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2019年4月24日水曜日

おまえたちはエロスについて何も知らない

或声 お前は俺の思惑とは全然違つた人間だつた。
僕    それは僕の責任ではない。(芥川龍之介「闇中問答」昭和二年、遺稿)
僕の母は狂人だった。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。…僕は僕の母に全然面倒を見て貰ったことはない。…

僕は母の発狂した為に生まれるが早いか養家に来たから、(養家は母かたの伯父の家だった。)僕の父にも冷淡だった。(芥川龍之介「点鬼簿」1926(大正15)年)

⋯⋯⋯⋯

芥川は21歳頃、『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』を抄訳している。

自分が、如何に生く可きかを學んでゐたと思つてゐる間に、自分は、如何に死す可きかを學んでゐたのである。(『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』芥川龍之介訳、1914(大正3年)頃)
我等の故郷に歸らんとする、我等の往時の状態に還らんとする、希望と欲望とを見よ。如何にそれが、光に於ける蛾に似てゐるか。絶えざる憧憬を以て、常に、新なる春と新なる夏と、新なる月と新なる年とを、悦び望み、その憧憬する物の餘りに遲く來るのを歎ずる者は、實は彼自身己の滅亡を憧憬しつつあると云ふ事も、認めずにしまふ。しかし、この憧憬こそは、五元の精髓であり精神である。それは肉體の生活の中に幽閉せられながら、しかも猶、その源に歸る事を望んでやまない。自分は、諸君にかう云ふ事を知つて貰ひたいと思ふ。この同じ憧憬が、自然の中に生來存してゐる精髓だと云ふ事を。さうして、人間は世界の一タイプだと云ふ事を。(『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』芥川龍之介訳(抄譯)大正3年頃)

数日前、この抄訳が青空文庫に入庫されているのを読み、「光に於ける蛾」はこんなところにもあったのか、と思った。

かくて私は詩をつくる。燈火の周圍にむらがる蛾のやうに、ある花やかにしてふしぎなる情緒の幻像にあざむかれ、そが見えざる實在の本質に觸れようとして、むなしくかすてらの脆い翼をばたばたさせる。私はあはれな空想兒、かなしい蛾蟲の運命である。 

されば私の詩を讀む人は、ひとへに私の言葉のかげに、この哀切かぎりなきえれぢいを聽くであらう。その笛の音こそは「艶めかしき形而上學」である。その笛の音こそはプラトオのエロス――靈魂の實在にあこがれる羽ばたき――である。そしてげにそれのみが私の所謂「音樂」である。「詩は何よりもまづ音樂でなければならない」といふ、その象徴詩派の信條たる音樂である。(萩原朔太郎「青猫」序、1923(大正12)年)

「プラトオのエロス」ーー人の生はエロスの周圍にむらがる蛾である。

「永遠に喪われている対象 objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)
人は循環運動をする on tourne en rond… 死によって徴付られたもの marqué de la mort 以外に、どんな進展 progrèsもない 。

それはフロイトが、« trieber », Trieb(欲動)という語で強調したものだ。仏語では pulsionと翻訳される… 死の欲動 la pulsion de mort、…もっとましな訳語はないもんだろうか。「dérive 漂流」という語はどうだろう。(ラカン、S23, 16 Mars 1976)




哲学者プラトンのエロスErosは、その由来 Herkunft や作用 Leistung や性愛 Geschlechtsliebe との関係の点で精神分析でいう愛の力 Liebeskraft、すなわちリビドーLibido と完全に一致している。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)

究極のリビドー とは受生において喪われた永遠の生である。

リビドー libido 、純粋な生の本能 pur instinct de vie としてのこのリビドーは、不死の生vie immortelle(永遠の生)である。…この単純化された破壊されない生 vie simplifiée et indestructible は、人が性的再生産の循環 cycle de la reproduction sexuéeに従うことにより、生きる存在から控除される soustrait à l'être vivant。(ラカン、S11, 20 Mai 1964)

この「永遠の生」としてのリビドーが究極のエロスであり享楽である。

すべての利用しうるエロスのエネルギーEnergie des Eros を、われわれはリビドーLibidoと名付ける。…(破壊欲動のエネルギーEnergie des Destruktionstriebesを示すリビドーと同等の用語はない)。(フロイト『精神分析概説』死後出版1940年)
ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものか quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido を把握するために仏語の資源を使った。すなわち享楽 jouissance である。(ミレール, L'Être et l'Un, 30/03/2011)

ラカンが「享楽は去勢だ」というのは、何よりもまず、享楽は生きる存在から常に既に喪われているからである。

享楽は去勢である la jouissance est la castration。人はみなそれを知っている Tout le monde le sait。それはまったく明白ことだ c'est tout à fait évident 。…(ラカン、 Jacques Lacan parle à Bruxelles、Le 26 Février 1977)

《生きる存在から控除された soustrait à l'être vivant》リビドー とは、去勢された享楽を意味する。

(- φ) は去勢を意味する。そして去勢とは、「享楽の控除 soustraction de jouissance」(- J) を表すフロイト用語である。(ジャック=アラン・ミレール Ordinary Psychosis Revisited 、2008)





去勢されていない享楽、それを永遠の生と呼ぶ。

何を古代ギリシア人はこれらの密儀(ディオニュソス的密儀)でもっておのれに保証したのであろうか? 永遠の生 ewige Lebenであり、生の永遠回帰 ewige Wiederkehr des Lebensである。過去において約束された未来、未来へと清められる過去である die Zukunft in der Vergangenheit verheißen und geweiht。死の彼岸、転変の彼岸にある生への勝ちほこれる肯定である das triumphierende Ja zum Leben über Tod und Wandel hinaus。総体としてに真の生である das wahre Leben als das Gesamt。生殖を通した生 Fortleben durch die Zeugung、セクシャリティの神秘を通した durch die Mysterien der Geschlechtlichkeit 生である。(ニーチェ「私が古人に負うところのもの」4『偶像の黄昏』1889年)

おまえたちは享楽について何も知らない。

以前の状態を回復しようとするのが、事実上、欲動の普遍的性質である。 Wenn es wirklich ein so allgemeiner Charakter der Triebe ist, daß sie einen früheren Zustand wiederherstellen wollen, (フロイト『快原理の彼岸』1920年)
私は欲動Triebを翻訳して、漂流 dérive、享楽の漂流 dérive de la jouissance と呼ぶ。j'appelle la dérive pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. (ラカン、S20、08 Mai 1973)

死の欲動とは、永遠の生=死=究極のエロスのまわりの漂流、さまよいである。《われわれの享楽のさまよい égarement de notre jouissance》(ラカン、Télévision 、AE534、1973)

おまえたちは、かつて享楽 Lust にたいして「然り」と言ったことがあるか。おお、わたしの友人たちよ、そう言ったことがあるなら、おまえたちはいっさいの苦痛にたいしても「然り」と言ったことになる。すべてのことは、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされているのだ。

Sagtet ihr jemals ja zu Einer Lust? Oh, meine Freunde, so sagtet ihr Ja auch zu _allem_ Wehe. Alle Dinge sind verkettet, verfädelt, verliebt, -

……いっさいのことが、新たにあらんことを、永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんことを、おまえたちは欲したのだ。おお、おまえたちは世界をそういうものとして愛したのだ、――

- Alles von neuem, Alles ewig, Alles verkettet, verfädelt, verliebt, oh so _liebtet_ ihr die Welt, - (ニーチェ『ツァラトゥストラ』酔歌 ーー享楽の周圍にむらがる蛾

ここにはゾーエーがある。アガンベンの「ゾーエー=剥き出しの生」とはまったく異なるケレーニイ注釈のゾーエーが。

ゾーエー Zoë はすべての個々のビオス Bios をビーズのようにつないでいる糸のようなものである。そしてこの糸はビオスとは異なり、ただ永遠のものとして考えられるのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス.破壊されざる生の根』1976年)

古代ギリシア語には「生」を表現する二つの語、「ゾーエーZoë」と「ビオス Bios」があった。

ゾーエーは永遠の生、無限の生である。ビオスは有限の生、個人の生である。ビオスは、ゾーエー、つまり永遠の生という母体の上の個人的な生と死である。ここで「コーラ χώρα」を想起すべきかもしれない。《コーラは「母」である》とプラトンは『ティマイオス』でいきなり宣言している。だがχώραとZoëの近接性はネット上で英語で検索するかぎりは誰も言っていないので、ここではゾーエーだけに絞る。

ゾーエー(永遠の生)は、タナトス(個別の生における死)の前提であり、この死もまたゾーエーと関係することによってのみ意味がある。死はその時々のビオス(個別の生)に含まれるゾーエーの産物なのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス 破壊されざる生の根 』1976年)

永遠の生とは個人の生の側からみれば死である。《死は、ラカンが享楽と翻訳したものである。》(ミレール1988, Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES)。

Lust→ Libido → jouissance → Mort → Zoë →永遠の生 ewige Lebenである。《学問的に、リビドーLibido という語は、日常的に使われる語のなかでは、ドイツ語の「快 Lust」という語がただ一つ適切なものである。》(フロイト『性欲論』1905年ーー1910年註)

わたしがケレーニイから学んだことは、ゾーエーというのはビオスをもった個体が個体として生まれてくる以前の生命だということです。ケレーニイは「ゾーエーは死を知らない」といいますが、そして確かにゾーエーは、有限な生の終わりとしての「死」は知らないわけですが、しかしゾーエー的な生ということをいう場合、わたしたちはそこではまだ生きていないわけですよね。ビオス的な、自己としての個別性を備えた生は、まだ生まれていない。そして私たちが自らのビオスを終えたとき、つまり死んだときには、わたしたちは再びそのゾーエーの状態に帰っていくわけでしょう。

だからわたしは、このゾーエーという、ビオスがそこから生まれてきて、そこに向かって死んでいくような何か、あるいは場所だったら、それを「生」と呼ぼうが「死」と呼ぼうが同じことではないかと思うわけです。ビオス的な個人的生命のほうを「生」と呼びたいのであれば、ゾーエーはむしろ「死」といったほうが正解かもしれない。(木村敏 『臨床哲学の知-臨床としての精神病理学のために』2008年)


芥川は早い段階で気づいたのかもしれない、と言っておこう。冒頭に引用した《「點鬼簿」は彼の晩年の暗澹たる諸作品の先驅をなしたものである。彼は非常にひどい神經衰弱の中で、この作品を書いた。彼はこの作品を書きながら、幾度か、その母の「少しも生氣のない、灰色をしてゐる」顏を思ひ浮べた事であらう。》(堀辰雄『芥川龍之介論』1929(昭和4)年)

僕は二十八になった時、――まだ教師をしていた時に「チチニウイン」の電報を受けとり、倉皇と鎌倉から東京へ向った。僕の父はインフルエンザの為に東京病院にはいっていた。…

僕が病院へ帰って来ると、僕の父は僕を待ち兼ねていた。のみならず二枚折の屏風の外に悉く余人を引き下らせ、僕の手を握ったり撫でたりしながら、僕の知らない昔のことを、――僕の母と結婚した当時のことを話し出した。それは僕の母と二人で箪笥を買いに出かけたとか、鮨をとって食ったとか云う、瑣末な話に過ぎなかった。しかし僕はその話のうちにいつか眶が熱くなっていた。僕の父も肉の落ちた頬にやはり涙を流していた。 

僕の父はその次の朝に余り苦しまずに死んで行った。(芥川龍之介「点鬼簿」1926(大正15)年)

現代のように両親などの最も身近なものたちがいつまでも長生きすると、真のエロス=死について人はなかなか気づきにくいのは確かだ。

死というのは一点ではない、生まれた時から少しずつ死んでいくかぎりで線としての死があり、また生とはそれに抵抗しつづける作用である。(グザビエ・ビシャ Xavier Bichat ーー、フーコー『臨床医学の誕生』神谷美恵子訳より孫引き)
昔は誰でも、果肉の中に核があるように、人間はみな死が自分の体の中に宿っているのを知っていた。(リルケ『マルテの手記』)

だがすくなくともまともな文学者や詩人であれば、いつか(無意識的にであれ)体感することではないか。

生きているということもまた、死の観念におさおさ劣らず、思いこなしきれぬもののようだ。生きていることは、生まれて来た、やがて死ぬという、前後へのひろがりを現在の内に抱えこんでいる。

このひろがりはともすれば生と死との境を、生まれる以前へ、死んだ以後へ、本人は知らずに、超えて出る。(古井由吉『この道』「たなごころ」2019年)
エロスの感覚は、年をとった方が深くなるものです。ただの性欲だけじゃなくなりますから。(古井由吉『人生の色気』2009年)
この年齢になると死が近づいて、日常のあちこちから自然と恐怖が噴き出します。(古井由吉、「日常の底に潜む恐怖」 毎日新聞2016年5月14日)

ーー《人は、なぜ死について語る時、愛についても語らないのであろうか。》(中井久夫「「「祈り」を込めない処方は効かない(?) 」1999年)


2019年2月15日金曜日

サントームの永遠回帰

【過去の外傷経験の永遠回帰】
経験された寄る辺なき状況 Situation von Hilflosigkeit を外傷的 traumatische 状況と呼ぶ 。⋯⋯(そして)現在に寄る辺なき状況が起こったとき、昔に経験した外傷経験 traumatischen Erlebnisseを思いださせる。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)


◼️中井久夫
たまたま、私は阪神・淡路大震災後、心的外傷後ストレス障害を勉強する過程で、私の小学生時代のいじめられ体験がふつふつと蘇るのを覚えた。それは六十二歳の私の中でほとんど風化していなかった。(中井久夫「いじめの政治学」『アリアドネからの糸』所収、1996年)
最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)


◼️古井由吉
三月十一日の午後三時前のあの時刻、机に向かっていましたが、坐ったまま揺れの大きさを感じ測るうちに、耐えられる限界を超えかける瞬間があり、空襲の時の敵弾の落下の切迫が感受の限界を超えかけた境を思いました。

つれて、永劫回帰ということを思い出しました。漢語にすればいかめしいが、この今現在は幾度でも繰り返す、そっくりそのままめぐってくる、ということとおおよそに取れる。過去の今も同様に反復される。病苦やら恐怖やらに刻々と責められたことのある人間には、思うだけでも堪え難い。

過ぎ去る、忘れる、という救いも奪われる。しかし実際に、大津波を一身かろうじてのがれた被災者を心の奥底で苦しめるものは、前後を両断したあの瞬間の今の、過ぎ去ろうとして過ぎ去らない、いまにもまためぐって来かかる、その「永劫」ではないのか。

永劫回帰を実相として示した哲学者は、その実相を見るに至った時、歓喜の念に捉えられたそうだ。生きることがそのままのっぴきならぬ苦であった人と見える。壮絶なことだ。現生を肯定するのも、よほどの覚悟の求められるところか。(古井由吉『楽天の日々』永劫回帰)

⋯⋯⋯⋯

【サントームと永遠回帰】
症状(=サントーム)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)
享楽は身体の出来事である la jouissance est un événement de corps。…享楽はトラウマの審級 l'ordre du traumatisme にある。…享楽は固着の対象 l'objet d'une fixationである。(ジャック=アラン・ミレール J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 9/2/2011)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
反復は享楽回帰に基づいている。 la répétition est fondée sur un retour de la jouissance。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)
症状(サントーム)は、現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)
反復的享楽 La jouissance répétitive、これを中毒の享楽と言い得るが、厳密に、ラカンがサントームsinthomeと呼んだものは、中毒の水準 niveau de l'addiction にある。⋯⋯それはただ、身体の自動享楽 auto-jouissance du corps に他ならない。(jacques-alain miller, L'être et l'un、2011)
サントームの道は、享楽における単独性の永遠回帰の意志である。Cette passe du sinthome, c'est aussi vouloir l'éternel retour de sa singularité dans la jouissance. (Jacques-Alain Miller、L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE、2011)

ーーラカン用語の「サントーム」(原症状)とは、フロイト用語なら、トラウマへのリビドー固着、かつその固着(身体の上への刻印)の反復強迫ということ。



※参照:フロイト・ラカン「固着」語彙群


もっともサントームには二つの意味があることに注意しなくてはならない。

サントームは身体の出来事として定義される Le sinthome est défini comme un événement de corps (ミレール , L'Être et l'Un、30 mars 2011)
最後のラカンにおいて、父の名はサントームと定義されている défini le Nom-du-Père comme un sinthome(ミレール、2013、L'Autre sans Autre)

ーー上の図は前者の意味でのサントームである。表題「サントームの永遠回帰」は、フロイト用語でいえば、「トラウマへのリビドー固着の反復強迫」である。

同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895、死後出版)
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。(ラカン、S11、12 Février 1964)
フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマ réel trauma である。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011)



【享楽と苦痛のなかの快(原マゾヒズム)】
悦楽 Lustが欲しないものがあろうか。悦楽(=享楽)は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦楽はみずからを欲し、みずからに咬み入る。環の意志が悦楽のなかに環をなしてめぐっている。――
- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ「酔歌」『ツァラトゥストラ』)
私が享楽 jouissance と呼ぶものーー身体が己自身を経験するという意味においてーーその享楽は、つねに緊張tension・強制 forçage・消費 dépense の審級、搾取 exploit とさえいえる審級にある。疑いもなく享楽があるのは、苦痛が現れ apparaître la douleur 始める水準である。そして我々は知っている、この苦痛の水準においてのみ有機体の全次元ーー苦痛の水準を外してしまえば、隠蔽されたままの全次元ーーが経験されうることを。(ラカン、Psychanalyse et medecine、16 février 1966)
マゾヒズムは三つの形態で観察される。…性感的マゾヒズム、女性的マゾヒズム、道徳的マゾヒズム erogenen, femininen und moralischen を識別する。第一の性感的マゾヒズム、すなわち苦痛のなかの快 Schmerzlustは、他の二つのマゾヒズムの根である。(フロイト『マゾヒズムの経済論的問題』1924年)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは、現実界をもたらす享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel (ラカン、S23, 10 Février 1976)


