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2025年6月23日月曜日

アモラル、あるいはモラルがない、といふこと自体がモラル

 

すべて世の謹厳なる道徳家だの健全なる思想家などといふものは例外なしに贋物と信じて差支へはない。本当の倫理は健全ではないものだ。そこには必ず倫理自体の自己破壊が行はれてをり、現実に対する反逆が精神の基調をなしてゐるからである。(坂口安吾「デカダン文学論」1946年)

芸術は「通俗」であつてはならぬが、いかほど「俗悪」であつてもよい。人間自体が俗悪なものだからである。むしろ俗悪に徹することだ。素朴や静寂に徹するよりも、俗悪に徹することは、はるかに困難な大事業だ。そこには人の全心全霊のあらゆる力が賭けられることを必要とする。その道は自爆以外にないのである。(坂口安吾「通俗と変貌と」1947年)


実に見事な安吾の文である。世に「通俗道徳」という語があるが、この安吾は道徳自体が通俗であることを事実上示している。そして道徳と倫理の区別。これはスピノザ的である。


柄谷行人:たぶんスピノザの『エチカ』(倫理学)は、認識そのものの倫理性をいったのだと思うんです。人間がたえず表象(想像)にとらわれていることーー「自由意志」もまた想像物です――に対して、徹底的にその「原因」を探ろうとする態度、それがスピノザの倫理です。スピノザにとっては、道徳、つまり善悪の区別も、想像物なのですね。マルクスは、スピノザが「表象」とよんだものを、「イデオロギー」とよんでいる。そして、彼は、人間の考えることはすべてイデオロギーだと考えている。それに対して可能なのは、別の真理(イデオロギー)を立てることではなくて、この「表象」をもたらす「原因」を見出そうとすることだけだと考える。そこから彼の徹底性が出てくる。そこから彼の徹底性が出てくる。そういう徹底性が彼の倫理なのですね。『資本論』の序文で、彼は自分は「自然史的立場」、いわば「善悪の彼岸」に立つといっていますけれど、まさに、それが彼の倫理性ではないかと思うんです。(柄谷行人ー蓮實重彦対談集『闘争のエチカ』1988年)


《徹底的にその「原因」を探ろうとする態度、それがスピノザの倫理》とあるが、これはニーチェが『道徳の系譜』でやったことでもあり、先の安吾はニーチェ的であると言ってもよい。



『道徳の系譜学』の)第二論文の提供する真理は良心の心理学だ。良心とは、一般に信じられているように「人間の中なる神の声」などではない。ーーそれは残虐性の本能であって、もはや外部に向かって放電できなくなってしまったので一転して内面に向かったものだ。

Die zweite Abhandlung gibt die Psychologie des Gewissens: dasselbe ist nicht, wie wohl geglaubt wird, »die Stimme Gottes im Menschen« – es ist der Instinkt der Grausamkeit, der sich rückwärts wendet, nachdem er nicht mehr nach außen hin sich entladen kann.

( ニーチェ『この人を見よ』「なぜ私はこんなに良い本を書くのか」[道徳の系譜学]の節、1888年)


外へ向けて放出されないすべての本能は内へ向けられるーー私が人間の内面化と呼ぶところのものはこれである。後に人間の「魂」と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたごとく薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外へのはけ口が堰き止められてしまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーわけても刑罰がこの防堡の一つだ――は、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを人間自身の方へ向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、これらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、これこそ「良心の疚しさ」の起源である。

Alle Instinkte, welche sich nicht nach außen entladen, wenden sich nach innen - dies ist das, was ich die Verinnerlichung des Menschen nenne: damit wächst erst das an den Menschen heran, was man später seine »Seele« nennt. Die ganze innere Welt, ursprünglich dünn wie zwischen zwei Häute eingespannt, ist in dem Maße auseinander- und aufge-gangen, hat Tiefe, Breite, Höhe bekommen, als die Entladung des Menschen nach außen gehemmt worden ist. Jene furchtbaren Bollwerke, mit denen sich die staatliche Organisation gegen die alten Instinkte der Freiheit schützte - die Strafen gehören vor allem zu diesen Bollwerken -, brachten zuwege, daß alle jene Instinkte des wilden freien schweifenden Menschen sich rückwärts, sich gegen den Menschen selbst wandten. Die Feindschaft, die Grausamkeit, die Lust an der Verfolgung, am Überfall, am Wechsel, an der Zerstörung - alles das gegen die Inhaber solcher Instinkte sich wendend: das ist der Ursprung des »schlechten Gewissens«.

(ニーチェ『道徳の系譜』第二論文16節、1887年)



このニーチェを受けてだろう、フロイトもほとんど同じことを記している[参照]。


柄谷による安吾絶賛があるが当然だ。


◼️柄谷行人氏ロングインタビュー <すべては坂口安吾から学んだ>、2017年10月26日

僕にとって、真に無頼派の名にふさわしいのは安吾ですね。この本の冒頭に書きましたが、 「無頼」という言葉は、一般に考えられているようなものではなく、「頼るべきところのないこと」 (『広辞苑』)です。つまり、それは他人に頼らないことです。その意味では、いわゆるヤクザは無頼とはほど遠い。組織に依存し親分に従い、他人にたかるのだから。その意味で、安吾はヤクザではなく、まさに「無頼」だった。太宰はそうではない。「無頼」であれば、そもそも共産党に入党しないし、転向もしない。彼は頼りっぱなしの人だった。自殺するときまで、他人に頼っている。そういうものを「無頼」とはいいません。言語の本来の意味では、「無頼派」 は安吾だけだったと思います。最初に読んだときから、自分には安吾が性に合っていた。


