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2025年10月29日水曜日

言葉に愛想を尽かして、ーーわかんねえならニブくて幸せ者ってことだ


言葉に愛想を尽かして と

こういうことも言葉で書くしかなくて

紙の上に並んだ文字を見ている

からだが身じろぎする と

次の行を続けるがそれが真実かどうか


これを読んでいるのは書いた私だ

いや書かれた私と書くべきか

私は私という代名詞にしか宿っていない

のではないかと不安になるが

脈拍は取りあえず正常だ


ーー「朝」より、谷川俊太郎『詩に就いて』所収(2015年)


………………



私が自我について語っていけない理由はないではないか、「自我(moi)」はもはや「自身(soi)」ではないのだから pourquoi ne parlerais-je pas de « moi », puisque « moi » n'est plus « soi »? (『彼自身によるロラン・バルト』「自我、私(Moi, je )」 1975年)


私(Je)、自我(moi)、自身(soi)か。Jemoiの違いは、シンボリックな主語とイマジネールな自我とすれば、自身(soi)はリアルだろうよ。






バルトには《私の享楽の身体[mon corps de jouissance]》(『テキストの快楽』1973)という表現があるが、これが究極の自身(soi )だろうよ。

現実界のなかの穴は主体である[Un trou dans le réel, voilà le sujet. (Lacan, S13, 15 Décembre 1965)

身体は穴である[(le) corps…C'est un trou](Lacan, conférence du 30 novembre 1974, Nice



ところで先のバルトはこう続く。


人称代名詞と呼ばれている代名詞、すべてがここで演じられるのだ。私は永久に、代名詞の競技場の中に閉じこめられている。「私」は想像界を発動し、「あなた」と「彼」はパラノイアを発動する。しかしそれと同時に、読み取り手によっては、ひそかに、モアレの反射のように、すべてが逆転させられる可能性もある。「自我、私(moi, je)」と言うとき、「私 je)」は自我ではないということがありうる。つまり私は自我をカーニバルの喧騒のうちに打ちこわしてしまうのだ。


Pronoms dits personnels : tout se joue ici, je suis enfermé à jamais dans la lice pronominale : «  je » mobilise l'imaginaire, « vous » et « il » la paranoïa. Mais aussi, fugitivement, selon le lecteur, tout, comme les reflets d'une moire, peut se retourner : dans «moi, je », « je » peut n'être pas moi, qu'il casse d'une façon carnavalesque; 


私は、サドがやっていたように、私に向かって「あなた」と言うことができる。それは、私自身の内部で、エクリチュールの労働者、製作者、産出者を、作品の主体(著者)から切り離すためだ。他方では、次のような現象もある。すなわち、自身について語らないことは、《私は、自分について語らない"です》という意味になりうる。そして、「彼」と呼んで自身について語ることは、私は私の自我について《あたかもいくぶんか死んでいるもののように》、パラノイア的強調という薄い霧の中に捉われているものであるかのように語っている、という意味になりうるし、それはさらにまた、私は自分の演ずる登場人物に対して距離設定〔異化〕をしなければならないブレヒトの役者の流儀によって私の自我について語っている、という意味にもなりうる。その流儀とはつまり、登場人物を「示す」のであって、それに化身するのではなく、また、せりふの言いかたにいわば爪ではじき飛ばすような効果を与えることであり、それは、代名詞をそれが代理している名詞から、イマージュをその支持体から、想像界をその鏡から、引きはがす効果のためである(プレヒトは役者に、自分の役をいっさい第三人称で考えるようにすすめていた)。

je puis me dire « vous », comme Sade le faisait, pour détacher en moi l'ouvrier, le fabricant, le producteur d'écriture, du sujet de l'œuvre (l'Auteur); d'un autre côté, ne pas parler de soi peut vouloir dire :je suis Celui qui ne parle pas de lui; et parler de soi en disant « il » peut vouloir dire : je parle de moi comme d'un peu mort, pris dans une légère brume d'emphase paranoïaque, ou encore : je parle de moi à la façon de l'acteur brechtien qui doit distancer son personnage : le « montrer », non l'incarner, et donner à son débit comme une chiquenaude dont l'effet est de décoller le pronom de son nom, l'image de son support, l'imaginaire de son miroir (Brecht recommandait à l'acteur de penser tout son rôle à la troisième personne). 

