「父の名は言語/超自我は身体(欲動の身体)」ってのは、「欲望の言語/欲動の身体」ってことだ。
フロイトにはもともと「二種類の無意識」があるんだよ。
これは昔のことだからしょうがないが、柄谷の無意識論をいまどきマガオで受け取る連中は、たんなるバカにすぎない。
フロイトの功績は、内省によって得られる「心」、あるいは私的な内的過程を否定したところにある。それはまさに対関係において存する「心」だけを問題にしたからである。医者と患者の対関係をのぞいて、あるいは、親子の対関係をのぞいて一般的な心理などありえない。おそらくラカンは、フロイトの精神分析が対関係を捨てて一般化されて行くことに異議をとなえたといってもよい。 ラカンは「無意識は言語のように構造化されている」といったが、それが正当なのは、「言語は無意識のように対関係においてある」という場合だけである。(柄谷行人『探求Ⅰ』1986年)
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この対関係の無意識は晩年のラカンが次のように言ったとき瞭然と否定した(「享楽の自閉症」)。 |
精神分析…すまないがね、許してくれたまえ、少なくとも分析家諸君よ!… 精神分析とは「二者の自閉症」 « autisme à deux »と呼ばれうるものじゃないだろうか? [la psychanalyse… je vous demande pardon, je demande pardon au moins aux psychanalystes …ça n'est pas ce qu'on peut appeler un « autisme à deux » ?](Lacan, S24, 19 Avril 1977) |
これは日本国内でさえもとっくに否定されてるんだよ、(参照:原無意識ーー話す存在[parlêtre]=話す身体[corps parlant]=異者身体[Fremdkörper])。
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ラカンが、無意識は言語のように(あるいは「として」comme)組織されているという時、彼は言語をもっぱら「象徴界」に属するものとして理解していたのが惜しまれる。(中井久夫「創造と癒し序説」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)
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上で中井久夫が言ってるのは次のことと同じだ。
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いずれにせよ、精神分析学では、成人言語が通用する世界はエディプス期以後の世界とされる。
この境界が精神分析学において重要視されるのはそれ以前の世界に退行した患者が難問だからである。今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)
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こんなのは「まとも」な詩人たちの言葉を読めば一瞬でわかることだ。例えばニーチェ、ボードレール、マラルメ、プルースト、カフカ、ヴァレリー、アルトー、ベケットなどを読めば。そもそも創造行為とは、前エディプスへと退行することだ、《何人〔じん〕であろうと、「デーモン」が熾烈に働いている時には、それに「創造的」という形容詞を冠しようとも「退行」すなわち「幼児化」が起こることは避けがたい。》(中井久夫「執筆過程の生理学」初出1994年『家族の深淵』所収)。そうでない芸術家は芸能人に過ぎない。
退行とはドゥルーズが巧みに抽出したフロイトの固着、自らの固着点[Stelle der Fixierung]をまさぐることだ。
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固着と退行概念、それはトラウマと原光景を伴ったものだが、最初の要素である。自動反復=自動機械 [automatisme] という考え方は、固着された欲動の様相、いやむしろ固着と退行によって条件付けれた反復の様相を表現している。
Les concepts de fixation et de régression, et aussi de trauma, de scène originelle, expriment ce premier élément. […] : l'idée d'un « automatisme » exprime ici le mode de la pulsion fixée, ou plutôt de la répétition conditionnée par la fixation ou la régression.(ドゥルーズ『差異と反復』第2章、1968年)
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最も優れた批評家のひとりリシャールのマラルメ分析は「固着の反復」分析だ。
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Un thème serait alors un principe concret d’organisation, un schème ou un objet fixes, autour duquel aurait tendance à se constituer et à se déployer un monde. L’essentiel, en lui, c’est cette parenté secrète dont parle Mallarmé, cette identité cachée qu’il s’agira de déceler sous les enveloppes les plus diverses. Le repérage des thèmes s’effectue le plus ordinairement d’après le critère de récurrence : les thèmes majeurs d’une œuvre, ceux qui en forment l’invisible architecture, et qui doivent pouvoir nous livrer la clef de son organisation, ce sont ceux qui s’y trouvent développés le plus souvent, qui s’y rencontrent avec une fréquence visible, exceptionnelle. La répétition, ici comme ailleurs, signale l’obsession. (Jean-Pierre Richard, L’Univers imaginaire de Mallarmé, 1961)
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ドゥルーズの潜在的対象X [l'objet virtuel (objet = x) ]だってこの固着のことだ。日本のドゥルーズ学者でそれを掴んでいるのは、いまだもってゼロのように見えるがね。
