何度か掲げているが、ラカンは次のように言っている。
症状概念。注意すべき歴史的に重要なことは、フロイトによってもたらされた精神分析の導入の斬新さにあるのではないことだ。症状概念は、私は何度か繰り返し示してきたが、マルクスを読むことによって、とても容易くその所在を突き止めるうる。la notion de symptôme. Il est important historiquement de s'apercevoir que ce n'est pas là que réside la nouveauté de l'introduction à la psychanalyse réalisée par FREUD : la notion de symptôme, comme je l'ai plusieurs fois indiqué, et comme il est très facile de le repérer, à la lecture de celui qui en est responsable, à savoir de MARX.(Lacan, S18, 16 Juin 1971) |
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ここではこのラカンの発言を額面通り取ろう。そして次の問いを提出しよう、どうしてラカンにとって症状概念を把握するために、フロイトよりマルクスが重要なのだろうか、と。 |
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ラカンにとっての症状は社会的結びつきであり、言説である。 |
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言説とは何か? それは、言語の存在によって生じうる秩序において、社会的結びつきの機能を作るものである。[Le discours c’est quoi ? C’est ce qui, dans l’ordre… dans l’ordonnance de ce qui peut se produire par l’existence du langage, fait fonction de lien social. ](Lacan à l’Université de Milan le 12 mai 1972) |
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社会的結びつきは症状である[le lien social, c’est le symptôme] (J.-A. Miller, Los inclasificables de la clínica psicoanalítica, 1999) |
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すなわち「症状=社会的結びつき=言説」である。 |
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さてここで、柄谷が《言語的意匠》あるいは《代表制あるいは言説の機構》等々の表現を使いながら、《われわれは、マルクスの分析に精神分析を導入したり適用したりするよりは、『ブリュメール一八日』から精神分析を読むべきなのだ》としている『トランスクリティーク』第二部・第1章 第2節「代表機構」から引用しよう。ここにはラカンの言っているマルクスにおける症状概念分析のきわめてすぐれた指摘がある。
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なお「権力のフェティシズム(柄谷=マルクス)」も参照されたし。この後半にマルクスの価値形態論がいかに精神分析的かを示している。
…………
先に見たようにラカンにおいて言説は症状であり、ラカンの四つの言説理論とは、四つの症状である。
私が対象a[剰余享楽]と呼ぶもの、それはフェティシュとマルクスが奇しくも精神分析に先取りして同じ言葉で呼んでいたものである[celui que j'appelle l'objet petit a [...] ce que Marx appelait en une homonymie singulièrement anticipée de la psychanalyse, le fétiche ](Lacan, AE207, 1966年) |
剰余価値、それはマルクス的快、マルクスの剰余享楽である[ La Mehrwert, c'est la Marxlust, le plus-de-jouir de Marx. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970) |
ラカンは言説を「社会的結びつき」と定義する以外に、見せかけ(仮象)とも呼んでいるが、これは事実上、フェティッシュのことである。 |
言説はそれ自体、常に見せかけの言説である[le discours, comme tel, est toujours discours du semblant ](Lacan, S19, 21 Juin 1972) |