【エスの永遠回帰(反復強迫・運命強迫・享楽回帰)】
いま、エスは語る、いま、エスは聞こえる、いま、エスは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる、nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen:(ニーチェ「酔歌」『ツァラトゥストラ』)
エスの欲求緊張 Bedürfnisspannungen des Es の背後にあると想定される力 Kräfte は、欲動 Triebe と呼ばれる。欲動は、心的な生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)
(身体の)「自動反復 Automatismus」、ーー私はこれを「反復強迫 Wiederholungszwanges」と呼ぶのを好むーー、⋯⋯この固着する要素 Das fixierende Moment an der Verdrängungは、無意識のエスの反復強迫 Wiederholungszwang des unbewußten Es である。(フロイト『制止、症状、不安』第10章、1926年)
同一の体験の反復の中に現れる彼の人柄の不変の個性の徴 gleichbleibenden Charakterzug を見出すならば、われわれはこの「同一のものの永遠回帰 ewige Wiederkehr des Gleichen」をさして不思議とも思わない。…これは運命強迫 Schicksalszwang とも名づけ得る。(フロイト『快原理の彼岸』1920年)
「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)
サントームは現実界であり、かつ現実界の反復である。Le sinthome, c'est le réel et sa répétition. (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un - 9/2/2011)
反復は享楽回帰に基づいている。 la répétition est fondée sur un retour de la jouissance。(ラカン、S17、14 Janvier 1970)



ーーーながながと引用をしているが、この記事の主要な意図は、この図表を示すことにある。


もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。(ニーチェ『善悪の彼岸』70番、1886年)
記憶に残るものは灼きつけられたものである。苦痛を与えることをやめないもののみが記憶に残る」――これが地上における最も古い(そして遺憾ながら最も長い)心理学の根本命題である。(ニーチェ『道徳の系譜』第2論文、第3章、1887年)


【暗闇に蔓延る異者としての記憶(あるいは「異物としての症状」=サントーム)】
記憶はあくまでも生体である。紛失の主にことわりもなしに、外へさまよい出てひとり歩きもする。年も取る。(古井由吉「年の坂」)
欲動代理 Triebrepräsentanz (リビドー固着)は、…暗闇の中に im Dunkeln はびこり wuchert、…異者のようなもの fremd に思われる。(フロイト『抑圧 Die Verdrangung』1915年)
トラウマ、ないしその記憶は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
…症状によって代理されるのは、内界にある自我の異郷 ichfremde 部分である。…ichfremde Stück der Innenwelt statt, das durch das Symptom repräsentiert wird (フロイト『制止、症状、不安』第3章、1926年)
異者としての身体 un corps qui nous est étranger(ラカン、S23、11 Mai 1976)
「外傷性記憶」の意味⋯⋯「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」。(中井久夫「記憶について」1996年)
外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。…時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)

フロイト・ラカンにおける次の用語群は、すべて同じ意味をもっている。


フロイト・ラカン「固着」語彙群


あるいは次の用語群もほとんど等価である、





2019年1月20日日曜日

幼少の砌の傷への固着

フロイトは反復強迫を例として「死の本能」を提出する。これを彼に考えさえたものに戦争神経症にみられる同一内容の悪夢がある。…これが「死の本能」の淵源の一つであり、その根拠に、反復し、しかも快楽原則から外れているようにみえる外傷性悪夢がこの概念で大きな位置を占めている。(中井久夫「トラウマについての断想」2006年)

少し前にも記したけれど(参照:「女性の享楽とは死の欲動のこと」)、フロイトの死の欲動(死の本能)は、戦争外傷神経症が起源にあることを忘れてはならない。第一次大戦最後の年の1918年夏、ブタペストでの精神分析学会には、ドイツ=オーストリア軍の戦争神経症患者のあまりの多さに、軍の指導的将軍たちが出席するという異常事態が起こったわけで、ここにフロイトがそれまで固執し続けていた「快原理(快原則)」に対する問い直しの主要な起源の一つがあるのだから。

次の古井由吉の文は、いままで何度も引用してきたけれど、フロイト・ラカン派の「死の欲動」を把握するためのとてもすぐれた導きの糸だな。


【幼年の砌の傷への固着】
頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。

小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平生は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。

小児性を克服できずに育った、とこれを咎める者もいるだろうが、とても、当の小児にとっても後の大人にとってもおのれの力だけで克服できるようなしろものではない、小児期の深傷〔ふかで〕というものは。やわらかな感受性を衝いて、人間苦の真中へ、まっすぐに入った打撃であるのだ。これをどう生きながらえる。たいていはしばらく、五年十年あるいは二十年三十年と、自身の業苦からわずかに剥離したかたちで生きるのだろう。一身の苦にあまり耽りこむものではない、という戒めがすくなくとも昔の人生智にはあったに違いない。一身の苦を離れてそれぞれの年齢での、家での、社会での役割のほうに付いて。芯がむなしいような心地でながらく過すうちに、傷を克服したとは言わないが、さほど歪まずとも受け止めていられるだけの、社会的人格の《体力》がついてくる。人の親となる頃からそろそろ、と俗には思われているようだ。

しかし一身の傷はあくまでも一身の内面にゆだねられる、個人において精神的に克服されなくてはならない、克服されなくては前へ進めない、偽善は許されない、という一般的な感じ方の世の中であるとすれば、どういうことになるだろう。また社会的な役割の、観念も実態もよほど薄い、個人がいつまでもただの個人として留まることを許される、あるいは放置される世の中であるとすれば。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』1984年)


この文脈における、フロイトの核心的文を二つ掲げよう。


【事故的トラウマへの固着】
外傷神経症 traumatischen Neurosen は、外傷的事故の瞬間への固着 Fixierung an den Moment des traumatischen Unfalles がその根に横たわっていることを明瞭に示している。

これらの患者はその夢のなかで、規則的に外傷的状況 traumatische Situation を反復するwiederholen。また分析の最中にヒステリー形式の発作 hysteriforme Anfälle がおこる。この発作によって、患者は外傷的状況のなかへの完全な移行 Versetzung に導かれる事をわれわれは見出す。

それは、まるでその外傷的状況を終えていず、処理されていない急を要する仕事にいまだに直面しているかのようである。…

この状況が我々に示しているのは、心的過程の経済論的 ökonomischen 観点である。事実、「外傷的」という用語は、経済論的な意味以外の何ものでもない。

我々は「外傷的(トラウマ的 traumatisch)」という語を次の経験に用いる。すなわち「外傷的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、トラウマへの固着、無意識への固着 1916年)


【病因的トラウマへの固着】
われわれの研究が示すのは、神経症の現象 Phänomene(症状 Symptome)は、或る経験Erlebnissenと印象 Eindrücken の結果だという事である。したがってその経験と印象を「病因的トラウマ ätiologische Traumen」と見なす。…

(1) (a) このトラウマはすべて、五歳までに起こる。…二歳から四歳のあいだの時期が最も重要である。…

(b) 問題となる経験は、おおむね完全に忘却されている。記憶としてはアクセス不能で、幼児性健忘期 Periode der infantilen Amnesie の範囲内にある。その経験は、隠蔽記憶 Deckerinnerungenとして知られる、いくつかの分離した記憶残滓 Erinnerungsresteへと通常は解体されている durchbrochen。

(c) 問題となる経験は、性的性質と攻撃的性質 sexueller und aggressiver Natur の印象に関係する。そしてまた疑いなく、初期の自我への傷 Schädigungen des Ichs である(ナルシシズム的屈辱 narzißtische Kränkungen)。…

この三つの点ーー、五歳までに起こった最初期の出来事 frühzeitliches Vorkommen 、忘却された性的・攻撃的内容ーーは密接に相互関連している。トラウマは自身の身体の上の経験 Erlebnisse am eigenen Körper もしくは感覚知覚 Sinneswahrnehmungen である。…

(2) …トラウマの影響は二種類ある。ポジ面とネガ面である。

ポジ面は、トラウマを再生させようとする Trauma wieder zur Geltung zu bringen 試み、すなわち忘却された経験の想起、よりよく言えば、トラウマを現実的なものにしようとするreal zu machen、トラウマを反復して新しく経験しようとする Wiederholung davon von neuem zu erleben ことである。さらに忘却された経験が、初期の情動的結びつきAffektbeziehung であるなら、誰かほかの人との類似的関係においてその情動的結びつきを復活させることである。

これらの尽力は「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫Wiederholungszwang」の名の下に要約される。

これらは、標準的自我 normale Ich と呼ばれるもののなかに含まれ、絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。…

したがって幼児期に「現在は忘却されている過剰な母との結びつき übermäßiger, heute vergessener Mutterbindung 」を送った男は、生涯を通じて、彼を依存 abhängig させてくれ、世話をし支えてくれる nähren und erhalten 妻を求め続ける。初期幼児期に「性的誘惑の対象 Objekt einer sexuellen Verführung」にされた少女は、同様な攻撃を何度も繰り返して引き起こす後の性生活 Sexualleben へと導く。……

ネガ面の反応は逆の目標に従う。忘却されたトラウマは何も想起されず、何も反復されない。我々はこれを「防衛反応 Abwehrreaktionen」として要約できる。その基本的現れは、「回避 Vermeidungen」と呼ばれるもので、「制止 Hemmungen」と「恐怖症 Phobien」に収斂しうる。これらのネガ反応もまた、「個性刻印 Prägung des Charakters」に強く貢献している。

ネガ反応はポジ反応と同様に「トラウマへの固着 Fixierungen an das Trauma」である。それはただ「反対の傾向との固着Fixierungen mit entgegengesetzter Tendenz」という相違があるだけである。(フロイト『モーセと一神教』「3.1.3 Die Analogie」1939年)


フロイトは病因的トラウマについては五歳までの出来事としているけれど、反復強迫(死の欲動)は、事故的トラウマも含めて考えれば、五歳までには限らない。それは、フロイトが《外傷神経症は、外傷的事故の瞬間への固着がその根に横たわっている》と言っているように。

核心は、《感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃》の外傷的出来事への固着だ(場合によっては、詩人的資質をもつ者は生涯、免疫の薄いままでありうる)。あるいは成人以降でも、中井久夫の言うように、《ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない》。これが、事故的トラウマも含めたトラウマへの固着による反復強迫の主要要因である。

外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。

しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。(中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年『徴候・記憶・外傷』所収)


このトラウマ的出来事は、主に「静止画像」に近接した不気味なものとして居残る(置き残される)。フロイトにおいて「居残る」あるいは「置き残される」の意味は、身体的な経験が心的装置に移行されず、《暗闇のなかに異者(異物)のようなものとして蔓延る》(フロイト、1915)ということである。

そしてこの不気味な異物(ラカンの対象a)が反復強迫をもたらす。

トラウマ、ないしその記憶は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)
心的無意識のうちには、欲動興奮 Triebregungen から生ずる反復強迫Wiederholungszwanges の支配が認められる。これはおそらく欲動の性質にとって生得的な、快原理を超越 über das Lustprinzip するほど強いものであり、心的生活の或る相にデモーニッシュな性格を与える。この内的反復強迫 inneren Wiederholungszwang を想起させるあらゆるものこそ、不気味なもの unheimlich として感知される。(フロイト『不気味なもの』1919年)

ーーなによりもまずこの内的反復強迫がタナトスである。この基本さえ現在ではほとんど忘れられているが。それはフロイト研究者においてさえそう感じざるをえないときがある。あいつら、精神分析のなにを研究してんだろ、と。

ボクはなんどか記したけど、三歳の時の「鎮守の森」静止画像に徹底的に悩まされたんだな、18歳の夏に女とはじめて性交してすこしは収まったんだけど。




ーーいやあ、いまでもあんまりじっくりは眺めたくないね・・・


中井久夫の「静止画像」とは、フロイトのいう隠蔽記憶(スクリーンメモリー)とほぼ同じものと扱いうる、《その経験は、隠蔽記憶 Deckerinnerungenとして知られる、いくつかの分離した記憶残滓 Erinnerungsresteへと通常は解体されている durchbrochen。》(フロイト『モーセと一神教』)。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)
私たちは三歳から五歳以後今まで連続した記憶を持っている。むろん忘却や脱落はあるが、にもかかわらず、自我は一つで三歳以後連続している確実感がある。それ以前の記憶は断片的である。また成人型の記憶は映画やビデオのように、いやもっとダイナミックに動いているが、ある時期の記憶は前後関係を欠き、孤立したスティール写真のような静止画像である。成人型の記憶と違って、言葉に表しにくい。(中井久夫「私の三冊」初出1996年『アリアドネからの糸』所収)
成人文法性成立以後に持ち越されている幼児型記憶は(1)断片的であり、(2)鮮明で静止あるいはそれに近く、主に視覚映像であり、(3)それは年齢を経てもかわらず、(4)その映像の文脈、すなわちどういう機会にどういういわれがあって、この映像があるのか、その前後はどうなっているかが不明であり、(5)複数の映像間の前後関係も不明であり、(6)それらに関する画像以外の情報は、後から知ったものを綜合して組み立てたものである。(「発達的記憶論」初出2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


中井久夫の幼児型記憶とは、フロイトの次の文とともに読むことができる。

実際のところ、分析経験によって想定を余儀なくさせられることは、幼児期の純粋な出来事的経験 rein zufällige Erlebnisse が、リビドーの固着 Fixierungen der Libido を置き残す hinterlassen 傾向がある、ということである。(フロイト 『精神分析入門』 第23 章 「症状形成へ道 DIE WEGE DER SYMPTOMBILDUNG」、1917年)

そして、フロイトのいう《幼児期の純粋な出来事的経験》が、ラカンのいう原症状(サントーム)としての身体の出来事である。

症状は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME,AE.569、16 juin 1975)

中井久夫は三歳までの自らの「静止画像」を10枚あげているのだけれど、ラカン的に言えば、この画像はたんなる静止画像ではない。

隠蔽記憶(スクリーンメモリー souvenir-écran、Deckerinnerung )はたんに静止画像(スナップショット instantané)ではない。記憶の流れ(歴史 histoire)の中断 interruption である。記憶の流れが凍りつき fige 留まる arrête 瞬間、同時にヴェールの彼岸 au-delà du voile にあるものを追跡する動きを示している。(ラカン、S4、30 Janvier 1957)
スクリーンはたんに現実界を隠蔽するものではない L'écran n'est pas seulement ce qui cache le réel。スクリーンはたしかに現実界を隠蔽している ce qui cache le réel が、同時に現実界の徴でもある(示している indique)。…我々は隠蔽記憶(スクリーンメモリー souvenir écran)を扱っているだけではなく、幻想 fantasme と呼ばれる何ものかを扱っている。そしてフロイトが表象 représentation と呼んだものではなく、フロイトの表象代理 représentant de la représentation(=欲動代理) を扱わねばならないのである。(ラカン、S13、18 Mai 1966)
表象代理 Vorstellungsrepräsentanzは、原抑圧(=リビドー固着)の中核 le point central de l'Urverdrängung を構成する。(ラカン、S11、1964、03 Juin 1964)


ボクにとっては、バルトの「ゆらめく閃光 un éclair qui flotte」という表現がボクの何枚かの静止画像によく合致する。

・・・かなりひどい高所恐怖症があるんだけどさ、なんどもツレの女たちに笑われたよ。

外部(現実)の危険 äußere (Real-) Gefahr は、それが自我にとって意味をもつ場合は、内部化されざるをえないのであって、この外部の危険は無力さを経験した状況と関連して感知されるに違いないのである。
※上文註:そのままに正しく評価されている危険の状況では、現実的不安 Realangst に幾分か欲動不安Triebangstがさらに加わっていることが多い。したがって自我がひるむような満足を欲する欲動要求 Triebanspruch は、自分自身にむけられた破壊欲動 Destruktionstriebとしてマゾヒスム的でありうる。おそらくこの付加物によって、不安反応 Angstreaktion が度をすぎ、目的にそわなくなり、麻痺する場合が説明される。高所恐怖症 Höhenphobien(窓、塔、断崖)はこういう由来をもつだろう。そのかくれた女性的な意味は、マゾヒスムに近似している ihre geheime feminine Bedeutung steht dem Masochismus nahe。(フロイト『制止、症状、不安』最終章、1926年)

いいな、きみたちは。面の皮がとっても厚そうで。

⋯⋯⋯⋯


さて、これらの文脈から読み換えれば、古井由吉の「幼年の砌の傷への固着」とは、「トラウマへのリビドー固着」のことである。

トラウマの記憶は、中井久夫自身、かならずしも視覚映像ではなく、「共通感覚」・「原始感覚」という形で表現している。

外傷性記憶は状況次第であるが、一般に視覚、聴覚、味覚、触覚、運動覚が入り交じる混沌である。視覚的映像も、しばしば、混乱したものである。すなわち「共通感覚的」であり「原始感覚的」でもある。(中井久夫「発達的記憶論」2002年『徴候・記憶・外傷』所収)


とはいえ、「静止画像」とその「反復強迫」から、人はまず「死の欲動」を考えたらよいと思う。幼少期の静止画像って少なくとも数枚は誰にでもある筈だ、よっぽど面の皮が厚くなければ。フロイトはこの面の皮を「刺激保護壁 Reizschutzes」と呼んだけど、古井由吉が言ってるように静止画像がないヤツのほうが病気だよ、《幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される》。

反復を、初期ラカンは象徴秩序の側に位置づけた。…だがその後、反復がとても規則的に現れうる場合、反復を、基本的に現実界のトラウマ réel trauma の側に置いた。

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011 )
現実界は、同化不能 inassimilable の形式、トラウマの形式 la forme du trauma にて現れる。le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma(ラカン、S11、12 Février 1964)

