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2022年8月15日月曜日

中井久夫は田舎者

 

自分のやる事をあらゆる角度から徹底的に研究するのは、野蛮人と農民と田舎者だけである。それゆえ、彼らが思考から事実に到るとき、その仕事は完全無欠である。« Il n'y a rien au monde que les Sauvages, les paysans et les gens de province pour étudier à fond leurs affaires dans tous les sens ; aussi, quand ils arrivent de la Pensée au Fait, trouvez-vous les choses complètes. »(バルザック「骨董屋」)



中井久夫は田舎者だったんだよ。分裂病研究第一人者としての中井久夫は、フロイトにはそれほど触れていないように見える、だがもともと次のように言っている人物だ。



フロイトの影響はなお今日も測深しがたい。一九三九年の彼の死に際してイギリスのある詩人は「フロイトよ、おんみはわれわれの世紀そのものであった」と謳ったが、それすらなお狭きに失するかもしれない。本稿においてはフロイトを全面的にとりあげていないが、それは、私見によれば、フロイトはいまだ歴史に属していないからであり、精神医学背景史とはなかんずく時間的背景を含意するからである。


フロイトは本質的に十九世紀人であると考える。二十世紀は、文学史におけると同じく第一次大戦後とともに始まると考えるからである。フロイトはマルクスやダーウィンなどと同じく、十九世紀において、具体的かつ全体的であろうとする壮大なプログラムのもとに数多くの矛盾を含む体系的業績を二十世紀に遺贈した ”タイタン族"の一人であると思う。彼らは巧みに無限の思索に誘いこむ強力なパン種を二十世紀のなかに仕込んでおいた連中であった。このパン種の発酵作用とその波及は今日もなお決して終末すら見透かせないのが現実である。二十世紀思想史の重要な一面は、これらの、あらわに矛盾を含みつつ不死身であるタイタン族との、しばしば鋭利ながら細身にすぎる剣をもってする二十世紀知性との格闘であったといえなくもない。(中井久夫「西欧精神医学背景史」『分裂病と人類』所収、1982年)


二十世紀をおおよそ1914年(第一次大戦の開始)から1991年(冷戦の決定的終焉)までとするならば、マルクスの『資本論』、ダーヴィンの『種の起源』、フロイトの『夢解釈』の三冊を凌ぐものはない。これらなしに二十世紀は考えられず、この世紀の地平である。


これらはいずれも単独者の思想である。具体的かつ全体的であることを目指す点で十九世紀的(ヘーゲル的)である。全体の見渡しが容易にできず、反発を起こさせながら全否定は困難である。いずれも不可視的営為が可視的構造を、下部構造が上部構造を規定するという。実際に矛盾を含み、真意をめぐって論争が絶えず、むしろそのことによって二十世紀史のパン種となった。社会主義の巨大な実験は失敗に終わっても、福祉国家を初め、この世紀の歴史と社会はマルクスなしに考えられない。精神分析が治療実践としては廃れても、フロイトなしには文学も精神医学も人間観さえ全く別個のものになったろう。(中井久夫「私の選ぶ二十世紀の本」1997年『アリアドネからの糸』所収)



中井久夫は阪神大震災後、事実上、分裂病(統合失調症)研究から、外傷神経症、フロイトの現実神経症(現勢神経症[Aktualneurose])への研究に移行した。統合失調症の底には現実神経症があるのではないかという問いとともに(参照)。ここに真の「野蛮人と農民と田舎者」の姿がある。


フロイトの現勢神経症とはラカンの現実界の症状(トラウマの症状)サントームと等価である(参照)。


中井久夫は農民のようにひっそりトラウマ研究をやったから十分には気づかれていないだけだ、《トラウマ研究は麗々しくやるものとは絶対に違うと思います。地下水脈のようにーーと私は思っています。》(中井久夫「外傷神経症の発生とその治療の試み」2002年『徴候・記憶・外傷』所収 )


………………


例えば中井久夫が解離という語を使って次のように言ったとき、一般にはーー精神科医も含めてーーとてもわかりにくいだろう。


解離していたものの意識への一挙奔入…。これは解離ではなく解離の解消ではないかという指摘が当然あるだろう。それは半分は解離概念の未成熟ゆえである。フラッシュバックも、解離していた内容が意識に侵入することでもあるから、解離の解除ということもできる。反復する悪夢も想定しうるかぎりにおいて同じことである。(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007年)

解離とその他の防衛機制との違いは何かというと、防衛としての解離は言語以前ということです。それに対してその他の防衛機制は言語と大きな関係があります。…解離は言葉では語り得ず、表現を超えています。その点で、解離とその他の防衛機制との間に一線を引きたいということが一つの私の主張です。PTSDの治療とほかの神経症の治療は相当違うのです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

サリヴァンも解離という言葉を使っていますが、これは一般の神経症論でいる解離とは違います。むしろ排除です。フロイトが「外に放り投げる」という意味の Verwerfung という言葉で言わんとするものです。(中井久夫「統合失調症とトラウマ」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)




中井久夫はこの三文にて、フラッシュバック、あるいは外傷の反復について次のことを言っている。

①解離していた内容の意識への侵入

②解離=言語以前

③解離=排除(言語の外に放り投げる)


まず言語以前とは、ラカンの現実界である。

象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)

