徳川氏の覇業江戸に成るや、爰に発芽せし文華をして殊に芸術の方面において、一大特色を帯ばしめたる者は娼婦と俳優なり。太平の武士町人が声色の快楽を追究して止まざりし一時代の大なる慾情は忽ち遊廓と劇場とを完備せしめ、更に進んでこれを材料となせる文学音曲絵画等の特殊なる諸美術を作出しぬ。
暫く事を歴史に徴するに、わが劇場の濫觴たる女歌舞伎の舞踊は風俗を乱すの故を以て寛永六年に禁止せられ、次に起りし美少年の若衆歌舞伎もまた男色の故を以て承応元年に禁止せられて野郎歌舞伎となりぬ。
日本演劇発生の由来は全く一時代の公衆が俳優の風姿を愛慕する色情に基きしといふも不可ならず。女優並に遊女の女歌舞伎、また玩童の若衆歌舞伎、いづれにせよそが存在の理由は専ら演技者の肉体的勢力にありて、歌舞音曲はその補助たりしや明かなり。
寛文延宝以降時勢と共に俳優の演技漸く進歩し、戯曲またやや複雑となるに従ひ、演劇は次第に純然たる芸術的品位を帯び昔日の如く娼婦娼童の舞踊に等しき不名誉なる性質の幾分を脱するに至れり。
これと共に公衆の俳優に対する愛情もまたその性質を変じて、例へば武道荒事の役者に対しては宛ら真個の英雄を崇拝憧憬するが如きものとなれり。古今東西の歴史を見るも実に江戸時代におけるが如く公衆の俳優を愛したる例証はこれあらざるべし。
江戸の市人は俳優に対して不可思議なる熱情を有したり。彼らは啻に演劇を見て喜ぶのみならず更にこれを絵画に描きて眺め賞したり。浮世絵の役者似顔絵はこれら必然の要求に応じたるものにして、その濫觴は浮世絵板画の祖ともいふべき菱川師宣なるべし。(永井荷風『江戸芸術論』)
この荷風には珍しくーーと言っておこうーー学究的色調さえある文章が書かれた「大正三年」(1914年)前後とは次のようなことが起こった時期であるようだ(荷風は 1879年生まれだから、35歳前後である)。
1912年
9月 - 本郷湯島の材木商・斎藤政吉の次女ヨネと結婚。
1913年
1月2日 - 父久一郎死去。家督を相続。
2月 - 妻ヨネと離婚。
1914年
8月 - 市川左団次夫妻の媒酌で、八重次と結婚式を挙げる。実家の親族とは断絶する。
1915年
2月 - 八重次と離婚。
5月 - 京橋区(現中央区)築地一丁目の借家に移転。
たとえば荷風はこんな指摘もしている。
喜多川歌麿も安永天明の間豊章の名を以てしばしば役者似顔絵またはせりふ役者誉詞の表紙絵を描きぬ。然れどもさしたる特徴なければ論ぜず。吾人は唯歌麿がかつて役者似顔絵を描かずとなせし『浮世絵類考』の選者が誤謬を明かにせんとするのみ。鈴木春信も役者絵を描かずとなされたれどこもまた誤れり。(同上)
※参照:「どこかにいい役者絵描きはいないかぇ」
蔦屋に世に出してもらった恩義を感じる歌麿であるが、自分の強みは美人画と春画だけであることをよく知っていた。
実際、過去に何枚か役者絵を描いたことがあるが、さんざんな評価であった。蔦屋が苦しいのも良く判っているが二度と役者絵だけは描きたくなかった。馬琴の度重なる懇願は予想通り徒労に終わった。
どこかにいい役者絵描きはいないかぇ・・・・
…………
クリステイーズ 2010.3.24(浮世絵の値段は6 北斎と歌麿の枕絵)
ーーとのことだ。
昨晩ようやくブリティッシュ美術館所蔵なるサイトで遭遇できた。おそらく喜多川歌麿の最高傑作のひとつなのに、なぜネット上にないのだろうと不思議に思ったものだ。
もう一つの傑作はネット上にふんだんにある。
以前、上の画像を探したのは、「枕絵とフェティシズムーー春信と歌麿(加藤周一)」を記したときである。2013年6月1日投稿となっており、もう2年前だ。
ここに記念として加藤周一の文を再掲しておこう。