《同化不能 inassimilableの形式》とは、心的装置に翻訳不能・拘束不能の形式ということであり、身体的なもののなかの一部は、言語化不能だということである。この同化不能という表現は、フロイトの『心理学草案 』に次のような形で現れる。

同化不能の部分(モノ)einen unassimilierbaren Teil (das Ding)(フロイト『心理学草案 Entwurf einer Psychologie』1895、死後出版)

つまり《同化不能 inassimilableの形式》とは「モノdas Dingの形式」であり、これが《トラウマの形式》ということになる。

フロイトのモノ Chose freudienne.、…それを私は現実界 le Réelと呼ぶ。(ラカン、S23, 13 Avril 1976)

この文脈のなかでラカンはこう言うのである。

症状は、現実界について書かれることを止めない le symptôme… ne cesse pas de s’écrire du réel (ラカン、三人目の女 La Troisième、1974、1er Novembre 1974)
現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)

ーーこの文は、ふたつともまさに反復強迫のことを言っている。

※参照:フロイトの「自動反復 Automatismus」とラカンの「現実界」


⋯⋯⋯⋯

1937年生れの古井由吉において「幼年の砌の傷への固着」の重要な一つは、戦争体験である。

僕は作品でエロティックなことをずっと追ってきました。そのひとつの動機として、空襲の中での性的経験があるんですよ。爆撃機が去って、周囲は焼き払われて、たいていの人は泣き崩れている時、どうしたものか、焼け跡で交わっている男女がいます。子供の眼だけれども、もう、見えてしまう。家人が疎開した後のお屋敷の庭の片隅とか、不要になった防空壕の片隅とか、家族がみんな疎開して亭主だけ残され、近所の家にお世話になっているうちにそこの娘とできてしまうとか、いろんなことがありました。(古井由吉『人生の色気』)
焼け跡で交わる男女⋯⋯焼き払われると、境がなくなってしまうんですね。敷地と敷地の境も、町と町の境も、それから時間の境もなくなってしまう。そういう無境の中で、男女が交わる。(古井由吉「すばる」2015年9月号)

この「静止画像的光景」だろう記憶が、作品のなかで「昇華」の形で表現されているのである。

どこかの部屋で、先の男女が裸体を合わせている。ひとしきりやみくもに愛しあっては、お互いに興奮からこぼれ落ちて、まわりのひと気なさに、馴れぬ耳を澄ましている。そのつど熱の吸い取られていくのをそれぞれに不思議がって、ますます熱したみたいに肌を押しつける。 (古井由吉『山躁賦』無言のうちは)


2017年8月7日月曜日

災害が相次ぐ日本列島で、一神教的な発想は生まれるはずはない

丸山真男は日本を無思想・無イデオロギーの国と呼んでいる。

日本では、思想なんてものは現実をあとからお化粧するにすぎないという考えがつよくて、 人間が思想によって生きるという伝統が乏しいですね。これはよくいわれることですが、宗教がないこと、ドグマがないことと関係している。

イデオロギー過剰なんていうのはむしろ逆ですよ。魔術的な言葉が氾濫しているにすぎない。イデオロギーの終焉もヘチマもないんで、およそこれほど無イデオロギーの国はないんですよ。その意味では大衆社会のいちばんの先進国だ。

ドストエフスキーの『悪霊』なんかに出てくる、まるで観念が着物を着て歩きまわっているようなああいう精神的気候、あ そこまで観念が生々しいリアリティをもっているというのは、われわれには実感できないんじゃないですか。

人を見て法を説けで、ぼくは十九世紀のロシアに生れたら、あまり思想の証しなんていいたくないんですよ。スターリニズムにだって、観念にとりつかれた病理という面があると思う んです。あの凄まじい残虐さは、彼がサディストだったとか官僚的だったということだけで はなくて、やっぱり観念にとりつかれて、抽象的なプロレタリアートだけ見えて、生きた人間が見えなくなったところからきている。

しかし、日本では、一般現象としては観念にとりつかれる病理と、無思想で大勢順応して暮して、毎日をエンジョイした方が利口だという考え方と、どっちが定着しやすいのか。ぼくははるかにあとの方だと思うんです。だから、思想によって、原理によって生きることの意味をいくら強調してもしすぎることはない。しかし、思想が今日明日の現実をすぐ動かすと思うのはまちがいです。(丸山昌男『丸山座談5』針生一郎との対談)

だが、なぜ日本はことさら無思想・無イデオロギーの国なのだろうか。

柄谷行人は、岩井克人との対談(1990年)にて、「日本的な生活様式とは実際に江戸文化のこと」という意味合いのことを言っている(参照)。

江戸文化の影響とは次のようなものである。

江戸幕府の基本政策はどういうものであったか。刀狩り(武装解除)、布教の禁と檀家制度(政教分離)、大家族同居の禁(核家族化)、外征放棄(鎖国)、軍事の形骸化(武士の官僚化)、領主の地方公務員化(頻繁なお国替え)である。(中井久夫「歴史にみる「戦後レジーム」」)

ここでは「布教の禁と檀家制度」に絞れば、次のようなことがあった。

信長が比叡山を焼いた事件の大きさである。比叡山がそれまで持っていた、たとえば「天台本覚論」という宇宙全部を論じるような哲学がそれによって燃え尽きてしまう。比叡山が仮に信長に勝っていたらチベットのような宗教政治になったかどうかはわからないが……。(……)

布教しないということはその宗教は半分死んだようなものかもしれないが、檀家制度という、生活だけは保障する制度をする。(中井久夫「山と平野のはざま」『時のしずく』所収)

日本が「無思想・無イデオロギーの国」であるのは、《信長が比叡山を焼いた事件》、そしてその後の布教の禁と檀家制度の影響が大きいのは間違いないだろう。

だがそれだけだろうか? 丸山真男は、日本は《人間が思想によって生きるという伝統が乏しい》ことは、《宗教がないこと、ドグマがないことと関係している》と言っているが、この「宗教」とは「一神教」のことである(日本には自然宗教はふんだんにある。[参照]:「創唱宗教/自然宗教」)。

一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。一般に絶対的な言語支配で地球を覆おうというのがグローバリゼーションである。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)

一神教の起源については次のような見解がある。

一神教は進化の結果からではなく、宗教的天才による〈革命〉(リボリューション)によってのみ生じた。(山我哲雄『一神教の起源』、PDF

だが日本において一神教が育たなかったのは、宗教的天才の不在だったせいだろうか。上の聖書学者山我哲雄のような、学会で高い評価を得ている方ではなく、市井の、ーーおそらく独学歴史研究者だろうーー関裕二氏次の、わたくしにはとても面白い叙述を見出した。歴史的事実関係についての記述にはやや疑いをもって読まねばならないが、発想の仕方はとても示唆溢れている。

考えてみれば、災害が相次ぐ日本列島で、一神教的な発想は生まれるはずはなかったのだ。日本列島に住んでいれば、一生に一度は、何かしら災害に見舞われたに違いない。誰が、荒れ狂う嵐に打つ勝てると思うだろう。誰が、大津波をはね返すことができると信じただろう。「自然を支配し、改造する」などという、一神教的発想が、絵空事であることは、理屈抜きに体が覚えていたに違いないのである。

一神教は砂漠で生まれた。地震も、津波も、台風も、火山の噴火もない場所で生まれたのだ。彼らは、「自然が支配できる」と考えたが、彼らの考える「自然」こそ、観念的なものにすぎなかった。なにしろ、砂漠には「自然がなかった」からである。それはそれで苛酷な環境だったことはたしかだ。だからこそ、「この境遇を克服したい」と考えたのだろうが、本当の「自然」を知らないからこそ、「人間は世界を征服できる」と妄信したのだろう。ここが、多神教と一神教の、決定的な差である。

また、多神教世界では、「万物は流転し、滅びたものはいずれ蘇る」と信じた。だから、アイヌはイオマンテで熊祭をし、殺した熊の魂は、再び地上界に戻ってくると願い、信じた。熊だけではない。太陽も沈み、やがて昇る。一年の移り変わりも、循環する。日照時間は短くなり、冬至の日に太陽の力が一番弱まるが、逆に「影」は長くなる。死と再生は隣り合わせだ。縄文人の円形の家で、冬至の朝日が入口にちょうど射し込む例が見つかって、円形の家は母胎で、再生の呪術が込まられているのではないかと考えられている。自然も同様に、移ろう。木々の葉は散り、春にならば深緑に覆われる。人間も、死んで終わるわけではない。魂はいつか再び、この世に戻ってくると信じていた。それは、「自然を観察していると、そう考えざるを得ない」からであり、この点も、一神教の発想とは異なっている。

ひとりの人間の、生も、多様性を持ち、「廻る」と信じられていた。鬼のような生命力を持った童子。成長して長寿を保つと、穏やかな老翁となり、周囲を和ます。そして、寿命が尽きて死んでいくが、日が沈み、また日は昇るように、いずれこの世に戻ってくると信じたのである。関裕二『日本人はなぜ震災にへこたれないのか』、2011年) 

ようするに日本が理念がない国、つまり丸山真男のいう「日本を無思想・無イデオロギーの国」であるのは、地震大国であることの影響が大きいはずである。関裕二氏が《一神教的発想が、絵空事であることは、理屈抜きに体が覚えていた》とするのは冒頭の丸山真男の《思想なんてものは現実をあとからお化粧するにすぎない》との文と響き合う。

次の中井久夫の文も、日本的環境においては長期的ヴィジョンなど通用しない、という風に読むことができる。

中国人は平然と「二十一世紀中葉の中国」を語る。長期予測において小さな変動は打ち消しあって大筋が見える。これが「大国」である。アメリカも五十年後にも大筋は変るまい。日本では第二次関東大震災ひとつで歴史は大幅に変わる。日本ではヨット乗りのごとく風をみながら絶えず舵を切るほかはない。

為政者は「戦々兢々として深淵に臨み薄氷を踏むがごとし」という二宮尊徳の言葉のとおりである。(中井久夫「日本人がダメなのは成功のときである」1994初出)

中井の《日本ではヨット乗りのごとく風をみながら絶えず舵を切るほかはない》との表現は、これもまた丸山の《無思想で大勢順応して暮して、毎日をエンジョイした方が利口だという考え方》に繋がってくるだろう。

だがここでふたたび丸山を繰り返しておこう、日本においては《思想によって、原理によって生きることの意味をいくら強調してもしすぎることはない》と。

思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。つまり、彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する第三の立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなく、ヘーゲルになってしまうだろう。 この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム 」2006)
理論の正しさは経験からは演繹できない。いや、経験から演繹できるような理論は、真の理論とはなりえない。真の理論とは日常の経験と対立し、世の常識を逆なでする。それだからこそ、それはそれまで見えなかった真理をひとびとの前に照らしだす。 (……)

真の理論とは日常の経験と対立し、世の常識を逆なでする。だが、日常経験と対立し、世の常識を逆なでするというその理論のはたらきが、真理を照らしだすよりも、真理をおおい隠しはじめるとき、それはその理論が、真の理論からドグマに転落したときである。そしてそのとき、その真理に内在していた盲点と限界とが同時の露呈されることになる。(岩井克人『二十一世紀の資本主義論』)

…………

※付記
このたびの東日本大地震大津波の惨事の後から、千何百年昔にも東北に今回の規模に劣らぬ大地震大津波のあったことが指摘された。

平安初期の貞観年間のことだという。年表を見ると、八六九年、陸奥大地震大津波とある。 しかもその五年前には、富士山が大噴火を起こしている。陸奥の災害の九年後には関東の 大地震、そのまた九年後には畿内の大地震が記されている。

あまりのことに大昔のことながら暗然とさせられているうちに、ふっと貞観の仏たちの相貌が浮かんだ。(古井由吉『楽天の日々』写実ということの底知れなさ)



◆地震の神話と地震の記憶 保立道久、2015,pdf

『歴史のなかの大地動乱』(岩波新書)で基本的な説明をしたことですが、日本の神話の基本には地震・噴火神話がありました。

日本が本格的に文明化したのは八世紀、奈良時代のことでしたが、この時代には、まだまだ神話世界は生きていました。そして、問題は、八世紀・九世紀が列島にとって一つの大地動乱の時代であったことです。(……)歴史の側の資料を点検してみると、地震や噴火が八・九世紀の社会史と深い関係をもっていることは一目瞭然である。そのうちもっとも重要なのは、734年に発生した河内大和地震でしょう。(……)九世紀に入っても事態は同じでした。とくに今回の3.11の地震とほぼ同じ規模をもっていたという869年の陸奥大地震・大津波(……)。

そのしばらく前の864年には富士大噴火が起きており、その後、いわゆる関東大地震と同じ発震構造をもつとされる南関東大地震が起き、さらに南海トラフの大地震が発生しています。これらの史料をみていますと、当時の人々は神話の神々がおそるべき怨霊に姿をかえて復活したと感じていたのではないかと思います。その恐怖は相当のものであったでしょう。

私は、京都祇園社の祇園会の創始が、869年の陸奥大地震・大津波の直後と伝えられているのは、このような世情と関係していると考えています。

(……)

日本の歴史文化には地震が骨絡みになっている事情はご理解いただけたでしょうか。私は、歴史学がこのようなことを見のがしてきたことに驚いています。それは歴史学が、地震列島日本の人々が、実は、地震のことを一種のタブーにしてきたという状態を本格的に突破しようという見通しをもっていなかったことを示すといわれてもやむえないでしょう。

(……)たしかに、この列島の住人は、過去の記憶の宝庫を点検してみる必要があるのではないでしょうか。(保立道久「地震の神話と地震の記憶」2015) 

《日本という国は地震の巣窟だということ。大水、噴火、飢餓なども、年譜を見ればのべつ幕なしでしょう。この列島に住み、これだけの文明社会を構築してしまったという問題があります。》(古井由吉「新潮45」2012 年1 月号)



ひきつづき人知を尽くさなくてはならない。それでも災害をすっかり排除することはできない。 しかしまた、災害にたいして備わっている、まもられている、という信頼なしに、人は日常の心で生きられるものだろうか。苦しいところへ追いこまれたものだ。

これまでの大災害、天変地異や飢饉や疫病の歴史を年譜だけでも眺めて、その頻繁なくり かえしの中で生きた古人たちの心を思うべきなのだろう。厄災の脅威に身近から迫られな がらの日常もあり、祭りや踊りもあった。

生きながらえたと感じる古人たちの祭りは、現代のイベントよりも、はるかに強烈なものだったと思われる。心身の底で死者たちと通じあっていたはずだ。(古井由吉『楽天の日々』写実ということの底知れなさ)

◆先進的地震津波シミュレーションの進捗について(独立行政法人海洋研究開発機構、金田義行、2013、pdf)



危機と言われる。この言葉ほど風化しやすいものはない。人は危機感を日常に長くは保って いられないものらしい。それでは生きられない。しかし危機そのものは日常につねにつきまとう。

考えてみればよい。大津波に吞まれた人はその直前まで日常の内にあったのだ。このたび の大災害から遠隔の地にあった人にとってもいつなんどき、日常に断層が一瞬にして走るか、 知れはしない。「決定的な」などと言うもおろかな断層が。(古井由吉『楽天の日々』写実ということの底知れなさ)

…………

上に引用した文のなかで、古井由吉は《人知を尽くさなくてはならない》と言っている。もちろん《それでも災害をすっかり排除することはできない》。

なによりもまず「人知を尽くす」べき標的は「東京」である。

東京の場合には富も権力も情報も非常に集中しているために、どのようにして他の地方が東京を救援するかという問題は、実際検討されているのだろうか。私にはわからない。われわれが冷静でいられたのは、やがて救援があるということを疑わなかったからである。(中井久夫『精神科医の見た二都市 1995年2,3月』)

最後に、日本には稀なヴィジョンの人、磯崎新の見解を掲げよう。

◆都市に未来はあるのか──建築と都市工学の対話、2014
磯崎新──もうひとつ聞きたいことがあります。人を東京の内側に収めることが前提になっているようですが、なぜ人は東京に同じ状態で住んでいなければいけないのか、外に出す方法は考えられないのでしょうか。東京の真ん中に、東京を延長していくことにどれほどの意味があるのでしょうか。3.11の東京では、多くの帰宅難民が出ました。あのときの東京のインフラは、死者を出さないぎりぎりのところで持ちこたえるだけで精一杯だったことを、誰もが記憶しているでしょう。ところがいまではまた内に向かって人を増やそうとしている。あたかも避難の仕方を統制すれば生き延びれるかのように、希望的なことしか話題にしない。何が必要か。僕は東京の人口を1,300万人から1,000万人を切る、理想的には800万人まで減少させることができなければ、インフラは機能しきれないと思っています。それがいろいろなことを考えたときの適正値でしょう。

東京国際フォーラム フォーラムレポート ゲスト: 磯崎新 (建築家)


磯崎新) 確率論なので何とも言えないですが、30年以内に70%の確率で直下型地震が東京に起こると言われています。その時に東京がものすごいエネルギーで壊れる訳だから、色々なシミュレーションが行われているのですが、被害は今回の震災の100倍くらいと予測されています。今回帰宅難民の中で死人がでなかったのは奇跡的なことで、ある意味ストレステストをやってもらったと考えた方が良い。そうなると東京は本気で何かをやらないといけない。少なくとも東京は安泰なのではなくて、より危険な臨界状態にいるということを考えた方が良いと僕は思います。首都が移るのはそんなに難しいことではないんです。東京が首都であるべきという思い込みが我々の思考を固めてしまっているんです。一つの社会の体制が出来上がったときに、例えば近代で考えると、国民国家の首都が国民国家の見識を示していて、都市という概念で出来上がっている。ところが今、二世代くらい後の状況が社会では起こっているにもかかわらず、国民国家がかつて決めたものに我が国は則っている。首都の形態を東京が取っていない最大の理由なのではないか。世界でも上手く行っている例はあまりないですよ。国会をイカダに乗せる案は、宮崎駿さんのアニメにも出てくるラピュタのような感じで国会が日本中を訪問したら面白いと思っていて、震災があってそれを思い出したんです。


