このブログを検索

ラベル 渡辺一夫 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 渡辺一夫 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2015年7月16日木曜日

年だけいった大ども

けっきょくのところ、われわれに確信を与えているものは、確かな認識であるよりもむしろはるかにより多く習慣であり先例であること、しかもそれにもかかわらず少し発見しにくい真理については、それらの発見者が一国民の全体であるよりもただ一人の人であるということのほうがはるかに真実らしく思われるのだから、そういう真理にとっては賛成者の数の多いことはなんら有効な証明ではないのだ、ということを知った。(デカルト『方法序説』野田又夫訳)
こどもはまず、自分をとりまく人たち、自分にすべての禍福をもたらしてくれる人たちを観察する。すなわち彼はまず政治的に生きるわけだ。この柔軟な精神は、まず慣習や気まぐれや情念を反映する。真実のものよりも好都合のものを、知識よりも礼節をはるかに貴しとする習慣は、それゆえわれわれだれしものうちにあってもっとも古いものである。多くの無分別、頑迷、不毛の論議といったものは、こうしたところから説明できる。われわれのまわりにも年だけいった大どもにはこと欠かない。(アラン「外的秩序と人間的秩序」「プロポ集」井沢義雄・杉本秀太郎訳)

…………

法学者であり東京大学先端科学技術研究センター教授でもある玉井克哉なる人物が昨晩(2015.07.16)次のようなツイートをしている。

@tamai1961: 本当は、大学というのは、すべてを疑う、疑った上で自分で確かめる、そういう知的態度を身に着ける場なのです。リンゴが落ちるのに月が落ちないのはなぜか。同じ法則で説明できないか。そういう発想を伸ばすところなのです。空気に乗ってアジ演説をする者に給料を払うために存在しているのではない。

それにたいして山口二郎が次ぎのように返している。

山口二郎@260yamaguchi: 知ったふうなことを言うなよ。もっとも疑うべきは、権力者のプロパガンダとデマゴギーだろう。この人は法学部でも、政治学を勉強していないのだろうから、政治の初歩がわかっていないのだろうが。権力者のウソを疑うために私は給料をもらっているのだ https://t.co/U5qvs28ZIb

玉井氏が《すべてを疑う、疑った上で自分で確かめ》て発言しているのか、山口氏のいうように《もっとも疑うべきは、権力者のプロパガンダとデマゴギー》であるのかは知るところではない。どちらのほうが《われわれのまわり》にいる《年だけいった大ども》であるのかも保留しておこう。ただしこうは引用しておこう。

根源的悪とは、最も極端な場合、規範を乱暴に破ることではなく、パトローギッシュな理由(感性的動因による配慮(罰の恐れ、ナルシシスティックな満足、仲間からの賞賛等々:引用者)から規範に服従することなのである。間違った理由から正しいことを行うこと、自分の利益になるから法に従うということは、たんに法を侵犯するよりもはるかに悪いことなのだ。(ジジェク『メランコリーと行為』)

これはラカン派(の一部)がカントの倫理から読み取った考え方である。この文だけでは解りにくいかもしれない。この文の前後は「デモの猥雑な補充物としての「享楽」」の後半に抜き取りがある。核心は《間違った理由から正しいことを行うこと》とは、法の尊厳を侮蔑すること、《法の自己破壊、法の自殺行為》ということである。

さて、ふたりのやりとりを垣間見て、原発事故一周年の間もないことの2012年3月24日 立教大学総長 吉岡知哉による「卒業生の皆さんへ(2011年度大学院学位授与式)」の言葉を思い出した。《「考える」という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為です》と。もちろんこの《反時代的・反社会的な行為》を押し潰そうとする勢力が最近いっそう顕著になってきているのを知らないわけではないが。

では、大学の存在根拠とはなにか。

一言で言えばそれは、「考えること」ではないかと思います。

大学とは考えるところである。もう少し丁寧に言うと、人間社会が大学の存在を認めてきたのは、大学が物事を徹底的に考えるところであるからだと思うのです。だからこそ、大学での学びについて、単なる知識の獲得ではなく、考え方、思考法を身につけることが大切だ、と言われ続けてきたのでしょう。

