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2024年9月29日日曜日

まったくもって真のフェティシストは生き辛い

 

ドゥルーズは、死の2年前、次の著作は『マルクスの偉大さ(Grandeur de Marx)』となると言って、何も書かずに飛び降り自殺してしまった。


マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できない。マルクスは終わったなどと聞く時はなおさらだ。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することである。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければならない。


Je ne comprends pas ce que les gens veulent dire quand ils prétendent que Marx s'est trompé. Et encore moins quand on dit que Marx est mort. Il y a des tâches urgentes aujourd'hui: il nous faut analyser ce qu'est le marché mondial, quelles sont ses transformations. Et pour ça, il faut passer par Marx:

次の著作はーーこれが最後になるだろうがーー『マルクスの偉大さ』というタイトルになるだろう。私はもう書く気がしない。 マルクスに関する本を終えたら、筆を置くつもりでいる。そして絵を描き始めるつもりだ。

LIVRE Mon prochain livre - et ce sera le dernier - s'appellera « Grandeur de Marx ».

PEINDRE Aujourd'hui, je n'ai plus envie d'écrire. Après mon livre sur Marx, je crois que

j'envisagerai d'arrêter d'écrire. A ce moment-là, je me mettrai à peindre.

(ドゥルーズ「思い出すこと」死の2年前のインタビュー、Gilles Deleuze, LE «JE ME SOUVIENS »、1993年



で、「マルクスの偉大さ」って何だろうね、柄谷はフェティッシュだと言っているがね。



◾️マルクスの周縁に見た可能性の中心:私の謎 柄谷行人回想録⑫ 2024.02.20

――「マルクスその可能性の中心」では、マルクスの価値形態論について論じていますね。


柄谷 僕が宇野派から学んだマルクスの価値形態論は、商品同士の交換関係から考えて貨幣が出現する過程を明らかにしたものです。いったん貨幣が出現すると、あらゆるものが貨幣価値で表現されうるようになって、商品がもともと“価値”を孕んでいたかのような錯覚が起こる。しかし、商品に価値が内在しているわけではない。価値は、あくまで異なる価値体系の間での交換を通じて生じるから。


――たしかに、場所や時代によって同じ商品でも値段は変わりますね。


柄谷 産業資本でも商人資本でも、利益を生み出すのは、価値体系の違いです。商品は、異なる価値体系の間で交換されることを通じて、価値・利益を生む。逆にいうと、交換が成立しなければ、商品に価値はない。マルクスの偉大さは、みんなが当たり前だと思っている“商品”というものの、“奇怪さ”に驚いた、ということですね。


――柄谷さんはマルクスの驚きについて、「商品は一見すれば、生産物でありさまざまな使用価値であるが、よくみるならば、それは人間の意志をこえて動きだし人間を拘束する一つの観念形態である」と書いています。


柄谷 商品の謎を突き詰めて考えていくと、商品が持つ物神(フェティッシュ)の力というところに行き着きます。いま僕が考えている交換様式でいえば、C(商品交換)の力ですよね。結局、いまだにその頃と同じことをやっているようなものなんだ。価値形態論について考えたことが、交換様式論に化けた(笑)。


《“交換様式”は、柄谷さんが社会のシステムを交換から見ることで編み出した独自の概念。A=贈与と返礼の互酬、B=支配と保護による略取と再分配、C=貨幣と商品による商品交換。Dは、Aを高次元で回復したもので、自由と平等を担保した未来社会の原理として掲げられている》


柄谷 そして、もっと言ってしまえば、マルクスの“可能性の中心”は、交換様式A、B、Cを超えた“交換様式D”の問題だったんだと、いまは思う。



自慢じゃないが、蚊居肢子は根源的フェティシストなんだが、なぜか誰も偉大だとは言ってくれないんだがね。やっぱり巷間の連中は、「みんなが当たり前だと思っている“フェティッシュ”というものの、“奇怪さ”に驚く」能力がないせいだろうかね?


カイエブログなんてのは、ロラン・バルトの云うフェティッシュの至高の具現化なんだがな、



人は、読書の快楽[plaisirs de lecture]のーーあるいは、快楽の読書[lecteurs de plaisir]のーー類型学を想像することができる。


それは社会学的な類型学ではないだろう。なぜなら、快楽は生産物にも生産にも属していないからである。それは精神分析的でしかあり得ず、読書の神経症[la névrose lectrice]とテキストの幻覚形式[la forme hallucinée du texte]との関係を結びつけるだろう。


フェティシストは、切り取られたテクストに、引用や慣用語や活字の細分化に、単語の快楽に向いているだろう。Le fétichiste s'accorderait au texte découpé, au morcellement des citations, des formules, des frappes, au plaisir du mot.


強迫神経症者は、文字や、入れ子細工状になった二次言語や、メタ言語に対する官能を抱くだろう(この部類には、すべての言語マニア、言語学者、記号論者、文献学者、すなわち、言語活動がつきまとうすべての者が入るだろう)。

L'obsessionnel aurait la volupté de la lettre, des langages seconds, décrochés, des métalangages (cette classe réunirait tous les logophiles, linguistes, sémioticiens, philologues : tous ceux pour qui le langage revient). 


