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2025年4月10日木曜日

中国の面子と米国のエゴの対決

 

ははあ、巧いこと言ってるな、



アンジェロ・ジュリアーノ @angeloinchina 2025年4月10日


トランプと対峙した中国人の決意と覚悟について疑問に思う方もいるかもしれない。


中国は誇り高き文明国であり、決して屈服することはない。

トランプは何もわかっていない。彼のエゴ、傲慢さ、そして無知は、優越感と「明白な運命」の救世主主義にゾンビ化したアメリカ社会の象徴だ。


MAGAは単なるスローガンであり、衰退する帝国の実験だ。一方、中国は50年間「偉大な中国」の復活に取り組んできた。それはすべて行動であり、言葉は少なかった。

それは努力、結束、そして科学的かつ実践的なアプローチだった。

トランプの場合、それは胸を叩き、筋肉を誇示し、そして喋って喋って喋るだけだ。

Angelo Giuliano @angeloinchina Apr 10, 2025


In case you wonder about Chinese resolve and determination when facing Trump.

It is a proud civilisation state who won't be bullied.

Trump has no clue, his ego, arrogance, and ignorance are emblematic of US society zombified by their sense for superiority and messianic of "manifest destiny"


MAGA is just a slogan here, an experiment of a declining Empire while on the other side,  China has been working on Making China great again for 50 years, it was all doing and less talk.

It was hard work, cohesion and scientific/pragmatic approach.

With Trump it is about bumping chest, flexing muscles and talk and talk and talk.



これは中国の面子と米国のエゴとの闘いだってことだな。

エゴ、すなわち自我であり、ナルシシズムだ。

理想自我[Idealich]は幼児期に現実的な自我が享受していた自己愛[Selbstliebe ]に適用される。ナルシシズムはこの新しい理想的な自我[neue ideale Ich] に変位した外観を現す。それは幼児期の自我と同様にあらゆる完全性を所有する。

Diesem Idealich gilt nun die Selbstliebe, welche in der Kindheit das wirkliche Ich genoß. Der Narzißmus erscheint auf dieses neue ideale Ich verschoben, welches sich wie das infantile im Besitz aller wertvollen Vollkommenheiten befindet. .(フロイト『ナルシシズム入門』第3章、1914年)


自我のイマージュは理想自我であり、人間における想像関係をすべて要約する[cette image du moi, …est un moi idéal qui se forme quelque part et qui résume toute la relation imaginaire chez l'homme] (Lacan, S1, 07 Juillet 1954 )

理想自我[ i'(a) ]は、自我[i(a) ]を一連の同一化によって構成する機能である。Le  moi-Idéal [ i'(a) ]   est cette fonction par où le moi [i(a) ]est constitué  par la série des identifications (Lacan, S10, 23 Janvier 1963)

想像界から来る対象、自己イマージュ[image de soi]によって強調される対象、すなわちナルシシズム理論から来る対象、これが 自我i(a) と呼ばれるものである。

c'est un objet qui vient tout de même de l'imaginaire, c'est un objet qu'on met en valeur à partir de l'image de soi, c'est-à-dire de la théorie du narcissisme, l'image de soi chez Lacan, s'appelle i de petit a. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 09/03/2011)


要するにトランプマッチョに対する中国の面子だ。


マッチョなイメージは、幻想的な仮面としてではなく、自分が目指す理想自我として経験される。マッチョな男のイメージの背後には秘密などなく、ただ、理想に決して達することができない、弱々しいごく普通の男がいるだけだ。

the macho-image is not experienced as a delusive masquerade but as the ideal-ego one is striving to become. Behind the macho-image of a man there is no secret, just a weak ordinary person that can never live up to his ideal.(Zizek Woman is One of the Names-of-the-Father)


マッチョの別名は誇大妄想狂だ、ーー《誇大妄想狂は、この人物のリビドー的対象備給の撤退による自我の拡大の直接的結果である[der Größenwahn die unmittelbare Folge der Ichvergrößerung durch die Einziehung der libidinösen Objektbesetzungen]》(フロイト『精神分析入門』第2部第26講、1917年)。これはトランプだけでなく、例えばマクロンなどにも如実に感じられる。


