遺伝というのは誰にでもあるわな、でも「なんでも遺伝」というのはどうしようもないよ。
分裂病の遺伝性に関するタブーに触れそうだが、私が問題にしている機能自体は遺伝しなければ人間の形をなさないもので、手足や顔の形態や機能の遺伝と同じである。失調するかどうかは、非常に多くの要因がからんでいるであろう。なお、この機能は必ずしも人間に限らなくて、ひょっとすると系統発生的に古い成分を含んでいるかもしれない。変化しか認知しないという点(分裂病の微分回路的認知)では、嗅覚がそれに近いと思う。また、調節遺伝子を含む多因子遺伝は、古典的な遺伝対環境論を無効にする。(中井久夫「精神分裂病の病因研究に関する私見」1994年『精神科医がものを書くとき』所収) |
分裂病、つまり統合失調症に限らず、自閉症や発達障害、それだけに限らず、境界性パーソナリティ障害やら自己愛性パーソナリティ障害やらを「遺伝」で片付けるのは、現代の精神医学自体の病気だよ。 |
自閉症が問題になり始めた頃、米国では精神分析の考えをもとにした力動精神医学が力をもっており、べッテルハイムなどの影響で、自閉症は両親との関係による後天的な要因によって引き起こされると考えられていました。それが現在では、世界中の殆どすべての精神科医、臨床心理士は、自閉症の原因は遺伝子的傷害または何らかの脳の損傷だと考えています。生物学的な原因を主張する理論は様々なものがありますが、実は多様な形態をとる自閉症を十分に説明できるような理論はまだ見いだされていません。それでも遺伝子による説明などの科学的な理論が受け入れられるのは、現代の精神医学理論の趨勢をなしている生理、生物学的選択という方向性に則ったものだからです。 生物学的な原因論が採用されるもう一つの理由は、子どもが自閉症となることによって両親がその責を問われることを避けるという思惑からです。親の間違った育て方によって子どもが自閉症になったと言われれば、両親は子どもにたいして過大な罪責観を負うことになるでしょう。しかしそこに生物学的な理由が置かれればもはや誰にも責任はなくなり、親の養育法にたいする非難もなくなります。〔・・・〕 |
現代のこうした自閉症についての客体的、科学的な原因論にたいして、精神分析は主体的な要因を導入します。先天的、生物学的な原因を否定するわけではありませんが、たとえ 生物学的な要因があったとしても、そこに何らかの主体的な要素も関与しているということです。つまり、自閉症には主体的な選択という科学的には考えられない要因も考察されなければならないと考えるのです。(向井雅明『自閉症について』 2016年) |
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1980年に米国でDSM‐Ⅲが公刊されると、この黒船によって、日本の精神医学はがらりと変わった。本質的にクレペリン精神医学によって立ち、クルト・シュナイダーK.schneiderの操作主義とエルンスト・クレッチマーE.Kretschmerの多次元診断によって補強されたDSM体系は、日本の精神医学の風土を変えた。(中井久夫『関与と観察』2005年) |
怠惰な精神は規格化を以て科学化とする。〔・・・〕医学・精神医学をマニュアル化し、プログラム化された医学を推進することによって科学の外見をよそおわせるのは患者の犠牲において医学を簡略化し、疑似科学化したにすぎない。(中井久夫「医学・精神医学・精神療法は科学か」2002年) |
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神田橋條治)わたくしは EBM をめぐってイライラしていた。EBM(エビデンスに基づく医療)推進派の意見は正当なものだと思えるのに、わたくしの中では嫌悪感が湧くのだった。〔・・・〕イライラから注意をそらさないことで連想が進んだ。そして分かった。EBM は医療の場に多数決を持ち込むことであり、患者とはおおむね少数者であり少数者に寄り添うという医療者の体質となじまないのだと分かった。〔・・・〕 教育の場に EBM が導入されると、少数者へ寄り添うという医療者の気質は抑圧されて、公衆衛生行政官のような、正しい判断に終始する臨床家(?)が育つだろうと心配になった。 (『精神科における養生と薬物』 神田橋條治 八木剛平 ) |
