向こうからやって来るんだ、向こうには猫ぐらいしかいないのに。
でも呼ばないときにやってくる猫がキモなんだ
ときに向こうには花が散ってる
この映画とは関係ないけど、京丹後市久美浜町の河上三神社ってとってもいい。鎮守の森の穴に花が散るって感じで。
実にすぐれてオソソ道構造だよ
話を戻せば、エドワード・ヤンのこの作品、実に名品だ、4時間もあるけど。
➡︎楊德昌『牯嶺街少年殺人事件』1991年
英語題名の"A Brighter Summer Day"のほうがピッタリくる。
『青梅竹馬』(1985年) や『恐怖份子』(1986年)ではあまり感じなかったオソソ道構図がふんだんにある。1980年代の後半に小津安二郎をしっかり研究したんじゃないかね。
愛への意志、それは死をも意志することである[ Wille zur Liebe: das ist, willig auch sein zum Tode]。おまえたち臆病者に、わたしはそう告げる[Also rede ich zu euch Feiglingen! ](ニーチェ『ツァラトゥストラ』 第2部「無垢な認識」1884年) |
真理への意志ーーそれは隠された死への意志でありうる[Wille zur Wahrheit“ ― das könnte ein versteckter Wille zum Tode sein](ニーチェ『 悦ばしき知』第344番、1882年) |
おそらく真理とは、その根底を窺わせない根を持つ女ではないか?おそらくその名は、ギリシア語で言うと、バウボ[Baubo]というのではないか?…[Vielleicht ist die Wahrheit ein Weib, das Gründe hat, ihre Gründe nicht sehn zu lassen? Vielleicht ist ihr Name, griechisch zu reden, Baubo?... ](ニーチェ『悦ばしき知』「序」第2版、1887年) |
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(表面に現れているものではなく)別の言説が光を照射する。すなわちフロイトの言説において、死は愛である [Un autre discours est venu au jour, celui de Freud, pour quoi la mort, c'est l'amour. ](Lacan, L'Étourdit E475, 1970) |
ーー《タナトスの形式の下でのエロス [Eρως [Éros]…sous la forme du Θάνατος [Tanathos] ]》(Lacan, S20, 20 Février 1973)