2016年3月31日木曜日

S(Ⱥ) とΦ の相違(性別化の式)、あるいは Lⱥ Femme

まず基本的な注意点を掲げる。

……二つの享楽(ファルス享楽と他の享楽)の議論は、ラカンが性別化と呼ぶものの話題を我々ににもたらしてくれる。ここで想い起しておかねばならない、性別化とは生物学的な性とは関係がないことを。ラカンが男性の構造と女性の構造と呼んだものは、人の生物学的器官とは関係がない。むしろ人が獲得しうる享楽の種類と関係がある。(ブルース・フィンク,Lacan to the Letter Reading Ecrits Closely Bruce Fink,2004)
ファルスのシニフィアンとは、その現前・不在が、男 man と女 woman を区別する機能でない。性別化の式において、それはどちら側(男性側 masculine と女性側 feminine)にも機能する。どちらの場合も、S と J (話す主体と享楽)とのあいだの不可能な関係(非関係)の作因子として作用する。ーーファルスのシニフィアンとは、象徴秩序に受け入れられた存在、つまり「話す存在」にアクセス可能な享楽を表す。

したがって、ひとつの性と、(プラスアルファの)それに抵抗する非全体しかないの同じように、ファルス享楽と、プラスアルファのそれに抵抗する X しかない。もっとも、正しく言うなら、その X は存在しない。というのは、《ファルス的でない享楽はない[ il n'y en a pas d'autre que la jouissance phallique]》(S.20)から。この理由で、ラカンが謎めいた幽霊的「他の享楽」を語ったとき、彼はそれを存在しないが機能する何ものかとして扱った。(ZIZEK.LESS THAN NOTHING、2012,私訳)

ーーより詳しくは、「二つの区分け:ファルス享楽 la jouissance phallique と他の享楽 l'autre jouissance」を参照のこと。




さて、S(Ⱥ) と Φとの相違を説くヴェルハーゲ、1999を掲げる。人は、これが必ずしも正しいとする必要はない。こういった観点がある、ということをここに掲げ、わたくしはいまのことろ下記二者(ヴェルハーゲ、ジジェク)の観点を主に取ったままだ、ということである。

ここでまた堅実なブルース・フィンクの見解を先にしめしておけば、彼曰く、ラカンのテキストを満遍なく読めば、次のようなことになる。

《ラカンについての私の初期の仕事は、父の名、S(Ⱥ)、Φ、S1などのあいだの「真の区別」を把握することにひどく関心があった。それらの多様な意味と使用法に苦しんだのだ。…ここでは、反対に、それぞれの異なった文脈にとってフィットするようにそれらを解釈した》(“THE LACANIAN SUBJECT BETWEEN LANGUAGE AND JOUISSANCE”、1995、粗訳ーー「父の名、Φ、S1、S(Ⱥ)、Σをめぐって」)


【S(Ⱥ) と Φ の相違】
1971年、ラカンはある誤解に対して対応した。すなわち、S(Ⱥ) が Φ、〈他者〉のなかに欠如している象徴的ファルスと等しいものであると思われている誤解に対して。この誤解は、ラカンの数多くの弟子たちによって抱き続けられた。そのため、ラカンは、彼がS(Ⱥ) によって理解していることを、より鋭意に定義することを余儀なくされる。S(Ⱥ) は Φ と等価ではない。S(Ⱥ) は完全に異なった何かにかかわる。というのは、S(Ⱥ) は、次の考え方にかかわるからだ。すなわち、L'Autre de l'Autre n'existe pas, 〈他者〉の〈他者〉は存在しない、Il n'y a pas de rapport sexuel,性関係はない。したがって、S(Ⱥ)は、La Femme n'existe pas, 〈女〉は存在しない、を意味する(徴示する)。我々の見解では、S(Ⱥ) のこの二重の側面は、フロイトの発見の形式化をもたらしてくれる。それによって、形式化の首尾一貫性を明示している。

 【Lⱥ Femme】
La Femme n'existe pas、すなわち、Lⱥ Femme。これは、象徴界のなかのシニフィアンの欠如の、最もよく知られた解釈である。子供たちとともに、我々は、去勢の基本幻想のなかで、その最初の防衛的徹底追及を見出す。このエラボレーションは、常に失敗する。というのは、性差を基礎づけるのは唯一、ただ一つだけのシニフィアン、ファルスの現前か不在かにおいてだから。彼女自身の性的アイデンティティへのヒステリックな追求は、この点で、満足を見出しえない。もし彼女が、女を徴示するための特別なシニフィアンを獲得しようとするなら、このヒステリー的主体は、欠如自体・〈他者〉のなかにある欠如に立ち向かわなければならない。

