ははあ、キミは泉房穂ファンなのか。「みなさん、せいぜい財務省解体運動に励んでクダサイ!」で記したところだが、彼は典型的な衆愚向けのポピュリストだよ、少なくとも国民負担率について何もわかっていない。このブログ裏の資料置き場に5年前に記した「あなたは国民負担率をどうしたいのですか?」を引用しつつ泉房穂に触れている人がいたので、まったく関心がなかった彼の言動をいくらか観察してみたことがあるのだがね、
あらゆる意味で「最低限の知」はこういうデマゴーグから逃れることだよ。
古井由吉)デマゴギーというのは僕らにとっての宿命というくらいに僕は思ってるんです。つまりデモクラシーという社会を選んだんだ。それには付き物なんですよ。有効な発言もデマゴギーぎりぎりのところでなされるわけでしょう。 そうすると、デマゴギーか有効な発言かを見分けるのは、こっちにかかってくるんだけれど、これはなかなか難しい。つまり、だれのためかっていうことだ。マスのためだとしたらデマゴギーは有効なんですね。デマゴギーはその先のことなんて考えないからね。 それにしても、政治家もオピニオンリーダーたちも、マスイメージにたいして語るんですね。民主主義の本来だったら、パブリックなものに語らなきゃいけない。ところが日本では、パブリックという観念が発達してないでしょう。(古井由吉『西部邁発言①「文学」対論』より) |
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人がデマゴギーと呼ぶところのものは、決してありもしない嘘出鱈目ではなく、物語への忠実さからくる本当らしさへの執着にほかならぬ〔・・・〕。人は、事実を歪曲して伝えることで他人を煽動しはしない。ほとんど本当に近い嘘を配置することで、人は多くの読者を獲得する。というのも、人が信じるものは語られた事実ではなく、本当らしい語り方にほかならぬからである。デマゴギーとは、物語への恐れを共有しあう話者と聴き手の間に成立する臆病で防禦的なコミュニケーションなのだ。ブルジョワジーと呼ばれる階級がその秩序の維持のためにもっとも必要としているのは、この種のコミュニケーションが不断に成立していることである。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』) |
ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなけらばならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』) |
そもそも高齢者1人当たり生産年齢人口が2020年の時点で既にこんな具合になっているのに、なんだい、あの泉房穂の言い草は?
仮に年金支給開始年齢つまり高齢者の定義をただちに75歳以上に改め、生産年齢人口を15歳から74歳としたってーー2020年時点で7509+1742=9241に対し、75歳以上は1860万人もいる(9241/1860=4.96)。つまり1990年の5.8人より遥かに下回る生産年齢人口しかいない。これは小学生並みの算数の能力があれば誰でも分かることだ。
ワカルカイ、日本の将来を憂えたいのなら最低限、泉房穂のたぐいのデマゴーグに気づくことから始めるべきだよ。