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2020年12月20日日曜日

現在に至っても続く「思想界の最悪の不幸」

超自我概念が現在に至るまでほとんど把握されていないのは、フロイト自身の曖昧さにあることは否めない。超自我概念を初めて提示したフロイトはこう言っている。

自我内部の分化は、自我理想あるいは超自我と呼ばれうる。eine Differenzierung innerhalb des Ichs, die Ich-Ideal oder Über-Ich zu nennen ist(フロイト『自我とエス』第3章、1923年)


ーーこれを素直に=ナイーヴに読めば、人は自我理想=超自我と扱ってしまう。代表的にはドゥルーズが端的にそうであり(参照)、日本では柄谷行人(参照)、さらに中井久夫でさえ自我理想と超自我の区別が出来ていないように見える。そして2020年になっても、たとえば東浩紀は超自我について何もわかっていない(参照)。


だがこの区別はフロイトを読み込めば、厳然とある(参照)。


そしてラカンは最初期から超自我の起源は母にあることを示し、超自我と自我理想の二つを厳密に区別した。そしてフロイトラカン的には超自我とはけっして取り消せない母による身体の上への刻印自体に関わり(参照)、超自我がないということは人間ではないということを意味する。


フロイトは人間どころか高等動物でも超自我はあると言っているし、これは現代ラカン派観点からも全き真理である。


心的装置の一般的図式は、心理学的に人間と同様の高等動物にもまた適用されうる。超自我は、人間のように幼児の依存の長引いた期間を持てばどこにでも想定されうる。そこでは自我とエスの分離が避けがたく仮定される。Dies allgemeine Schema eines psychischen Apparates wird man auch für die höheren, dem Menschen seelisch ähnlichen Tiere gelten lassen. Ein Überich ist überall dort anzunehmen, wo es wie beim Menschen eine längere Zeit kindlicher Abhängigkeit gegeben hat. Eine Scheidung von Ich und Es ist unvermeidlich anzunehmen. (フロイト『精神分析概説』第1章、1939年)




ここでは晩年のラカンの発言をひとつだけ、そしてジャック=アラン・ミレールの注釈を掲げる。


自我理想は象徴界で終わる。言い換えれば、何も言わない。何かを言うことを促す力、言い換えれば、教えを促す魔性の力 …それは超自我だ。


l'Idéal du Moi, en somme, ça serait d'en finir avec le Symbolique, autrement dit de ne rien dire. Quelle est cette force démoniaque qui pousse à dire quelque chose, autrement dit à enseigner, c'est ce sur quoi  j'en arrive à me dire que c'est ça, le Surmoi.  (ラカン、S24, 08 Février 1977)

我々は I(A)とS(Ⱥ)という二つのマテームを区別する必要がある。ラカンはフロイトの『集団心理学と自我の分析』への言及において、象徴的同一化[identification symbolique] におけるI(A)、つまり自我理想[idéal du moi]は主体と大他者との関係において本質的に平和をもたらす機能[ fonction essentiellement pacifiante]があるとした。他方、S(Ⱥ)はひどく不安をもたらす機能 [fonction beaucoup plus inquiétante]、全く平和的でない機能[pas du tout pacifique ]がある。そしてこのS(Ⱥ)に、フロイトの超自我の翻訳 [transcription du surmoi freudien]を見い出しうる。(J.-A.MILLER, L'Autre qui n'existe pas et ses Comités d'éthique - 27/11/96)



この区分は決定的である。この区分がなされないまま、ドゥルーズ&ガタリは『アンチオイディプス』にて 、超自我=自我理想の彼岸には自由があるなどという、20世紀後半の思想において大きな影響を与えたという意味で「最悪の誤謬」を世界に流通させてしまった。フェミニズム運動も同じ道を歩んだ。


さて話を戻そう。


フロイトの自我理想(エディプスの父)はラカンの父の名である。


父の名のなかに、我々は象徴的機能の支えを認めねばならない。歴史の夜明け以来、父という人物と法の形象とを等価としてきたのだから。C’est dans le nom du père qu’il nous faut reconnaître le support de la fonction symbolique qui, depuis l’orée des temps historiques, identifie sa personne à la figure de la loi. (ラカン、ローマ講演、1953)

父の名は象徴界にあり、現実界にはない。le Nom du père est dans le symbolique, il n'est pas dans le réel( J.-A. MILLER, - Pièces détachées - 23/03/2005)




超自我とはダイレクトにエスではないがエスの代理人である。


超自我は絶えまなくエスと密接な関係をもち、自我に対してエスの代表としてふるまう。超自我はエスのなかに深く入り込み、そのため自我にくらべて意識から遠く離れている。das Über-Ich dem Es dauernd nahe und kann dem Ich gegenüber dessen Vertretung führen. Es taucht tief ins Es ein, ist dafür entfernter vom Bewußtsein als das Ich.(フロイト『自我とエス』第5章、1923年)



