もし私が『失われた時を求めて』をフランス語では不可能にしてもスコット・モンクリーフの英訳なり、井上究一郎あるいは鈴木道彦氏の訳で読み通しただけならば、吉田先生の追悼とはいえ、このような一文さえ書くことはできなかったろう。 |
吉田城先生の『草稿研究』にめぐりあって、テクスト生成の過程の片鱗を知ってから、私の中の精神科医がにわかに目覚めたのであった。精神科医は、眼前でたえず生成するテクストのようなものの中に身をおいているといってもよいであろう。 そのテクストは必ずしも言葉ではない。言葉であっても内容以上に音調である。それはフラットであるか、抑揚に富んでいるか? はずみがあるか? 繰り返しは? いつも戻ってくるところは? そして言いよどみや、にわかに雄弁になるところは? |
私たちは星座をみるのではない。 星座はコンヴェンションだ。むしろ、新しい星のつながりのための補助線を引く。いやむしろ、暗黒星雲を探し求める。 語られないことば、空白域の推論である。資料がなければ禁欲する歴史家と、そこが違う。 また、時に、私たちは患者の書いた日記などを読む。 患者がみて育った風景をみにゆく。さらに、時には、患者の死への道行きの跡を辿る。 患者の読んだ本を、あるいは郷土史を読む。それがすぐに何になるわけでもないが、そんなことをする。 |
テクスト生成の研究者は、もちろん草稿なしには語らない。その点では私たちよりも歴史家に似ているだろう。しかし、膨大な草稿の中で次第にテクストが選ばれてゆく過程を読むと、私には近しさが感じられる。それはものを書く時に、 語る時に、私たちの中に起こっていることだ。 患者の中にもおそらく起こっていよう。ただ、重症の患者の中では、揺らぎや置き換えが起こらない。しかし、治癒に近づくと彼ら彼女らの文章はしばしばそんじょそこらの〝健常者"をしのぐ。病いにはことばをきたえ直す力さえあるのだろうか? |
草稿一つで鬼の首でもとったように、吉田先生は決してなさらない。その歴史を、しばしば現地で裏付けされる。隠し味になっているものはもっと多かろう。精神科医はたいていの場合には当人にきくことができる。『草稿研究』には画家の場合も出てくるが、精神科医のアートセラピーならば、筆のためらい、丁寧に描くところ、そそくさと終えるところ、描く順序、空白に残すところ、その間の表情の変化、時たまのつぶやき、稀にそこから発展する会話を、場を共にしつつリアルタイムで知ることができる。 文学研究者にはない特権である。 ところが、『草稿研究』 の吉田先生は、このハンディキャップにもかかわらず、草稿とその生成過程と背景とを、時には、私たちがその特権によって到達できる位置に迫っておられるのだ。俊敏で勤勉な精神の長き持続の栄光である。 |
些細な形容詞の変更、時称の選択、何よりも捨てられた草稿、置き換えられた表現、思い切った削除――これらによってテクストが一変する。その前の痕跡をそれとわからぬほどにみせながら――。これはほとんど私たちの推論そのものだ。いや、九九パーセントの精神科医はその安易な特権を十分活用していないであろう。もちろん、私たちは臨床家であって、知的興味に放埒に浸ることは非とされるが、臨床の場で必要な知的謎解きの静かな興奮は許していただきたい。それなくばそもそも仕事になるまいからである。 |
もちろん、プレイヤード版の校訂編集の完成は画期的なことである。 足場をとっぱらって建築が初めて建築家の意図した姿をわれわれの眼の前に現すように、完成されたテクストはかけがえないそれ自体の価値を持つ。 しかし、草稿研究の一端をかいまみたのち初めて、『失われた時を求めて』 は立体的で重層的で星雲的なものに見えるようになった。私の中の精神科医が目覚めた。精神科医は精読家 liseur ではないが、ためらい、選び、捨て、退き、新たな局面を発見し、吟味して、 そして時に棄却し、時に換骨奪胎する精神の営み、そういうテクスト生成研究の過程を身近なものに感じる。私は、先生の『草稿研究』を読むとき、あるいは内容を駅頭で思い出す時でさえ、ほとんど喜悦のあまり、胸郭のおのずと広がる思いがするのである。(中井久夫「吉田城先生の 『 「失われた時を求めて」 草稿研究』 をめぐって」初出2007年『日時計の影』所収) |
例えばネット上に落ちている吉田城の「プルーストと性的風景」PDF(1983年)は短い論だが、とっても勉強になるよ。私がしばしば引用してきた「かたつむりが通った跡」の話ーー例えば「不死の女神は男がするようなまたがりかたはしなかった」ーーが冒頭に掲げられているところが何よりもまずいい(少なくとも私にとって)。これだけではなく、いくつかの決定稿に至る以前の草稿が示されており、草稿段階ではきわめてダイレクトなエロスが、決定稿では朧げな隠喩に変貌しているかが、プチットマドレーヌは女性器だとしたフィリップ・ルジェンヌの「エクリチュールと性」などに触れつつ、分析されている。
