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2017年2月18日土曜日

俺がこれを見過ごしたら一生自分を卑劣漢だと思うだろうな

以下、メモ。

ーーグレアム・グリーンと吉行淳之介の文章はネット上から拾った。

ぼくはずいぶん長い間、あの時期のことを思い返すたびに、まるで石の下の虫のように復讐欲が生きながらえているのに気がついたものである。唯一の変化は、 石の下を見ることがだんだん頻繁でなくなってゆくことであった。ぼくが小説を書きはじめると、過去はその力の一部分を失うようになった。それは書かれることによって、ぼくから離れたのである。(グレアム・グリーン『復讐』)

《これでは、まるで復讐の武器として小説を選んでいる印象を与えるが、それだけのことではあるまい。少年のころ、激しく傷つくということは、傷つく能力があるから傷つくのであって、その能力の内容といえば、豊かな感受性と鋭い感覚である。そして、例外はあるにしても、その種の能力はしばしば、病弱とか異常体質とか極度に内攻する心とか、さまざまなマイナスを肥料として繁ってゆく。そして、そういうマイナスは、とくに少年期の日常生活において、大きなマイナスとして作用するものだ。さらに、感受性や感覚のプラス自体が、マイナスに働くわけなので、結局プラスをそのままプラスとして生かすためには、文学の世界に入って行かざるを得ない。》吉行淳之介『「復讐」のために ─文学は何のためにあるのか─』)

文学作品をつくる場合、追究するテーマというものがあり、もちろんそれを追究する情熱というものがあるわけだが、これはいわば「近因」である。一方、その作者がむかし文学をつくるという場所に追い込まれたこと、そのときの激しい心持ち、それが「遠因」といえるわけで、その遠因がいつまでもなまなましく、一種の情熱というかたちで残っていないと、作品に血が通ってこない。追い込まれたあげくに、一つの世界が開かれるのを見るのである。

だが語れば語るほど「話が厄介に」なってくるのは……

一人前の作家として世間に認められたとき、『遠因』が消え失せてしまう、とおもわせるところがある。(……)しかし、グリ ーンもそんなことでは埋めることのできない、深い暗い穴を心に持っていた、と考えるべきであろう。

ーーもちろん吉行淳之介の考え方への批判はあるだろう、たとえば吉行の小説の《主人公は「母性を欠いた女」つまり「娼婦」として、あるいは娼婦のようにしてしか女性と交渉を持てないが、それは「母の拒絶」「女の裏切り」に会ってしまった男の、ありふれた「女嫌い」の物語に過ぎない。》(上野千鶴子)

十五歳で吉行栄助と結婚したあぐり安久利は、十六歳で長男・淳之介を生んでいる。このとき栄助は、文学を志して東京にいた。栄助を追うようにして地元・岡 山から上京した安久利は、日本の洋髪の草分けである山野千枝子のもとに弟子入りした。そのとき、安久利は、姑の言いつけに従って、一歳にも満たない淳之介 を岡山に置いてきている。安久利の修行中、淳之介は、岡山と東京を往復しながら、ほとんどを祖母・盛代と過ごした。お礼奉公を三年勤め上げた安久利が、一 旦岡山に帰れたとき、淳之介は四歳になっていた。母の帰郷を知らされた淳之介は、「ママが帰ってくるの? この畳の上に?」と言って、大喜びしたという。 (復讐のために ──吉行淳之介論──吉田優子

《小説を書く場合、私は依然として読者を意識することができない。(略)自分の中にいる一人の読者だけを意識して作品を書き上げた後に、私は自分と精神構造や感受性の似た少数の読者が、あるいはこの作品を愛読してくれるかもしれぬ、とはかない期待を抱く。しかし、大して大きな数字を予想することはできない。》

 それでは食えないので、小説以外の雑文(エッセイ)を書く。

《ところが、私はそのような文章においては、自分自身以外の読者というものをはっきり頭に置いて書くことができる。いかにも、自分は職業に従事しているという心持ちになれる。》(吉行淳之介全集 第12巻

 ーー特に感想なし。上野センセは中井久夫ににはゾッコンらしいが。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。相違点は、そのインパクトである。外傷性記憶のインパクトは強烈である、幼児型記憶はほどんどすべてがささやかないことである。その相違を説明するのにどういう仮説が適当であろうか。

幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説は、両者の明白な類似性からして、確度が高いと私は考える。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)
原抑圧とは、何かの内容を無意識のなかに抑圧することではない。そうではなく、無意識を構成する抑圧、無意識のまさに空間を創出すること、「システム意識 System Bewußt (Bw)・システム前意識System Vorbewußt (Vbw)」 と「システム無意識System Unbewußt (Ubw)」 とのあいだの間隙を作り出すことである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)
……ここにはカントからヘーゲルへの移行の鍵となる帰結がある。すなわち、内容と形式とのあいだの裂け目は、内容自体のなかに投影される(反映し返される reflected back into)。それは内容が「全てではない not all 」ことの表示としてである。何かが内容から抑圧され/締め出されているのだ。形式自体を確立するこの締め出しが、「原抑圧」 (Ur‐Verdrängung)である。そして如何にすべての抑圧された内容を引き出しても、この原抑圧はしつこく存在し続ける。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)

