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2025年10月8日水曜日

戦前の天皇制イデオロギーを支えた儒教的原理


儒教と天皇制でグーグル検索するとこんなのが出てくる、



「儒教は天皇制を支える基盤として機能した」とあるが、もう少し調べると、これはまずは小島毅という東大の先生の書のまとめなのだろう。


八世紀の日本で、律令制定や歴史編纂が行われたのは、中国を模倣したからだ。中国でそうしていたのは儒教思想によるものだった。つまり、「日本」も「天皇」も儒教を思想資源としていたといってよい。その後も儒教は、日本の政治文化にいろいろと作用してきた。八世紀以来太平洋戦争の敗戦まで、天皇が君主として連綿と存続しているのは事実だが、その内実は変容してきた。江戸時代末期から明治の初期、いわゆる幕末維新期には、天皇という存在の意味やそのありかたについて、従来とは異なる見解が提起され、それらが採用されて天皇制が変化している。そして、ここでも儒教が思想資源として大きく作用した。(小島毅『天皇と儒教思想』2018年)



やはり儒教はよくないんじゃないかね、特に日本的儒教は儒教批判(福沢諭吉と丸山眞男)



◼️儒学の根本的な間違いは、家庭の中、家庭の中で行なわれる関係を、他人と他人との関係にそのまま及ぼそうとすることにある(丸山眞男「文明論之概略を読む」1986)

◼️中国の儒教は普遍宗教ではなく、赤の他人同士の道徳はない(丸山眞男「手帖54 」)(手帖54 「「アムネスティ・インターナショナル日本」メンバーとの対話」1993.10)

◼️儒学は人間性に対するナイーブな楽天主義を表現している(丸山真男「対話」昭18.)

◼️儒教は世間道徳であり、個の意識は非常に生まれにくい(手帖41「丸山眞男先生を囲む会(場)」1993)

◼️儒教倫理は秩序に順応することが最高の道徳になる(手帖52「歴史と政治」1949)

◼️日本のパブリックはお上(共同体がパブリックの観念の発達を阻害している)(手帖10 「内山秀夫研究会特別ゼミナール 第二回(上)」1979.6)

◼️日本の儒教は中国儒学をそのまま適用していない(手帖19「早稲田大学 丸山眞男自主ゼミナールの記録 第二回(上)」1985.3


もう少し丸山眞男を追っていくと、こうも言っている。


◼️丸山眞男「忠誠と反逆」1960年

幕藩体制が儒教的な原理によって正当化されていたことは諸刃の剣の役割を果たし、やがて幕府や藩の「失政」によって、原理への忠誠は組織への忠誠から剥離されるようになる。尊王論とともに幕末維新の二大潮流の一つとなった「公議輿論」の思想は「天下を公と為す」という伝統観念が、新たな状況と知識の下で次々と意味転換を遂げて行った過程にほかならない。(丸山眞男「忠誠と反逆」1960年 全集⑧p.188)


伝統的生活関係の動揺と激変によって、自我がこれまで同一化(アイデンティファイ)していた集団ないしは価値への帰属感が失われるとき、そこには当然痛切な疎外意識が発生する。この疎外意識がきっかけとなって、反逆が、または既成の忠誠対象の転移が、行なわれる。といっても帰属感の減退と疎外意識とが自動的にそうした行動様式を生むわけではない。疎外感がネガティヴな形をとるときはむしろ隠遁として現われるだろう。それが積極的な目標意識と結びついてはじめて、あるいは「原理」に依拠する反逆となり、あるいは目標を象徴化した権威的人格にたいする熱狂的な帰依と忠誠に転化する。(「忠誠と反逆」pp.188-189)



維新が神武創業の古にかえる天皇親政という観念にになわれ、とくに幼い天皇を「擁」した寡頭政府は、急テンポな政治的集中と「文明開化」の政策とをすべて「普天率土」のイデオロギーで合理化するかたわら、早くも讒謗律や新聞紙条例によって「官員様」への侮辱や反抗を「天子様」へのそれと同一化して行ったので、民権論者はほとんど最初から「国体」への忠誠論と向き合わねばならなかった。…