ま、あまり一般化すると怒られるが、この固着点、この潜在的対象Xは、またプルーストの「未知のシーニュ」に相当する。
未知のシーニュ(私が注意力を集中して、私の無意識を探索しながら、海底をしらべる潜水夫のように、手さぐりにゆき、ぶつかり、なでまわす、いわば浮彫状のシーニュ)、そんな未知のシーニュをもった内的な書物[Le livre intérieur de ces signes inconnus (de signes en relief, semblait-il, que mon attention explorant mon inconscient allait chercher, heurtait, contournait, comme un plongeur qui sonde)](プルースト「見出された時」)
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ドゥルーズの『プルーストとシーニュ』はこの文のまわりを巡っている書だ。
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フロイトの固着の定義は「自己身体の出来事[Erlebnisse am eigenen Körper] =自我への傷[Schädigungen des Ichs]」の反復(回帰)であり、ここでニーチェやジュネ=ジャコメッティも登場する。
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人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する自己固有の出来事を持っている。Hat man Charakter, so hat man auch sein typisches Erlebniss, das immer wiederkommt.(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)
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美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。Il n’est pas à la beauté d’autre origine que la blessure, singulière, différente pour chacun, cachée ou visible, que tout homme garde en soi, qu’il préserve et où il se retire quand il veut quitter le monde pour une solitude temporaire mais profonde. (ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』)
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ここでの退去は退行だよ、《固着点[Stelle der Fixierung ]へのリビドー的展開の退行[Regression der Libidoentwicklung]》(フロイト「症例シュレーバー 」1911年)
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話を戻せば、問題は「この現在でも」このとっくの昔に否定された「無意識は言語のように構造化されている」を信じ込んでいるフロイトラカン学者がウヨウヨいることだがね。
右項目は決して言語のように構造化されていない。左項目だけだ、言語に構造化されているのは。
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大事なのは、フロイトラカン業界だけじゃなく、学者ってのは馬鹿がほとんどだということをしっかり認知することだ。とくに学者共同体内に居心地よく居座っていると批評精神を失ってしまい、ドグマを垂れ流すだけになってしまう。
もしラカン的オリエンテーションがあるとすれば、それはラカン的ドグマがないからであり、言語のように構造化された無意識さえもなく、入門書、座右の銘、大要、ドグマティズムを生じさせるような変更不能のテーゼもないのである。 あるのは、フロイト的出来事の基盤テキストとの継続的な対話、つまり、経験ーー経験を構造化する枠組を以ったそれーーとの絶え間ない遭遇の永遠のミドラーシュ(注釈術ーー捜し求めること)があるだけである。 |
S’il y a orientation lacanienne, c’est qu’il n’y a aucun dogme lacanien, pas même l’inconscient structuré comme un langage, aucune thèse ne varietur qui donnerait lieu à abécédaire, bréviaire, compendium, dogmatique. Il y a seulement une Conversation continuée avec les textes fondateurs de l’événement Freud, un Midrash perpétuel qui confronte incessamment l’expérience à la trame signifiante qui la structure.
ーージャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller. Publié le 09/12/2020 |
これは学者だけじゃもちろんない、ジジェクもバディウも後期ラカンを毛ほども読んでいない。
パンドラの箱があまりにも長く開けられている。われわれは今、ジジェクをもっている。私のセミネールで彼に教えた基本原則を使って、ラカンを「ジジェク化」する彼だ。われわれはバディウをもっている。ラカンを「バディウ化」する彼だ。全くよくない。われわれは、パンドラの箱をもう一度閉じる時だ。 Mais la boîte de Pandore est ouverte depuis longtemps ! Vous avez Zizek qui zizekise Lacan depuis qu'il a appris les rudiments de la doctrine jadis, à mon séminaire de DEA. Vous avez Badiou qui badiouise Lacan, et ce n'est pas joli joli. Il s'agirait plutôt de la refermer, la Pandora's Box.(ジャック=アラン・ミレール 、Eve Miller-Rose et Daniel Roy, Entretien nocturne avec Jacques-Alain Miller, 2017年, PDF ) |