2016年3月31日木曜日

S(Ⱥ) とΦ の相違(性別化の式)、あるいは Lⱥ Femme

まず基本的な注意点を掲げる。

……二つの享楽(ファルス享楽と他の享楽)の議論は、ラカンが性別化と呼ぶものの話題を我々ににもたらしてくれる。ここで想い起しておかねばならない、性別化とは生物学的な性とは関係がないことを。ラカンが男性の構造と女性の構造と呼んだものは、人の生物学的器官とは関係がない。むしろ人が獲得しうる享楽の種類と関係がある。(ブルース・フィンク,Lacan to the Letter Reading Ecrits Closely Bruce Fink,2004)
ファルスのシニフィアンとは、その現前・不在が、男 man と女 woman を区別する機能でない。性別化の式において、それはどちら側(男性側 masculine と女性側 feminine)にも機能する。どちらの場合も、S と J (話す主体と享楽)とのあいだの不可能な関係(非関係)の作因子として作用する。ーーファルスのシニフィアンとは、象徴秩序に受け入れられた存在、つまり「話す存在」にアクセス可能な享楽を表す。

したがって、ひとつの性と、(プラスアルファの)それに抵抗する非全体しかないの同じように、ファルス享楽と、プラスアルファのそれに抵抗する X しかない。もっとも、正しく言うなら、その X は存在しない。というのは、《ファルス的でない享楽はない[ il n'y en a pas d'autre que la jouissance phallique]》(S.20)から。この理由で、ラカンが謎めいた幽霊的「他の享楽」を語ったとき、彼はそれを存在しないが機能する何ものかとして扱った。(ZIZEK.LESS THAN NOTHING、2012,私訳)

ーーより詳しくは、「二つの区分け:ファルス享楽 la jouissance phallique と他の享楽 l'autre jouissance」を参照のこと。




さて、S(Ⱥ) と Φとの相違を説くヴェルハーゲ、1999を掲げる。人は、これが必ずしも正しいとする必要はない。こういった観点がある、ということをここに掲げ、わたくしはいまのことろ下記二者(ヴェルハーゲ、ジジェク)の観点を主に取ったままだ、ということである。

ここでまた堅実なブルース・フィンクの見解を先にしめしておけば、彼曰く、ラカンのテキストを満遍なく読めば、次のようなことになる。

《ラカンについての私の初期の仕事は、父の名、S(Ⱥ)、Φ、S1などのあいだの「真の区別」を把握することにひどく関心があった。それらの多様な意味と使用法に苦しんだのだ。…ここでは、反対に、それぞれの異なった文脈にとってフィットするようにそれらを解釈した》(“THE LACANIAN SUBJECT BETWEEN LANGUAGE AND JOUISSANCE”、1995、粗訳ーー「父の名、Φ、S1、S(Ⱥ)、Σをめぐって」)


【S(Ⱥ) と Φ の相違】
1971年、ラカンはある誤解に対して対応した。すなわち、S(Ⱥ) が Φ、〈他者〉のなかに欠如している象徴的ファルスと等しいものであると思われている誤解に対して。この誤解は、ラカンの数多くの弟子たちによって抱き続けられた。そのため、ラカンは、彼がS(Ⱥ) によって理解していることを、より鋭意に定義することを余儀なくされる。S(Ⱥ) は Φ と等価ではない。S(Ⱥ) は完全に異なった何かにかかわる。というのは、S(Ⱥ) は、次の考え方にかかわるからだ。すなわち、L'Autre de l'Autre n'existe pas, 〈他者〉の〈他者〉は存在しない、Il n'y a pas de rapport sexuel,性関係はない。したがって、S(Ⱥ)は、La Femme n'existe pas, 〈女〉は存在しない、を意味する(徴示する)。我々の見解では、S(Ⱥ) のこの二重の側面は、フロイトの発見の形式化をもたらしてくれる。それによって、形式化の首尾一貫性を明示している。

 【Lⱥ Femme】
La Femme n'existe pas、すなわち、Lⱥ Femme。これは、象徴界のなかのシニフィアンの欠如の、最もよく知られた解釈である。子供たちとともに、我々は、去勢の基本幻想のなかで、その最初の防衛的徹底追及を見出す。このエラボレーションは、常に失敗する。というのは、性差を基礎づけるのは唯一、ただ一つだけのシニフィアン、ファルスの現前か不在かにおいてだから。彼女自身の性的アイデンティティへのヒステリックな追求は、この点で、満足を見出しえない。もし彼女が、女を徴示するための特別なシニフィアンを獲得しようとするなら、このヒステリー的主体は、欠如自体・〈他者〉のなかにある欠如に立ち向かわなければならない。

【不可能の名としての S(Ⱥ) 】
この点において、我々はフロイトの二番目の幻想に出会う。誘惑にかかわる幻想、欲望の煽動としての父。ヒステリー的主体は想像しーーしたがって構築するーー全的支配者としての男-父を。つまり欲望と享楽について知っている者。フロイトにおける幻想と知と性差のあいだのこの暗黙の統一とともに、S(Ⱥ) は不可能の名である。性関係の不可能は、書かれぬことをやめない、“ce qui ne cesse de ne pas s'écrire”(Lacan, Séminaire XX Encore)。幻想とは、その中にあるこの不可能な書くことのやめないことの構造である。したがって、幻想は、想像界から象徴界への道のりの上に位置されなければならない。この道のりの上で遭遇しよろめかせる障害物は、対象aである。(Paul Verhaeghe,Does the Woman Exist? From Freud's Hysteria to Lacan's Feminine,1999、私訳)

※参照:ラカン、アンコール(S.20)より

À ceci près que « La femme »… mettons lui un grand L pendant que nous y sommes, ça sera gentil [Rires] …à ceci près que La femme, ça ne peut s'écrire qu'à barrer « Lⱥ ».

Il n'y a pas « La » femme … article défini pour désigner l'universel …il n'y a pas « La » femme puisque… j'ai déjà risqué le terme, et pourquoi y regarderais-je à deux fois ? …puisque de son « essence », elle n'est « pas toute »

De sorte que pour accentuer quelque chose dont je vois mes élèves beaucoup moins attachés à ma lecture – n'est-ce pas ? – que le moindre sous-fifre quand il est animé par le désir d'avoir une maîtrise. Il n'y a pas un seul de mes élèves qui n'ait fait je ne sais quel cafouillage sur… sur je ne sais pas quoi : le manque de signifiant, le signifiant du manque de signifiant, et autres bafouillages à propos du phallus.

Alors que je vous désigne dans ce « Lⱥ » « Le » signifiant [S1], malgré tout courant et même indispensable. La preuve c'est que déjà tout à l'heure j'ai parlé de l'homme et de la femme, …oui il est indispensable !

C'est un signifiant ce Lⱥ , c'est par ce Lⱥ que je symbolise Le signifiant, Le signifiant dont il est tout à fait indispensable de marquer la place qui… qui ne peut… qui ne peut pas être laissée vide, de ceci que ce « Lⱥ » est Le signifiant, dont le propre est que… il est le seul qui ne peut rien signifier [S1]… mais ceci seulement : de fonder le statut de Lⱥ femme dans ceci qu'elle n'est « pas toute », ce qui ne permet pas de parler de « La femme ».

…………

次にジジェク(Woman is One of the Names-of-the-Father, or How Not to Misread Lacan's Formulas of Sexuation、1995)より。


【性別化の式の誤読①】
ラカンの性別化の式のよくある誤読の仕方は、男性側と女性側の差異を二つの式に還元してしまうことだ。その誤読による還元は、男性のポジションを定義するものとしての二つの式としてしまい、あたかも男性は、普遍的ファルス機能(関数)であり、女性は、その例外・過剰・ファルス機能の把握から逃れる剰余である、とする誤読である。このような読解は完全にラカンの核心を外している。まさに〈女〉のこのポジションを例外とするとはーー言わば、宮廷貴婦人恋愛の見せかけのようなものでありーー、男性の幻想そのものである。


【〈女〉は父の諸名のひとつ】
ファルス機能を構成する例外の典型的な例として、人はふつう、享楽の原父という幻想的・猥褻な形象に言及する。この享楽の原父は、どんな禁止にも邪魔されず、全ての女たちを隈なく享楽する。しかしながら、宮廷貴婦人恋愛の形象は、この原父の勝手放題の決定力に十全に合致しないだろうか。彼女もまた、全てを欲する気まぐれな主人、どんな法にも囚われず、彼女の騎士-召使いに専横非道な試練を課す主人ではないか?

この正確な意味において、〈女〉は父の諸名のひとつである。ここで見逃してならない決定的な細部は、複数形の使用と大文字 capital letters の欠如だ。すなわち、Name-of-the-Father ではなく、names-of-the-father のひとつである。つまりは、原父と呼ばれる過剰の候補者の一人だ。


【前象徴的な・去勢の法に制限されない権力の代理人】
〈女〉の事例においてーー原父の場合と同様(…)神秘的な〈彼女〉の場合において--、我々が扱っているのは、前象徴的な・去勢の法に制限されない権力の代理人である。どちらの場合にも、この幻想的代理人の役割は、象徴秩序、その起源の空虚の悪の循環を埋め合わせることである。〈女〉の概念(あるいは原父の概念)が提供するのは、制限されない十全さーーこの十全さの「原抑圧」が、象徴秩序を構成しているーー、この充溢さという神秘的な出発点である。


【性別化の式の誤読②】
二番目の誤読は、性別化の式の尖った先をを丸めてしまうことで成り立っている。それは、量化詞「すべて」quantifier "all" の二つの意味のあいだに意味論的区別を導入するやり方だ。この誤読によれば、普遍機能の場合、「全て(あるいは全てではない)」 "all" (or "not-all") は、単独の主体(x) を指し示し、「それの全て」"all of it" が、ファルス機能に囚われているかどうかの信号を指示することになる。他方、特別な例外「一人いる…」 "there is one..." は、主体と信号の集合を指し示すことになる。それは、この集合の内部で、ファルス機能から完全に免除されている「一人いる」"there is one"かどうかにかかわる。

したがって、性別化の式の女性側は、彼らの主張に従えば、どの女をも内部から分割する切断を証すものとなる。すなわち、どの女もファルス機能から完全には免れていず、そのまさに理由で、どの女も完全にはファルス機能に従っていない。つまり、どの女にもファルス機能に抵抗する何かがある、と。

相称的に、男性側においては、仮定された普遍性は、単独の主体を指し示す(どの男性主体もファルス機能に従う)。そして男性主体の集合に対する例外を指示する(ファルス機能から免れる「一人がいる」'there is one' )。

要するに、一人の男は完全にファルス機能から免れており、その他すべての男たちはファルス機能に完全に服従している。他方、どの女も完全にはファルス機能から免れていないがゆえ、女たちの誰もが完全にはファルス機能に服従していない。

一方の場合は、分割は外部化される。すなわち、「全ての男たち」の集合内部で、ファルス機能に囚われている者たちと、それから免れている「一者」を区別する分離の線を表す。

他方の場合、分割は内部化される。どの単独の女も内部から分割され、彼女のある部分は、ファルス機能に従い、ある部分は、それから免れる。

ーーすくなくとも、かつて90年代に日本で流通していた性別化の式の解釈(最近は不詳)は、ほとんどこのジジェクのいう「誤読②」を免れていない。稀な例外は、カントの否定判断/無限判断を男性の論理/女性の論理と結びつけたコプチェクに依拠する議論だろう(たとえば、田中純氏による)。


【性別化の式の正統的読解】
しかしながら、我々がラカンの性別化の式の本当のパラドックスを十全に引き受けるなら、性別化の式をもっと文字通り読まなければならない。すなわち、女がファルス機能の普遍性を掘り崩すのは、女のなかには例外はなく、例外に抗う何もないというまさにその事実によってである。言い換えれば、ファルス機能のパラドックスは、機能とそのメタ機能とのあいだの一種の短絡にある。ファルス機能は、それ自体の自己限界・非ファルス的例外の設置と一致するのだ。

※このジジェクの主張の詳細は、「象徴界(言語の世界)の住人としての女」にある。

《ここでの私のポイントは何だろう? それは次のようなものなのだ。ここでふつう気づかれていないことは、ラカンの断言、“La femme n'existe pas”――“〈女〉は存在しない”は、決して象徴的秩序の外にある言いようのない女性的なエッセンスのたぐいに言及しているのではないということだね。象徴秩序に統合されえない、言説の領域の彼岸にあるものでは決してないということだ。》

《大衆的な紹介、ことさらフェミニストによるラカンの紹介では、ふううこの公式にのみ焦点があてられこう言うんだな、「そうだわ、女たちのすべてが、ファリックな秩序に統合されるわけじゃないわ。女のなかには何かがあるのよ、まるで片足はファリックな秩序に踏み込み、もう一方の足はミステリカルな女性の享楽に踏み込んでいるのよね、それが何だかわからないけれど」。私のテーゼは、とても単純化して言うなら、ラカンの全体の要点は、われわれは女を統合化できないから、例外がないということなんだ。だから、別の言い方をすれば、男性の論理の究極の例は、まさに、女性のエッセンス、永遠の女性は、象徴秩序の外に除外されている、彼岸にあるという考え方なんだな。これは究極的な男性の幻想だね。そして、ラカンが「〈女〉は存在しない」というとき、私はまさにこう思うのだな、すなわち、象徴秩序から除外された言葉にあらわせない神秘的な「彼岸」こそが存在しない、と。わかるかい、私の言っていることが?》


ーーすなわち、フェミニストたちの女の神秘を主張する見解とは、男性の論理(幻想)だということになる。

《実のところ、ニーチェが大いに嘲笑を浴びせているフェミニストの女たちは男性なのだ。フェミニズムとは、女が男に、独断的な哲学者に似ようとする操作であり、それによって、女は真理を、科学を、客観性を要求する、即ち、男性的幻想のすべてをこめて、そこに結びつく去勢の効力を要求するのである。》(デリダ『尖筆とエクリチュール』)



【Φ と S(Ⱥ) の親近性】
このような読解は、いくぶん謎めいたマテーム mathemes によって、予め示されている。そのマテームとは、ラカンが、性別化の式の下に記し、そこでは女は(線を引かれて消された Lⱥ によって示される)、Φ(ファルス)と S(Ⱥ) とのあいだで分割されているものだ。S(Ⱥ) とは、線を引かれて消された〈他者〉A のシニフィアンであり、象徴秩序の中の〈他者〉の不在/非一貫性を表す。

ここで見逃してはならぬことは、Φ と S(Ⱥ) (〈他者〉のなかの欠如のシニフィアン)とのあいだの深い親近性だ。すなわち、Φ 、ファルス権力のシニフィアン、魅惑的現前のなかのファルスは、〈他者〉の不能/非一貫性を具現化したものだという決定的事実である。


【ファルスとしての政治的指導者】
これは政治的指導者のことを思い出してみるだけで充分だろう。彼のカリスマの究極の支えは何だろう、と。政治の領域は、定義上、計算できず・予測できない。ある人物が、なぜだか分からないまま、情熱的反応を掻き立てる。転移の論理は図り知れない。したがって、人は魔法の魅力 magic touch ・言い知れぬ魅惑 je ne sais quoi に言い及ぶ。それは指導者のどんな実際の特徴にも還元されえない。あたかも、カリスマ的リーダーが、この (x) を支配しているかのようだ。あたかも、象徴秩序の〈他者〉が不能にされた場にて、陰で人を操っているかのようにさえ見える。