現実の社会は、歴史や伝統、あるいはそのときどきの必要や利益によって組み立てられています。日常を生きていく時に、日常世界の諸要素や社会の構造について、各自が深く考えることはありません。考えなくても十分生きていくことができるからです。あるいは、日常性というものをその根拠にまで立ち戻って考えてしまうと、日常が日常ではなくなってしまうからだ、と言ったほうがよいかもしれません。

しかし、マックス・ウェーバーが指摘したように、社会的な諸制度は次第に硬直化し自己目的化していきます。人間社会が健全に機能し存続するためには、既存の価値や疑われることのない諸前提を根本から考え直し、社会を再度価値づけし直す機会を持つ必要があります。

大学は、そのために人間社会が自らの中に埋め込んだ、自らとは異質な制度だと言うことができるのではないでしょうか。大学はあらゆる前提を疑い、知力の及ぶ限り考える、ということにおいて、人間社会からその存在を認知されてきたのです。

既存の価値や思考方法自体を疑い、それを変え、時には壊していくことが「考える」ということであるならば、考えるためには既存の価値や思考方法に拘束されていてはならない。つまり、大学が自由であり得たのは、「考える」という営みのためには自由がなければならないことをだれもが認めていたからに他ならない。大学の自由とは「考える自由」のことなのです。

言葉を換えると、大学は社会から「考える」という人間の営みを「信託」されているということになると思います。


もちろん、われわれは加藤周一や大江健三郎の師匠筋であったユマニスト渡辺一夫の言葉を引用することもできる。

秩序は守られねばならず、秩序を乱す人々に対しては、社会的な制裁を当然加えてしかるべきであろう。しかし、その制裁は、あくまでも人間的でなければならぬし、秩序の必要を納得させるような結果を持つ制裁でなければならない。

更にまた、これは忘れられ易い重大なことだと思うが、既成秩序の維持に当たる人々、現存秩序から安寧と福祉とを与えられている人々は、その秩序を乱す人々に制裁を加える権利を持つとともに、自らが恩恵を受けている秩序が果たして永劫に正しいものか、動脈硬化に陥ることはないものかどうかということを深く考え、秩序を乱す人々のなかには、既成秩序の欠陥を人一倍深く感じたり、その欠陥の犠牲になって苦しんでいる人々がいることを、十分に弁える義務を持つべきだろう。(渡辺一夫「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」)

社会秩序が動脈硬化に陥っているとき、その既存秩序を破壊しよう、あるいはその秩序の座標軸を変えようとする行為は、その秩序にとっては「悪」とならざるをえないだろう。

行為とは、不可能なことをなす身振りであるだけでなく、可能と思われるものの座標軸そのものを変えてしまう、社会的現実への介入でもあるのだ。行為は善を超えているだけではない。何が善であるのか定義し直すものでもあるのだ。(ジジェク「メランコリーと行為」『批評空間』2001 Ⅲ―1所収)

そもそも殆んどのひとは、《パトローギッシュな理由(感性的動因による配慮(罰の恐れ、ナルシシスティックな満足、仲間からの賞賛等々)から規範に服従》しているだけではないか。

《すべてを疑う、疑った上で自分で確かめる、そういう知的態度を身に着け》たつもりになっている学者たちはどうか?

学者というものは、精神上の中流階級に属している以上、真の“偉大な”問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。(ニーチェ『悦ばしき知識』)

もちろんいまさらニーチェでもあるまい。かつまた例外もあるだろう。とはいえおおむねはいまだーーいや現在ではいっそうーー次ぎの通りではないか。

文学や自然科学の学生にとってお極まりの捌け口、教職、研究、または何かはっきりしない職業などは、また別の性質のものである。これらの学科を選ぶ学生は、まだ子供っぽい世界に別れを告げていない。彼らはむしろ、そこに留まりたいと願っているのだ。教職は、大人になっても学校にいるための唯一の手段ではないか。文学や自然科学の学生は、彼らが集団の要求に対して向ける一種の拒絶によって特徴づけられる。ほとんど修道僧のような素振りで、彼らはしばらくのあいだ、あるいはもっと持続的に、学問という、移り過ぎて行く時からは独立した財産の保存と伝達に没頭するのである。( ……)彼らに向かって、君たちもまた社会に参加しているのだと言ってきかせるくらい偽りなことはない。( ……)彼らの参加とは、結局は、自分が責任を免除されたままで居続けるための特別の在り方の一つに過ぎない。この意味で、教育や研究は、何かの職業のための見習修業と混同されてはならない。隠遁であるか使命であるということは、教育や研究の栄光であり悲惨である。(レヴィ= ストロース『悲しき熱帯』 Ⅰ 川田順造訳 p77-79)