2017年6月29日木曜日

むきたてのにおい

ネットで次の詩を拾った。

「におい」 飯島耕一

五月の雨の日
西荻窪の駅のホームのベンチに坐っていると
隣に一人の若い女が坐り
大学の紀要のようなものを
読みはじめる
アメリカ問題の論文で
筆者は女性の名だ
この若い女の名
かもしれない

雨のせいか
そのみしらぬ女の
実にあまい体臭が
こちらに ただよってくる
苦しいほどの 女の 肉体の
におい
衿にこまかい水玉のネッカチーフをまいている
レインコートを着ている
人間の女のにおい

ようやく下りの電車が入ってきた
顔はとうとう見ることができず
別の車輛に乗った
もう二度と会うこともないか

これが東京だ
人生のにおい
論文なんか 読むのはやめたら
という 一語
をささやいてやるべきだった。


ーーじつにクラクラする詩だ。胸キュンとなってしまう。
大都会の駅のホームに長いあいだ坐ることのない環境におかれているせいかもしれないが。

居酒屋でちょっと似た感じをおぼえた経験がある。
隣で小太りの少女が独りでやけ酒を飲んでいた。
目がうるんでいる。
どうしたんだ? 
三十路なかばのこれまた独酌の彼は彼女にたずねる
女はあいまいな顔をしたまま黙っている
しばらくすると、彼がもっとみにくかったらよかったのに、と呟く
そうしたらわたしだけのものになる

よいにおいのする女だった
顔はぶ―だったが

《ほら、四十にもなって若い娘の顔を見れば、むきたてに見えるでしょう。》(古井由吉『蜩の声』除夜)


「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」 谷川俊太郎

男と女ふたりの中学生が
地下鉄のベンチに座っていてね
チェシャイア猫の笑顔をはりつけて
桃色の歯ぐきで話しあってる

そこへゴワゴワオウヤと地下鉄がやってきて
ふたりは乗るかと思えば乗らないのさ
ゴワゴワオウオと地下鉄は出ていって
それはこの時代のこの行の文脈さ

何故やっちまわないんだ早いとこ
ぼくは自分にかまけてて
きみらがぼくの年令になるまで
見守ってやるわけにはいかないんだよ


ーーやっちまったよ早いとこ、
あんな可憐なこというんだから。

シツレイ! 自慢話めいて
でも下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるってやつさ


2017年2月18日土曜日

俺がこれを見過ごしたら一生自分を卑劣漢だと思うだろうな

以下、メモ。

ーーグレアム・グリーンと吉行淳之介の文章はネット上から拾った。

ぼくはずいぶん長い間、あの時期のことを思い返すたびに、まるで石の下の虫のように復讐欲が生きながらえているのに気がついたものである。唯一の変化は、 石の下を見ることがだんだん頻繁でなくなってゆくことであった。ぼくが小説を書きはじめると、過去はその力の一部分を失うようになった。それは書かれることによって、ぼくから離れたのである。(グレアム・グリーン『復讐』)

《これでは、まるで復讐の武器として小説を選んでいる印象を与えるが、それだけのことではあるまい。少年のころ、激しく傷つくということは、傷つく能力があるから傷つくのであって、その能力の内容といえば、豊かな感受性と鋭い感覚である。そして、例外はあるにしても、その種の能力はしばしば、病弱とか異常体質とか極度に内攻する心とか、さまざまなマイナスを肥料として繁ってゆく。そして、そういうマイナスは、とくに少年期の日常生活において、大きなマイナスとして作用するものだ。さらに、感受性や感覚のプラス自体が、マイナスに働くわけなので、結局プラスをそのままプラスとして生かすためには、文学の世界に入って行かざるを得ない。》吉行淳之介『「復讐」のために ─文学は何のためにあるのか─』)

文学作品をつくる場合、追究するテーマというものがあり、もちろんそれを追究する情熱というものがあるわけだが、これはいわば「近因」である。一方、その作者がむかし文学をつくるという場所に追い込まれたこと、そのときの激しい心持ち、それが「遠因」といえるわけで、その遠因がいつまでもなまなましく、一種の情熱というかたちで残っていないと、作品に血が通ってこない。追い込まれたあげくに、一つの世界が開かれるのを見るのである。

だが語れば語るほど「話が厄介に」なってくるのは……

一人前の作家として世間に認められたとき、『遠因』が消え失せてしまう、とおもわせるところがある。(……)しかし、グリ ーンもそんなことでは埋めることのできない、深い暗い穴を心に持っていた、と考えるべきであろう。

ーーもちろん吉行淳之介の考え方への批判はあるだろう、たとえば吉行の小説の《主人公は「母性を欠いた女」つまり「娼婦」として、あるいは娼婦のようにしてしか女性と交渉を持てないが、それは「母の拒絶」「女の裏切り」に会ってしまった男の、ありふれた「女嫌い」の物語に過ぎない。》(上野千鶴子)

十五歳で吉行栄助と結婚したあぐり安久利は、十六歳で長男・淳之介を生んでいる。このとき栄助は、文学を志して東京にいた。栄助を追うようにして地元・岡 山から上京した安久利は、日本の洋髪の草分けである山野千枝子のもとに弟子入りした。そのとき、安久利は、姑の言いつけに従って、一歳にも満たない淳之介 を岡山に置いてきている。安久利の修行中、淳之介は、岡山と東京を往復しながら、ほとんどを祖母・盛代と過ごした。お礼奉公を三年勤め上げた安久利が、一 旦岡山に帰れたとき、淳之介は四歳になっていた。母の帰郷を知らされた淳之介は、「ママが帰ってくるの? この畳の上に?」と言って、大喜びしたという。 (復讐のために ──吉行淳之介論──吉田優子

《小説を書く場合、私は依然として読者を意識することができない。(略)自分の中にいる一人の読者だけを意識して作品を書き上げた後に、私は自分と精神構造や感受性の似た少数の読者が、あるいはこの作品を愛読してくれるかもしれぬ、とはかない期待を抱く。しかし、大して大きな数字を予想することはできない。》

 それでは食えないので、小説以外の雑文(エッセイ)を書く。

《ところが、私はそのような文章においては、自分自身以外の読者というものをはっきり頭に置いて書くことができる。いかにも、自分は職業に従事しているという心持ちになれる。》(吉行淳之介全集 第12巻

 ーー特に感想なし。上野センセは中井久夫ににはゾッコンらしいが。

外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。相違点は、そのインパクトである。外傷性記憶のインパクトは強烈である、幼児型記憶はほどんどすべてがささやかないことである。その相違を説明するのにどういう仮説が適当であろうか。

幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説は、両者の明白な類似性からして、確度が高いと私は考える。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)
原抑圧とは、何かの内容を無意識のなかに抑圧することではない。そうではなく、無意識を構成する抑圧、無意識のまさに空間を創出すること、「システム意識 System Bewußt (Bw)・システム前意識System Vorbewußt (Vbw)」 と「システム無意識System Unbewußt (Ubw)」 とのあいだの間隙を作り出すことである。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)
……ここにはカントからヘーゲルへの移行の鍵となる帰結がある。すなわち、内容と形式とのあいだの裂け目は、内容自体のなかに投影される(反映し返される reflected back into)。それは内容が「全てではない not all 」ことの表示としてである。何かが内容から抑圧され/締め出されているのだ。形式自体を確立するこの締め出しが、「原抑圧」 (Ur‐Verdrängung)である。そして如何にすべての抑圧された内容を引き出しても、この原抑圧はしつこく存在し続ける。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012)

※参照:「原抑圧の悪夢

…………

フロイトは《経験された無力の(寄る辺なき Hilflosigkeit)状況を外傷的状況》と呼び、《現在の状況(トラウマ的状況)がむかしに経験した外傷経験を思いださせる》(『制止、症状、不安』1926年)としている。

我々は「トラウマ的 traumatisch」という語を次の経験に用いる。すなわち「トラウマ的」とは、短期間の間に刺激の増加が通常の仕方で処理したり解消したりできないほど強力なものとして心に現れ、エネルギーの作動の仕方に永久的な障害をきたす経験である。(フロイト『精神分析入門』18. Vorlesung. Die Fixierung an das Trauma, das Unbewußte、1916年、私訳)
現実界とは、トラウマの形式として……(言語によって)表象されえないものとして、現われる。 …le réel se soit présenté …sous la forme du trauma,… ne représente(ラカン、S.11ーー基本的なトラウマの定義(フロイト・ラカン派による)

…………

以下、手許の(主に)中井久夫の書から。

笑われるかもしれないが、大戦中、飢餓と教師や上級生の私刑の苦痛のあまり、さきのほうの生命が縮んでもいいから今日一日、あるいはこの場を生かし通したまえと、“神”に祈ったことが一度や二度ではなかった……(中井久夫「知命の年に」1984年初出『記憶の肖像』所収)
……私は対人関係に不器用であり、多くの人に迷惑を掛けたし、また、何度かあそこで死んでいても不思議でないという箇所があったが、とにかくここまで生かしていただいた。振り返ると実にきわどい人生だった。(中井久夫「私の死生観――“私の消滅”を様々にイメージ」1994年初出『 精神科医がものを書くとき』所収 )
私がヴァレリーを開くのは、決って危機の時であった。(……)

私には二十歳代は個人的にも家庭的にも職場的にも危機が重なってきた。私はそれらを正面から解決していったが、ついに、医学部の構造を批判的に書いた匿名の一文が露頭して私は“謝罪”を拒み、破門されて微生物の研究から精神科に移った。移った後はヴァレリー先生を呼び出す必要は地震まで生じていない。(中井久夫「ヴァレリーと私」2008.9.25(書き下ろし)『日時計の影』所収)

《たまたま、私のすぐ前で、教授が私の指導者で十年先輩の助手を連続殴打するということがあった。教授の後ろにいた私はとっさに教授を羽交い締めした。身体が動いてから追いかけて「俺がこれを見過ごしたら一生自分を卑劣漢だと思うだろうな」という考えがやってきて、さらに「殿、ご乱心」「とんだ松の廊下よ」と状況をユーモラスなものにみるゆとりが出たころ、教授の力が抜けて「ナカイ、わかった、わかった、もうしないから放せ」という声が聞こえた。  これだけのことであるが、しかし、ただでは済まないであろう。その夜、私はクラブの部室を開けて、研究者全員を集め、「今までもこういうことがなかったか」と詰問した。「あったけど、問題にしようとすると本人たちがやめてくれというんだ」「私は決してそうはいわない」ということで、けっきょく教授が謝罪し、講座制が一時撤廃され、研究員全員より成る研究員会による所長公選というところまで行った。これはまたしてもジャーナリズムに出さないということで成功した。札幌医大から来た富山さんと私と二人で、5階建ての新ウィルス研究所棟の部屋割りを3時間でやり遂げたまではよかったのだが、そのうち、若い者たちが所内の人事を左右するような議論が横行するようになった。私は、革命の後の権力のもてあそびは、こんな小さな改革でも起こるのだな、とぞっとして、東大伝染病研究所の流動研究員となって、東京に去ることにした。》(中井久夫「楡林達夫『日本の医者』などへの解説とあとがき」)

夫人には話さずじまいだったが、当時の私は最悪の状態にあった。事実上母校を去って東京で流動研究員となっていて、身を寄せた先の研究所で自己批判を迫られていた。フッサールという哲学者の本を読んでいるところを見つかったのである。研究室主宰者は、「『プラウダ』がついに核酸の重要性を認めたよ」と喜びの涙を流しておられた、誠実で不遇のマルクス主義者だった。傘下の者が「ブルジョア哲学」にうつつを抜かすのを許せなかったのであろう。筆名で書いたものもバレて、そのこともお気に召さなかった。

しかし、私にはやはり理不尽に思えた。「かつて政党に加入したこともない者が政治的な場でもないここでなぜ自己批判か」と返して、押し問答になった。結局、私は「自己批判」を拒否した。(……)

破門は私が現状打開を図る機の熟さないうちに起こった。時あたかも、長男の義務を果たすこと乏しくて私の家は傾き、友の足は遠のき、また「知りしひと皆とつぎし」頃であった。 (中井久夫「Y夫人のこと」1993年初出『家族の深淵』所収)


私は高校二年の時、「隠れた人生が最高の人生である」というデカルトの言葉にたいへん共感した。私を共鳴させたものは何であったろうか。私は権力欲や支配欲を、自分の精神を危険に導く誘惑者だとみなしていた。ある時、友人が私を「無欲な人か途方もない大欲の人だ」と評したことが記憶に残っている。私はひっそりした片隅の生活を求めながら、私の知識欲がそれを破壊するだろうという予感を持っていた。その予感には不吉なものがあった。私は自分の頭が私をひきずる力を感じながら、それに抵抗した。それにはかねての私の自己嫌悪が役立った。 (中井久夫「編集から始めた私」1998年初出『時のしずく』所収 )
……心的外傷には別の面もある。殺人者の自首はしばしば、被害者の出てくる悪夢というPTSD症状に耐えかねて起こる(これを治療するべきかという倫理的問題がある)。 ある種の心的外傷は「良心」あるいは「超自我」に通じる地下通路を持つのであるまいか。阪神・淡路大震災の被害者への共感は、過去の震災、戦災の経験者に著しく、トラウマは「共感」「同情」の成長の原点となる面をも持つということができまいか。心に傷のない人間があろうか(「季節よ、城よ、無傷な心がどこにあろう」――ランボー「地獄の一季節」)。心の傷は、人間的な心の持ち主の証でもある(中井久夫「トラウマとその治療経験――外傷性障害私見」2000年初出『徴候・記憶・外傷』所収)
外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。

しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。素質による程度の差はあるかもしれないが、どのような人でも、残虐ないじめや拷問、反復する性虐待を受ければ外傷的記憶が生じる。また、外傷を受けつづけた人、外傷性記憶を長く持ちつづけた人の後遺症は、心が痩せ(貧困化)ひずみ(歪曲)いじけ(萎縮)ることである。これをほどくことが治療戦略の最終目標である。 (同上、中井久夫「トラウマとその治療経験」2000年)

最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」初出2006年『日時計の影』所収)
……一般に、語られる外傷性事態は、二次的な体験、再燃、再演であることが多い。学校でのいじめが滑らかに語られる時など、奥にもう一つあると一度は考えてみる必要がある。(……)

しかし、再燃、再演かと推定されても、当面はそれをもっぱら問題にしてよい。急いで核心に迫るべきではない。それは治療関係の解消あるいは解離その他の厄介な症状を起こす確率が高い。「流れがつまれば水下より迫れ(下流の障害から除去せよ)」とは下水掃除の常道である。〔中井久夫「トラウマと治療体験」『徴候・記憶・外傷』所収)
…………

頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平成は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。

小児性を克服できずに育った、とこれを咎める者もいるだろうが、とても、当の小児にとっても後の大人にとってもおのれの力だけで克服できるようなしろものではない、小児期の深傷〔ふかで〕というものは。やわらかな感受性を衝いて、人間苦の真中へ、まっすぐに入った打撃であるのだ。これをどう生きながらえる。たいていはしばらく、五年十年あるいは二十年三十年と、自身の業苦からわずかに剥離したかたちで生きるのだろう。一身の苦にあまり耽りこむものではない、という戒めがすくなくとも昔の人生智にはあったに違いない。一身の苦を離れてそれぞれの年齢での、家での、社会での役割のほうに付いて。芯がむなしいような心地でながらく過すうちに、傷を克服したとは言わないが、さほど歪まずとも受け止めていられるだけの、社会的人格の《体力》がついてくる。人の親となる頃からそろそろ、と俗には思われているようだ。

しかし一身の傷はあくまでも一身の内面にゆだねられる、個人において精神的に克服されなくてはならない、克服されなくては前へ進めない、偽善は許されない、という一般的な感じ方の世の中であるとすれば、どういうことになるだろう。また社会的な役割の、観念も実態もよほど薄い、個人がいつまでもただの個人として留まることを許される、あるいは放置される世の中であるとすれば。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』)

…………

もし、あのまま私がブラチスラヴァの研究所に赴いていたらーー当時私はひとり身で血も今より熱かったーーひとりの日本人留学生が1968年に彼地で行方不明になったという小記事が昨年あたりどこかの新聞に載ったかも知れない。モンゴル出身者を含め多くの留学生がチェコスロヴァキア学友の側に立って銃をとったからである。(中井久夫『治療文化論』1990年)
古都風景の中の電信柱が「見えない」ように、繁華街のホームレスが「見えない」ように、そして善良なドイツ人の強制収容所が「見えなかった」ように「選択的非注意 selective inatension」という人間の心理的メカニズムによって、いじめが行われていても、それが自然の一部、風景の一部としか見えなくなる。あるいは全く見えなくなる。(中井久夫「いじめの政治学」1997年)
「病者への畏敬」ということは軽々に語るべきことではなく、シュヴァイツァーふうの神々しさにも問題はある。神々しい治療者には患者は俗っぽい悩みーー九割九分はもとを辿れば四大欲望のからむ通俗的苦悩であるーーを語れず、煎じつめれば「あるべきか、あらざるべきか」ということになり、「あるべきである」という必要十分の理由など人生にないーーだから人生は面白いのだがーーから、「あるべき根拠の不足」によって死ぬという不幸になりかねない。しかしなおごく低声で、私はこの畏敬について語りたい。そもそもいったい誰が「殺せ、殺せ」という幻の声を内に聞きつつ、なおひとりも殺さずに、むしろ恐縮して生きているというりっぱな生き方ができるであろうか。私だと一人二人は危ういおそれがある。(中井久夫『治療文化論』1990年)