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精神医学診断における新しいバイブルとしての DSM(精神障害の診断と統計の手引き)…。このDSM の問題は、科学的観点からは、たんなるゴミ屑だということだ。あらゆる努力にもかかわらず、DSM は科学的たぶらかしに過ぎない。…奇妙なのは、このことは一般的に知られているのに、それほど多くの反応を引き起こしていないことである。われわれの誰もが、あたかも王様は裸であることを知らないかのように、DSM に依拠し続けている〔・・・〕 DSMの診断は、もっぱら客観的観察を基礎とされなければならない。概念駆動診断[conceptually-driven diagnosis] は問題外である。結果として、どのDSM診断も、観察された振舞いがノーマルか否かを決めるために、社会的規範を拠り所にしなければならない。つまり、異常 ab – normal という概念は文字通り理解されなければならない。すなわち、それは社会規範に従っていないということだ。したがって、この種の診断に従う治療は、ただ一つの目的を持つ。それは、患者の悪い症状を治療し、規範に従う「立派な」市民に変えるということだ。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Chronicle of a death foretold”: the end of psychotherapy, 2007) |
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以下、私が依拠することの多いポール・バーハウから、おそらく一般にもわかりやすい「アンチ遺伝」をめぐる講演録を掲げておこう。
◼️ポール・バーハウ講演「アイデンティティ、信頼、コミットメント、そして現代大学の失敗」(Paul Verhaeghe, Identity, trust, commitment and the failure of contemporary universities", 2013) の冒頭部分から 【あなたは誰?】 |
個人的な質問から始めさせて下さい、「あなたは誰?」と。これは昔からある問いです。そしてことさら現代では、答えるのにとても難しいものです。どうして難しいのかといえば、アイデンティティとはどのようなものかについて、全く間違った考え方が見出されるからです。数多くの歴史的理由で、私たちは考えています、私たちのアイデンティティとは、なにか実体的なもので、私たちのなかに深く根ざしたほとんど不変のエッセンスのようなもの、生得の、遺伝的等々の何かだと。私は最初から私自身であり、その後いささかの変化はあるにもかかわらず、私は、生涯、私自身のままだろう、と。 |
これは完全に間違っています。あなたがたはその考えから、出来るだけはやく逃れれば逃れるほどよいでしょう。これが間違っているのを明らかにする最も簡単な仕方は、養子について考えてみることです。インドのラジュスタンで生まれた女児で、スウェーデン人の親によってウプサラで育ったのなら、スウェーデンの女性になります。同じ子供がフランス人の親の養子になりパリで育ったのなら、パリジェンヌになります。逆もまた真です。もしあなたが、赤子として、スーダンのムスリムカップルによって養子にされてハルツームで育ったのなら、あなたはスーダンのアイデンティティをもつようになります。つまり、あなたはまったく異なった誰かになります。 結論としては、アイデンティティとは構築 construction に帰着するのです。そこでは文化が決定的な役割を果たします。これは私たちに別の二つの問いをもたらします、どうやって構築されるのか、そしてこの構築の内容はなんなのだろう、と。この問いに答えるための十分な科学的根拠があります。そこには二つの過程が働いています。すなわち同一化と分離です。 |
【同一化】 |
同一化は今ではミラーリング(鏡像化 mirroring)と呼ばれます。そして、それは同一化を言い換えるとても相応しい仕方です。このミラーリングは私たちの生の最初の日から始まります。乳児はお腹がへったり寒かったりして泣き叫びます。そして魔法のように、ママが現れます。彼女は心地よい声を立て、赤ちゃんに話しかけます、彼女が考えるところの、なにが上手くいってないのかを乳児に向けて語り、彼女自身の顔でその感情を真似てみせます。このシンプルな相互作用、何百回とくり返される効果のなんと重要なことでしょう。私たちは、何を感じているのか、なぜこの感情をもつのか、そしてもっと一般的には、私たちは誰なのかを、他者が告げ私たちに示してくれるのです。空腹とオシメから先に進み、世話人からの子供へのメッセージは、すぐに、よりいっそう入り組んだものになり、かつ幅広くなります。 |
幼児期以降、私たちは継続的に、なにを感じ、なぜそう感じ、これらの感じをどのように取り扱うか、取り扱うべきでないかを教えられています。私たちは聞くのです、良い子なのかいたずらっ子なのか、美しいのか醜いのか、おばあちゃんのように頑固なのか、パパのように賢いのか、と。同時に、自分のカラダや他人のカラダで何ができて何ができないのかを聞かされます(すこしは大人しく座ってなさい! あなたの弟にかまいすぎないで! ダメよ、耳にピースなんてしたら!)。こういったことすべては、私たちは誰で、どうすべきで、どうすべきではないかを明らかにします。 |
