「儒教批判(福沢諭吉と丸山眞男)」で二人を引用したがね、私は知らないわけじゃないよ、次のような話を。
エラそうなことを言うつもりはないがね、私自身、福沢諭吉に対する上のような観点に囚われていたし、そもそも福沢諭吉の書をまともに読んでいない。でも彼は何よりもまず日本近代においての傑出した「文明批評家」であって、「脱亜入欧」の代表的な起源には間違いない。で、入欧したら植民地主義イデオロギーに染まるに決まっている。
現在は逆に、「500年来の植民地主義ーー吸血鬼の舞踏会ーーの終焉とその波及効果」に思いを馳せる時であり、具体的には「脱米入BRICS」の時だ。でもーー私の知る限りーー殆ど誰もそれを「文明批評的には」正面から語っていない。むしろこのままズルズル、アメリカの属国として南支那海等での戦争に引き込まれるように見える。
文明批評家としての先人は、私にとってまずは加藤周一だがね。
私は自分では研究者仲間からディレッタントと思われるくらい比較的に関心対象が広いほうだと思ってますが、その私が逆立ちしても加藤君の視界には及ばない。加藤君の守備範囲が広すぎるのではなく、日本の文学者やアカデミシャンの守備範囲(或は攻略範囲)が狭すぎるから余計目立つのです。(丸山真男「文学史と思想史について」『加藤周一著作集』第5巻附録 月報, 1980年5月) |
でも丸山眞男や福沢諭吉も含めて、彼らがいま生きていて、現在の状況を見たらなんというのかは、強く興味があるね。その意味での「福沢諭吉」だよ。 |
…………
以下、過去の二人の批評家の福沢諭吉評を掲げておく。
◼️小林秀雄「福沢諭吉」1962年 |
言うまでもなく、福沢諭吉は、わが国の精神史が、漢学から洋学に転向する時の勢いを、最も早く見て取った人だが、この人の本当の豪さは、新学問の明敏な理解者解説者たるところにはなかったのであり、この思想転向に際して、日本の思想家が強いられた特殊な意味合いを、恐らく誰よりもはっきりと看破していたところにある。これは私の勝手な忖度ではなく、「文明論之概略」の緒言が明らかにしているところだが、本文は緒言を隠し勝ちなものだ。彼は次のような意見を述べている。 西洋の学者が、文明について新説を唱え、人の耳目を驚かすと言っても、これは先人の遺物を琢磨して、これを改進するという仕事であるが、今日わが国の学者の文明論という課業は全く異なる。私達は、水より火に変じ、無より有に移ろうとするが如き卒爾の文明の変化に会して、言わば新しく文明の論を始造しなければならぬ窮地に立たされている。その点で、今の学者の課業はまことに至難だと言う。 |
こういう処に、既にこの文明批評家の仕事の、はっきりした動機が覗える。彼は活路は洋学にしかないと衆に先んじて知ったが、ただそういう事なら、これは天下の大勢であって、早かれ遅かれ凡庸な進歩主義者にも明瞭になった事であった。福沢の炯眼はもっと深いところに至っていた。洋学は活路を示したが、同時に私達の追い込まれた現実の窮境も、はっきりと示したという事が見抜かれていた。そこで、彼は思想家としてどういう態度を取ったろうというと、この窮地に立った課業の困難こそわが国の学者の特権であり、西洋の学者の知る事の出来ぬ経験であると考えた。この現に立っている私達の窮況困難を、敢て、吾を見舞った「好機」「僥倖」と観ずる道を行かなければ、新しい思想のわが国に於ける実りは期待出来ぬ、そう考えた。 |
西洋の学者は、既に体を成した文明のうちにあって、他国の有様を臆測推量する事しか出来ないが、我が学者は、そのような曖昧な事ではなく、異常な過渡期に生きている御蔭で、自己がなした旧文明の経験によって、学び知った新文明を照らす事が出来る。この「実験の一事」が、福沢に言わせれば「今の一世を過ぐれば、決して再び得べからざる」「僥倖」なのである。 「試に見よ、方今我国の洋学者流、其前年は悉皆漢書生ならざるはなし、悉皆神仏者ならざるはなし。封建の士族に非ざれば、封建の民なり。恰も一身にして二生を経るが如く一人にして両身あるが如し。二生相比し両身相較し、其前生前身に得たるものを以て之を今生今身に得たる西洋の文明に照らして、其形影の互に反射するを見ば、果して何の観を為す可きや。其議論必ず確実ならざるを得ざるなり。」 |