…………

The time is out of joint: O cursed spite,
That ever I was born to set it right,(Hamlet 1.5.189-190)

この世の関節がはずれてしまったのだ。なんの因果か、
それを直す役目を押しつけられるとは!(シェイクスピア 福田恆存訳)
世界はまちがいもなく脱臼してしまっている。暴力的な動きによってのみ、それをふたたびはめ込むことができる。ところが、それに役立つ道具のうちには、ひとつ、小さく、弱くて、軽やかに扱ってやらなきゃならないものがあるはずだ。(ブレヒト『真鍮買い』)

さてここでいささか過激なジジェクの言葉を抜き出しておこう。おそらく玉井サンには思いもよらぬ主張であろう。

私たちがますますもって必要としているのは、私たち自身に対するある種の暴力なの だということです。イデオロギー的で二重に拘束された窮状から脱出するためには、ある種の暴力的爆発が必要でしょう。これは破壊的なことです。たとえそれが身体的な暴力ではないとしても、それは過度の象徴的な暴力であり、私たちはそれを受け入れなければなりません。そしてこのレヴェルにおいて、現存の社会を本当に変えるためには、 このリベラルな寛容という観点からでは達成できないのではないかと思っています。おそらくそれはより強烈な経験として爆発してしまうでしょう。そして私は、これこそ、 つまり真の変革は苦痛に充ちたものなのだという自覚こそ、今日必要とされているのではないかと考えています 。(『ジジェク自身によるジジェク』)
資本主義社会では、主観的暴力((犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。(……)暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。(ジジェク『暴力』)

…………

学者のおおくは専門家なのでありーーすぐれた学者ならの話だがーー、彼らの専門性に敬意を表するのに吝かではないつもりだ。だが、

プロフェッショナルというのはある職能集団を前提としている以上、共同体的なものたらざるをえない。だから、プロの倫理感というものは相対的だし、共同体的な意志に保護されている。(…)プロフェッショナルは絶対に必要だし、 誰にでもなれるというほど簡単なものでもない。しかし、こうしたプロフェッショナルは、それが有効に機能した場合、共同体を安定させ変容の可能性を抑圧するという限界を持っている。 (蓮實重彦『闘争のエチカ』)

彼らは“Sie wissen das nicht, aber sie tun es” 、「彼らはそれを知らないが、そうする」(マルクス)のである。すなわち共同体の変容の可能性を抑圧するのだ。


2015年1月6日火曜日

君があらゆる悪をなしうることを信ずる。それゆえに君から善を期待する

まずは、プラトン『国家』(藤沢令夫訳)から引用してみよう。

アデイマントス)生まれつき不正を忌み嫌うような性質を神から授かっているか、あるいは知を得て不正から身を遠ざける人の場合は例外として、一般には、みずからすすんで正しい人間であろうとする者など一人もいないのだ、ただ勇気がなかったり、年を取っていたり、その他何らかの弱さをもっていたりするために、不正行為を非難するけれども、それは要するに、不正をはたらくだけの力が自分にないからなのだ(366D)

ニーチェは、プラトンやソクラテスの思想について、賛否混淆のニュアンス溢れることを言っているのだが、すくなくともこのアデイマントスの発言は、「ルソー派とニーチェ派」で引用した次の言葉の、あたかも起源のひとつであるかのようだ。

まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)

だがニーチェから読みとるべき肝腎な点は、 《不正をはたらくだけの力》=攻撃欲動が己れに反転して自己統禦の力となるということである。

たとえば、浅田彰はフロイトの死の欲動、あるいはニーチェの権力への意志、さらにはフーコーやドゥルーズのニーチェ解釈から、《力が自由に展開されるとき、それが自分自身に回帰して、自分自身を律するようになる》と読み取っているわけだ(同「ルソー派とニーチェ派」参照)。もちろん浅田彰はフーコーの『性の歴史』におけるギリシア文化における欲動の節制(自己陶冶)やら克己Enkrateia、節制Sophrosyneの概念などを想起しつつこのように語っているはずだ。