どの心理学理論も認めています、これらの乳幼児と母のあいだの最初のやり取り、そして子供と親たちのあいだのそれの重要性を。それはアイデンティティの構築のためのものなのです。とはいえ、この重要性はある片寄った観点を導き入れます。私たちは忘れがちになってしまうのです、両親はただ彼ら自身が受け取ったもののみを鏡に反映するということを。彼らのメッセージは無からは生まれません。私たちの家族は、自分の文化、ーー地方の、宗教の、国民の等々ーーの重要な考え方を鏡に反映させるのです。物語や考え方、それは、家族や私たちが所属する社会階級、わたしたちがその部分である文化によって、私たちに手渡されるのですがーー、こういったものすべての鏡が、混じりあって、象徴秩序、より大きな集団の大きな物語 Great Narrative を作り上げるのです。それが多かれ少なかれ共通のアイデンティティを生みます。より多くの語り(ナラティヴ)が共有されれば、よりいっそう私たちは似たもの同士になります。 |
この共有された語りの重要性は計り知れません。というのは、それは私たちの存在に関する存在論的 existential 問いに答えてくれるからです。「真の」男とはなに? あるいは「真の」女とは? 男女の関係はどうあるべきか? キャリアと親であることの場と意義とはなんだろう? 男にとってと、女にとっての違いは? 権威への態度はどうあるべきか? どうやって取り扱うべきか、性、病い、死を? 私たちは答えを探すなか、象徴秩序や大きな物語 great narratives に頼ります。それは複数形です。というのは、異なった語りがあり、異なった答えがあるからです。たとえばあなたがスウェーデンで育ったなら、デンマークで育った誰かとは異なります。鏡に反映するものがやはりわずかにでも異なるのですから。より高いレベルでは、両者ともスカンジナビアンです。その意味は、南ヨーロッパ人とは異なるということです。さらに高いレベルでは、西ヨーロッパ人です。アメリカ人等々とは異なるということです。そして確かなことは、これは人種とはまったく関係ないことです。もう一度、養子について考えてみてください。 |
したがって、私たちのアイデンティティの構成の最初の過程は同一化です。まだラテン語をご存知の方にとっては、アイデンティティと同一化は同じ語源を共有しているのがお分かりでしょう、“IDEM”の意味、それは、“同じ”、“相似”です。私たちは他者と同類になることによって己れのアイデンティティを築いてゆくのです。そしてこれはふつう気づかれていません、私たちは皆異なると思っているのです。〔・・・〕 |
【分離】 |
さて、「私はそうではない “I am not” 」と人が言うとき、私たち二番目の過程に導かれます。分離、それは相違を導入します。私たちは異なったようになります、というのは、初期の段階以降、私たちはある同一化のモデルを拒絶し、他のモデルを好むようになるからです。どの親も経験します、二歳のよちよち歩きの子供がむづかるようになり、自分の意志を示すようになります。そのとき彼もしくは彼女が、同時に二つの新しい単語を発見するのは偶然ではありません。その単語とは、「イヤ no」と「自分 me」であり、とてもしばしば、その二語を組み合わせて使います。自立の要求がふたたびほとばしり出るのは思春期で、それはその時期のホルモン分泌の強度のなかでです。今度は独立心の錯覚を伴っています(ぼくが自分自身で決めるよ!)。ある範囲で、この独立心は錯覚なのです。というのは基本的には、分離は或る同一化を拒絶し、他の代替を選ぶことに帰結するからです。その意味は別の鏡に反映させるということです。同一化と分離の組み合せが意味するのは、最初期から、私たちのアイデンティティは、類似と相違のあいだの天秤だということです。私たちは引き裂かれるのです、他者に融合する促しと、他者から距離をとる促しのあいだで。 |
最初の過程はいかにも逃れようがありません。二番目の過程はもっと自由があります。というのは自身で選択できるからです。注意しましょう、変化の可能性そのものが、まさに私たちのアイデンティティを構成する仕方なのです。変化は二つの方向からやって来ます。鏡が変わるかもしれないこと、あるいは私たち自身が異なった選択をすること。さてこれから以降の話は、現代の鏡に集中します。そしてその鏡が私たちのアイデンティティに齎すものについて。 |
【私たちのアイデンティティ】 |