【不可能の名としての S(Ⱥ) 】
この点において、我々はフロイトの二番目の幻想に出会う。誘惑にかかわる幻想、欲望の煽動としての父。ヒステリー的主体は想像しーーしたがって構築するーー全的支配者としての男-父を。つまり欲望と享楽について知っている者。フロイトにおける幻想と知と性差のあいだのこの暗黙の統一とともに、S(Ⱥ) は不可能の名である。性関係の不可能は、書かれぬことをやめない、“ce qui ne cesse de ne pas s'écrire”(Lacan, Séminaire XX Encore)。幻想とは、その中にあるこの不可能な書くことのやめないことの構造である。したがって、幻想は、想像界から象徴界への道のりの上に位置されなければならない。この道のりの上で遭遇しよろめかせる障害物は、対象aである。(Paul Verhaeghe,Does the Woman Exist? From Freud's Hysteria to Lacan's Feminine,1999、私訳)

※参照:ラカン、アンコール(S.20)より

À ceci près que « La femme »… mettons lui un grand L pendant que nous y sommes, ça sera gentil [Rires] …à ceci près que La femme, ça ne peut s'écrire qu'à barrer « Lⱥ ».

Il n'y a pas « La » femme … article défini pour désigner l'universel …il n'y a pas « La » femme puisque… j'ai déjà risqué le terme, et pourquoi y regarderais-je à deux fois ? …puisque de son « essence », elle n'est « pas toute »

De sorte que pour accentuer quelque chose dont je vois mes élèves beaucoup moins attachés à ma lecture – n'est-ce pas ? – que le moindre sous-fifre quand il est animé par le désir d'avoir une maîtrise. Il n'y a pas un seul de mes élèves qui n'ait fait je ne sais quel cafouillage sur… sur je ne sais pas quoi : le manque de signifiant, le signifiant du manque de signifiant, et autres bafouillages à propos du phallus.

Alors que je vous désigne dans ce « Lⱥ » « Le » signifiant [S1], malgré tout courant et même indispensable. La preuve c'est que déjà tout à l'heure j'ai parlé de l'homme et de la femme, …oui il est indispensable !

C'est un signifiant ce Lⱥ , c'est par ce Lⱥ que je symbolise Le signifiant, Le signifiant dont il est tout à fait indispensable de marquer la place qui… qui ne peut… qui ne peut pas être laissée vide, de ceci que ce « Lⱥ » est Le signifiant, dont le propre est que… il est le seul qui ne peut rien signifier [S1]… mais ceci seulement : de fonder le statut de Lⱥ femme dans ceci qu'elle n'est « pas toute », ce qui ne permet pas de parler de « La femme ».

…………

次にジジェク(Woman is One of the Names-of-the-Father, or How Not to Misread Lacan's Formulas of Sexuation、1995)より。


【性別化の式の誤読①】
ラカンの性別化の式のよくある誤読の仕方は、男性側と女性側の差異を二つの式に還元してしまうことだ。その誤読による還元は、男性のポジションを定義するものとしての二つの式としてしまい、あたかも男性は、普遍的ファルス機能(関数)であり、女性は、その例外・過剰・ファルス機能の把握から逃れる剰余である、とする誤読である。このような読解は完全にラカンの核心を外している。まさに〈女〉のこのポジションを例外とするとはーー言わば、宮廷貴婦人恋愛の見せかけのようなものでありーー、男性の幻想そのものである。


【〈女〉は父の諸名のひとつ】
ファルス機能を構成する例外の典型的な例として、人はふつう、享楽の原父という幻想的・猥褻な形象に言及する。この享楽の原父は、どんな禁止にも邪魔されず、全ての女たちを隈なく享楽する。しかしながら、宮廷貴婦人恋愛の形象は、この原父の勝手放題の決定力に十全に合致しないだろうか。彼女もまた、全てを欲する気まぐれな主人、どんな法にも囚われず、彼女の騎士-召使いに専横非道な試練を課す主人ではないか?