そして「父の名」とはその言葉から受ける印象とは異なり、実際は言語に過ぎない(参照)。


言語、法、ファルスとの間には密接な結びつきがある。父の名の法は、基本的に言語の法以外の何ものでもない。法とは何か? 法は言語である。Il y a donc ici un nœud très étroit entre le langage, la Loi et le phallus. La Loi du Nom-du-Père, c'est au fond rien de plus que la Loi du langage ; […] qu'est-ce que la Loi ? - la Loi, c'est le langage.  (J.-A. MILLER, - L’Être et l’Un,  2/3/2011)


別の言い方をすれば、父の名は一神教的父に過ぎない。


一神教とは神の教えが一つというだけではない。言語による経典が絶対の世界である。そこが多神教やアニミズムと違う。(中井久夫『私の日本語雑記』2010年)



ーーロラン・バルトの『記号の国』を受けたラカンの日本論においては、一神教ではない日本においてかつては礼儀が父の名の代わりとして機能していたとの指摘がある(参照)おそらくここでコジューヴがその日本論で言ったスノビズムを想起してもよいだろう。




この言語により底部にある身体的なもの(欲動の身体・エスの身体)を飼い馴らす機能、それがエディプスの父=父の名=自我理想である。そして欲動の身体とは、ラカンの享楽自体である、ーー《ラカンは、享楽によって身体を定義するようになる Lacan en viendra à définir le corps par la jouissance。》(J.-A. MILLER, L'Être et l 'Un, 25/05/2011)


底部にある身体的な享楽を飼い馴らしていたエディプス的父の機能が弱まればーーこれは1968年の学園紛争、そして1989年のマルクスの死以降、ことさら顕著になっているーー、享楽がナマに近い形で露出する傾向がある。



エディプスの斜陽において…超自我は言う、「享楽せよ!」と。au déclin de l'Œdipe …ce que dit le surmoi, c'est : « Jouis ! » (ラカン, S18, 16 Juin 1971)


享楽とは繰り返せば「身体の欲動」であり、政治経済的には柄谷=マルクスがいう「資本の欲動」である。これが露顕しているのが「父なき時代」の現在である。


もっともかつてのエディプス的父が必ずしもいいわけではない。たとえばフロイトの時代におけるヴィクトリア朝の超統制的モラルは、厳格な支配の論理に至る。


したがってラカンはこう言っている。


人は父の名を迂回したほうがいい。父の名を使用するという条件のもとで。le Nom-du-Père on peut aussi bien s'en passer, on peut aussi bien s'en passer à condition de s'en servir.(ラカン, S23, 13 Avril 1976)


この意味は、かつての支配の論理の父の名は御免被るが、原超自我を飼い馴らすための言わば「父の原理」は欠かせないということである。これは、政治経済的視点からいえば、柄谷の「帝国の原理」に相当する。


帝国の原理がむしろ重要なのです。多民族をどのように統合してきたかという経験がもっとも重要であり、それなしに宗教や思想を考えることはできない。(柄谷行人ー丸川哲史 対談『帝国・儒教・東アジア』2014年)

近代の国民国家と資本主義を超える原理は、何らかのかたちで帝国を回復することになる。(……)

帝国を回復するためには、帝国を否定しなければならない。帝国を否定し且つそれを回復すること、つまり帝国を揚棄することが必要(……)。それまで前近代的として否定されてきたものを高次元で回復することによって、西洋先進国文明の限界を乗り越えるというものである。(柄谷行人『帝国の構造』2014年)

ーー言うはやさしで、実際はとても困難な模索の道だが、この論理を忘れてはならないのは確かである。



ところで言語による統制に過ぎないエディプス的父自体がなぜ専制的な様相を持つのか。


私の知る限りで、現代ラカン派においては基本的に次のように捉えるのがほぼコンセンサスになっているように見える。


エディプスの純粋な論理は次のものである。すなわち超自我は気まぐれの母の欲望に起源がある 。それは父の名の平和をもたらす効果とは反対である。だがラカンの「カントとサド」を解釈するなら、我々が分かることは、父の名は超自我の仮面に過ぎないことである。その普遍的特性は享楽の意志への奉仕である。


C'est pure logique de l'Œdipe : au désir capricieux de la mère d'où s'originerait le surmoi, opposer la loi qui vaut pour tous, l'effet pacifiant du Nom-du-Père. Mais chez nous, on interprète Kant par Sade, et on sait que le Nom-du-Père n'est qu'un masque du surmoi, que l'universel est au service de la volonté de jouissance. (J.-A. Miller, Théorie de Turin, 2000)


想定されたフロイトの法[la loi ou la supposée loi freudienne]、エディプス [Œdipe]がある。最初のラカンはそれを法へと作り上げた。すなわち、父の名は母の欲望の上に課されなければならない[le Nom-du-Père doit s'imposer au Désir de la Mère,]。その条件のみにおいて、身体の享楽は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経験に従いうる[la jouissance du corps se stabilise et que le sujet accède à une expérience de la réalité qui lui sera commune avec d'autres sujets.  ]と。(J.-A, Miller, L'Autre sans Autre (大他者なき大他者), 2013)


ーーだが身体の享楽は十分には飼い馴らされない(ファルスの意味作用と残滓」)。


エディプス的父の名が享楽の意志を持ってしまう最も基本的なメカニズムは、底部の超自我を十分には飼い馴らせず必ず享楽の残滓があるからである。