「不快さに対する闘い」で、上の二項対立を示したところで、ニーチェの「快と不快」を掲げておこう。
①快と不快とは一本の綱でつながれている |
学問の目標について なんだって? 学問の究極の目標は、人間に出来るだけ多くの快と出来るだけ少ない不快をつくりだしてやることだって? ところで、もし快と不快とが一本の綱でつながれていて、出来るだけ多く一方のものを持とうと欲する者は、また出来るだけ多く他方のものをも持たざるをえないとしたら、どうか? Vom Ziele der Wissenschaft. ― Wie? Das letzte Ziel der Wissenschaft sei, dem Menschen möglichst viel Lust und möglichst wenig Unlust zu schaffen? Wie, wenn nun Lust und Unlust so mit einem Stricke zusammengeknüpft wären, dass, wer möglichst viel von der einen haben will, auch möglichst viel von der andern haben muss,(ニーチェ『悦ばしき知識』12番、1882年) |
②意志にとっての快と不快の表象の必要性 |
第一、意志がおこるためには快と不快の表象が必要である。第二、一つの烈しい刺戟が快もしくは不快として感じられるということは、解釈する知性の業である。もちろんその際に知性はおおむねわれわれに無意識的に働く。第三、快・不快および意志があるのは知的存在者にかぎられる。有機体の多くのものは、そうしたものを全然もっていない。erstens, damit Wille entstehe, ist eine Vorstellung von Lust und Unlust nöthig. Zweitens: dass ein heftiger Reiz als Lust oder Unlust empfunden werde, das ist die Sache des interpretirenden Intellects, der freilich zumeist dabei uns unbewusst arbeitet; und ein und derselbe Reiz kann als Lust oder Unlust interpretirt werden. Drittens: nur bei den intellectuellen Wesen giebt es Lust, Unlust und Wille; die ungeheure Mehrzahl der Organismen hat Nichts davon. (ニーチェ『悦ばしき知識』第127番、1882年) |
③不快は力への意志の刺激剤 |
人間は快 Lust をもとめるのではなく、また不快 Unlust をさけるのではない。私がこう主張することで反駁しているのがいかなる著名な先入見であるかは、おわかりのことであろう。 快と不快 Lust und Unlust とは、たんなる結果、たんなる随伴現象である、──人間が欲するもの、生命ある有機体のあらゆる最小部分も欲するもの、それは《力の増大 Plus von Macht》である。 この増大をもとめる努力のうちで、快も生ずれば不快も生ずる。あの意志から人間は抵抗を探しもとめ、人間は対抗する何ものかを必要とする──それゆえ不快は、おのれの力への意志 Willens zur Macht を阻止するものとして、一つの正常な事実、あらゆる有機的生起の正常な要素である。 人間は不快をさけるのではなく、むしろそれを不断に必要とする。あらゆる勝利、あらゆる快感、あらゆる生起は、克服された抵抗を前提しているのである。 不快は、《私たちの力の感情の低減 》を必然的に結果せしめるものではなく、むしろ、一般の場合においては、まさしく刺戟としてこの力の感情へとはたらきかける、──阻害はこの力への意志の《刺戟剤》なのである。 Die Unlust hat also so wenig nothwendig eine Verminderung unsres Machtgefühls zur Folge, daß, in durchschnittlichen Fällen, sie gerade als Reiz auf dieses Machtgefühl wirkt, – das Hemmniß ist der stimulus dieses Willens zur Macht. (ニーチェ『力への意志』第702番、1888年) |
④力への意志という欲動 |
力への意志は、原情動形式であり、その他の情動は単にその発現形態である。Daß der Wille zur Macht die primitive Affekt-Form ist, daß alle anderen Affekte nur seine Ausgestaltungen sind: … すべての欲動力(すべての駆り立てる力 alle treibende Kraft)は力への意志であり、それ以外にどんな身体的力、力動的力、心的力もない。Daß alle treibende Kraft Wille zur Macht ist, das es keine physische, dynamische oder psychische Kraft außerdem giebt... (ニーチェ「力への意志」遺稿 Kapitel 4, Anfang 1888) |
