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2022年5月7日土曜日

機能するフォルムに対する不感症

 


構造主義の始祖レヴィ=ストロースは、『悲しき熱帯』の冒頭近くで、私の二人の師匠はマルクスとフロイトだと言っている。


ラカンは、そのマルクスやフロイトをいっそう構造化したんだ、言説構造図やボロメオの環で。


もちろん構造主義は「すべてではない」よ。


「構造」は、はじめのうちは良き価値であったのに、あまりにもおおぜいの人びとの念頭で動きのない形式(「設計図」、「図式」、「モデル」)として考えられているということがあきらかになったとき、信用を失う羽目となった。が、幸いにも「構造化」ということばがそばにあった。そしてそれが、役わりを引き継ぎ、飛切の有力な価値を含意することとなったのだ。すなわち《つくり、おこなうこと》、倒錯的な(「何のあてもない」)費用支出、という価値である。(『彼自身によるロラン・バルト』)


構造とは機能する形式だ、動きのない形式ではない。


蓮實)それにも、こっちはやや責任がないわけではないけれども、構造主義が定着しなかったのは、そもそも構造というものが思考しがたいというのが、ひとつあるわけでしょう。構造は図式ではなく機能する形式だという点で、思考の対象たりがたい。それはやはり歴史的な体験の欠如からくるものでしょうね、たぶん。だから機能する構造の歴史を見てゆけば、構造主義になるはずだということがあると思うわけ。


ただし、もうひとつ機能する形式に対する感性の不在ね。三島由紀夫だってそうした形式に対しての感性はまったくないと思うわけ。


柄谷)ないね。

蓮實)形とかフォルムとか、そういうものに対する感性が彼には欠けている。彼が持っているのは、機能を停止したあとの形式のイメージにすぎない。だからせいぜい安保の対応をどうかするという程度のことでしょう。形式は生きられていないですよね。


その形式に僕は魅かれます。だからレヴィ・ストロースを読んで、いろんな不満があったって、最終的にはやっぱり偉い人だ。三島を読むより、文学的に高度な興奮を与えてくれますもの。しかし、なぜ批評がフォルムを括弧に括った形で平気でいられるんだろう。


いわば形式に眩惑されていないわけね、眩惑されれば恐ろしくて逃げるやつが出てくると思う。それはいいのです。フォルムなんて怖くてやってられないっていって。ところが怖くて逃げているわけじゃなくて、それはそういうものもあるだろうけれども、適当にそれなしでやっていけると高を括って無感覚に安住する形で避けているだけなんですね。(柄谷行人-蓮實重彦対談集『闘争のエチカ』1988年)



機能するフォルムに対する感性がないんだろうよ、とくに共感の共同体の住人は。


『資本論』が考察するのは…関係の構造であり、それはその場に置かれた人々の意識にとってどう映ってみえようと存在するのである。

こうした構造主義的な見方は不可欠である。マルクスは安直なかたちで資本主義の道徳的非難をしなかった。むしろそこにこそ、マルクスの倫理学を見るべきである。資本家も労働者もそこでは主体ではなく、いわば彼らがおかれる場によって規定されている。しかし、このような見方は、読者を途方にくれさせる。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年)


そう、自らが置かれている社会的関係へのニブささ、そこのインテリくんとか学者くんとかも最悪だね。


経済的社会構成の発展を自然史的過程としてとらえる私の立場は、他のどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとはしない。個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。

Weniger als jeder andere kann mein Standpunkt, der die Entwicklung der ökonomischen Gesellschaftsformation als einen naturgeschichtlichen Prozeß auffaßt, den einzelnen verantwortlich machen für Verhältnisse, deren Geschöpf er sozial bleibt, sosehr er sich auch subjektiv über sie erheben mag. (マルクス『資本論』第一巻「第一版序文」1867年)


ここにある社会的関係[soziale Verhältnisse]、これがラカンの社会的結びつき[le lien social]=言説[Les discours]であるのは、「沈黙の声の言説」で示したばかりだ。


人間関係なんてのは置かれたポジションで決まるんだ、すべてとはいわない、だがほとんどそうだ。


要素自体はけっして内在的に意味をもつものではない。意味は「位置によって de position 」きまるのである。それは、一方で歴史と文化的コンテキストの、他方でそれらの要素が参加している体系の構造の関数である(それらに応じて変化する)。(レヴィ=ストロース『野性の思考』1962年)



ラカンの言説構造なら、四つの空箱があり、そこに四つの要素が順繰りに入る。







ここではこの言説構造基盤図のみの読み方を掲げておこう(より詳しくは、「四つの言説基本版」)。


四つの言説における本質は、欲望する「動作主 」Agentは「他者」Autreに宛てられる(呼びかける)ということである。それは、上部の水平的矢印によって示されている。「動作主」から「他者」への動きにおいて、我々は「社会的結びつき」lien socialを作りだす人間の傾向に気づく。


しかしながらラカンはここで、人間相互関係におけるロマン派的観点の類を表現しているのではない。そうではなく、「動作主」と「他者」との間の関係は、「不可能性 impossibilityという乖離」によって徴付られていることを強調している。すなわち、動作主が送るメッセージは、意図されたようには決して受け取られない。〔・・・〕