われわれの攻撃欲動を無力化するため、どんな方法がとられているだろうか。…われわれの攻撃欲動を取りこみ、内面化する方法である。しかし実のところこれは、攻撃欲動をその発祥地へ送り返すこと、つまり自分自身へと向けることに他ならない。(フロイト『文化への不満』フロイト著作集3 人文書院)
粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを人間自身の方へ向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、――これらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、これこそ「良心の疚しさ」の起源である。(ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳)

同じ『ツァラトゥストラ』における、《わたしは君があらゆる悪をなしうることを信ずる。それゆえにわたしは君から善を期待するのだ》とは、この解釈の光の下で読むべきだろう。

これにはかねてより数多くの変奏がある。たとえば熱心なプラトン読みであったアランは次のように言っている。

節制ということが勇気の妹ということ……この妹は勇気ほど尊敬されない。なぜか。けだし、節制はつねに拒否へとかたむくもので、それゆえこれは、充分欲しないということからも、あるいは結果をあまりおそれすぎるということからも生じうるものなのだから。だが、そうしたものはすこしも力ではない。すこしも徳ではない。吝嗇家が節制なのは、自分の生活の節約と一種の心のまずしさによってである。(アラン「四つの徳」

もっとも上の文と対照させるために、《生まれつきよく出来た人といわれている人間は、自己統御をまったく怠ると、最悪のところまで、しかもひとより早く達することが、しばしばある》(アラン)とも抜き出しておこう。すなわち「<力>への意志」の器の大きな人間は、場合によっては最悪の処へ突き進んでいく。

ここで、日本の「思想家」の言葉を拾ってもよい。

「枯淡」は衰えの美称にすぎず、「老成円熟」は積年の習慣の言い換えにすぎないだろう。(加藤周一「老年について 」1997)
停滞をとりあえず成熟と呼ぶことで、みんながおのれの貧しさを肯定しあ(う)(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

ところで、われわれは次ぎの文をどう読むべきだろうか。

いたわりつつ殺す手を見たことのない者は、人生をきびしく見た人ではない。(ニーチェ『善悪の彼岸』竹山道雄訳)

Man hat schlecht dem leben zugeschaut, wenn man nicht auch die Hand gesehn hat, die auf eine schonende Weise - tödtet.

読んでいない著者や著作の断片を無闇に貼り付けるのは、あまり好まないのだが、次のような見解をウェブ上から拾ったので、ここに示しておこう。

なぜ人を殺してはいけないのか。これまでその問いに対して出された答えはすべて嘘である。道徳哲学者や倫理学者は、こぞってまことしやかな嘘を語ってきた。ほんとうの答えは、はっきりしている。「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければやむをえない」―誰も公共の場で口にしないとはいえ、これがほんとうの答えである。だが、ある意味では、これは、誰もが知っている自明の真理にすぎないのではあるまいか。ニーチェはこの自明の真理をあえて語ったのであろうか。そうではない。彼は、それ以上のことを語ったのである。(中略)ニーチェは「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければやむをえない」と言ったのではない。彼は、「やむをえない」と言ったのではなく、究極的には「そうするべきだ」と言ったのである。(中略)反社会的な善というものがあるのだ。いや、あるどころではない。善とは、最終的・究極的には、反社会的なものである。(永井均『これがニーチェだ』)

《善とは、最終的・究極的には、反社会的なものである》とは、おそらく次ぎのようなことではないか。

行為とは、不可能なことをなす身振りであるだけでなく、可能と思われるものの座標軸そのものを変えてしまう、社会的現実への介入でもあるのだ。行為は善を超えているだけではない。何が善であるのか定義し直すものでもあるのだ。(ジジェク「メランコリーと行為」『批評空間』2001 Ⅲ―1所収

ジジェクのこの小論には次のような文もある。

根源的悪とは、最も極端な場合、規範を乱暴に破ることではなく、パトローギッシュな理由(感性的動因による配慮(罰の恐れ、ナルシシスティックな満足、仲間からの賞賛等々:引用者)から規範に服従することなのである。間違った理由から正しいことを行うこと、自分の利益になるから法に従うということは、たんに法を侵犯するよりもはるかに悪いことなのだ。(ジジェク『メランコリーと行為』)

ここで日本の代表的なユマニスト渡辺一夫の穏やかな言葉をも抜き出しておこう。

秩序は守られねばならず、秩序を乱す人々に対しては、社会的な制裁を当然加えてしかるべきであろう。しかし、その制裁は、あくまでも人間的でなければならぬし、秩序の必要を納得させるような結果を持つ制裁でなければならない。

