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2023年7月14日金曜日

BRICS共通通貨構想の流産

 

インド外相のスブラマニヤム・ジャイシャンカル(Subrahmanyam Jaishankar)はこう言ったそうだ。


これで脱ドル化の動きがいくらか弱まったんだろう、もちろん世界の趨勢は脱ドルに向かっているのは間違いないにしろ。


情報取得がきわめて速いMANPYO氏は、数日前、既に次のように言っていたが。


DULLES N. MANPYO@iDulles Jul 12, 2023


・一家四僑、事乃無功


「シエスタの数時間に世界はまた転回していた。BRICS共通通貨構想は流産。バーラトは正式に彼共通通貨には参加しないことを表明。その説明で同政府は、政府の最優先方針は自国通貨ルピーの強化であること。BRICS通貨参加することによって、西側諸国との良好な関係を損なうことを望まない。BRICS通貨が金本位と結びつけるとの構想は、非現実的であり、そのような構想を実現するには、莫大な量の金と外貨準備が必要であり、そのような体力が加盟国にあるとおもわれないし、またその中心的求心的哲学は存在しない。今だけではなく近い将来も、その構想にバーラトは参加することはない。以上を説明した。インドはこれに留まらず、軍事力の重心移動を始め、U.S.、仏重心を強めることによって、ロシアとの均衡を図り出した。確かにバーラトの方針は手堅い。彼らは14億を背負っているのである。西側は歓迎するだろう。だが私はそうではない。多くの人たちが対中敵視をする余り、インド・リスクを度外視、無視していることの危険性の方を採る。中長期的にバーラトの本質を鑑みれば憂うこと多」-0-



《BRICS通貨が金本位と結びつけるとの構想》は、理論的にはきわめて愚かしいのであって、ーーもちろん世界には、重金主義時代の金フェティシズムの幻想に反理論的信奉をしている連中がいまだウジャウジャ蔓延っているのを知らないわけではないがーー、そうはいってもいまどき愚鈍の極みだよ。



ここでは名著『貨幣論』の著者岩井克人が一般向けにわかりやすく説明したインタビュー記事を引用しておこう。



◼️お金の起源

■「受け取ってもらえる」の信用がお金をつくる

――「貨幣論」では、「お金とは何か」を論じています。


岩井克人)お金がお金となるのは、他の人も受け取ってくれると予想するから、だれもが受け取る、という自己循環論法です。他人が受け取ってくれれば、お金はお金として通用する。それを疑い始めたら、お金として通用しなくなる。日常的にはほとんど意識していないが、根底では、他の人がお金として受け取ってくれると信じていて、その他の人も他の人が受け取ってくれると信じている。深いところで信じ合っている仕組みに支えられているのです。


――お金の起源はどこにあるのでしょうか。


金や銀などの金属、もっと昔は貝などの、多くの人が欲しい商品が貨幣に変わったという「貨幣商品説」や、共同体の長老や王様、政府といった権威が「これを貨幣とする」と決めたという「貨幣法制説」、他にも貸し借りから始まったという説があります。もしかしたら歴史をさかのぼって、「貨幣が生まれた」という瞬間があるかもしれないが、理論的には決定できない。ただ、私が「貝がお金だ」と宣言しても、お金としては使えない。他の人がお金として受け取ってくれるからお金になる、1人や2人ではなく世の中の大多数の人が、貝をお金として受け取ってくれないといけない。


あるとき、何らかの理由で、水が沸騰して蒸気になるような瞬間が、大多数の人が貝をお金として受け取ってくれるようになった瞬間があるわけです。それは商品として価値があるから貨幣として使われるようになったのか、欧州共通通貨ユーロのように法律でバンッと決まったのか。ドルが基軸通貨として使われているのは、ユーロとは違い、きっかけは貨幣商品説と似ています。


――似ているというのは?