今度は、二番目の問いに関わります。私たちのアイデンティティの内容についてです。ここでふたたび、私は「私は誰なのか」についての直感的な考え方を訂正しなくてはなりません。個人主義のこの時代、私たちは数多くのパーソナリティーの特徴をもって、その質問に応答するでしょう。そして忽ち、それでは満足させてくれるものからほど遠いのを見出します。より格段に興味深く、かつ私たちのアイデンティティを表わすために訂正したほうがいいことは、数多くの鍵となる点における「私たちは誰なのか」――それを明らかにする基礎的関係の見地です。 |
基本的に「私が私である」のは、ある重要な他者と関係する私独自の仕方によります。もっと個別的に言うなら、私が他のジェンダーに関わる仕方、他の世代に、私の同僚に、そして最終的には、私自身に関わる仕方です。実に、幼児期以来受け取ってきたジェンダーのアイデンティティを鏡に映すことは、同時にジェンダーの関係を鏡に映すことでもあります。私の男性性は、いかに女性性に気づき学んできたかによって決定されます。もし私が女性をすべての悪の根源、私を罪に陥れるものと思い込んでいたなら、私は戦々恐々とした、厳格な男ーー己れの煩悩に打ち勝つための闘争を女性に投影する男ーーになるでしょう。もし私が女性を優しく思いやりのある、けれども、支配的な存在だと感じていたなら、私はそこから永遠に逃れようと努める大きな息子 man-son になるでしょう。等々。これ等は、男と女の本質を定める努力の運命づけられた特質です。 |
ジェンダーの関係についての社会の信念は、二番目の重要な他者との係わりにそのすべてがあります。その他者と私たちは多かれ少なかれ継続的な関係を打ち立てます、その名は権威としての他者です。私たちの権威の形象への態度は、私たちのアイデンティティの別の重要な部分を形作ります。批評的かつ反抗的? 服従的かつ支持的? 攻撃的かつ競争的? これもまた、私たちの同一化を通して獲得されたなにかです。私のアイデンティティの三番目の重要な内容は、私の同輩、はじめは兄妹、のちには同僚や隣人との関係にかかわります。嫉妬的? 支持的? 競争的? 私たちのほとんどは、同輩との関係の典型的な仕方を持っています、しばしば十分に、そして自らそれに気づかないままで。 |
これらの三つの関係に、私たちのアイデンティティが構成される仕方を容易に認めることができます。でもまだ四番目があります。それは驚くかもしれませんが、私たち自身と持つ関係です。一見びっくりするように思えるかもしれませんが、それを描写するのはたいして難しくありません。毎朝、バスルームの鏡で、私たちは私たち自身と対話を交わすことから始め、それは終日続きます。私は私自身に怒っているかもしれません。喜んでいるかも、失望しているかも。というのは「私 ‘me' 」を判定する「私 ‘I' 」は、判定される「 私‘me'」とは異なった同一化を基盤にしているからです。「私たち自身 ‘ourselves'」への怒りや満足は、継続することもあり得ます。すると、それは自己嫌悪 self-hatred や自己愛 self-loveに導かれます。自己評価 self-esteemと自己尊重 self-respect の高い低い、等々。これらの語彙の接頭辞 ‘自己self' が生み出すのは、私たちのアイデンティティはある本質的な生得の個性を構成するという印象です。私たちは忘れています、そのような個性は、他者が私たちの振舞いを解釈し鏡に反映させる仕方によって決定されていることを。他者が決定するのです、私が私自身について考える仕方を。自己信頼、自己評価、自己尊重はよりよく理解されるでしょう、他者の信頼、他者の評価、他者の尊重というもともとの文脈で。すなわち、他者が私たちを信頼し、評価し、尊重した範囲が、私たちの自己信頼、自己評価、自己尊重に反映されるのです。 |
このようにして、私たちのアイデンティティの内容は、重要な他者との継続的な関係というタームでもっともよく理解することができます。でも、これは、説明としては、いささか控え目すぎるようにきこえます。私はつけ加えなければなりません、なにかもっとリアルに響くような重要なことを。異性という他者、権威、同輩、そして最終的には私たち自身との関係は、けっして偏らないものではありません。権威の人物は、最初の段階で、私たちに告げます、私たちはなにができるのか、私たちの体や他者の体でなにができないのか、と。それは楽しみが犠牲にされたり、また犠牲にされなかったりします。こういったことすべては、していいこととしてはいけないことの議論をまっすぐに供給します。この意味で、規範や価値観は、私たちのアイデンティティの全的部分なのです。そんなに昔のことではありません、こういった特徴が美徳という形で表現されたのは。たとえば、注意深さ、正義、自己コントロール、忍耐深さ。あるいは逆に基本的な悪として、たとえば、傲慢、強欲、好色、憤怒、等々。これは驚きをもって聞かれるかもしれない結論を引き起します。すなわち、私たちのアイデンティティは、個人の特徴の中立的な盛り合わせではけっしてないのです。そうではなく、私たちが同一化した(あるいは同一化しなかった)道徳的な、なにをするべきか、なにをすべきではないのかにすべてかかわるのです。 |