この正確な意味において、〈女〉は父の諸名のひとつである。ここで見逃してならない決定的な細部は、複数形の使用と大文字 capital letters の欠如だ。すなわち、Name-of-the-Father ではなく、names-of-the-father のひとつである。つまりは、原父と呼ばれる過剰の候補者の一人だ。


【前象徴的な・去勢の法に制限されない権力の代理人】
〈女〉の事例においてーー原父の場合と同様(…)神秘的な〈彼女〉の場合において--、我々が扱っているのは、前象徴的な・去勢の法に制限されない権力の代理人である。どちらの場合にも、この幻想的代理人の役割は、象徴秩序、その起源の空虚の悪の循環を埋め合わせることである。〈女〉の概念(あるいは原父の概念)が提供するのは、制限されない十全さーーこの十全さの「原抑圧」が、象徴秩序を構成しているーー、この充溢さという神秘的な出発点である。


【性別化の式の誤読②】
二番目の誤読は、性別化の式の尖った先をを丸めてしまうことで成り立っている。それは、量化詞「すべて」quantifier "all" の二つの意味のあいだに意味論的区別を導入するやり方だ。この誤読によれば、普遍機能の場合、「全て(あるいは全てではない)」 "all" (or "not-all") は、単独の主体(x) を指し示し、「それの全て」"all of it" が、ファルス機能に囚われているかどうかの信号を指示することになる。他方、特別な例外「一人いる…」 "there is one..." は、主体と信号の集合を指し示すことになる。それは、この集合の内部で、ファルス機能から完全に免除されている「一人いる」"there is one"かどうかにかかわる。

したがって、性別化の式の女性側は、彼らの主張に従えば、どの女をも内部から分割する切断を証すものとなる。すなわち、どの女もファルス機能から完全には免れていず、そのまさに理由で、どの女も完全にはファルス機能に従っていない。つまり、どの女にもファルス機能に抵抗する何かがある、と。

相称的に、男性側においては、仮定された普遍性は、単独の主体を指し示す(どの男性主体もファルス機能に従う)。そして男性主体の集合に対する例外を指示する(ファルス機能から免れる「一人がいる」'there is one' )。

要するに、一人の男は完全にファルス機能から免れており、その他すべての男たちはファルス機能に完全に服従している。他方、どの女も完全にはファルス機能から免れていないがゆえ、女たちの誰もが完全にはファルス機能に服従していない。

一方の場合は、分割は外部化される。すなわち、「全ての男たち」の集合内部で、ファルス機能に囚われている者たちと、それから免れている「一者」を区別する分離の線を表す。

他方の場合、分割は内部化される。どの単独の女も内部から分割され、彼女のある部分は、ファルス機能に従い、ある部分は、それから免れる。

ーーすくなくとも、かつて90年代に日本で流通していた性別化の式の解釈(最近は不詳)は、ほとんどこのジジェクのいう「誤読②」を免れていない。稀な例外は、カントの否定判断/無限判断を男性の論理/女性の論理と結びつけたコプチェクに依拠する議論だろう(たとえば、田中純氏による)。


【性別化の式の正統的読解】
しかしながら、我々がラカンの性別化の式の本当のパラドックスを十全に引き受けるなら、性別化の式をもっと文字通り読まなければならない。すなわち、女がファルス機能の普遍性を掘り崩すのは、女のなかには例外はなく、例外に抗う何もないというまさにその事実によってである。言い換えれば、ファルス機能のパラドックスは、機能とそのメタ機能とのあいだの一種の短絡にある。ファルス機能は、それ自体の自己限界・非ファルス的例外の設置と一致するのだ。

※このジジェクの主張の詳細は、「象徴界(言語の世界)の住人としての女」にある。

《ここでの私のポイントは何だろう? それは次のようなものなのだ。ここでふつう気づかれていないことは、ラカンの断言、“La femme n'existe pas”――“〈女〉は存在しない”は、決して象徴的秩序の外にある言いようのない女性的なエッセンスのたぐいに言及しているのではないということだね。象徴秩序に統合されえない、言説の領域の彼岸にあるものでは決してないということだ。》