※参照:「原抑圧の悪夢

…………

フロイトは《経験された無力の(寄る辺なき Hilflosigkeit)状況を外傷的状況》と呼び、《現在の状況(トラウマ的状況)がむかしに経験した外傷経験を思いださせる》(『制止、症状、不安』1926年)としている。

我々は「トラウマ的 traumatisch」という語を次の経験に用いる。すなわち「トラウマ的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、1916年、私訳)
現実界とは、トラウマの形式として……(言語によって)表象されえないものとして、現われる。 …le réel se soit présenté …sous la forme du trauma,… ne représente(ラカン、S.11ーー基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による)

…………

以下、手許の(主に)中井久夫の書から。

笑われるかもしれないが、大戦中、飢餓と教師や上級生の私刑の苦痛のあまり、さきのほうの生命が縮んでもいいから今日一日、あるいはこの場を生かし通したまえと、“神”に祈ったことが一度や二度ではなかった……(中井久夫「知命の年に」1984年初出『記憶の肖像』所収)
……私は対人関係に不器用であり、多くの人に迷惑を掛けたし、また、何度かあそこで死んでいても不思議でないという箇所があったが、とにかくここまで生かしていただいた。振り返ると実にきわどい人生だった。(中井久夫「私の死生観――“私の消滅”を様々にイメージ」1994年初出『 精神科医がものを書くとき』所収 )
私がヴァレリーを開くのは、決って危機の時であった。(……)

私には二十歳代は個人的にも家庭的にも職場的にも危機が重なってきた。私はそれらを正面から解決していったが、ついに、医学部の構造を批判的に書いた匿名の一文が露頭して私は“謝罪”を拒み、破門されて微生物の研究から精神科に移った。移った後はヴァレリー先生を呼び出す必要は地震まで生じていない。(中井久夫「ヴァレリーと私」2008.9.25(書き下ろし)『日時計の影』所収)

《たまたま、私のすぐ前で、教授が私の指導者で十年先輩の助手を連続殴打するということがあった。教授の後ろにいた私はとっさに教授を羽交い締めした。身体が動いてから追いかけて「俺がこれを見過ごしたら一生自分を卑劣漢だと思うだろうな」という考えがやってきて、さらに「殿、ご乱心」「とんだ松の廊下よ」と状況をユーモラスなものにみるゆとりが出たころ、教授の力が抜けて「ナカイ、わかった、わかった、もうしないから放せ」という声が聞こえた。  これだけのことであるが、しかし、ただでは済まないであろう。その夜、私はクラブの部室を開けて、研究者全員を集め、「今までもこういうことがなかったか」と詰問した。「あったけど、問題にしようとすると本人たちがやめてくれというんだ」「私は決してそうはいわない」ということで、けっきょく教授が謝罪し、講座制が一時撤廃され、研究員全員より成る研究員会による所長公選というところまで行った。これはまたしてもジャーナリズムに出さないということで成功した。札幌医大から来た富山さんと私と二人で、5階建ての新ウィルス研究所棟の部屋割りを3時間でやり遂げたまではよかったのだが、そのうち、若い者たちが所内の人事を左右するような議論が横行するようになった。私は、革命の後の権力のもてあそびは、こんな小さな改革でも起こるのだな、とぞっとして、東大伝染病研究所の流動研究員となって、東京に去ることにした。》(中井久夫「楡林達夫『日本の医者』などへの解説とあとがき」)

夫人には話さずじまいだったが、当時の私は最悪の状態にあった。事実上母校を去って東京で流動研究員となっていて、身を寄せた先の研究所で自己批判を迫られていた。フッサールという哲学者の本を読んでいるところを見つかったのである。研究室主宰者は、「『プラウダ』がついに核酸の重要性を認めたよ」と喜びの涙を流しておられた、誠実で不遇のマルクス主義者だった。傘下の者が「ブルジョア哲学」にうつつを抜かすのを許せなかったのであろう。筆名で書いたものもバレて、そのこともお気に召さなかった。

しかし、私にはやはり理不尽に思えた。「かつて政党に加入したこともない者が政治的な場でもないここでなぜ自己批判か」と返して、押し問答になった。結局、私は「自己批判」を拒否した。(……)

破門は私が現状打開を図る機の熟さないうちに起こった。時あたかも、長男の義務を果たすこと乏しくて私の家は傾き、友の足は遠のき、また「知りしひと皆とつぎし」頃であった。 (中井久夫「Y夫人のこと」1993年初出『家族の深淵』所収)