男女三歳にして席を同じくせず。これは西洋人のいわゆる「ヴィクトリア朝道徳」をさらに徹底させたタテマエである。タテマエはむろんそのまま実行できないから、徳川時代はウラの性風俗への関心を強めた。その制度化されたものが遊里である。その私的領域で栄えたものが枕絵である。遊里は、少なくとも徳川時代の後半には、歌舞伎の劇場と共に、町人社会の文芸・音楽・絵画の中心となった。枕絵は、同時代の高名な浮世絵版画家で、それを作らなかった者はほとんどいない。
しかしタテマエの非現実性だけが、枕絵の大量生産を説明するわけではないだろう。徳川時代の後半、殊に一八世紀後半から一九世紀初めにかけての町人社会は、物質的に繁栄していたと同時に、近い将来に体制の変革を期待していなかった。そこで人々の関心が私的領域に向かったのは、当然であり、私的領域におけるもっとも強い衝動の一つが、性的欲望であることは、いうまでもない。しかし性的なものへの強い関心は、必ずしも直ちに性的なものの豊富な表現を意味するとはかぎらない。表現は内面的衝動の外面化すなわち社会化であり、その形式は文化によって異る。性的なものが主として商品として表現される文化もあり、それが芸術として表現される文化もあるだろう。徳川時代の文化の特徴の一つは、性的表現の動機がしばしま芸術的表現のそれと結びついていた、ということである。
枕絵の多くは、絵としては稚拙である。しかしその多くは風俗史興味をひく。そこには、たとえば、二人の男女の組み合せばかりでなく、三人以上多人数の組み合せや女二人の組み合せもある。背景は屋内を主とするが、縁先、屋外、海中にまで及ぶ。当事者のうち女には、遊女が多いが、町屋や武家の女もあり、海女の例もある。日本の枕絵はほとんどすべて性器の大きさを著しく誇張する。おそらくそれは「フェティシズム」の直接の反映であるのかもしれない。しかしそういうこととは別に、絵として優れたものも少なくない。たとえば鈴木春信や喜多川歌麿の枕絵は、彼らのその他の作品、たとえば美人画とくらべて、緊密な構図、優美な線、微妙な色彩の、どの点から見ても、少しも劣らず、むしろしばしば勝ることがある。
春信は、相合傘の少年少女を描いたように、若い男女の情交を、室内の、――窓外の風景をも含めて、――細かく描きこんだ背景のなかに置き、情緒的な画面を作った。その人物が画面全体のなかに占める割合も大きくない。われわれは、人物と同時に、彼ら自身が見ていないだろう環境を、見るのであり、そのことがわれわれと人物との距離を大きくする。しかもそれだけではない。春信は、しばしば、情交の当事者の他に、彼らを観察する第三者を、画中に配する。その第三者の視線に、当事者が気づかぬ場合、たとえば柱のかげからもう一人の女が室内の様子を窺っているような場合には、われわれはその第三者の視線を通して、いわば間接に、当事者の行為を見ることになる。そのことがわれわれと対象との距離をさらに大きくするだろうことは、いうまでもない。当事者が意識している第三者は、たとえば遊女の行為を見ている禿〔かぶら〕である。その場合には、絵を見るわれわれではなくて、画中の当事者が第三者の視線を通して自分自身を見るということになろう。われわれはそういう当事者を、すなわち自己を対象化する主体を、対象化する。二重の対象化もまた、人物とわれわれとの距離を強化するにちがいない。
歌麿の方法は、春信のそれの正反対であった。大首絵の接近画法を美人画に用いた彼は、もつれ合う男女をも近いところから見た。その姿態は、画面の全体に拡がって、背景を描く余地をほとんど残さない。しかしそれは細部を観察するためではなかった。歌麿は対象に近づけば近づくほど、抽象化し、様式化し、二次元的な色面を駆使し、透視法――それはもちろん幾何学的であるとはかぎらないーーから遠ざかる。なぜなら当事者には背景が見えず(あるいは断片的にしか見えず)、相手と自分自身の着物や身体の一部だけが大きく視野のなかに入って来て、そこではどういう種類の透視法も成立し難いはずだからである。目的はあきらかに対象(当事者)と画家(したがって絵を見るわれわれ)との距離を大きくすることではなく、小さくすることにあった。あるいはむしろ愛の行為の当事者が見る世界を、絵を見るわれわれが見ることにあった、というべきだろう。そのために歌麿が駆使したのは、彼が知っていたあらゆる手法であり、そうすることで彼は、ほとんど浮世絵の枠を破り、表現主義的抽象絵画の領域にさえ近づくところまで行ったのである。