更にまた、これは忘れられ易い重大なことだと思うが、既成秩序の維持に当たる人々、現存秩序から安寧と福祉とを与えられている人々は、その秩序を乱す人々に制裁を加える権利を持つとともに、自らが恩恵を受けている秩序が果たして永劫に正しいものか、動脈硬化に陥ることはないものかどうかということを深く考え、秩序を乱す人々のなかには、既成秩序の欠陥を人一倍深く感じたり、その欠陥の犠牲になって苦しんでいる人々がいることを、十分に弁える義務を持つべきだろう。(渡辺一夫「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」


社会秩序が動脈硬化に陥っているとき、その既存秩序を破壊しよう、あるいはその秩序の座標軸を変えようとする行為は、その秩序にとっては「悪」とならざるをえないだろう。そもそも殆んどのひとは、《パトローギッシュな理由(感性的動因による配慮(罰の恐れ、ナルシシスティックな満足、仲間からの賞賛等々)から規範に服従》しているだけではないか。

The time is out of joint: O cursed spite,
That ever I was born to set it right,(Hamlet 1.5.189-190)

この世の関節がはずれてしまったのだ。なんの因果か、
それを直す役目を押しつけられるとは!(シェイクスピア 福田恆存訳)
世界はまちがいもなく脱臼してしまっている。暴力的な動きによってのみ、それをふたたびはめ込むことができる。ところが、それに役立つ道具のうちには、ひとつ、小さく、弱くて、軽やかに扱ってやらなきゃならないものがあるはずだ。(ブレヒト『真鍮買い』)

もちろんブレヒトのように繊細な道具を使って「暴力的」な叛旗をひるがえすこともありうる。だがブレヒトのような「美的」な抵抗では効果がなかったら? いまはますますそれでは効果がない時代だろう。

私たちがますますもって必要としているのは、私たち自身に対するある種の暴力なの だということです。イデオロギー的で二重に拘束された窮状から脱出するためには、ある種の暴力的爆発が必要でしょう。これは破壊的なことです。たとえそれが身体的な暴力ではないとしても、それは過度の象徴的な暴力であり、私たちはそれを受け入れなければなりません。そしてこのレヴェルにおいて、現存の社会を本当に変えるためには、 このリベラルな寛容という観点からでは達成できないのではないかと思っています。おそらくそれはより強烈な経験として爆発してしまうでしょう。そして私は、これこそ、 つまり真の変革は苦痛に充ちたものなのだという自覚こそ、今日必要とされているのではないかと考えています 。(『ジジェク自身によるジジェク』)

ジジェクの言っていることは、ニーチェの能動的ニヒリズムの文脈で捉えうるものだ。

ニヒリズム。それは二義的だ。
A 高揚した精神力のしるしとしてのニヒリズム。すなわち能動的ニヒリズム
B 精神力の衰退と退化としてのニヒリズム、すなわち受動的ニヒリズム。(権力 22番 秋山英夫訳)
ニヒリズムは一つの正常な状態である。

それは強さのしるしでありうる。精神力が伸びきつて、これまでの目標(「信念」とか、信仰信条など)が身たけに合わなくなったという場合である。(――というのは、信仰は一般に、ある生物がそのもとで繁栄し、生長し、権力をうるような状況が示す権威に服従すること、すなわち生存の諸条件の強制をあらわすものだからだ。)

他方ニヒリズムはまた、創造的自主的に、あらためて一つの目標を、一つの「何のために」を、一つの信念を打ちたてるにたるだけの強さをもっていないしるしでもある。

能動的ニヒリズムは、破壊の暴力として、その力の最大限に達する

これに対立するのが、もはや攻撃することをしない疲れたニヒリズムであろう。その最も有名な形式は仏教であろう。受動的ニヒリズムとして、弱さのしるしとして。精神力が疲れ、消耗しきってしまった結果、在来の目標や価値が合わなくなり、それがもはや信ぜられなくなるという場合である。――価値と目標の綜合(すべて強い文化はこの綜合にもとづく)が解体して、その結果、個々の価値がたがいに戦いあう、すなわち崩壊することになるのだ。――活気づけ、治療し、安心をあたえ、麻痺させるようなすべてのものが、宗教的とか、道徳的とか、政治的とか、美的とか、その他さまざまの扮装をして、前景に出てくるのだ。(権力 23番)