【ファルスとしての神】
ここでの状況は、スピノザによって批判された人物としての〈神〉概念の俗説と一致する。我々を取り巻く世界を理解しようという試みーー出来事と対象とのあいだの偶然的つながりのネットワークを形式化する方法によっての試みにおいて、人びとは遅かれ早かれ、ある点に到る。その点において、彼らの理解は、うまくいかなくなり、ある限界に遭遇する。そして、〈神〉(古き時代の賢人等と捉えられた神)とは、たんに、この限界を具現化したものである。我々は投影するのだ、〈神〉の各個人に見合った概念のなかに、明白に偶然の出来事を通して、理解・説明され得ぬ隠された言い知れぬ原因の全てを。

したがって、イデオロギー批判の最初の施行 operation は、〈神〉という魅惑をもたらす現前のなかに、我々の知の構造のなかにある裂け目の埋め合わせ物を認めることである。すなわち、我々の能動的知のなかの欠如が、能動的現前という見せかけの要素を身につけることを。



【女と神】
そして我々の要点は、これが(神 = ファルスが)、女性の「非全体」"not-all"(pas-tout)といくらか合致していることだ。この「非全体」は、女はファルス Φ に完全に従っていることを意味しない。「非全体」とはむしろ、女は、ファルスの魅惑をもたらす現前を通して、次のことを観察することの合図である。すなわち、女は、ファルスのなかに、〈他者〉の非一貫性の埋め合わせ物を見分けることの。


《La toute nécessité de l'espèce humaine étant qu'il y ait un Autre de l'Autre. C'est celui-là qu'on appelle généralement Dieu, mais dont l'analyse dévoile que c'est tout simplement « La femme ». (ラカン、セミネール23)

《「大他者の(ひとつの)大他者 un Autre de l'Autre は存在すべきだ」という人間の全必然性。これは一般的には〈神〉と呼ばれるが、分析が明らかにしたのは、それは、たんに〈女 〉のことだ。》(粗訳)



【不可能の名としての S(Ⱥ) /禁止の名としての Φ】
とはいえ、ここで別の言い方をつけ加えねばならない。S(Ⱥ) から Φ への移行は、不可能性から禁止への移行だと。S(Ⱥ) とは、〈他者〉のシニフィアンの不可能性を表す(徴示する)。「〈他者〉の〈他者〉はいない」という事実、〈他者〉の領野は、本質として非一貫的にであるという事実のシニフィアン(徴示素)である。Φ はこの不可能性を例外へと具象化する。神聖な、禁止された/到達しえない代理人ーー去勢を免れ、全てを享楽する形象のなかへと具現化するのだ。

…………

いま流通しているメイヤスーも、ラカン派観点からは、神概念的思考(否定神学)の部分があるとされる。

以下、ジュパンチッチ、2014より。


【神がいないことを保証する神】
メイヤスーの観点…すべては偶然的だ、この偶然性の必然性以外は。このように彼は主張することにより、メイヤスーは事実上、不在の原因 absent cause を絶対化してしまっている。(……)

我々は、不在の〈原因〉absent Causeの絶対化しないですますことができない無神論的構造を見る。それは、すべての法(則)の偶然性を保証するのだ。我々は「無神論者の神」のような何かを扱っている。つまり、「神がいないことを保証する神」を。

(これに対して)ラカンの無神論とは、(あらゆる)保証の不在、もっと正確に言えば、外的(メタ)保証の不在という無神論である。つまり支え(保証)は、それが支えるもののなかに含まれている。どんな独立した保証もない。それは、保証(あるいは絶対的なもの)がないと言っているわけではない。これが、構成的な例外という概念とは異なって、非全体(pas-tout)概念が目論むことだ。すなわち、そこでは、ひとつの論証的理論を論駁しうる。そして論証的領野内部から来る別のものを確認しうる。

(……)例外の論理・或る「全て」を全体化するメタレヴェルの論理(全ては偶然的だ、この偶然性の必然性以外は)の代わりに、我々は「非全体」の論理を扱っている。ラカンの格言、それは「必然性は非全体である」と書きうるが、それは偶然性を絶対化しない。…(ジュパンチッチ、Realism in Psychoanalysis Alenka Zupancic、2014, PDF)

もっともラカンの精神分析的言説もまた、原支配 Ur-mastery の言説だという印象を完全には追い払いえないという事実をラカン自身気づいていた(参照:「僕らしい」(ボククラシー je-cratie)哲学者たち)。

そして、最晩年には次のようにさえ言い放つ。

c'est pas absurde de dire qu'elle peut glisser dans l'escroquerie. (S.24、1977)

ーー《馬鹿げたことじゃない、精神分析がペテン escroquerie に陥りうると言うのは》

Bref, il faut quand même soulever la question de savoir si la psychanalyse… je vous demande pardon, je demande pardon au moins aux psychanalystes …ça n'est pas ce qu'on peut appeler un « autisme à deux » ?(S.24.1977)

ーー《精神分析…すまないがね、許してくれたまえ、少なくとも分析家諸君よ!… 精神分析とは「二者の自閉症」 « autisme à deux »のことじゃないかい?》

ミレールは、このラカンの文を2002年の論‘Le dernier enseignement deLacan' (「後期ラカンの教え」)で正面から取り上げた。彼が精神分析集団から、陰性転移とさえ言いうる強い反発をうけるようになったのは、たんにラカンのセミネールのテキストの(いわゆる)「加工」のせいだけではないのではないか。この「精神分析」自体を問うことをした影響がより大きいのではないかと憶測できないでもない。いずれにせよ、現在ミレール批判とは、分析家集団のクリシェのようになってしまっている。

…………

さて、最後に注意しておかねばならないのは、「女性の論理が必ずしもいいわけじゃないよ」--ということだ。

思想は実生活を越えた何かであるという考えは、合理論である。思想は実生活に由来するという考えは、経験論である。その場合、カントは、 合理論がドミナントであるとき経験論からそれを批判し、経験論がドミナントであるとき合理論からそれを批判した。つまり、彼は合理論と経験論というアンチノミーを揚棄する第三の立場に立ったのではない。もしそうすれば、カントではなく、ヘーゲルになってしまうだろう。 この意味で、カントの批判は機敏なフットワークに存するのである。ゆえに、私はこれをトランスクリティークと呼ぶ。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」)
重要なのは、(……)マルクスがたえず移動し転回しながら、それぞれのシステムにおける支配的な言説を「外の足場から」批判していることである。しかし、そのような「外の足場」は何か実体的にあるのではない。彼が立っているのは、言説の差異でありその「間」であって、それはむしろいかなる足場をも無効化するのである。重要なのは、観念論に対しては歴史的受動性を強調し、経験論に対しては現実を構成するカテゴリーの自律的な力を強調する、このマルクスの「批判」のフットワークである。基本的に、マルクスはジャーナリスティックな批評家である。このスタンスの機敏な移動を欠けば、マルクスのどんな考えをもってこようがーー彼の言葉は文脈によって逆になっている場合が多いから、どうとでもいえるーーだめなのだ。マルクスに一つの原理(ドクトリン)を求めようとすることはまちがっている。マルクスの思想はこうした絶え間ない移動と転回なしの存在しない。(柄谷行人『トランスクリティーク』P250)

もし、女性の論理が支配的なイデオロギーであるならば、それを批判しなければならない。わたくしは、ある時期からの浅田彰の頑固オヤジ宣言をこの文脈で捉える、すなわち、「王様を笑い続ける少年」から、不本意で面白くないのを重々承知でゴリゴリの「頑固親父」の役割 Φ を演じることとは、(ある局面での)女性の論理 S(Ⱥ) に類似した日本的現象・その猖獗に対抗する男性の論理ではないか、と。

公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがたい力で束縛する不可視の牢獄と化している。(浅田彰「むずかしい批評」1988 )

この母性的な共感の共同体はかならずしも女性の論理とはいえないという観点もあるだろうが、男性の論理の国とは言い難いのはたしかだ。

ヒットラーが羨望したといわれる日本のファシズムは、いわば国家でも社会でもないcorporatismであって、それは今日では「会社主義」と呼ばれている。(……)

日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない。(柄谷行人、「いつのまにかそう成る「会社主義corporatism」」)

権威と権力の相違を次ぎのように指摘するヴェルハーゲの考え方もある。

重要なことは、権力 power と権威 authority の相違を理解するように努めることである。ラカン派の観点からは、権力はつねに二者関係にかかわる。その意味は、私か他の者か、ということである(Lacan, 1936)。この建て前としては平等な関係は、苦汁にみちた競争に陥ってしまう。すなわち二人のうちの一人が、他の者に勝たなければいけない。他方、権威はつねに三角関係にかかわる。それは、第三者の介入を通しての私と他者との関係を意味する。(社会的絆と権威(Paul Verhaeghe)

二者関係、すなわち、母性的レヴェルの社会構造ーー、日本とは、かねてより権威なしの権力の国の気味合いがないだろうか。

さらに、こう引用しておこう(参照:ラカン派の「母の欲望」désir de la mèreをめぐる)。

ジャック=アラン・ミレールは、90年代だが、次のように言っている(THE ARCHAIC MATERNAL SUPEREGO,Leonardo S. Rodriguez)。

超自我とは、確かに、法(象徴的なもの)である。しかし、鎮定したり社会化する法ではない。むしろ、思慮を欠いた法である。それは、穴、正当化の不在をもたらす。その意味作用を我々は知らない、「一」unary のシニフィアン、S1 としての法である。…超自我は、独自のシニフィアンから生まれる形跡・パラドックスだ。というのは、それは、身よりがなく、思慮を欠いているから。この理由で、最初の分析において、我々は超自我を S(Ⱥ) のなかに位置づけうる。

ミレールは母なる超自我 surmoi mère ーー1938年の初期ラカンの記述を捉え直した概念ーーの問いを明瞭化するパラグラフで、こうつけ加えている。

思慮を欠いた法としての超自我S(Ⱥ) は、母の欲望にひどく近似する。その母の欲望とは、父の名によって隠喩化され、支配さえされする以前の母の欲望である。超自我は、法なしの気まぐれな勝手放題としての母の欲望に似ている。

…………

※附記:ジジェクによるヴェルハーゲの“ Does the Woman Exist?” の書評。

“A miraculous answer to the confusions surrounding Freud's and Lacan's theory of feminine sexuality . . . After reading this book, it should be clear that, far from being outdated, the psychoanalytic approach to feminine sexuality enables us to find our way in the . . . deadlocks of our allegedly ‘permissive' postmodern society . . . A must for anyone who wants to grasp what psychoanalysis has to say today.” –
奇跡的な応答だ、女性のセクシャリティのフロイト・ラカン理論を取り巻く混乱状態への。…この書を読めば、当然のごとく明瞭になるだろう、女性のセクシャリティへの精神分析的アプローチは、時代遅れどころか、いわゆる「寛大な」ポストモダン社会の行き詰まりのなかで新しい道を見出しうることが。…必読の書である、精神分析が今日言わなければならないことを把握したい誰にとっても。(Slavoj Žižek )

2002年前後までは、ヴェルハーゲはジジェクをしばしば引用した。ジジェクも上のような絶賛をした。だがその後、おそらくある解釈の相違があるせいだろう、両者は言及し合わなくなった。

この二人の解釈の分かれ目は、ジジェクの弟子筋のアレンカ・ジュパンチッチのバディウ論(現前・再現前論)の叙述をめぐるのではないか、と憶測されないでもない(参照)。

ジュパンチッチのバディウ論は、→ Alenka Zupancic、The Fifth Condition”、2004

ーーいくらかの私訳は、「反復されることになる最初の「真理」などは、ありはしない?」の後半にある。


2016年3月30日水曜日

享楽の氾濫

二つの区分け:ファルス享楽 la jouissance phallique と他の享楽 l'autre jouissance」にて、ファルス享楽 la jouissance phallique /他の享楽 l'autre jouissance を対照させたが、では次ぎの享楽はどうなるのだろうか? --とは捏造された疑問符ではあるが・・・

まず頻出する享楽から。

剰余享楽 la plus-de-jouir
意味の享楽 Jouis-sens

他A の享楽 la jouissance de l'Autre
他Ⱥ の享楽 la jouissance de l'Ⱥutre

女性の享楽 La jouissance féminine

現実界の享楽 la jouissance réel
不可能な享楽 la jouissance impossible



ーーたぶん、これらはどちらか、つまりファルス享楽 la jouissance phallique と他の享楽 l'autre jouissance に(究極的には)区分されうるのではないだろうか・・・ボロメオ結びには目を瞑るべきではないか……(あんなもんは全部対象aの享楽だよ、対象aには五種類あるがね、とおっしゃる方もいることだし・・・「対象aの五つの定義(Lorenzo Chiesa)」)

ラカン後期のセミネール、そのなかでも最も注目に値するセミネールXXIIIにて、ラカンは少なくとも四つの異なった享楽概念の形態を活用しているが、にもかかわらず、私の意見では、直接的あるいは間接的に、すべて対象aに繋がっている。(Lorenzo Chiesa, Subjectivity and Otherness A Philosophical Reading of Lacan,2007ーー「超越論的享楽(Lorenzo Chiesa)」)

…………

以下のものだってそうだろう・・・


セミネール17

la jouissance absolue
jouissance de la mère


セミネール18

la jouissance mortelle
la jouissance pure


セミネール19

jouissance sexuelle.
la jouissance de parler
autre jouissance
jouissabsence
jouisseprésence


セミネール20

la jouissance du corps de l'Autre
la jouissance perverse.
la jouissance de « Lⱥ femme »
jalouissance
la jouissance d'une autre
L'économie de la jouissance
jouissance de parole
la jouissance de lalangue


セミネール21

une vague jouissance
La jouissance de la femme
La jouissance du Réel
jouissance privilégiée
jouissance sémiotique
la jouissance corporelle

セミネール22

jouissance de l'autre corps

セミネール23

j'ouis-sens

セミネール24

jouissance extatique


いずれにせよ、ラカンはある時期から jouissance という言葉に取り憑かれていたには相違ない・・・

中井久夫)ぼくはたまたまラカンの訳文を少し校訂させられたんですけど、あれはおじいさんの言葉として、おじいさんがわりと内輪の社会でしゃべっておるフランス語と してはそうおかしくはないんじゃないかと思ったんですね。そいつを哲学の文章みたいに訳そうとするから、さっぱりわけがわからなくなってくるんじゃないか とおもったんですけどね。(『シンポジウム』柄谷行人 編・著所収 1988)

わたくしも享楽はきらいなほうではないが、ロラン・バルト程度の定義ですましておきたい心持でいっぱいだ・・・

享楽 jouissance、それは欲望に応えるもの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。[ la jouissance ce n’est pas ce qui répond au désir (le satisfait), mais ce qui le surprend, l’excède, le déroute, le dérive.] (『彼自身によるロラン・バルト』ーー「話す存在 l'être parlant / 話す身体 corps parlant」)

ファルス享楽 la jouissance phalliqu eとは、結局はファルス欲望である。そしてそこから漂流するものが、他の享楽 l'autre jouissance である、とわたくしのような単純な頭は思いたくなるものだ・・・

…………

※以下、ジャック=アラン・ミレール、2012を附記(見直してないので、原文(英文)をかならず参照のこと)。

…シニフィアンとは、共有されるものだ。他方、対象a 自体は、主体に属する。ラカンはこれを、セミネール16、D'un Autre à l'autre で強調している。注目されなければならない、ここでの大文字の他者は、不定冠詞 un 、小文字の他者は、定冠詞 le を持っていることを。これが示すのは、大文字の他者、〈他者〉の場、それは全て all にとってのもので、対象a は単独的 singular であることだ。

前期ラカンの教え、最初の10のセミネールまでの教え、それは大他者 l'Autre を言祝いでいる。第二のステージでは、大文字の A としての un Autre と小文字の a としての l'autre の分節(詳述)化に打ち込んだ。教えの第三のステージ、我々はそれを後期と呼ぶが、小文字の他者の側から・単独性の側から始まっている。

したがって、ラカンは最初の展望を裏返したのだ、かつての大他者の展望を。すなわち規則・社会的無意識としての無意識を。…そして、最初のステージの裏側へ移行し、皆にとっての個別的なもの、すなわち、単独性へと向かった。単独性が意味するのは、普遍性には求め得ない何かということだ。私はこの証拠を見出す。後期ラカンの教えは自閉症(自閉性)の問題に取り憑かれているという事実に。自閉性が意味するのは、〈他者〉ではなく、〈一者〉が支配的であるということである。

前期ラカンの教えは、大文字の他者を、基本的所定のものとして、取り上げた。そこには、共通のものとしての言語がある。規則がある。血統の、自動作用の、徴示する signifying 布置の規則がある。共有の文化において生まれる主体、そして無意識はこの骨組みのなかに位置づけられねばならない。

しかし後期ラカンの教えは、このちゃぶ台をひっくり返す。すなわち、皆にとって個別的なものから前進する。共通のもの・共有されないものから進展するのだ。それは、精神分析の問いが論理的に従ってゆく領域、〈一者〉が支配的になるという領域である。

我々は、この後期ラカンの教えを次のように題しうる、「全ての可能な精神分析にとっての準備段階の問い」と。これは、まさにセミネール24(19 Avril 1977)にて、ラカンが言い得た文脈のなかにある。すなわち、『我々は問いを掲げなければならない、精神分析は「〈二者〉の自閉症」 « autisme à deux »ではないかどうかを知る問いを。

《精神分析…すまないがね、許してくれたまえ、少なくとも分析家諸君よ!… 精神分析とは「二者の自閉症」 « autisme à deux »のことじゃないかい?……》(ラカン、S.24、1977)

《Bref, il faut quand même soulever la question de savoir si la psychanalyse… je vous demande pardon, je demande pardon au moins aux psychanalystes …ça n'est pas ce qu'on peut appeler un « autisme à deux » ?

