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2022年11月5日土曜日

魂と神をめぐる雑念

 

魂や神のことに思いを馳せると雑念が入って思考が止まってしまう。


神はヴァギナのなかにいる。ーーラーマクリシュナ

“God is in the Vagina” – Sri Ramakrishna

かくの如く私は聞いた。ある時、ブッダは一切如来の身語心の心髄である金剛妃たちの女陰に住しておられた[evaṃ mayā śrutam / ekasmin samaye bhagavān sarvatathāgatakāyavākcittahṛdayavajrayoṣidbhageṣu vijahāra ](『秘密集会タントラ』Guhyasamāja tantra



雑念というのは、「神は女性器のなかにいる」というきわめて常識的事実を、なぜ人はいまだ知らないふりをしているのか、それが不思議でならないからである。したがって、問いは白ばっくれた巷の人たちの精神構造に向かうことになり、脇道に逸れてしまう。これは実に不幸であり、もういい加減に「真理」を周知徹底していただきたいものである。



「神様があらゆる所に居るって本当?」と小さな少女が母親に尋ねた。「でもそれは無作法な事だと思うわ」哲学者にとってはヒントだ!

 „Ist es wahr, dass der liebe Gott überall zugegen ist?“ fragte ein kleines Mädchen seine Mutter: „aber ich finde das unanständig“ ― ein Wink für Philosophen! 


自然が謎と色とりどりの不確実性の背後に身を隠した時の蓋恥は、もっと尊重した方が良い。恐らく真理とは、その根底を窺わせない根を持つ女なるものではないか?恐らくその名は、ギリシア語で言うと、バウボ[Baubo]というのではないか?…

Man sollte die Scham besser in Ehren halten, mit der sich die Natur hinter Räthsel und bunte Ungewissheiten versteckt hat. Vielleicht ist die Wahrheit ein Weib, das Gründe hat, ihre Gründe nicht sehn zu lassen? Vielleicht ist ihr Name, griechisch zu reden, Baubo?... (ニーチェ『悦ばしき知』「序」第2版、1887年)



神は不気味なものである[ Gottes … Er ist ein unheimlicher](フロイト『モーセと一神教』2.4、1939年)

女性器は不気味なものである[das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. ](フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第2章、1919年)


マダム・エドワルタの声は、きゃしゃな肉体同様、淫らだった。「あたしのぼろぎれが見たい?[Tu veux voir mes guenilles ? ]」両手でテーブルにすがりついたまま、おれは彼女ほうに向き直った。腰かけたまま、彼女は片脚を高々と持ち上げていた。それをいっそう拡げるために、両手で皮膚を思いきり引っぱり。こんなふうにエドワルダの《ぼろきれ》はおれを見つめていた。生命であふれた、桃色の、毛むくじゃらの、いやらしい蛸 [velues et roses, pleines de vie comme une pieuvre répugnante]。おれは神妙につぶやいた。「いったいなんのつもりだ。」「ほらね。あたしは神よ…[Tu vois, dit-elle, je suis DIEU...]」「おれは気でも狂ったのか……」「いいえ、正気よ。見なくちゃ駄目。見て!」(バタイユ『マダム・エドワルダ Madame Edwarda』1937年)



宗教的感情の起源は喪われた子宮内生活[verlorene Intrauterinlebenに決まっている。幼いころは人はみな知っていたはずである。なぜ成人になったヒト族の大半は健忘症、あるいはその振りをしつづけているのだろうか?






最後にゴダールの映像群とバッハの「泣き、嘆き、憂い、怯え」を結びつけた動画をリンクしておこう。ゴダールは神の起源とヒト族の嘆きを明瞭に示している。