彼の「学問のすゝめ」は、洋学のすすめではなかった。洋学はすすめるまでもない急激な流行であった。学塾三年間三百円の元手は、月給五、七十円の正味手取の利益となる、洋学が高利貸と雖ども、これに三舎を譲る可き」官許の商売と化さんとするのを見たから、彼は、学問の「私立」を、「学者は学者にて私に事を行ふ可き」事をすすめたのである。 西洋者流は時流には乗ったが、自覚を欠いていた。彼等には、福沢に言わせれば、「独立の丹心の発露」というものが見られない。彼等を、俄に咎める事も出来ないのは、彼等が、世間の気風に酔って自ら知らないからであるが、この「無形無体の気風」に大事があると福沢は言う。 |
「遽に一個の人に就き、一場の事を見て、名状す可きものに非ざる」「所謂スピッリット」なるものを看取する事が、文明の論を成す大切な前提である、そういう考えは、早くも「学問のすゝめ」のうちに現れているのである。ところで、洋学を学びながら、この「スピリット」に制せられ、今の洋学者流はどういう事になっているか。「恰も一身両頭あるが如く、私に在っては智なり、官に在つては愚なり、これを散ずれば明なり、これを集めれば暗なり、政府は衆智の集る所にして、一愚人の事を行ふものと云ふ可し、豈怪まざるを得んや」。そういう事になっている。 この「恰も一身両頭あるが如」き空想的な人間達には、「恰も一身にして二生を経るが如」 き実情に置かれているという自覚がない。従って、「其形影の互に反射するを見」るという事がない。彼等の人格は分裂しているのだ。そういう福沢の考えを見ていると、思想上の転向問題というものが、極めて本質的に考えられている事がよくわかる。イデオロギイの衣替えでは、人間は転向出来ない。分裂するだけだ。而も転向者等はこれに気附かない。最近の転向問題にも、同じ図が繰返された事を思うがよい。 |
福沢は、当時の洋学者流が、「畢竟漢学者流の悪習を免かれざるものにて、恰も漢を体にして洋を衣にするが如し」と評した。悪習とは、勿論、漢学という官許の商売によって身に附いた習癖を言うのであって、日新の学に対し、古学を否定する論は、彼には見られない。のみならず 、「物理原則の部分を除くときは、取る可きもの甚だ少からず」という古学の、彼の語法を借りれば「精神の密」について彼の鋭敏は、決して鈍磨する事がなかった。……(小林秀雄「福沢諭吉」1962年) |
◼️中村光夫「知識階級」1959年 |
「抑も明治年間の日本人にて憂ふ可きものとは何ぞや。外国の交際是れなり。」と福澤諭吉は、明治の初年に書いていますが、維新の動きそのものも、この「憂い」に対処する変革であったと言えましょう。 知識階級の発生も、この必要に応ずるためでした。〔・・・〕 |
この幕末から明治の初期にかけて育った知識階級の典型は福澤諭吉であり、彼の生涯と心情とは、名著『福翁自伝』をはじめ多くの著作によって、いまでも生き生きと僕等に語りかけます。彼は多くの同時代人のうち、自己を語ることに成功した稀な例外です。 彼は文学や文学者は軽視していたようですが、この意味ではすぐれた文学者でした。 しかし彼のような筆を持たず、成功者の生涯を送らなかった同僚のなかにも優秀な人材は多かったので、この世代の人々は、わが国の知識階級の巨人伝説時代という感じをあたえます。 彼等はいずれも生涯の半ばで維新に際会し、福澤の言うように、「一身にして二世を経る」ような経験をしました。 |