Il y a quand même une chose qui permet de forcer cet autisme, c'est justement que lalangue est une affaire commune et que… c'est justement là où je suis, c'est-à-dire capable de me faire entendre de tout le monde ici …c'est là ce qui est le garant… c'est bien pour ça que j'ai mis à l'ordre du jour Transmission de la psychanalyse …c'est bien ce qui est le garant que la psychanalyse ne boîte pas irréductiblement de ce que j'ai appelé tout à l'heure « autisme à deux ».》(S.24)


もし、「〈二者〉の自閉症」でないならーーそう確信させてもらいたいがーー、言語 (la langue) があるおかげだ。ラカンが言うように、言語は共有の事柄のためだ。

〈一者〉に与えられた特権性の帰結、〈一者〉の享楽・〈一者〉のリビドーの秘密への特権性とは、精神分析は、ひどく確信をもたらす仕方で現れるということだ、それは、強制(押し付け forcing)として。

前期ラカンの教えでは、精神分析は完全に自然なものとして現れた。すなわち、無意識を統制するなかでのそのポジションを明瞭化する大他者の言説として。他方、後期の教えでは、精神分析は真に謎になる。いかに〈一者〉の享楽のこの強制が可能だというのか?

もし精神分析が強制だとしたら、もし精神分析が自然の逆さになった坂の上にあるなら、そのとき、それはるかに興味深いものとなる。後期ラカンの教えにおいて、精神分析は自閉性の強制である、ーー言語のおかげで。享楽の〈一者〉の強制である、ーー言語の〈他者〉のおかげで。

欲望は、前期ラカンの教えの鍵用語である。すなわち、大他者の欲望。ヒステリーのポジションを再形式化したとき、ラカンはそこに到達した。大他者の欲望、それは言語のなかに刻み込まれている。それは換喩に囚われている。欲望とは、〈他者〉の支えなしでは己れを支えられないカテゴリーである。

しかし、後期ラカンの教えのなかで目まぐるしく多様化した結び目の全ての図式には、〈他者〉の享楽は不在のままだ。欲望とは反対に、享楽は〈一者〉によって支えられている。我々は大他者の享楽をいつも夢見うる。しかし、享楽とは、正統的な身体・〈一者〉の身体につながっている。

(……)これが意味するのは、精神分析特有の治療とは、享楽を解決するためにーーここでの「解決」とは終結という意味だーー、享楽に意味をもたらすようにする強制だということだ。…(ミレール、「後期ラカンの教え」Le dernier enseignement de Lacan,2002)

ーー〈他者〉の享楽はあるじゃないかって? あれは身体の享楽のことさ。

L'Autre、c'est le corps ! (大他者とは身体のことである)(10 Mai 1967 Le Seminaire XIV

2016年3月27日日曜日

今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない

また、ナンタラくんか、「二つの区分け:ファルス享楽 la jouissance phallique と他の享楽 l'autre jouissance」は難解だって? 

だったら以下、簡潔版だ。ほとんどくり返した内容だがね。

…………

たとえば、ラカンのセミネールⅩ(不安)には次のような図がある。




これは、享楽の主体 le sujet de la jouissance は、不安 l'angoisse に遭遇して、欲望する主体 sujet désirant としての基礎を構築するということ。

ようは、享楽への欲望の仲裁物として不安がある。. 《l'angoisse fait le médium du désir à la jouissance.》(S.10)

いずれにせよ、この図において、享楽の主体と欲望する主体がどちらが先行してあるかは明らかだろう。

これも、sujet du désir(欲望の主体) / sujet de la pulsion (欲動の主体)や sujet du désir /sujet du corps〔身体の主体)、l'être parlant (話す存在)/ corps parlant(話す身体)のヴァリエーション。


同じく不安のセミネールには次ぎの表現がある。

« Seul l'amour permet à la jouissance de condescendre au désir ».(S.10)

ーーさて、なんと訳すべきか、とりあえず、「愛のみが享楽を欲望へと下降させてくれる(身を落させてくれる)」とでもしておこう。

くり返すが、欲望が享楽(欲動)と同じものであることはありえない。

欲望は享楽に対する防衛である、《le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.》(E825)

すなわち、「欲望は防衛、享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である」(参照

これは、ジジェクが1991年に既に、ミレールに依拠しつつ、疑問符つきだが、指摘している。

欲望そのものはすでにある種の屈服、ある種の妥協形成物、換喩的置換、退却、手に負えない欲動に対する防衛なのではあるまいか。(ジジェク、斜めから見るーー「資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより)」)

ジジェクは、最近は、ミレールの欲望/欲動の区別さえ甘っちょろい、と言っている(参照:欠如と穴(欲望と欲動))。


ここで、ラカン晩年のララングに言及するなら、これは欲望の領域ではなく、身体の享楽の領域の概念。

「言語は無意識からのみの形成物ではない」とわたしは断言します。なにせ、lalangue  に導かれてこそ、分析家は、この無意識に他の知の痕跡を読みとることができるのですから。他の知、それは、どこか、フロイトが想像した場所にあります.(ラカン、Scuala Freudiana 1974.3.30

無意識の形成物とは欲望の次元(ララングとは身体の享楽の次元)。

フロイトの「我々の存在の核」(Kern unseres Wesen)とは、この欲望・シニフィアンの彼方にある欲動(享楽)・身体の現実界である、というのが現在のフロイト・ラカン派の「常識」。それは「話す存在 l'être parlant / 話す身体 corps parlant」などで見た。

最晩年のフロイトが、『終りなき分析』にて、「不可能な職業」として分析家を語ったのもその意味(ラカン曰く、フロイトの遺書)。

分析 analysieren 治療を行なうという仕事は、その成果が不充分なものであることが最初から分り切っているような、いわゆる「不可能の職業」 Unmögliche Berufe といわれるものの、第三番目のものに当たるといえるように思われる。その他の二つは、以前からよく知られているもので、つまり教育edukierenすることと支配するregierenことである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』)

もう、あまりゴタゴタ言いたくないがーーわたくしは専門家ではけっしてないのでーー、この最低限の認識がないのなら、フロイト・ラカン派とは決して呼べないはず。これは解釈の相違云々以前の問題。

欲望とは本質的に、つまり厳密に言えば、シニフィアンの世界に入った後のものであり、ポストエディプス的主体の領域にある。これもくり返した(参照)。

欲望の領野は、二つの欠如 Deux manquesの、象徴界の欠如にかかわるもので、もうひとつは身体の欲動の穴は、現実界にかかわる。これも、すでにセミネールⅩⅠにて、automaton/tuché の区別で明瞭化されている(参照)。

自由連想は、automaton の領野(シニフィアンの領野)の話。そこにおいて「我々の存在の核」(Kern unseres Wesen)に遭遇する。これは前期フロイトからすでにある。

フロイトは症状形成を真珠貝の比喩を使って説明している。砂粒が欲動の根であり、刺激から逃れるためにその周りに真珠を造りだす。分析作業はイマジナリーなシニフィアンのレイヤー(真珠)を脱構築することに成功するかもしれない。けれども患者は元々の欲動(砂粒)を取り除くことを意味しない。逆に欲動のリアルとの遭遇はふつうは〈他者〉の欠如との遭遇をも齎す。(new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex PAUL VERHAEGHE 2009)

ーーフロイト自身の文は、「「真珠を生む砂粒」と「夢の菌糸体」」を参照のこと。

欲動のリアルとの遭遇は、自由連想のたぐいでは埒があかない。したがって、フロイトは分析は不可能な職業といった。

いま、身体的な欲動に目を瞑るなどということはありえない。

現在、フロイトから百年経て、われわれはまったく異なった症状に直面している。恐怖症の構築のかわりに、パニック障害に出会う。転換症状のかわりに、身体化と摂食障害に出会う。アクティングアウトのかわりに、攻撃的な性的エンアクトメント(上演)に出会う、それはしばしば自傷行為と薬物乱用を伴っている。そのうえ、ヒストリゼーション(歴史化)等々はどこかに行ってしまった。個人のライフヒストリーのエラボレーション、そこにこれらの症状の場所や理由、意味を見出すようなものは、見つからないのだ。最後に、治療上の有効な協同関係はやってこない。その代りに、われわれは上の空の、無関心な態度に出会う。それは疑いの目と、通常は陰性転移を伴う。実際、そのような患者を、フロイトは拒絶しただろう。いささか誇張をもって言うなら、好ましく振舞う(行儀のよい)かつての精神神経症の患者はほとんどいなくなってしまった。これが、あなたがたが臨床診療の到るところで見出す現代の確信である。すなわち、われわれは新しい種類の症状、ことに、新しく取扱いが難しい患者に出会うのだ。(Lecture in Dublin, 2008 (EISTEACH) A combination that has to fail: new patients, old therapists Paul Verhaeghe、私訳)


これは何もラカン派のみの見解ではない。

いずれにせよ、精神分析学では、成人言語が通用する世界はエディプス期以後の世界とされる。

この境界が精神分析学において重要視されるのはそれ以前の世界に退行した患者が難問だからである。今、エディプス期以後の精神分析学には誤謬はあっても秘密はない。(中井久夫「詩を訳すまで」初出1996『アリアドネからの糸』所収ーー「言語の深部構造」)


これが分かっていない人は、分析家どころか、臨床心理士でもすくないのではないか、とさえ言っておくよ

…………

※附記

享楽がすべて剰余享楽であるわけはない。セミネールⅩⅨには、四つの言説の形式的構造のヴァリエーションとして次の図がある。




形式的構造の図は次ぎの通り。







これはすでにあの人物は誤謬を認めている。

そこでは jouissance という用語が単独で「禁止された悦」の意味においてしばしば用いられていました.したがって,Lacan のテクスト全体においては単独で用いられた jouissance はもっぱら剰余悦を指すと以前言ったことを撤回して,次のように言い直したいと思います:(参照

仮にいまだ剰余享楽一元論のようにみえるなら、認めたにもかかわらず、以前の固定概念がツイートに滲み出ているだけ。

たとえば、2016.3.15 のツイートにて、あの人物が言っていることは、前期ラカンのみを参照してのおどろくべき曲解。

誰にでも誤謬はある。難解な箇所は異論百出。とはいえ、欲望と主体$ という基本概念の誤謬は致命的。

如何にコミュニティが機能するかを想起しよう。コミュニティの整合性を支える主人のシニフィアンは、意味されるものsignifiedがそのメンバー自身にとって謎の意味するものsignifierである。誰も実際にはその意味を知らない。が、各メンバーは、なんとなく他のメンバーが知っていると想定している、すなわち「本当のこと」を知っていると推定している。そして彼らは常にその主人のシニフィアンを使う。この論理は、政治-イデオロギー的な絆において働くだけではなく(たとえば、コーサ・ノストラ Cosa Nostra(われらのもの)にとっての異なった用語:私たちの国、私たち革命等々)、ラカン派のコミュニティでさえも起る。集団は、ラカンのジャーゴン用語の共有使用ーー誰も実際のところは分かっていない用語ーーを通して(たとえば「象徴的去勢」あるいは「斜線を引かれた主体」など)、集団として認知される。誰もがそれらの用語を引き合いに出すのだが、彼らを結束させているものは、究極的には共有された無知である。(ジジェク『THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE』私訳)

主体 $ とは、その文字を見れば分かるように、棒線(シニフィアン)で分割(分裂)された主体だよ。そのとき初めて欲望は生まれる。

 《besoins constitue une Urverdrängung …se présente chez l'homme comme le désir 》(.E.690)

ラカンは、欲求が原抑圧を構成して後に、欲望は現われる、と言っているわけで、この時点でようやく主体 $ が生まれるという意味でもある。

事実、《le besoin, ce n'est pas encore le sujet》(S.5)、つまり欲求(段階)においては、いまだ主体はない、と明瞭にラカンは言っている、

$ とは、シニフィアンによって、物の殺害にあった主体(ラカン、ローマ講演、1953).。ま、言ってしまえば、が掛かった主体さ。

$、とは、シニフィアンの主体ということであり、それが欲動(本能)と等価であるなどということは、どんなに逆立ちしてもありえない。欲動とは表象されえないもの。

《Toute pulsion étant… par essence de pulsion …pulsion partielle, aucune pulsion ne représente… 》(S.11)

というわけで、「共有された無知」で、インターネットラカン派いつまでやってんのか、おまえさん!

ま、あのおっちゃんがどこでどうまちがってあんなになっちまったのかは謎だがね

とはいえ、いくら善意に考えても、あの欲望が一次的なものとか、Trieb = $ = désir ってのは世界稀有の解釈だよ

以上、これにてこの話題は打ち切りにするつもり。



2016年3月26日土曜日

懐かしい女



1972年ごろのスチュワーデス(いまでは客室乗務員というらしいが)。

ーーああ、これもなんという写真のノエマ!

