きみ、これってのはもう14年前の鼎談だよ、いまさら取り上げて馬鹿にするのは「はしたない」気分に襲われちまうな。文化の側に立って文化的とも呼びがたい連中を批判すること自体、その疑似文化をとりあえず既成の文化と見立ててしまうことになるから。本来なら連中など存在しないかのごとく振舞うべきなんだがな。以下、そのはしたなさを耐え忍んでジャブ程度に返答させて頂く。
◼️「来るべき精神分析のために 」(2009/05/29 岩波書店) 十川幸司/原 和之/立木康介 |
立木)抑圧ということで言えば、そもそもラカンには抑圧についての固有の理論が存在しません。〔・・・〕 ラカンの理論で現実界の問題がいっせいに出てくるとき、抑圧の概念は事実上ほぼ打ち捨てられたようにさえ見えます。 |
ぼくは昔ツイッターで松本卓也くんの紹介でこの鼎談がネットに落ちているのを知ったのだけれどね、まずは彼にきいてみろよ、この立木康介 ーー現在は日本ラカン協会理事長に「出世」してるらしいがーーの発言をどう取り扱うべきか。この鼎談は立木康介だけでなく十川幸司も原和之も呆れ返るほど誤謬だらけで、日本フロイトラカン派三馬鹿トリオと私はひそかに命名していたものだが、最近は少しはマトモになってんのかね、サアッテと。➡︎「興味深い十川幸司と立木康介のコンビ」
ラカンの現実界は、フロイトの無意識の核であり、固着のために置き残される原抑圧である。「置き残される」が意味するのは、表象への・言語への移行がなされないことである。 The Lacanian Real is Freud's nucleus of the unconscious, the primal repressed which stays behind because of a kind of fixation . "Staying behind" means: not transferred into signifiers, into language(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, BEYOND GENDER, 2001年) |
後期ラカンにとって、症状は「身体の出来事」として定義される〔・・・〕。症状は現実界に直面する。シニフィアンと欲望に汚染されていないリアルな症状である。…症状を読むことは、症状を原形式に還元することである。この原形式は、身体とシニフィアンとのあいだの物質的遭遇にある〔・・・〕。これはまさに主体の起源であり、書かれることを止めない。--《現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire)(ラカン, S 25, 10 Janvier 1978)ーー。我々は「フロイトの原抑圧の時代[the era of the ‘Ur' – Freud's Urverdrängung])にいるのである。ジャック=アラン・ミレール はこの「原初の身体の出来事」とフロイトの「固着」を結びつけている。フロイトにとって固着は抑圧の根である。固着はトラウマの審級にある。それはトラウマの刻印ーー心的装置における過剰なエネルギーの瞬間の刻印--であり、欲動要求の回帰が生じる。 Lacan's late teaching, where the symptom is defined as a body event…; the symptom has a face of the real, beyond the defiles of the signifier and of desire, …to read a symptom is to reduce it to its primal formula, to the material encounter between the body and a signifier …This is the very origin of the subject, which does not cease repeating itself. This brings us to the era of the ‘Ur’ – Freud’s Urverdrängung. … Miller makes between this primal body event and what Freud calls fixation. For Freud, fixation is at the root of repression. It is a registration of a trauma – a moment of too much energy in the psychic apparatus - to which there is an exigency of the drive to return.(Anne Lysy, Report on the Preparatory Seminar Towards the 10th NLS Congress "Reading a Symptom", 2012) |
ラカン自身の発言の一部は、「「対象aは固着点」が意味すること」を参照されたし。あるいは「原抑圧された対象a」を。とくに後者で示しているのは、現実界に関わる多くのラカンジャーゴンーーリアルな対象a、現実界の主体、現実界の症状サントーム等々ーーは事実上、フロイトの原抑圧の言い換えということであり、この意味で、立木くんの《ラカンの理論で現実界の問題がいっせいに出てくるとき、抑圧の概念は事実上ほぼ打ち捨てられたようにさえ見えます》というのはとっても恥ずかしい発言という以外言いようがない。 追記: さらにには➡︎「精神分析的外傷論のダウンデート」 ……………… |
最後に、ふたたび「より純度の高い傲慢さを身にまとって自堕落に共有された傲慢さを撃つ」に戻って言えば、より純度の高い傲慢さを身にまとうのは疲れるんだよ、私がその傲慢さによって人を撃てるのはデカルトの20年ほどではないにしろ10年近くは吟味したフロイトラカンの「現実界としての原抑圧(固着)」とドゥルーズの「反復の原理としての原抑圧(固着)」だけだね、➡︎「どしてドゥルーズ研究者を馬鹿にせずにいられるってわけかい?」 |
人が二十年もかかって考えたことのすべてを、それについて二つ三つのことばを聞くだけで、一日でわかると思いこむ人々、しかも鋭くすばやい人であればあるほど誤りやすく、真理をとらえそこねることが多いと思われる。(デカルト『方法序説』) |