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2020年12月29日火曜日

愛の迷宮文献X

 


私たちは愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。On aime celui ou celle qui recèle la réponse, ou une réponse, à notre question : « Qui suis-je ? » 〔・・・〕

愛するためには、あなたは自らの欠如を認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。すなわちあなたは彼もしくは彼女がいなくて寂しいということである。Pour aimer, il faut avouer son manque, et reconnaître que l'on a besoin de l'autre, qu'il vous manque. qu'il vous manque.

自らを完全だと思う者、あるいはそう欲する者は、愛することを知らない。時に彼らは痛みをもってこれを確かめる。彼らは巧みに操る、愛の糸を引く。しかし彼らは愛のリスクも愛の喜びも知らない。Ceux qui croient être complets tout seuls, ou veulent l'être, ne savent pas aimer. Et parfois, ils le constatent douloureusement. Ils manipulent, tirent des ficelles, mais ne connaissent de l'amour ni le risque, ni les délices. 


ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかに置く 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼岸にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢」を引き受けねばならない。« Aimer, disait Lacan, c'est donner ce qu'on n'a pas. » Ce qui veut dire : aimer, c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre. Ce n'est pas donner ce que l'on possède, des biens, des cadeaux, c'est donner quelque chose que l'on ne possède pas, qui va au-delà de soi-même. Pour ça, il faut assumer son manque, sa « castration », comme disait Freud. 


そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジションからのみ真に愛する。愛することは女性化することである。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽である。もし彼が自らの滑稽さになすがままになったら、実際のところ、自らの男性性についてまったく確かでなくなる。Et cela, c'est essentiellement féminin. On n'aime vraiment qu'à partir d'une position féminine. Aimer féminise. C'est pourquoi l'amour est toujours un peu comique chez un homme. Mais s'il se laisse intimider par le ridicule, c'est qu'en réalité, il n'est pas très assuré de sa virilité. (J.-A. Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010)



➡︎「四種類の去勢



フロイトが Liebesbedingung と呼んだもの、つまり愛の条件、ラカンの欲望の原因がある。これは固有の徴ーーあるいは諸徴の組み合わせーーであり、愛の選択において決定的な機能をもっている。Il y a ce que Freud a appelé Liebesbedingung, la condition d’amour, la cause du désir. C’est un trait particulier – ou un ensemble de traits – qui a chez quelqu’un une fonction déterminante dans le choix amoureux.  (J.-A. Miller, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " 2010)




忘れないようにしよう、フロイトが明示した愛の条件のすべてを、愛の決定性のすべてを。N'oublions pas … FREUD articulables…toutes les Liebesbedingungen, toutes les déterminations de l'amour  (Lacan, S9, 21  Mars 1962)


フロイトが『ナルシシズム入門』で語ったこと、それは、我々は己自身が貯えとしているリビドーと呼ばれる湿った物質でもって他者を愛しているということである。〔・・・〕つまり目の前の対象を囲んで、浸し、濡らすのである。愛を湿ったものに結びつけるのは私ではなく、去年注釈を加えた『饗宴』の中にあることである。Il s'agissait de ce dont nous parle FREUD, à ce niveau de l'Introduction au narcissisme, à savoir : que nous aimons l'autre de la même substance humide qui est celle dont nous sommes le réservoir, qui s'appelle  la libido […] c'est-à-dire environnant, noyant, mouillant l'objet d'en face. La référence de l'amour à l'humide n'est pas de moi, elle est dans Le Banquet que nous avons commenté l'an dernier.  

愛の形而上学の倫理……「愛の条件 Liebesbedingung」の本源的要素……私が愛するもの……愛の彼岸にある残滓としての何ものか、ここで愛と呼ばれるものは、ある意味で、《私は自分の身体しか愛さない Je n'aime que mon corps》ということである。たとえ私はこの愛を他者の身体に転移させるときにでもやはりそうなのである。Moralité de cette métaphysique de l'amour… l'élément fondamental de la Liebesbedingung, de la condition de l'amour … ce qui s'appelle aimer,[…] ce qu'il y a comme reste au-delà de l'amour, donc ce qui s'appelle aimer d'une certaine façon …je n'aime que mon corps, même quand cet amour,  je le transfère sur le corps de l'autre. (ラカン, S9, 21 Février 1962)