ある種の写真に私がいだく愛着について……自問したときから、私は文化的な関心の場(ストゥディウム)と、ときおりその場を横切りにやって来るあの思いがけない縞模様とを、区別することができると考え、この後者をプンクトゥムと呼んできた。さて、いまや私は、《細部》とはまた別のプンクトゥム(別の《傷痕〔ステイグマ〕》が存在することを知った。もはや形式ではなく、強度という範疇に属するこの新しいプンクトゥムとは、「時間」である。「写真」のノエマ(《それは=かつて=あった》)の悲痛な強調であり、その純粋な表象である。(ロラン・バルト『明るい部屋』--「写真のエクスタシー」より)

わたくしは23歳で会社勤めに入ったとき(大学を1年留年している、あまりそうそうに働きたくなかったせいだ)、大阪の伊丹空港から長崎へと週に1度、場合によっては2度、飛行機を利用することが半年以上続いた。これは当時のこの会社では例外的なことで、突然、その会社の商品が前代未聞の大ヒットをして、その商品を作る主要工場が長崎にあったせいだ(わたくしはそれを管理する部門の一番下っ端だった)。

新入社員のことで、場合によっては日帰り、だがだいたいは長崎で一泊した。

これだけ何度も利用していると、スチュワーデスたちとは顔見知りになる。毎度、同じ女性乗務員に出会えるわけではないが、行きは始発便、帰りは最終便と決まっていれば、かなりの頻度で同じ顔ぶれに出会う。

夜、長崎に到いた場合は、泊まるホテルさえ一緒になる。で、何の話か。……食事ぐらいは何度も一緒にしたさ。左端のおねえさんみたいな、上質な大ぶりの皮のバックもってたな、グッチとかなんとか言ってたが。

……部屋に戻ろうとして、鍵穴にキーを差し込んでもなぜか部屋の扉は開かないんだ、よく見たら、〈彼女〉の部屋番号の鍵なんだな……

いやあ、懐かしい! それだけだよ。

《それは=かつて=あった》の悲痛な強調さ。

なぜか、フォーレが鳴ってくるよ、どうしたわけだろ?

Régine Crespin の澄み切った声のせいだろうか、
それとも「水のほとり Au bord de l'eau」にあったあの旅館のせいだろうか
あるいは、この切ない、やるせないシャンソンのせいだろうか




人は忘れ得ぬ女たちに、偶然の機会に、出会う、都会で、旅先の寒村で、舞台の上で、劇場の廊下で、何かの仕事の係わりで。そのまま二度と会わぬこともあり、そのときから長いつき合いが始まって、それが終ることもあり、終らずにつづいてゆくとこもある。しかし忘れ得ないのは、あるときの、ある女の、ある表情・姿態・言葉である。それを再び見出すことはできない。(加藤周一『絵のなかの女たち』)





二つの区分け:ファルス享楽 la jouissance phallique と他の享楽 l'autre jouissance

さて,ふたつめの問い,l'Autre jouissance について.改めて調べてみると,Lacan 自身は l'Autre jouissance という表現は使っていないようです.(2015.6.28)

ーーというツイートを抜き出して、「話す存在 l'être parlant / 話す身体 corps parlant」における記述、《ファルス享楽 la jouissance phallique の内部に外立する他の享楽 l'autre jouissance》について、なんたら言ってくる人がいるが、この人物のツイートは、ラカンのアンコールをまともに読んでいない証拠でしかない。

ま、誰もまともに読めていないという言い方はできるのでーーラカンのセミネールのテキストはとりわけ「非全体」であるーー、「ファルス享楽」 la jouissance phalliqueと「他の享楽」  l'autre jouissance の区分けは、多くの解説者たちによって、15年以上前から注目されているものとのみ言っておこう。

たぶん、なんらかの理由でブランクがあった人物なのだろう。すなわち前世紀の凡庸なラカン学者の解釈のままである。あるいは、他の解釈者の見解をさぐってみることをしない独我論者か自閉的心性の持主かのたぐいであろう。

この二つの区別は、わたくしのように、ラカンを断片的にしか読んでいない非専門家のディレッタントたちのあいだでも、すでに「常識」である。

…phallic enjoyment has to be understood as a defence against the enjoyment of the body as an organism.( Paul VerhaegheSUBJECT AND BODY. Lacan's Struggle with the Real.2001、原文

ーー《ファルス享楽とは、有機体としての身体の享楽に対する防衛として理解されなければならない。》

いくらかの核心的表現をラカン自身の表現(アンコール)から掲げるなら、

・une jouissance au-delà du phallus, hein !

・La jouissance du corps, s'il n'y a pas le rapport sexuel, il faudrait voir en quoi ça peut y servir.

・l'être c'est la jouissance du corps comme tel, c'est-à-dire comme (a)sexué…

・la raison de cet être de la signifiance c'est la jouissance en tant qu'elle est jouissance du corps.

・…il y a une jouissance… puisque nous nous en tenons à la jouissance, jouissance du corps 

これらの叙述に重ねて、Patrick Valas版のアンコールでは、彼のコメントが入っている、《jouissance du corps de l'Autre (l'autre jouissance)》と。

この「〈他者〉の身体の享楽」とは、セミネールⅩⅣの次ぎの表現とともに読むとよい、《L'Autre、c'est le corps ! (大他者とは身体のことである)》。


ファルス享楽を超えたところにある享楽が、他の享楽 l'autre jouissance である(〈他者〉の享楽 la jouissance de l'Autre とはいささか異なることは前回みた)。

そもそもこの人物は「身体の享楽」(身体の悦)を少し前まで掴んでおらず、誤解もやむえない(参照)。

…………

最も重要な鍵は次ぎの表現にある。

c'est Ia jouissance qu'il ne faudrait pas"(S.20)

あり得ない享楽、かつ遭遇せざるを得ない享楽とでも訳せるか?

これが「他の享楽」 l'autre jouissance である。

ブルース・フィンクの説明(2004)なら次の通り。

The fantasy is so powerful that we feel this Other jouissance has to be, has to exist. Yet if it were not for this fantasy, we might be more content with the jouissance we do actually obtain. Thus, whereas Lacan says that, according to the fantasy, this Other jouissance should be (that is, should exist), from the point of view of the satisfactions we actually do obtain, it should not be because it merely makes matters worse.

We might say that it never fails to make matters worse. This is the gist of the play on words Lacan makes over and over again in chapter 5 of Seminar XX, "c'est Ia jouissance qu'il ne faudrait pas" (a play on two different verbs, falloir, "it must be," and faillir, "to fail," that are written and pronounced identically in certain tenses; thus 'it is the jouissance that must not be" and "it is the jouissance that cannot fail"): It is the idea of a jouissance that never fails and that never fails to diminish still further the little jouissance we already have.

These two jouissances (the paltry one and the Other) are not complementary, according to Lacan, otherwise "we would fall back into the whole" (Seminar XX, 68/73), the fantasy of complementarity, yin and yang, one for men, say, and one for women. Instead, they form a couple, if you will, akin to that constituted by the aporetic couple, being and nonbeing, over which certain Greek philosophers got rather "worked up" (Seminar XX, 25/22, 52/54, 56/61).(Lacan to the Letter Reading Ecrits Closely Bruce Fink,2004)


セミネールⅩⅩ(Patrick Valas版(Staferla版))より(ミレール版といささか異なるが、手許にはこれしかない)。

La jouissance, donc : comment allons-nous exprimer ce « qu'il ne faudrait pas » à son propos, sinon par ceci : s'il y en avait une autre que la jouissance phallique… là, comme ça, pour que vous ne perdiez pas la corde, c'est affreux mais si je vous parle comme ça, comme j'ai pris mes notes ce matin, vous perdrez le fil … s'il y en avait une autre, il ne faudrait pas que ce soit celle-là.

C'est très joli. Il faut user, hein, il faut user, mais user vraiment, savoir user, user jusqu'à la corde de choses comme ça, bêtes comme chou, des vieux mots.

C'est ça l'utilitarisme. Et ça a permis un grand pas pour décoller des vieilles histoires, là, d'Universaux où on était engagé depuis PLATON et ARISTOTE, et où ça avait traîné pendant tout le Moyen-âge, et où ça étouffe encore LEIBNIZ, au point qu'on se demande comment il a été aussi intelligent.

Oui, s'il y en avait une autre, il ne faudrait pas que ce soit celle-là. Écoutez ça ! Qu'est-ce que ça désigne « celle-là » ?

Ça désigne ce qui dans la phrase est « l'autre » [jouissance] ? - Ou celle d'où nous sommes partis pour désigner cette autre, comme « autre » ?

Parce qu'enfin si je dis ça, qui se soutient au niveau de l'implication matérielle, parce qu'en somme la première partie désigne quelque chose de faux « s'il y en avait une autre » : il n'y en a pas d'autre que la jouissance phallique. Sauf celle sur laquelle la femme ne souffle mot, peut-être parce qu'elle ne la connaît pas, celle qui la fait pas toute en tout cas. Il est donc faux, hein, qu'il y en ait une autre. Ce qui n'empêche pas la suite d'être vraie, à savoir qu'« il ne faudrait pas que ce soit celle-là ».

Vous savez que c'est tout à fait correct, que quand le vrai se déduit du faux c'est valable, ça colle, l'implication. La seule chose qu'on ne peut pas admettre, c'est que du vrai suive le faux. Pas mal foutue la logique ! Qu'ils se soient aperçus de ça tous seuls, ces Stoïciens, il y avait CHRYSIPPE54, et puis il y en avait un autre qui n'était pas du même avis. Mais quand même, il ne faut pas croire que c'était des choses qui n'avaient pas de rapport avec la jouissance. Il suffit de faire réhabiliter ces termes.

Il est donc faux « qu'il y en ait une autre », ce qui nous empêchera pas de jouer une fois de plus de l'équivoque, et à partir non pas de faillir mais de faux [« faux qu'il y en ait une autre » → « faut qu'il y en ait une autre »…], et de dire qu'« il ne faudrait pas que ce soit celle-là ».

À supposer qu'il y en ait une autre, mais justement il n'y en a pas, et du même coup, c'est pas parce qu'il n'y en a pas… et que c'est de ça que dépend le « il ne faudrait pas » …que le couperet n'en tombe pas moins sûr. Eh bien celle-là… qui n'est pas l'autre, celle dont nous sommes partis …il faut que celle-là soit faute, entendez-le culpabilité [coupable → coupure], et faute de l'autre, de celle qui n'est pas.


◆ブルース・フィンク英訳(ミレール版) アンコールから

Were there another one, it shouldn't be/could never fail to be that one. What does "that one" designate? Does it designate the other in the sentence, or the one on the basis of which we designated that other as other? What I am saying here is sustained at the level of material implication, because the first part designates something false - "Were there another one," but there is no other than phallic jouissance - except the one concerning which woman doesn't breathe a word, perhaps because she doesn't know (connait)24 it, the one that makes her not-whole. It is false that there is another one, but that doesn't stop what follows from being true, namely, that it shouldn't be/could never fail to be that one.

You see that this is entirely correct. When the true is deduced from the false, it is valid. The implication works. The only thing we cannot abide is that from the true should follow the false. Not half bad, this logic stuff! The fact that the Stoics managed to figure that out all by themselves is quite impressive. One mustn't believe that such things bore no relation to jouissance. We have but to rehabilitate the terms to see that.

It is false that there is another. That won't stop me from playing once more on the equivocation based on faux (false), by saying that it shouldn't (faux-drait) be/could never fail to be/couldn't be false that it is that one. 25

Suppose that there is another - but there isn't. And, simultaneously, it is not because there isn't - and because it is on this that the "it shouldn't bel could never fail" depends - that the cleaver falls any the less on the jouis-sance with which we began. That one has (faut) to be, failing (faute de) -you should understand that as guilt - failing the other that is not. 26

注)

25 This play on words is untranslatable in English: faux ("false" or "wrong") is pronounced in French exactly like the first syllable offaudrait.

26 Faute de usually means for lack of or failing that, but here Lacan wants us to also hear the sin or fault in faute. Lacan may also want us to hear faut at the beginning of the sentence as based on faillir: "That one defaults, failing .. , ." The same is perhaps true four paragraphs down.



…………

【追記】


autre jouissance という語は、セミネールⅩⅨには、次ぎのように現われる


qui est cette racine du « pas toute » …qu'elle recèle une autre jouissance que la jouissance phallique, la jouissance dite proprement féminine qui n'en dépend nullement.(S.19)

この段階で、すでに「女性の享楽」 jouissance féminine と「他の享楽」 autre jouissance を結びつけている。ただし、実際は「ファルス享楽」を超える享楽と読むべきで、女性/男性にはほとんど関係がない、というのが通説。

たとえばブルース・フィンク、2004より。

……二つの享楽(ファルス享楽と他の享楽)の議論は、ラカンが性別化と呼ぶものの話題を我々ににもたらしてくれる。ここで想い起しておかねばならない、性別化とは生物学的な性とは関係がないことを。ラカンが男性の構造と女性の構造と呼んだものは、人の生物学的器官とは関係がない。むしろ人が獲得しうる享楽の種類と関係がある。(ブルース・フィンク,Lacan to the Letter Reading Ecrits Closely Bruce Fink,2004、私訳)

あるいは、ジジェク、2012より。

ファルスのシニフィアンとは、その現前・不在が、男 manと女 womanを区別する機能でない。性別化の式において、それはどちら側(男性側 masculine と女性側 feminine)にも機能する。どちらの場合も、S と J (話す主体と享楽)とのあいだの不可能な関係(非関係)の作因子として作用する。ーーファルスのシニフィアンとは、象徴秩序に受け入れられた存在、つまり「話す存在」にアクセス可能な享楽を表す。

したがって、ひとつの性と、(プラスアルファの)それに抵抗する非全体しかないの同じように、ファルス享楽と、プラスアルファのそれに抵抗する X しかない。もっとも、正しく言うなら、その X は存在しない。というのは、《ファルス的でない享楽はない[ il n'y en a pas d'autre que la jouissance phallique]》(S.20)から。この理由で、ラカンが謎めいた幽霊的「他の享楽」を語ったとき、彼はそれを存在しないが機能する何ものかとして扱った。(ZIZEK.LESS THAN NOTHING、2012,私訳)


では、結局何か。ここでは、「他の享楽」とは、おそらく「身体の享楽」だろう、としておこう。

 たとえば、セミネールⅩⅩⅡより。

S'y justifie que, si nous cherchons de quoi peut être bordée cette jouissance de l'autre corps, en tant que celle-là sûrement fait trou, ce que nous trouvons c'est l'angoisse.

c'est la jouissance en tant que phallique [ JΦ ] qui implique sa liaison à l'Imaginaire comme ex-sistence : l'Imaginaire c'est le « pas-de-jouissance ».