…………

父母の結婚は見合いであるが、お互いに失望を生んだ。父親と母親は文化が違いすぎた。そこに私が生まれてきたのだが、祖父母は、父の付け焼き刃の大正デモクラシーが大嫌いで、早熟の気味があった私に家の将来を托すると父の前で公言して、父親と私の間までが微妙になった。 (中井久夫「私が私になる以前のこと」『時のしずく』2005所収)
……「治療文化論」は時々引用された。なぜか必ず奈良盆地についての三ページであった。(……)あの一節には私をなかだちとして何かが働いているのであろうか。たとえば、私の祖父――丘浅次郎の生物学によって自らをつくり、老子から魯迅までを愛読し、顕微鏡のぞきと書、彫刻、絵画、写真、釣りに日を送り迎えた好事家、自らと村のためにと財を蕩尽した旧村長の、一族にはエゴイストと不評の祖父。あるいその娘の母――いくらか傷害を持ち、末期の一カ月を除いて幸せとはいえぬ生涯を送り、百科事典を愛読してよく六十四歳の生涯を閉じた母の力が……。(『治療文化論』「あとがき」1990)

ーー中井久夫の幼児期記憶のひとつ、「母親がガラスの器にイチジクの実を入れてほの暗い廊下を向こうから歩いてくる」(ロラン・バルトの想起記述と中井久夫の幼児型記憶)

◆Schumann - Davidsbündlertänze, Op. 6 - 「Wie Aus Der Ferne 遠くからやってくるように」(Walter Gieseking)




立上がると、足裏の下の畳の感覚が新鮮で、古い畳なのに、鼻腔の奥に藺草のにおいが漂って消えた。それと同時に、雷が鳴ると吊ってもらって潜りこんだ蚊帳の匂いや、縁側で涼んでいるときの蚊遣線香の匂いや、線香花火の火薬の匂いや、さまざまの少年時代のにおいの幻覚が、一斉に彼の鼻腔を押しよせてきた。(吉行淳之介『『砂の上の植物群』)

2016年9月13日火曜日

対象の鞘と自己の鞘

何ものかが私に書かせている。思うに、恐怖が、狂ってしまうことへの恐怖が、私を書く行為へと駆り立てている。(バタイユ「ニーチェについて」)

…………

「死なないためにだ。俺は、死なないためにやっているのだ。芸術? そんなのんきなものじゃない」(荒川修作ーー「シナナイタメニ」)

誰にでもあるよ、《書かれぬことをやめぬもの [ce qui ne cesse de ne pas s'écrire]》(ラカン, S.20)が。

ただそれを忘れたふりをすることはあるさ。

人が芸術的なよろこびを求めるのは、芸術的なよろこびがあたえる印象のためであるのに、われわれは芸術的なよろこびのなかに身を置くときでも、まさしくその印象自体を、言葉に言いあらわしえないものとして、早急に放置しようとする。また、その印象自体の快感をそんなに深く知らなくてもただなんとなく快感を感じさせてくれものとか、会ってともに語ることが可能な他の愛好者たちにぜひこの快感をつたえたいと思わせてくれるものとかに、むすびつこうとする。

それというのも、われわれはどうしても他の愛好者たちと自分との双方にとっておなじ一つの事柄を話題にしようとするからで、そのために自分だけに固有の印象の個人的な根源が断たれてしまうのである。われわれが、自然に、社会に、恋愛に、芸術そのものに、まったく欲得を離れた傍観者である場合も、あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。

それなのにわれわれは前者の半分のことしか考慮に入れない。その部分は外部であるから深められることがなく、したがってわれわれにどんな疲労を招く原因にもならないだろう。(プルースト「見出された時」井上究一郎訳)

プルーストの核心のひとつは、心情の間歇だ、

……自我であるとともに、自我以上のもの(内容をふくみながら、内容よりも大きな容器、そしてその内容を私につたえてくれる容器)だった。 il était moi et plus que moi (le contenant qui est plus que le contenu et me l’apportait). (プルースト『ソドムとゴモラ Ⅱ「』心情の間歇」の箇所)

つまり外密、あるいは対象aだ。

《人が何かを愛するのは、その何かのなかに近よれないものを人が追求しているときでしかない、人が愛するのは人が占有していないものだけである。》(「囚われの女」)

 私の最も内にある親密な外部、モノ=対象a としての外密。《extériorité intime, cette extimité qui est la Chose》(ラカン、S.7)
私はあなたを愛する。だがあなたの中にはなにかあなた以上のもの、〈対象a〉がある。だからこそ私はあなたの手足をばらばらにする。[Je t'aime, mais parce que j'aime inexplicablement quelque chose en toi plus que toi, qui est cet objet(a), je te mutile.](ラカン、セミネール11)
外密 Extimité は親密 intimité の反対ではない。外密は、親密な〈他〉である。それは、異物 corps étranger のようなものである(ミレール、Miller Jacques-Alain, 1985-1986, Extimité
おそらく対象aを思い描くに最もよいものは、ラカンの造語「extime (外密).」である。それは主体自身の、実に最も親密な intimate 部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外 ex に現れ、捉えがたいものだ。(Richard Boothbyーー防衛と異物 Fremdkörper

…………

私の全人間の転倒。(……)私はかがんで、ゆっくり、用心深く、靴をぬごうとした。ところが半長靴の最初のボタンに手をふれたとたんに、何か知らない神聖なもののあらわれに満たされて私の胸はふくらみ、嗚咽に身をゆすられて、どっと目から涙が流れた。(……)私はいま、記憶のなかに、あの最初の到着の夕べのままの祖母の、疲れた私をのぞきこんだ、やさしい、気づかわしげな、落胆した顔を、ありありと認めたのだ、それは、いままで、その死を哀悼しなかったことを自分でふしぎに思い、気がとがめていたあの祖母、名前だけの祖母、そんな祖母の顔ではなくて、私の真の祖母の顔であった。(……)こうした私は、彼女の腕のなかにとびこみたいはげしい欲望にかきたてられ、たったいまーーーその葬送後一年以上も過ぎたときに、しばしば事実のカレンダーを感情のそれに一致させることをさまたげるあの時間の錯誤のためにーーーはじめて祖母が死んだことを知ったのだ。(「ソドムとゴモラ 二」 井上究一郎訳)
遅発性の外傷性障害がある。震災後五年(執筆当時)の現在、それに続く不況の深刻化によって生活保護を申請する人が震災以来初めて外傷性障害を告白する事例が出ている。これは、我慢による見かけ上の遅発性であるが、真の遅発性もある。それは「異常悲哀反応」としてドイツの精神医学には第二次世界大戦直後に重視された(……)。これはプルーストの小説『失われた時を求めて』の、母をモデルとした祖母の死後一年の急速な悲哀発作にすでに記述されている。ドイツの研究者は、遅く始まるほど重症で遷延しやすいことを指摘しており、これは私の臨床経験に一致する。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』)

ロラン・バルトの『明るい部屋』は何度も引用したけれどさ。





ただ一度だけ、写真が、思い出と同じくらい確実な感情を私の心に呼びさましたのだ。それはプルーストが経験した感情と同じものである。彼はある日、靴を脱ごうとして身をかがめたとき、とつぜん記憶のなかに祖母の本当の顔を認め、《完璧な無意志的記憶によって、初めて、祖母の生き生きした実在を見出した》のである。シュヌヴィエール=シュル=マルヌの町の名も知れぬ写真家が、自分の母親(あるいは、よくわからないが、自分の妻)の世にも見事な一枚の写真を遺したナダールと同じように、真実の媒介者となったのだ。その写真家は、職業上の義務を超える写真を撮ったのであり、その写真は、写真の技術的実体)から当然期待しうる以上のものをとらえていたのだ。さらに言うなら(というのも、私はその真実が何であるかを言おうとつとめているのだから、この「温室の写真」は、私にとって、シューマンが発狂する前に書いた最後の楽曲、あの『朝の歌』の第一曲のようなものだった。それは母の実体とも一致するし、また、母の死を悼む私の悲しみとも一致する。この一致について語るためには、形容詞を無限に連ねていくしかないだろう。…(ロラン・バルト『明るい部屋』)

…………

フロイトは『ナルシシズム入門』で、人の愛の対象として、ふたつの型を提示している。

【ナルシシズム型】
(a)現在の自分、
(b)過去の自分
(c)そうなりたい自分
(d)自己自身の一部であった人物(子供)

【依存型】
(a)養育してくれる女性
(b)保護してくれる男性

これはいくらか議論はあるのだけど(第一次ナルシシズム/第二ナルシシズム)、ジャック=アラン・ミレールは最近になっても次のように言っているように、 そう簡単には放棄しがたい。

フロイトが区別した二つの愛の側面……。あなたを守ってくれるひと、それは母の場合です。そして自分のナルシシスティックなイメージを愛するということです。 (Jacques-Alain Miller: On Love:We Love the One Who Responds to Our Question: “Who Am I?”

対象aとは、対象に私が書き込まれていることであって、それが私を眼差す。

…眼差し regard は、例えば、誰かの目を見る je vois ses yeux というようなことを決して同じではない。私が目すら、姿すら見ていない誰かによって自分が見られていると感じることもある。Je peux me sentir regardé par quelqu'un dont je ne vois pas même les yeux, et même pas l'apparence,。他者がそこにいるかもしれないことを私に示す何かがあればそれで十分である。

例えば、この窓、あたりが暗くて、その後ろに誰かがいると私が思うだけの理由があれば、その窓はその時すでに眼差しである。こういう眼差しが現れるやいなや、私が自分が他者の眼差しにとっての対象になっていると感じる、という意味で、私はすでに前とは違うものになっている。(ラカン、S.1)

私にとって、プルーストだってロラン・バルトだって、バッハあるいはシューマン、フォーレだって、愛する次元として言えば、これらの作家という「対象の鞘」に収まっているものではない。《ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、プンクトゥムは、愛する(to love)の次元には属する》(バルトーー「カントの「美は無関心」をめぐって」)


外密とは基本的にはトラウマのこと(参照:基本的なトラウマの定義)。もちろん構造的トラウマと自己的トラウマの二種類はある。おそらく事故的トラウマの井戸の底にある真のトラウマが真の「私を駆り立てるもの」のはず。

最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。(中井久夫「トラウマについての断想」『日時計の影』所収)

たとえば以下の二人の作家は、事故的トラウマを語っているが、その作品は井戸の底に向っている叙述がほとんどつねにある、とわたくしは思う、--のは、わたくしの対象aが書き込まれているせいかもしれないと疑わなくてはならない。

或る別の部落へ行った。兵隊たちは馬を樹や垣根につなぐと、土造りの暗い家に入って、チャンチュウや卵を求めて飲む。或るものは、木のかげで博打をす る。豚の奇妙な屠殺方法に感心する。わたしは、暗いオンドルのかげに黒衣の少女をみた。老いた父へ粥をつくっている。わたしに対して、礼をとるのでもなけ れば、憎悪の眼を向けるでもなく、ただ粟粥をつくる少女に、この世のものとは思われぬ美を感じた。その帰り豪雨にあい、曠野をわたしたちは馬賊のように疾 走する。ときどき草の中の地に真紅の一むら吾亦紅が咲いていた。満人の少女と吾亦紅の花が、今日でも鮮やかにわたしの眼に見える。〔……〕反抗的でも従順 でもない彼ら満人たちにいつも、わたしたちはある種の恐れを抱いていたのではないだろうか。〔……〕彼らは今、誰に向って「陰惨な刑罰」を加えつつあるのか。

わたしの詩の中に、大変エロティックでかつグロテスクな双貌があるとしたら、人間への愛と不信をつねに感じているからである。(吉岡実『わたしの作詩法?』)
僕は作品でエロティックなことをずっと追ってきました。そのひとつの動機として、空襲の中での性的経験があるんですよ。爆撃機が去って、周囲は焼き払われて、たいていの人は泣き崩れている時、どうしたものか、焼け跡で交わっている男女がいます。子供の眼だけれども、もう、見えてしまう。家人が疎開した後のお屋敷の庭の片隅とか、不要になった防空壕の片隅とか、家族がみんな疎開して亭主だけ残され、近所の家にお世話になっているうちにそこの娘とできてしまうとか、いろんなことがありました。(古井由吉『人生の色気』)
頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平生は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦に付いてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。

小児性を克服できずに育った、とこれを咎める者もいるだろうが、とても、当の小児にとっても後の大人にとってもおのれの力だけで克服できるようなしろものではない、小児期の深傷〔ふかで〕というものは。やわらかな感受性を衝いて、人間苦の真中へ、まっすぐに入った打撃であるのだ。これをどう生きながらえる。たいていはしばらく、五年十年あるいは二十年三十年と、自身の業苦からわずかに剥離したかたちで生きるのだろう。一身の苦にあまり耽りこむものではない、という戒めがすくなくとも昔の人生智にはあったに違いない。一身の苦を離れてそれぞれの年齢での、家での、社会での役割のほうに付いて、芯がむなしいような心地でながらく過すうちに、傷を克服したとは言わないが、さほど歪まずとも受け止めていられるだけの、社会的人格の《体力》がついてくる。人の親となる頃からそろそろ、と俗には思われているようだ。

しかし一身の傷はあくまでも一身の内面にゆだねられる、個人において精神的に克服されなくてはならない、克服されなくては前へ進めない、偽善は許されない、という一般的な感じ方の世の中であるとすれば、どういうことになるだろう。また社会的な役割の、観念も実態もよほど薄い、個人がいつまでもただの個人として留まることを許される、あるいは放置される世の中であるとすれば。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』)




杯が空になるとシューマンは目につきやすいようにこれをテーブルの片隅におき、給仕がつぎたすのを待つ。突然、彼は命令を受けたかのように勢いよく席から立ちあがる。なにも言わず、挨拶もなしに、夜の闇に姿を消す。彼の頭は音楽で一杯になりすぎている、そんなふうにほかの仲間は考えていた。彼のほうでは、みんなから離れて、静かに音楽と向き合って座っていたかっただけのことだ。(シュネデール)


2016年8月1日月曜日

日常の底に潜む恐怖

何かが途轍もなく間違っている(ジジェク 2016→ ミレール)」にて、

①《現実界とは象徴化あるいは形式化の袋小路である ( “Le reel est un impasse de formalization,” )》(ラカン、セミネール20)

②《法のない現実界(le Réel sans loi)》、あるいは《本当の現実界は、法の欠如を意味する。現実界は、秩序がない[Le vrai Réel implique l'absence de loi. Le Réel n'a pas d'ordre]》(セミネール23)

この(一見した)対立のどちらの立場をとるかで、①ジジェク、②ミレールの対決を記したのだけれど、②とは、ラカンがーー老境に入ってーー、合理論から経験論への移行した、という捉え方が(ひょっとしたら)できるかもしれない。

 セミネール23で法のない現実界といったのは、1976年のことで、ラカンはすでに75歳である。

死というのは一点ではない、生まれた時から少しずつ死んでいくかぎりで線としての死があり、また生とはそれに抵抗しつづける作用である。

ーービシャ(フーコー『臨床医学の誕生』より)
死とは、私達に背を向けた、私たちの光のささない生の側面である。

ーーリルケ「ドウイノの悲歌」より



安永と、生涯を通じてのファントム空間の「発達」を語り合ったことがある。簡単にいえば、自極と対象極とを両端とするファントム空間軸は、次第に分化して、成年に達してもっとも離れ、老年になってまた接近するということになる。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収)

死とは、《象徴化あるいは形式化の袋小路である》と解釈できるものだろうか、それとも 《法のない現実界》だろうか。あるいはそれとも……

もう小説という形では書きにくい。かなり随想風の作品になるでしょう。この年齢になると死が近づいて、日常のあちこちから自然と恐怖が噴き出します。それをできるだけ平静な筆致で書きたいと思っています。(古井由吉、「日常の底に潜む恐怖毎日新聞2016年5月14日

いずれにせよ、《人生は、自己流儀の死への廻り道である。大抵の場合、急いで目標に到達する必要はない》(ラカン、セミネール17)であるに相違ない。

…時がたつにつれて、ぼくはファルスの突然の怒りがよくわかるようになった…彼の真っ赤になった、失語症の爆発が……時には全員を外に追い出す彼のやり方……自分の患者をひっぱたき…小円卓に足げりを加えて、昔からいる家政婦を震え上がらせるやり方…あるいは反対に、打ちのめされ、呆然とした彼の沈黙が…彼は極から極へと揺れ動いていた…大枚をはたいたのに、自分がそこで身動きできず、死霊の儀式のためにそこに閉じ込められたと感じたり、彼のひじ掛け椅子に座って、人間の廃棄というずる賢い重圧すべてをかけられて、そこで一杯食わされたと感じる者に激怒して…彼は講義によってなんとか切り抜けていた…自分のミサによって、抑圧された宗教的なものすべてが、そこに生じたのだ…「ファルスが? ご冗談を、偉大な合理主義者だよ」、彼の側近の弟子たちはそう言っていた、彼らにとって父とは、大して学識のあるものではない。「高位の秘儀伝授者、《シャーマン》さ」、他の連中はそう囁いていた、ピタゴラス学派のようにわけ知り顔で…だが、結局のところ、何なのか? ひとりの哀れな男だ。夢遊病的反復に打ちひしがれ、いつも同じ要求、動揺、愚劣さ、横滑り、偽りの啓示、解釈、思い違いをむりやり聞かされる、どこにでもいるような男だ…そう、いったい彼らは何を退屈したりできるだろう、みんな、ヴェルトもルツも、意見を変えないでいるために、いったい彼らはどんな振りができるだろう、認めることだ! 認めるって、何を? まさに彼らが辿り着いていたところ、他の連中があれほど欲しがった場所には、何もなかったのだということを…見るべきものなど何もない、理解すべきものなど何もないのだ…(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)