私は高校二年の時、「隠れた人生が最高の人生である」というデカルトの言葉にたいへん共感した。私を共鳴させたものは何であったろうか。私は権力欲や支配欲を、自分の精神を危険に導く誘惑者だとみなしていた。ある時、友人が私を「無欲な人か途方もない大欲の人だ」と評したことが記憶に残っている。私はひっそりした片隅の生活を求めながら、私の知識欲がそれを破壊するだろうという予感を持っていた。その予感には不吉なものがあった。私は自分の頭が私をひきずる力を感じながら、それに抵抗した。それにはかねての私の自己嫌悪が役立った。 (中井久夫「編集から始めた私」1998年初出『時のしずく』所収 )
……心的外傷には別の面もある。殺人者の自首はしばしば、被害者の出てくる悪夢というPTSD症状に耐えかねて起こる(これを治療するべきかという倫理的問題がある)。 ある種の心的外傷は「良心」あるいは「超自我」に通じる地下通路を持つのであるまいか。阪神・淡路大震災の被害者への共感は、過去の震災、戦災の経験者に著しく、トラウマは「共感」「同情」の成長の原点となる面をも持つということができまいか。心に傷のない人間があろうか(「季節よ、城よ、無傷な心がどこにあろう」――ランボー「地獄の一季節」)。心の傷は、人間的な心の持ち主の証でもある(中井久夫「トラウマとその治療経験――外傷性障害私見」2000年初出『徴候・記憶・外傷』所収)
外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。

しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。素質による程度の差はあるかもしれないが、どのような人でも、残虐ないじめや拷問、反復する性虐待を受ければ外傷的記憶が生じる。また、外傷を受けつづけた人、外傷性記憶を長く持ちつづけた人の後遺症は、心が痩せ(貧困化)ひずみ(歪曲)いじけ(萎縮)ることである。これをほどくことが治療戦略の最終目標である。 (同上、中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年)

最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)
……一般に、語られる外傷性事態は、二次的な体験、再燃、再演であることが多い。学校でのいじめが滑らかに語られる時など、奥にもう一つあると一度は考えてみる必要がある。(……)

しかし、再燃、再演かと推定されても、当面はそれをもっぱら問題にしてよい。急いで核心に迫るべきではない。それは治療関係の解消あるいは解離その他の厄介な症状を起こす確率が高い。「流れがつまれば水下より迫れ(下流の障害から除去せよ)」とは下水掃除の常道である。〔中井久夫「トラウマと治療体験」『徴候・記憶・外傷』所収)
…………

頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平成は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。

小児性を克服できずに育った、とこれを咎める者もいるだろうが、とても、当の小児にとっても後の大人にとってもおのれの力だけで克服できるようなしろものではない、小児期の深傷〔ふかで〕というものは。やわらかな感受性を衝いて、人間苦の真中へ、まっすぐに入った打撃であるのだ。これをどう生きながらえる。たいていはしばらく、五年十年あるいは二十年三十年と、自身の業苦からわずかに剥離したかたちで生きるのだろう。一身の苦にあまり耽りこむものではない、という戒めがすくなくとも昔の人生智にはあったに違いない。一身の苦を離れてそれぞれの年齢での、家での、社会での役割のほうに付いて。芯がむなしいような心地でながらく過すうちに、傷を克服したとは言わないが、さほど歪まずとも受け止めていられるだけの、社会的人格の《体力》がついてくる。人の親となる頃からそろそろ、と俗には思われているようだ。

しかし一身の傷はあくまでも一身の内面にゆだねられる、個人において精神的に克服されなくてはならない、克服されなくては前へ進めない、偽善は許されない、という一般的な感じ方の世の中であるとすれば、どういうことになるだろう。また社会的な役割の、観念も実態もよほど薄い、個人がいつまでもただの個人として留まることを許される、あるいは放置される世の中であるとすれば。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』)

…………

もし、あのまま私がブラチスラヴァの研究所に赴いていたらーー当時私はひとり身で血も今より熱かったーーひとりの日本人留学生が1968年に彼地で行方不明になったという小記事が昨年あたりどこかの新聞に載ったかも知れない。モンゴル出身者を含め多くの留学生がチェコスロヴァキア学友の側に立って銃をとったからである。(中井久夫『治療文化論』1990年)
古都風景の中の電信柱が「見えない」ように、繁華街のホームレスが「見えない」ように、そして善良なドイツ人の強制収容所が「見えなかった」ように「選択的非注意 selective inatension」という人間の心理的メカニズムによって、いじめが行われていても、それが自然の一部、風景の一部としか見えなくなる。あるいは全く見えなくなる。(中井久夫「いじめの政治学」1997年)
「病者への畏敬」ということは軽々に語るべきことではなく、シュヴァイツァーふうの神々しさにも問題はある。神々しい治療者には患者は俗っぽい悩みーー九割九分はもとを辿れば四大欲望のからむ通俗的苦悩であるーーを語れず、煎じつめれば「あるべきか、あらざるべきか」ということになり、「あるべきである」という必要十分の理由など人生にないーーだから人生は面白いのだがーーから、「あるべき根拠の不足」によって死ぬという不幸になりかねない。しかしなおごく低声で、私はこの畏敬について語りたい。そもそもいったい誰が「殺せ、殺せ」という幻の声を内に聞きつつ、なおひとりも殺さずに、むしろ恐縮して生きているというりっぱな生き方ができるであろうか。私だと一人二人は危ういおそれがある。(中井久夫『治療文化論』1990年)