ヴェルハーゲ、2001では、次のように記されいる。

……さらに詳しく享楽の二つの形式のあいだの関係を扱ってみよう。この関係は、一方は、制限、統制、そして防衛でさえある。性的、すなわちファルス享楽 la jouissance phallique は、享楽自体を統制する。というのは、ファルスのシニフィアンは、拘束的で束縛機能があるから。他の享楽 l'autre jouissance は、身体に属する。それは外立するものとしての存在ーーすなわち象徴界の外部に立つものーーとして理解されうる。

我々の象徴的に決定された現実において、男と女は、ファルス的な仕方で、互いに関係し合う。二つの異なったジェンダーのあいだに純粋な性関係はない。さらに、ファルス享楽は性関係にとって障害物を構成する。《ファルス享楽は障害である。そのせいでーー言ってしまえばーー、男は女の身体を悦楽するところまで来ない。それはまさに、彼が悦楽しているのは、器官の享楽だから》(S.20)。

《la jouissance phallique est l'obstacle par quoi l'homme n'arrive pas - dirai-je - à jouir du corps de la femme précisément parce que ce dont il jouit c'est de cette jouissance, celle de l'organe.》(S.20)

人は、ファルス享楽を超えても、いまだ性関係はない。というのは、ファルス享楽の彼方には、ジェンダーの差異はなく、《ファルスの彼方には Au-delà du phallus…身体の享楽 la jouissance du corps》(S.20)があるだけだから。

私はこれを次のように解釈する。すなわち、ファルスを超えた男と女とのあいだの関係は、主体と身体の享楽とのあいだの関係、あるいは、ファルス享楽と他の享楽とのあいだの関係とと同じものになる、と。

しかし、この「彼方」はそれ自体、目的地ではない。逆に、これに対する主体の最初の反応は、不安でありうる。そして、ファルス享楽は、有機体としての身体に享楽に対する防衛として理解されなければならない。事実、この享楽の形式は、象徴界を離れることを意味する。したがって、消滅、すなわち、主体の死である。《死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない》 [le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance] (Séminaire, XVII)。したがって、これは死の欲動と関連している。…(Paul Verhaeghe, Subject and Body. Lacan's Struggle with the Real. 2001,私訳)

2016年3月25日金曜日

話す存在 l'être parlant / 話す身体 corps parlant

さて、sujet du désir / sujet de la pulsion や sujet du désir /sujet du corps と記したので(参照)、行きがかり上、この対照が具体的に何を意味するのか、を示す解釈をいくらか掲げておく(やや難解かもしれないが、資料編として)。

先に要点を言ってしまえば、前者(欲望の主体)の非全体の領域内部に外立するもの ex-sistence が後者(身体の(原)主体)である、と言いうる。それはファルス享楽 la jouissance phallique の内部に外立する他の享楽 l'autre jouissance と言い換えてもよい。

※外立(ex-sistence = le réel )についてのいくらかは、「“A is A” と “A = A”」を参照。

これはラカンの「波打ち際 littorale」概念にもかかわり(参照:「波打ち際littorale」と「横棒としての象徴的ファルスΦ」)、かつまたラカンの遡及性の言及にもかかわる、《原初 primaire は最初 premierのことではない(根源的なものは、一次的なものではない》(S.20、摘要(参照))。

…………

«Le réel, dirai-je, c’est le mystère du corps parlant, c’est le mystère de l’inconscient   » (15 mai 1973 du séminaire Encore)

ーーミレール版アンコールのテキストには、この文があるが、Patrick Valas版(Staferla版)にはない。いわゆる今では悪評高いミレールの「加工」のひとつではあるだろうが、意味内容としては、間違いはないように、わたくしには見える(追記:録音テープ切れであったことが判明。複数のセミネール出席者により確証されているそうだ)。

以下、ミレール版のアンコールテキストに則って書かれた2001年のポール・ヴェルハーゲの論文から私訳メモ。

…………

◆ヴェルハーゲ、2001(Mind your Body & Lacan´s Answer to a Classical Deadlock. In: P. Verhaeghe、原文)


【話す存在 l'être parlant /話す身体 corps parlant 
…ラカンは現実界をさらにいっそう身体と関連づけていく。もっとも、この身体は、前期ラカンのように〈他者〉を通して構築された身体ではない。彼は結論づける、「現実界は…話す身体 corps parlant の謎 、無意識の謎だ」(S.20)と。

この知は、無意識によって、我々に明らかになった謎である。反対に、分析的言説が我々に教示するのは、知は分節化された何かであることだ。この分節化の手段によって、知は、性化された知に変形され、性関係の欠如の想像的代替物として機能する。

しかし、無意識はとりわけ一つの知を証明する。「話す存在 l'être parlant の知」から逃れる知である。我々が掴みえないこの知は、経験の審級に属する。それはララング Lalangue に影響されている。ララング、すなわち、母の舌語 la langue dite maternelle、それが謎の情動として顕現する。「話す存在」が分節化された知のなかで分節しうるものの彼方にある謎めいた情動として。(ララングの享楽 la jouissance de lalangue、それは身体の享楽である)。

ーー「話す存在 l'être parlant /話す身体 corps parlant」とは、「分析における転移的無意識は、既に、現実界に対する防衛」/「ララングと身体のなかの享楽との純粋遭遇」(ミレール、AMP VIII Congress, Buenos Aires 2012)の対照でもある。


【身体の享楽としてのララングから「一」のシニフィアンへ】
無意識は、母のララングからやって来るこの情動を扱う方法として、捉えうる。ララングはstocheion(原要素)、知のアルファベットの原文字を含んでいる。この原要素こそが、主体の記号へと変身させねばならぬものだ。

分析は、分析主体(被分析者)の言っていることを超えて、これらの文字を読むことを目標にしなければならない。…

これは、無性の(a 性的な[ (a)sexuée]) 痕跡とシニフィアンとのあいだの神秘的な架け橋を提供する。この記号が発足されうるのは、身体と主体との統合を請け合う主人のシニフィアン S1 の作用を通してのみである。

次の段階は、「交換価値」を伴ってやって来る。それは、主体はシニフィアンによって分割され、欲望の弁証法に入る手法によって、である。したがって、無意識は、母のララングからもたらされる情動を、「一」のシニフィアン l'Un-signifiant を適用することによって、取り扱う方法である。それは、身体からやって来るのではなく ne pas venir du corps、シニフィアン「一」からやって来る vient du signifiant l'Un 。《「一」のようなものがある Y a d'l'Un》。残されたままの問い、《Y a d'l'Un が意味するのは何か? それはどこからやって来るのか?》。ラカンはこの問いを、セミネールを通して、何度も繰り返す。しかし答えはもたらされない。事実、彼は、その仕事を通して、とくに、『アンコール』の一つ前のセミネールXIXにて、追求している。

※ stocheion(原要素)の叙述(Patrick Valas版アンコール)

《c'est l'essaim dont je parle. Le signifiant comme maître, à savoir en tant qu'il assure l'unité, l'unité de cette copulation du sujet avec le savoir, c'est cela le signifiant maître, et c'est uniquement dans lalangue, en tant qu'elle est interrogée comme langage, que se dégage - et pas ailleurs – que se dégage l'ex-sistence de ce dont ce n'est pas pour rien que le terme στοιχεῖον [stoïkeïon] : élément [élément premier→ élémentaire] soit surgi d'une linguistique primitive[cf. RSI, 18-02-1975], ce n'est pas pour rien : le signifiant 1[S1] n'est pas un signifiant quelconque, il est l'ordre signifiant en tant qu'il s'instaure de l'enveloppement par où toute la chaîne subsiste. 》

※ signifiant l'Un(signifiant 1)の叙述(同上)

《Le corps, qu'est-ce donc ? Est-ce ou n'est-ce pas le savoir de l'Un ? - Le savoir de l'Un se révèle ne pas venir du corps, - le savoir de l'Un… pour le peu que nous en puissions dire, …le savoir de l'Un vient du signifiant 1 [S1].》

この「一」のシニフィアンについては、すでにセミネール17にて、「一の徴 trait unaire」と「享楽の侵入 irruption de la jouissance」.、あるいは別にその刻印という形で現れている(セミネール9,10にさえあると言ってよいかもしれない)。

《La répétition, c'est une dénotation, dénotation précise d'un trait… que j'ai dégagé du texte de FREUD comme identique au trait unaire, au petit bâton, à l'élément de l'écriture …d'un trait en tant qu'il commémore une irruption de la jouissance. 》(S.17)

ーー参照:「三つの驚き」(ラカン、セミネールⅩⅦにおける「転回」)



【フロイトの通道 Bahnungen と経験の記載 Niederschrift 】
フロイトとのつながりは、ひどく明白であり、いくつかの観点において、理解の助けになる。『科学的心理学草稿』にて、フロイトは「通道」 (Bahnungen)の考え方を詳述している。心理学的 psychological 素材は、この「通道」Bahnungen の手法によって刻印される。交換価値は後に現れる。『草稿』にて、フロイトはこの理論を、疑似-神経学用語で、言い表している。

同じ論拠の流れが、無意識におけるフロイトの理論のまさに最初から再現されている。そこでは、精神的 psychic 素材が異なったレイヤーにおいて刻印され、それぞれのレイヤーにたいして異なった刻印がある(Niederschrift 経験の記載)という仮説が立てられている。

発達におけるどのいっそうの歩みも、先立つの素材を次のレイヤーの刻印形式に翻訳する必要がある。これ自体が、防衛の可能性を作り出す。危険な・不快な素材は、先立つレイヤーの刻印形式のなかに取り残されうる。刻印の新しい形式に翻訳されないなら、それは奇妙な仕方で、己れを強く主張する。

ーーこの叙述は、フロイトの「誤った結びつけ」falsche Verknüpfung (false connection ,Freud & Breuer: 1895)にもかかわる。

《どのフロイトのキーコンセプトにも、原初 primal の形式と二番目のヴァージョンがある。原抑圧―後期抑圧、原父―エディプスの父、原幻想―幻想。われわれの論文ので文脈では、原抑圧の考え方が最も興味深いものだ。というのは、我々はそこに、症状の欲動の根、すなわち現実界を位置づけうるから。後期抑圧の後はじめて、象徴的構成が存在するようになる。フロイトにとって、これは常に、欲動の構成物と表象とのあいだの「誤った結びつけ」(falsche Verknüpfung)である。》(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq、Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way、2002)


【二種類の無意識・二種類の知】
この理論は、抑圧概念にて、いっそうの加工 elaboration を与えられる。重要なことは、フロイトは無意識の二つの異なった形式、知の二つの異なった形式を導入していることだ。

正式の抑圧ーー文字通りには「後期抑圧」(Nachdrängung)--は、言葉の素材、不快の担い手となる言語表象をターゲットにしている。抑圧過程は、これらの言語表象を弱めるための旺盛な注ぎ込み(備給 cathexis)をする。したがって、言葉の力動的な意味において、それらを無意識にする。

この注ぎ込みは、別の言語表象に移し変えられる。そこにおいて抑圧されたものの回帰が起こる。「後期抑圧」は、「抑圧された無意識」、あるいは「力動的無意識」を形成する。

この点において、ラカンのアイデア、すなわち、《無意識は言語のように構造化されている》を認めるのはそれほど難しくはないだろう。事実、抑圧された無意識は、〈他者〉からやって来るシニフィアンを伴っている。欲望(人間の欲望は〈他者〉の欲望)を基盤とした交換(無意識は〈他者〉の言説)、その交換のあいだにやって来るシニフィアンである。

これは素材の交換価値である。シニフィアンとして、〈他者〉から来る知を含んでいる。この知は、抑圧されたものの回帰によって、十全に知られうる。主体は、これについて、「全て」を知っている。しかし、知っていることを知らないだけである。この知は性的・ファルス的知にかかわり、フロイトは、解釈はつねに同じ事に終わると不平を漏らした。


【後期抑圧の彼方にある原抑圧】
この知は、フロイトの思考においても同様に限界に到る。「後期抑圧」の彼方には、無意識の別の形式に属する「原抑圧」が潜んでいる。したがって、知の別の形式も同様にある。そのプロセスとして、原抑圧は、まず何よりも「原固着」である。ある素材がその原初の刻印のなかに取り残されている。

それは決して言語表象に翻訳されえない。この素材は「過剰度の興奮」に関わる。すなわち、欲動、Trieb または Triebhaft である。ラカンは「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」として欲動を解釈した。

これに基づいて、フロイトは、システム無意識 system Ucs(Ubw) 概念を開発した。このシステムは、「後期抑圧」の素材、力動的・抑圧された無意識のなかの素材に対して誘引力を行使する。

《…« la dérive » pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. 》(ラカン、アンコール)

ーー「フロイトの欲動 Trieb を「漂流」と翻訳する、享楽の漂流と」

※参考

《享楽 jouissance、それは欲望に応えるもの(それを満足させるもの)ではなく、欲望の不意を襲い、それを圧倒し、迷わせ、漂流させるもののことである。[ la jouissance ce n’est pas ce qui répond au désir (le satisfait), mais ce qui le surprend, l’excède, le déroute, le dérive.] 》(『彼自身によるロラン・バルト』)


【分節化された知 a / − φ 内部の非全体に外立する (a) 】
ラカン的観点からは、これは次のように記しうる。すなわち、性化され・ファルス化され、分節化された素材は、この分節化された部分内の非全体の領域によって誘引される、と。つまり、a / − φ 内部の (a) である。

力動的・抑圧された無意識とは対照的に、このシステム無意識には言語表象はない。

※参考:セミネールⅩⅩⅡより、 (a) をめぐる叙述。

《Le sujet est causé d'un objet qui n'est notable que d'une écriture(...). L'irréductible de ceci… qui n'est pas effet de langage, car l'effet du langage, c'est le παθείν [ pathein ]

…c'est la passion du corps.

Mais, du langage, est inscriptible, (…) en tant que le langage n'a pas d'effet …cette abstraction radicale qui est l'objet (…), que j'écris de la figure d'écriture (a), et dont rien n'est pensable, à ceci près que tout ce qui est sujet… sujet de pensée qu'on imagine être Être …en est déterminé. 》(S.22, 1975.1.21)


(粗訳)

《主体は対象によって引き起こされる。それは、エクリチュールによってのみ書き留められる(…)。ここにおいて還元不能なもの…それは言語の効果ではない。言語の効果、それは παθείν [ pathein ] 、身体のパッション la passion du corps である。しかし、言語を通してーー言語がどんな効果もない限りでーー、それは刻印されうる inscriptible(…)。この対象であるところの根源的な抽象作用 abstraction radicale(…)、それを私は、 (a) と書き留める。それは何も考えない。主体である全てを除いて…、人が「存在」すると想像する imagine être Être 考える主体…それは (a) によって決定付けられている。》



【フロイト・ラカンの核心となる問い
そのとき核心となる問いはこうだ。すなわち、固着されるのは欲動なのか、あるいはこの固着が欲動の表象の原形式なのか? さらなる問いは、刻印の形式などあるのか? フロイトはそれを「Kern unseres Wesen (我々の存在の核)」、「mycelium(菌糸体)」と呼んだが、また躊躇ってもいる。

実際のところ、問いが立てられなければならない。潜在夢思考は一体どこかに「現前」しているのか? 一体どこかに刻印されているのか? あるいは逆に、元々存在しないものとして考えられるべきではないのなら、夢形成は、あのような元々から欠如している精神的加工を起こすのか?

