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2025年5月4日日曜日

主体は無、貨幣は無


おい、いまさら騒ぐなよ」で記したことは、ふつうは難しいからすぐにわかろうとするのは諦めたほうがいいと思うがね。以下、繰り返しになる部分もあるが、いくらか違った相からも記すけれどさ。たぶんしっかり掴めるようになるのは10年ぐらい?かかるよ。少なくとも僕はそのくらいかかったね、いまだ「しっかり」かどうか心許ないけど。


例えば、次の二文は同じ意味だよ。

自己の個別化の経験はそのつど無から生成する。(木村敏『分裂病の現象学』1975年)

貨幣とは、まさに「無」の記号としてその「存在」をはじめたのである。(岩井克人『貨幣論』第三章 貨幣系譜論   25節「貨幣の系譜と記号論批判」1993年)


で、この文脈の中でのハイパーインフレが「貨幣の無=自己の無」への回帰だ。

不況(Depression、depression)、熱狂(Manie、mania)、さらには解体(Spaltung、splitting)ーー貨幣的な交換に固有な困難のあり方を形容するためにわれわれがもちいたこれらの言葉が、それぞれ鬱病(depression)、躁病(mania)、精神分裂病(schizophrenia = splitting of mind)といった精神病理学的な病名を想いおこさせるのはけっして偶然ではない。精神病理学者の木村敏によれば、躁鬱病とは、自己が自己であるということはあくまでも自明なものとされたうえで、その自己の対社会的な役割同一性が疑問に付されているという事態であり、これにたいして分裂病とは、まさに自己が自己であるということの自明性が疑問に付されてしまう事態であり、自己がそのつど自己自身とならなければならないという個別化の営みの失敗として特徴づけられるという。( 『分裂病の現象学』(弘文堂、一九七五)、『自己・あいだ・時間』(弘文堂、一九八一)、 『時間と自己』(中公新書、一九八二)、 『分裂病と他者』(弘文堂、一九九O)等の一連の著作を参照のこと。)じっさい、これからわれわれは、不況やインフレ的熱狂とは、貨幣が貨幣であることは前提とされたうえでの、貨幣とほかの商品全体とのあいだの関係において生じる困難であるのにたいして、ハイパー・インフレーションとは、貨幣が貨幣であることの根拠そのものが疑問に付され、その結果として貨幣の媒介によって維持されている商品世界そのものが解体してしまうという事態にほかならないということを論ずるつもりである。すなわち、人間社会において自己が自己であることの困難と、資本主義社会において貨幣が貨幣であることの困難とのあいだには、すくなくとも形式的には厳密な対応関係が存在しているのである。(岩井克人『貨幣論』第4章「恐慌論」34節「不均衡累積課程から乗数課程へ」注16、1993年)




ラカンの主体が無であるのも同じ。

現実界のなかの穴は主体である[Un trou dans le réel, voilà le sujet]. (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)


穴の別名は無だ。

神秘的な無からの創造、穴からの創造[le créateur mythique ex nihilo, à partir du trou.] (Lacan,  S7,  27 Janvier  1960)


したがって主体は無となる。

ラカンの定義によれば、すべての主体は無に関わる[tout sujet, tel que le définit Lacan, a une relation avec le rien ] (J-A. MILLER, Des semblants dans la relation entre les sexes, 1997)


ラカンはこうも言っている。

私は私で、穴だろ? 穴は呑み込むこともあれば、ときに吐き出すこともある。何を吐き出すんだって? 名だ、名としての父だ。

Je suis ce que je suis, ça c'est un trou, non ? Un trou […], un trou ça engloutit, et puis il y a des moments où ça recrache. Ça recrache quoi ? Le nom, le Père comme nom.”    (Lacan, S22, 15 Avril 1975)


ここで穴つまり無が吐き出す父の名は穴埋めだ。

父の名という穴埋め[ bouchon qu'est un Nom du Père]  (Lacan, S17, 18 Mars 1970)