権力の側のこういう「論理」の強制に直面して、民権論者としては否応なく、そもそも忠誠とは何か、という根源的な問いにつき当らざるをえない。彼等はまさに忠誠と反逆の再定義をかかげて闘争するのである。まず第一に彼等は、ネーションへの忠誠を、君主や上司への忠誠と範疇的に区別することから出発する。…第二の定義は反逆の方向性を顚倒させ、あるいは少なくも人民から政府への一方交通ではなくて双方交通に拡大する途である。…このような忠誠と反逆の再定義は、民権論者に於いてけっして卒然としてヨーロッパの歴史と思想から継受したものではない。むしろ、ルソー、ミル、スペンサーなどへの理解そのものが、伝統的カテゴリーの媒介を通じて行なわれた、という一般的な事態がここにもあてはまるのである。具体的な人格あるいは官府への忠誠からネーションへの忠誠を剥離し、「抽象化」する作業において、テコの役割を果たしたのは、「夫レ天下ハ天下ノ天下ニシテ官府ノ私有ニ非ザルハ、今更蝶々ノ弁ヲ俟タズ。‥」という「天下為公」の観念であり、…政治権力の人民に対する謀叛という発想もまた「政府ハ人民ノ天ニ非ザル也。‥」…というような、天または天道の観念に依拠していた。国会開設の要求が、維新の指導理念の一つであった公議輿論思想から系譜をひいており、「万機公論」自体が天道観との密接な関連において誕生した以上、それは当然のことであり、むしろ民権論者は維新の「約束」の実現のいう形でその要求をつきつけたわけである。(「忠誠と反逆」 同上pp.212-216)


一般に個人が各種の複数的な集団に同時に属し、したがって個人の忠誠が多様に分割されているような社会では、それだけ政治権力が国民の忠誠を独占したり、あるいは戦争というような非常事態に当って、急速に国民の忠誠を集中したりすることが困難である。けれども他面また、そうした社会では-とくにその中の多様な集団が拠って立つ価値原理や組織原則においてもプルーラルな場合には-ある集団ないしその価値原理から疎外されたり、またはそれへの帰属感が減退しても、そうした疎外なり減退なりは、彼が同時に属している他の集団または価値原理に一層忠誠を投入することで補充され易いから、全体としての社会の精神的安定度は比較的に高いわけである。…日本帝国は、徳川時代にはまだしも分散していた権力・栄誉・富・尊敬などもろもろの社会的価値を、急速に天皇制ピラミッドの胎内に吸収し、忠誠競合の可能性をもつライヴァルからその牙をつぎつぎと抜きとりながら、ネーションへの忠誠を組織(官僚制)への忠誠に、さらに組織への忠誠を神格化された天皇への忠誠に合一化して行った…。(「忠誠と反逆」 同上pp.242-243)



つまり丸山眞男が事実上、「天皇制を支えた儒教」の起源、少なくともその重要なひとつなのだろう、より厳密には「戦前の天皇制イデオロギーを支えた儒教的原理」の。


ところで丸山眞男曰くの《中国の儒教は普遍宗教ではなく、赤の他人同士の道徳はない》とは、柄谷行人の言い方なら、儒教はせいぜいーーよくてもーー、「世界宗教」だということだ。


D=普遍宗教は、自由な個人のアソシエーションとして相互扶助的な共同体を創り出すことを目指します。ですから、Dは共同体的拘束や国家が強いる服従に抵抗します。つまり、AとBを批判し、否定します。また、階級分化と貧富の格差を必然的にもたらすCを批判し、否定します。これこそが、D=普遍宗教は「A・B・Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式である、ということの意味です。


キリスト教、イスラム教、仏教などは当初、このような「普遍宗教」として出現したと考えられます。

これらの普遍宗教は、当初は弾圧されましたが、いずれも世界帝国の宗教、すなわち「世界宗教」となりました。キリスト教はローマ帝国で、イスラム教はイスラム帝国で、仏教は唐王朝で、「国教」となりました。