この場合、夢分析は、隠された刻印の発見にはつながらない。逆に、シニフィアン内部での、加工過程--元々そこにはない何かを生む過程--ということになる。

ここで、注意しておかねばならない。フロイトは同じ種類の議論を、トラウマを語ったときに、提示していることを。トラウマの外傷的影響は、トラウマが生じたとき、言葉で言い表せないという事実によって引き起こされる。シニフィアン内での加工(エラボレーション)が欠けているのだ。

これは、セミネールXI におけるラカンの考え方と完璧に一致する。そこでラカンは、無意識を実体的な核としてではなく、 “cause béante”(裂開的原因 として叙述している。何かが実現されることに失敗するのだ。

フロイトには、システム無意識における欲動刻印の特性についての最終的議論はない。彼にとって、それは、一般的には固着、個別的には身体のの考え方をもたらす。したがって、我々は、固着と似たような表現、構成、欲動の根、somatic compliance(訳語不詳:身体の服従? 原独語はSomatisches Entgegenkommen)を見出す。

これらの表現は、フロイトの症例研究すべてに現れる。そして常に幼児の快楽の形式にリンクされている。


【ラカンの格闘】
1964年以降、ラカンはこの問いを取り上げ、それと格闘した。Bonneval会議とRicoeurとの議論、同様に、彼の弟子であるLaplanche と Leclaire との議論。ラプランシュとルクレールは、無意識の核には表象的でシステムがある、という仮説を提議した。ルクレールにとっては音素、ラプランシュにとってはイマーゴ imagoes(シニフィアンなしの感覚映像)。

ラカンは最終的にどちらの答も拒絶し、彼自身の解決法、対象a と文字 lettre の理論を提示する。(参照:S1(主人のシニフィアン)≒trait unaire(一つの特徴) の末尾)

ラカンはセミネールXXII, R.S.I.でも、システム無意識における欲動の表象代理 Vorstellungsrepräsentanz とともに、再び文字の考え方を取り上げる。この文字は、個別な仕方にて我々に現れる。その仕方において、欲動は個別の主体にとって固着されるが、明確な仕方、「一」のファルスシニフィアンのような仕方では、シニフィエされえない。

文字として、それは知を含んでいる。しかしこの知は、〈他者〉の非全体の部分を形成している。したがって、この〈他者〉はその知について無知である。この知を想起するのは、身体の〈他者〉である。そして、享楽の経済内部で、そのたびごとに、同じ道 tracts を追跡する(フロイトの「通道 Bahnungen」)。しかし、享楽の経済は謎のままである(S.20,p.105)。

この概念化は、分析の終りをいかに捉えるかにとって重要である。一方で、システム無意識の核が表象代理的性質ならば、それは言語化され、治療のあいだに解釈される。他方、もしそうでないなら、治療の最終目標は見直されなければならない。というのは、「充溢したパロール」は構造的に不可能となるから。ラカンは、彼の最後の理論で、後者の選択肢を選んだ。そして、分析の最終の目的として、症状の現実界とに同一化を推進した。

※「表象代理 Vorstellungsrepräsentanz」(仏語 représentant-représentation,英語 ideational-representative )。表象代理とは、「主体の生活史をつうじて欲動 Triebe の固着の対象となり、また、心的現象への欲動の記載のための媒介となる表象ないしは表象群」。


【当面の結び】
他の享楽ーー〈他者〉は非全体 pas tout (非一貫性)であり、その〈他者〉のなかの部分として外立する他の享楽(一般的には、 l'autre jouissance のことで、〈他者〉の享 楽 jouissance de l'Autre ではないが、このあたりは微妙。ラカンは〈他者〉の享楽を他の享楽の意味で使っていることもある。後引用)--は、ある知を意味する。その知は、享楽の経験、身体の上に刻印を引き起こす経験を通して、身体によって獲得される。この知は、分節化された非全体の部分、シニフィアンの〈他者〉のファルス的知の非一貫性の部分にかかわる。知として、それは言語の〈他者〉に属していない。かつまた仮定された底に横たわる存在にも属していない。それはエクリチュールを通してのみ把握されうる。もっとも我々は認知しなければならない、それを形式化しようとするどんな試みも袋小路に遭遇することを。

これに関連して、無意識の二つの形式、知の二つの形式がある。「システム無意識」は、言語化されえない裂け目であり、欲動と享楽を含んでいる。したがって原因-根拠として作用する。この「システム無意識」は、「抑圧された無意識」--そこには、主体によって知られうる分節化された知があるーー、この内部に外立する。この知は、交換価値、したがって〈他者〉の言説と〈他者〉の欲望に関係がある。この分裂(分割)は、「他の享楽 l'autre jouissance」と「ファルス享楽 la jouissance phallique」とのあいだ、「他の知」と「分節化された知」のあいだに描かれる。…

ーーここにおいても、フロイト概念を想起することができる。ラカンが外立 ex-sistence(= le réel )や外密 Extimité というとき、まずはフロイトの Fremdkörper(異物、身体のなかの異物)である(もっとも、これをȺと捉えるか、S(Ⱥ)と捉えるかは、議論の分かれるところではある)。


(ヴェルハーゲ、1998)


フロイト自身の記述をまず抜き出そう。

われわれがずっと以前から信じている比喩では、症状をある異物 Fremdkörper と比較して、この異物は、それが埋没した組織の中で、たえず刺激現象や反応現象を起こしつづけていると考えた。もっとも症状が形成されると、好ましからぬ欲動衝拍Triebregung にたいする防衛の闘いは終結してしまうこともある。われわれの見るかぎりでは、それはヒステリーの転換でいちばん可能なことだが、一般には異なった経過をとる。つまり、最初の抑圧作用についで、ながながと終りのない余波がつづき、欲動衝拍Triebregungにたいする闘いは、症状にたいする闘いとなってつづくのである。(フロイト『制止、症状、不安』1926、旧訳フロイト著作集6 p327-328 からだが、一部訳語などを変更)

たとえばラカンの「サントーム」のセミネールに、”un corps qui nous est étranger”という表現があある。これは「異物としての身体Fremdkörper」のことだろう。

《l'inconscient n'a rien à faire avec le fait qu'on ignore des tas de choses quan qu'on sait est d'une toute autre nature. On sait des choses qui relèvent du signifiant. (...) Mais l'inconscient de Freud (...) c'est le rapport qu'il y a entre un corps qui nous est étranger et quelque chose qui fait cercle, voire droite infinie - qui de toutes façons sont l'un à l'autre équivalents - quelque chose qui est l'inconscient.》 (lacan Le Séminaire, livre XXIII, Le sinthome, 1976.5.11)

かつまた、ラカンがセミネールⅩⅠで、現実界を語ったとき、フロイトのトラウマに結びつけている。

《…le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma,…》(S.11)

そして言語で表象されえないもの、それが欲動 pulsion であり、現実界 le réel である。

《Toute pulsion étant… par essence de pulsion …pulsion partielle, aucune pulsion ne représente… 》(S.11)


フロイトの Fremdkörper(身体としての異物)は、初期フロイトには次ぎのように現われる。

心的外傷、ないしその想起は、Fremdkörper異物ーーそれは、体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つーーのように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』の予備報告、1893年)

このあたりのことが、ラカン派内部でさえたいして気づかれていないのも、ヴェルハーゲが次ぎのようにいう理由のひとつだろう。

私の意見では、現在、フロイトは充分に研究されていない。精神分析家集団の内部でさえもである。(Paul Verhaeghe、New Studies of Old Villains: A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex、2009、参照

ラカンの〈他者〉のなかの欠如 Ⱥ も、まずはこの観点から捉えなおす必要があるに相違ない。

そもそもブルース・フィンクは、1995年の時点ですでに、 S(Ⱥ) は S(a) と捉えられると言っている(ラカンのテキストのある文脈において)。すなわち、Ⱥ = a でもある(参照:対象aの五つの定義(Lorenzo Chiesa))。

現実界を、もし仮に遡及的でなく発達段階的に捉えるのなら、自らの欲動興奮を表象できないことに対する原トラウマであり、そのトラウマとは、乳幼児の無力感(フロイトの寄る辺なさ Hilflosigkeit)が主な要因のひとつされる(そこから、分離不安/融合不安への移行がある:参照)。

ただし、遡及的観点からみればーーたとえばポスト・エディプスの標準的な主体からの視点ならーー、ジジェクのような言い方がなされる。

現実界は、象徴秩序と現実性 reality とにあいだの外的な対立が、象徴界自体に固有なものであり、象徴界内部から象徴界が損なわれるという点にある。すなわち、現実界とは、象徴界の非全体 pas-tout なのだ。現実界があるのは、象徴界がその外部の現実界を掴みえないせいではない。そうではなく、象徴界が十全にそれ自身になりえないせいだ。存在(現実性)being (reality) があるのは、象徴システムが非一貫的で、欠陥があるせいである。というのは、現実界とは、形式化の行き詰まりだから。(Zizek,LESS THAN NOTHIG,2012,私訳)

…………

※参照

以下の文で、「我々のリアルな有機体は、最も親密な異者 our real organism as the most intimate stranger」とあるのが、フロイトのFremdkörper〔異物)であり、ラカンの Extimité (外密)であるだろう。そして、セミネール23の“un corps qui nous est étranger”という表現の言い換えでもある。

しかしそれでは、享楽はどこから来るのか? 〈他者〉から、とラカンは言う。〈他者〉は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、「〈他者〉の享楽」を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な〈他者〉である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の〈他者〉、まさに同じ表現(「〈他者〉の享楽」)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる〈他者〉the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、〈他者〉の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに汚染があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての〈他者〉を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる〈他者〉the (m)Otherとしての〈他者〉があり、シニフィアンの媒介としての享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一〈他者〉から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。これが説明するのは、なぜ母なる〈他者〉the (m)Otherが「享楽の席the seat of enjoyment」なのか、その〈他者〉に対して防衛が必要なのに、についてである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains 2009、私訳ーー「エディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論」より)



2016年3月24日木曜日

主体の解任 destitution subjective/幻想の横断 traversée du fantasme/徹底操作 durcharbeiten

ラカンのテキストの「痴呆的」解釈」にて、長くなり過ぎるので割愛したメモをここに続ける。

…quand le désir s'étant résolu qui a soutenu dans son opération le psychanalysant, il n'a plus envie à la fin d'en lever l'option, c'est-à-dire le reste qui comme déterminant sa division, le fait déchoir de son fantasme et le destitue comme sujet. (Lacan,Autres écrits,p.252)
その作用において精神分析主体を支えてきた欲望が解消されてしまうと、彼は最後にはもはや欲望の選択、すなわち欲望の残余を格上げしたいとは望まなくなる。この残余とは、彼の分割を決定づけているものであり、彼の幻想を失墜させ、主体である彼の地位を解任する。(Lacan , Proposition du 9 octobre 1967 sur le psychanalyste de l'Ecole. Autres écritsーー赤坂和哉『ラカン的臨床への助走』よりの孫引き、おそらく氏の訳)

この文において、主体の解任 destitue comme sujet と同時に、欲望  désir がーー仮に一時的なものにせよーー解消される résolu ということが示されている。

これは前回その一部を引用したが、ジジェクの次の文の内容を裏付ける。

「主体の解任」は、欲望から欲動へと領域を変える。欲望は、歴史的-ヒステリー的であり、主体化されている。常に、そして定義上、不満足なもの、換喩的 metonymical であり、ひとつの対象から別の対象へと移行する。というのは、私は実際には、私が欲するものを欲望していないからだ。

私が実際に欲望するのは、欲望自体を持続させるため、その満足のおぞましい瞬間を延期するためである。他方、欲動は、ある種の緩慢な満足を含んでいる。それは常にその道を見出す。欲動は、非-主体化的である(無頭的 acephal)。(ジジェク、From desire to drive、1996、原文)

したがって、前回掲げた人物の欲動(本能) = 主体$ = 欲望 = 存在欠如 などという解釈は、ここでもラカンのテキストに全く反する。

主体が解任され、欲望が解消されたとき現われるのは、何か。それは身体の裸の欲動 aである。

精神分析による治療は抑圧を除去し、裸の欲動の固着を露わにする。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq).2002)
ラカンは、分析は終結する、ということをはっきりと確信していた。…精神分析は結局のところ治癒不可能なものを前景化させてしまうことになる。しかしラカンは、逆説的にも、症状のこの治癒不可能な部分…を肯定し、これこそが分析の終結を可能にすると考える(松本卓也『人はみな妄想する』)

ここで、フロイト・ラカン派、の臨床家ヴェルハーゲによる「主体の解任」、「幻想の横断」のーーわたくしには正典的に思われるーー解釈を提示しておこう(Paul Verhaeghe、Causation and Destitution of a Pre-ontological Non-entity: On the Lacanian Subject 1998 原文PDF)

……この考え方(主体の解任・幻想の横断)の最初の展開は、セミネールXI に見出しうる。ラカンは、分析の終結において分析家と愚かしく同一化するのではなく、同一化の別の形式の存在を示唆している。それは、分離の過程によって、したがって対象aによって導き出されるものだ。《対象aの機能を通して、主体は彼自身から分離し、存在の迷妄に繋がることを止める。分離のエッセンスを形成するという意味で》。

《La fonction de cet objet(a), pour autant que c'est là que le sujet se sépare, qu'il n'est pas lié à cette vacillation de l'être au sens, qui fait l'essentiel de l'aliénation nous est suffisamment indiquée par suffisamment de traces.》(Lacan,S.11)


このセミネールXI にては、この考え方はさらには展開されておらず、これだけではほとんど理解し難い。

分離は、〈他者〉の介入と象徴界を通しては、起こらない。逆に、対象aと現実界を通して、起こる。事実、〈他者〉の〈他者〉は存在しない。〈他者〉は非一貫的である。

〈他者〉の非一貫性の発見は、分析の帰結であり、反映的効果 mirror effect をもたらす。〈他者〉が非一貫的なら、同じことが主体にも当てはまる。したがって、〈他者〉も主体も、そのポジションから転げ落ちる

これが、ラカンが「幻想の横断」と呼んだものである。ラカンの幻想の式 $◇a を適用すれば、この横断の意味は、主体は菱形紋◇を横切り、失われた対象a に同一化すること、すなわち主体自身の出現 advent の原因に同一化することである。

このようにして、主体は「主体の解任」に到る。すなわち、〈他者〉の不在と主体としての己れ自身の不在を想到するようになる。(Paul Verhaeghe、Causation and Destitution of a Pre-ontological Non-entity: 1998)

※なお、ジジェク=Boothbyによって、やや異なった観点からの「幻想の横断」解釈はある(参照)。とはいえ、基本は上のヴェルハーゲの説明にある。

「主体の解任 destitution subjective」とは、ラカン派精神分析の神経症治療における目標(後期ラカンのサントームの臨床は別にしてすくなくとも中期ラカンまでは)とされるもので、「幻想の横断traversée du fantasme」(フロイト用語ならば「徹底操作durcharbeiten」)と同じことを言っている。

「主体の解任」についての別の観点からのーーいささか問題含みのーーいくらかは、「エディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論」を見よ。


…………

※附記

幻想の横断、あるいは主体の解任後に同一化する「身体の裸の欲動 a」とは、ヴェルハーゲ解釈では次のことを意味する。

対象aは象徴化に抵抗する現実界の部分である。

固着は、フロイトが原症状と考えたものだが、ラカンの観点からは、一般的な特性をもつ。症状は人間を定義するものである。それ自体、取り除くことも治療することも出来ない。これがラカンの最終的な結論である。すなわち症状のない主体はない。ラカンの最後の概念化において、症状の概念は新しい意味を与えられる。それは純化された症状の問題である。すなわち、象徴的な構成物から取り去られたもの、言語によって構成された無意識の外側に外立するEx-sistenzもの、純粋な形での対象a、もしくは欲動である。(J. Lacan, 1974-75, R.S.I., in Ornicar ?, 3, 1975, pp. 106-107.)

症状の現実界、あるいは対象aは、個々の主体に於るリアルな身体の個別の享楽を明示する。「症状は、こう定義するしかない。それは、各人が無意識を享楽する様態である – 無意識がそう定めるがままに 。」“Je définis le symptôme par la façon dont chacun jouit de l'inconscient en tant que l'inconscient le détermine”」

ラカンは対象aよりも症状の概念のほうを好んだ。性関係はない Il n'y a pas de rapport sexuel という彼のテーゼに則るために。(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq, ,Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine wayーーフロイトの美しい表現:「真珠を生む砂粒」と「夢の菌糸体」.)

もっとも、これは「額面通りには」真に受けてはならない、というのがヴェルハーゲの説くところである。このラカンの考え方は、すくなくとも次ぎの文と同時に読まなければならない。

Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?” ( J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 17/18, 1979, p. 21)

《なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、全く無意味のシニフィアンを》とでも訳せる文だが、この新しいシニフィアンが後期ラカンのサントームである。

ラカンはこの自己によって創造されるフィクションを、サントームと呼んだ。…新しいシニフィアン或いはサントームの創造の文脈における創造とは、〈大他者〉の欠如の上に築き上げられるものである。すなわちcreatio ex nihilo無からの創造においてのみ。(Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002.)