…………

父母の結婚は見合いであるが、お互いに失望を生んだ。父親と母親は文化が違いすぎた。そこに私が生まれてきたのだが、祖父母は、父の付け焼き刃の大正デモクラシーが大嫌いで、早熟の気味があった私に家の将来を托すると父の前で公言して、父親と私の間までが微妙になった。 (中井久夫「私が私になる以前のこと」『時のしずく』2005所収)
……「治療文化論」は時々引用された。なぜか必ず奈良盆地についての三ページであった。(……)あの一節には私をなかだちとして何かが働いているのであろうか。たとえば、私の祖父――丘浅次郎の生物学によって自らをつくり、老子から魯迅までを愛読し、顕微鏡のぞきと書、彫刻、絵画、写真、釣りに日を送り迎えた好事家、自らと村のためにと財を蕩尽した旧村長の、一族にはエゴイストと不評の祖父。あるいその娘の母――いくらか傷害を持ち、末期の一カ月を除いて幸せとはいえぬ生涯を送り、百科事典を愛読してよく六十四歳の生涯を閉じた母の力が……。(『治療文化論』「あとがき」1990)

ーー中井久夫の幼児期記憶のひとつ、「母親がガラスの器にイチジクの実を入れてほの暗い廊下を向こうから歩いてくる」(ロラン・バルトの想起記述と中井久夫の幼児型記憶)

◆Schumann - Davidsbündlertänze, Op. 6 - 「Wie Aus Der Ferne 遠くからやってくるように」(Walter Gieseking)




立上がると、足裏の下の畳の感覚が新鮮で、古い畳なのに、鼻腔の奥に藺草のにおいが漂って消えた。それと同時に、雷が鳴ると吊ってもらって潜りこんだ蚊帳の匂いや、縁側で涼んでいるときの蚊遣線香の匂いや、線香花火の火薬の匂いや、さまざまの少年時代のにおいの幻覚が、一斉に彼の鼻腔を押しよせてきた。(吉行淳之介『『砂の上の植物群』)

2016年10月4日火曜日

軀の中を凧のように通り抜けてゆく匂い

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人の名だ。……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻」 手塚富雄訳)

ーー《わたしのほかに誰が知ろう、アリアドネが何であるかを!……これらすべての謎は、いままでだれ一人解いた者がなかった。そこに謎があることに気がついた者さえいるかどうか疑わしい。》(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

…………

長い病気の恢復期のような心持が、軀のすみずみまで行きわたっていた。恢復期の特徴に、感覚が鋭くなること、幼少年期の記憶が軀の中を凧のように通り抜けてゆくこととがある。その記憶は、薄荷のような後味を残して消えてゆく。

立上がると、足裏の下の畳の感覚が新鮮で、古い畳なのに、鼻腔の奥に藺草のにおいが漂って消えた。それと同時に、雷が鳴ると吊ってもらって潜りこんだ蚊帳の匂いや、縁側で涼んでいるときの蚊遣線香の匂いや、線香花火の火薬の匂いや、さまざまの少年時代のにおいの幻覚が、一斉に彼の鼻腔を押しよせてきた。(吉行淳之介『砂の上の植物群』)

《プルーストにおいては、五感のうち三つの感覚によって思い出が導き出される。しかし、その木目〔きめ〕という点で実は音響的であるよりもむしろ《香りをもつ》ものというべき声を別とすれば、私の場合、思い出や欲望や死や不可能な回帰は、プルーストとはおもむきが異なっている。私の身体は、マドレーヌ菓子や舗石やバルベックのナプキンの話にうまく乗せられることはないのだ。二度と戻ってくるはずのないもののうちで、私に戻ってくるもの、それは匂いである。》(『彼自身によるロラン・バルト』)


虫籠、絵団扇、蚊帳、青簾、風鈴、葭簀、燈籠、盆景のような洒々たる器物や装飾品が何処の国に見られよう。平素は余りに単白で色彩の乏しきに苦しむ白木造りの家屋や居室全体も、かえってそのために一種いうべからざる明い軽い快感を起させる。この周囲と一致して日本の女の最も刺戟的に見える瞬間もやはり夏の夕、伊達巻の細帯にあらい浴衣の立膝して湯上りの薄化粧する夏の夕を除いて他にはあるまい。(永井荷風『夏の町』)