➡︎身体の享楽=享楽自体


愛は常に反復である。これは直接的に固着概念を指し示す。固着は欲動と症状にまといついている。愛の条件の固着があるのである。L'amour est donc toujours répétition, […]Ceci renvoie directement au concept de fixation, qui est attaché à la pulsion et au symptôme. Ce serait la fixation des conditions de l'amour. (David Halfon, Les labyrinthes de l'amour ーー『AMOUR, DESIR et JOUISSANCE』論集所収, Novembre 2015)


➡︎「固着のない主体はない



愛することは欲望することである、対象がファルスの価値をもつ限りで。すなわち欲望の核は欠如のシニフィアンである。


- Aimer, c'est désirer, en tant que l'objet a la valeur du phallus - soit le signifiant du manque au cœur du désir. 


愛することは愛されたいことである。探し求められるのは「あなたが私を愛するために私はあなたを愛する」というナルシシズム的愛ではそれほどない。そうではなく、私はあなたの中の欠如に出会うということである。その欠如の場に、私の存在の愛を置くことである。


- Aimer, c'est vouloir être aimé. Ce qui est recherché n'est pas tant l'amour narcissique qui serait : je t'aime pour que tu m'aimes, mais : je rencontre en toi le manque où loger mon amour d'être. 


愛の対象はまた対象aを含んでいなければならない。というのは、愛することは享楽の意志だから。

- L'objet de l'amour doit aussi inclure l'objet α, puisqu'aimer c'est vouloir jouir de. (David Halfon, Les labyrinthes de l'amour ーーAMOUR, DESIR et JOUISSANCE, Novembre 2015)



……………………



人は愛するとき、迷宮を彷徨う。愛は迷宮的である。愛の道のなかで、人は途方に暮れる。〔・・・〕愛には、偶然性の要素がある。愛は、偶然の出会いに依存する。愛には、アリストテレス用語を使うなら、テュケー tuché、《偶然の出会い[rencontre au hasard]》がある。


しかし精神分析は、愛において偶然性とは対立する必然的要素を認めている。すなわち「愛の自動機械(愛のオートマトン [l' automaton de l'amour])である。愛にかんする精神分析の偉大な発見は、この審級にある。…フロイトはそれを《愛の条件 Liebesbedingung》と呼んだ。〔・・・〕


偶然の出会いは、主体が恋に陥る必然の条件を現実化する[La rencontre contingente réalise ici les conditions nécessaires à l'énamoration du sujet.]。


私はあなた方に愛の自動機械の一般的定式を三段論法の形で提案しよう。精神分析における愛の三段論法である[Je vous proposerai une formule générale de l'automaton amoureux sous la forme d'un syllogisme. Ce sera le syllogisme de l'amour dans la psychanalyse.]

われわれはフロイトの仮説から始める。


①主体にとっての根源的な愛の対象がある[ pour un sujet il y a un objet aimable fondamental,]

②愛は転移である[l'amour est transfert]

③後のいずれの愛も根源的対象の置換である[tout objet d'amour ultérieur ne sera qu'un déplacement de cet objet fondamental. ]


我々は根源的愛の対象を[a]と書く。その愛の対象の質は、属性[A]によって示される。[Aa]の意味は、対象aは愛すべき属性を持っているということである。主体が[a] に似た対象xに出会った時、すなわち[x ≡ a]の時、対象xは愛すべき[Ax]とみなされる。[Ecrivons a l'objet aimable fondamental. Sa qualité d'être aimable est désignée par le prédicat A. Aa veut dire que cet objet a a la propriété d'être aimable. Si le sujet rencontre un objet x, qui ressemble à a, soit (x ≡ a), alors l'objet x est considéré comme aimable, Ax.]