私は、ギリシャ人たちの最も強い本能、力への意志[stärksten Instinkt, den Willen zur Macht]を見てとり、彼らがこの「欲動の飼い馴らされていない暴力 [unbändigen Gewalt dieses Triebs]に戦慄するのを見てとった。Ich sah ihren stärksten Instinkt, den Willen zur Macht, ich sah sie zittern vor der unbändigen Gewalt dieses Triebs (ニーチェ「私が古人に負うところのもの」第3節『偶然の黄昏』所収、1888) |
これらの記述から、ニーチェにおいて不快は欲動の刺激剤ということになる。
ニーチェの熱心で密かな読者だったフロイトもほとんど同様なことを書いている。
厳密な意味での幸福は、むしろ相当量になるまで堰きとめられていた欲求が急に満足させられるところに生れるもので、その性質上、挿話的な現象としてしか存在しえない。快原理が切望している状態も、それが継続するとなると、きまって、気の抜けた快しか与えられないのである。人間の心理構造そのものが、状態というものからはたいした快は与えられず、コントラストによってしか強烈な快を味わえないように作られている。 Was man im strengsten Sinne Glück heißt, entspringt der eher plötzlichen Befriedigung hoch aufgestauter Bedürfnisse und ist seiner Natur nach nur als episodisches Phänomen möglich. Jede Fortdauer einer vom Lustprinzip ersehnten Situation ergibt nur ein Gefühl von lauem Behagen; wir sind so eingerichtet, daß wir nur den Kontrast intensiv genießen können, den Zustand nur sehr wenig.(フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』第2章、1930年) |
荒々しい、自我によって飼い馴らされていない欲動蠢動を満足させたことから生じる幸福感は、家畜化された欲動を満たしたのとは比較にならぬほど強烈である[Das Glücksgefühl bei Befriedigung einer wilden, vom Ich ungebändigten Triebregung ist unvergleichlich intensiver als das bei Sättigung eines gezähmten Triebes.] (フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』第2章、1930年) |
ニーチェに戻れば、この不快が刺激剤となる「力への意志なる欲動」が、彼にとってすべての学問の女王である。 |
これまで全ての心理学は、道徳的偏見と恐怖に囚われていた。心理学は敢えて深淵に踏み込まなかったのである。生物的形態学と力への意志[Willens zur Macht]の展開の教義としての心理学を把握すること。それが私の為したことである。誰もかつてこれに近づかず、思慮外でさえあったことを。〔・・・〕 心理学者は少なくとも要求せねばならない。心理学をふたたび「諸科学の女王」として承認することを[die Psychologie wieder als Herrin der Wissenschaften anerkannt werde]。残りの人間学は、心理学の下僕であり心理学を準備するためにある。なぜなら,心理学はいまやあらためて根本的諸問題への道だからである。(ニーチェ『善悪の彼岸』第23番、1886年) |
この世界は、力への意志であり、それ以外の何ものでもない! そしてあなた自身もまた力への意志であり、それ以外の何ものでもない![- Diese Welt ist der Wille zur Macht - und nichts außerdem! Und auch ihr selber seid dieser Wille zur Macht - und nichts außerdem! ](ニーチェ「力への意志」草稿IN Ende 1886- Frühjahr 1887: KSA 11/610-611 (WM 1067)) |
※附記 政治的領域のリアリズムにおいて、ケネス・ウォルツの防御的リアリズム、ジョン・ミアシャイマーの攻撃的リアリズムの底にあるのはハンス・モーゲンソーの人間本性リアリズムだが、モーゲンソーはニーチェの「力への意志」という表現を使いつつ、次のように記している。 |
単なる利己主義は譲歩によって鎮められるが、ある要求の満足は、力への意志[the will to power]を刺激し、その要求はますます拡大する。 力への渇き[lust for power]の無制限な性質は、人間の心の一般的な性質を明らかにしている。ウィリアム・ブレイクはこのことを次のように書いている、《「もっと!もっと!」それは誤った魂の叫びである、人間を満足させることはできない》。この無限の、常に満たされることのない欲望は、可能な対象が尽きたときに初めて安らぎを得るものであり、アニムス・ドミナンディ[animus dominandi](支配リビドー)は、宇宙との一体化を求める神秘的な欲望、ドン・ファンの愛、ファウストの知識欲と同じ種類のものである。これらの試みは、超越的な目標に向かって個人の自然的限界を押し広げようとするものであるが、この超越的な目標、休息地点に到達するのは想像の中だけで、現実には決して到達しないという点でも共通している。アレクサンダーからヒトラーに至るすべての世界征服者の運命が証明しているように、またイカロス、ドン・ファン、ファウストの伝説が象徴的に示しているように、実際の経験においてそれを実現しようとする試みは、常にそれを試みる個人の破滅によって終わる。 |
