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2023年11月19日日曜日

神ならばゆららさららと降りたまへ


 ◼️"MA" The Beauty of Empty Space 日本の美意識・間 100の庭



◼️WABI - SABI 100 Gardens 侘寂・100の日本庭園



実に美しい動画だ、このYurara SararaさんのYouTubeチャネルには他にもあまたの映像作品があるが、上の二つの作品に流れる琴の音色自体も彼女のものだそうだ。

自己紹介文にこうある。


Yurara Sararaの由来について

神ならばゆららさららと降りたまへ
いかなる神かもの恥ぢはする


– 梁塵秘抄

日本の神様は、「気配」や「音」でやって来たことを知らせます。
「影向」や「音づれ」といった言葉で表現されることもあります。


この梁塵秘抄の歌をはじめて読んだ時、
まさに神の音づれを聞いたかのような衝撃がありました。

意味としては、

「神でしたら、ゆっくりゆっくりお降りくださいませ。いったい
 どんな神が恥ずかしがって降りるのをためらうのでしょうか。」

という意味となり、平安時代の巫女と神様の大らかなやりとりが感じられる歌です。


「ゆららさらら」という擬音語は魅惑的で美しく、その繊細な動きまで感じられます。

きっと、はっきりと目に見えたり、聞こえたりするようなものではないでしょう。
そういった、微細な「ゆらぎ」や「気配」を逃さずに表現したい。

「ゆららさらら」は Yurara Sarara の根底にあるコンセプトです。


…………


純日本的な美しさの最も高いものは庭である。庭にはその知恵をうずめ、教養を匿して上に土を置いて誰にもわからぬようにしている。遠州や夢窓国師なぞは庭の学者であった。そうでない名もない庭作りの市井人が刻苦して作ったような庭に、匿された教養がある。〔・・・〕

小さい庭に雑然と木を植え込んだ庭ほど緊張を失った生活を髣髴せしめるものはない、庭は日本の身だしなみであり、あそこにこそ、小さく貧しい庭であっても、日本の肌身がある。庭をつくるということは贅沢ではなく、生きた父とか母とかの歴史が、すぐ茶の間から見えるという、そんな親しさを身近に感じるとすれば、石一つ鳳仙花一本でも、その家の歴史を物語ってくれるものである。 


すこし凝った庭なら築地の塀だけを見ていてもいい、瓦と土の塀を見ていれば、雑庭風な妄念を去ることができる。しかしここまで行くには、人は死に近づいていることが意味される。人はその生涯において派手な庭をつくり、そしてやがて瓦と土とを終日見ていて、もはや石や灯籠も、花も見なくなったといえば、やっと一人前の庭つくりになったといえよう。庭も何も持っていない人で、いつも庭を頭でつくっているような人がいたら、その人は最後に垣根と土とを見ていて十分に満足するかも知れぬ。天下の名園を見つくした人にはもはや何もいらないはずであった。……

(室生犀星「日本の庭」1943(昭和18)年)



日本の庭は、日本人が作り出した芸術の中でも、もっとも大規模で、複雑で、美しい。その美しさは、歴史、様式の変遷、技術上の細部について知られているが、なぜ庭が美しいのか、なぜ古い庭が新しいか、日本的な美しさが普遍的な美しさに通じていることは知られていない。〔・・・〕

庭は、知性によって造られ、法則によって限定されているが、知性のみによっては造られず、法則の限定の内側に無限の可能性を持っている。だから、批評家は庭の持つ知性と法則の領域を超えることができないので、庭を評価することができない。庭は結果としてそこにあるだけである。ポオが言ったように「創造において燃焼する最も強い力は、その結果をもって計るほかない」のである。


日本の庭造りは、日本の自然の美しさを、その究極まで、自然の本質そのものの美しさまで究めねばならない。その極みにおいて、最も特殊な世界は最も普遍的な世界に通じる。そして、結果である庭を残し、我々に強い印象と感動を与えることに成功した。庭の部分部分について分析することは多くあるが、庭全体の本質として語るべきことは一つ、「庭は美しい」というしかない。(加藤周一「日本の庭」1950年





YuraraSararaさんの作品をみて想起したのは、上の二人の文よりもまず、薄田泣菫「木犀の香」の一節だった。

……晦堂は客の言が耳に入らなかつたもののやうに何とも答えなかつた。寺の境内はひつそりとしてゐて、あたりの木立を透してそよそよと吹き入る秋風の動きにつれて、冷々とした物の匂が、あけ放つた室々を腹這ふやうに流れて行つた。 


晦堂は静かに口を開いた。「木犀の匂をお聴きかの。」 山谷は答へた。山谷はそれを聞いて、老師が即答のあざやかさに心から感歎したといふことだ。 


ふと目に触れるか、鼻に感じるかした当座の事物を捉へて、難句の解釈に暗示を与へ、行詰つてゐる詩人の心境を打開して見せた老師の搏力には、さすがに感心させられるが、しかし、この場合一層つよく私の心を惹くのは、寺院の奥まつた一室に対座してゐる老僧と詩人との間を、煙のやうに脈々と流れて行つた木犀のかぐはしい呼吸で、その呼吸こそは、単に花樹の匂といふばかりでなく、また実に秋の高逸閑寂な心そのものより発散する香気として、この主客二人の思を浄め、興を深めたに相違ないといふことを忘れてはならぬ。……(薄田泣菫「木犀の香」)