いまこういったことをやろうとしているグループがようやく出てきたのではないか。すなわち社会秩序の座標軸を変えようとする動きを先導するグループが。ここではつねに、彼らが“退行的な”原始集団の避けがたい帰結、残酷で血腥い破壊的な衝動に絡めとられないかどうかを危惧を覚えつつも、わたくしは《旧「レイシストをしばき隊」<首謀者>野間易通》という男を、彼のやっている事を、あるいはやろうとしている事をーー時に彼の言葉には齟齬を感じることを否定するつもりはないがーー強く支持したい。彼が旧「しばき隊」を一年も経たないうちに解散したのは、集団に生じる退行性の臭気への極度の敏感さのためであると、わたくしは「錯覚」に閉じ篭り得ている。

野間易通@kdxn: ネット上の左派やリベラルが、消化不良のポストモダンで相対主義の泥沼にはまりこみ、「おまえも本当は差別者だ」とお互いを指差し糾弾しあっている間に、難しいこと考えなくていいネトウヨが大増殖、現在に至る。これがこの15年に起きた出来事である。

(2011.9.5 読売新聞)

ツイッター上での発言(罵倒)が過激すぎるって?

野間易通@kdxn 2015.01.06
死ねよゴミ。RT @sangituyama: で、どう関係ないの?RT@kdxn: 「どう関係ないの?」ってそんな質問があるかボケが。「こういう関係がある」と言えない時点でおまえは関係ないんだよ。こんなこといちいち説明させんなオッサン。@sangituyama”

たしかに行き過ぎもあるのかもしれない、だがこうも言っておこう。

《Ever tried. Ever failed. No matter. Try again. Fail again. Fail better.》--Samuel Beckett "Worstward Ho" (1983)

何度やってもダメだって、それがどうしたというんだい? 
もう一度やって、もう一度ダメになればいいじゃねえか。
以前よりマシだったら、それでいいさ(ベケット)


そもそも野間易通氏は次ぎのようにも言っている(@cracjpnの内部は野間氏である)。

C.R.A.C.@cracjpn 2014.12.31
社会学者やヘサヨと呼ばれる頭の悪い人文系院生たちと論争していると、「理論より行動だ」とカウンターが主張していると誤解する人が多いのですが、実際にはアカデミシャンはカウンターの人たちに「おまえの理論は間違っている」と批判されているのです。理論vs行動ではなく理論vs理論です。

ここまで言われて社会学者がダンマリを決め込んでいるのは、あまりにも情けないではないか。

野間易通@kdxn 2014.11.29
ほんと、社会学者はまじめに考えなおしたほうがいいよ。アカデミアに閉じこもって、趣味の同好会じゃないんだからさ。一応、日本の未来に責任を負ってるんじゃないですか?

もっとも、わたくしも一面的に、すなわちあまりにも野間易通サイドに寄りかかりすぎているのかもしれない。

だが加藤周一が四十年以上前、その自伝『羊の歌』で書いたような、ーー《しかじかの理くつにもとづいて、はるかに遠い国の子供たちを気にしなければならぬということではない。彼らが気になるという事実がまずあって、私はその事実から出発する》ーーこれ同じような態度を取っている、すなわち、レイシズムの餌食になっている人たちやネオナチの振舞いがどうしても気になって仕方がないという事実から出発している人間と、そうでない人間ーーたんなる研究対象としている人たちーーの相違というのは大きい。

@gonoi: あれら先生方の言動で不思議なのは、カウンターの一挙手一投足にはダメ出しをしてくるのに、なぜかレイシストには直接対決しにいかないところ。あれでは避けているという印象を与えるし、何よりも説得力がない。RT @cracjpn なめてかかってんだろうね。学会ごと派手に批判してあげます。

ーーこのように書いているわたくし自身、海外からの傍観者にすぎないということは自覚的ではある。わたくし自身、この阿呆、死ね!と言われないかどうかを怖れつつ書いている。ーーだが、言われたっていいじゃないか、《以前よりマシだったら、それでいいさ》(ベケット)

