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2016年5月23日月曜日

やあ、ところで……

で、なんで人間は拷問するんだろうかね、やっぱり楽しいんだろうか

人はよく…頽廃の時代はいっそう寛容であり、より信心ぶかく強健だった古い時代に対比すれば今日では残忍性が非常に少なくなっている、と口真似式に言いたがる。…しかし、言葉と眼差しによるところの障害や拷問は、頽廃の時代において最高度に練り上げられる。(ニーチェ『悦ばしき知』)

拷問死というのは、り殺しってことなんだろうが、最近は、り殺しもあるだろ

殺しまでいかなくてもさ


拷問とイニシエーション儀式

われわれドイツ人は、確かにわれわれ自身を特に残忍で冷酷な民族だとは思わない。まして特に軽浮で徒らに酔生夢死する民族だとは思わない。しかし「思想家民族」(これは今日なお信頼と真摯と無趣味と着実の最大限を示し、しかもこれらの諸性質を笠に着てヨーロッパのあらゆる種類の官人の訓育を要求するあのヨーロッパ民族のことだ)を育て上げるために地上においてどれほどの労苦が払われたかを看破するには、われわれの古い刑制を見るだけで十分である。これらのドイツ人は、その賤民的な根本本能とそれに伴なう野獣の如き蛮行とを統御するために、恐るべき手段を用いて自分たち自身に記憶をなさしめた。諸君はあのドイツの古い刑罰、例えば、石刑(――すでに口碑に伝えるかぎりでも、石臼が罪人の頭上に落下する)、車裂きの刑(刑罰の領域におけるドイツ的天分の最も独自な創意であり、十八番だ!)、杙で貫く刑、馬に引き裂かせたり踏みにじらせたりする刑(「四つ裂き」)、犯人を油や酒の中で煮る刑(十四世紀および十五世紀になお行なわれていた)、人気のあった皮剝ぎの刑(「革紐作り」)、胸から肉を切り取る刑などを思い合わせ、更に悪行者に蜜を塗って烈日の下で蠅に曝す刑なども思い合わせてみるがよい。そうした様々な光景を心に留め、後者の戒めとすることによって、人々はついに、社会生活の便益を享有するためにかねた約束した事柄に関して、幾つかの「われ欲せず」を記憶に留めるようになる。――そして実際! この種の記憶の助けによって、人々はついに「理性に」辿り着いたのだ! ああ、理性、真摯、感情の統禦など、およそ熟慮と呼ばれているこの暗い事柄の全体、人間のすべてのこうした特権と美粧、これらに対して支払われた代価がいかに高かったことか! いかに多くの血と戦慄があらゆる「善事」の土台になっていることか! ……(ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳 岩波文庫 p68ーー「斉藤道三とジョン・マケイン」)

しばしば拷問を語るジジェクなんだが、こんな映像に行き当たってしまった。

これ、本物なんだろうか

◆Slavoj Žižek survives monstrous torture in communist Slovenia




苦痛のケースを例に取ってみよう。現実のヴァーチャル化と、計りしれないほど無限化された肉体の苦痛のあいだには密接な関係がある。それはふつうの苦痛よりも途轍もなく強烈なものだ。

遺伝子工学とヴァーチャルリアリティの組み合わせは、新しく「高められたenchanced」拷問の可能性を開くのではないか? われわれの苦痛に耐える能力の拡張の、新しい、前代未聞の地平を(苦痛を我慢する知覚能力の拡張を通して、そしてとりわけ、知覚認知をバイパスして脳中枢を直接に攻撃する方法、こういった苦痛を加える新しい形式の発明を通して)。

たぶん、究極のサド的な「不死」の拷問の餌食のイメージ、ーー死に逃れる得ずに、絶え間ない苦痛を持続させる犠牲者ーーこれもまた現実になるのを待っている。そのような可能性においては、究極のリアル/不可能な苦痛は、もはや実際の肉体の苦痛ではなく、ヴァーチャルリアリティによって引き起こされた「完全無欠の」ヴァーチャルリアルな苦痛である。(そして、勿論、同じことは性的快楽についても言える)。(『ジジェク自身によるジジェク』私訳)




……残忍ということがどの程度まで古代人類の大きな祝祭の歓びとなっているか、否、むしろ薬味として殆んどすべての彼らの歓びに混入させられているか、他方また、彼らの残忍に対する欲求がいかに天真爛漫に現れているか、「私心なき悪意」(あるいは、スピノザの言葉で言えば、《悪意ある同情》)すらもがいかに根本的に人間の正常な性質に属するものと見られーー、従って良心が心から然りと言う! ものと見られているか、そういったような事柄を一所懸命になって想像してみることは、飼い馴らされた家畜(換言すれば近代人、つまりわれわれ)のデリカシーに、というよりはむしろその偽善心に悖っているように私には思われる。より深く洞察すれば、恐らく今日もなお人間のこの最も古い、そして最も根本的な祝祭の歓びが見飽きるほど見られるであろう。(……)

死刑や拷問や、時によると《邪教徒焚刑》などを抜きにしては、最も大規模な王侯の婚儀や民族の祝祭は考えられず、また意地悪を仕かけたり酷い愚弄を浴びせかけたりすることがお構いなしにできる相手を抜きにしては、貴族の家事が考えられなかったのは、まだそう古い昔のことではない。(……)

――序でに言うが、このような思想でもって、私はわが厭世家諸君のぎしぎしと調子はずれな音を立てている厭世の水車に新しい水を引いてやる気は毛頭ない。私は却って残忍をまだ恥じなかったあの当時の方が、厭世家たちの現れた今日よりも地上の生活は一層明朗であったということを証拠立てようと思う。人間の頭上を覆う天空の暗雲は、人間の人間に対する羞恥の増大に比例してますます拡がってきた。倦み疲れた悲劇的な眼差し、人生の謎に対する不信、生活嫌悪の氷のように冷たい否定――これらは人類の最悪時代の標徴ではない。それらはむしろ、沼地の植物として、その生育に必要な沼地が出来るとき初めて日の光を見るのだ。――私の言っているのは、「人間」獣をしてついにそのすべての本能を恥じることを学ばしめたあの病的な柔弱化と道徳化のことなのだ。「天使」(ここではこれ以上に酷い言葉は用いないでおこう)になる途中で人間はあのように胃を悪くし、舌に苔を出かしたために、ただに動物の歓びや無邪気さを味わえなくなったばかりか、生そのものをも味気ないものにしてしまった。(ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳 p73-76ーー「さあお前たち、呪われたやつらめ、この美しい観物を堪能するまで味わうがよい!」(プラトン)


やあ、拷問ってのは女のほうがとことんやりそうな気がして怖いな




「戦争が男たちによって行われてきたというのは、これはどえらく大きな幸運ですなあ。もし女たちが戦争をやってたとしたら、残酷さにかけてはじつに首尾一貫していたでしょうから、この地球の上にいかなる人間も残っていなかったでしょうなあ」(クンデラ『不滅』)