作品がワイセツであるかどうか、そんなことは私にとって何ら興味もない。私に興味があるのは、それが絵としてどれほど完成し、どれほど独創的であったか、ということである。歌麿のすべての版画のなかでも、これほど完成し、これほど独創的なものは、おそらく少い。(加藤周一「対象との距離」『絵のなかの女たち』所収)
ここでの文脈から言うまでもないだろうが、いま黒字強調した箇所のバラグラフの前に「歌まくら」の画像が掲げられている。
別の浮世絵について書かれている文だが、加藤周一はこうも言っている、《いずれにしても、一八世紀のヨーロッパは、まだかくも品位高く、かくも輝かしい黒という色を知らなかった》(「春信の女と歌麿の女の胸」)。
マネの黒の使い方と喜多川歌麿、鈴木春信の黒を比較もしているのだが、たしかに彼らの黒は美しい。
だが、わたくしは彼らの青や藍色にも魅せられる。
…………
この際ついでに、すこし前に記して、投稿せずのままの記事ーー「世界は光る、きらりと」と表題までつけてあったのだがーーをここに貼り付けておく。
世界は光る、きらりと、
朝まだき露の滴が山裾の野に光るように。
今、影が伸びる、神のため息のように、長く、いっそう長く。
ーーーエリティス「アルバニア戦線に倒れた少尉にささげる英雄詩」中井久夫訳)
ああ すべては流れている
またすべては流れている
ああ また生垣の後に
女の音がする(西脇順三郎「野原の夢」より『禮記』)
女から 生垣へ
投げられた抛物線は
美しい人間の孤独へ憧れる人間の
生命線である(「キャサリン」より『近代の寓話』)
(喜多川歌麿) |
この小径は地獄へゆく昔の道
プロセルピナを生垣の割目からみる
偉大なたかまるしりをつき出して
接木している(夏(失われたりんぼくの実)」『近代の寓話』)
ーー「近代の寓話」に「形而上学的神話をやつている人々と/ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ」とあるのを、西脇順三郎自身から、《これは実は「猥談」をしている同僚のことだという説明をうかがって》、驚いた…(新倉俊一「記憶の塔」)。
ただ罌粟の家の人々と
形而上学的神話をやっている人々と
ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ
アンドロメダのことを私はひそかに思う
向うの家ではたおやめが横になり
女同士で碁をうっている
ふところから手を出して考えている
われわれ哲学者はこわれた水車の前で
ツツジとアヤメをもって記念の
写真をうつして又お湯にはいり
それから河骨のような酒をついで
夜中幾何学的な思考にひたったのだ
……
ーー欲望は享楽の垣根にてトカゲの尻尾のよう落ちる。
Les objets à passer par profits et pertes ne manquent pas pour en tenir la place. Mais c’est en nombre limité qu’ils peuvent tenir un rôle que symboliserait au mieux l’automutilation du lézard, sa queue larguée dans la détresse. Mésaventure du désir aux haies de la jouissance, que guette un dieu malin.