なにはともあれ、最後まで合理論を貫き通す人物というのは、稀有だろう。

戦前・戦中の日本が情緒に引きずられたことへの反省から、加藤周一はとことん論理的であろうとした。老境の文化人がややもすれば心情的なエッセーに傾斜する日本で、彼だけは最後まで明確なロジックと鮮やかなレトリックを貫いた。(浅田彰「憂国呆談」

…………

いつのまにかいなくなった人たち スラマット・アブドゥル・シュークルは80歳になっても元気で作曲していた ある日転んで ほどなく亡くなった 今年2015年3月26日スラバヤだった もう一人の友人ジャック・ボディの70歳を祝う本のために歌曲を送った すると 治療できないガンだとわかったという知らせがあり その後本人から昔ニュージーランドで会った年をたずねるメールが届いた その時は 思い残すこともなく安らかにすごしているということだった 今年5月10日にウェリントンのホスピスで亡くなった 杉本秀太郎は しばらく会っていないと思いだしたとき 白血病で 治療を一切せずに亡くなっていた 今年5月27日

たよりがなくなり 消息が絶え 人はいつかいなくなっている さまざまなしごと 作曲家だったり エッセイストで 作品を知っていたとしても 思い出すのは そういうことではない 会って交わしたことばでもない その人もそこにいた空間の いつどこともわからない空気に通うそよ風のような感触 行き交い すぎてゆく 人びとの影(高橋悠治「糸ほどの」2015.7



2016年7月12日火曜日

文学はかつて持っていたような役割を果たすことはありえない

現代思想・文芸という「支配的思想=支配階級の思想」」補足
…………

・僕も、文学が残る、やがて必要とされるとかたく信じていますけれども、差し当たっては厳しい。人がそれほど強く求めていないということは確かです。

・だけど、今の世の中は行き詰まると思う。日本だけではありません。世界的に。そのときに何が欠乏しているか。欠乏を心身に感じるでしょう。そのときに文学のよみがえりがあるのではないかと僕は思っています。(古井由吉「群像」2015年7月号 堀江敏幸対談)

…………

さてどうして人は文学をそれほど強く求めなくなってのか。だれもがすぐさま思いつくだろうインターネット、その他の娯楽(映像ヴィデオ、マンガ、ゲーム等)のせい、という「表層的」な理由はさておき、もっと別の理由があるのではないか。

まず、柄谷行人の(悪)名高い「近代文学の終り」から。

私が話したいのは、近代において文学が特殊な意味を与えられていて、だからこそ特殊な重要性、特殊な価値があったということ、そして、それがもう無くなってしまったということなのです。
文学の地位が高くなることと、文学が道徳的課題を背負うこととは同じことだからです。その課題から解放されて自由になったら、文学はただの娯楽になるのです。それでもよければ、それでいいでしょう。どうぞ、そうしてください。それに、そもそも私は、倫理的であること、政治的であることを、無理に文学に求めるべきでないと考えています。はっきりいって、文学より大事なことがあると私は思っています。それと同時に、近代文学を作った小説という形式は、歴史的なものであって、すでにその役割を果たし尽くしたと思っているのです。 
いや、今も文学はある、という人がいます。しかし、そういうことをいうのが、孤立を覚悟してやっている少数の作家ならいいんですよ。実際、私はそのような人たちを励ますためにいろいろ書いてきたし、今後もそうするかもしれません。しかし、今、文学は健在であるというような人たちは、そういう人たちではない。その逆に、その存在が文学の死の歴然たる証明でしかないような連中がそのようにいうのです。
今日の状況において、文学(小説)がかつて持っていたような役割を果たすことはありえないと思います。だた、近代文学が終わっても、われわれを動かしている資本主義と国家の運動は終わらない。それはあらゆる人間的環境を破壊してでも続くでしょう。われわれはその中で対抗して行く必要がある。しかし、その点にかんして、私はもう文学に何も期待していません。(柄谷行人『近代文学の終り』、2005)

「文芸評論家」として出発した柄谷行人がなぜこんなことを言うようになったのか。柄谷行人ももちろん「小説の偉大さ」をわかっていないはずはなかろう。

人間は、善と悪とが明確に判別されうるような世界を望んでいます。といいますのも、人間には理解する前に判断したいという欲望 ――生得的で御しがたい欲望があるからです。さまざまな宗教やイデオロギーのよって立つ基礎は、この欲望であります。宗教やイデオロギーは、相対的で両義的な小説の言語を、その必然的で独断的な言説のなかに移しかえることがないかぎり、小説と両立することはできません。宗教やイデオロギーは、だれかが正しいことを要求します。たとえば、アンナ・カレーニナが狭量の暴君の犠牲者なのか、それともカレーニンが不道徳な妻の犠牲者なのかいずれかでなければならず、あるいはまた、無実なヨーゼフ・Kが不正な裁判で破滅してしまうのか、それとも裁判の背後には神の正義が隠されていてKには罪があるからなのか、いずれかでなければならないのです。

この〈あれかこれか〉のなかには、人間的事象の本質的相対性に耐えることのできない無能性が、至高の「審判者」の不在を直視することのできない無能性が含まれています。小説の知恵(不確実性の知恵)を受け入れ、そしてそれを理解することが困難なのは、この無能性のゆえなのです。(クンデラ『小説の精神』1986 )

あるいは蓮實重彦の『表象の奈落』所収の「小説の構造」(初出=「国文学」1977年12月号)より。

もしかりに、ヨーロッパが真の反省的思考に目覚める瞬間があるとするならば、そのときヨーロッパが描きあげるだろうその自画像は「小説」を中心にした構図におさまることになるだろう。あるいは逆に「小説」を構図の中心に据えたヨーロッパ像が想定されぬ限り、ヨーロッパはその自意識を獲得することはなかろうというべきかもしれない。「小説」を視界におさめなかったが故に、デカルトは真の反省的思考を実践しえなかったし、マルクスも、またニーチェも、そしてフロイトも、「小説」を曖昧にとり逃がしてしまったが故に、ヨーロッパ的な現実を周到に描きつくすにはいたらなかったのだ。階級闘争も、永劫回帰も、無意識も、「小説」に対してはひたすら無効の身振りしか演じてはいない。そしてその事実を自覚する瞬間に、ヨーロッパは初めて真の反省的な思考を獲得することになるだろう。またそうでない限り、ヨーロッパは、ルイ十四世の時代と質的にはほとんど変わらぬ仕草で思考をめぐらせ続けるほかあるまい。
もしかりに、過去一世紀を「小説」の時代と呼ぶのであれば、それは、この身分の賎しくいかがわしい言葉の戯れから、賎しさといかがわしさを分離し、それを見ずにすごすことの歴史であったといえる。それに視線を落とさずにいることがもはや不可能となったいま、「小説」の歴史は、必然的に近代がその真の反省的意識に目覚めるという事件の生まなましい叙述たらざるをえないところにさしかかっていると思う。だがその具体的な叙述には、別の機会が設けられねばならない。

『表象の奈落』は2006年に出版されている。なぜ蓮實重彦は、30年近く前のこの小論を2006年の書に掲載する気になったのか(ここで上に引用した柄谷行人の「近代文学の終り」は、2005年の書であることを思い出しておこう)。

…………

で、オレは心情的には、蓮實重彦やクンデラのいうことのほうが好きさ、至高の「審判者」の不在を直視することのできない無能性に対する小説の知恵(不確実性の知恵)がね、

けれども、そのとき、「現代思想・文芸という「支配的思想=支配階級の思想」」で記したことにどうやって対抗するんだい?

なあ、芸術家や文芸愛好家諸君!

《孤立を覚悟して》、文学や芸術のよみがえりを待つ心意気があるならいいさ、

・近代の資本主義至上主義、あるいはリベラリズム、あるいは科学技術主義、これが限界期に入っていると思うんです。五年先か十年先か知りませんよ。僕はもういないんじゃないかと思いますけど。あらゆる意味の世界的な大恐慌が起こるんじゃないか。

・その頃に壮年になった人間たちは大変だと思う。同時にそのとき、文学がよみがえるかもしれません。僕なんかの年だと、ずるいこと言うようだけど、逃げ切ったんですよ。だけど、子供や孫を見ていると不憫になることがある。後々、今の年寄りを恨むだろうな。(「すばる」2015年9月号 古井由吉)




2016年3月7日月曜日

ある臨界線以上の強度のトラウマ

書かれぬことをやめぬもの“ce qui ne cesse de ne pas s'écrire”(Lacan, Séminaire XX Encore)


症状は、こう定義するしかない。それは、各人が無意識を享楽する様態である – 無意識がそう定めるがままに 。“Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine”(Lacan, Séminaire XXII RSI.)



…………

以下、主に中井久夫のトラウマ論からのメモ。


《トラウマ研究は麗々しくやるものとは絶対に違うと思います。地下水脈のようにーーと私は思っています。》(中井久夫「外傷神経症の発生とその治療の試み」『徴候・記憶・外傷』所収 p.157)


……初診において向うから PTSDを名乗ってくる患者の中には果たしてそうかという場合がある。

一般に外傷関連障害は決して発見しやすいものではない。葛藤を伴なうことの少ない天災の場合でさえ、アンケートをとり、訪問〔アウトリーチ〕しても、なお発見が困難なくらいである。人災の場合になれば、患者は、実にしばしば、誤診をむしろ積極的に受け入れ、長年その無効な治療を淡々と受けいれていることのほうが普通である。外傷関連患者は治療者をじっと観察して、よほど安心するまで外傷患者を淡々と受けいれていることのほうが普通である。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収 P95)
男女を問わず成人になる過程で、あるいは成人以後に外傷を負わない人間はあっても少ない。(……)

「身体の傷は何カ月かで癒えるのに心の傷はどうして癒えないのか。四十年前の傷がなお血を流す」と老いた詩人ポール・ヴァレリー(1871-1945)はその『カイエ』(生涯書き綴ったノート)に記している。心の傷の特性は何よりもまず、生涯癒えないことがあるということであろう。八カ月で瘢痕治療する身体の外傷とは画然とした相違がある。(……)

外傷的事件の強度も、内部に維持されている外傷性記憶の強度もある程度以下であれば「馴れ」が生じ「忘却」が訪れる。あるいは、都合のよいような改変さえ生じる。私たちはそれがあればこそ、日々降り注ぐ小さな傷に耐えて生きてゆく。ただ、そういうものが人格を形成する上で影響がないとはいえない。

しかし、ある臨界線以上の強度の事件あるいはその記憶は強度が変わらない。情況によっては逆耐性さえ生じうる。すなわち、暴露されるごとに心的装置は脆弱となり、傷はますます深く、こじれる。素質による程度の差はあるかもしれないが、どのような人でも、残虐ないじめや拷問、反復する性虐待を受ければ外傷的記憶が生じる。また、外傷を受けつづけた人、外傷性記憶を長く持ちつづけた人の後遺症は、心が痩せ(貧困化)ひずみ(歪曲)いじけ(萎縮)ることである。これをほどくことが治療戦略の最終目標である。 (中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収 P.109)
言語化への努力はつねに存在する。それは「世界の言語化」によって世界を減圧し、貧困化し、論弁化して秩序だてることができるからである。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 p.66)
私の子どもの観察であるが、ある子はしばしばうなされ、苦悶している時期があって、何とかしなければ、と思った。ところが夢を片言にせよ言語化することができるようになった途端に苦悶は止んだ。別のある子には、成人言語性を獲得してしばらく、親の後を追いかけてでも夢を聞かせようとする時期があった。私が言語の「減圧力」をまざまざと実感したのは、これら観察によってである。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 p.69)

…………

頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平成は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。

小児性を克服できずに育った、とこれを咎める者もいるだろうが、とても、当の小児にとっても後の大人にとってもおのれの力だけで克服できるようなしろものではない、小児期の深傷〔ふかで〕というものは。やわらかな感受性を衝いて、人間苦の真中へ、まっすぐに入った打撃であるのだ。これをどう生きながらえる。たいていはしばらく、五年十年あるいは二十年三十年と、自身の業苦からわずかに剥離したかたちで生きるのだろう。一身の苦にあまり耽りこむものではない、という戒めがすくなくとも昔の人生智にはあったに違いない。一身の苦を離れてそれぞれの年齢での、家での、社会での役割のほうに付いて。芯がむなしいような心地でながらく過すうちに、傷を克服したとは言わないが、さほど歪まずとも受け止めていられるだけの、社会的人格の《体力》がついてくる。人の親となる頃からそろそろ、と俗には思われているようだ。

しかし一身の傷はあくまでも一身の内面にゆだねられる、個人において精神的に克服されなくてはならない、克服されなくては前へ進めない、偽善は許されない、という一般的な感じ方の世の中であるとすれば、どういうことになるだろう。また社会的な役割の、観念も実態もよほど薄い、個人がいつまでもただの個人として留まることを許される、あるいは放置される世の中であるとすれば。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』)


…………

ぼくがクワイがすきだといったら
ひとりの少女が笑った
それはぼくが二十才のとき
死なせたシナの少女に似ている(吉岡実〈恋する絵〉)


或る別の部落へ行った。兵隊たちは馬を樹や垣根につなぐと、土造りの暗い家に入って、チャンチュウや卵を求めて飲む。或るものは、木のかげで博打をす る。豚の奇妙な屠殺方法に感心する。わたしは、暗いオンドルのかげに黒衣の少女をみた。老いた父へ粥をつくっている。わたしに対して、礼をとるのでもなけ れば、憎悪の眼を向けるでもなく、ただ粟粥をつくる少女に、この世のものとは思われぬ美を感じた。その帰り豪雨にあい、曠野をわたしたちは馬賊のように疾 走する。ときどき草の中の地に真紅の一むら吾亦紅が咲いていた。満人の少女と吾亦紅の花が、今日でも鮮やかにわたしの眼に見える。〔……〕反抗的でも従順 でもない彼ら満人たちにいつも、わたしたちはある種の恐れを抱いていたのではないだろうか。〔……〕彼らは今、誰に向って「陰惨な刑罰」を加えつつあるのか。

わたしの詩の中に、大変エロティックでかつグロテスクな双貌があるとしたら、人間への愛と不信をつねに感じているからである。(吉岡実『わたしの作詩法?』)


《――愛というものをどういう風に感じていますか?

 とんでもない不運、恐るべき寄生体、
全てのささやかな楽しみを台無しにする
永続化された緊急事態、そういったもの。》(ジジェク


……私は精神分析実践とほとんど恐怖症の関係にあるんだ。決してあんなことをしたい気はないね。

ーーけれど、あなたはミレールに分析を受けに行ったではないですか?

そう、でもひどく倒錯的で奇妙な分析だった。私が分析に行ったのは、個人的理由のせいだ。不幸な恋愛、深い、深い、とっても深い危機に陥ったせいだ。分析は、純粋に官僚的仕方でなされた。ミレールは私に言う、次週来るように、明日の午後5時に来るように、と。私は、約1ヶ月の間、本当に自殺したい気分だった。この思いは、ちょっと待て! と囁いた。自殺するわけにはいかない、というのは、明日の5時にミレールのところに行かなくちゃならないから。義務の純粋に形式的官僚構造が、最悪の危機を生き延びさせてくれた。…(Parker, (2003) ‘Critical Psychology: A Conversation with Slavoj Žižek、私訳)

2015年12月22日火曜日

文学の中心のありか

やはり文学を志す人間がすべて小説家たらんというのは、はっきりいって、おかしいわけよ。中心はどこかにあるはずだ。(「群像」2004年8月号平出隆対談)

とツイッターの古井由吉botで拾って、素朴に問いを発するとすれば、「文学」ってのはいったいなんなのだろうね、このbot を遡ると古井由吉はいろんなことを言っているのだが、たとえばこうある。

文学の中心は芝居と法なのかもしれないね。宗教、哲学、政治も含んだ広い意味の法。そのわきで活躍するのが小説とか。詩は、本来芝居の一部だったわけですね。芝居から独立して、ちぎれていった部分が詩なんです。(「群像」2004年8月号平出隆対談)

・これも不幸というか宿命なんですけれども、近代及び現代の作家が小説を書くとき、ただの物語にならないんですよ。どうしても認識論が伴うんです。これで人は苦労している。だから、小説が小説にならないともいえる。(「群像」2004年8月号平出隆対談)

認識論などという言葉も出てくる。

・でも、認識論含みじゃないと、やっぱり読者には読めないんじゃないかという気がするんですね。もちろん、認識論に社会全体として定まったものがあったら、殊さらやる必要はないわけで、それは本来小説の舞台となるはずです。(「群像」2004年8月号平出隆対談)

あるいはごく最近の大江健三郎との対談でも、こうある。

自分のことは自分が一番よく知っている、というのが私小説の出発点でしょう? しかし、自分のことこそ自分でわからない、ということもある。さらに、書き表す自分と、書き表される自分との分離。これを突き詰めると、難しい認識論、自己認識論に至ります。(「新潮」2015年10月号大江健三郎対談)

「書き表す自分と、書き表される自分との分離」というのは、哲学的にいえば「超越論的」にかかわってくるだろうし、精神分析的には「言表行為と言表内容の分離」にかかわってくる。

だがここではあまりややこしいことをいわずに、小説家古井由吉のまだ若い頃の名高い作品(のとても魅力的な箇所)と、精神科医の中井久夫のエッセイの一部を並べてみよう。わたくしにはどちらが魅力的だとも言いがたいし、どちらが「文学的」だともいいがたい。すくなくとも古井由吉と同様に、中井久夫は現代でも活躍する最もすぐれた「文学者」のひとりだとわたくしは思っている。