穴埋めは定義上、フェティッシュ=剰余享楽=剰余価値[参照]。




したがって父の名はフェティッシュである。


ラカンは、父を固有のフェティシズムに基づいて定義した[Lacan définit le père à partir d'un fétichisme particulier](エリック・ロラン Éric Laurent, Un nouvel amour pour le père, 2006)




そして父の名は事実上、言語。

父の名のなかに、我々は象徴的機能の支えを認めねばならない。歴史の夜明け以来、父という人物と法の形象とを等価としてきたのだから[C’est dans le nom du père qu’il nous faut reconnaître le support de la fonction symbolique qui, depuis l’orée des temps historiques, identifie sa personne à la figure de la loi.] (ラカン, ローマ講演, E278, 27 SEPTEMBRE 1953 )

象徴界は言語である[Le Symbolique, c'est le langage](Lacan, S25, 10 Janvier 1978)

言語は父の名である[C'est le langage qui est le Nom-du-Père]( J.-A. MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses comités d'éthique,cours 4 -11/12/96)


つまり言語はフェティッシュである。


さらに剰余価値という意味での貨幣自体、言語だ。柄谷行人のいう「剰余価値を得る資本」としての貨幣は言語である。


単一体系で考える限り、貨幣は体系に体系性を与える 「無」にすぎない。しかし、異なる価値体系があるとき、貨幣はその間での交換から剰余価値を得る資本に転化するのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』第二部・第3章「価値形態と剰余価値」2001年)


これは名高いヤーコブソン=パースンズの定義上でもそうなる。

経済学と言語学の長い歴史において、この二教科を結合する問題が繰り返し生起した。 啓蒙主義時代の経済学者たちが言語学的問題に手を染めたことが想起されよう。たとえば、アンヌ=ロベール=ジャック・テュルゴーは百科全書のために語源の研究を扱い、アダム・スミスは言語の起源を論じている。 循環、交換、価値、生産と投資、生産者と消費者などの事項についてソシュールの教理へのG・タルドの影響は周知である。"動的共時態"すなわち体系内部の矛盾と、その不断の動きなどのような共通の主題が、両分野で相似の発展を遂げた。 基本的な経済学の概念が、記号学的解釈の試みに繰り返して付せられた。〔・・・〕現在、タルコット・パースンズは貨幣を"非常に高度に特殊化した言語"、経済上の取引を"或る種の会話"、貨幣の流通を"メッセージの送達"、そして貨幣体系を"文法的・統辞的コード"として組織的に扱っている。言語学において開発されたコードとメッセージの理論を彼は公然と経済的交換に適用している。(ヤーコブソン 『一般言語学』川本茂雄他訳)




さらに確認すれば、次の岩井克人とジャック=アラン・ミレールの文は同じ意味。

言語、法、貨幣の媒介があって、個々の人間ははじめて普遍的な意味での人間として、お互いに関係を持つということが可能となります。


言語があるからこそ、生活体験をともにしてこなかった他人とも、同じ人間としてコミュニケーションが可能になります。

また、法があるからこそ、個人の腕力や一族の勢力が異なった他者であっても、同じ場所で生活することが可能になります。

そして、貨幣があるからこそ、どのような欲望をもっているか知らない他人とでも、交換をするが可能になります。


人格の問題は、このようなお互いが関係を持つことができる人間社会が成立した中で、はじめて発生することになります。

そして、そこではじめて二重性(ヒトであってモノである)をもった存在としての人間が出てくるのだろうと思います。(岩井克人『資本主義から市民主義へ』2006年)

言語、法、ファルスとの間には密接な結びつきがある。父の名の法は、基本的に言語の法以外の何ものでもない。法とは何か? 法は言語である。Il y a donc ici un nœud très étroit entre le langage, la Loi et le phallus. La Loi du Nom-du-Père, c'est au fond rien de plus que la Loi du langage ; […] qu'est-ce que la Loi ? - la Loi, c'est le langage.  (J.-A. MILLER, - L’Être et l’Un,  2/3/2011)