ーーLacan, Écrits, « Du ‘Trieb’ de Freud et du désir du psychanalyste », Le Seuil, Paris, 1966, p. 853.
人生の通常の経験の関係の世界はあまりいろいろのものが繁茂してゐて永遠をみることが出来ない。それで幾分その樹を切りとるか、また生垣に穴をあけなければ永遠の世界を眺めることが出来ない。要するに通常の人生の関係を少しでも動かし移転しなければ、そのままの関係の状態では永遠をみることが出来ない。(西脇順三郎「あむばるわりあ あとがき(詩情)」より)
川の瀬の岩へ
女が片足をあげて
「精神の包皮」
を洗っている姿がみえる
「ポポイ」
わたしはしばしば
「女が野原でしゃがむ」
抒情詩を書いた
これからは弱い人間の一人として
山中に逃げる(吉岡実「夏の宴」--西脇順三郎先生に)
…………
今これら諸家の制作を見るに、美術としての価値元より春信清長栄之らに比する事能はざれど、画中男女が衣服の流行、家屋庭園の体裁吾人今日の生活に近きものあるを以て、時として余は直に自己現在の周囲と比較し、かへつて別段の興あるを覚ゆ。国貞国芳らの描ける婦女は春信の女の如く眠気ならず、歌麿の女の如く大形の髷に大形の櫛をささず。その深川と吉原なるとを問わず、あるひは町風と屋敷風とを論ぜず、天保以後の浮世絵美人は島田崩しに小紋の二枚重を着たるあり、じれつた結びに半纏を引かけたるあり、絞の浴衣を着たるあり、これらの風俗今なほ伝はりて東京妓女の姿に残りたるもの尠しとせず。その家屋も格子戸欞子窓忍返し竹の濡縁船板の塀なぞ、数寄を極めしその小庭と共にまた然り。これ美術の価値以外江戸末期の浮世絵も余に取りては容易に捨つること能はざる所以なり。(永井荷風『江戸芸術論』)
(歌川国芳) |
国芳画中の女芸者は濃く荒く紺絞の浴衣の腕もあらはに猪牙の船舷に肱をつき、憎きまで仇ツぽきその頤を支へさせ、油気薄き鬢の毛をば河風の吹くがままに吹乱さしめたる様子には、いかにも捨身の自暴になりたる鋭き感情現れたり。湖龍斎が画中の美人の物思はしく秋の夜の空に行雁の影を見送り、歌麿が女の打連立ちて柔かき提灯の光に春の夜道を歩み行くが如き、安永天明における物哀れにまで優しき風情は嘉永文久における江戸の女には既に全く見ることを得ざるに至りぬ。(同上)
…………
たとえば彫師について次ぎのような紹介がある(浮世絵ができるまで(2) - 彫師)
さて、絵師の下絵が出来ると、次は彫師の出番。下絵の線に忠実に版木を彫っていきます。
ただし、彫りの場合は版木が(色数に応じて)複数枚必要なこともあって、通常は一人で行うのではなく、何人かで分担して作業にあたります。
この分担は職人の力量に合わせて決められたようで、たとえばもっとも大事な役者の顔や髪の部分を彫るのは熟練した職人、着物の柄や背景などはまだ若い職人、という具合に、熟練度にあわせた作業分担で連携して作業にあたっていたようです。
彫師として一人前になるには、少年の頃から親方のところに入門して十年ほどの修行が必要だったといわれます。
最初は背景などの比較的簡単な模様のない色版から始めて、次に模様彫り。やがて修行を積むと人物画の手足、それをこなせるようになるといよいよ難しいといわれる頭部(顔)、そして最後に最も難しいといわれる「髪の毛」に至ります。
ここまでこなせるようになれば、一人前として絵に彫師の名前を入れることができたそうです。
