重要なのは、物事を判断するとき、ときに括弧入れが必要だということだよ。
カントの三批判ーー認識的判断・道徳的判断・趣味判断(美的判断)ーーについて柄谷は次のように注釈している。 |
カントは、ある対象に対するわれわれの態度を、これまでの伝統的区別にしたがって、三つに分けている。ひとつは、真か偽かという認識的な関心、第二に、善か悪かという道徳的な関心、もうひとつは、快か不快かという趣味判断。〔・・・〕 カントが趣味判断のための条件としてみたのは、ある物を「無関心」において見ることである。無関心とは、さしあたって、認識的・道徳的関心を括弧に入れることである。というのも、それらを廃棄することはできないからだ。 しかし、このような括弧入れは、趣味判断に限定されるものではない。科学的認識においても同様であって、他の関心は括弧に入れられねばならない。たとえば、外科医が診察・手術において、患者を美的・道徳的に見ることは望ましくないであろう。また、道徳的レヴェル(信仰)においては、真偽や快・不快は括弧に入れられなければならない。こうした括弧入れは近代的なものである。それはまず近代の科学認識が、自然に対する宗教的な意味づけや呪術的動機を括弧に入れることによって成立したことから来ている。ただし、他の要素を括弧に入れることは、他の要素を抹殺してしまうことではない。(柄谷行人「建築の不純さ」2001年) |
真偽という認識的判断、善悪という道徳的判断、快不快という趣味判断(美的判断)の「純粋化」のためには、別の領域を括弧入れする必要があるという思考である。ーー《趣味とは、或る対象もしくはその対象を表象する仕方を、一切の没関心において、好き(快)あるいは嫌い(不快)によって判定する能力である。そしてかかる好みの対象がすなわち美と名づけられるのである[Geschmack ist das Beurteilungsvermögen eines Gegenstandes oder einer Vorstellungsart durch ein Wohlgefallen, oder Mißfallen, ohne alles Interesse. Der Gegenstand eines solchen Wohlgefallens heißt schön. ]》(カント『判断力批判』第6節) |
カントは美が対象に対する没関心性において見いだされるといっている。それはいわば、関心を括弧に入れることである。いかなる関心か? 知的・道徳的関心である。われわれはある対象に対して、真か偽か、善か悪か、快か不快かという、少なくとも三つの領域で同時にそれを受けとめる。通常、それらは混然と錯綜している。或るものが芸術作品となるのは、他の関心を括弧に入れてそれを享受することによってである。しかし、カントが趣味判断の特性としたことは、認識に関しても道徳に関してもあてはまる。近代の科学では、対象認識において、道徳的・美的判断は括弧に入れなければならない。同様に、カントは道徳に関しても「純粋化」を試みる。道徳的領域は快や幸福を括弧に入れることによって存在するのである。むろん、それらを括弧に入れることはそれらを否定することではない。 |
そうすると、カントが第三アンチノミーを両立可能だとする解決はなんら驚くべきことではない。すべての事柄が自然原因によって決定されるという考えは、自由を括弧に入れるという態度によってもたらされる。逆に、自然原因による決定を括弧に入れるとき、自由ということが生じる。どちらが正しいのかは問題ではない。問題は、われわれは道徳的・美的次元を括弧に入れることによって認識的領域を獲得するのだが、その括弧はいつでも外されなければならないということにある。同じことが道徳的領域や美的領域に関してもいえる。一つの立場からすべてを説明しようとするとき、アンチノミーに出会うのだ。〔・・・〕ここで一つだけいっておきたいのは、認識的・道徳的・美的領域はある態度変更(超越論的還元)によって確定されることであり、それらがあらかじめ存在するのではないということである。(柄谷行人『トランスクリティーク』2001年) |
《美は、無関心に何ものかを、自然でさえをも、愛するように我々に促す[Das Schöne bereitet uns vor, etwas, selbst die Natur, ohne Interesse zu lieben]》(カント『判断力批判』第29節)ーーショーペンハウアーやニーチェはこのカントの思考を誤読してしまったが、ここではそれに触れない[参照]。 |
ここでは柄谷のいう括弧入れの話題に絞る。つまり、美的判断だけでなく、認識的判断あるいは道徳的判断においてもその純粋化のためには他の領域をいったんは括弧入れしなくてはならないという態度だ、《括弧はいつでも外されなければならない》としても。《たとえば、外科医が診察・手術において、患者を美的・道徳的に見ることは望ましくないであろう》ともあったが、この態度はまずは必要不可欠であるだろう。 例えば、政治の領域において、マキャベリは道徳的判断を括弧入れて『君主論』にて認識的判断を示した。 |
これにつけても、覚えておきたいのは、民衆というものは、頭を撫でるか、消してしまうか、そのどちらかにしなければならないことである。というのは、人はささいな侮辱に対しては復讐しようとするが、大きな侮辱に対しては復讐しえないからである。したがって、人に危害を加えるときは、復讐のおそれがないように行なわなければならない。〔・・・〕 一つの悪徳を行使しなくては、自国の存亡にかかわるという容易ならぬばあいには、悪徳の評判などかまわずに受けるがよい。(マキャベリ『君主論』) |
マキャベリには一般の人びとの道徳的判断の観点からは目を剥くような叙述がいくらでもある。とはいえ認識的判断の領野では容易に否定し難いのも事実である。
という話がしたいわけでもない。・・・言いたいのは、愛の起源はオメコというフロイトラカンの認識的判断の何が悪いんだいってことだよ。セクシャリティの領域で、何を道徳的判断とするのかは立場によるだろうが、仮にオメコに触れるのが道徳的判断において悪、趣味判断において下品であろうと、それを括弧入れすれば、少なくとも性愛においてオメコが核心なのは否定しようがないと思うがね。
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ラカンの現実界は不気味なものだ。 |
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フロイトのモノを私は現実界と呼ぶ[La Chose freudienne … ce que j'appelle le Réel ](Lacan, S23, 13 Avril 1976) |
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モノの概念、それは異者としてのモノである[La notion de ce Ding, de ce Ding comme fremde, comme étranger](Lacan, S7, 09 Décembre 1959) |
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異者がいる。異者とは、厳密にフロイトの意味での不気味なものである[Il est étrange… étrange au sens proprement freudien : unheimlich] (Lacan, S22, 19 Novembre 1974) |