維新は徳川幕府の瓦解であり、その限りでは多くは幕臣あるいは幕府によって衣食していた彼等には、身分と生計を失うことでした。 しかしこの旧秩序の転覆は、幕府の秩序のもとではどうしても異端視されがちであった洋学者や洋学書生には、失うより得るところが多い変革であったので、ことに維新政府が一般の予期に反して開国の方針に決してからは、彼等は在来の技能だけを必要視された賎民の地位から、特殊的な指導者の席をあたえられることになりました。彼等の知識にたいして、はじめてそれにふさわしい(と彼等の信じた)尊敬が払われるようになったことは、新政府にたいする多くの感情的なこだわりを忘れさせるに足るものでした。(幕府の直参としての誇りを持つ者が、諸国の藩士すなわち陪臣の組織する明治政府に仕えるのは、決断を要することでした。) 武士の支配した封建社会で、学者の地位は表面的な格式から僕等が想像するほど高くなかったので、ことに聖賢の道や治国の法を説く漢学者とちがって、洋学者はもとは洋癖を持った大名の趣味の相手としか見られなかったし、西洋との交通の緊密化と、国内の社会の行詰りが、次第に彼等に政治経済にかんする眼をひらかせた幕末になっても、彼等は「デイデイが大きな屋敷の御出入りになった」ように、幕府から──主として文書を翻訳する──技能を買われたにすぎませんでした。 こういう言葉を吐いた福澤諭吉は、すでに『西洋事情』の著者であり、英国をはじめとしてヨーロッパの政治や社会制度にかんしても、相当な知識を持っていました。 |
彼は大きな「屋敷」の住人である幕府の高官たちが、どんなに無知で臆病な人物であるかをよく知って居り、彼等の偏見だけでなく、伝来の身分門閥の制度が、知識と能力のある人間の登用を堅く拒んでいるのを深く憤っていました。 「私の為に門閥制度は親の敵」とは彼が『自伝』の冒頭に記した言葉です。こういう幕府は倒されねばならないし、また内外から逼迫する時勢を収拾する力を持たないというのが、彼の持論でした。 彼が倒幕の運動にすすんで加わらなかったのは、その主張をなす志士たちが幕府に輪をかけた攘夷家たちであると思っていたからで、それだけに維新後の新政府が一転して開国の方針を採用し、身分制度の廃止においても旧幕時代には考えられなかったほど徹底した政策をとると、諭吉は年来の理想の思いがけない実視に、ほとんど狂喜しています。 彼の著作は『西洋事情』から『学問のすゝめ』にいたるまで、革新の「筋書と為り、台帳と為り、全国民をして自由改進の新様の舞を舞はしめた」ので、彼は「悪に強い者は善にも強く」ほとんど野蛮な実行力で、彼の思想を実現してくれた新政府にたいして、讃辞を惜しみませんでした。 |
彼自身が政府に加わらなかったのは、学者や思想家が、政治家あるいは軍人にたいして抱く本能的な不信の念が、彼にあっては同時代人の誰より強かっただけでなく、維新の変革にさまざまな形で露呈された人間性の醜さが、彼に世の風潮にともなって官途につくことを嫌わせたのではないかと思われます。彼は新政府の価値をみとめ、それを支持するにやぶさかではなかったのですが、それに膝を屈して仕えるのは、誇りが許さなかったのです。 彼は維新当初の政府が、強藩の少数者の専制であったことも「時勢において止むを得ざるもの」であったとみとめて、次のように言います。 「維新の大業は首として旧強藩の力に依つて成りしものなり。此一挙につき其士人が心身を労したるは如何ばかりなる可きや??生命は人間無上の宝なり、諸藩の士人は此宝を投じて維新の大業を成したる者にして其業成れば随て政府の権力を握るも亦謂はれなきに非ず。」(『藩閥寡人政府論』) しかし彼は別の個所で、彼等の実行力がその「無学」からでていると断じています。 「其有志者は大抵皆藩中有為の人物、祖先以来我国固有の武士道に養はれて其活溌穎敏、磊落不羈なるは殆んど天性にして大胆至極なれども、本来支那の文学道義に入ること甚だ深からず、儒学の極意より之を視れば概して無学と云はざるを得ず。此無学の一派が維新の大事業を成して、……一片の武士道以て報国の大義を重んじ、苟も自国の利益とあれば何事に寄らず之に従ふこと水の低きに就くが如く、旧を棄るに吝ならず、新を入るゝに躊躇せず、……之を彼の支那朝鮮人等が儒教主義に養はれ、恰も自大己惚の虚文を以て、脳中縦横に書散らされたる者に比すれば同日の談に非ず。」(福澤全集緒言) |