江戸時代とは不思議な時代だ。当時の日本はすくなくとも大衆文化としては、世界の最先端だったのだろう。
江戸幕府の基本政策はどういうものであったか。刀狩り(武装解除)、布教の禁と檀家制度(政教分離)、大家族同居の禁(核家族化)、外征放棄(鎖国)、軍事の形骸化(武士の官僚化)、領主の地方公務員化(頻繁なお国替え)である。(中井久夫「歴史にみる「戦後レジーム」」ーー「鎖国のすすめ」)
江戸時代という時代の特性…。皆が、絶対の強者でなかった時代である。将軍も、そうではなかった。大名もそうではなかった。失態があれば、時にはなくとも、お国替えやお取り潰しになるという恐怖は、大名にも、その家臣団にものしかかっていた。農民はいうまでもない。商人層は、最下層に位置づけられた代わりに比較的に自由を享受していたとはいえ、目立つ行為はきびしく罰せられた。そして、こういう、絶対の強者を作らない点では、江戸の社会構造は一般民衆の支持を受けていたようである。伝説を信じる限りでの吉良上野介程度の傲慢ささえ、民衆の憎悪を買ったのである。こういう社会構造では、颯爽たる自己主張は不可能である。そういう社会での屈折した自己主張の一つの形として意地があり、そのあるべき起承転結があり、その際の美学さえあって、演劇においてもっとも共感される対象となるつづけたのであろう。(中井久夫「意地の場について」『記憶の肖像』所収)
ーー《こういう社会構造では、颯爽たる自己主張は不可能である》とあるが、おそらく日本の「反知性主義」なるものの起源もこのあたりにあるのではないか。
……正確にいえば、学者でもタレントでもない「きわめて厄介な」ヌエのような存在。しかし、これまでの「知」あるいは「知識人」の形態を打ち破るものであるかに見える、このニュー・アカデミズムはべつに「あたらしい」ものではない。それは近代の知を越える「暗黙知」や「身体技法」や「共通感覚」や「ニュー・サイエンス」を唱えるが、これらは旧来の反知性主義に新たな知的彩りを与えたものにすぎない。そして、彼らは新哲学者と同様に、典型的な知識人なのである。(柄谷行人「死語をめぐって」ーー日本的「融合と共存」と母性的「ヤンキー」集団)
大衆文化面で最先端だったどころか、経済面でも「世界最初の整備された先物市場」があったとする見解もある。
柄谷行人)江戸初期の体制はともかくとして、元禄(1688年から1704年)のころは、完全に大阪の商人が全国のコメの流通を握っていまして……
岩井克人)そうですよ。江戸の大名は参勤交代があって、一年に一回江戸に出てこなくちゃならない。しかも正妻と子供は江戸に残さなくちゃならないから、どうしてもお金が必要なんですね。領地でコメを収穫してもそれを大阪に回して、堂島のコメ市場で現金にかえて、さらにたりないぶんは両替屋にどんどん借金するんだけど、それでも収入が足りなくて、特産品を奨励するわけです。(……)(コメは)生産する側にとってみればたんなる食べ物ではなかったわけですよ。食べるものではなく、流通するものとして、ほとんどお金同然だったわけですね。
だから、大阪の堂島にはじつに整備された大規模なコメ市場が成立したわけです。たとえば、現代資本主義のシンボルとして、シカゴの商品取引所の先物市場がよくあげられるけれども、堂島にもちゃんと先物市場があったんですね。「張合い」といって、将来に収穫されるコメをいま売り買いするわけです。と言うか、堂島の張合い取引が世界最初の整備された先物市場であったという説さえある。(『終りなき世界』1990)