これが意味するのは、どのアイデンティティも地層にあるイデオロギーを基礎としているということです。そのイデオロギーという用語は、私がとても幅広く解釈する意味では、人間関係、そしてその関係を調節する異なった仕方についての考え方の集合体ということです。歴史は示してくれます、イデオロギーは他のイデオロギーに対抗して考案されることを。その結果、私たちのなかに他のイデオロギーに反対する思考態度を生み出します。異なった特色のある規範と価値観をともなう異なったイデオロギーは、異なったアイデンティティを決定づけます。考えてみてください、“本当の”社会主義者、“典型的な”カソリック、さらには“本当のフィンランド人”さえをも。言い換えれば、彼らのイデオロギーとそれに付随したアイデンティティは、重要な他者にむかっての、“標準的な”、あるいは“正しい”態度として見なされることの異なった解釈にあるのです。 |
【要約】 |
さてここで、これまで説明してきたことを要約してみましょう。私たちのアイデンティティは構築物です。それは私たちの文化の支配的な語りを基礎としています。その語りとは、他の性、権威、私たちの同輩、私たち自身に向けて基本的な関係の立場を定めます。これはけっして中立的なものではなく、つねに倫理的に操られています。私は想像することができます、あなた方はこれらすべてにおいて遺伝学の場所について思いを巡らしているのを。答えはまったく単純です。遺伝子それ自体のレベルでは、私たちの心理学的なアイデンティティの内容が遺伝的に決定されているなんの証拠もないのです、けれども、この点に関して、格段に重要な別の遺伝的形質の形式があります。進化生物学は、私たちは社会的な動物であることを教えてくれます。その意味は、私たちは集団にて生きていくことになっていることです。もし私たちが独りだけになった社会種族を見出すのなら、可能な答えは二つしかありまでん。病気か、集団から追い払われたか。そしてふつうはその両方です。 |
霊長類の研究からの二番目の発見、なかんずくオランダの生物学者フランス・ドゥ・ヴァール Frans de Waal によれば、私たちは二つの異なった振舞いにあらかじめ配置されているのです。一方では、協調と連帯。他方では、競争的個人主義とエゴイズム。そして彼の調査から得られるさらにいっそう重要な結論があります。それは、どの振舞いが優位になるかを決定するのは環境だということです。 あなた方がこれらの二つの振舞いについて考えるのなら、アイデンティティの構築の二つの過程をその二つの振舞いに戻って見出すのはそんなに難しくはないでしょう。同一化は集団への傾向にかかわり、分離は個人主義の必要にかかわる、と。けれども、ーーふたたび強調しますがーー私たちはまずなによりも忘れるべきではありません、私たちが社会的動物であることを。フランス・ドゥ・ヴァールによる美しい実験があります、それは私たちの生得の公正への感情を明らかにしています。それは相互作用と感情移入のより大きな研究の部分です。あなた方は見るでしょう、それはすべてモラルについてなのです。すなわちアイデンティティについて、という意味です。…(ポール・バーハウPaul Verhaeghe、Identity, trust, commitment and the failure of contemporary universities、2013) |
ーーポール・バーハウは擬似科学者たちの「なんでも遺伝派」から叩かれているがね。
次のものはいくらか専門的な記述だ。弟子筋のStijn Vanheuleとともの論。彼らはラカニアンだが、ここでは主にピーター・フォナギーのミラーリングーー何よりもまず「養育者が子どもの感情や欲求を共感的に受け止め、表情や声で反応すること」ーーに依拠している。
◼️Identity through a Psychoanalytic Looking Glass, Stijn Vanheule & Paul Verhaeghe GHENT UNIVERSITY 2009 |
