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2024年1月10日水曜日

不快さに対する闘い(蓮實重彦=フーコー)

 

加藤周一の「なんのために」知りたいのかという問いは、蓮實=フーコー曰くの「不快のため」だろうよ、何よりもまず。あるいは柄谷のいう正義という道徳のためではなく、「倫理のため」だ。


柄谷)……たとえば、ポスト・モダニズムについてのリオタールの考えは、非常に荒っぽくいえば、「大きな物語」が死んだ、ということですけれども、そもそもキリスト教も仏教も「大きな物語」ですね。しかし、本来それは物語を解体するものだったはずです。 しかし、それは、物語を回復することで生きのびたし広がったのです。つまり、それは共同体の物語を再組織したわけです。共同体の道徳、善悪の区別を再建したといってもいい。

つまり、そこで働いているのは、共同体の要求ですね。 共同体は少しも死んでいない。抑圧されるのは、いつも"社会的"なものの方だった。アメリカがポスト・モダン倫理のため的だといっても、今一番強いのはキリスト教ですよ。つまり共同体の道徳の再建ということです。念のためにいうと、道徳は「共同体的」であり、倫理は「社会的」であると区別すべきです。


たとえば、マルクスは「"人間"とは社会的諸関係の総体である」といっているけど、総体ということを全体性だと考えてしまうと、これは"人間"(フォイエルバッハ)とか"精神"(ヘーゲル)というのと同じことでしょう。社会的諸関係の総体というときに、大切なのは"社会的"ということであって、けっして全体化できないということだと思うんですね。全体化すると、精神とか人間とかいうものになる。だから、マルクスのあの言い方は、全体性としての人間、精神、あるいはそういったものが成立しないという宣言だと思うんです。マルクス主義はそれを全体性にしてしまった。コミュニズムは"社会主義"ではなくて、〝共同体主義"(コミュナリズム)になってしまった。いつも共同体が勝ってきたわけです。だから「物語」は死んではいないわけですよ。相変わらず全体性は生きのびていると思う。 「人間は死んだ」、「大きな物語は死んだ」といっても、そのことはある意味でイエスや仏陀から言われてきていることであり、しかもいつも彼らの名を冠して生きのびてきているわけです。だから、そういうスローガンや宣告はもういいのです。そんなことはわかっているのですから。


そうすると、問題は、それがどう生きられるかというレベルになってくる。たとえば、ニーチェは『反キリスト』のなかで、「イエスのように生きたキリスト教徒は一人もいなかった」といっています。それがニーチェの本音だと思いますね。フーコーだってそうですよ。今パウロのような人物がいれば、フーコーは、エイズという十字架にかかって死んだのだ、彼はキリストだったのだと言いうるでしょう。ある意味で、エイズは世紀末を象徴する病ですからね。しかし、そんなことはフーコーに関係ないし、イエスも関係はない。しかし、彼らがもうスローガンにはならないようなことを語った、というより生きたということは明瞭です。


蓮實)僕にとってのフーコーの偉大さは、彼が知識人でありながら、生涯を通じて、何ひとつ指針らしいものを残さなかったことに尽きています。共同体に受け容れられるような行動の方針は一つも示さなかった。ただし、一貫して一つの闘争を戦いぬいていたのであり、そのことが指針といえばいえるかもしれない。それは何かというと、彼の戦いが、不快なものをめぐって、ただその一点をめぐって展開されたという点です。彼は、社会的な不正に対して正義の立場から戦ったのではない。ましてや、社会的な不正に対して戦う義務感など持っていなかった。僕の驚きは、正しくないことに対して批判を加えるべきだという知識人的な郷愁の徹底した不在です。たとえば、それをサルトルと比較してみれば明らかでしょう。サルトルの倫理は、彼の正義の理念と切り離しえない。


不快さに対するフーコー的な戦いというのはまったく理不尽なものです。彼は、監禁という状態が不快であるからこれを論じ、これと戦う。不正に対して正義の反抗を試みているわけじゃあない。だから、フーコーを論じる日本人の多くが、彼の社会的な行動に一つの指針を見ているけど、そんな愚かな話はない。彼のコメニイ擁護(ホメイニ擁護:引用者)なんて理不尽そのものでしょう。しかし、あれはまったく政治的なものではなく、快=不快の原理だけの問題なのです。だから、それを全体化するとまったく役に立たない。その意味じゃあ、フーコーは知識人的ではないわけです。


僕が一番好きなフーコーの書物は『知の考古学』だけど、あれは徹底した不快さへの戦いですよね。言説という現実をめぐって世間一般に行きわたっている無感覚に対する不快感の表明以外の何ものでもない。またそうした不快感なしに何ごとかを論じうる人々への不快感の表明でもあるでしょう。フーコーの倫理は、その不快さに対する戦いからくるから、理不尽であり、無責任である。つまり全体化された理論には絶対にならない。そのかわり、柄谷さんのいう「生きながらの積極性」といったものが言葉にみなぎるわけです。フーコーを論じる日本人の言葉に、この不快さに対する戦いが見えますか。感じられないでしょう。それは、不快さに対する戦いを不正に対する戦いに利用しようとするさもしい根性が働いているからです。だから、フーコーの倫理を素通りしてしまうのだし、そのことで自分が何を失っているかにも無自覚なのです。不快さに対する戦いの倫理性は理不尽でありながらも自分を実験台にするという積極性を持っている。(柄谷行人-蓮實重彦対談集『闘争のエチカ』P195-1971988年)



