インド外相のスブラマニヤム・ジャイシャンカル(Subrahmanyam Jaishankar)はこう言ったそうだ。
これで脱ドル化の動きがいくらか弱まったんだろう、もちろん世界の趨勢は脱ドルに向かっているのは間違いないにしろ。
情報取得がきわめて速いMANPYO氏は、数日前、既に次のように言っていたが。 |
DULLES N. MANPYO@iDulles Jul 12, 2023 ・一家四僑、事乃無功 「シエスタの数時間に世界はまた転回していた。BRICS共通通貨構想は流産。バーラトは正式に彼共通通貨には参加しないことを表明。その説明で同政府は、政府の最優先方針は自国通貨ルピーの強化であること。BRICS通貨参加することによって、西側諸国との良好な関係を損なうことを望まない。BRICS通貨が金本位と結びつけるとの構想は、非現実的であり、そのような構想を実現するには、莫大な量の金と外貨準備が必要であり、そのような体力が加盟国にあるとおもわれないし、またその中心的求心的哲学は存在しない。今だけではなく近い将来も、その構想にバーラトは参加することはない。以上を説明した。インドはこれに留まらず、軍事力の重心移動を始め、U.S.、仏重心を強めることによって、ロシアとの均衡を図り出した。確かにバーラトの方針は手堅い。彼らは14億を背負っているのである。西側は歓迎するだろう。だが私はそうではない。多くの人たちが対中敵視をする余り、インド・リスクを度外視、無視していることの危険性の方を採る。中長期的にバーラトの本質を鑑みれば憂うこと多」-0- |
《BRICS通貨が金本位と結びつけるとの構想》は、理論的にはきわめて愚かしいのであって、ーーもちろん世界には、重金主義時代の金フェティシズムの幻想に反理論的信奉をしている連中がいまだウジャウジャ蔓延っているのを知らないわけではないがーー、そうはいってもいまどき愚鈍の極みだよ。
ここでは名著『貨幣論』の著者岩井克人が一般向けにわかりやすく説明したインタビュー記事を引用しておこう。 ◼️お金の起源
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より詳しくは「基軸通貨と基軸言語の相同性」を参照されたし。
岩井克人の思考は、実際はマルクスの『資本論』冒頭の価値形態論に既にある。それについては、「貨幣は王 (価値形態論)」を見よ。そこでは直接的にはゴールドに触れていないが、一般的な価値形態[Allgemeine Wertform]に置かれた商品が貨幣であり、かつてなら金であり、中国の大昔なら貝だった。
さらに言えば、日本の江戸時代において、コメは事実上、一般的等価価値形態に置かれており、コメは貨幣だった。 |
柄谷行人)江戸初期の体制はともかくとして、元禄(1688年から1704年)のころは、完全に大阪の商人が全国のコメの流通を握っていまして…… 岩井克人)そうですよ。江戸の大名は参勤交代があって、一年に一回江戸に出てこなくちゃならない。しかも正妻と子供は江戸に残さなくちゃならないから、どうしてもお金が必要なんですね。領地でコメを収穫してもそれを大阪に回して、堂島のコメ市場で現金にかえて、さらにたりないぶんは両替屋にどんどん借金するんだけど、それでも収入が足りなくて、特産品を奨励するわけです。〔・・・〕(コメは)生産する側にとってみればたんなる食べ物ではなかったわけですよ。食べるものではなく、流通するものとして、ほとんどお金同然だったわけですね。 だから、大阪の堂島にはじつに整備された大規模なコメ市場が成立したわけです。たとえば、現代資本主義のシンボルとして、シカゴの商品取引所の先物市場がよくあげられるけれども、堂島にもちゃんと先物市場があったんですね。「張合い」といって、将来に収穫されるコメをいま売り買いするわけです。と言うか、堂島の張合い取引が世界最初の整備された先物市場であったという説さえある。(柄谷行人-岩井克人『終りなき世界』1990年) |
もうひとつ、江戸時代の三貨制度をめぐる叙述を抜き出しておこう。 |
三貨制度は、三貨制度とよばれてはいるが、その実、それを構成する金貨、銀貨、銅銭の金属貨幣は、それぞれ貨幣としての用いられかたも、その流通範囲も大きく異なっている。 金貨である小判や一分判、および銅銭である寛永通宝は、「定位貨幣」として流通していた。〔・・・〕一両小判の場合は、それにふくまれている金の重さとは独立に表に刻印された一両という価値をもつ貨幣として流通し、一文銭の場合も、それにふくまれる銅の重さとは独立に表に刻印された一文という価値をもつ貨幣として流通していたのである。 |
これにたいして、丁銀や豆板銀といった銀貨は、「秤量貨幣」としてもちいられていた。一貫目の重さをもつ丁銀はつねい一貫目の価値をもつ貨幣として流通し、一匁の重さをもつ豆板銀はつねに一分の価値をもつ貨幣として流通していたのである。それゆえ、丁銀や豆板銀を取り引きの支払いとして受け取るときには、ひとびとはその重さをいちいち秤ではからなければならなかったのである。 〔・・・〕関東では定位貨幣である金貨をもちい、関西では秤量貨幣である銀貨をもちいるという、二つの貨幣圏が並存することになったのである。「関東の金づかい、上方の銀づかい」というわけである。ただし、銅銭にかんしては、小額取り引き用の貨幣として、関東であるか関西であるかを問わずひろく全国に流通していた。 「銀つかい」の大坂においては丁銀や豆板銀がもちいられ、商売の支払いのためにはいちいちその品位を吟味し秤で重さをはからなければなかなかった〔・・・〕。 |
もちろん、これはひどく不便なことである。そこで、この不便さをとりのぞくために大坂で考えだされたのが、「預り手形」や「振り手形」といった手形による支払い方法である。 〔・・・〕銀そのものの代わりに手形を廻すーー「銀づかい」といわれた大坂では、結局、銀を使わないというかたちで「貨幣の論理」を貫徹させていたというわけである。いや、いくら「かるきをとれば、又そのままにさきへわたし」たといっても、実際の金そのものを廻していた「金づかい」の江戸よりも、たんなる紙切れである手形を廻してしまう「銀づかい」の大坂のほうが、「貨幣の論理」のはたらきをはるかに徹底して作動させていたというわけである。 (岩井克人「西鶴の大晦日」『二十一世紀の資本主義論』2000年所収) |