この言葉が、どこまで彼の真実であったかは問題です。日本の武士階級が、朝鮮か支那の教養ある官吏たちに比べて、はるかに容易に西洋文明を消化し得たのは、彼等が、支那の文学にかんする素養が浅く、要するに「無学」であったからだという観察は、わが国の西洋文明の様相が、何故他の東洋諸国に一歩先んずることができたかという問題にたいするひとつの解答と思われます。 むろん他の、政治的、社会的原因はいろいろあるにしろ、西洋文明を輸入する主体としての知識階級について言えば、わが国の武士階級は、他の東洋諸国の知的な中核をなした人々より、少なくもそれを功利的側面から受入れるには、非常に適していたと言えます。 これは必ずしも福澤の言うように、彼等が「無学」であったからではなく、彼等の教養の質が(その武人としての身分と機能に制約されて)実践的、功利的な面を強調したためと思われます。江戸時代の支配道徳は、いつも文弱をきびしく戒めてきたので、一身の修養、あるいは一国の政治の理念としてだけ「学問」は重んじられたのです。 それを敢て「無学」と言い切った福澤の気持には、儒学を偏重しようとする一部の同時代人の傾向にたいする皮肉もありますが、さらに深いところでは、維新の功臣たちにたいする軽蔑の念が働いていたようです。 彼が言外に言いたかったことは、彼等が漢学に無学であると同様に、洋学にも無学であったということです。あるいはそのことは、言うまでもないこととして、この文章に前提されているのかも知れません。諭吉は彼等にただ大切な生命を危険にさらす、匹夫の勇だけを見たとも考えられます。少なくも日本という巨船を新しい大洋に進めるのに、蒸気の罐かまをたくのは彼等だが、船橋にあって舵をとるのは自分だという自信を持っていたでしょう。 |
そしてこれは福澤ひとりでなく、彼や森有礼を中心にして明六社に集まった当時の知識人たちが例外なく持った誇りでした。この誇りは責任感と表裏するもので、明六社はこの責任を日本にたいして果すために結成されたものですが、彼等が説得しようとした相手は一般人よりむしろ政府の当路者でした。 明六社の機関誌として発刊され、わずか二年たらずで廃刊した『明六雑誌』は、このわが国の知識階級の英雄時代の気風をよく伝えています。明六社の同人には、前記の二人のほか西周、津田真道をはじめ、加藤弘之、西村茂樹、箕作麟祥、などが居り、彼等の大部分は政府の役人でもありました。学者が官途につくべきか否かという点について、福澤と他の同人の間に議論が行われたことがありますが、学者自体が国家の全体にたいして持つ、指導者あるいは救済者としての意義は、誰にも疑われたことはなかったので、「方今我国の文明を進むるには……人に先さきだって事を為し以て人民の由るべき標的を示す者なかる可べからず、今此標的と為るべき人物を求むるに農の中にあらず商の中にあらず又和漢の学者中にも在らず、其任に当る者に唯一種の洋学者流あるのみ。」と福澤は『学者職分論』に言います。彼がここで学者がともすれば政府に仕えることをもって、自己の抱負を実現する唯一の手段のように考えているのを非難し、洋学者はすべからく民間に自立して、独立の立場から国家に貢献すべきだといったのにたいして、加藤弘之はそんなことをすれば、学者はみな民間に去ってしまって、「不学の者」だけが政府にのこることになるが、それでもよいのかと言っています。 |
彼等の自恃の念が強かったことは、こういう言葉の端からもうかがえます。実際においても、政府が彼等を雇うのでなく、彼等が政府をたすけてやるという気風でした。 『明六雑誌』の第二号で西周はかなり『学者職分論』を批評しながら、自分は「翻訳の小技を以て政府に給仕する者」であるが、久しい以前から福澤の高風を慕っている、いますぐに辞職するわけに行かないが、いつか福澤と同じ道を歩きたい、と言い、津田真道は、官吏でいながら、「力を尽して人民自由の説を主張して喩たとへ政府の命と雖いへども無理なる事は之を拒む権ある事を知らしめ自主自由の気象を我人民に陶鋳するは我輩の大に望む所なり此事は在官私立に拘らず各其地位に従い其人相当に尽力する事出来べきなり」と言っています。 こういう自由は、いかに明治初年でも、すべての官吏に許されていたわけではなく、彼等の洋学の知識が、上役にさえ憚られていたことを示すものです。 当時の洋学の水準はむろん高いとは言えず、西周の言うように、「世の大家先生と称する者も未だ其蘊奥を究めたりと謂ふべからず」という有様でしたが、これは旧幕時代にくらべて、洋学の範囲が、政治経済法律等のあらたな領域にひろまり、需要の度が急激にたかまったのに比して、これを修める者の人数も少なく、教育の機関も整備されていなかったためです。 |