この蓮實の言ってることは「正義のため」を前面に押し出す巷間の「凡庸な知識人」徹底批判でもあるだろうよ。


そして柄谷の言っていることは「抑圧された社会的なものが共同体的なものとして回帰する」ーーあるいは「抑圧された倫理性が道徳性として回帰する」ーーと言い換えうるだろう。これはフロイトの次の文とともに読むことができる。



症状形成の全ての現象は「抑圧されたものの回帰」として正しく記しうる。だが、それらの際立った特徴は、原初の出来事と比較して、回帰したものが広範囲にわたる歪曲を受けていることである。

Alle Phänomene der Symptombildung können mit gutem Recht als »Wiederkehr des Verdrängten« beschrieben werden. Ihr auszeichnender Charakter ist aber die weitgehende Entstellung, die das Wiederkehrende im Vergleich zum Ursprünglichen erfahren hat.(フロイト『モーセと一神教』3.2.6、1939年)


歪曲、すなわち代理満足。

症状は妥協の結果であり代理満足だが、自我の抵抗によって歪曲され、その目標から逸脱している。die Symptome, die also Kompromißergebnisse waren, zwar Ersatzbefriedigungen, aber doch entstellt und von ihrem Ziele abgelenkt durch den Widerstand des Ichs. (フロイト『自己を語る』第3章、1925年)


つまり倫理の代理満足が道徳だ。闘争のエチカとはこの代理満足に耽っている連中との闘いだ、すなわち《不快さに対する戦いを不正に対する戦いに利用しようとするさもしい根性が働いている》に対する闘い。



これは、個別的な一般性に対する単独的な普遍性の擁護でもあるだろう。

ここで私は混乱を避けるために言葉を定義することにしよう。まず一般性と普遍性を区別する。これらはほとんどつねに混同されている。したがって、個別性ー一般性という対と、単独性ー普遍性という対を区別しなければならない、ドゥルーズは、キルケゴールの「反復」に関してこう述べている。《わたしたちは、個別的なものに関する一般性であるかぎりの一般性と、単独的なものに関する普遍性としての反復とを対立したものとみなす》On oppose donc la généralité, comme une généralité du particulier, et la répétition comme universalité du singulier.(『差異と反復』)。ドゥルーズは、個別性と一般性の結合は媒介あるいは運動を必要とするのに対して、単独性と普遍性の結合は直接(無媒介)的であるといっている。これは別の言い方でいえば、個別性と一般性は、特殊性によって媒介されるが、後者はそうではないということである。(柄谷行人『トランスクリティーク』p156、2001年)







※附記


私が好んでしばしば引用してきた蓮實の発言がある。

蓮實)僕がやっている批評のほとんどは無駄に近い列挙なんです。〔・・・〕ところがいまの若い人たちは列挙しないんですね。非常に優雅に自分の言葉に置き換えちゃっている。〔・・・〕僕の無駄というのは、その無謀な列挙にある。なぜ列挙するかというと、列挙することそのものがかろうじて根拠たりうるようなものしか論じないからです。〔・・・〕


流通するのは、いつも要約のほうなんです。書物そのものは絶対に流通しない。ダーヴィンにしろマルクスにしろ、要約で流通しているにすぎません。要約というのは、共同体が容認する物語への翻訳ですよね。つまり、イメージのある差異に置き換えることです。これを僕は凡庸化というのだけれど、そこで、批評の可能性が消えてしまう。主義者が生まれるのは、そのためでしょう。書物というのは、流通しないけど反復される。ドゥルーズ的な意味での反復ですよね。そして要約そのものはその反復をいたるところで抑圧する。批評は、この抑圧への闘争でなければならない。(蓮實重彦-柄谷行人対談集『闘争のエチカ』1988年)


闘争のエチカとは卑近な例であれば、この、巷間に跳梁跋扈する共同体が容認する物語への優雅な翻訳=要約というさもしい根性が働いている連中に対する闘いでもある。私が日本フロイト派あるいはラカン派を血祭りにあげたくなる誘惑に駆られるときは、ほとんどの場合、このエチカに基づいている。それはドゥルーズ研究者に対しても同様。連中は、先に引用した単独性[singulière]、この根にあるのがフロイトの原抑圧=固着であり、反復の原理であることをいまだ正面から受け止める気配がまったくない。


ドゥルーズは『差異と反復』の序章で既に《反復は一般性の特質とは異なる単独性の力に属する[la répétition renvoie à une puissance singulière qui diffère en nature de la généralité]》(『差異と反復』「序章」1968年)としつつ、反復の原理としての原抑圧を強調しているにもかかわらず。


フロイトが、表象にかかわる「正式の」抑圧の彼岸に、「原抑圧」の想定の必然性を示すときーー原抑圧とは、なりよりもまず純粋現前、あるいは欲動が必然的に生かされる仕方にかかわるーー、我々は、フロイトは反復のポジティヴな内的原理に最も接近していると信じる。

Car  lorsque Freud, au-delà du refoulement « proprement dit » qui  porte sur des représentations, montre la nécessité de poser un  refoulement originaire, concernant d'abord des présentations  pures, ou la manière dont les pulsions sont nécessairement  vécues, nous croyons qu'il s'approche au maximum d'une raison  positive interne de la répétition(ドゥルーズ『差異と反復』「序章」1968年)