《大衆的な紹介、ことさらフェミニストによるラカンの紹介では、ふううこの公式にのみ焦点があてられこう言うんだな、「そうだわ、女たちのすべてが、ファリックな秩序に統合されるわけじゃないわ。女のなかには何かがあるのよ、まるで片足はファリックな秩序に踏み込み、もう一方の足はミステリカルな女性の享楽に踏み込んでいるのよね、それが何だかわからないけれど」。私のテーゼは、とても単純化して言うなら、ラカンの全体の要点は、われわれは女を統合化できないから、例外がないということなんだ。だから、別の言い方をすれば、男性の論理の究極の例は、まさに、女性のエッセンス、永遠の女性は、象徴秩序の外に除外されている、彼岸にあるという考え方なんだな。これは究極的な男性の幻想だね。そして、ラカンが「〈女〉は存在しない」というとき、私はまさにこう思うのだな、すなわち、象徴秩序から除外された言葉にあらわせない神秘的な「彼岸」こそが存在しない、と。わかるかい、私の言っていることが?》


ーーすなわち、フェミニストたちの女の神秘を主張する見解とは、男性の論理(幻想)だということになる。

《実のところ、ニーチェが大いに嘲笑を浴びせているフェミニストの女たちは男性なのだ。フェミニズムとは、女が男に、独断的な哲学者に似ようとする操作であり、それによって、女は真理を、科学を、客観性を要求する、即ち、男性的幻想のすべてをこめて、そこに結びつく去勢の効力を要求するのである。》(デリダ『尖筆とエクリチュール』)



【Φ と S(Ⱥ) の親近性】
このような読解は、いくぶん謎めいたマテーム mathemes によって、予め示されている。そのマテームとは、ラカンが、性別化の式の下に記し、そこでは女は(線を引かれて消された Lⱥ によって示される)、Φ(ファルス)と S(Ⱥ) とのあいだで分割されているものだ。S(Ⱥ) とは、線を引かれて消された〈他者〉A のシニフィアンであり、象徴秩序の中の〈他者〉の不在/非一貫性を表す。

ここで見逃してはならぬことは、Φ と S(Ⱥ) (〈他者〉のなかの欠如のシニフィアン)とのあいだの深い親近性だ。すなわち、Φ 、ファルス権力のシニフィアン、魅惑的現前のなかのファルスは、〈他者〉の不能/非一貫性を具現化したものだという決定的事実である。


【ファルスとしての政治的指導者】
これは政治的指導者のことを思い出してみるだけで充分だろう。彼のカリスマの究極の支えは何だろう、と。政治の領域は、定義上、計算できず・予測できない。ある人物が、なぜだか分からないまま、情熱的反応を掻き立てる。転移の論理は図り知れない。したがって、人は魔法の魅力 magic touch ・言い知れぬ魅惑 je ne sais quoi に言い及ぶ。それは指導者のどんな実際の特徴にも還元されえない。あたかも、カリスマ的リーダーが、この (x) を支配しているかのようだ。あたかも、象徴秩序の〈他者〉が不能にされた場にて、陰で人を操っているかのようにさえ見える。



【ファルスとしての神】
ここでの状況は、スピノザによって批判された人物としての〈神〉概念の俗説と一致する。我々を取り巻く世界を理解しようという試みーー出来事と対象とのあいだの偶然的つながりのネットワークを形式化する方法によっての試みにおいて、人びとは遅かれ早かれ、ある点に到る。その点において、彼らの理解は、うまくいかなくなり、ある限界に遭遇する。そして、〈神〉(古き時代の賢人等と捉えられた神)とは、たんに、この限界を具現化したものである。我々は投影するのだ、〈神〉の各個人に見合った概念のなかに、明白に偶然の出来事を通して、理解・説明され得ぬ隠された言い知れぬ原因の全てを。

したがって、イデオロギー批判の最初の施行 operation は、〈神〉という魅惑をもたらす現前のなかに、我々の知の構造のなかにある裂け目の埋め合わせ物を認めることである。すなわち、我々の能動的知のなかの欠如が、能動的現前という見せかけの要素を身につけることを。



【女と神】
そして我々の要点は、これが(神 = ファルスが)、女性の「非全体」"not-all"(pas-tout)といくらか合致していることだ。この「非全体」は、女はファルス Φ に完全に従っていることを意味しない。「非全体」とはむしろ、女は、ファルスの魅惑をもたらす現前を通して、次のことを観察することの合図である。すなわち、女は、ファルスのなかに、〈他者〉の非一貫性の埋め合わせ物を見分けることの。


《La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». (ラカン、セミネール23)

《「大他者の(ひとつの)大他者 un Autre de l'Autre は存在すべきだ」という人間の全必然性。これは一般的には〈神〉と呼ばれるが、分析が明らかにしたのは、それは、たんに〈女 〉のことだ。》(粗訳)