吉田城の文は、これ以外には「欲望と挫折の軌跡 コンブレー「秋の散歩」のテクスト成立過程」と「プルーストの模作 フローベールの文体模写をめぐって」しか読んだことはないが、実に才能溢れるプルースト研究者だったようだ、ーー《フランス政府給費留学生試験史上初めて論文試験で満点、パリ高等師範学校へ留学、プルーストの草稿研究、電話帳ほどの博士論文…留学から帰られた頃の吉田さんは既に伝説の人だった。》(プルースト研究と病ーー吉田さんの「遺言」ーー 和田章男)
1987年の「ユリイカ総特集プルースト」はもう35年前のことだが、当時とても勉強になった。この特集は多分、1950年生まれの若手吉田城氏が仕切っていたのではないか。
ユリイカ臨時増刊 総特集 プルースト 目次 |
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La Réminiscence 記憶の蘇り |
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井上究一郎 |
わがコニファーの谷間から |
保苅瑞穂 |
失われた時の風景 |
宮川 雅 河合祥一郎 |
追憶の中の人々 母ースワンーオデットージルベルトーサン=ルー ゲルマント公爵夫人シャルリュス男爵ーアルベルチーヌ |
天野由紀代 |
スノビスムの構図 プルーストの社交界 |
アンケル |
プルーストの世界の生理学 黒川修司訳 |
La Memoire de la Vie 生の記憶 |
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吉田城編訳 記憶の中のプルースト |
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R・アーン |
散歩 |
R・プルースト |
わが兄マルセル・プルースト |
Ph・スーボー |
カブールのプルースト |
J・コクトー |
マルセル・プルーストの声 |
M・ザックス |
ソドムの館 |
R・ド・ビイ |
美術館にて |
R・ドレフュス |
誤解 |
E・ジャルー |
戦争中の思い出 |
L'Archétype du Roman / Le Roman Archétype 物語の原型/原型の物語 |
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プルースト |
物語体『サントブーヴに反論する』 吉川一義訳 |
リシャール |
メロヴィンガ王朝の夜 石木隆治訳 |
吉川一義 |
プルーストの危機と『失われた時』への道 「私は果たして小説家なのだろうか」 |
石木隆治 |
フォルチュニーの衣裳の蔭に |
Proust et le Texte テクスト |
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鈴木道彦 |
『失われた時を求めて』と翻訳の問題 または屋上に屋を架することについて |
川中子弘 |
作者による『失われた時を求めて』読解のレッスン若干 |
アドルノ |
儚さの力、儚さの救済 池田信雄訳 |
吉田城 |
『失われた時を求めて』のプレイアッド新版 |
Proust et la Sexualité 性 |
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徳田陽彦 |
「ゴモラの女」アルベルチーヌ |
ルジュンヌ |
エクリチュールと性 川中子弘訳 |
吉田城 |
欲望と挫折の軌跡 コンブレー「秋の散歩」のテクスト成立過程 |
Proust et l'Art 芸術 |
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酒井三喜 |
プルーストと写真 ポートレート |
牛場暁夫 |
失われた時を求めて、響きあう時空 |
富士川義之 |
建築を読む ラスキン、 ペイター、プルースト覚書 |
Proust et Les Auteurs 作家たち |
|
保苅瑞穂 |
プルーストとマラルメ マラルメをめぐる書簡三通 |
大澤正佳 |
スワンの途を求めて プルーストとジョイス |
千葉文夫 |
ホテル・リッツのよく冷えたビール ロラン・バルトの語るプルースト |
宇野邦一 |
しるしと機械 プルーストからドゥルーズへ |
La Chronologie 年譜 |
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吉田城 |
プルースト年譜 |