パラノイアは、ねじれたテクスト、理屈として展開された物語、遊びとして示された構成、秘密の束縛を、消費し、あるいは、生産するだろう。Le paranoïaque consommerait ou produirait des textes retors, des histoires développées comme des raisonnements, des constructions posées comme des jeux, des contraintes secrètes.

(強迫症者とは正反対の)ヒステリー症者は、テクストを現金として考える者、言語活動の、根拠のない、真実味を欠いた喜劇に加わる者、もはやいかなる批評的視線の主体でもなく、テクスト越しに身を投げる(テクストに身を投影するのとは全く違う)者といえるであろう。Quant à l'hystérique (si contraire à l'obsessionnel), il serait celui qui prend le texte pour de l'argent comptant, qui entre dans la comédie sans fond, sans vérité, du langage, qui n'est plus le sujet d'aucun regard critique et se jette à travers le texte (ce qui est tout autre chose que de s'y projeter). (ロラン・バルト『テキストの快楽』1973年)


世間には強迫神経症者やヒステリー、パラノイアがほとんどだからヤムエナイにしろさ。で、こうやって引用すると連中は、マルクスとバルトの言うフェティッシュはまったく違うものだよ、という「寝言」を言ってくるんだよな。まったくもって真のフェティシストは生き辛いよ。



ところで、先のドゥルーズは「マルクスに関する本を終えたら、絵を描き始めるつもりだ」と言ってるな。蚊居肢散人もそろそろ絵を描くことに専念する時期かもね。



まだ目はなんとか見えるからな、

この年になって、もっとしっかり女性器を見ておくんだった、と後悔している。目もだいぶみえなくなってきたが、女性器の細密画をできるだけ描いてから死にたい。(金子光晴、79歳 死の前年ーー吉行淳之介対談集『やわらかい話』より)


ーー《フェティッシュは女性のファルス(母のファルス)の代理物である[der Fetisch ist der Ersatz für den Phallus des Weibes (der Mutter) ]》(フロイト『フェティシズム』1927年)


女性のファルスは無だよ、貨幣が無であるのと同様。


貨幣とは、まさに「無」の記号としてその「存在」をはじめたのである。(岩井克人『貨幣論』第三章 貨幣系譜論   25節「貨幣の系譜と記号論批判」1993年)

単一体系で考える限り、貨幣は体系に体系性を与える 「無」にすぎない。しかし、異なる価値体系があるとき、貨幣はその間での交換から剰余価値を得る資本に転化するのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第3章「価値形態と剰余価値」2001年)


で、この無を覆うもの、穴埋めするものが剰余価値=フェティッシュにほかないらない。さらに「貨幣は言語だよ、で言語はフェティッシュだ」。これが先のバルトが言っている内実だ。


で、無の別名はブラックホールだ、《ジイドを不安で満たして止まなかったものは、女の形態の光景の顕現、女のヴェールが落ちて、ブラックホールのみを見させる光景の顕現である[toujours le désolera de son angoisse l'apparition sur la scène d'une forme de femme qui, son voile tombé, ne laisse voir qu'un trou noir ]》(Lacan, JEUNESSE DE GIDE, E750, 1958 )。ほかにもいろんな言い方はあるがね、ヘーゲルの《至聖所[Heilige]》とか、デュラスの《黒い夜[la nuit noire]》とか。



何はともあれ、死ぬ前には、真理への意志の在処を十全に確認しとかないとな、

真理への意志ーーそれは隠された死への意志でありうる[Wille zur Wahrheit“ ― das könnte ein versteckter Wille zum Tode sein](ニーチェ『 悦ばしき知』第344番、1882年)

おそらく真理とは、その根底を窺わせない根を持つ女なるものではないか?恐らくその名は、ギリシア語で言うと、バウボ[Baubo]というのではないか?…

Vielleicht ist die Wahrheit ein Weib, das Gründe hat, ihre Gründe nicht sehn zu lassen? Vielleicht ist ihr Name, griechisch zu reden, Baubo?... (ニーチェ『悦ばしき知』「序」第2版、1887年)


人には、出生とともに、放棄された子宮内生活へ戻ろうとする欲動、母胎回帰がある[Man kann mit Recht sagen, mit der Geburt ist ein Trieb entstanden, zum aufgegebenen Intrauterinleben zurückzukehren, (…)  eine solche Rückkehr in den Mutterleib.] (フロイト『精神分析概説』第5章、1939年)

母胎回帰としての死[Tod als Rückkehr in den Mutterleib ](フロイト『新精神分析入門』第29講, 1933年)


若いキミたちもけっして侮ったらダメだよ、核戦争による人類滅亡の可能性が赤裸々に露顕しているこの際、バウボへの意志を徹底的に追求すべきこの今かもよ。