◆Régine Crespin; "Gedichte der Königen Maria Stuart"; Op. 135; Robert Schumann



痛みはつねに内部を語る。しかしながら、あたかも痛みは手の届かないところにあり、感じえないというかのようである。身の回りの動物のように、てなづけて可愛がることができるのは苦しみだけだ。おそらく痛みはただ次のこと、つまり遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもないだろう。

この遠くのもの、シューマンはそれを「幻影音」と呼んでいた。ちょうど切断された身体の一部がなくなってしまったはずなのに現実の痛みの原因となる場合に「幻影肢」という表現が用いられるのに似ている。もはや存在しないはずのものがもたらす疼痛である。切断された部分は、苦しむ者から離れて遠くには行けないのだ。

音楽はこれと同じだ。内側に無限があり、核の部分に外側がある。(ミシェル・シュネデール『シューマン 黄昏のアリア』)

…………

吉行淳之介は後年いろいろ言われるるようになるが、『砂の上の植物群』はいつまでも絶品のままだ。

そのときA女の軀が燃え上がった。重ね合わさった二人の女の軀のすべての細胞が白い焔を発して燃え、やがてB女の軀は蛍光色に透きとおってA女の軀に溶接された。男の眼の前には、B女の背のひろがりがあり、不意に彼の鼻腔にある匂いが流れ込んできた。それはB女の肩のあたりから立上がってくるのか、あるいはその下に在るA女の胸から発するものか判別ができなかったが、太陽の光を十分に吸い込んだ牧草の匂いである。娼婦たちの軀が熱したときに漂ってくる、多くの男たちの体液の混じり合った饐えたにおい、それに消毒液の漂白されたようなにおいの絡まり合った臭気とは全く違ったものだった。(『砂の上の植物群』)

 …………

散文の訓練とは、一つには詩を殺すことによって成立する。私は二十代の半ばから、ひたすら詩を殺すことを心がけてきた人間である。だからといって、私の内部にポエジーが枯渇しているということにはならないだろう。私は、私の内部からあふれ出ようとしている安っぽいポエジーに対して、いつも警戒の目を光らせている。私の警戒の網の目をくぐって、紙の上に滲み出してきたポエジーがあったとすれば、それこそ本物のポエジーだろう。(吉行淳之介『文章読本』)

2015年10月29日木曜日

音声言語の裏に常に張りついている漢字表象

記銘における兆候性あるいはパラタクシス性は、言語化によって整序されているとはいえ、その底に存在し続けている。それは日本語の会話において音声言語の裏に常に漢字表象が張りついているという高島俊男の指摘に相似的である。想起においても兆候性あるいはパラタクシス性は、影が形に添うごとく付きまとって離れない。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』p.73)
非漢字民族の留学生を観察していると、漢字を一つの流れとして把握するのは十歳後半以降は非常に困難で、一般に図形として記憶されるようである。ちなみに、漢字は図形でなく一字一字が一つの流れである。漢字を思い出すのに指を動かすのは日本人も中国人もする。また活字に習熟し崩し字に苦しむわれわれには信じにくいことかもしれないが、江戸の庶民は草書は読み書きができたが、楷書は読めても書けない人、読めもしない人がむしろ普通であったと聞く。そもそも中国においても草書のほうが早くかつ広く普及したという。(中井久夫「記憶について」『アリアドネからの糸』p.120)

《かなと漢字の分担に関して、常識的には、かな(訓読み)こそが漢字(音読み)を注釈していると見なしたくなる。(……)だが、ラカンは、まったく逆に、漢字が、かなを注釈することにおいて、無意識を触知可能なものとして浮上させていると暗示したのであった。今や、ラカンのこの暗示に、日本語の書字体系に対する深く、正確な洞察が含まれていたことが明らかになる。述べてきたように、日本語にあっては、漢字は、かなから区別されることで、外来性を明示し続ける。発話に必然的に随伴するあの「残余」は、つまり無意識は、この漢字の外来性に感応し、そこに表現の場を見出すのである。》(大澤真幸『思想のケミストリー』)

たとえば、平安時代に、各地の人々が京都の宮廷で話されている言葉で書かれた「源氏物語」を読んで、なぜ理解できたのか。それは彼らが京都の言葉を知っていたからではありません。今だって各地の人がもろに方言で話すと通じないことがあるのに、平安時代に通じたはずがない。「源氏物語」のような和文がどこでも通じたのは、それが話されていたからではなくて、漢文の翻訳として形成された和文だったからです。紫式部という女性は司馬遷の『史記』を愛読していたような人で、漢文を熟知している。にもかかわらず、漢語を意図的にカッコに入れて『源氏物語』を書いたわけですね。(……)

