「他人の事なんか構わねえで、あんたの魂のことを書くんだよ。描写するんじゃねえぞ」(小林秀雄ーー大岡昇平に向けて[参照])
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さて、前回示した観想的生[Βίος θεωρητικός]、あるいは観想ーーテオーリア(θεωρία)について思いを馳せると、魂のことを考えざるを得ない。近年の日本の作家で最も魂のこと、あるいは「たまの問題」を記したのは折口信夫だろうが、折口はひどく手強い。まず大江健三郎を振り返ってみることから出発することにする。
これまで幾たびも話したことだが、魂のことを始めなければならないと、子供の頃から私は考えていた。ハイ・スクールの生徒になると、それにかさねて折りかえし点ということを思うことになった。いったん魂のことを始めてしまえば、生きるための金銭を稼ぐことはできないのだから、その折りかえし点に到るまでに、死ぬまでの生活費を貯えておかなければ…… そのように子供じみたことを、切実に思い続けたものだ。(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第二部、P.156) |
ーー《魂のことを追いかけて行くと、最終的には神に行きあたるわけでしょう? 》(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第二部) |
――Kさんの友人の文化人類学者が、日本文化に特有のかたちとして「中心の空洞」ということをいうよね? たとえば戦前の国家権力を洗い出してゆくと、結局、中心の天皇の場所が空洞になっていて、責任の究極の取り手がない。あるいはやはり天皇家と関わるけれど、東京という大都市の中心は皇居で、そこが緑の空洞になっている。ギー兄さんの、なかになにもないかも知れない繭というのも、「中心の空洞」ということで、いかにも日本人的な信仰のかたちなんだろうか? |
――「中心の空洞」ということを考えるとして、それが本当に日本人固有なものかねえ。量子力学にしてからがその直喩に立っているんじゃないの? それならばヨーロッパにあり、アメリカにあり、またアジアの人間も共有する、というもので…… ともかく私は繭の「中心の空洞」に集中するとして、もっと通りの良い言葉でいえば、それに向けて祈るとして、いつまでもそこからなにも現れないままで、決して不都合だとは考えないと思うよ。「中心の空洞」に向けて祈りを集中しているとして、人間の側の営為として、いまの私にはどんな不協和音も兆してこないよ。 |
――なぜ、「中心の空洞」に向けて祈るんだろう? とあきらかに今度はゲームのようにでなく、ザッカリー・K・高安は尋ねた。 ――なぜ、「中心の空洞」に向けて祈らずにいられるんだろう? ……まあ、そのように感じて、祈る者や祈らぬ者や、お互いをキョロキョロ見交わすのが、私たちの集会の出発点かも知れないなあ。 |
――僕はギー兄さんの考え方を、無神論のカテゴリーに、あるいは人間的なニヒリズムに、つまり若いころのKさんみたいな、実存主義者のものに分類するけれども、とザッカリー・K・高安はいった。しかし、そういう考え方の連中がなお教会を建てるということに、僕は関心を持たないではいられないね。(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第二部第二章「中心の空洞」) |
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人間のあり方を総合的にとらえて自分を磨いていくことを”魂のこと”をするというふうにいいたいと思います。神なしでも”魂のこと”をする場所を作る”新しい人”の決意で小説は閉じられるわけですが、僕にとっては”神なしでも”の部分が重要です。僕はずっと”信仰を持たない者の祈り”ということをいってきましたが、それは信仰を持つ可能性があるという意味を含んでいたわけですね。『宙返り』を書いて、そういう気持ちから切り離されて、本当に自由になった気がします。(大江健三郎、ダヴィンチ) |
われら糞と尿のさなかより生まれ出づ[ inter faeces et urinam nascimur](聖アウグスティヌス『告白』) |
然るに汝はわが最も内なる部分よりもなお内にいまし、わが最も高き部分よりもなお高くいましたまえり[tu autem eras interior intimo meo et superior summo meo] (聖アウグスティヌス『告白』) |
なお折口の解釈では「たま」と「たましひ」とは異なる。タマシヒとはタマの作用である。 |
宗教的特質を持つてゐる人は、我々には認める事の出来ぬ神霊のあり場所をつきとめる能力を持つてをり、又霊魂の在り所を始終探してもゐます。日本人は霊魂をたまといひ、たましひはその作用をいふのです。そして又、その霊魂の入るべきものをも、たまといふ同じことばで表してゐたのです。(折口信夫「万葉集に現れた古代信仰――たまの問題――」) |