福沢諭吉には、これという専門の知識はなかったと言ってもよいのですが、同じことは哲学の先駆者西周や社会学の津田真道などにも言えるので、西周みずから認めるように「苟も入る其門を得れば則ち可なり」という状態でした。 むろん、それだけの知識を得るだけにも、容易ならぬ努力を要したことはたしかです。福澤が大阪の緒方洪庵の塾にいたとき、夜眠るに枕を用いたことがなく、机にもたれて仮睡するだけであったという挿話は有名ですが、幕末にイギリスに五年の予定で留学した、いわゆる遣英留学生、外山正一、箕作大六(菊池大麓)ほか十数名は、ロンドンに着いてから一個所に合宿し、朝七時起床、八時朝食、九時から午後一時半迄「寸時も机を離れるを得ぬ」規律のもとに勉強し、一時半から五時までの間を昼食と外出の時間として、五時にかえると六時晩餐、七時から十時まで勉強、十時以後は各自の寝室で明日の課業の下調べをして十二時ごろ就寝、というほとんど軍隊式の統御のもとに勉強をしたということです。 しかし彼等は一年あまりで維新の変に遭い、帰国してしまったので、英語を学んだほか、いわゆる普通学を修めた程度で終ったようです。外山や菊池などが明治になってからいま一度留学しなおしたのは、そのためでしょう。 |
彼等の知識は、その修得が困難であったために稀少価値を持ったので、その内容は大したことはなかったわけですが、わが国の近代史上、知識階級がもっとも強い権威を振ったのは、彼等が「無鳥里とりなきさとの蝙蝠、無学社会の指南」であったこの一時期でした。皮肉な現象ですが、或る意味では当然なことであるかも知れません。 福澤が「有志者」にたいしてつかった「無学」という形容詞は、こう考えると彼等自身にあてはまると言えます。この「無学」は──福澤が有志者について言ったと同様に──必ずしも当時の洋学者の欠点とばかり見られないので、ことに後世の専門知識に捕えられて、自分の判断力や感情さえ失った、知識階級にくらべると、彼等が「活溌鋭敏」で、自在に運動し、現実感覚と行動性を失わなかったのは、「無学」のためと思われます。 彼等は洋学においては──環境に制せられて──手薄な素養しか持てなかったのに反して、漢学を中心とする伝統的教養は、今日では想像できぬほど、深く広く身につけていました。もとより時代の水準から言えば公約数的な性格のものにすぎなかったにしろ、この素地が彼等の行動や思考の根本の規範になったことは動かせません。 |
ここでさきにひいた川路聖謨らの、西洋の事物に接触させるには、まず漢学を学ばせるという注意が生きてきます。 おそらく、ここでものを言うのは「儒学の極意」などでなく、それに陶冶されて育ったわが国の武士に独自な気風、福澤の言葉をかりれば「祖先伝来我国固有の武士道」なのです。さきにも述べたように、わが国の武士階級、ことに下級武士たちの気風は、西洋文朋の移入にさいして決定的な役割を演じたと思われますが、維新前後の洋学者たちの知識、あるいは「無知」が、漢学の素養の上に、西洋の普通学の釉をかけた程度のものであったのは、彼等の判断力を、生きた常識を失わぬ健康なものとする結果を生み、彼等自身にも、また当時の日本にも大きな幸いをもたらしました。 彼等はただ西洋から、無学な偏見を持たぬ人間、観察し同感し得た点だけを摂取しようとしたので、その間の心事について、福澤は「一片の武士道以て報国の大義を重んじ、苟も自国の利益とあれば何事に寄らず之に従ふこと水の低きに就くが如く、旧を棄るに吝ならず、新を入るゝに躊躇せず」と言っています。 彼等の思考においては、人間の幸福と「自国の利益」は離れがたく結びついているというより、まったく同一のものであったので、それが後に問題をはらむわけですが、ともかく彼等は功利主義を説き、私の利益を図ることが、結局は国家を益すると説いても、彼等自身は近代的な合理主義とは異質な武士気質の持主でした。この彼等自身の意識しなかった矛盾に、明治初年の英雄時代の知識階級のもっとも大きな特質があったと思われます。 |