私はつぎのように書きました。《ラカンがそこから日本人には「精神分析が不要だ」という結論を導き出した理由は、たぶん、フロイトが無意識を「象形文字」として捉えたことにあるといってよい。精神分析は無意識を意識化することにあるが、それは音声言語化にほかならない。それは無意識における「象形文字」を解読することである。しかるに、日本語では、いわば「象形文字」がそのまま意識においてもあらわれる。そこでは、「無意識からパロールへの距離が触知可能である」。したがって、日本人には「抑圧」がないということになる。なぜなら、彼らは無意識(象形文字)をつねに露出させているーー真実を語っているーーからである》。したがって日本人には抑圧がないということになる。なぜなら彼らは意識において象形文字を常に露出させているからだ。したがって、日本人はつねに真実を語っている、ということになります。(柄谷行人『日本精神分析再考(講演)』(2008)より

ーーこの柄谷行人の見解には異論があるのは知っている。だが文脈上の参照のために掲げている。

…………

「あたしを嫌いなくせに。あたしだって好きじゃない」

その言葉が、奇妙に僕の欲情を唆った。僕は娘の顔を眺めた。うっすらと荒廃の翳が、その顔に刷かれていた。僕は娘の躯を眺めた。紡錘形の、水棲動物めいた躯が衣裳のうえから感じられた。(吉行淳之介『焔の中』1956年)

《「翳」という文字がある。たとえば、日の光を受けた街路樹が、地に落すかげ、重なり合った木の葉のかげが、地面でチラチラ動く、そういうかげのときは、「翳」を使わないとおさまらない。心の具合が顔や軀の上に惨み出てユラユラ動いている場合も、「翳」である。》(吉行淳之介)

日本の作家の場合、このように漢字を「象形文字」として使う場合がある。吉行は初期には上のように「躯」と記したが、後に「軀」への偏愛を後に示したことは比較的よく知られている。 

吉行淳之介はかつて三島由紀夫の文体を《漢字の美的感覚に寄りかかり過ぎている》と批判している。だが後年《あの発言は自分の嫉妬からだった》と洩らすことになる。

清顯は聰子の裾をひらき、友禪の長襦袢の裾は、紗綾形と亀甲の雲の上をとびめぐる鳳凰の、五色の尾の亂れを左右へはねのけて、幾重に包まれた聰子の腿を遠く窺はせた。しかし清顯は、まだ、まだ遠いと感じてゐた。まだかきわけて行かねばならぬ幾重の雲があつた。あとからあとから押し寄せるこの煩雑さを、奥深い遠いところで、狡猾に支へてゐる核心があつて、それがじつと息を凝らしてゐるのが感じられる。

やうやく、白い曙の一線のやうに見えそめた聰子の腿に、清顯の體が近づいたときに、聰子の手が、やさしく下りてきてそれを支へた。この恵みが仇になつて、彼は曙の一線にさへ、觸れるか觸れぬかに終つてしまつた。 
和尚の男根は巨松の根のやうにわだかまり、和尚の顔は恐悦の茶いろの舌を出してゐる。若後家の、胡粉で白く塗られた足の指は、傳來の畫法によつて、悉く内側へ深く撓められてゐる。からめた白い腿から顫動が走つて、足指のところで堰かれて、曲られた指の緊張が、無限に流れ去らうとする恍惚を遁がすまいと力んでゐるように見える。
……目の底には、繪巻の女の一途な足指の撓みが殘つてゐる。その卑猥な白さの胡粉の色が殘つてゐる。

それから起つたことは、あの梅雨のものうい熱氣と、伯爵の嫌惡からとしか言ひやうがない。(三島由紀夫「春の雪」) 
 

以下の吉行淳之介の文はーー三島由紀夫の文とは異なって現代の若い人たちでもそれほど違和なく通用するだろうがーー、「軀」だけでなく、数多くの「象形文字」の散乱による眩暈を覚えないではない、と言っておこう。


■『砂の上の植物群』(1964)より

旅館の玄関に立って、案内を乞うと、遠くで返事だけがあってなかなか人影が現れてこなかった。少女と並んで三和土に立って待っている時間に、彼は少女の軀に詰まっている細胞の若さを強く感じた。そして、自分の細胞との落差を痛切に感じた。少女の頸筋の艶のある青白さを見ると、自分の頸の皮が酒焼けで赤黒くあんっており、皮がだぶついているような気持になった。

待っている時間は、甚だしく長く感じられた。ふたたび、何かが軀の中で爆ぜ、兇暴な、危険な漿液が軀に満ちてくるのを感じた。
京子に加える荒々しい力は、そのまま彼女の中に吸い込まれ、やがてその軀は皮膚の内側から輝きはじめる。
そのときA女の軀が燃え上がった。重ね合わさった二人の女の軀のすべての細胞が白い焔を発して燃え、やがてB女の軀は蛍光色に透きとおってA女の軀に溶接された。男の眼の前には、B女の背のひろがりがあり、不意に彼の鼻腔にある匂いが流れ込んできた。それはB女の肩のあたりから立上がってくるのか、あるいはその下に在るA女の胸から発するものか判別ができなかったが、太陽の光を十分に吸い込んだ牧草の匂いである。娼婦たちの軀が熱したときに漂ってくる、多くの男たちの体液の混じり合った饐えたにおい、それに消毒液の漂白されたようなにおいの絡まり合った臭気とは全く違ったものだった。
制服の布地には、授業中の教室の鎮まり返ったにおいが滲み込んでいる。その布地は少女のにおいを吸い込んで、明子の胸をひっそり包み隠しているようにみえる。(……)