(ロラン・バルト『彼自身によるロラン・バルト』「自我、私(Moi, je )」)




バルトはこの書のほかの項では次のようにも言っている。



ここに書かれているいっさいは、小説の一登場人物ーーというより、むしろ複数の登場人物たち――によって語られているものと見なされるべきだ。なぜなら、想像界とは小説の宿命的材料であり、自分自身について語る人間がさまよい歩く、歯形の段階構成をもつ迷路であり、その想像界を、複数の仮面(《ペルソナェ》)が分担しているのだから。それらの仮面は舞台の奥行きの深さに応じて段階的に登場している(しかもその背後には《誰も》いないのだ)。この本は、選択をせず、交替原理によって作動している。それは、単純な想像界が次々と噴出するにつれ、批評的発作が次々とおこるにつれて、進行する。が、それらの発作そのものはつねに、よそからの反響によって生ずる効果でしかない。(自己)批評以上に純粋な想像界はないのだ。この本の内実は、究極的に、それゆえ全体にわたって、小説的である。エッセーの言述の中へ第三人称が闖入し、しかもその第三人称がどんな虚構的人物をもさしていないとしたら、それは、ジャンルというものの再編成が必要であることを示している。すなわちエッセイはおのれがほとんど小説であること、固有名詞の登場しない小説であることを、自分に対して白状するべきであろう。


Tout ceci doit être considéré comme dit par un personnage de roman - ou plutôt par plusieurs. Car l'imaginaire, matière fatale du roman et labyrinthe des redans dans lesquels se fourvoie celui qui parle de lui-même, l'imaginaire est pris en charge par plusieurs masques (personae), échelonnés selon la profondeur de la scène (et cependant personne derrière). Le livre ne choisit pas, il fonctionne par alternance, il marche par bouffées d'imaginaire simple et d'accès critiques, mais ces accès eux-mêmes ne sont jamais que des effets de retentissement : pas de plus pur imaginaire que la critique (de soi). La substance de ce livre, finalement, est donc totalement romanesque. L'intrusion, dans le discours de l'essai, d'une troisième personne qui ne renvoie cependant à aucune créature fictive, marque la nécessité de remodeler les genres : que l'essài s'avoue presque un roman: un roman sans noms propres. 


(『彼自身によるロラン・バルト』「自我の本 Le livre du Moi 1975年)



私は何度か、このブログはフィクションの登場人物として書いているという意味合いのことを言ってきたが、ほぼこの意味だからな。より過激に言えば、《言語は本来的に虚構である[le langage est, par nature, fictionnel]》(ロラン・バルト『明るい部屋』1980年)ーーだよ。


そもそも言葉なんて信用しちゃいけない。

俊太郎)僕は詩を書き始めた頃から、言葉というものを信用していませんでしたね。一九五〇年代の頃は武満徹なんかと一緒に西部劇に夢中でしたから、あれこそ男の生きる道で、原稿書いたりするのは男じゃねぇやって感じでした(笑)。言葉ってものを最初から信用していない、力があるものではないっていう考えでずーっと来ていた。詩を書きながら、言葉ってものを常に疑ってきたわけです。疑ってきたからこそ、いろんなことを試みたんだと思います。だから、それにはプラスとマイナスの両面があると思うんです。(谷川俊太郎&谷川賢作インタビュー、2013年)



私は作家でも詩人でもないが、一人称単数代名詞の選択には実に苦労するよ。


谷川俊太郎の語っていることはよ〜くわかるね、



◼️谷川俊太郎「私」1995

四十余年前、主に「僕」という一人称を使って私は詩を書き始めました。ふだんも私は僕と言っていて、友人同士のあいだではときに俺になることもあったにしろ、それはごく自然な選択だったと思います。作品における一人称と現実の私とのあいだに、ほとんど距離はなかったと見ていいでしょう。第二詩集である「六十二のソネット」では一人称は「私」に統一されています。どうして「僕」を「私」に変えたのか、はっきりした記憶はありませんが、もしかすると一種の背伸びだったのかもしれない。本来はなかったであろう「僕」のニュアンス、いささか子どもっぽい、ときにはカマトトともとられかねない感じが一九五〇年代にはもうあって、それを避けたかったのでしょう。