ドルを基軸通貨としたブレトンウッズ会議の前後、アメリカの国力は圧倒的で、世界中の人がドルを欲しがりました。アメリカの製品・商品が買えるドルが、世界で最も魅力的だったのです。


――ドルと金兌換を停止した1971年の「ニクソン・ショック」の後も、ドルは基軸通貨として君臨しています。


それまでドルが基軸通貨として広まっていたのは、それ自体が価値のある金(きん)とつながっていたからで、そのつながりを切れば、ドルは基軸通貨ではなくなると、多くの経済学者が考えていました。それで、ドルを金から切り離し、他の通貨との交換比率は外国為替市場で自由に決まるようになれば、円やマルクのような通常の通貨となると考えたのです。アメリカには当時、世界の資本主義の監督ではなく1人のプレーヤーになりたいという考え方が強かった。ドルを基軸通貨として維持するためには金を準備しておかなければならず、その負担が大変ですし、世界の中央銀行の役割を果たすのは責任が重すぎる、と考えたのです。


でも、アメリカは基軸通貨からおりようとしたのですが、予想に反して、日本とドイツ、ブラジルと韓国との取引でもドルが使われ、結局、貿易や外貨準備の6割ぐらいはドルが使われ続けたのです。ドルは、金との兌換によってでも、アメリカの経済力の強さによってでもなく、どの国の人間も他の国の人間がドルを基軸通貨として受け取ってくれるからだ、という自己循環論法によって基軸通貨であったのだということが明らかになったのです。


――2008年の「リーマン・ショック」のとき、これでドルの力が弱まると言われましたが、逆にドルの力が強まりました。


これも同じ理由です。リーマン・ショックの後、中国などいくつかの国が、基軸通貨から引きずりおろそうと揺さぶりをかけたが、世界経済の不安定性によって、結果的にドルが使われる率が増えました。それが貨幣の不思議なところで、アメリカの国力が弱まったらドルの流通が下がると常識的には考えがちだが、そうではなくて、貨幣というのは他の人が使っているから自分も使う、という自己循環論法で動いている。そんな証拠をなんべんも我々は突きつけられているのです。


〔・・・〕

基軸通貨というのは、一度、基軸通貨になると、かなり長い間、実体と離れて流通する。ただ、ドル基軸通貨体制が永久に続くかというと、アメリカがトランプ大統領のもと、あまり自己中心的に動くと、どこかで破綻する可能性はゼロではない。たとえば、選挙目当ての景気浮上策でドルの供給をどんどん増やしていますが、ドルの価値が乱高下したりすると、日本とブラジルが貿易するときに、ドルではなく円にしておこうとか、そういうふうに考え始めるかもしれない。しかも、大統領の意向で貿易や金融の規制が恣意的に行われるリスクが増えていて、その点で中国と少し似てきている。いくつかの国が考えているうちはいいが、たくさんの国が同時に考え始めたらバタバタといく可能性は皆無ではありません。


その場合、すぐに新しい基軸通貨ができるかは分からない。19世紀後半、イギリスの国力が落ちて、とっくにアメリカに抜かれていたけど、第1次世界大戦まではポンドが基軸通貨として使われ続けていた。第1次世界大戦でほとんどポンドの基軸通貨としての息の根が止められ、基軸通貨がない混乱状態が続いて、それが世界恐慌の一つの原因になったといわれている。第2次世界大戦でヨーロッパが疲弊し、アメリカが圧倒的な国力を持つことになって、ドルが遅ればせながら基軸通貨になった。それを追認したのが、1944年のブレトンウッズ会議です。もしドルが基軸通貨ではなくなったとしても、たとえ中国経済が超巨大になったとしても、すぐにパッと人民元が基軸通貨になるとは限りません。

(岩井克人『貨幣論』著者が説く「お金は信用がすべて。だからリブラは最悪だ」2019年)



より詳しくは「基軸通貨と基軸言語の相同性」を参照されたし。


岩井克人の思考は、実際はマルクスの『資本論』冒頭の価値形態論に既にある。それについては、「貨幣は王 (価値形態論)」を見よ。そこでは直接的にはゴールドに触れていないが、一般的な価値形態[Allgemeine Wertform]に置かれた商品が貨幣であり、かつてなら金であり、中国の大昔なら貝だった。



