武満徹の『音、沈黙と測りあえるほどに』からいくつかの文を引用したところだが、音楽に惹かれる原因を探っていくと、ほとんどの場合、沈黙に魅惑されるのはなぜかという問いに行き着く筈だよ。 |
例えば2020年に上梓されたアンドラーシュ・シフの書の題名は『音楽は沈黙から来る(Music Comes Out of Silence)』だ。この書はハンガリー系ユダヤ人の家庭に育ったシフの家族の途轍もないホロコーストトラウマが叙述されているのだが、今はその内容には触れず、ひたすら沈黙の一語をめぐる。 シフは10年以上前のマスタークラスでもこう言っている。 |
沈黙は音楽のなかで最も美しいものだ[Silence is the most beautiful thing in music] András Schiff |
基本はここだよ、で、《いま、多くの芸術家が沈黙の意味を置き去りにしてしまっている》(武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』)だ。
もちろん今でもまともな音楽家は、シフや高橋悠治のように沈黙の意味を問い続けているのだろうけどさ。
音がきこえはじめたとき音楽がはじまり、
音がきこえなくなったとき音楽がおわるのだろうか。
音楽は目に見えないし、なにも語らないから、
音のはじまりが音楽のはじまりなのか、
音のおわりが音楽のおわりなのか、
音楽のどこにはじまりがあり、おわりがあるのか
さえわからない。
ーー高橋悠治『音楽の反方法論的序説』4「めぐり」
たとえば、音が運動によって定義されるとすれば、
音でないものも運動によって定義されるゆえに、
音が内部であり、音でないもの、それを沈黙と呼ぼうか、
それが外部にあるとは言えない。
境界はあっても境界線はなく、
沈黙は音と限りなく接していて、
音が次第に微かになり、消えていくとき、
音がすべりこんでいく沈黙はその音の一部に繰り込まれている。
逆に、音の立ち上がる前の沈黙に聴き入るとき、
ついに立ち上がった音は沈黙の一部をなし、それに含まれている。
運動に内部もなく、外部もなく、
それと同じように運動によって定義されるものは、
内部にもなく、外部にもなく、だが運動とともにある。 だから、
「音楽をつくることは、
音階やリズムのあらかじめ定められた時空間のなかで、
作曲家による設計図を演奏家が音という実体として実現することではない。
流動する心身運動の連続が、音とともに時空間をつくりだす。だが音は、
運動の残像、動きが停止すれば跡形もない幻、夢、陽炎のようなものにすぎない。
微かでかぎりなく遠く、この瞬間だけでふたたび逢うこともできないゆえに、
それはうつくしい
ーー高橋悠治『音楽の反方法論的序説』4「音の輪が回る」
聴き手としてのボクなりの究極の「沈黙の意味」はあるのだけれど、ま、それはこの際どうでもよろしい(?)。重要なのは、人はそれぞれの仕方でそれを探し求めないといけない、沈黙の意味を置き去りにしちゃダメだということだ。
何はともあれ、「音楽のあらゆる力は、沈黙に頼らなければ説明できない」だよ。ゴダールの無は沈黙とほとんど等価だね。『映画史』なんてそれをめぐっているようなものだ。 |
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確かにイマージュとは幸福なものだ。だがそのかたわらには無が宿っている。そしてイマージュのあらゆる力は、その無に頼らなければ説明できない[oui, l'image est bonheur mais près d'elle le néant séjourne et toute la puissance de l'image ne peut s'exprimer qu'en lui faisant appelil ](ゴダール『(複数の)映画史』「4B」1998年) |
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ーーこれはイマージュは無を隠蔽していると言ってよいだろう。
あるいは、「オトとオトの隙間が沈黙の神の隠れ家」だね。 |
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コトバとコトバの隙間が神の隠れ家(谷川俊太郎「おやすみ神たち」) |