彼(安吾)がいう「ふるさと」は、普通の意味でのふるさとではない。たとえば、小林秀雄が「故郷喪失」という場合の「故郷」ではない。それは、われわれをあたたかく包み込む同一性ではなく、われわれを突き放す「他なるもの」である。それは意味でもなく無意味でもなくて、非意味である。(柄谷行人『終焉をめぐって』1990年)



ここでの非意味はアモラルだろう、ーー《エスはまったくアモラル(非道徳)であり、自我は道徳的であるように努力する[Das Es ist ganz amoralisch, das Ich ist bemüht, moralisch zu sein]》(フロイト『自我とエス』第5章、1923年)


つまり安吾はフロイト的でもある。



シャルヽ・ペローの童話に「赤頭巾」といふ名高い話があります。既に御存知とは思ひますが、荒筋を申上げますと、赤い頭巾をかぶつてゐるので赤頭巾と呼ばれてゐた可愛い少女が、いつものやうに森のお婆さんを訪ねて行くと、狼がお婆さんに化けてゐて、赤頭巾をムシャ〳〵食べてしまつた、といふ話であります。まつたく、たゞ、それだけの話であります。 


童話といふものには大概教訓、モラル、といふものが有るものですが、この童話には、それが全く欠けてをります。それで、その意味から、アモラルであるといふことで、仏蘭西では甚だ有名な童話であり、さういふ引例の場合に、屡々引合ひに出されるので知られてをります。〔・・・〕

愛くるしくて、心が優しくて、すべて美徳ばかりで悪さといふものが何もない可憐な少女が、森のお婆さんの病気を見舞に行つて、お婆さんに化けて寝てゐる狼にムシャ〳〵食べられてしまふ。 


私達はいきなりそこで突き放されて、何か約束が違つたやうな感じで戸惑ひしながら、然し、思はず目を打たれて、プツンとちよん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかも透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでせうか。〔・・・〕


そこで私はかう思はずにはゐられぬのです。つまり、モラルがない、とか、突き放す、といふこと、それは文学として成立たないやうに思はれるけれども、我々の生きる道にはどうしてもそのやうでなければならぬ崖があつて、そこでは、モラルがない、といふこと自体がモラルなのだ、と。〔・・・〕


生存の孤独とか、我々のふるさとゝいふものは、このやうにむごたらしく、救ひのないものでありませうか。私は、いかにも、そのやうに、むごたらしく、救ひのないものだと思ひます。この暗黒の孤独には、どうしても救ひがない。我々の現身は、道に迷へば、救ひの家を予期して歩くことができる。けれども、この孤独は、いつも曠野を迷ふだけで、救ひの家を予期すらもできない。さうして、最後に、むごたらしいこと、救ひがないといふこと、それだけが、唯一の救ひなのであります。モラルがないといふこと自体がモラルであると同じやうに、救ひがないといふこと自体が救ひであります。


私は文学のふるさと、或いは人間のふるさとを、ここに見ます。文学はここから始まる――私は、そうも思います。


 アモラルな、この突き放した物語だけが文学だというのではありません。否、私はむしろ、このような物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。……

 だが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があろうとは思われない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も。私はそのように信じています。(坂口安吾『文学のふるさと』1941年)



《愛くるしくて、心が優しくて、すべて美徳ばかりで悪さといふものが何もない可憐な少女が、森のお婆さんの病気を見舞に行つて、お婆さんに化けて寝てゐる狼にムシャ〳〵食べられてしまふ。》ーーこれが「人間のふるさと」であり、ラカン用語ならリアルだ。《現実界の位置は、意味を排除することだ[L'orientation du Réel,…, forclot le sens. ]》(Lacan, S23, 16 Mars 1976)ーーあるいは、《意味の排除の不透明な享楽[Jouissance opaque d'exclure le sens ]》(Lacan,  Joyce le Symptôme, AE 569)


さらには《モラルがない、といふこと自体がモラルなのだ》とは、「救いがないこと自体が救いだ」と言ったクレタ島生まれの詩人・作家・政治家ニコス・カザンザキスをも思い起こさせる。


最も重要な救済はまさに救済概念からの救済である[the most important salvation is the salvation from the very idea of salvation] (ニコス・カザンザキス Nikos Kazantzakis, Report to Greco, 1961年)


カザンザキスはニーチェにゾッコンだった作家だが、道徳がないということ自体が道徳、救済がないこと自体が救済、これがスピノザ、ニーチェ、フロイトの倫理にほかならず、安吾はその系譜に紛いようもなくある。


とはいえ私の最も好きな安吾は《今日はオッカサマの命日で、オッカサマがオレを助けに来て下さるだろう》と言った安吾であるが[参照]、これ自体、あまりにフロイト的である。



なお柄谷は安吾と母の関係をフロイトの糸巻き遊びの事例を出して次のように言っている。

安吾が、少年期以来、単調で反復的な無機質の風景にどうしようもなく惹かれていたということは、フロイトが最初に与えた「無機物への回帰」という意味での死の欲動を思わせる。しかし、私はむしろフロイトが例にとった孫娘のケースを考えたい。この子どもは、母親に置き去りにされた苦痛を能動的に越えようとしたのである。それは少年期の安吾についてもいえるだろう。おそらく安吾にとって、海と空と砂を見て過ごすことは、母の不在を克服する「遊び」であったといってよい。そうした風景は彼に快を与える。しかし、それは母の不在という不快さを再喚起することにおいてなされているのである。(柄谷行人「坂口安吾とフロイト」1999年ーー文庫版『堕落論』解説)


これは欲動の昇華(欲動断念)に伴う快の獲得(ラカンの剰余享楽)に関わる[参照]。