…mere selfishness can be appeased by concessions while satisfaction of one demand will stimulate the will to power to ever expanding claims. This limitless character of the lust for power reveals a general quality of the human mind. William Blake refers to it when he writes: '" More! More!' is the cry of a mistaken soul: less than all cannot satisfy man." In this limitless and ever unstilled desire which comes to rest only with the exhaution of its possible objects, the animus dominandi is of the same kind as the mystical desire for union with the universe, the love of Don Juan, Faust's thirst for knowledge. These four attempts at pushing the individual beyond his natural limits towards a transcendent goal have also in common that this transcendent goal, this resting-point, is reached only in the imagination but never in reality. The attempt at realizing it in actual experience ends always with the destruction of the individual attempting it, as tIle fate of all world-conquerors from Alexander to Hitler proves and as the legends of Icarus, Don Juan, and Faust symbolically illustrate. |
(ハンス・モーゲンソー『科学的人間対権力政治』Hans Morgenthau, Scientific Man versus Power Politics, 1946年) |
《力への意志》あるいは《力への渇き》を《実現しようとする試みは常にそれを試みる個人の破滅によって終わる》とあるが、これ自体、次のニーチェに相当する。
欲動は「悦への渇き、生成への渇き、力への渇き」である[die Triebe …: "der Durst nach Lüsten, der Durst nach Werden, der Durst nach Macht"](ニーチェ「力への意志」遺稿第223番、1882 - Frühjahr 1887) |
より深い本能としての破壊への意志、自己破壊の本能、無への意志[der Wille zur Zerstörung als Wille eines noch tieferen Instinkts, des Instinkts der Selbstzerstörung, des Willens ins Nichts](ニーチェ遺稿、den 10. Juni 1887) |
モーゲンソーはニーチェをよく読んでいたことが明らかである。 フロイトからも一文抜き出しておこう。 |
私の見るところ、人類の宿命的課題は、人間の攻撃欲動ならびに自己破壊欲動[Aggressions- und Selbstvernichtungstrieb]による共同生活の妨害を文化の発展によって抑えうるか、またどの程度まで抑えうるかだと思われる。この点、現代という時代こそは特別興味のある時代であろう。いまや人類は、自然力の征服の点で大きな進歩をとげ、自然力の助けを借りればたがいに最後の一人まで殺し合うことが容易である[Die Menschen haben es jetzt in der Beherrschung der Naturkräfte so weit gebracht, daß sie es mit deren Hilfe leicht haben, einander bis auf den letzten Mann auszurotten.]。現代人の焦燥・不幸・不安のかなりの部分は、われわれがこのことを知っていることから生じている。(フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第8章、1930年) |
なおミアシャイマーによる各リアリズムの区分は次の通り。