【不可能の名としての S(Ⱥ) /禁止の名としての Φ】
とはいえ、ここで別の言い方をつけ加えねばならない。S(Ⱥ) から Φ への移行は、不可能性から禁止への移行だと。S(Ⱥ) とは、〈他者〉のシニフィアンの不可能性を表す(徴示する)。「〈他者〉の〈他者〉はいない」という事実、〈他者〉の領野は、本質として非一貫的にであるという事実のシニフィアン(徴示素)である。Φ はこの不可能性を例外へと具象化する。神聖な、禁止された/到達しえない代理人ーー去勢を免れ、全てを享楽する形象のなかへと具現化するのだ。

…………

いま流通しているメイヤスーも、ラカン派観点からは、神概念的思考(否定神学)の部分があるとされる。

以下、ジュパンチッチ、2014より。


【神がいないことを保証する神】
メイヤスーの観点…すべては偶然的だ、この偶然性の必然性以外は。このように彼は主張することにより、メイヤスーは事実上、不在の原因 absent cause を絶対化してしまっている。(……)

我々は、不在の〈原因〉absent Causeの絶対化しないですますことができない無神論的構造を見る。それは、すべての法(則)の偶然性を保証するのだ。我々は「無神論者の神」のような何かを扱っている。つまり、「神がいないことを保証する神」を。

(これに対して)ラカンの無神論とは、(あらゆる)保証の不在、もっと正確に言えば、外的(メタ)保証の不在という無神論である。つまり支え(保証)は、それが支えるもののなかに含まれている。どんな独立した保証もない。それは、保証(あるいは絶対的なもの)がないと言っているわけではない。これが、構成的な例外という概念とは異なって、非全体(pas-tout)概念が目論むことだ。すなわち、そこでは、ひとつの論証的理論を論駁しうる。そして論証的領野内部から来る別のものを確認しうる。

(……)例外の論理・或る「全て」を全体化するメタレヴェルの論理(全ては偶然的だ、この偶然性の必然性以外は)の代わりに、我々は「非全体」の論理を扱っている。ラカンの格言、それは「必然性は非全体である」と書きうるが、それは偶然性を絶対化しない。…(ジュパンチッチ、Realism in Psychoanalysis Alenka Zupancic、2014, PDF)

もっともラカンの精神分析的言説もまた、原支配 Ur-mastery の言説だという印象を完全には追い払いえないという事実をラカン自身気づいていた(参照:「僕らしい」(ボククラシー je-cratie)哲学者たち)。

そして、最晩年には次のようにさえ言い放つ。

c'est pas absurde de dire qu'elle peut glisser dans l'escroquerie. (S.24、1977)

ーー《馬鹿げたことじゃない、精神分析がペテン escroquerie に陥りうると言うのは》

Bref, il faut quand même soulever la question de savoir si la psychanalyse… je vous demande pardon, je demande pardon au moins aux psychanalystes …ça n'est pas ce qu'on peut appeler un « autisme à deux » ?(S.24.1977)

ーー《精神分析…すまないがね、許してくれたまえ、少なくとも分析家諸君よ!… 精神分析とは「二者の自閉症」 « autisme à deux »のことじゃないかい?》

ミレールは、このラカンの文を2002年の論‘Le dernier enseignement deLacan' (「後期ラカンの教え」)で正面から取り上げた。彼が精神分析集団から、陰性転移とさえ言いうる強い反発をうけるようになったのは、たんにラカンのセミネールのテキストの(いわゆる)「加工」のせいだけではないのではないか。この「精神分析」自体を問うことをした影響がより大きいのではないかと憶測できないでもない。いずれにせよ、現在ミレール批判とは、分析家集団のクリシェのようになってしまっている。

…………

さて、最後に注意しておかねばならないのは、「女性の論理が必ずしもいいわけじゃないよ」--ということだ。

思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。つまり、彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する第三の立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなく、ヘーゲルになってしまうだろう。 この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」)
重要なのは、(……)マルクスがたえず移動し転回しながら、それぞれのシステムにおける支配的な言説を「外の足場から」批判していることである。しかし、そのような「外の足場」は何か実体的にあるのではない。彼が立っているのは、言説の差異でありその「間」であって、それはむしろいかなる足場をも無効化するのである。重要なのは、観念論に対しては歴史的受動性を強調し、経験論に対しては現実を構成するカテゴリーの自律的な力を強調する、このマルクスの「批判」のフットワークである。基本的に、マルクスはジャーナリスティックな批評家である。このスタンスの機敏な移動を欠けば、マルクスのどんな考えをもってこようがーー彼の言葉は文脈によって逆になっている場合が多いから、どうとでもいえるーーだめなのだ。マルクスに一つの原理(ドクトリン)を求めようとすることはまちがっている。マルクスの思想はこうした絶え間ない移動と転回なしの存在しない。(柄谷行人『トランスクリティーク』P250)