要するに、フロイトの理想自我[Idealich]は主体の理想化された自我のイメージーーこうなりたいと思うような自分のイメージ、他人からこう見られたいと思うイメージーーであり、誰にでもあるが、欧米人の場合、それが極限化しやすく、マッチョあるいは誇大妄想狂的になりがち。ウルズラさんとかカラスさんもこの口だよ。


ポジション的には想像界と象徴界の重なり目だ。



面子のほうはたぶん自我理想のポジションにある、ーー《自我理想は指導者のなかに具現化された集団の理想と交換される[Ichideal…es gegen das im Führer verkörperte Massenideal vertauscht.]》(フロイト『集団心理学と自我の分析』第11章、1921年)


で、意地の国日本は何やってんだろ?

「日本人の意地は欧米人の自我に相当する」とは名古屋の精神科医・大橋一恵氏の名言である。中国人の「面子」にも相当しよう。(中井久夫「「踏み越え」について」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)



もともと無理か、昨日記したばかりだが、江戸時代的通俗道徳の国だから。

意地について考えていると、江戸時代が身近に感じられてくる。使う言葉も、引用したい例も江戸時代に属するものが多い。これはどういうことであろう。


一つは、江戸時代という時代の特性がある。皆が、絶対の強者でなかった時代である。将軍も、そうではなかった。大名もそうではなかった。失態があれば、時にはなくとも、お国替えやお取り潰しになるという恐怖は、大名にも、その家臣団にものしかかっていた。農民はいうまでもない。商人層は、最下層に位置づけられた代わりに比較的に自由を享受していたとはいえ、目立つ行為はきびしく罰せられた。そして、こういう、絶対の強者を作らない点では、江戸の社会構造は一般民衆の支持を受けていたようである。伝説を信じる限りでの吉良上野介程度の傲慢ささえ、民衆の憎悪を買ったのである。こういう社会構造では、颯爽たる自己主張は不可能である。そういう社会での屈折した自己主張の一つの形として意地があり、そのあるべき起承転結があり、その際の美学さえあって、演劇においてもっとも共感される対象となるつづけたのであろう。

そして現在の日本でも、「民主的」とは何よりもまず「絶対の強者」がいないことが条件である。「ワンマン」がすでに絶対の強者ではない。「ワンマン」には(元祖吉田茂氏のような)ユーモラスな「だだっ子」らしさがある。「ワンマン」は一種の「子ども」として免責されているところがある。


二つには、一九八〇年代後半になっても、いまだ江戸時代に築かれた対人関係の暗黙のルールが生きているのではないかということである。われわれの職場にいくらコンピューターがはいっても、職場の対人関係は、江戸時代の侍同士の対人関係や徒弟あるい丁稚の対人関係、または大奥の対人関係と変わらない面がずいぶんあるということである。政治にも、官僚機構にも、変わっていない面があるのではないか。非公式的な集まりである運動部や、社会体制に批判的な政党や運動体においても、そういう面があるのではないか。


いじめなどという現象も、非常に江戸的ではないだろうか。実際、いじめに対抗するには、意地を張り通すよりしかたがなく、周囲からこれを援助する有効な手段があまりない。たとえ親でも出来ることが限られている。意地を張り通せない弱い子は、まさに「意気地なし」と言われてさらに徹底的にいじめられる。いじめの世界においても、絶対の強者は一時的にあるくらいが関の山であるらしい。また、何にせよ目立つことがよくなくて、大勢が「なさざるの共犯者」となり、そのことを後ろめたく思いながら、自分が目立つ「槍玉」に挙がらなかったことに安堵の胸をひそかになでおろすのが、偽らない現実である。そして、いじめは、子供の社会だけでなく、成人の社会にも厳然としてある。


日本という国は住みやすい面がいくつもあるが、住みにくい面の最たるものには、意地で対抗するよりしかたがない、小権力のいじめがあり、国民はその辛いトレーニングを子供時代から受けているというのは実情ではないだろうか。(中井久夫「意地の場について」初出1987年『記憶の肖像』所収)