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2024年7月29日月曜日

女性の乞ひ


「ウツセミ」は現身の意であるが、これを「空蝉」と表音的に記載した結果、理解に際してはそれが表意的のものと考へられ、従つて「空蝉の世」は、人生の義より転じて、蝉の脱殻の如き無常空虚の世の義となり、更に「空蝉の殻」のごとき語が生まれるやうになつた。(時枝誠記『国語学原論』)


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キミ、僕は何度も言ってきたつもりだがな、日本言論界の「享楽」はデタラメだよ


訳語というのはいったん訳してしまうとその漢字表象に囚われてしまうもので、フロイトの抑圧[Verdrängung]という不幸な訳語ーー参照「抑圧は誤訳」ーーがあるように、ラカンの享楽[jouissance]も不幸な訳語だ。


ラカンは、フロイトがリビドーとして示した何ものかを把握するためにフランス語の資源を使った。すなわち享楽である[Lacan a utilisé les ressources de la langue française pour attraper quelque chose de ce que Freud désignait comme la libido, à savoir la jouissance.] (J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 30/03/2011)


たとえば女性の享楽[la jouissance féminine]、身体の享楽[la jouissance du corps]は、それぞれ女性のリビドー、身体のリビドーなのであって、こうすれば無駄なーーある意味でロマンチックなーー解釈は生まれことが少なかっただろう。ほかにも日本には、現代思想に関わる売れっ子批評家が、「享楽」という語を唖然とせざるを得ない誤謬に満ちた反リビドー的な使い方をして平然としているが、あのハシタナサはどうしてアリウルンダロ?


とはいえリビドーも一般には意味不明の語であるにちがいない。

リビドーは欲動エネルギーと完全に一致する[Libido mit Triebenergie überhaupt zusammenfallen zu lassen]フロイト『文化の中の居心地の悪さ』第6章、1930年)

すべての利用しうるエロスエネルギーを、われわれはリビドーと名付ける[die gesamte verfügbare Energie des Eros, die wir von nun ab Libido heissen werden](フロイト『精神分析概説』第2章, 1939年)


これだって容易にはわからない。なんだい、リビドー=欲動=エロスって? 


もともと独語TriebはTreiben(駆り立てる)から来ている。エロスの駆り立てる力、これがリビドーである。


この愛の駆り立てる力をフロイトは性欲動と呼んだ。

哲学者プラトンの「エロス」は、その由来や作用や性愛との関係の点で精神分析でいう愛の駆り立てる力[Liebeskraft]、すなわちリビドーと完全に一致している。〔・・・〕

この愛の欲動[Liebestriebe]を精神分析では、その主要特徴からみてまたその起源からみて性欲動[Sexualtriebe]と名づける。

Der »Eros des Philosophen Plato zeigt in seiner Herkunft, Leistung und Beziehung zur Geschlechtsliebe eine vollkommene Deckung mit der Liebeskraft, der Libido der Psychoanalyse(…) 

Diese Liebestriebe werden nun in der Psychoanalyse a potiori und von ihrer Herkunft her Sexualtriebe geheißen. (フロイト『集団心理学と自我の分析』第4章、1921年)


おそらくラカンの享楽がフロイトの性欲動であることを認知している人は、一般には少ないのではないか(この性欲動自体「性器欲動」と見做す人がいるので厄介だが、《「性的」概念と「性器的」概念とのあいだに注意深い区別をする必要がある。前者はより広い概念であり、性器とは全く関係がない多くの活動を含んでいる[Es ist notwendig, zwischen den Begriffen sexuell und genital scharf zu unterscheiden. Der erstere ist der weitere Begriff und umfasst viele Tätigkeiten, die mit den Genitalien nichts zu tun haben]》(フロイト『精神分析概説』第3章、1939年))。


さらにフロイトはこの性欲動としてのリビドーについて次のように言っている。

不安とリビドーには密接な関係がある[ergab sich der Anschein einer besonders innigen Beziehung von Angst und Libido](フロイト『制止、症状、不安』第11章A 、1926年)


この不安とはトラウマかつ対象の喪失に関わる。

不安はトラウマにおける寄る辺なさへの原初の反応である[Die Angst ist die ursprüngliche Reaktion auf die Hilflosigkeit im Trauma](フロイト『制止、症状、不安』第11章B、1926年)

自我が導入する最初の不安条件は、対象の喪失と等価である[Die erste Angstbedingung, die das Ich selbst einführt, ist(…)  die der des Objektverlustes gleichgestellt wird. ](フロイト『制止、症状、不安』第11章C、1926年)


より具体的には愛の喪失に対する不安である。

寄る辺なさと他者への依存性という事実は、愛の喪失に対する不安と名づけるのが最も相応しい[Es ist in seiner Hilflosigkeit und Abhängigkeit von anderen leicht zu entdecken, kann am besten als Angst vor dem Liebesverlust bezeichnet werden](フロイト『文化の中も居心地の悪さ』第7章、1930年)