明子の眼に映る札束は、金銭としてのものではない。明子に純潔を説いてやまぬ姉の京子の軀の裂目から露出した臓物のようなものとして、明子の眼には映っている筈だ。
その瞬間から、明子が溶けはじめた。

赤い唇を中心にして、波紋が拡がってゆくように明子の硬い顔を溶けてゆき、ついには唇が軽く外側にめくれ上がった。そのめくれ上がった唇を中心に、ふたたび硬直がはじまるか、と彼は見詰めたが、そのことは起らなかった。

全身の筋肉がほどけ、明子はやわらかく溶けて横たわっていた。はじめて、真赤な唇と紺色の制服との対照が、彼の予期していたものになった。明子の軀は、溶けて、淫らにセーラー服から食出していた。さまざまの刺激が、長い時間かかって明子の細胞の内側に届き、いま一斉にその細胞が伊木に向かって花開いたようにみえた。

今まで見たことのない明子の顔が、彼の足もとに在った。しかし、見覚えのない顔ではない。そのことが、彼には不思議に思えたが、間もなく理由が分かった。それは、京子の恍惚とした顔に、酷似していたのだ。
長い病気の恢復期のような心持が、軀のすみずみまで行きわたっていた。恢復期の特徴に、感覚が鋭くなること、幼少年期の記憶が軀の中を凧のように通り抜けてゆくこととがある。その記憶は、薄荷のような後味を残して消えてゆく。

立上がると、足裏の下の畳の感覚が新鮮で、古い畳なのに、鼻腔の奥に藺草のにおいが漂って消えた。それと同時に、雷が鳴ると吊ってもらって潜りこんだ蚊帳の匂いや、縁側で涼んでいるときの蚊遣線香の匂いや、線香花火の火薬の匂いや、さまざまの少年時代のにおいの幻覚が、一斉に彼の鼻腔を押しよせてきた。


2015年8月22日土曜日

「むちむち」という駄洒落

(「無知な女子高生」を沖縄に連れ出し「愛のムチ」を打つNHK番組「むちむち!」に「女性蔑視」批判)

@nhk_Etele: 新番組「むちむち!」とは、街でスカウトしたちょっとムチな女子高校生に、番組ディレクターが愛のムチを打つ、全体的にムチッとした番組です。Eテレ20(木)19:25~。http://t.co/ht6lyPP5d1 #Eテレ

という番組の告知が「炎上」していたようだ。たとえば東京大学で教師をしておられるフェミニストの清水晶子さんは次ぎのようにお怒りになっている。

@akishmz: この番宣ツイート、どうなの。どうして常に「無知な女子高生に教えてあげる」なんだよ!セクシズムだろそれ!というレベルはもちろんあるけれど、そこに(名目上は無関係なはずの)エロス化が臆面もなく持ち込まれているのが、シンプルにキモい。
@akishmz: NHKとしてもEテレとしても「むちむち!」のタイトル/設定/番宣のセクシズム(1. 「女子高生」に「無知」を代表させ、2. 未成年女性を性的対象として表象する)が公共放送の教育番組として問題だという批判は黙殺なさるのですね。 https://t.co/OEUBFbBK5L

「性的対象として表象する」とあるように、女子高生が性的対象であることが問題ではなく、天下のNHKの教育番組が「むちむち!」というタイトル/設定/番宣をしてしまうのが問題だということだろう。

「むちむち」とは「もち肌」とか「むちむちした太腿」とかを想起させないわけではない、無知と鞭だけではないだろう。どんな風に使われるのか、と探ってみれば、次のような文章に行き当たった。

「そうだ。まず入れ入れが大事なんだ。儀式みたいなもんだ。  まずは入れ入れ。〜  おっぱいむちむち、肌はつるつる、腰はくねくね、  あそこはぐしょぐしょ、ばりんばりんのセックス・マシンだ。……」(村上春樹『海辺のカフカ』)


わたくしはーー時代錯誤的なのかもしれないがーー、なぜ「むちむち」程度のいわゆる駄洒落で人びとが騒ぎ立てるのか不思議でならなかった。いきすぎた「苦情の文化 CULTURE OF COMPLAINT」の顕れではないかとさえ感じたが、とはいえ「お怒り」になる方がいらっしゃるのはよくわかる。

というわけで--腫れ物にはできるだけ触らないようにしてーーここでは別の角度から記す。





実際のところ、16~18歳の少女たちが、多くの幅広い年齢層の男たちにとっての性的対象でないわけがない。それは同じ齢の少年たちが、多くの女性たちにとっては性的対象から外れるだろうこととは対照的だ(女性のことはよくわからないから、そうでないのかもしれないが)。