それ以後の作では「僕」「私」「俺」などが混在しています。作品の中に作者、すなわち私自身ではない主人公が登場し始めたということもありますが、その主人公が直接話法で語らない場合にも、詩を書いている私と、詩の中の私とのあいだに一篇一篇の作によって異なるにしろ微妙な距離がでてきたことがその理由でしょう。つまり詩を一種のフィクションとして書くことを、私は知らず知らずのうちに覚えたと言えます。しかしこのことはこういう単純な説明では解明できない、詩というものの本質にかかわっています。私はいまだに一貫した一人称を用いることが出来ず、一篇の作を書き始めるごとに、どんな一人称にしようか迷うことが多いのです。


近作「世間知ラズ」と「モーツァルトを聴く人」では「ぼく」が使われていて、それは当時の私の気分による、意識的な選択でした。「私」に比べると「ぼく」は一種の傷つきやすさがあり、その頼りなさが私には必要だった。その「ぼく」は「二十億光年の孤独」の中の「僕」とは違うと私は考えています。

一篇の詩とその作者である詩人との関係は、ふつう考えられているよりはるかに複雑微妙で流動的です。一篇の詩はたしかにその作者の現実生活なしでは生まれてこないものですが、その詩に述べられた考えや感情が、そのまま作者である詩人が現実に抱いたものであるかと言えば、そうは言えないことも多いのです。詩は思想を伝える道具ではないし、意見を述べる場でもない、またそれはいわゆる自己表現のための手段でもないのです。詩において言葉は「物」にならなければならないとはよく言われることですが、もしそうであるとすれば、たとえば一個の美しい細工の小箱を前にするときと同じような態度が、読者には必要とされるのではないでしょうか。そこでは言葉は木材のような材質としてとらえられ、それを削り、磨き、美しく組み合わせる技術が詩人に求められる倫理ともいうべきものであり、そこに確固として存在している事実こそが、詩の文体の強さであるはずです。


作者である詩人は「形」の中にひそんでいる。何かを言いたいから書いたのだという視点からだけでは、詩の中の「私」はとらえられないと思いますし、詩に書かれている内容をもとにして、詩人の正邪を断罪するのも公平でないと思う。とは言うものの、詩が散文による書き物と違って、この世の道徳的判断からまったく免責されているというふうには私も考えていません。詩人はたぶん現実世界から見れば不道徳な存在とならざるをえない一面をもっていて、その自覚なしには彼ないし彼女はこの世に生きてはいけないのです。自らのいかがわしさを通して、詩人は世間にむすびつくと今の私は考えています。(谷川俊太郎「私」1995年)




だからーーここでいくらか飛躍して言うがーー最近はとくに、出来るだけ自分のことは語らないようにしてんだ。


主体の最も深刻な疎外は、主体が自らについて話し始めたときに起こる[là l'aliénation la plus profonde du sujet …c'est elle que nous rencontrons d'abord quand le sujet commence à nous parler de lui .](ラカン「ローマ講演」E281, 1953年)


じっさい、私がもっとも自分の弱みをさらけ出す羽目になるのは、自分の《私的なこと》を口外するときである。弱みと言っても、「スキャンダル」の危険によって、というわけではなく、むしろ、私的なことをしゃべりながら私の想像界をそのもっとも堅い固形で提示してしまうからなのだ。そして想像界とはすなわち他人の捕獲権の支配下にある姿のことである。

C'est en effet lorsque je divulgue mon privé que je m'expose le plus : non par risque du« scandale  » , mais parce que, alors, je présente mon imaginaire dans sa consistance la plus forte ; et l'imaginaire, c'est cela même sur quoi les autres ont barre : 

(『彼自身によるロラン・バルト』「私的なこと(Le privé)」 1975年)



わかんねえかな、この感じ。わかんねえならニブくて幸せ者ってことだよ。あるいはひょっとして「自分語り」が好きなヤツは、無意識的に自己隠蔽してんじゃないかね、《自分について多くを語ることは、自分を隠す一つの手段となり得る[Viel von sich reden kann auch ein Mittel sein, sich zu verbergen. ]》(ニーチェ『善悪の彼岸』169番、1886年)