片隅に電話台の置いてある真四角の踊り場から向きを変えて階段を昇っていくと、杳子の姉の一家の住まう階下の雰囲気からいきなり隔てられて、彼はふと場所の意識を眩まされ、まるで初めて来た家ではなくて勝手を知った家の、幾度となく通いなれた階段をたどっているような気がした。階段を昇りきったところで左手の扉をゆっくり明けると、薄暗がりの中から、階下よりも濃密なにおいが彼の顔を柔かくなぜた。かなり広い洋間の、両側の窓が厚地のカーテンに覆われ、その一方のカーテンが三分の一ほど引かれて白いレースを透して曇り日の光を暗がりに流していた。その薄明かりのひろがりの縁で、杳子はこちらに横顔を向けてテーブルに頬杖をついていた。白っぽい寝間着姿だった。その上から赤いカーディガンを肩に羽織っている。戸口に立つ彼の気配を感じると、杳子は頭を掌の中に埋めたまま、彼のほうを向いて笑った。湯から上がりたてのような、ふっくらと白い顔だった。

「どうしたの」という言葉が二人の口から同時に洩れた。だがどちらも答えを求める気はすこしもなく、いつもの続きのように自然にテーブルに向かいあって坐り、目だけを動かして、お互いの軀を物珍しげに眺めあった。

テーブルからすこし遠めに置いた椅子に杳子は尻をあずけるようにのせ、腰から上をぬうっと前へ伸ばして、テーブルに肘だけでもたれかかっていた。いつだか病気の頃の姉について彼女の語ったとおりの恰好だった。しかし杳子の軀は固さに苦しんでいる様子も、重さに苦しんでいる様子もなく、どことなく自足した感じで重みを椅子とテーブルに分けていた。水色のネグリジェがたしかに薄汚れている。薄い布地が軀の円みにびったりとついた肌着を透かしていたが、その肌気も純白ではなかった。ゆったり開いた襟からのぞく肌も、気のせいか、いつもより濃く濁った光を漂わせている。だが不潔な感じも、淫らな感じもなく、杳子にも彼にも馴れ親しんだ穏和しい動物を、二人して眺めているような気持だった。

「大変な恰好じゃないか」
「このままで待っているって、ゆうべ、言ったでしょう」
「いつから、そんな恰好をしてるんだい」
「寝間着を脱がなくなってから、今日で三日目。肌とキレの温かさがすっかりひとつに馴染んで、いい気持ちよ」
「汚い子だなあ。臭ってくるよ」

そう言って彼は薄暗い空気を胸いっぱいに吸いこんで見せた。たしかにたえず沁み出る体液の、無恥なにおいがかすかにこもっていたが、それも段々に鼻に馴染んで円みを帯びていった。いかにも人がここにこもっているというにおいだな、と彼は素朴な感慨を抱いた。杳子もネグリじゃの胸をふくらまして、ゆっくり息を吐きながら、物憂げに目を細めて笑った。あっさり彼は秘密を売り渡してしまった。

「姉さんが、病院に行くように君を説得してくれって言ってたよ」
「あなたが行けって言えば、今すぐにでも行くわよ」
「病院に行ってどうなるの」
「健康になるよ」
「健康になるって、どういうこと」
「まわりの人を安心させるっていうことよ」

投げやりというよりも、病気と和んで、こうしてこのままでもいられると確めた満足感の中で、あとは家族の心配のことも考えて、成行きを待っているという風だった。五日前から杳子が昔の姉のように風呂に入ろうとしなくなったわけが、彼にはわかる気がした。(……)杳子は彼の顔を見つめて、しばらく掌の中で首をかしげていたが、それから頬杖をゆっくり倒して唇を近づけてきた。唇を触れ合っていると、暗がりに閉じこめられた子供の、汗と涙の混ったにおいがじかに伝わってきた。目を細く開くと、依怙地さを失った肌に、毛穴がひとつひとつ開いていた。(……)

その時、階段から杳子の姉の上がってくる足音がした。彼は杳子から顔を離そうとした。すると杳子は逆に顔を近づけてきて、唇を触れながら目を大きく見開いて足音に耳を傾けていた。それから彼女は唇を彼の耳もとにまわして、「あの人のすることを、細かく見ててちょうだい」とささやき、顔を引いてもとの頬杖にもどった。(……)姉が敷居をまたいで二、三歩を運んだとき、彼はその足どりの、妙にこちらの神経を疲れさせる固さに、目を惹きつけられた。(……)

やがて規則正しい足音が階段をゆっくり沈んでゆき、彼はほっとした気持で軀をテーブルのほうにもどして腰をおろした。見ると、いつのまにか杳子は右手にスプーンを短刀のように握りしめて、物狂わしい目つきをしていた。(古井由吉『杳子』)

…………

往診して初めて解けた初歩的な謎がいくつもあった。たとえば、ある少女が、十年来、まったく眠れないと訴えつづけていた。また、傍らに魔女がいるとも。私は、外来でその謎が解けないまま、何年も診てから、友人に後を頼んで転勤した。しかし、二度目の転勤先に頻繁にかかってきた電話は、現主治医とともに往診することを私に決心させた。それは患者の希望でもあったが、私の心の中に謎を解きたいという気持ちが動いてのことだったのも否めない。

市営住宅の一つに少女の家はあった。父は去り、母と二人住まいであった。少女は白皙といってよい容貌に、二十歳を過ぎているとは思えないあどけなさを残していた。十歳にならないこと、まず母の診察に伴って私の前に現れ、次いで診療の主役となった当時の面影はほとんそそのままであったが、十年の閉じこもりが、そのうえに重なっていなかったわけではない。旧知の母は私を歓迎した。私たちは道に迷い、夜になっていた。豪雨であった。

十年の全不眠はありにくく、まして体重が減少しないでそうであるということはまずありえない。質問に応じて少女は頭痛と眼痛と脚の痛みとを訴えた。私は、脈をとった。一分間に一二〇であった。速脈である。これは服用中の抗精神病薬いよるものかもしれなかった。しかし、彼女はまったく気づいていない。私は舌を診た。ありえないほどの虚証であった。長年の病いは、「雨裂」と地理学でいう、雨に侵食された山の裸のような甚だしい裂け目を舌の実質に作り、舌の厚さは薄く、色も淡かった。それにしても脈は細く数が多い。私は脈を取りつづけた。少女は静かにしていた。私は、椅子にすわっている少女の前の床に座って、もう一方の手を足の裏にそっと当て、そのままじっとしていようとした。

なぜ足の裏かといえば、身体のもっと上部にふれることは危険があり、実際、少女は必ず不快を訴えるだろうからである。足の裏には重要なセンサーが集中していて、だから人間は二足歩行ができ、さらに一本足で立つこともできる。なぜ床にすわったか。私は少女をすこし仰ぐ位置にいたかった。それは私の臨床眼であった。私は彼女に強制しているのではないことを態度で示したかった。

時間がたっていった。母親が話しかけようとするたびに私は指を口唇にあてて制止した。私はこの家の静寂を維持しようとした。私は、ここまできたら、何かがわかり、少女が眠るまでは家を動かない決意をしていた。じっと脈をとっていると、私の脈も次第に高まってきた。身体水準での「チューニング・イン」が起こりつつあった。この能力に私は恵まれているが、それは両刃のやいぱであって、しばしば、私はこの状態からの脱出に苦労してきた。ついに彼女の脈と私の脈は同期してしまい、私の脈も一分間一二〇に達した。しかも、ふだん六〇である脈が倍になれば、ふつうならば坂道を登る時のような息切れがあるのに、今の私には、まったく何の苦痛もなかった。逆に時間の流れがゆっくりになった。眼前の時計の歩みの速さがちょうど半分になった。すべてが高速度写真のようにゆっくりし、すべての感覚が開かれ、意識が明晰になった。これはおそらく少女が日々体験しているものに他ならないものであった。何の苦痛もないことが奇妙であった。ふと私は身の危険を感じた。五十歳代の半ばに近づいており、循環器系を侵す病気を持っているーー。

感覚の鋭敏さの中で、私はガシャガシャガシャという轟音を聞いた。その轟音の音源はすぐわかった。母親が食事を作っている音である。力いっぱいフライパンを上下しているのだ。ついで鍋の中をかきまわす音。この音のつらさは、静寂の中で突然起こり、ほとんど最大限に達して、突然消えることであった。その耐えがたさは、静かな瀬戸内の島に橋がかかり、特急列車が通過する時に島の人が耐えられないと感じる、その理由と同じものである。それは、音の大きさの絶対値だけではない。それもあるが、さらに苦痛なのは絶対に近い静寂が突如やぶられる突発性である。静かな場に調整されている耳は、騒音に慣れている耳とは違う。そもそも、聴覚は視覚よりも警戒のために発達し、そのために使用され、微かな差異、数学的に不完全を承知で「微分回路的な」(実際には差分的というほうが当っているだろう)という認知に当っている。声の微細な個人差を何十年たっても再認し、声の主を当てるのが聴覚である。この微分回路は「突変入力」に弱いのである。ゼロからいきなり立ち上がる入力、あるいは突然ゼロになる入力のことである。その苦痛であった。

いま私は少女の状態に一時的に近づいている。私が耐えがたい轟音として聞いている、この台所仕事の音は、長年これを聞いている少女にはさらに耐えがたいであろう。突変入力がはいるたびに、少女の微分回路は混乱するにちがいなかった。「家にいる目に見えない悪魔」とは「突変入力」によるこの惑乱ではないかと私は仮定した。母親の側には突然最大限の力を出すという特性があり、少女には慣れが生じにくいという特性があるのあろう。それは不幸な組み合わせであるが、生活の他の面にも浸透しているにちがいなかった。

私は突然気づいた。眼前の掛け時計の秒針の音が毎分一二〇であることに。ひょっとすると、少女の脈拍は時計に同期しているのかもしれない。私はよじ登って時計をとめた。私は一家にしばらくこの掛け時計なしで過してもらうことに決めて、時計を下駄箱の中に隠した。

仮説は当たっていた。彼女の脈拍はしだいにゆっくりとなった。私の脈も共にゆるやかになった。母親は、別の部屋で主治医が相手になっていてくれるらしかった。

私は、あらためて思った。ある種の患者は、そのまったき受動性において、あらゆる外界からの刺激を粘土が刻印を受け取るように受け取るーー少なくともそういう時期があるということを私は指摘したことがある。私は、少女が時計の音にも脈が同期してしまう、まったき受動性において日常外部あるいは内部に発生する入力を処理している、いやむしろ一方的に受け入れているのではないかという仮説を立てた。解決方法は、入力の制限か、入力に耐えられるように少女に変わってもらうことだ。しかし、それは大変な問題である。差し当たって、少女が眠れれば、少なくとも、好ましいほうに何かが変わる可能性がある。母親にも本人にもある希望が、かすかにせよ、起こるかもしれない。

私の指圧は、この場合のとっさの行為である。このような未知数の多い状況においては、他の選択肢はすべて危険をはらんでいた。頭の指圧など、それだけで少女に破壊的であり、抗精神病薬なら、これまでに少女が大量に服用していないものはなく、いまさら処方するものはなかった。そして、それはそもそも主治医の問題であった。私は足の裏への軽い接触を続けた。この少女の病んできた膨大な時間の塊りの前で、それはほとんど無にひとしいが、ほかに方法は思いつかなかった。ことばも無力であった。「おりこうさん」的な返事しか返ってこないことを私は十二分に経験していた。

医学とは別に私は指圧を少しはできないではない。私の大叔父の一人は、若いころは放蕩者だったというが、私の知る晩年は、村外れの小さな家で、村人に灸を据え、指圧し、愚痴を聴く、一種の「お助けじいさん」であった。その老人のの何かを私は受け継いでいるのかもしれなかった。しかし、鍼灸指圧の職業人ではない私は、通常一人か二人でへとへとになるので、ふだん患者の指圧はしないようにしている。後の患者を診る力がぐっと減るのである。

一時間半後、頭痛は去り少女は眠気を訴えた。いい眠けか、いやーな眠けかと私は問うた。いい眠けであった。私は「隣りの自分の部屋に行ってもいいよ」といった。少女はそっと部屋に滑り込んだ。頭痛などは筋緊張のせいであり、少女の筋緊張がゆるむのを先ほどから私は彼女の足の裏に感じていた。

ここで当然、母親が世話をやこうとした。当然といえば当然の行為であるが、私は、母親のいつもながらの、声帯をいっぱいに緊張させた声でこの一幕を台無しにしたくなかった。思いついたのは、釈迦が自分の出身部族を攻撃に来る王の軍隊の踵を二度めぐらせた、その方法である。私は、その部屋のまえで座禅を組んだ。われながら三文芝居と思ったが他に方法はあっただろうか。「悟り」を求めようとさえしなければ、まあ無念無想というのであろう状態に入ることはむつかしくない。外からみれば周囲の事物あるいは風景の一部になってしまうこととなろう。母親はさすがにたじろいだ。二十分も経ったろうか。隣室から寝息が聞えてきた。とにかく私は何かを達成したのだ。

しかし、問題は、よい残留効果を残しつつどのようにしてこの一幕を閉ざすかであった。私は、母親に、今日は少女を食事に起こさず、このまま眠らせて、明日も起こさないことを頼んだ。実際どれほど大量の眠りが溜まっていたことだろう。そして、掛け時計をしまったKとおを告げ、私の腕時計をとっさに渡してしばらくこれでやってほしいといった。母親は頷いた。そして、隣室に盛大に用意されている食事に誘った。

私は迷った。彼女は福祉の保護を受けている身である。せいいっぱいの献立であった。しかし、私の目的は母親ではなかった。母親とは当人である少女以上にここで親しくなってはならなかった。動きたく、世話をやきたい彼女を抑えて少女を眠らせつづけることに私はエネルギーを使いつつあった。食事は、当然、私の緊張をほぐし、母親とのいささか馴れ合いを含んだ関係を作るだろう。しかし、いただかなければ、母親がこの食事を捨てる時の気持ちは、索漠とした、受容されなかったという感情となるにちがいない。それは少女にどうはね返るだろうか。

結局、私は、合掌して真ん中のごちそうに象徴的に箸をつけた。そうして合掌したまま、後ろずさりに家を出た。主治医がいくばくかのことばを交して私の後を追った。

閉じ方がこうであってよかったのか、今も思い返すが、結論はまだ揺れている。私は、ある漢方薬を医師に勧めた。主治医にどう見えたかを聞くと「何か芝居がかったことをしていたとしかわからない」といい「しかし、あの家で静寂が二時間あったということはなかったでしょう。二時間の状況をあそこにつくり出したということですね」と答えた。

私はまだまだいろいろなことを語ることができるだろう。しかし、もはや語るには、私の内心の抵抗が大きすぎる。私が経験したことをすべて語るならば、それは、さすがに憚って、かつて公刊されたことのない、精神分析のほんとうの生の記録を公開するに等しいことになるだろう。むろん、その際に私の中で起こっていたこと、私のその都度その都度の仮説とその修正とを詳細に述べなければ、事態は、半面しか見えず、フェアでなく、また読む者を誤った方向に連れてゆくであろう。

ここで、精神分析においては詳細な記録とされるものが、往診においては単なるフィールド・ノート程度であることに注意していただきたい。個人は、抵抗のすえに初めて無意識の秘密をいくらか明らかにするが、家族、少なくとも危機にある家族への往診は、一挙に家族の意識を越えた深淵を明らかにする。しばしば、それは「見えすぎる」のである。(中井久夫「家族の深淵」)

2015年10月21日水曜日

にわかに逞しくなった膝

 人間は、人殺しだとか、裏切りだとか、泥棒だとかいう言葉を、平気で人前でしゃべり散らしているくせに、どうして性交という言葉は、歯の間で噛み殺してしまうのであろう、言葉に出して発散してしまわない方が、その思想を拡大することができるというわけか知らん、とモンテエニュは言っている。続いて、この苦労人は、世間で最も稀れにしか使われぬ言葉が、世人に最もよく広く知られた言葉であるとは、実におもしろいことである、と言う。おもしろいことかもしれない。あるいは恐ろしいことかもしれない。人間という奇妙な動物は、己れを恐れている、これも確かモンテエニュの言葉である。いずれにせよ、これは、あらゆる好色文学が花を咲かせる謎めいた地盤のように思われる。(小林秀雄「好色文学」昭和二十五年七月)

…………

ツイッターの古井由吉botで次の文を拾った。

・病気ではない、この二年半の間にどこかの男とよほど深い関係にあったのだ、と岩崎は睨んだ。もう切れたあとか、切れかけているのか、それとも澱んでしまっているのか知らないが、おそらく佐枝はその関係の始まる前の時点にもどろうとして、岩崎の存在を思出したのにちがいない。

・そう言えば抱かれている時にも、孤独を守っていた。岩崎によって、男にたいして孤独になろうとしていた。

・「わかってるよ。お前が男と暮しているとは思っていないさ。男が部屋へ通ってくるとも、思っていない。そんな艶っぽいことのある女の顔はしてないさ。ただ、なんとなく、嫉くんだよ。お前がそれを許すんだ。村では、俺の横着さをどこまでも許したが」

・にわかに逞しくなった膝で、佐枝は岩崎の身体を押しのけるようにする。それにこたえて岩崎の中でも、相手の力をじわじわと組伏せようとする物狂おしさが満ちてきて、かたくつぶった目蓋の裏に赤い光の条が滲み出す。鼻から額の奥に、キナ臭いような味が蘇りかける。

・やがて佐枝は細く澄んだ声を立てはじめる。男の力をすっかり包みこんでしまいながら、遠くへ助けを呼んでいる声だった。(古井由吉『栖』「栖」)

ーーなんという目が眩むような文だろう、 〈あなた〉は性戯の最中に女をからかたことなどにより、《にわかに逞しくなった膝で》《身体を押しのけるように》されたことはないか。

そしてその反動で《相手の力をじわじわと組伏せようとする物狂おしさが満ちて》きて凶暴な心持に襲われたことはないか。

《かたくつぶった目蓋の裏に赤い光の条が滲み出》したことは〈あなた〉ではない〈わたくし〉にはないが、《鼻から額の奥に、キナ臭いような味が蘇りかけ》たことぐらいはある。

