「愛の技法と固着の反復(リシャールと蓮實重彦)」で引用したことがあるけどさ |
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蓮實)文学的にいって僕が進んで影響を受けた人物は二人しかいない。これは隠すまでもないし、しばしば公言していることですが、言葉やイメージにどう接近するかという姿勢において快いモデルとして、ジャン・ピエール・リシャールとアンリ・フォシオンを持っている。問題のたて方とか、方法論といった問題ではなく、対象としての言葉をどう愛撫するかという愛の技法を学んだのです。(柄谷行人-蓮實重彦対談集『闘争のエチカ』1988年) |
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蓮實の方法はジャン=ピエール・リシャールのテーマ批評のところがあるんだよ、とくに夏目漱石論なんかはテキメンにそうだね。 で、テーマ批評は固着の反復分析らしいよ。
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固着の反復やら固着点やらと言っていて、さて、前回示したラカンの「「対象aは固着点」が意味すること」にジカに当てはまると言うつもりはないが、とはいえほぼ当てはまるだろうよ、固着分析に。
どうだい、やってみたら? 例えば坂口安吾とか中上健次とかは、蚊居肢散人がざっと掠め読みする範囲でも、固着の反復が実に頻繁にあるな。ラカン派語彙なら現実界の症状であるサントームの反復、享楽の反復が。
われわれは言うことができる、サントームは固着の反復だと。サントームは反復プラス固着である[On peut dire que le sinthome c'est la répétition d'une fixation, c'est même la répétition + la fixation]. (Alexandre Stevens, Fixation et Répétition ― NLS argument, 2021/06) |
サントームという享楽自体[ la jouissance propre du sinthome] (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse, 17 décembre 2008) |
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分析経験において、享楽は、何よりもまず、固着を通してやって来る[Dans l'expérience analytique, la jouissance se présente avant tout par le biais de la fixation]. ( J.-A. MILLER, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011) |
分析経験の基盤は厳密にフロイトが「固着 Fixierung」と呼んだものである[fondée dans l'expérience analytique, et précisément dans ce que Freud appelait Fixierung, la fixation. ](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011) |
批評において最も重要なのは、チョロい欲望分析に陥らないことだね。最近の批評家はそんなのばかりだけど。 |
享楽は欲望とは異なり、固着された点である。享楽は可動機能はない。享楽はリビドーの非可動機能である。La jouissance, contrairement au désir, c'est un point fixe. Ce n'est pas une fonction mobile, c'est la fonction immobile de la libido. (J.-A. Miller, Choses de finesse en psychanalyse III, 26 novembre 2008) |
人の生の重要な特徴はリビドーの可動性であり、リビドーが容易にひとつの対象から他の対象へと移行することである。反対に、或る対象へのリビドーの固着があり、それは生を通して存続する。Ein im Leben wichtiger Charakter ist die Beweglichkeit der Libido, die Leichtigkeit, mit der sie von einem Objekt auf andere Objekte übergeht. Im Gegensatz hiezu steht die Fixierung der Libido an bestimmte Objekte, die oft durchs Leben anhält. (フロイト『精神分析概説』第2章、1939年) |
蓮實は既に1988年時点で、批評家は多摩川の二軍選手だと言ってるけどさ、 |
知識も基礎学力もない人たちが、こうまで簡単に批評家になれるとはどういうことですかね。最近の文芸雑誌をパラパラと見ていると、何だか多摩川の二軍選手たちが一軍の試合で主役を張っているような恥ずかしさがあるでしょう。ごく単純に十年早いぞって人が平気で後楽園のマウンドに立っている。要するに芸がなくてもやっていけるわけで、こういう人たちが変な自信をまでもっちゃった。(柄谷行人蓮實重彦対談集『闘争のエチカ』1988年) |
21世紀という知的退行の世紀の批評家は多摩川の二軍選手どころじゃないよ、中学校のソフトボールやってるような批評家ばっかり目につくね。 おい、わかるか? ソフトボール系の批評家引用して、安吾についてなんたら言ってこないでほしいんだがね。 |