なかでもっとも徹底した功利主義を説き、私利を計る必要を主張して「拝金宗」と呼ばれた福澤諭吉は、彼が洋学に志した動機を次のように説明しています。 「抑そもそも余は旧中津藩の士族にして、少小の時より藩士同様に漢書を学び年二十歳ばかりにして始めて洋学を志したるは今を去ること凡そ三十余年前なり、此時に洋書を読み始めたるは何の目的を以てしたる歟、今に於て自から解すること能はず」 とまで言い、当時の蘭学者は大抵医術の研究を目的としたのであるが、自分は医者の子でもなく、医学研究の志もなかったし、また洋学を修めれば誉れを郷党に得ることができるかというと、反対に「却つて公衆の怒に触るる」のが当時の実状であり、「既に誉れなく又利益なし何の為めに辛苦勤学したるやと尋ねらるれば唯今にても返答に困る次第」であるとくりかえしてから、自らこの理由を次のように述べます。 「一歩を進めて考ふれば説なきに非ず、即ち余は日本の士族の子弟にして士族一般先天遺伝の教育に浴し、一種の気風を具へたるは疑もなき事実にして其気風とは唯出来難き事を好んで之を勤むるの心是れなり当時横文を読むの業は極めて六かしきことにして容易に出来難き学問なりし故に之を勤めたることならん。或は洋学ならで他に何か困難なる事業もありて偶然思ひ附きたらば其方に身を委ねたるやも知るべからず」 これは少し言いすぎかも知れません。『福翁自伝』において、彼が洋学を始めたのは、西洋の兵書を読むという藩の必要に応えるためであり、同時に長崎遊学は、門閥制度で身動きできない藩内の生活から脱出する機会でもありました。 |
しかしこれを学ぶことが彼にとって、一身の利益に結びつかぬ無償の情熱であったのはたしかなようで、同じく『自伝』によると、これはたんに彼ひとりのことでなく、彼が学んだ大阪の緒方塾の書生に共通した気風でした。 「粗衣粗食一見看る影もない貧書生でありながら、智力思想の活溌高尚なことは王侯貴人も眼下に見下すといふ気位」と、諭吉は当時の『書生気質』を述べていますが、こういう動機で学問をした者が唱えた功利主義がどういう性格のものかは明らかです。 むろん諭吉はこういう書生の気風にたいして或る意味では批判的です。 「今の学問は目的に非ずして生計を求むるの方便なり、生計に縁なき学問は封建士族の事なり」と彼は学生にたいして断言します。彼は「金力独尊の時勢」を進んで謳歌しようとさえします。 |
しかし彼が内心では、「封建士族」の学問の仕方を是認して、「生計を求める方便」としての学問を本当でないと思っていたことは『自伝』のなかの次の一節でも察せられます。 「今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行先ばかり考へてゐるやうでは修学出来なからうと思ふ……如何どうしたらば立身が出来るだらうか、如何したらば金が手に這入るだらうか、立派な家に住むことが出来るだらうか、如何すれば旨い物を喰ひ、好い着物を着られるだらうかと云ふやうな事にばかり心を引かれて齷齪あくせく勉強すると云ふことでは決して真の勉強は出来ないだらう。」 功利主義もひとつの哲学の学説である以上、その主張者が無償の情熱を持っていても不思議はありません。むしろそうでなければならないのですが、これが社会を支配する原則となり、個人の出世欲を合理化する倫理になると、そのなかに住む「書生」たちは、もはや「王侯貴人」の傲りを持てなくなります。 こういう変化が起ったのは、明六社の人々のように、明治の外で生れて、明治の社会を、彼等の理念によってつくったと自負した人々のあとから、明治の社会の内部で成長した新しい世代の青年が大人になった時期、ちょうど明治二十年をあいだに挟む数年間においてです。 新しい文学がこの時期期起ったのは偶然でありません。…… (中村光夫「知識階級」1959年) |