以外の何ものでもない [déplaisir qui ne veut rien dire que la jouissance. ]》(Lacan, S17, 11 Février 1970)。
この不快が穴であるーー《享楽は、抹消として、穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon, comme trou]》(Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)
だがそこからの展開があまりに甘い。穴は埋まらないのに。穴埋めとは欲動の昇華だ。昇華は不可能という点にフロイトの死の欲動の核心がある。
そもそも柄谷は外部に向けられた攻撃欲動が内部に向きを変えたものが死の欲動だと、1990年代からしきりに言っているが、これは根本的誤謬である。それは1919年までのフロイトに過ぎない。1920年以降のフロイトにとって先に自己破壊という死の欲動がある。
この誤謬が2010年代に入ってさえいまだもって修正されていない。つまり柄谷の死の欲動の捉え方はどうしようもない。
超自我(憲法超自我論)についてもそうだった、フロイトの自我理想と超自我の区別がついていない。
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だれかまともな若いもんがヤッツケないとダメじゃないかね、41歳の安吾がやったように。
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あまり自分勝手だよ、教祖の料理は。おまけにケッタイで、類のないやうな味だけれども、然し料理の根本は保守的であり、型、公式、常識そのものなのだ。(坂口安吾「教祖の文学――小林秀雄論――」初出:「新潮 第四四巻第六号」1947(昭和22)年6月1日発行)
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編輯者諸君は僕が怒りんぼで、ヤッツケられると大憤慨、何を書くか知れないと考へてゐるやうだけれども、大間違ひです。僕自身は尊敬し、愛する人のみしかヤッツケない。僕が今までヤッツケた大部分は小林秀雄に就てです。僕は小林を尊敬してゐる。尊敬するとは、争ふことです。(坂口安吾「花田清輝論」初出:「新小説 第二巻第一号」1947(昭和22)年1月1日発行)
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不幸にも現代日本にはその人材がまったくいないようだが。
誰もやらないから、インテリ木瓜の花がいまだ咲き迷う。
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けれども、ぼくがよりおそろしいと感じ、考えをめぐらせたいのは、超自我のない悪についてなのである。悪の愚かさについて、それはすなわち、悪における超自我の欠如の意味についてということなのだ (東浩紀「悪の愚かさについて」)
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私は病気だ。なぜなら、皆と同じように、超自我をもっているから。j'en suis malade, parce que j'ai un surmoi, comme tout le monde(Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)
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心的装置の一般的図式は、心理学的に人間と同様の高等動物にもまた適用されうる。超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく仮定される。Dies allgemeine Schema eines psychischen Apparates wird man auch für die höheren, dem Menschen seelisch ähnlichen Tiere gelten lassen. Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen. (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年)
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