あるいは《症状と同一化すること、とはいえ症状に向けて一種の距離を確実なものにしつつ、である》(Séminaire XXIV)にもかかわる(参照:ラカン派の「主体の解任destitution subjective」をめぐって)。

“En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.” J. Lacan, Le Séminaire XXIV, L'insu que sait de l'une bévue, s'aile a mourre, Ornicar ?, 12/13, 1977, pp. 6-7

この同一化しつつ、距離を取るということはどういうことか。

精神分析実践の目標は、人を症状から免がれるように手助けすることではない理由……。正しい満足を見出すために症状から免れることではない。目標は享楽の不可能の上に異なった種類の症状を設置 install することだ。(PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009)

※より詳しくは、「エディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論」、あるいは 「"Credo quia absurdum"ーー「私はそれを信じる、なぜならそれは馬鹿げているから」」を見よ。

今、ベルギーの臨床家、かつフロイト・ラカン派の代表的論者のひとりポール・ヴェルハーゲの見解を主に引用したが、フロイト大義派(ミレール派)も、このサントームの臨床の解釈については、ほぼ同様の見解である。

それは、たとえば、ミレール派のThomas Svolosによるサントーム小論(Ordinary Psychosis in the era of the sinthome and semblant)を見よ(一部、私訳が、「ラカン派の二種類のサントーム・症状」の末尾近くにある)。

ただし、精神分析過程の締め括りの節目である「主体の解任」(幻想の横断)を徹底して先にすべきか(ヴェルハーゲ)、その主体の解任概念を置き去りにして、サントームの臨床をするのか(ミレール)の相違がある。ここに、反ミレール派のミレール批判も生じる。

 ジジェクの紹介によって、名が知られるようになった Lorenzo Chiesa は臨床家ではないが、ミレールのテキストの矛盾を鋭く突いている。

ミレールについては、彼は我々に思い出させてくれる、ラカンの後期の仕事で、ラカンはしばしば、精神分析の治療の終わりは、症状と「何とかやっていく・うまく誤魔化すgetting by」、「症状のノウハウknow-how of the symptom」の用語にて理解されるべきだと言ったことを。

ミレールは、こうして次の問いに導かれてゆく、「症状のノウハウは、反復の終了をもたらすのか、それとも反復の新しい作法をもたらすのか?」(Miller, “I sei paradigmi del godimento)と。

私はここで指摘しなければならない。ミレールにとって、上記の二者択一ともに、ア・プリオリに根本的幻想を除外してしまっていると。というのは、彼は奇妙にも 「反復として考えられた」享楽と「幻想として考えられた」享楽とを対照させているからだ。さらにもっと思いがけないのは、彼は、「症状のノウハウ」と「根本的幻想の横断」とを対照させている。後者は、次のように定義される、たんなる「逸脱、分析において手掛けられる逸脱…空虚に向かう、あるいは主体の解任に向かう招き」(Miller, “I sei paradigmi del godimento)と。

私が考えるに、これらの鋭い対照化はひどく疑わしいし、十分に議論されていない。例えば、私は驚いてしまうことは、ミレールは躊躇なく、(反復される、あるいは反復されない)症状の仮説を、精神分析の終わりとして提案しているのだが、それは、症状は、主体の解任が起きなければ、定義上、イデオロギー化されたものだという事実を問題視しないままなのである。(Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa. 2007ーーエディプス理論の変種としてのラカンのサントーム論


ところで、ミレールの最晩年のラカン読解による最後に辿り着いた見解とは、一見、中井久夫の、《一般に症状とは無理にひっぺがすものではないように思う》に似ていないでもないのだ。

※より詳しくは、「象徴界のなかの再刻印・再象徴化(ジョイス=サントーム)」を見よ。

《分析は突きつめすぎるには及ばない。分析主体analysant(患者)が自分は生きていて幸福だと思えば、それで十分だ。〔Une analyse n'a pas à être poussée trop loin. Quand l'analysant pense qu'il est heureux de vivre, c'est assez.〕》(ラカン “Conférences aux USA,” Scilicet 6/7 (1976))


2016年3月23日水曜日

ラカンのテキストの「痴呆的」解釈

ラカンの「LA DIRECTION DE LA CURE」1958には、《 Le vrai de cette apparence est que le désir est la métonymie du manque à être.》という文がある。

この「欲望は存在欠如の換喩」という文を取り出して、次のように解釈する人物がいる。

「欲望は存在欠如の metonymia である」という Lacan の命題に関しては,この「存在欠如の metonymia」の「の」は同格を表しています: manque à être = métonymie(2014.9.14)
欲望が一次的である,ということをより明確に示しているのが,「欲望は,存在欠如の metonymia である」という命題です.そこにおいて,「存在欠如の metonymia」という表現のなかの「の」は,同格を表します.つまり,存在欠如はそのものとして metonymia です.(2015.5.18)

通常、所有格として使用される du を同格として扱って読みましょう、と言っているわけだ(英語のof でもそういう使い方がないわけではない)。ここから、彼は、欲望 = 存在欠如としている。

欲望の概念は,抹消された存在,すなわち存在欠如 [ manque-à-être ] へ還元されます.それは,埋め合わせ不可能な欠如です.欲望を本当に満足させることは不可能です.にもかかわらず何らかの jouissance[悦]があるとすれば,それは,まやかしであり,勘違いです.(2016.3.17)

これは通常の解釈とはまったく異なる。

まず du を同格とはけっして扱えないラカン自身の文を掲げよう。

…si le désir est la métonymie du manque â être, le Moi est la métonymie du désir. E640

「欲望は存在欠如の換喩なら、エゴは欲望の換喩である」と訳せよう。

この後半の文を上の人物のように解釈すると、エゴ=欲望となる。

すると、欲望=存在欠如=エゴとなってしまう。

セミネールⅩⅤでの「エゴは偽の存在」に代表されるように、ある時期のラカンの格闘はーーラカンをすこしでも齧ったことがある人なら周知のようにーー、エゴと主体の区別をすることだった(エゴサイコロジーに対抗して)。サイコロジーとは、ラカンにとって、エゴロジーのことである。

ところで、この人物は別にTrieb = $ = désir とも言っている。

Freud が「本能」(Trieb) と呼んでいるものは,$, すなわち,その破壊不可能性における欲望です.(2016.3.19)

この文の本能=Trieb 自体誤謬だが、ここでの話題ではない。いまはラカン自身の言葉を掲げておくだけにする。

セミネール十一巻の6、7、8、9、そして13、14章を読んで、Triebを本能と訳 さないことne pas traduire Trieb par instinctによって得られるもの、そしてこの欲動を漂流と呼びcette pulsion de l'appeler dérive、子細に検討して、フロイトに密着しながら、その奇妙さを分解したのち、組み立て直すことによって得られるものを実感しないひとがいるでしょうか。(ラカン『テレヴィジョン』向井グループ訳)

さて、ここまでの話題の人物の見解をまとめれば、欲動(本能) = 主体$ = 欲望 = 存在欠如であり、しかもこれがラカンの続いてある文から判断すれば、エゴ le Moi と等しくなってしまう。

ブルース・フィンクは、ラカンのエクリ全英訳後の問い直しエッセイ集で、「欲望は存在欠如の換喩なら、エゴは欲望の換喩である」をめぐって、次のように言っている。

欲望の重要な部分としての換喩の横滑りは、エゴと等しい。エゴが、我々の存在欠如を覆い隠すcover over ものとして構築されている限り。(Lacan to the Letter Reading Ecrits Closely Bruce Fink、2004)

欲望とは存在欠如を覆い隠すもの、と言っていると読んでいいだろう。

ジジェクなら、次のように言う。

欲望は、歴史的-ヒステリー的であり、主体化されている。常に、そして定義上、不満足なもの、換喩的 metonymical であり、ひとつの対象から別の対象へと移行する。というのは、私は実際には、私が欲するものを欲望していないからだ。私が実際に欲望するのは、欲望自体を持続させるため、その満足のおぞましい瞬間を延期するためである。(From desire to drive,1996)

この二者の解釈が正しいのは、ラカンの次の文が示す。

le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance. E825


「欲望は防衛、享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である」と通常訳されるが、この訳の是非はともかく、欲望は防衛であると言っている。欲望は存在欠如の防衛である、


……我々の存在の核に、この捻じ曲がりを生む空虚がある。その空虚は、すべて身体的な欲動にかかわる。他方で、我々は自己表象をもっている。それはラカンが「象徴秩序」と呼ぶものを基盤にしている(象徴秩序とは、すべての典型的な文化生産物から成り立っている。言語、慣習、社会構造などだ)。その「象徴秩序」を基盤とした表象は、「manque à être(存在欠如)」を決して充分には掴み取ったり覆ったりしえない。

ラカンは言う、「manque à être(存在欠如)」は実際は「want to be (ありたい)」として機能する、と(ラカンは、"manque-à-être" の英訳を "want-to-be"にするよう提案している。)

言い換えれば、内部の欠如は、主体の欲望を駆り立ててdrives、補完物を求めるよう促す。人間は、典型的には、他者のほうに向くことによって、この欠如に打ち勝とうと目指す。人は、他者に呼びかけ、それによって暗黙に想定するのだ、他者への弁証法的関係において、存在の贈物が達成されうると。「欲望は…「ありたい want-to-be」に光をもたらす。〈他者〉からの補完物を受け取るための呼びかけとともに」(Lacan, 1958)。(PROFESSIONAL BURNOUT IN THE MIRROR by Stijn Vanheule & Paul Verhaeghe,2005 PDF,私訳)

すなわち、欲動に対する防衛が欲望である。

ラカンは別に次ぎのように言っている。

La castration veut dire qu'il faut que la jouissance soit refusée, pour qu'elle puisse être atteinte sur l'échelle renversée de la Loi du désir. [Lacn,E827] 

去勢が意味するのは、享楽は拒否されなければならない、欲望の〈法〉の逆さになった梯子の上に到りうるために、と訳せるだろう。

ここでは明らかに、享楽と欲望を対照させて語っている。

そして享楽とは、ラカンがフロイトの欲動 Trieb を練り上げて作った概念である。

・« la dérive » pour traduire Trieb, la dérive de la jouissance. (S.20)

・« pulsionnelle » …ce qui en dérive (Trieb) (L'ÉTOURDIT)

・pulsion de l'appeler dérive(TELEVISION)
欲望と享楽との区別でいえば、欲望は従属したグループです。法を破る諸幻想においてさえ、欲望がある点を越えることはありません。その彼岸にあるのは享楽であり、 また享楽で満たされる欲動なのです。(ミレール”Donc”1994

ミレールは2011年の力の入った論「L'être et l'un」でもほぼ同じことを言っている。

この人物は以前にもわたくしには驚くべき誤謬にみえる主張をしていたが(参照)、いまは固有名、つまり名前さえ掲げるのに抵抗がある。

ただし、この人物は、欲望と欲動のミレール解釈などにかかわりつつ、次のようにさえ言っており、いささかほうっておくには限度を越えていないでもない。

Miller は,Lacan が言っているのとは反対のことをテクストに固定化し,さらにそれに基づいて,Lacan の教えの誤った解釈を世界的に広めてさえいます.実例は既に示しました.そのような Miller を信用するか,それとも Lacan 自身を信頼するか?答えは明白です.(2016.3.15)

ミレールにもちろん誤読はあるだろう。かつて「私のラカンはミレールのラカンです」と言ったジジェクさえも、今世紀にはいってからは強い批判をしており、なんらかの思いがけない誤謬があるには決まっている。だが、この人物の主体やら欲望やらの最も基本的概念の「痴呆的」誤読には実に呆れ返らざるをえない。

ここまで、主体 $ の誤謬には触れていないが、Trieb = $ はあきらかに間違っている。

セミネール11には、l'avènement du sujet /l'avènement du vivant が対照されている。つまり主体の出現以前に、生きた存在の出現がある。主体が発生するのは、世界S2に、原シニフィアンが介入してのちである(参照:S1(主人のシニフィアン)≒trait unaire(一つの特徴))。

なおかつ、セミネール17には、 《c'est le sujet, en tant qu'il représente ce trait spécifique, à distinguer de ce qu'il en est de l'individu vivant》 という文がある。すなわち、「主体は、特殊な徴(一の徴)の介入により、生きた個人 l'individu vivant と区別される」。この生きた個人は、主体 $ 発生以前の「原主体」と言ってよいだろう。

主体発生以前の存在とは、やや図式的すぎるきらいはあるにせよ、解釈者によって Sujet du désir / sujet de la pulsionや sujet du désir /sujet du corps と対照され、その後者、つまり「欲動の主体」、「身体の主体」である(標準的な神経症の、ポストエディプス的「欲望の主体」に対して)。

※図式的ではなく、より綿密に捉えるなら、実際には二項対立ではなく外立(ex-sistence = le réel )にかかわる(参照:話す存在 l'être parlant / 話す身体 corps parlant)。

これらはそれぞれラカンのテキストにあらわれている言葉であり、それ以外にも assujet や sujet acéphale などがある。

主体の発生とは、原抑圧が起ったあと、としても捉えられる。

たとえば、ラカンは、欲求が原抑圧を構成して後に、欲望は現われる、と言っている、 《besoins constitue une Urverdrängung …se présente chez l'homme comme le désir 》(.E.690)。これは、この時点で主体 $ が現われるという意味でもある。

原無意識はフロイトの我々の存在の中核あるいは臍であり、決して(言語で)表象されえず、固着の過程を通して隔離されたままであり、背後に居残ったままのもの a staying behind である。これがフロイトが呼ぶところの原抑圧である。このフロイトの臍が、ラカンの欲動の現実界、対象aだ。(Paul Verhaeghe, Beyond Gender. From Subject to Drive,2001,私訳)

事実、《le besoin, ce n'est pas encore le sujet》(S.5)、つまり欲求(段階)においては、いまだ主体はない、ともある。

セミネールⅩⅦの冒頭から鮮明に記されていることを要すれば、主体の発生以前に、世界には既に S2(シニフィアン装置 batterie des signifiants)が存在している。S2 に介入するものとしての S1 (主人のシニフィアン)は、しばらく後に、人と世界のゲームに参入するが、そのS1は、主体のポジションの目安となる。この S1 の導入とは、構造的作動因子 un opérateur structural としての「父の機能」 la fonction du père のことだ。S1とS2 との間の弁証法的交換において、反復が動き始めた瞬間、原主体は分割された主体 $ (le sujet comme divisé )となる。

《Miller は,Lacan が言っているのとは反対のことをテクストに固定化し,さらにそれに基づいて,Lacan の教えの誤った解釈を世界的に広めてさえいます》とあったが、彼は、あきらかにラカンの教えの誤った解釈を小粒ながら日本ツイッター界に広めようとしている、しかもそれは、今指摘したように、ラカンの最も基本的概念、主体と欲望にかかわってさえである。

ツイッターなどは、誰もまともに扱っていないのだから、ほうっておけ、という立場もあるだろうが、とはいえ、この痴呆的=妄想的誤謬ぶりには茫然自失としてしまう。

もちろん専門家でもなんでもないわたくしがこんなことを言うこと自体、厚顔無恥ではあるが、ラカンのテキストから判断するかぎり、ーーかつ、ミレール派やヴェルハーゲなどの解釈に鑑みるかぎりーーそうならざるをえない、という意味である。


※補遺:主体の解任 destitution subjective/幻想の横断 traversée du fantasme/徹底操作 durcharbeiten

2016年3月21日月曜日

大いなる原初の白蓮とクロスキャップ

体操する少女のはるかなる視点で
わたしは矮小し(吉岡実)