「言語、法、貨幣」と「言語、法、ファルス」。貨幣はファルスであり、言語である。

ファルスの意味作用とは実際は重複語である。言語には、ファルス以外の意味作用はない。Die Bedeutung des Phallus  est en réalité un pléonasme :  il n'y a pas dans le langage d'autre Bedeutung que le phallus.  (ラカン, S18, 09 Juin 1971)



・・・というわけだけれど、なんとなくそうなのか、ではなく、はっきり掴むには時間がかかるよ。


ちなみに主体が無なのは、哲学的にはむかしから言われてるが、これだってふつうは知らないだろうからな。



人間存在は、すべてのものを、自分の不可分な単純さのなかに包み込んでいる世界の夜[Nacht der Welt]であり、空無[leere Nichts]である。人間は、無数の表象やイメージを内に持つ宝庫だが、この表象やイメージのうち一つも、人間の頭に、あるいは彼の眼前に現れることはない。この闇。幻影の表象に包まれた自然の内的な夜。この純粋自己[reines Selbst]。こちらに血まみれの頭[blutiger Kopf ]が現れたかと思うと、あちらに不意に白い亡霊[weiße Gestalt] が見え隠れする。一人の人間の眼のなかを覗き込むとき、この夜を垣間見る。その人間の眼のなかに、 われわれは夜を、どんどん恐ろしさを増す夜を、見出す。まさに世界の夜[Nacht der Welt] がこのとき、われわれの現前に現れている。 (ヘーゲル『現実哲学』イエナ大学講義録草稿 Jenaer Realphilosophie 、1805-1806)

「主体」は虚構に過ぎない。自我はまったく存在しない。エゴイズムが批判されるとき語られる自我はない[Das »Subjekt« ist nur eine Fiktion: es gibt das ego gar nicht, von dem geredet wird, wenn man den Egoismus tadelt.] (ニーチェ遺稿1882ー1887年)


主体だけでなく言語も虚構だよ。

言語とは本来的に虚構である[le langage est, par nature, fictionnel](ロラン・バルト『明るい部屋』1980年)


この虚構の別名がフェティッシュだ。前期ラカンは小さなファルスφ、大きなファルスΦをわけたが、後期ラカンはどちらもフェティッシュだ。これがラカンのセミネールの熱心な受講者だったクリスティヴァの言っている意味。

しかし言語自体が、我々の究極的かつ分離し難いフェティッシュではないだろうか。言語はまさにフェティシスト的否認を基盤としている(「私はそれをよく知っているが、同じものとして扱う」「記号は物ではないが、同じものと扱う」等々)。そしてこれが、話す存在の本質としての私たちを定義する。

Mais justement le langage n'est-il pas notre ultime et inséparable fétiche? Lui qui précisément repose sur le déni fétichiste ("je sais bien mais quand même", "le signe n'est pas la chose mais quand même", …) nous définit dans notre essence d'être parlant.

(ジュリア・クリスティヴァ J. Kristeva, Pouvoirs de l’horreur, Essais sur l’abjection, 1980)



以上、言語の交換(コミュニケーション)、貨幣の交換をしている人間はみなフェティシストだよ。で、あるときそれが虚構であるのに気づく。それが木村敏のいう意味での分裂病であり、岩井克人のいうハイパーインフレーションだ。


なお、岩井克人のいう《不況やインフレ的熱狂とは、貨幣が貨幣であることは前提とされたうえでの、貨幣とほかの商品全体とのあいだの関係において生じる困難であるのにたいして、ハイパー・インフレーションとは、貨幣が貨幣であることの根拠そのものが疑問に付され、その結果として貨幣の媒介によって維持されている商品世界そのものが解体してしまうという事態にほかならない》の「不況やインフレ的熱狂」と「ハイパーインフレーション」ーー木村敏の「躁鬱病/分裂病」ーーはラカンの「欠如と穴」の相違に相当する。




欠如と穴(欲望と欲動)