幼女期とか、青春期とか、中年とか、老年とか、そういう分節化は女にはない。女の一生は同じ調子のもので、女たちは男と違って、のっぺらぼうな人生を生きている。養老孟司という解剖学者はそう語って、わたしを驚かせた。その意見を伝えると、吉行淳之介という作家はほとんど襟を正すようにして、その人はじつによく女を知っていると述べた。(丸谷才一・評 『きことわ』=朝吹真理子・著
昭和二十年五月廿五日。 空晴れわたりて風爽かに、初て初夏五月になりし心地なり。室内連日の塵を掃はむとて裏窓を開くに隣園の新綠染めしが如く、雀の子の巣立ちして囀る聲もおのづから嬉しげなり。この日予は宿泊人中の當番なれば午後止むことを得ず昭和通五六町先なる米配給所に至り手車に米、玉蜀黍二袋を積み載せ曳いてかへる。同宿人の中江戸川區平井町にて火災に罹り其姉のアパートに在るを尋來りし可憐の一少女あり。年十四五歳なれど言語、擧動共に早熟、一見既に世話女房の如し。予を扶けて共に車を曳く。路すがら中川邊火災當夜の事を語れり。是亦戰時の一話柄ならずや。(永井荷風 断腸亭日乗)


まさか女子高生たちを「性的対象」--異性としてのときめきの対象ーーにしてしまう男たちの心性までを非難するということではあるまい。実際、既に小学校の高学年頃から男女の成熟の度合いは際立って異なり、少年たちはそのことを痛感して育ってきているはずだ。あの頃の思いは容易に消えない。とくに利発で活発な少女に対してなら少年時代の男たちのだれもが、《朝礼で整列している時に、隣りにいるまぶしいばかりの少女に少年が覚えるような羞恥と憧憬と、近しさと距離との同時感覚》(中井久夫)のようなものを覚えた少女たちが何人かいるに違いない。その「まぶしさ」に戸惑いあるいは反撥感を抱きつつ育ってゆく男たちもいるではあろうが。




母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」

この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。((Paul Verhaeghe『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』私訳)



《愛の基本的モデルは、男と女の関係ではなく、母と子供の関係に求められるべきである》(ヴェルハーゲ)--であるならば、少年時代に覚えた《隣りにいるまぶしいばかりの少女に少年が覚えるような羞恥と憧憬と、近しさと距離との同時感覚》とは母への愛の(最初の)代替物とさえいえる場合がある筈だ。あるいは荷風のいうような《年十四五歳なれど言語、擧動共に早熟、一見既に世話女房の如し》少女を男性軍の〈あなたたち〉は記憶のなかに一人も持っていないだろうか。

場合によっては四十男も五十男も少年時代の自らと同一化してあの時の少女への憧憬と同じ心持をもってこの今かたわらにいる少女を愛することさえあるはずだ。





とはいえわたくしはエリック・ロメールのようにハイ・ティーンの膝を愛するわけでもないし、むちむちを(たいして)愛するわけでもない。




ーー試合に負けちゃったけど、そんなにがっくりすることないわよ、ね、気を落さないで。

こういった光景を見て、あの頃の母の代替物のような少女の存在を愛するのだ。

……そんなとき、突然私が目にとめるのは、雨にぬれた路面が日ざしを受けて金色のラッカーと化した歩道にあらわれて、太陽にブロンドに染められた水蒸気の立ちのぼるとある交差点の舞台のハイライトにさしかかる宗教学校の女生徒とそれにつきそった女の家庭教師の姿とか、白い袖口をつけた牛乳屋の娘とかであって、(……)バルベックの道路と同様に、パリの街路が、かつてあんなにしばしばメゼグリーズの森から私がとびださせようとつとめたあの美しい未知の女性たちを花咲かせながら、それらの女性の一人一人が官能の欲望をそそり、それぞれ独自に欲望を満たしてくれる気がする、そんな光景に接するようになって以来、私にとってこの地上はずっと住むに快く、この人生はずっとわけいるに興味深いものであると思われるのであった。(プルースト「ゲルマントのほう Ⅰ」井上究一郎訳)
私は窓のところに行き、内側の厚いカーテンを左右にひらいた。ほの白く、もやが垂れて、あけはなれている朝の、上空のあたりは、そのころ台所で火のつけられたかまどのまわりのようにばら色であった、そしてそんな空が、希望で私を満たし、また、一夜を過ごしてから、ばら色の頬をした牛乳売の娘を見たあんな山間の小さな駅で目をさましたい、という欲望で私を満たした。(同「逃げさる女」)

スワンのオデットへの愛、主人公のアルベルチーヌへの愛、反復される山間の農家の牛乳売りの娘への夢想…。プルーストが繰り返し書いたのは、「愛する理由は、愛の対象となっているひとの中には決して存在しないこと」だった。