精神分析作業は何に関わるのか? 対象a と対象x とのあいだの類似性、あるいは類似性の顕著な徴に関わる。これは、男は彼の母と似た顔の女に惚れ込むという考え方だけには止まらない。


しかし最初のレベルにおいては、類似性のイマジネールな徴が強調される。この感覚的徴は、一般的な類似性から極度に局限化された徴へ、客観的な徴から主体自身のみに可視的な徴へと移行しうる。


そして象徴秩序に属する別の種類の類似性の徴がある。それは言語に直接的に基礎を置いている。例えば、「名」の対象選択を立証づける精神分析的な固有名の全審級がある。さらに複雑な秩序、フロイトが『フェティシズム』論文で取り上げた「鼻のつや Glanz auf der Nase」--独語と英語とのあいだ、glanz とglanceとのあいだの翻訳の錯誤において徴示的戯れが動きだし、愛の対象の徴が見出されるなどという、些か滑稽な事態がある。


類似性の三番目の相は、ひょっとして、より抽象的かもしれないが、愛の対象と何か他のものとの関係に関わる。すなわち主体は、対象x ーー彼が根源的対象ともった同じ関係の状況のもとの対象xに恋に陥ることがありうる。あるいはさらに別の可能性、対象x が彼自身と同じ関係にある状況。


フロイトは見出したのである、「a」は自分自身であるか、あるいは家族の集合に属することを。家族とは、父・母・兄弟・姉妹であり、祖先、傍系親族等々にまで拡張されうる。


例えば、主体は、彼自身に似た状況にある対象x に惚れ込む。ナルシシズム的対象選択である。あるいは母や父、あるいは家族のメンバーが主体ともったのと同じ関係にある対象x に惚れ込む。(J.-A. Miller, 「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour」1992年, 摘要訳)






愛の理論における別の題目は、愛する者と愛される者とのあいだにおいて、非対称性があることである。〔・・・〕


何よりもまず次のことを学ぼう。すなわち「愛する」とは「欠如している」という意味である。私は愛される者を(+)記号、愛する者を(-)記号にて徴す。事実上、ここで愛の理論に去勢が導入される。


精神分析学的な愛の理論は、第一に愛の自動機械であり、第二に愛における去勢を意味する。去勢は愛する者の側にあり、相補的にファルスは愛される者の側にある[la castration est du côté de l'amant, et corrélativement le phallus est du cole de l' aimé. ]。


愛する者をȺと記そう。そしてファルスの意味作用を去勢( -φ)にて記す。愛する者は去勢されている。この理由で、古来からの知恵は愛は女たちのものだとする。


どちらのパートナーも欠如していないという関係はまったく考えられない。男性の同性愛でそれは起こる。女性における同性愛は男性の同性愛とはまったく異なった形で構成されている。女性の同性愛は、愛の審級にある。男性の同性愛は欲望の審級にあり、愛からは完全に分離している[Du côté femme , elle se constitue dons le registre de l'amour ; du côté homme, dons le registre du désir, et, à l'occasion, tout à fait séparée de l'amour, ]


リーベ Liebe は、愛と欲望の両方をカバーする用語である。ではなぜここで愛と欲望を区別するのか。その理由は、次のパラドクスがあるからである。他者を愛することは、他者をファルスとして構成する。しかし他者から愛されたい望むこと、すなわち愛される者を愛する者にしたいと望むことは、他者を去勢することである[aimer l'autre, c' est le constituer comme phallus, mois vouloir être aimé par lui, c' est-à -dire vouloir que l'aimé soit aimant, c'est le châtrer. ]


ラカンは女性の愛の生を次のように分析した。女は男をファルスとして構成する一方で、密かに男を去勢していると。そして男の場合は二つの機能は分離する、あるいは分離する傾向があると考えた。すなわち愛される女と欲望される女。そして後者はファルスの意味作用を持つ。


愛する者と愛される者との関係において、本質的な問題は、愛する者は愛される者に欠如をもたらそうとすることである。これはまさにヒステリーの形式である。何がこの作用の土台となっているのか。まったくシンプルに愛の要求である。愛の要求は、その要求が愛されたいという要求である限りで、大他者に自らの欠如の露顕を促す要求である。


愛の理論における去勢の包含は、ナルシシズム的愛とアタッチメント的愛のあいだのフロイトの区別のようにさまざまな非対称的構築を生む。ナルシシズム的愛は自己愛にかかわる。アタッチメント的愛は大他者への愛である。ナルシシズム的愛は想像界の軸にあり、依存的愛は象徴界の軸にあり、この場で去勢が作用する。