要約すると、自己とは主に相互作用における他者の行動の産物であると言える (Fonagy et al., 2002, p. 135)。これは、逸脱したミラーリングスタイルの場合に顕著であり、「異質な自己」という概念を特徴とする病的なアイデンティティ発達につながる可能性がある。異質な自己とは、調和のとれていないミラーリングの内面化である。ある程度は誰にでも存在するが、通常は「自己構造の基本的なギャップの物語的平滑化」と呼ばれるものによって中和される (Fonagy et al., 2002, p. 13。p. 130、198 も参照)。病的なミラーリングの場合、異質な自己と「体質的」「身体的」「肉体的」「核心的」「真の」自己と呼ばれるものとの間のギャップは埋められず、典型的な結果として投影的な同一視と分裂が生じる。アイデンティティ体験の発達という点において、これは子供が本来の自己状態にアクセスできず、真の思考や願望について考えることができないことを意味します(Fonagy et al., 2002, p. 15)。さらに、子供は相手の精神状態を正しく読み取ることができず、双方向のメンタライゼーション機能が損なわれていることを意味します。より具体的には、幼児期における親の一致した、しかし特徴のないミラーリングは境界性パーソナリティ障害の発達に重要であり、一方、不一致なミラーリングは自己愛性パーソナリティ障害の根底にあります(Bateman & Fonagy, 2004, p. 83)。治療目標は、患者が自身の精神状態にアクセスできるようにするための、機能的な結合関係を構築することです。 |
Summarizing, it can be said that the self is mainly the product of the other's behavior in the interaction (Fonagy et al., 2002, p. 135), which is apparent in the case of deviant mirroring styles which can result in pathological identity development, characterized by the idea of the “alien self.” The latter is the internalization of a misattuned mirroring. Although to a certain extent present in every one of us, it is normally neutralized through what is called “narrative smoothing of the basic gaps in the self-structure” (Fonagy et al., 2002, p. 13; see also pp. 130, 198). In case of a pathological mirroring, the gap between the alien self and what is called the “constitutional,” “bodily,” “physical,” “core,” or “true” self is unbridgeable, and the typical results are projective identification and splitting. In matters of the development of the experience of identity, this means that the child does not gain access to its constitutional self-states and that it will not be able to think about its real thoughts and wishes (Fonagy et al., 2002, p. 15). Moreover, the child will not be able to read correctly the mental states of the other, meaning that the function of mentalization is impaired in both directions. More specifically, a congruent but unmarked parental mirroring in infancy is important in the development of borderline personality disorder, whereas an incongruent mirroring lies at the base of narcissistic personality disorder (Bateman & Fonagy, 2004, p. 83). The therapeutic goal is to create a working alliance by which the patient gains access to his or her own mental states. |