フロイトにとってリビドーなる愛の駆り立てる力は、事実上トラウマなのである。すなわち愛はトラウマの審級にある(なおラカンの《愛はナルシシズム[ l'amour c'est le narcissisme  ]》(Lacan, S15, 10  Janvier  1968)であり、ここでのリアルな愛のトラウマとは異なり、フロイトの自己愛[Selbstliebe]に相当するので注意)。


さてトラウマ的リビドー、これがラカンが穴用語を使って言っていることである。

享楽は、抹消として、穴として示される他ない[la jouissance ne s'indiquant là que pour qu'on l'ait de cette effaçon. ](Lacan, Radiophonie, AE434, 1970)

欲動の現実界がある。私はそれを穴の機能に還元する[il y a un réel pulsionnel … je réduis à la fonction du trou](Lacan, Réponse à une question de Marcel Ritter、Strasbourg le 26 janvier 1975)

リビドーは、その名が示すように、穴に関与せざるをいられない[ La libido, comme son nom l'indique, ne peut être que participant du trou] (Lacan, S23, 09 Décembre 1975)


享楽=欲動=リビドーであり、すべて穴に関わる。そして、《剰余享楽の動機がある。つまり愛は穴を穴埋めする[Il y a là le ressort du plus-de-jouir. … l'amour bouche le trou.]. (Lacan, S21, 18 Décembre 1973)ーー先に示したようにラカンの《愛はナルシシズム[ l'amour c'est le narcissisme  ]》(Lacan, S15, 10  Janvier  1968)であり、「ナルシシズムは穴を穴埋めする」のである。そして文脈上はっきりしているように剰余享楽自体穴埋めである。


では穴とは?

現実界はトラウマの穴をなす[le Réel …fait « troumatisme ».](Lacan, S21, 19 Février 1974)

穴、すなわち喪失の場処 [un trou, un lieu de perte] (Lacan, S20, 09 Janvier 1973)


すなわちトラウマ的喪失であり、これが先のフロイトのリビドーの事実上の定義「不安=トラウマ=喪失」である。


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ところで日本語でよい言葉はないかね、リビドー、つまり愛の駆り立てる力に当てはまる語が?

私は以前折口信夫の「恋ひ=乞ひ」がいいんじゃないかと考えたことがあるけれど。

こゝに予め、説かねばならぬ一つは、恋愛を意味するこひなる語である。

こひは魂乞ひの義であり、而もその乞ひ自体が、相手の合意を強ひて、その所有する魂を迎へようとするにあるらしい。玉劔を受領する時の動作に、「乞ひ度(わた)す」と謂つた用語例もある。領巾・袖をふるのも、霊ごひの為である。又、仮死者の魂を山深く覓め行くのも、こひである。魂を迎へることがこひであり、其次第に分化して、男女の間に限られたのが恋ひであると考へてゐる。うたがきの形式としての魂ごひの歌が、「恋ひ歌」であり、同時に、相聞歌である。(折口信夫「日本文学の発生」)

こふ(恋ふ)と云ふ語の第一義は、実は、しぬぶとは遠いものであつた。魂を欲すると言へば、はまりさうな内容を持つて居たらしい。魂の還るを乞ふにも、魂の我が身に来りつく事を願ふ義にも用ゐられて居る。たまふ(目上から)に対するこふ・いはふに近いこむ(籠む)などは、其原義の、生きみ魂の分裂の信仰に関係ある事を見せてゐる。(折口信夫「国文学の発生(第四稿)唱導的方面を中心として」)


どうだろう、ラカンの享楽にこの「乞ひ」を当てはめてみたら?

原主体…我々は今日、これを乞ひの主体と呼ぶ[sujet primitif…nous l'appellerons aujourd'hui  « sujet de la jouissance »](Lacan, S10, 13 Mars 1963)

疑いもなく乞ひがあるのは、痛みが現れ始める水準である[Il y a incontestablement jouissance au niveau où commence d'apparaître la douleur](Lacan, Psychanalyse et medecine, 1966)

死への道は、乞ひと呼ばれるもの以外の何ものでもない[le chemin vers la mort n’est rien d’autre que ce qu’on appelle la jouissance] (Lacan, S17, 26 Novembre 1969)

反復は乞ひの回帰に基づいている[la répétition est fondée sur un retour de la jouissance](Lacan, S17, 14 Janvier 1970)


少なくとも「享楽」よりは格段に優れた訳語だよ、リビドーの内実を巧みに示唆している。ほかにも女性の乞ひ、身体の乞ひ等々。


ジャック=アラン・ミレールの簡潔な定義なら《われわれはトラウマ化された乞ひを扱っている[ Nous avons affaire à une jouissance traumatisée]》(J.~A. Miller, L'ÉCONOMIE DE LA JOUISSANCE, 2011)。「トラウマ化された享楽」などとすると一般にはまったく意味不明だろうが、乞ひにすれば意味が鮮明に通る。