いやあ、まいったな、また行き当たってしまった
もうやめようと思ったのに

で、この柔道教師なにみてんだろ、
エクスタシーとしての対象aには関心がないんだろうか?
穴とスカートの縁とのあいだのこの弁証法の中心を。

「デルタの泥土のなかで
花を咲かせるという
大いなる原初の白蓮」

少女は言葉を分泌することがない


…………






クロスキャップとは、穴が一つの点ーー無視できる・目に見えない点--に還元されたメビウスの帯である。それはまた、特殊な止め金のメビウスの帯への付加である。その止め金の名は、ラカンによって「a」と名付けられる。それは、二つの相互的な bilateral 特殊性をそれ自体に備えている。すなわち、クロスキャップを構成する中心点というだけでなく、メビウスの帯の二重の締め金である。いわば、穴と縁とのあいだのこの弁証法の中心である。(Lafont,Topologie lacanienne)





ピンポン球をスカートのなかへ
少女たちは隠したままだ

「ただ この子の花弁がもうちょっと
まくれ上がっていたら いうことはないんだがね」

ーー不思議な国のアリス





スカートの内またねらふ蚊居肢哉

2016年3月20日日曜日

写真のエクスタシー

ある種の写真に私がいだく愛着について……自問したときから、私は文化的な関心の場(ストゥディウム)と、ときおりその場を横切りにやって来るあの思いがけない縞模様とを、区別することができると考え、この後者をプンクトゥムと呼んできた。さて、いまや私は、《細部》とはまた別のプンクトゥム(別の《傷痕〔ステイグマ〕》が存在することを知った。もはや形式ではなく、強度という範疇に属するこの新しいプンクトゥムとは、「時間」である。「写真」のノエマ(《それは=かつて=あった》)の悲痛な強調であり、その純粋な表象である。

※参照:ベルト付きの靴と首飾り (ロラン・バルト)





ストゥディウム(studium)、――《この語は、少なくともただちに≪勉学≫を意味するものではなく、あるものに心を傾けること、ある人に対する好み、ある種の一般的な思い入れを意味する。その思い入れには確かに熱意がこもっているが、しかし特別な激しさがあるわけではない。》

プンクトゥム(punctum)、――《ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷、小さな穴、小さな斑点、小さな裂け目のことであり――しかもまた骰子の一振りのことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然なのである。》

《ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、プンクトゥムは、愛する(to love)の次元には属する》

私が想像するには(私は写真家ではないから、私にできるのは想像してみることだけである)、「撮影者」の本質的な行為は、ある事物または人間を(部屋の小さな鍵穴から)不意にとらえることにあり、したがってその行為は、被写体が知らぬまにおこなわれるとき、はじめて完璧なものとなる。(……)写真の《衝撃》は(……)精神的外傷を与えることよりも、むしろ、非常にうまく隠されているため、当事者さえも知らないかまたは意識していない事柄を、暴露することにあるからだ。(……)

写真は、それがなぜ写されたのかわからなくなるとき、真に《驚くべきもの=不意を打つもの》となる。(参照:写真の本質の飼い馴らし、あるいは白痴が微笑む世界





社会は「写真」に分別を与え、「写真」を眺める人に向かってたえず炸裂しようとする「写真」の狂気をしずめようとする。その目的のために、社会は二つの方法を用いる。

一つは「写真」を芸術に仕立てる方法である、というのも、芸術は決して狂気ではないからえある。そこで写真家は、絵画の修辞法やその昇華された提示法を取り入れ、あくまで芸術家と張り合おうとする。実際、「写真」は芸術となることができる。だがそうなると、「写真」にはもはや狂気はいささかも含まれず、「写真」のノエマは忘れ去られ、したがって「写真」の本質が私に働きかけるということはなくなる。(……)

「写真」に分別を与えるもう一つの方法は、「写真」を一般化し、大衆化し、平凡なものにすることによって、ついには「写真」の前に他のいかなる映像も存在しなくなるようにする方法である。そうなれば、「写真」を他の映像との関連において特徴づけ、その特殊性、その異常さ、その狂気を主張することはできなくなる。(……)





狂気をとるか分別か? 「写真」はそのいずれをも選ぶことができる。「写真」のレアリズムが、美的ないし経験的な習慣(たとえば、美容院や歯医者のところで雑誌をめくること)によって弱められ、相対的なレアリズムにとどもるとき、「写真」は分別のあるものとなる。そのレアリズムが、絶対的な、もしこう言ってよければ、始原的なレアリズムとなって、愛と恐れに満ちた意識に「時間」の原義そのものをよみがえらせるのなら、「写真」は狂気となる。つまりはそこには、事物の流れを逆にする本来的な反転運動が生ずるのであって、(……)これを写真のエクスタシーと呼ぶことにしたい。

以上が「写真」の二つの道である。「写真」が写して見せるものを完璧な錯覚として文化的コードに従わせるか、あるいはそこによみがえる手に負えない現実を正視するか、それを選ぶのは自分である。(ロラン・バルト『明るい部屋』)


さて、バルトは「エクスタシー」や「プンクトゥム」という言葉で何を言おうとしているのか。

たいていの場合、プンクトゥムは《細部》である。つまり、部分的な対象である。それゆえ、プンクトゥムの実例をあげてゆくと、ある意味で私自身を引き渡すことになる。

それは、〈私〉を引き渡すものだ。




生活欲はともあれ、若い性欲が世間の活気と、もどかしく立てる唸りと、没交渉であるわけもない。だいぶ年の行ってからのこと、私と同年配の男がごく若い頃のことだがと断わった上で、今ではまともに拭きつけられれば顔をそむける車の排気のにおいも、昔はにわかに人恋しさをつのらせて、その一日の残りをやり過ごしかねたばかりに、幾度、つまらぬ間違いをおかすはめになったことか、ともらした。しばらくばつの悪そうな間を置いてから話をつないで、それよりはまたすこし前のことになるが、車が走りながら油を零していく、その油が路上に虹よりも多彩な輪をひろげて、それが玉虫色に揺れ動く、あれを見るともう、と言って笑うばかりになった。聞いて私は、においと言えば昔、二人きりになって初めて寄り添った男女は、どちらもそれぞれの家の、水まわりのにおいを、いくら清潔にしていても、髪から襟から肌にまでうっすらとまつわりつけていたもので、それが深くなった息とともにふくらむのを、お互いに感じたそのとたんに、いっそ重ね合わせてしまいたいと、羞恥の交換を求める情が一気に溢れたように、そんなふうに振り返っていたものだが、車の排気と言われてみればある時期から、街全体をひとしなみに覆うそのにおいが、家々のにおいに取って代わっていたのかもしれない、と思った。(古井由吉『蜩の声』)


ギリシア語の έκσταση とは、Ekstase (エクスタシー・脱自)と訳されている。

それは、ハイデガーにより、Existenz(外立)とされ、ラカンによってさらに、ex-sistence(現実界 le réel )とされた。

バルトの写真のエクスタシーの「エクスタシー」は、おそらく、ただ単に官能的、絶頂という意味ではなく、この文脈のなかで捉えうる。

ラカンの変奏としては、Extimité(外密) があり、objet a(対象a)がある。

それは、私の中にあって最も親密 intimate なものでありながら、しかも私自身以上のものである。ハイデガーとラカンの言葉を援用していえば、私の非一貫性(非全体 pas-tout)中に、外立ex-sistする現実界le réelである。

まさに、バルトの言うとおり、《私自身を引き渡す》ものだろう。


(侯孝賢+辛樹芬)

対象 a の概念は、たぶんラカンによる精神分析理論への最もオリジナルな貢献である。小 文字の "a," "autre,"の最初の文字は、他者との本質的な関係を示すとともに、数学的な 意味での、アルジェブラの変数、あるいは「機能」を示すことが意図されている。

対象 a のコンパス内で、ラカンはよく知られている精神分析の部分対象を一つ一つ拾うの だが、フロイトの発展段階にかかわる口唇、肛門、ファルスだけでなく、彼自身によるいく つかをつけ加える。ラカンが対象 a の形象化として引き合いに出すのは、「乳首、糞便、フ ァルス(想像的対象)、小便(尿流)、音素、眼差し、声」(E, 315)である。

たぶん対象 a の最も挑発的な側面は、その閾的な特徴である。そしてそれは二つの意味 において、である。まず、対象 a は奇妙にも主体と他者のあいだに宙吊りになる。どちらにも属しているし、どちらにも属していない。同時に、〈他者〉のなかにある最も他者的なもの を示すのだが、しかしそれは主体自身に親密につながれている。

ラカンは対象 a を糸巻きにたとえた。フロイトの孫が母の出発と出現を再演したあの糸巻き (Fort- Da いないないばあ)である。内部と外部、自身と異物の矛盾において、対象 a は 「主体の小さな部分、彼をそれ自身から切り離すもの、いまだ彼のままであり、いまだ失われないままでありながら。」 (FFC, 62)ということになる。

おそらく対象 a を思い描くに最もよいものは、ラカンの造語"extimate."である。それは主体自身の、実に最も親密な intimate 部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の 外 ex に現れ、捉えがたいものだ。 (Richard Boothby, Freud as Philosopher, 2001)



われわれが、自然に、社会に、恋愛に、芸術そのものに、まったく欲得を離れた傍観者である場合も、あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。(プルースト『見出された時』井上究一郎訳)

2016年3月19日土曜日

女たちへの切なさ、遣る瀬無さ

映像の本質は、内奥をもたず、完全に外部にある、という点にある。にもかかわらず、映像は、心の奥の考えよりもなおいっそう近づきがたく、神秘的である。意味作用はもたないが、しかし可能なあらゆる意味の深みを呼び寄せる。明示されてはいないが、しかし明白であり、セイレンたちの魅力と幻滅を生むあの現前=不在の性格をもつ。(モーリス・ブランショ『来るべき書物』)

…………

いやあ、まいっちまったよ
胸キュン連続だなあ
「戦前~戦後のレトロ写真」さんのアカウントに行き当って

このオレの感じってなんなんだろう




1975年だってよ
オレが原宿うろついたのは、1976年から数年だけど
いい女たちがたくさんいたなあの頃





いいねえバーのママって
90年前後に出入りした祇園のママそっくりだ

カウンターの向こうの
上品で匂いやかな女の微笑み
低く穏やかで親密な声
肌理の細かい象牙色の肌
切なさ、遣る瀬無さ、
沈んだ翳りのなかのつややかさ……





中学のときのオレの雌鹿ちゃんと同じ種族だなあ、これが1930年だって?
名前まで思いだしちゃったよ、石川美子さーん・・・

《朝礼で整列している時に、
隣りにいるまぶしいばかりの少女に
少年が覚えるような羞恥と憧憬と、
近しさと距離との同時感覚》(中井久夫)

ってのの起源の少女は小学生時代に数人いるが
その第一後継者だった

じつにブルマー姿がよく似合う少女だった。

私の母、アンリエット・ガニョン夫人は魅力的な女性で、私は母に恋していた。
急いでつけくわえるが、私は七つのときに母を失ったのだ。(……)

ある夜、なにかの偶然で私は彼女の寝室の床の上にじかに、布団を敷いてその上に寝かされていたのだが、この雌鹿のように活発で軽快な女は自分のベッドのところへ早く行こうとして私の布団の上を跳び越えた。(スタンダール『アンリ・ブリュラールの生涯』)





これかい、決まってんだろ、オレはストッキングフェチだよ

じつににおいがしてきそうな女たちだぜ
戦後2年目なんだから、ほとんどの男はクラクラしただろうよ
「蚊居肢」ってのは、もちろんこういった女たちが起源さ

スカートの内またねらふ藪蚊哉(永井荷風)

秋の蚊に踊子の脚たくましき(吉岡実)


みんなは盗み見るんだ
たしかに母は陽を浴びつつ
大睾丸を召しかかえている
……
ぼくは家中をよたよたとぶ
大蚊[ががんぼ]をひそかに好む(吉岡実「薬玉」)







ひどくエリート学生たちって顔してんなあ、オレの学生時代そっくりだ・・・
いやオレにそっくりじゃなくて、ソックリの女がいるってことさ
ひょっとして、あなた便秘気味じゃない?
だったらもっとそっくりだ


いやあ、実にオレは女たちへの愛とともに生きてきたんだ、いまさらながら



2016年3月16日水曜日

死んだ子どもをクローンにすることの不気味さ

標準的な哲学の観察において、我々は現象を知ることと、現象を認める・受け入れる・存在するものとして取り扱うとのあいだの区別をすべきだというものがある。ーー我々は「本当には知らない」、我々の周りの他の人々たちが、心を持っているのか、たんにやみくもに行動するようプログラムされたロボットなのかを、と。

しかしながら、この観察は核心を外している。すなわち、もし、私が対話者の心を「ほんとうに知っている」なら、間主体性そのものが消滅する。相手は主体的地位を失い、代わりに、私にとって、透明な機械となる。

言い換えれば、他者に知られていないということは、主体性ーー我々が「心」を相手に帰したときに意味することーーの決定的特質である。すなわち、あなたが「ほんとうに心を持っている」のは、それが、私はにとって不透明な限りである。

とはいえたぶん、我々は古き良きヘーゲル-マルクスの話ーー私の最も内密な主体的経験の徹底した間主体的な特徴の話題ーーを復活させるべきだ。

ゾンビ仮説が間違っているのは、他の人々すべてが、ゾンビであるならば(より正確に言えば、彼らをゾンビとして感知するなら)、私は自分自身を十全な現象学的意識を持っていると感知しえないことだ。
…クローンの不気味さ…よく知られた事例を取り上げよう。愛する唯一の子どもが死んで、両親は彼をクローンすることに決めた。そして彼を取り戻す。結果はゾッとするものであるのは明らかではないだろうか?

新しい子どもは、死んだ子どもの全ての属性を持っている。しかし、この同一性自体が、差異をいっそう明白にするーーまったく同じに見えるにもかかわらず、彼は同じでない。だから、彼は残酷なジョーク、恐るべき詐欺師だーー。失われた息子ではない。そうではなく、冒瀆的なコピーなのだ。彼の現前は、私にマルクス兄弟の古いジョークを想起させないではいられない。《あなたのすべては、私にあなたを思い出させる--、あなたの目、あなたの耳、あなたの口、あなたの唇、あなたの手と足……すべてだ、あなた自身以外の!》(ジジェク、パララックス・ヴュー、2006、私訳)


ところで、手に入れらねなかった、ひどく惚れた女をクローンできるとしよう。そのときも冒瀆的なコピーの印象を生むのだろうか、《あなたのすべては、私にあなたを思い出させる--、あなたの目、あなたの耳、あなたの口、あなたの唇、あなたの手と足……すべてだ、あなた自身以外の!》と(これはマルクス兄弟によるほとんどラカンの対象aの定義だ)。

しばらく考えてみたが、手に入れられるという思い自体が、わたくしの惚れ度のひどい凋落を生み、想到できない。

どんなに惚れた女も
手に入ると
手に入ったというそのことで
ほんの少しうんざりするな


さて、〈あなたがた〉はどうだろうか。

得ようとして、得た後の女ほど情無いものはない。(永井荷風『歓楽』)

スワンのオデットへの愛、主人公のアルベルチーヌへの愛、反復される山間の農家の牛乳売りの娘への夢想…。プルーストが繰り返し書いたのは、「愛する理由は、愛の対象となっているひとの中には決して存在しないこと」だった。

若い娘たちの若い人妻たちの、みんなそれぞれにちがった顔、それらがわれわれにますます魅力を増し、もう一度めぐりあいたいという狂おしい欲望をつのらせるのは、それらが最後のどたん場でするりと身をかわしたからでしかない、といった場合が、われわれの回想のなかに、さらにはわれわれの忘却のなかに、いかに多いことだろう。(プルースト『ゲルマントのほう 二』)