しかし、普遍宗教は「国教」になると、これまで批判してきたはずの王=祭司を頂点とする国家体制の支配の道具に成り果てました。普遍宗教は世界宗教となることで、「堕落」したのです。(柄谷行人「普遍宗教は甦る」2016年)


いずれにせよ、こういう捉え方から、次のような観点への移行は半歩もない。



25年前の第二次世界大戦が終るまで、日本の思想や道徳は、君臣、父子、兄弟、主従の関係を軸としていた。ことに全体の中心をなしていた天皇中心的国家観は、国家と国民の生活の全体を陰に陽に組織する原理のようなものとなっていた。人はそれを天皇制と呼び、戦前の諸悪の根源のように言うけれども、実際は、それはむしろ古来の日本人の「経験」の構造に由来するものではないであろうか。むしろそれがおもてにあらわれ、制度や道徳の形に結晶した結果として考えることの出来るものではないであろうか。


天皇のために死するということが〔・・・〕自己の自己に対する責任と倫理を包含することなく、君臣の関係がすでに自己の意志を越えて存在しており、その関係の責任の「根拠」が自己になくて、関係そのものに在る時、そしてそれが自発的に当然うけとられるべきものとして要求される時、そういう関係の歴史的、社会学的因果づけは一応捨象して、そのものとしての説明を日本人の「経験」の構造に帰せざるをえないであろう。〔・・・〕その「経験」は、個人をではなく、二人あるいは複数の人間を定義するものである。これは単に仮設ではなく、現実であったのであり、また、現実である。それが「経験」である以上、人間にとって根源的であり、それを外部から矯正することは出来ない。たとえば親子関係の事実上の存在がそのまま「経験」のこれ以上分析を許されぬ単位になっている、と言うこと、この複合関係から個人が決して脱出出来ないということ、これは思うよりは遥かに深刻なことである。(森有正『木々は光を浴びて』1972年)



もとより、「天皇」は「父親」が投影されているスクリーンに過ぎない。(中井久夫「「昭和」を送るーーひととしての昭和天皇」初出「文化会議」1989年)

日本国民の中国、朝鮮(韓国)、アジア諸国に対する責任は、一人一人の責任が昭和天皇の責任と五十歩百歩である。私が戦時中食べた『外米』はベトナムに数十万の餓死者を出させた収奪物である。〔・・・〕天皇の死後もはや昭和天皇に責任を帰して、国民は高枕でおれない。われわれはアジアに対して『昭和天皇』である。問題は常にわれわれにある。(中井久夫「「昭和」を送る――ひととしての昭和天皇」1989年)

明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003年 『時のしずく』所収)


他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させる。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。自己非難から自分を守るために、他人に対して同じ非難をあびせるこのやり方は、何かこばみがたい自動的なものがある。〔・・・〕


パラノイアでは、このような他人への非難の投影[Projektion des Vorwurfes auf einen anderen] は、内容を変更することなく行われ、したがってまた現実から遊離しており、妄想形成の過程として顕にされる。 

(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片(症例ドラ)』1905年)


………………


※附記


なお柄谷は次のように言っている。


◼️柄谷行人インタビュー「改憲を許さない日本人の無意識」2016年7月号 文学界

ーー『憲法の無意識』のI章とⅡ章で驚いたのは、九条と一条との密接な関係を示されたことです。「九条を守ることが、一条を守ることになる」と書かれています。


柄谷  近年、天皇·皇后の発言等々に感銘を受けていて、これはどういうことだろうかと考えたんです。憲法の制定過程を見ると、マッカーサーは何よりも天皇制の維持を重視していて、九条はそのためのいわば付録に過ぎなかったことがわかる。実際、朝鮮戦争の勃発に際しマッカーサーは日本政府に再軍備を要請し、九条の改定を迫っています。九条は彼にとってその程度のものだったということです。