フェティッシュとしての見せかけ [un semblant comme le fétiche](J.-A. Miller, la Logique de la cure du Petit Hans selon Lacan, Conférence 1993) |
セミネールⅣの段階でマルクスに触れつつ既にこう言っている。 |
人間の生におけるいかなる要素の交換も商品の価値に言い換えうる。…問いはマルクスの理論(価値形態論)において実際に分析されたフェティッシュ概念にある。pour l'échange de n'importe quel élément de la vie humaine transposé dans sa valeur de marchandise, …la question de ce qui effectivement a été résolu par un terme …dans la notion de fétiche, dans la théorie marxiste. (Lacan, S4, 21 Novembre 1956) |
構造主義時代のラカンの言説理論は、別の言い方をすれば社会関係構造理論でもある。
構造主義の始祖レヴィ=ストロースは『悲しき熱帯』で、「私の二人の師」として、マルクスとフロイトを挙げている。さらに『野生の思考』ではこう記している。 |
要素自体はけっして内在的に意味をもつものではない。意味は「位置によって」きまるのである。それは、一方で歴史と文化的コンテキストの、他方でそれらの要素が参加している体系の構造の関数である(それらに応じて変化する)。 éléments,…Les termes n'ont jamais de signification intrinsèque ; leur signification est « de position », fonction de l'histoire et du contexte culturel d'une part, et d'autre part, de la structure du système où ils sont appelés à figurer.(レヴィ=ストロース『野性の思考』1962年) |
ラカンの言説理論は、フロイトをさらに構造化して四つの場(空箱)に四つの要素を入れるというものだ。ラカンは、要素ではなく場が症状を規定すると考えたのである。 ーーこの言説の基礎構造の上に四つの言説=四つの症状が乗るのである。 基礎構造の基本的な読み方は次の通り。 |
このレヴィ=ストロースやラカンが考えたこと自体、事実上、マルクスにあるのである。 |
人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、逆に彼らの社会的存在が彼らの意識を規定する。Es ist nicht das Bewußtsein der Menschen, das ihr Sein, sondern umgekehrt ihr gesellschaftliches Sein, das ihr Bewußtsein bestimmt.(マルクス『経済学批判』「序言」1859年) |
経済的社会構成の発展を自然史的過程としてとらえる私の立場は、他のどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとはしない。個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。 Weniger als jeder andere kann mein Standpunkt, der die Entwicklung der ökonomischen Gesellschaftsformation als einen naturgeschichtlichen Prozeß auffaßt, den einzelnen verantwortlich machen für Verhältnisse, deren Geschöpf er sozial bleibt, sosehr er sich auch subjektiv über sie erheben mag. (マルクス『資本論』第一巻「第一版序文」1867年) |
マルクスは次のように言っている。 |
ひょっとしたら誤解されるかもしれないから、一言しておこう。私は資本家や土地所有者の姿をけっしてばら色に描いていない。そしてここで問題になっているのは、経済的範疇(カテゴリー)の人格化であるかぎりでの、一定の階級関係と利害関係の担い手であるかぎりでの人間にすぎない。経済的社会構成の発展を自然史的過程としてとらえる私の立場は、他のどの立場にもまして、個人を諸関係に責任あるものとはしない。個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。(『資本論』第一巻「第一版へのまえがき」) |
ここでマルクスがいう「経済的カテゴリー」とは、商品や貨幣というようなものではなくて、何か商品や貨幣たらしめる価値形態を意味する。 『グルントリセ』においても、マルクスは商品や貨幣というカテゴリーを扱っていた。『資本論』では、彼は、それ以前に、何かを商品や貨幣たらしめる形式に行しているのである。 商品とは相対的価値形態におかれるもの(物、サービス、労働力など)のことであり、貨幣とは等価形態におかれるもののことである。同様に、こうしたカテゴリーの担い手である「資本家」や「労働者」は、諸個人がどこに置かれているか(相対的価値形態か等価形態か)によって規定されそれは彼らが主観的に何を考えていようと関係がない。 |