さらに言えば、日本の江戸時代において、コメは事実上、一般的等価価値形態に置かれており、コメは貨幣だった。

柄谷行人)江戸初期の体制はともかくとして、元禄(1688年から1704年)のころは、完全に大阪の商人が全国のコメの流通を握っていまして……


岩井克人)そうですよ。江戸の大名は参勤交代があって、一年に一回江戸に出てこなくちゃならない。しかも正妻と子供は江戸に残さなくちゃならないから、どうしてもお金が必要なんですね。領地でコメを収穫してもそれを大阪に回して、堂島のコメ市場で現金にかえて、さらにたりないぶんは両替屋にどんどん借金するんだけど、それでも収入が足りなくて、特産品を奨励するわけです。〔・・・〕(コメは)生産する側にとってみればたんなる食べ物ではなかったわけですよ。食べるものではなく、流通するものとして、ほとんどお金同然だったわけですね。


だから、大阪の堂島にはじつに整備された大規模なコメ市場が成立したわけです。たとえば、現代資本主義のシンボルとして、シカゴの商品取引所の先物市場がよくあげられるけれども、堂島にもちゃんと先物市場があったんですね。「張合い」といって、将来に収穫されるコメをいま売り買いするわけです。と言うか、堂島の張合い取引が世界最初の整備された先物市場であったという説さえある。(柄谷行人-岩井克人『終りなき世界』1990年)



もうひとつ、江戸時代の三貨制度をめぐる叙述を抜き出しておこう。


三貨制度は、三貨制度とよばれてはいるが、その実、それを構成する金貨、銀貨、銅銭の金属貨幣は、それぞれ貨幣としての用いられかたも、その流通範囲も大きく異なっている。


金貨である小判や一分判、および銅銭である寛永通宝は、「定位貨幣」として流通していた。〔・・・〕一両小判の場合は、それにふくまれている金の重さとは独立に表に刻印された一両という価値をもつ貨幣として流通し、一文銭の場合も、それにふくまれる銅の重さとは独立に表に刻印された一文という価値をもつ貨幣として流通していたのである。

これにたいして、丁銀や豆板銀といった銀貨は、「秤量貨幣」としてもちいられていた。一貫目の重さをもつ丁銀はつねい一貫目の価値をもつ貨幣として流通し、一匁の重さをもつ豆板銀はつねに一分の価値をもつ貨幣として流通していたのである。それゆえ、丁銀や豆板銀を取り引きの支払いとして受け取るときには、ひとびとはその重さをいちいち秤ではからなければならなかったのである。


〔・・・〕関東では定位貨幣である金貨をもちい、関西では秤量貨幣である銀貨をもちいるという、二つの貨幣圏が並存することになったのである。「関東の金づかい、上方の銀づかい」というわけである。ただし、銅銭にかんしては、小額取り引き用の貨幣として、関東であるか関西であるかを問わずひろく全国に流通していた。


「銀つかい」の大坂においては丁銀や豆板銀がもちいられ、商売の支払いのためにはいちいちその品位を吟味し秤で重さをはからなければなかなかった〔・・・〕。

もちろん、これはひどく不便なことである。そこで、この不便さをとりのぞくために大坂で考えだされたのが、「預り手形」や「振り手形」といった手形による支払い方法である。


〔・・・〕銀そのものの代わりに手形を廻すーー「銀づかい」といわれた大坂では、結局、銀を使わないというかたちで「貨幣の論理」を貫徹させていたというわけである。いや、いくら「かるきをとれば、又そのままにさきへわたし」たといっても、実際の金そのものを廻していた「金づかい」の江戸よりも、たんなる紙切れである手形を廻してしまう「銀づかい」の大坂のほうが、「貨幣の論理」のはたらきをはるかに徹底して作動させていたというわけである。

(岩井克人「西鶴の大晦日」『二十一世紀の資本主義論』2000年所収)