マッカーサーは次期大統領に立候補する気でいたので、何をおいても日本統治に成功しなければいけない。そのために天皇制を象徴天皇として存続きせることが必要だった。彼がとったのは、歴代の日本の統治者がとってきたやり方です。ただ当時、ソ連、連合軍諸国だけでなく、アメリカの世論でも天皇の戦争責任を問う意見が強かった。その中で、あえて天皇制を存続させようとすれば、戦争放棄の条項が国際世論を説得させる切り札として必要だった。だから、最初は重要なのは一条で、九条は副次的なものにすぎなかった。今はその地位が逆転しています。九条のほうが重要である。しかも九条の有力な後援者が、一条で規定されている天皇·皇后である。その意味で、地位が逆転しているのですが、一条と九条のつながりは消えていません。


ーー九条が日本人の無意識に深く根を下ろしている構造を本書は論じていますが、九条が一条と強く結びついているとすれば、つまり天皇が国民の無意識を代弁しているということでしょうか?


柄谷  そういう感じですね。その場合、天皇といっても、昭和天皇では駄目なんです。湾岸戦争勃発の前、八九年に昭和天皇が逝去したのは、ソ連圏の崩壊と同時期です。米ソ冷戦の終わりと昭和の終わりとが同時にあった。それぞれは予測できることだったとはいえ、両方の終焉を同時に迎えたというのは日本人にとってやはり大きなことですよ。僕がその頃『終焉をめぐって』(1990)を書いたのはそのためです。「歴史の終焉」という言葉が流行していた時期ですが、日本人にとっては、昭和の終焉が大きな意味をもったと思います。


昭和天皇が逝去し、明仁天皇は即位式で、「常に国民の幸福を願いつつ、日本国憲法を遵守し、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓い………」と述べた。


この発言は宮内庁の用意した原文に自らが加筆したものだと言われています。「憲法を遵守し」というのは、ちょっと変ではないですか?  自らを規定する一条のことをわざわざ遵守すると言うだろうか。象徴天皇の範囲にとどまるという意志表明であるといえなくはないけど、僕はやはり、これは九条のことだと思いましたね。そして、その後まもなく、湾岸戦争があり、九条が争点となった。一条と九条に密接な関係があるという考えがより強まりました。


〔・・・〕

ーー徳川の体制とは、非軍事化ということと、もう一つは象徴天皇制ですね。天皇に手をつけないというか、そのまま祭り上げて。

柄谷 それを意識的におこなったのは、徳川が初めてだと思います。日本で天皇が実権を持つような時期は、後醍醐天皇が「王政復古」をとなえた十四世紀以後そうであったように、戦乱の時代です。家康はそれに終止符を打ち、また、天皇を丁重に揺るぎない場所に安置して片づけてしまった。それが憲法第一条の「先行形態」ですよ。徳川の体制では天皇は見えない。実際、その存在さえ知らない人が多かったと思います。しかし、それによって徳川体制は機能していた。それは象徴天皇制ですね。


ーー九条の「先行形態」を明治憲法ではなく、そのさらに前にさかのぼって見いだすことによって、柄谷さんの中で徳川体制に対する評価が変わった部分があるのでしょうか。


柄谷  ありますね。ただ、もともと僕は徳川の体制や思想に関して、結構両義的でしたね。しかも、僕の考えは、九条が徳川の体制の「高次元での回復」だ、ということです。「高次元での回復」はマルクスの言葉ですが、それは彼が読んだアメリカの文化人類学者モーガンの『古代社会』の氏族社会についての考えにもとづいています。共産主義が氏族社会の高次元での回復だとマルクスがいうとき、そこには当然、否定がふくまれています。そのままの回復、あるいはロマン主義的な回復では駄目です。