定式の下部は、言説の隠された側面を強調する。左下の最初のポジションは、「真理」Véritéである。それは「動作主」のポジションに上方向きの矢印で繋がっている。この矢印が示しているのは、所定の言説において、動作主によって為される全ての言動は、隠蔽された真理に宿っているということである。


事実、すべての言説の特徴は、抑圧された要素が動作主の言動を動機付ていることである。この抑圧は、言説上部に表象されている社会的結びつきの可能性をもたらす。類似した形で、「真理」は「他者」のポジションに効果を持つ。それを、ラカンは付加的な(斜めの)矢印を描くことにより強調している。(右側の)下方向の矢印は、動作の他者への呼びかけは効果を生むということを示す。すなわち「生産物」produitが作り出される。この生産物は、動作主に燃料を供給する(右下から左上への斜めの矢印)。しかし「生産物」は言説の動因である「真理」との関係において「不能 impuissanceという乖離」がある。(Stijn Vanheule, Capitalist Discourse, Subjectivity and Lacanian Psychoanalysis, 2016)



要するに四つの言説とは、「四つの抑圧されたものの回帰」構造図だ。



症状形成の全ての現象は、「抑圧されたものの回帰」として正しく記しうる[Alle Phänomene der Symptombildung können mit gutem Recht als »Wiederkehr des Verdrängten« beschrieben werden.](フロイト『モーセと一神教』3.2.6、1939年)


フロイトがこういうとき、原抑圧されたもの、つまり排除されたものの回帰も含まれる。


繰り返せば、人間の社会的関係はこれがすべてではない。だがほとんどすべてだよ、この構造が。


ほかにも例えばこういう言い方もできる。


実際にこの目で見たりこの耳で聞いたりすることを語るのではなく、見聞という事態が肥大化する虚構にさからい、見ることと聞くこととを条件づける思考の枠組そのものを明らかにすべく、ある一つのモデルを想定し、そこに交錯しあう力の方向が現実に事件として生起する瞬間にどんな構図におさまるかを語るというのが、マルクス的な言説にほかならない。だから、これとて一つの虚構にすぎないわけなのだが、この種の構造的な作業仮説による歴史分析の物語は、その場にいたという説話論的な特権者の物語そのものの真偽を越えた知の配置さえをも語りの対象としうる言説だという点で、とりあえず総体的な視点を確保する。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』1988年)


例えば現在起こっているウクライナロシア戦争においてどういう抑圧されたものが回帰しているのかを問うことをしないとな。



私は歴史に反復があると信じている。そしてそれを科学的に扱うことが可能である。反復されるのは、たしかに、出来事ではなく、構造あるいは反復構造である。驚くべきことに、構造が反復されると、出来事も同様に反復されて、しばしば現われる。しかしながら、反復されるのは反復構造のみである。(柄谷行人"Revolution and Repetition"(「革命と反復」)UMBR(a) UTOPIA A Journal of the Unconscious 2008より)



これを少しでも問う構造的思考力があれば、宇国応援一辺倒の連中がいかにおバカかがすぐわかるよ。





想定された本能的ステージにおけるどの固着も、何よりもまず歴史のスティグマである。恥のページは忘れられる。あるいは抹消される。しかし忘れられたものは行為として呼び戻される[toute fixation à un prétendu stade instinctuel est avant tout stigmate historique :  page de honte qu'on oublie ou qu'on annule, ou page de gloire qui oblige.  Mais l'oublié se rappelle dans les actes](Lacan, E262, 1953)


ーー《抑圧されたものの回帰は固着点から始まる[Wiederkehr des Verdrängten…erfolgt von der Stelle der Fixierung her]》(フロイト『症例シュレーバー』1911年、摘要)



分析経験の基盤は厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)



そこの美熟女もそこのボク珍もツイッターで常に抑圧されたものの回帰やってんだよ。

愛は常に反復である。これは直接的に固着概念を指し示す。固着は欲動と症状にまといついている。愛の条件の固着があるのである[L'amour est donc toujours répétition, […]Ceci renvoie directement au concept de fixation, qui est attaché à la pulsion et au symptôme. Ce serait la fixation des conditions de l'amour. ](David Halfon, Les labyrinthes de l'amour ーー『AMOUR, DESIR et JOUISSANCE』論集所収, Novembre 2015)



つまりは享楽の回帰をね。





抑圧されたものの回帰は享楽の回帰と相同的である[retour du refoulé…symétriquement il y a retour de jouissance](J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 10/12/97、摘要)


ーー《享楽は欲望とは異なり、固着された点である[La jouissance, contrairement au désir, c'est un point fixe. ]》 (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008)


享楽は真に固着にある。人は常にその固着に回帰する[La jouissance, c'est vraiment à la fixation …on y revient toujours. ](Miller, Choses de finesse en psychanalyse XVIII, 20/5/2009)



大きな戦争はほとんど常に構造的同一性がある。ゆえに過去のスティグマ、トラウマ的固着点に回帰する。