「日本フロイトラカン派三馬鹿トリオを批判することの「はしたなさ」とか「精神分析的外傷論のダウンデート」とかでバカにしたところだけど、フロイトラカンプロパの学者でも次のような話をウンウン頷いて鼎談してんだから、そうでないセンセがとってもトンデテモしょうがないんだよ
◼️「来るべき精神分析のために 」(2009/05/29 岩波書店) 十川幸司/原 和之/立木康介 |
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立木康介)実はフロイトでも「死の欲動」が出てきたあと、抑圧の相対的な理論的重要性は減少していると思います。フロイトは例えば死の欲動の抑圧ということは言っていないのではないか。死の欲動については「抑圧」という言葉を使いにくいと思ったのか、そういう箇所は見たことがありません。自我が死の欲動から身を守る時には抑圧と異なるメカニズムが働く、とフロイトは考えていたのです。 |
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以下、これが全き誤謬なのをフロイトの三文を引用して示そう。 ①抑圧された欲動 |
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抑圧された欲動は、一次的な満足体験の反復を本質とする満足達成の努力をけっして放棄しない。あらゆる代理形成と反動形成と昇華は、欲動の止むことなき緊張を除くには不充分であり、見出された満足快感と求められたそれとの相違から、あらたな状況にとどまっているわけにゆかず、詩人の言葉にあるとおり、「束縛を排して休みなく前へと突き進む」(メフィストフェレスーー『ファウスト』第一部)のを余儀なくする動因が生ずる。 Der verdrängte Trieb gibt es nie auf, nach seiner vollen Befriedigung zu streben, die in der Wiederholung eines primären Befriedigungserlebnisses bestünde; alle Ersatz-, Reaktionsbildungen und Sublimierungen sind ungenügend, um seine anhaltende Spannung aufzuheben, und aus der Differenz zwischen der gefundenen und der geforderten Befriedigungslust ergibt sich das treibende Moment, welches bei keiner der hergestellten Situationen zu verharren gestattet, sondern nach des Dichters Worten »ungebändigt immer vorwärts dringt« (Mephisto im Faust, I, Studierzimmer) (フロイト『快原理の彼岸』第5章、1920年) |
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②リアルな欲動のマゾヒズム |
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欲動要求はリアルな何ものかである[Triebanspruch etwas Reales ist]〔・・・〕自我がひるむような満足を欲する欲動要求は、自己自身にむけられた破壊欲動としてマゾヒスム的であるだろう[Der Triebanspruch, vor dessen Befriedigung das Ich zurückschreckt, wäre dann der masochistische, der gegen die eigene Person gewendete Destruktionstrieb. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章「補足B 」1926年) |
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③マゾヒズムという死の欲動 |
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マゾヒズムはその目標として自己破壊をもっている。〔・・・〕そしてマゾヒズムはサディズムより古い。サディズムは外部に向けられた破壊欲動であり、攻撃性の特徴をもつ。或る量の原破壊欲動は内部に残存したままでありうる。 Masochismus …für die Existenz einer Strebung, welche die Selbstzerstörung zum Ziel hat. …daß der Masochismus älter ist als der Sadismus, der Sadismus aber ist nach außen gewendeter Destruktionstrieb, der damit den Charakter der Aggression erwirbt. Soundsoviel vom ursprünglichen Destruktionstrieb mag noch im Inneren verbleiben; 〔・・・〕 |
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我々が、欲動において自己破壊を認めるなら、この自己破壊欲動を死の欲動の顕れと見なしうる。それはどんな生の過程からも見逃しえない。 Erkennen wir in diesem Trieb die Selbstdestruktion unserer Annahme wieder, so dürfen wir diese als Ausdruck eines Todestriebes erfassen, der in keinem Lebensprozeß vermißt werden kann. (フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年) |
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以上、①②③より「抑圧された死の欲動」となるな、誰でも即座に知れるように。
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で、欲動つまり享楽は常に抑圧されているが必ず回帰がある。 |
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フロイトが措定したことは、欲動の動きはすべての影響から逃れることである。つまり享楽の抑圧・欲動の抑圧は、欲動要求を黙らせるには十分でない。それは自らを主張する。 ce que Freud pose quand il aperçoit que la motion de la pulsion échappe à toute influence, que le refoulement de la jouissance, le refoulement de la pulsion ne suffit pas à la faire taire, cette exigence. Comme il s'exprime : (J.-A. MILLER, Le Partenaire-Symptôme, 10/12/97) |
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ーーこのジャック=アラン・ミレールは①の「抑圧された欲動の反復」の言い換え。ここでの抑圧は厳密には第一次抑圧としての原抑圧だけれどね、
原抑圧(第一次抑圧)は欲動・固着・トラウマの抑圧であり、後期抑圧は、願望(欲望)・表象・思想の抑圧[参照]。
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ま、もうやめとくよ。こういったたぐいの無知はいくらでもあるんだ、立木とか十川とか原とかに限らず。最近の若いのもとってもひどいよ、というかますます知的退行してるのがほとんどのように見えるね