ああ、そうしたあと、女は《細く澄んだ声を立てはじめる》、だが《男の力をすっかり包みこんでしまいながら、遠くへ助けを呼んでいる声だ》。

私はいまも思いだす、そのときの暑かった天気を、そんな日なたで給仕に立ちはたらいている農園のギャルソンたちの額から、汗のしずくが、まるでタンクの水のように、まっすぎに、規則正しく間歇的にしたたっていて、近くの「果樹園」で木から離れる熟れた果物と、交互に落ちていたのを。そのときの天候は、かくされた女のもつあの神秘とともに、こんにちまでもまだ私に残っている、――その神秘は、私のためにいまもさしだされている恋なるもののもっとも堅固な部分なのだ。プルースト「ソドムとゴモラ Ⅰ」井上究一郎訳)




そして突然夢のなかでサン=ルーは愛人がいつものくせのように官能の瞬間に規則正しく間歇的に発するあのさけび声をはっきり耳にしたのであった。 (プルースト「ゲルマントのほう Ⅰ」)

ああ女にはかなわない。われわれはつねに負ける。

ーー「負ける」だって? 愛とは勝ち負けじゃないわよ、などとほどよく聡明なお方がたぶんおっしゃられることだろう。

「ほどよく聡明な」とは場合によっては「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」(小林秀雄)のことである。負ける/勝つとは受動性と能動性のことさ。

女性、享楽、不安はエロスの部分である。男性、ファリックな快楽、悲哀はタナトスの部分である。この性向が意味する分岐は、快楽はあまりにも大きな喪失を生み出すということだ(Tristis post Coitum 性交後の悲しみ)。不安は自我の消滅にかかわり、それが享楽の条件である(たとえば性的融合によってエゴは消え去る刻限がある)。悲哀はファリックな快楽(たとえばオーガズム)の結果による共生の喪失にかかわる。この観点から言えば、男性と女性の対立は、まったく相対的なものであり、それは能動性と受動性の対立として捉えなおすべきだ、すなわち、どの主体も他者に相対するときに取り得る態度として。(Paul Verhaeghe 、Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE、1998)

ほかに肝腎なのは、《〈他〉の性自体は、両方の性にとって、女性の性female sexである。それは、男にとっても女にとっても〈他〉の性である》(The Axiom of the Fantasm ,Jacques-Alain Miller)、すなわち男女とも最初の愛の対象〈女=母〉が〈他〉の性であることだ。

そしてどの現実の女性にもこの〈他〉の性の影が落ちており、他方、現実の男性にはこの〈他〉の性の影が稀にしかないということだ。


男なんざ光線とかいふもんだ
蜂が風みたいなものだ 

ーー西脇順三郎 「旅人かへらず」より

自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。( カーミル・パーリア「性のペルソナ」




ーー瞬間的に「勝った」と思ってもダメだ、すぐそのあとが待っている。

われわれは次のように、女性の扱い方に分別を欠いている。すなわち、われわれは、彼女らがわれわれと比較にならないほど、愛の営みに有能で熱烈であることを知っている。このことは……かつて別々の時代に、この道の達人として有名なローマのある皇帝*1とある皇后*2自身の口からも語られている。この皇帝は一晩に、捕虜にしたサルマティアの十人の処女の花を散らした。だが皇后の方は、欲望と嗜好のおもむくままに、相手を変えながら、実に一晩に二十五回の攻撃に堪えた。……以上のことを信じ、かつ、説きながらも、われわれ男性は、純潔を女性にだけ特有な本分として課し、これを犯せば極刑に処すると言うのである。(モンテーニュ)

*1 ティトゥス・イリウス・プロクルス。
*2 クラディウス帝の妃メッサリナ。

ティレジアスの神話を御存知ですか。彼は女性の享楽がどんなものか知りたく、ゼウスから女になることを許されたのです。ティレジアスの性転換です。彼が男に戻った時にこう言います-世の中に享楽が十あるとすると、九つは女のもので一つだけが男のものだ。ここでは簡単に触れることしかできませんが、それはこういう考えなのです-男が一つのものとすると、女は常に他(Autre)のものである。フロイトが超自我の欠けた存在である女について言っていることに関して例えばピロポが教えてくれるものによると、女性はまさに超自我的な他者(Autre)の場所を占めるものなのです。現実に女は結構上手にそこに腰を据えてようですが...また財布の紐はしばしば奥さん方がにぎっています。フランス語ではよく俗に妻をかみさんbourgeoise[お金を持っているブルジョアから来ている]と呼びます。(ジャック=アラン・ミレール『ピロポ』)




構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。

この畏怖に対する一次的な防衛は、このおどろおどろしい存在に去勢をするという考えの導入である。無名の、それゆえ完全な欲望の代りに、彼女が、特定の対象に満足できるように、と。この対象の元来の所持者であるスーパーファザー(享楽の父)の考え方をもたらすのも同じ防衛的な身ぶりである。ラカンは、これをよく知られたメタファーで表現している。《母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。》

このことは、われわれに想い起こさせる、スフィンクスとその謎に直面した状況を。スフィンクスはあなたを貪り食うだろう、もしあなたが正しい答え、すなわち、正しいシニフィアンを齎さなかったら。実のところ、われわれは実在の女について話しているわけではもはやない。逆に、すべての女は、二重の仕方でこの姿形の餌食になるのだ。主体として、彼女はこのおどろおどろしい形象に直面する(すなわち、男と同じように、生れたときは、母の欲望に直面する:引用者)。さらに、女として、彼女はこの畏怖すべき形象の姿を纏わせられる。あなたがこのおどろおどろしい女性の姿形の説明を知りたいのなら、カミール・パーリアの書物、『性のペルソナ』をにおける性と暴力をめぐる最初の章を読んでみるだけでよい。彼女は正しく、この姿形と自然自身とを同一化している。もしこの姿形に直面した男性の不安の臨床的な説明を読みたいなら、オットー・ヴァイニンガーの『性と性格』Geschlecht und Charakterを読んでみよう、ジジェクのコメントとともに。この二つとも意図されずに、臨床的的な事実の説明となっている。すなわち、防衛的な機能とともに、おどろおどろしい女性の姿形のアポステリオリな(後天的な)構築物であるという事実の。もし意図された臨床的な説明がほしいなら、Klaus Theweleitによる美しい『Männer Phantasien』を手に入れ、繙いてみればよい。(Paul Verhaeghe、NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL、私意訳)。

…………

この半年ぐらい歌曲をかなり聴いたのだが、歌曲とはくり返し聴いていると飽きる。とくに歌い手の個性が強く出すぎているものは、最初はひどく惹きつけられるが、しばらくするとウンザリしてくる。

◆NINON VALLIN "Les berceaux" Fauré






ーーおい、スゴイ声だな、NINON VALLINって。でももういいよ。


たくさん聴いたなかで生き残っているのは、モンテヴェルディをうたうBernarda Finkの「すべてをお忘れなさい Oblivion soave 」だ。この〈母〉なる声にすべてを忘れよう、たとえも貪り食われてもいいじゃないか。

◆Bernarda Fink, Monteverdi, l'incoronazione di Poppea, "Adagiati, Poppea - Oblivion soave" (Arnalta)




暗闇に幼な児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ちどまる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ。子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが、歌それ自体がすでに跳躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスの中に秩序を作りはじめる。しかし、歌には、いつも分解してしまうかもしれぬという危険もあるのだ。アリアドネの糸はいつも一つの音色を響かせている。オルペウスの歌も同じだ。(ドゥルーズ&ガタリ『千のプラトー』p359)

この歌声はカオスの中に秩序をつくるだけじゃない、アリアドネの糸に引っ張られて母胎のなかに吸い込まれる感覚をもたらす。

・迷路の人間は、決して真実を求めず、ただおのれを導いてくれるアリアドネを求めるのみ。(ニーチェ 遺稿)

・賢くあれ、アリアドネ!……そなたは小さき耳をもつ、そなたはわが耳をもつ。(ニーチェ『ディオニュソスーディテュランボス』(Dionysos-Dithyrambus)第七歌「アリアドネの嘆き」(Klage der Ariadne)

そしてあの〈母〉なるものに抵抗しようとするEZIO PINZAの「全てを忘れろ!」である。

◆EZIO PINZA "OBLIVION SOAVE" CLAUDIO MONTEVERDI




…………

さて、なにが言いたかったのだろう。

しらばっくれる性質の人たちの家系でよくあることだが、表立った理由もなく弟が兄を訪ねにきて、帰りぎわにドアのところで、ちょっと挿入句のような形でひとことものをたずね、べつにその答をきいているようすもないが、そのためかえって兄には、そのひとことこそ弟の訪問の目的なのだということがぴんとくる、なぜなら、本筋から切りはなされたようにつくろうようす、括弧つきのようにしてもちだされる言葉は、兄には十分身におぼえがあるからであり、兄自身何度もその手をつかったことがあるからである。(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳) 



2015年10月16日金曜日

姉様かぶり

羽織かくして、  袖ひきとめて、  どうでもけふは行かんすかと、
言ひつつ立つて櫺子窓、  障子ほそめに引きあけて、
あれ見やしやんせ、  この雪に。

わたくしはこの忘れられた前の世の小唄を、雪のふる日には、必ず思出して低唱したいような心持になるのである。この歌詞には一語の無駄もない。その場の切迫した光景と、その時の綿々とした情緒とが、洗練された言語の巧妙なる用法によって、画よりも鮮明に活写されている。どうでも今日は行かんすかの一句と、歌麿が『青楼年中行事』の一画面とを対照するものは、容易にわたくしの解説に左袒するであろう。(永井荷風『雪の日』)

ーーと読んで喜多川歌麿の『青楼年中行事』の絵を探してみたのだがそれらしきものに遭遇できない。かわりに次ぎの画像に行き当たったので貼り付けておく。

まずは明治大正時代の吉原。





昭和6年の吉原。





1932年(昭和7年)の吉原。





今日もとうとう雪になったか。と思うと、わけもなく二番目狂言に出て来る人物になったような心持になる。浄瑠璃を聞くような軟い情味が胸一ぱいに湧いて来て、二人とも言合したようにそのまま立留って、見る見る暗くなって行く川の流を眺めた。突然耳元ちかく女の声がしたので、その方を見ると、長命寺の門前にある掛茶屋のおかみさんが軒下の床几に置いた煙草盆などを片づけているのである。土間があって、家の内の座敷にはもうランプがついている。

友達がおかみさんを呼んで、一杯いただきたいが、晩くて迷惑なら壜詰を下さいと言うと、おかみさんは姉様かぶりにした手拭を取りながら、お上んなさいまし。何も御在ませんがと言って、座敷へ座布団を出して敷いてくれた。三十ぢかい小づくりの垢抜のした女であった。

はて、姉様かぶりとはなんだったか。わたくしはこのあたりにことさら無知である。何度かはこの言葉に行き当たっているには違いないが、いままで調べてみようとは思わなかった。




 もうすこし探ってみると、喜多川歌麿ではなく、 歌川国芳の朝櫻楼:『艶 發合』に出会うことができた。




さて荷風の『雪の日』をもうすこし続ける。荷風を読んでいるとどうしても懐旧モードになる。この随筆はことさらそうだ。いつ書かれたのだろうか。いまいくらか資料を見てみても判然としない。

本文中に《七十になる日もだんだん近くなって来た。七十という醜い老人になるまで、わたくしは生きていなければならないのか知ら》とはある(荷風は1879年生まれ)。とすれば戦後に書かれた文か。だがどうもそんな感じはしないのだ。終戦直前か。

焼海苔に銚子を運んだ後、おかみさんはお寒いじゃ御在ませんかと親し気な調子で、置火燵を持出してくれた。親切で、いや味がなく、機転のきいている、こういう接待ぶりもその頃にはさして珍しいというほどの事でもなかったのであるが、今日これを回想して見ると、市街の光景と共に、かかる人情、かかる風俗も再び見がたく、再び遇いがたきものである。物一たび去れば遂にかえっては来ない。短夜の夢ばかりではない。

友達が手酌の一杯を口のはたに持って行きながら、

雪の日や飲まぬお方のふところ手

と言って、わたくしの顔を見たので、わたくしも、

酒飲まぬ人は案山子の雪見哉かな

と返して、その時銚子のかわりを持って来たおかみさんに舟のことをきくと、渡しはもうありませんが、蒸汽は七時まで御在ますと言うのに、やや腰を据え、

舟なくば雪見がへりのころぶまで

舟足を借りておちつく雪見かな

 その頃、何や彼かや書きつけて置いた手帳は、その後いろいろな反古と共に、一たばねにして大川へ流してしまったので、今になっては雪が降っても、その夜のことは、唯人情のゆるやかであった時代と共に、早く世を去った友達の面影がぼんやり記憶に浮んで来るばかりである。(荷風『雪の日』)

姉様かぶりをした《三十ぢかい小づくりの垢抜のした女》が、《お寒いじゃ御在ませんかと親し気な調子で、置火燵を持出して》くるのにであい、それを《親切で、いや味がなく、機転のきいている》と感じる。

《こういう接待ぶりもその頃にはさして珍しいというほどの事でもなかったのであるが、今日これを回想して見ると、市街の光景と共に、かかる人情、かかる風俗も再び見がたく、再び遇いがたきものである。物一たび去れば遂にかえっては来ない。短夜の夢ばかりではない》ともある。





荷風の時代でも稀になっていたのだから、いまならなおさらだろう。

1987年に書かれた古井由吉の「中山坂」には、その僅かな生き残りの「気さくなお神」さんが出てくる。

「ああ、ネエさん、悪かったな、ここの店でちょっと休んでいくよ」

しっかりとした老人の声に、もうはずれに角に近い茶店を見ると、軒からお赤飯とか、ところ天とか、埃まみれの札をさげ、小笊に盛った里芋やらちょっとして土産物やらを並べた店さきに、主人〔あるじ〕らしい中年の男とそのお神さんらしいのが立って、驚きの色も見せず、若い女の肩につかまって着いた老人を、おかしそうに眺めやった。

「なんだよ、野中さん、今日はまた美人の看護婦さんに付添われてさ。ますます元気じゃないか」
「いや、駄目だよ。馬場が、来るたびに遠くなりやがる」
「毎週毎週、歩いてきて、ようがんばるよ。もう明日きりで府中だねえ」

弱音を吐きながら女の肩を離れると足がすっくと立って、老人は鷹揚な背つきで店さきに近づき、追って傘をさしかけた女のほうを振り返ってオヤという目をしてから、笑って店の主人をたしなめた。

「おいおい、看護婦さんなんて、気安く言うなよ。お名前はまだうかがっていないが、この人は、命の恩人だ。大門の下で、大げさによろけかかってな。うしろから支えてもらわなければ、足腰がヤワになっているから、もろに転げて、頭蓋骨ぐらいは壊してたぞ。いまごろは、あんたたち、ピーポーの音を聞いて、爺さんとうとう往ったかって、喜んでいたところだ。ついでに向脛を打ってな、ここまで肩を借りてきた」

嘘も闊達で、勝手知ったふうに店の奥に入り、畳の間にあがって壁の柱を背に大きな胡坐をかくと、遠くから軒の外をすかし見るようにして、ゆったりと女をまた手招いた。

わたし、ここで失礼します、というこころで女は傘の下から頭を深くさげたが、その傘をすぼめて店さきに立てかけたとたんに、なにやらヌレネズミみたいな惨めたらしい恰好になり、三人に揃って眺められてちょっとたじろいだところを、気さくなお神に腕を取られて軒の下に入った。

畳〔うえ〕に上がるように主人にすすめられたが、ちゃぶ台に肘をついて競馬新聞を睨んでいる老人の、にわかにいかめしげな姿にけおされて、上がり口のはずれに腰を浅く斜めにかけ、額から首すじへ髪へとハンカチで拭ううちに、お神が寄ってきて、濡れて白っぽくなっているらしい顔を見て、お酒でもつけましょうか、と心配そうにたずねるので、また困っていると、うしろで老人が呼んだ。

「お嬢さん。人助けのついでにな、もうひとつ助けてくださらんか。後生ですから」
かけた腰を右にひねるか、左へはずすか、変なところで迷ってしどろもどろに振り向くと、老人は新聞を下に置いて女の顔を見つめた。
「ネエさんは」と物言いが先の調子にもどった。「知らないところに行っても、あまりまごつかないほうだろうね」
「平気なほうだと思いますけど。根が田舎者なんで、かえって」
「足も丈夫そうだね」
「さあ、どうかしら」
「これからひとつ、走ってくれないか」
「走る ……」

女の剥いた怪訝の色に押っかぶせるふうに、老人はちゃぶ台の前に居ずまいをただして懐から大きな財布を取り出し、万札を二枚抜いて台の上にいったんぽんと置いてから、紙きれとかさねてつかんで女の胸もとに差し出すと、女は胸を庇うみたいにしてそれを受け取ってしまい、万札だけをおずおずと台の隅に戻して紙きれに目を落とした。

「今が一時、まあ、ちょうどだ。大門からここまで十分もかかったか。七レースの発馬が二十分、締切りがその三分前だ。これから十五分ほどで競馬場まで行ってもらいたいのだ。紙が二枚あるな、その一と書いたほうを、着いたらすぐその足で、近い窓口に黙って突っこんでくれ。ただ、黙って。間違えたら、窓口のほうが教えてくれる。金を払ったら馬券を大事に抱えて、じきにレースが始まるから、後学のために見物しとくといい。つぎに前売りの窓口に行く。いいかね、前売りだ。案内所があちこちにあるのでそこで聞く。これは、次のレースを抜いておいたので、そんなに急ぐことはない。窓口まで行って、二枚目の紙をただ差し出して、言われたとおりに金を払って馬券を受け取る。そうしたら、ここまでまた、ぶらぶらともどってきてくれ。温かいものでも、仕度させて待っているよ」(古井由吉『中山坂』)