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2025年4月26日土曜日

過美徳によって豚の群れに走り込む人たち

 

なあ、おい!」で、つけ加えようとして思い留まったがね、別にフロイトじゃなくたってむかしから言われてんだよ。


偽善は流行する悪徳であり、流行した悪徳はすべて美徳とみなされる[L'hypocrisie est un vice à la mode, et tous les vices à la mode passent pour vertus.](モリエール『ドン・ジュアン』)



偽善とは、悪徳が美徳に対してささげる賛辞である[L'hypocrisie est un hommage que le vice rend à la vertu. ](ラ・ロシュフコー『箴言集』)

われわれの美徳は、ほとんどの場合、偽装した悪徳に過ぎない[Nos vertus ne sont, le plus souvent, que des vices déguisés.](ラ・ロシュフコー『箴言集』)



で、最も重要なのはあまりにも頑張りすぎて美徳ばかりやったらダメだってことだ、


ゲーテは、美徳とともに、欠点も育まれると正しく言った。また、誰もが知っているように、肥大した美徳は、ーー私には、現代の歴史的意味と思われるがーー肥大した悪徳と同様に、人々の破滅になりかねない。

Goethe mit gutem Rechte gesagt hat, daß wir mit unseren Tugenden zugleich auch unsere Fehler anbauen, wenn, wie jedermann weiß, eine hypertrophische Tugend – wie sie mir der historische Sinn unserer Zeit zu sein scheint – so gut zum Verderben eines Volkes werden kann wie ein hypertrophisches Laster: 

(ニーチェ『反時代的考察』第二部「序文」)



過剰な美徳の人はこうなるからな、


日常生活は安定した定常状態だろうか。大きい逸脱ではないが、あるゆらぎがあってはじめて、ほぼ健康な日常生活といえるのではないだろうか。あまりに「判でついたような」生活は、どうも健康といえないようである。聖職といわれる仕事に従事している人が、時に、使い込みや痴漢行為など、全く引き合わない犯罪を起こすのは、無理がかかっているからではないだろうか。言語研究家の外山滋比古氏は、ある女性教師が退職後、道端の蜜柑をちぎって食べてスカッとしたというのは理解できると随筆に書いておられる。外に見えない場合、家庭や職場でわずらわしい正義の人になり、DVや硬直的な子ども教育や部下いじめなどで、周囲に被害を及しているおそれがある。(中井久夫「「踏み越え」について」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)



この手の人間はガチガチの道徳家やら儒教家やらによくいるよ、つまり次のたぐいの連中がね、ーー《世には、自分の内部から悪魔を追い出そうとして、かえって自分が豚のむれのなかへ走りこんだという人間が少なくない[nicht Wenige, die ihren Teufel austreiben wollten, fuhren dabei selber in die Säue]》  (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第1部「純潔」)



だから時には精神の健康のために嘲弄しないとな、ーー《抗議や横車やたのしげな猜疑や嘲弄癖は、健康のしるしである[Der Einwand, der Seitensprung, das froehliche Misstrauen, die Spottlust sind Anzeichen der Gesundheit]》(ニーチェ『善悪の彼岸』154番)


例えば私がときに減税ポピュリストやら消費税絶対悪派やら、庶民への心優しさを無闇に振り回す視野狭窄の正義の人ーー《一般に「正義われにあり」とか「自分こそ」という気がするときは、一歩下がって考えなおしてみてからでも遅くない。そういうときは視野の幅が狭くなっていることが多い。》 (中井久夫『看護のための精神医学』2004年)ーー、つまり経済なき道徳派を徹底的に馬鹿にするのは豚の群れに走り込むのは御免被るよということだ、ーー《道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である》(二宮尊徳)