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不気味なものは抑圧ーー実際は原抑圧ーーされているが、回帰する。 |
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不気味なものは、抑圧の過程によって異者化されている[dies Unheimliche ist …das ihm nur durch den Prozeß der Verdrängung entfremdet worden ist.](フロイト『不気味なもの』第2章、1919年、摘要) |
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不気味なものは秘密の慣れ親しんだものであり、一度抑圧をへてそこから回帰したものである[Es mag zutreffen, daß das Unheimliche das Heimliche-Heimische ist, das eine Verdrängung erfahren hat und aus ihr wiedergekehrt ist,](フロイト『不気味なもの』第3章、1919年) |
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究極の不気味なものはオメコだ。かつて慣れ親しんだが原抑圧されている原像は、母胎に決まっている。 |
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女性器は不気味なものである。das weibliche Genitale sei ihnen etwas Unheimliches. しかしこの不気味なものは、人がみなかつて最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。Dieses Unheimliche ist aber der Eingang zur alten Heimat des Menschenkindes, zur Örtlichkeit, in der jeder einmal und zuerst geweilt hat. |
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冗談にも「愛は郷愁だ」と言う。 »Liebe ist Heimweh«, behauptet ein Scherzwort そして夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女性器、あるいは母胎であるとみなしてよい。und wenn der Träumer von einer Örtlichkeit oder Landschaft noch im Traume denkt: Das ist mir bekannt, da war ich schon einmal, so darf die Deutung dafür das Genitale oder den Leib der Mutter einsetzen. したがってのこの場合においてもまた、不気味なものはかつて親しかったもの、昔なじみのものである。この言葉(unhemlich)の前綴 un は抑圧の徴なのである。 Das Unheimliche ist also auch in diesem Falle das ehemals Heimische, Altvertraute. Die Vorsilbe » un« an diesem Worte ist aber die Marke der Verdrängung. (フロイト『不気味なもの Das Unheimliche』第2章、1919年) |
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オメコは反復強迫=永遠回帰するんだよ、誰もがそうだ。 |
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いかに同一のものの回帰という不気味なものが、幼児期の心的生活から引き出しうるか。Wie das Unheimliche der gleichartigen Wiederkehr aus dem infantilen Seelenleben abzuleiten ist〔・・・〕 心的無意識のうちには、欲動蠢動から生ずる反復強迫の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。 Im seelisch Unbewußten läßt sich nämlich die Herrschaft eines von den Triebregungen ausgehenden Wiederholungszwanges erkennen, der wahrscheinlich von der innersten Natur der Triebe selbst abhängt, stark genug ist, sich über das Lustprinzip hinauszusetzen, gewissen Seiten des Seelenlebens den dämonischen Charakter verleiht,〔・・・〕 不気味なものとして感知されるものは、この内的反復強迫を思い起こさせるものである。daß dasjenige als unheimlich verspürt werden wird, was an diesen inneren Wiederholungszwang mahnen kann. (フロイト『不気味なもの 』第2章、1919年) |
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フロイトにおいて「同一のものの回帰=反復強迫」の別名は永遠回帰だ。 |
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同一の出来事の反復[Wiederholung der nämlichen Erlebnisse]の中に現れる不変の個性刻印[gleichbleibenden Charakterzug]を見出すならば、われわれは同一のものの永遠回帰[ewige Wiederkehr des Gleichen]をさして不思議とも思わない。〔・・・〕この反復強迫[Wiederholungszwang]〔・・・〕あるいは運命強迫 [Schicksalszwang nennen könnte ]とも名づけることができるようなものについては、合理的な考察によって解明できる点が多い。(フロイト『快原理の彼岸』第3章、1920年) |
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以上、不気味なオメコの永遠回帰だ。永遠回帰とは原抑圧されているものの回帰だ。
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