柄谷  徳川的なものをそのまま肯定したらひどいものになるのは決まっています。そもそも、徳川体制は封建制(地方分権)のようでいて、じつは非常に中央集権的です。大名は各地にいましたが、参勤交代を強制された。あのようなシステムは中国の帝国の全盛期でもありえない。また、徳川は、戦国時代の間に事実上消滅していた身分制社会を復活させた。ある面からいえばじつに反動的で、耐えがたいものです。坂口安吾の「日本文化私観」も事実上、徳川文化批判ですね。が、それを単に否定すると、どういうことになるか。明治になると、征韓論が起きて「秀吉万歳」となった。その意味で、戦国時代が回帰したのです。だから、徳川の「高次元での回復」というのは、同時に、徳川のマイナス面を否定することでなければならない。その意味では開国ではあるけれど、明治のような開国なら、鎖国のほうがましです。丸山真男が幕末を「第一の開国」、戦後を「第二の開国」と言いましたが、第二の開国は徳川の平和すなわち鎖国の回復という要素が入っていないと、真の開国にならないでしょう。だから、むしろ今後に「第三の開国」が必要ですね。第三の開国とは、憲法九条を実行することです。


ーー「高次元での回復」がポイントで、徳川体制に戻れとか、それを日本固有の文化として評価するという立場ではないのですね。


柄谷  そうですね。それに、僕は戦後に人々が徳川のことを思い出しだとは思わないんです。すでに明治維新以後七十年以上経っていたから。しかし、無意識に徳川を思い出したのだと思います。


ここでの高次元での回帰こそ、柄谷にとって普遍宗教の回帰としての交換様式Dである。

普遍宗教もまた、交換様式の観点から見ることができる。一言で言えば、それは、交換様式Aが交換様式ΒCによって解体された後に、それを高次元で回復しようとするものである。言い換えれば、互酬原理によって成り立つ社会が国家の支配や貨幣経済の浸透によって解体された時、そこにあった互酬的=相互扶助的な関係を高次元で回復するものである。私はそれを交換様式Dと呼ぶ。(柄谷行人『哲学の起源』2012年)





共産主義とは『古代社会』にあった交換様式Aの高次元での回復である。すなわち、交換様式Dの出現である。〔・・・〕

Dの出現は、一度だけでなく、幾度もくりかえされる。それは多くの場合、普遍宗教の始祖に帰れというかたちをとる。たとえば、千年王国やさまざまな異端の運動がそうである。しかし、産業資本主義が発達した社会段階では、Dがもたらす運動は外見上宗教性を失った。社会主義の運動も、プルードンやマルクス以後「科学的社会主義」とみなされるようになった。が、それも根本的に交換様式Dをめざすものであり、その意味で普遍宗教の性格を保持しているのである。とはいえDは、それとして意識的に取り出せるものではない。「神の国」がそうであるように、「ここにある、あそこにある」といえるようなものではない。また、それは人間の意識的な企画によって実現されるものでもない。それは、いわば、”向こうから来る” ものなのだ。 (柄谷行人『力と交換様式』2022年)



「向こうから来る」とあるが、私は次の文脈で捉えている。


内部で止揚されたもの[Aufgehobene]は、外部から回帰する[daß das innerlich Aufgehobene von außen wiederkehrt. ](フロイト『症例シュレーバー 』第3章、1911年)

止揚Aufhebenは真に二重の意味を示す。それは「否定する」と同時に「保存する」の意味である[Das Aufheben stellt seine wahrhafte gedoppelte Bedeutung dar, (…) ; es ist ein Negieren und ein Aufbewahren zugleich; ](ヘーゲル『精神現象学 Phänomenologie des Geistes』1807年)

否定は抑圧されているものを認知する一つの方法であり、本来は抑圧の止揚Aufhebungを意味しているが、それは勿論、抑圧されているものの承認ではない[Die Verneinung ist eine Art, das Verdrängte zur Kenntnis zu nehmen, eigentlich schon eine Aufhebung der Verdrängung, aber freilich keine Annahme des Verdrängten.](フロイト『否定Verneinung』1925年)



なお柄谷は既に2009年の段階でこう言っている。

普遍宗教はそれぞれ各地の世界帝国の下で、「抑圧されたものの回帰」として出現したのである。

交換様式という観点からいえば、普遍宗教は交換様式BとCが支配的である世界帝国の下で、それによって抑圧された交換様式Aが高次の次元で回帰したもの、すなわち、交換様式Dである。(柄谷行人「第三回長池講義 要綱」2009/3/28


より詳しくは普遍宗教の回帰