剰余享楽[Le plus-de-jouir]でもいけるね、

剰余乞ひは言説の効果の下での乞ひの断念機能である[Le plus-de-jouir est fonction de la renonciation à la jouissance sous l'effet du discours. ](Lacan, S16, 13  Novembre  1968)

剰余乞ひは乞ひに反応するのではなく乞ひの喪失に反応する[Le plus-de-jouir est ce qui répond, non pas à la jouissance, mais à la perte de jouissance] (Lacan, S16, 15  Janvier  1969)


たとえば松本卓也くんの『享楽社会倫』は本人が序章で示しているように剰余享楽社会倫なのであってーー彼がなぜ書名をそう命名しなかのかは理解に苦しむがね、あれでまた享楽という語の巷間の誤謬に輪をかけたんだからーー、あれは「乞ひ断念社会論」だよ。


《乞ひ断念としての乞ひは穴埋めだが、乞ひの喪失を厳密に穴埋めすることは決してない[la jouissance comme plus-de-jouir, c'est-à-dire comme ce qui comble, mais ne comble jamais exactement la déperdition de jouissance]》(J.-A. Miller, Les six paradigmes de la jouissance, 1999)ーーこのジャック=アラン・ミレールは厳密に犀星の《人間は死ぬまで愛情に飢ゑてある動物ではなかつたか》(室生犀星『随筆 女ひと』1955年)と等価なのであって、リビドー=享楽=乞ひを把握するには「まともな」文学をしっかり読まなくちゃダメだよ。


ほかにも例えばプルースト、ーー《ある年齢に達してからは、われわれの愛やわれわれの愛人は、われわれの苦悩から生みだされるのであり、われわれの過去と、その過去が刻印された肉体の傷とが、われわれの未来を決定づける[Or à partir d'un certain âge nos amours, nos maîtresses sont filles de notre angoisse ; notre passé, et les lésions physiques où il s'est inscrit, déterminent notre avenir. ]》(プルースト「逃げ去る女」)。これ自体、乞ひはトラウマであることを実に明瞭に示している。


さらに言えば、フロイトにとってトラウマは常に固着に関わり、ーー《トラウマ的固着[traumatischen Fixierung]》(フロイト『続精神分析入門』第29講, 1933 年)ーーフロイトが《愛の条件は、初期幼児期のリビドーの固着が原因となっている[Liebesbedingung (…) welche eine frühzeitige Fixierung der Libido verschuldet]》( フロイト『嫉妬、パラノイア、同性愛に見られる若干の神経症的機制について』1922年)というとき、先のプルーストと限りなく近似している。


ラカンの享楽ももちろん固着であるーーつまり乞ひはトラウマ的固着にあるーー、それは次の三文を併せて読むだけで判然とする。

享楽は現実界にある[la jouissance c'est du Réel] (Lacan, S23, 10 Février 1976)

現実界は、同化不能の形式、トラウマの形式にて現れる[le réel se soit présenté sous la forme de ce qu'il y a en lui d'inassimilable, sous la forme du trauma](Lacan, S11, 12 Février 1964)

固着は、言説の法に同化不能なものである[fixations …qui ont été inassimilables …à la loi du discours](Lacan, S1, 07 Juillet 1954)



さて話を戻して確認しておけばーー何度も繰り返しきたがーー、晩年のラカンの「女性の乞ひ」は、一般化されて「乞ひ」自体になったので注意されたし[参照]。


確かにラカンは第一期に、女性の乞ひ[jouissance féminine]の特性を、男性の乞ひ[jouissance masculine]との関係にて特徴づけた。ラカンがそうしたのは、セミネール18 、19、20とエトゥルデにおいてである。

だが第二期がある。そこでは女性の乞ひは、乞ひ自体の形態として一般化される [la jouissance féminine, il l'a généralisé jusqu'à en faire le régime de la jouissance comme telle]。その時までの精神分析において、乞ひ形態はつねに男性側から考えられていた。そしてラカンの最後の教えにおいて新たに切り開かれたのは、「乞ひ自体の形態の原理」として考えられた「女性の乞ひ」である [c'est la jouissance féminine conçue comme principe du régime de la jouissance comme telle]。〔・・・〕

ここでの乞ひ自体とは極めて厳密な意味がある。この乞ひ自体とは非エディプス的乞ひである。それは身体の出来事に還元される乞ひである[ici la jouissance comme telle veut dire quelque chose de tout à fait précis : la jouissance comme telle, c'est la jouissance non œdipienne,…C'est la jouissance réduite à l'événement de corps.](J.-A. MILLER, L'Être et l'Un, 2/3/2011)



ーーとはいえ、である。フロイトの「抑圧」がもはや変えようがないのと同じように、ラカンの「享楽」ももはや変えようがないだろう。これは日本の精神分析業界の大きな不幸にほかならない。