もし、女性の論理が支配的なイデオロギーであるならば、それを批判しなければならない。わたくしは、ある時期からの浅田彰の頑固オヤジ宣言をこの文脈で捉える、すなわち、「王様を笑い続ける少年」から、不本意で面白くないのを重々承知でゴリゴリの「頑固親父」の役割 Φ を演じることとは、(ある局面での)女性の論理 S(Ⱥ) に類似した日本的現象・その猖獗に対抗する男性の論理ではないか、と。

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988 )

この母性的な共感の共同体はかならずしも女性の論理とはいえないという観点もあるだろうが、男性の論理の国とは言い難いのはたしかだ。

ヒットラーが羨望したといわれる日本のファシズムは、いわば国家でも社会でもないcorporatismであって、それは今日では「会社主義」と呼ばれている。(……)

日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。(柄谷行人、「いつのまにかそう成る「会社主義corporatism」」)

権威と権力の相違を次ぎのように指摘するヴェルハーゲの考え方もある。

重要なことは、権力 power と権威 authority の相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。(社会的絆と権威(Paul Verhaeghe)

二者関係、すなわち、母性的レヴェルの社会構造ーー、日本とは、かねてより権威なしの権力の国の気味合いがないだろうか。

さらに、こう引用しておこう(参照:ラカン派の「母の欲望」désir de la mèreをめぐる)。

ジャック=アラン・ミレールは、90年代だが、次のように言っている(THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez)。

超自我とは、確かに、法(象徴的なもの)である。しかし、鎮定したり社会化する法ではない。むしろ、思慮を欠いた法である。それは、穴、正当化の不在をもたらす。その意味作用を我々は知らない、「一」unary のシニフィアン、S1 としての法である。…超自我は、独自のシニフィアンから生まれる形跡・パラドックスだ。というのは、それは、身よりがなく、思慮を欠いているから。この理由で、最初の分析において、我々は超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。

ミレールは母なる超自我 surmoi mère ーー1938年の初期ラカンの記述を捉え直した概念ーーの問いを明瞭化するパラグラフで、こうつけ加えている。

思慮を欠いた法としての超自我S(Ⱥ) は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望とは、父の名によって隠喩化され、支配さえされする以前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。

…………

※附記:ジジェクによるヴェルハーゲの“ Does the Woman Exist?” の書評。

“A miraculous answer to the confusions surrounding Freud's and Lacan's theory of feminine sexuality . . . After reading this book, it should be clear that, far from being outdated, the psychoanalytic approach to feminine sexuality enables us to find our way in the . . . deadlocks of our allegedly ‘permissive' postmodern society . . . A must for anyone who wants to grasp what psychoanalysis has to say today.” –
奇跡的な応答だ、女性のセクシャリティのフロイト・ラカン理論を取り巻く混乱状態への。…この書を読めば、当然のごとく明瞭になるだろう、女性のセクシャリティへの精神分析的アプローチは、時代遅れどころか、いわゆる「寛大な」ポストモダン社会の行き詰まりのなかで新しい道を見出しうることが。…必読の書である、精神分析が今日言わなければならないことを把握したい誰にとっても。(Slavoj Žižek )

2002年前後までは、ヴェルハーゲはジジェクをしばしば引用した。ジジェクも上のような絶賛をした。だがその後、おそらくある解釈の相違があるせいだろう、両者は言及し合わなくなった。

この二人の解釈の分かれ目は、ジジェクの弟子筋のアレンカ・ジュパンチッチのバディウ論(現前・再現前論)の叙述をめぐるのではないか、と憶測されないでもない(参照)。

ジュパンチッチのバディウ論は、→ Alenka Zupancic、The Fifth Condition”、2004

ーーいくらかの私訳は、「反復されることになる最初の「真理」などは、ありはしない?」の後半にある。