ちなみにフロイトあるいはラカン派においては自閉症は自体性愛(原ナルシシズム)に相当し[参照]、自己愛は二次ナルシシズムに相当する[参照]。
後者の自己愛が極限化したものが、フロイト観点からは、現在で云うところの「自己愛性パーソナリティ障害」にほぼ相当する。
我々は、対象備給を内に取り込むことによって生じるナルシシズムを、様々な影響によって不明瞭になった原ナルシシズム(一次ナルシシズム)の上に構築される二次ナルシシズムと理解するように導かれる。Somit werden wir dazu geführt, den Narzißmus, der durch Einbeziehung der Objektbesetzungen entsteht, als einen sekundären aufzufassen, welcher sich über einen primären, durch mannigfache Einflüsse verdunkelten aufbaut. (フロイト『ナルシシズム入門』第1章、1914年) |
われわれの分析的観点からは、誇大妄想狂は、この人物のリビドー的対象備給の撤退による自我の拡大であり、原初の初期幼児期の回帰としての二次ナルシシズムである。 Für unsere analytische Auffassung ist der Größenwahn die unmittelbare Folge der Ichvergrößerung durch die Einziehung der libidinösen Objektbesetzungen, ein sekundärer Narzißmus als Wiederkehr des ursprünglichen frühinfantilen. (フロイト『精神分析入門』第2部第26講、1917年) |
川崎直樹「自己愛をめぐる実践研究と実証研究の交差」2019、PDFにこんな図表が示されているがね、
で、フロイトにおいてこの自己愛の別名は「自我のナルシシズム」Narzißmus des Ichsである。 |
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われわれはナルシシズム原理について一つの重要な展開をなしうる。原初において、リビドーはエスのなかに蓄積され[Libido im Es angehäuft]、自我は形成途上であり弱体であった。エスはこのリビドーの一部分をエロス的対象備給に送り、次に強化された自我はこの対象リビドー[Objektlibido]をわがものにし、自我をエスにとっての愛の対象にしようとする。このように自我のナルシシズムは二次的なものであるである。すなわち対象から撤退したものである。 An der Lehre vom Narzißmus wäre nun eine wichtige Ausgestaltung vorzunehmen. Zu Uranfang ist alle Libido im Es angehäuft, während das Ich noch in der Bildung begriffen oder schwächlich ist. Das Es sendet einen Teil dieser Libido auf erotische Objektbesetzungen aus, worauf das erstarkte Ich sich dieser Objektlibido zu bemächtigen und sich dem Es als Liebesobjekt aufzudrängen sucht. Der Narzißmus des Ichs ist so ein sekundärer, den Objekten entzogener. (フロイト『自我とエス』第4章、1923年) |
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他方、自閉症としての自体性愛はエスの審級ーーエスの欲動ーーにあり、敢えて言ってしまえば「エスのナルシシズム」と呼びうる[参照]。
要するに、フロイトラカン派の思考の下では、人はみな自閉症(自体性愛)や自己愛を持っている。あとはそれに対する防衛としての対象愛が巧く機能しているか否かだが、そうは言っても自体性愛や自己愛の残滓ーー固着と云うがーーが必ずある。
この《過去の固着への退行 [Regression zu alten Fixierungen] 》 (フロイト『十七世紀のある悪魔神経症』1923年)がフロイトにとっての発達障害の別名である[参照]。 |