想像界は象徴界によって常に支配されている[cet imaginaire est …dominé par le symbolique.] (J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)


言語に支配された想像界でもなく象徴界の言語でもない現実界。これがラカンにとってトラウマの穴である。


現実界は穴=トラウマをなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

ラカンの現実界は、フロイトがトラウマと呼んだものである。ラカンの現実界は常にトラウマ的である。それは言説のなかの穴である[ce réel de Lacan […], c'est ce que Freud a appelé le trauma. Le réel de Lacan est toujours traumatique. C'est un trou dans le discours.  ](J.-A. Miller, La psychanalyse, sa place parmi les sciences, mars 2011)


そして中井久夫の言う解離=排除は原抑圧のこと。


原抑圧は排除である[refoulement originaire…à savoir la forclusion. ](J.-A. MILLER, CE QUI FAIT INSIGNE COURS DU 3 JUIN 1987)


フロイトの《原抑圧された欲動[primär verdrängten Triebe]》(『症例シュレーバー 』1911年)と《排除された欲動 [verworfenen Trieb]》(『快原理の彼岸』第4章、1920年)は等価なのである。



抑圧の第一段階ーー原抑圧された欲動ーーは、あらゆる「抑圧」の先駆けでありその条件をなしている固着である[Die erste Phase besteht in der Fixierung, (primär verdrängten Triebe) dem Vorläufer und der Bedingung einer jeden »Verdrängung«. ]。〔・・・〕

(原抑圧された欲動の)侵入は固着点から始まる[Dieser Durchbruch erfolgt von der Stelle der Fixierung her]。(フロイト『自伝的に記述されたパラノイアの一症例に関する精神分析的考察』(症例シュレーバー  )1911年、摘要)


これ自体、中井久夫の言う「解離していた内容の意識への侵入」と基本的には等価である。つまり「排除された欲動の侵入は固着点から始まる」である。とはいえ中井久夫は固着という用語は使っていない。使っているのはフロイトの「異物」であり、異物は固着と等価の概念である(参照)。



一般記憶すなわち命題記憶などは文脈組織体という深い海に浮かぶ船、その中を泳ぐ魚にすぎないかもしれない。ところが、外傷性記憶とは、文脈組織体の中に組み込まれない異物であるから外傷性記憶なのである。幼児型記憶もまたーー。(中井久夫「外傷性記憶とその治療―― 一つの方針」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)



この異物ーーラカン派文脈では「異者としての身体」(le corps étranger、あるいは単純に「異者」と示されることが多いーーがフロイトのトラウマであり、ラカンの現実界である。

トラウマないしはトラウマの記憶は、異物(異者としての身体 [Fremdkörper]) のように作用する。これは後の時間に目覚めた意識のなかに心的痛み[psychischer Schmerz]を呼び起こし、殆どの場合、レミニサンス[Reminiszenzen]を引き起こす。das psychische Trauma, respektive die Erinnerung an dasselbe, nach Art eines Fremdkörpers wirkt,..…als auslösende Ursache, wie etwa ein im wachen Bewußtsein erinnerter psychischer Schmerz …  leide größtenteils an Reminiszenzen.(フロイト&ブロイアー 『ヒステリー研究』予備報告、1893年、摘要)


トラウマとしての異物のレミニサンスーーこれがラカンの現実界のレミニサンスである。


私は問題となっている現実界は、一般的にトラウマと呼ばれるものの価値をもっていると考えている。…これを感じること、これに触れることは可能である、レミニサンスと呼ばれるものによって[Je considère que …le Réel en question, a la valeur de ce qu'on appelle généralement un traumatisme.  …c'est ça qui rend sensible, qui fait toucher du doigt… ce que peut être ce qu'on appelle la réminiscence.] (Lacan, S23, 13 Avril 1976、摘要)



中井久夫の外傷性の「異物のフラッシュバック」とは厳密にこのトラウマとしての「異物のレミニサンス」と等価である。

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退行の21世紀には田舎者はいなくなってしまった。


私は歴史の終焉ではなく、歴史の退行を、二一世紀に見る。そして二一世紀は二〇〇一年でなく、一九九〇年にすでに始まっていた。科学の進歩は思ったほどの比重ではない。科学の果実は大衆化したが、その内容はブラック・ボックスになった。ただ使うだけなら石器時代と変わらない。(中井久夫「親密性と安全性と家計の共有性と」2000年『時のしずく』所収)


学者ももはや「権力の手段としての研究」ばかりしている。システムとしてそうなっているのが、この21世紀である。


人間には権力欲と知識欲とがある。どちらも飽くことをしらない点では似ている。権力欲はサル、いやそれ以前からであろう。知識欲は人間で発達した。しかし、古いだけに権力欲のほうが強い。権力欲が知識欲を犯し、道具にしているのが社会の現状でもある。そうである限り、大学も知の場ではない。教育だけでなく、研究も、今や外国の評価機関による論文評価をもとにした数字が教授選考の時に真っ先に問題となる。 企業と同じく、外国人に採点していただいているのである。しかし、これは権力の手段としての研究である。 そろいう世界になじまない知的少数者のために私は、あなたがたのほうがまともなのだというメッセージを書きたい。また親にも識者にも考えていただき、せめてそういう子をそっと見守ってほしい。(中井久夫「君たちに伝えたいこと」2000年、朝日新聞)