ここで愛と欲動のあいだの相違が明らかになる。なぜフロイトは欲動用語を発明したのか。なぜなら愛の要求とは関係がない要求をする主体類型があるからである。沈黙しているにもかかわらず不屈の要求、大他者を標的にしない要求、大他者のなかの欠如を標的にしない要求。それは絶対的条件としての要請である。


たとえばフェティシズムの倒錯である。この倒錯において、女性が欠如しているか否か、ハイヒールを履いた女が欠如に応じるか否をを知ることは問いではない。享楽しうる対象の現前が主体の欲動要求である。倒錯者は彼の対象の沈黙を楽しむ。


愛の迷宮を為すものは、三つの水準の密接な関係である。第一に、愛することが欲望することである限り、対象はファルスの意味作用を持たなければならない。第二に、愛することが愛されたいという要求である限り、Ⱥの価値を持たなければならない。第三に、愛することが享楽する意志である限り、対象aの価値を持たなければならない。対象は、欲望・要求・欲動のなかに同時に位置づけられる。愛の生の迷宮は、この三つの水準の分節化の事実にある。時に統合され、時に分離される。ここに恒久不変性があり、あそこに儚さがある。時に純粋で、時に混淆されている。これが、愛の生において遭遇する無限の変様性をわれわれにもたらす。


Ce qui fait labyrinthe, c'est l'implication des trois niveaux. L'objet doit avoir la signification du phallus, en tant qu'aimer, c'est désirer. Il doit aussi avoir la valeur de Ⱥ en tant qu'aimer est une demande d'être aim. Et il doit aussi avoir la valeur a, en fant qu'aimer, c'est vouloir jouir de. Il faut que l'objet soit à la fois situé dans le désir, la demande, et la pulsion. Les labyrinthes de la vie amoureuse sont faits de l'articulation de ces trois niveaux, parfois réunis, parfois séparés, ici permanents, là transitoires, tantôt purs tantôt mixtes. C'est ainsi que l'on obtient la variété infinie qui se rencontre dans la vie amoureuse.(J.-A. Miller, 「愛の迷宮 Les labyrinthes de l'amour」1992年, 摘要訳)


ーーこの1992年の段階でミレールが示しているȺは、ミレールが後年示すようになった、ラカンの本来のȺ(穴)とは異なるので注意。➡︎「欠如と穴」。


さらに《男性の同性愛は欲望の審級にあり、愛からは完全に分離している》とは、違和感を抱く人もいるだろう。私も保留したい。➡︎ 「標準的女性と男性の同性愛者における「エディプス的母との同一化」」。


とはいえミレールの言いたいのは次の内容である。


問いは、男と女はいかに関係するか、いかに互いに選ぶのかである。それはフロイトにおいて周期的に問われたものだ。すなわち「対象選択 Objektwahl」。フロイトが対象 Objektと言うとき、それはけっして対象aとは翻訳しえない。フロイトが愛の対象選択について語るとき、この愛の対象は i(a)である。それは他の人間のイマージュである。


ときに我々は人間ではなく何かを選ぶ。ときに物質的対象を選ぶ。それをフェティシズムと呼ぶ・・・この場合、我々が扱うのは愛の対象ではなく、享楽の対象、欲望の原因である。それは愛の対象ではない。


愛について語ることができるためには、「a」の機能は、イマージュ・他の人間のイマージュによってヴェールされなければならない。たぶん他の性からの他の人間のイマージュによって。


この理由で、男性の同性愛の事例について議論することが可能である、男性の同性愛とは「愛」と言えるのかどうかと。他方、女性の同性愛は事態が異なる。というのは、構造的理由で、女性の同性愛は「愛」と呼ばれるに相応しいから。どんな構造的理由か? 手短かに言えば、ひとりの女は、とにかくなんらの形で、ほかの女たちにとって大他者の価値をもつ。(ジャック=アラン・ミレール Jacques-Alain Miller「新しい種類の愛 A New Kind of Love」)


➡︎享楽の対象




➡︎「ファルスの意味作用と残滓




フロイトの愛(リーベ)は、愛、欲望、享楽をひとつの語で示していることを理解しなければならない。il faut entendre le Liebe freudien, c’est-à-dire amour, désir et jouissance en un seul mot. (J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999)