ここでいわれる階級は、経験的な社会学的な意味での階級ではない。だから、現在の社会において、『資本論』のような階級関係は存在しないというような批判は的外れである。 現在だけでなく、過去においても、どこでもそのように単純な階級関係は存在しなかった。そして、マルクスが具体的な階級関係を考察するとき、諸階級の多様性、そして言説や文化の多様性について非常に敏感であったことは、『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』のような仕事を見れば明らかなのだ。一方、『資本論』では、マルクスは、資本制経済に固有の階級関係を価値形態という場において見ている。その意味では、『資本論』の認識はむしろ今日の状況によりよく妥当するといってよい。たとえば、今日で労働者の年金は機関投資家によって運用されている。つまり、労働者の年金はそれ自身資本として活動するのである。その結果、それが企業を融合しリストラを迫ることになり、労働者自身を苦しめることになる。このように、資本家と労働者の階級関係はきわめて錯綜している。 そして、それはもう実体的な階級関係という考えではとらえられないように見える。 しかし、商品と貨幣、というよりも相対的価値形態と等価形態という非対称的な関係は少しも消えていない。『資本論』が考察するてのはそのような関係の構造であり、それはその場に置かれた人々の意識にとってどう映ってみえよう存在するのである。 |
こうした構造主義的な見方は不可欠である。 マルクスは安直なかたちで資本主義の道徳的非難をしなかった。むしろそこにこそ、マルクスの倫理学を見るべきである。資本家も労働者もそこでは主体ではなく、いわば彼らがおかれる場によって規定されている。 しかし、このような見方は、読者を途方にくれさせる。……(柄谷行人『トランスクリティーク』「イントロダクション」p40-41) |
私はラカンの「大学人の言説」ーーこの言説は教育機関としての大学に限らず、「知の言説」、「専門家の言説」であるーーを取り上げて、学者連中を嘲罵する「悪い癖」がある[参照]。 |
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だが柄谷のトラクリを読み返していて反省することしきりである?! |
マルクスは『資本論』においていっている、貨幣が一商品であることを見ることはたやすいが、問題は、一商品がなぜいかにして貨幣となるかを明らかにすることだ、と。彼がボナパルトについていうのも同じことだ。ボナパルトに「痛烈にして才気あふるる悪口をあびせかけた」 ヴィクトル・ユーゴーに対して、マルクスは、「私は平凡奇怪な一人物をして英雄の役割を演ずることをせしめた情勢と事件とを、フランスの階級闘争がどんな風につくりだしていったかということをしめす」と書いている(『ブリュメール一八日』「第二版への序文」同前)。ユゴーのような批判を幾度くりかえしても、それは貨幣がただの紙きれだというのと同じく、何の批判にもならない。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第1章「移動と批判」第2節「代表機構」) |
国際政治学者や、ときにラカン派の学者に対して痛烈な悪口をあびせかけても栓無きことである。マルクス観点からは、連中がなぜあんなにも「間抜け」になるのかを構造論ーー社会的諸関係、特にその置かれたポジションーーから究明すべきなのだろう・・・
あるいは、例えば「駒場幼稚園」とも呼ばれる場に所属する思想家や哲学者などがなぜあれほどにも「子供っぽい」のか、についても同様である。 |
文学や自然科学の学生にとってお極まりの捌け口、教職、研究、または何かはっきりしない職業などは、また別の性質のものである。これらの学科を選ぶ学生は、まだ子供っぽい世界に別れを告げていない。彼らはむしろ、そこに留まりたいと願っているのだ。教職は、大人になっても学校にいるための唯一の手段ではないか。文学や自然科学の学生は、彼らが集団の要求に対して向ける一種の拒絶によって特徴づけられる。ほとんど修道僧のような素振りで、彼らはしばらくのあいだ、あるいはもっと持続的に、学問という、移り過ぎて行く時からは独立した財産の保存と伝達に没頭するのである。〔・・・〕 彼らに向かって、君たちもまた社会に参加しているのだと言ってきかせるくらい偽りなことはない。〔・・・〕彼らの参加とは、結局は、自分が責任を免除されたままで居続けるための特別の在り方の一つに過ぎない。この意味で、教育や研究は、何かの職業のための見習修業と混同されてはならない。隠遁であるか使命であるということは、教育や研究の栄光であり悲惨である。(レヴィ= ストロース『悲しき熱帯』 Ⅰ 川田順造訳 p77-79) |
なお、ここでの表題「精神分析の起源マルクス」はいくらか言い過ぎであるのを自覚している。「精神分析の重要な思考のいくつかがマルクスにある」と穏やかに言い直したほうがいいかもしれない。だが重要なのは、商品語の交換と人間語の交換(コミュニケーション)は相同的なものだということであり[参照]、商品の交換をめぐるマルクスの価値形態論は人間語の交換にそのまま適用できるということである。