破壊は、愛の別の顔である。破壊と愛は同じ原理をもつ。すなわち穴の原理である。Le terme de ravage,[…]– que c'est l'autre face de l'amour. Le ravage et l'amour ont le même principe, à savoir grand A barré, (J.-A. Miller, Un répartitoire sexuel, 1999)


欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する。il y a un réel pulsionnel […] je réduis à la fonction du trou.(Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter, Strasbourg le 26 janvier 1975)

現実界は穴=トラウマを為す。[le Réel…ça fait « troumatisme »](ラカン, S21, 19 Février 1974)

死の欲動は現実界である。死は現実界の基礎である。La pulsion de mort c'est le Réel […] c'est la mort, dont c'est  le fondement de Réel (Lacan, S23, 16 Mars 1976)

死は愛である [la mort, c'est l'amour.] (Lacan, L'Étourdit  E475, 1970)


享楽は現実界にある [la jouissance c'est du Réel]。(ラカン、S23, 10 Février 1976)

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance (ラカン、S17、26 Novembre 1969)


リビドーは、穴に関与せざるをいられない。La libido, …ne peut être que participant du trou.(Lacan, S23, 09 Décembre 1975)

リビドーは愛の欲動である。Libido ist… Liebestriebe(フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年、摘要)

究極的には死とリビドーは繋がっている。finalement la mort et la libido ont partie liée (J.-A. MILLER,   L'expérience du réel dans la cure analytique - 19/05/99)

享楽の名、それはリビドーというフロイト用語と等価である。le nom de jouissance[…] le terme freudien de libido auquel, par endroit, on peut le faire équivaloir.(J.-A. MILLER, - Orientation lacanienne III, 30/01/2008)

死は享楽の最終形態である。death is the final form of jouissance(PAUL VERHAEGHE,  Enjoyment and Impossibility, 2006)



………………



愛することと滅びることとは、永遠の昔からあい呼応している。愛への意志、それは死をも意欲することである。おまえたち臆病者に、わたしはそう告げる。Lieben und Untergehn: das reimt sich seit Ewigkeiten. Wille zur Liebe: das ist, willig auch sein zum Tode. Also rede ich zu euch Feiglingen! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』  第2部「無垢な認識」1884年)




悦の迷宮 Labyrinth der Lust




ディオニュソス)私はあなたの迷宮だ。[Dionysos: Ich bin dein Labyrinth...](ニーチェ『アリアドネの嘆き』Klage der Ariadne)1887年秋)

ああ、アリアドネ、あなた自身が迷宮だ。人はあなたから逃れえない。…[Oh Ariadne, du selbst bist das Labyrinth: man kommt nicht aus dir wieder heraus” ](ニーチェ、1887年秋遺稿)


悦が欲しないものがあろうか。悦は、すべての苦痛よりも、より渇き、より飢え、より情け深く、より恐ろしく、よりひそやかな魂をもっている。悦はみずからを欲し、みずからに咬み入る。悦のなかに環の意志が円環している。――- _was_ will nicht Lust! sie ist durstiger, herzlicher, hungriger, schrecklicher, heimlicher als alles Weh, sie will _sich_, sie beisst in _sich_, des Ringes Wille ringt in ihr, -(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌」第11節、1885年)

すべての悦は永遠を欲する、ーー深い、深い永遠を欲する!

alle Lust will Ewigkeit »will tiefe, tiefe Ewigkeit!«(ニーチェ 『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌 Das Nachtwandler-Lied」第12節、1885年)

完全になったもの、熟したものは、みなーー死を欲する![Was vollkommen ward, alles Reife - will sterben!](ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「酔歌 Das Nachtwandler-Lied」第9節)



──おお、永遠の泉よ、晴れやかな、すさまじい、正午の深淵よ。いつおまえはわたしの魂を飲んで、おまえのなかへ取りもどすのか」

- wann, Brunnen der Ewigkeit! du heiterer schauerlicher Mittags-Abgrund! wann trinkst du meine Seele in dich zurück?" 

(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第4部「正午 Mittags」)