私が思うに、最も傲慢な態度とは「ぼくの言ってることは無条件じゃないよ、ただの仮説さ」などという一見多面的な穏健さの姿勢だ。まったくもっともひどい傲慢さだね。誠実かつ己れを批判に晒す唯一の方法は明確に語り君がどの立場にあるのかを「独断的にdogmatically 」主張することだよ。(「ジジェク自身によるジジェク」私訳)

次のような態度だけは取るまいとは念じている。

@kdxn: 外に出られないとして、なんでツイッターでネトウヨのデマを批判したりネトウヨに攻撃されてるマイノリティをサポートしたりせずに、カウンターの論評ばっかりえんえんとやってんだよってことだよ。RT @heboya: 誰でも彼でも、ほいほい外に出れる人間だと思うなよ!

@kdxn: ひとことでいうと、なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?ってことです。「意図」がないことが問題。本当に無神経だと思う。RT @heboya: 居丈高に要求するような意図はまったくありませんでしたが、そのように感じられたのでしたら、その点申し訳ありませんでした。(野間易通)

やはりネトウヨには、「死ね!」というべきではないか。《とるべき戦略はあのような言い方ができないようにすること》ではないか。そしてネトウヨの繁殖に貢献するような「インテリ」諸子の言説に対しても、徹底抗戦すべきではないか。

たとえば次ぎのような発言をもっともらしく言い放つインテリくんーー彼はたぶん「社会学」者予備軍のつもりなのだろうが、ある意味でマイノリティに属する人間でもあるので、ここではアカウント名を伏せておくがーーを放っておいてよいものだろうか(もちろん彼だけではない、たまたま以前にツイッター上でフォローしていた人物なのでここでその一例として掲げる)。

いじめや差別にも言えることだが――集団的暴力については、メタなスローガンや「思い込み」はどうでもいい。左派が「自分は正義だ」と思い込んだところで、彼らは実際にひどいことをやっている。それは(いわば)唯物論的に検証すべきことで、彼らの自意識はどうでもいい。
差別の再生産装置として、左翼・リベラルの言説こそが、ひどい機能を果たしている。たったこれだけのことすら、まったく論じられていません。

これは、《闘ってるやつらを皮肉な目で傍観しながら、「やれやれ」と肩をすくめてみせる、去勢されたアイロニカルな自意識ね。いまやこれがマジョリティなんだなァ。》(浅田彰『憂国呆談』)とどう異なるのだろう。そもそも《左派が「自分は正義だ」と思い込んだところで、彼らは実際にひどいことをやっている》だって? そしてこの己れの主張は絶対的に「正しい」と思い込んでいる口調がある。かつまた《(いわば)唯物論的に検証すべき》などという戯言を……。


だがこれ以上の批判は慎んでおこう。ただ野間易通の「正義」をめぐるツイートをここではひとつだけ抜き出そう。

@kdxn: 「正義感」というのは、たとえば痴漢にあってる女の人を見たら痴漢を捕まえるとか、無理なら車掌や警察に通報するとか、そういうときの感覚を言う。そう考えると、疑うべき「正義」と疑いのない「正義」があるとわかるはずなのに、「正義感は目を曇らせる」とか言ってるやつはそのへんが雑い。

人はこれに反論できるだろうか。もっとも街頭での《集団いじめへの「選択的非注意」》に浸りきっている連中までを批判するつもりはない。勇気と卑怯は紙一重なのだから。

…………

ここで避けなければならない誘惑は、「公然と自分の(人種差別的、反同性愛的)偏見を認めている敵の方が、人は実は密かに奉じていることを公には否定するという偽善的な態度よりも扱いやすい」という、かつての左翼的な考え方である。この考え方は、外見を維持することのイデオロギー的・政治的意味を、致命的に過小評価している。外見は「単なる外見」ではない。それはそこに関係する人々の、実際の社会象徴的な位置に深い影響を及ぼす。人種差別的態度が、イデオロギー的・政治的言説の主流に許容されるような姿をとったとしたら、それは全体としてのイデオロギー的指導権争いの釣り合いを根底から変動させるだろう。 (……)

 今日、新しい人種差別や女性差別が台頭する中では、とるべき戦略はそのような言い方ができないようにすることであり、それで誰もが、そういう言い方に訴える人は、自動的に自分をおとしめることになる(この宇宙で、ファシズムについて肯定的にふれる人のように)。「アウシュヴィッツで実際に何人が死んだのか」とか「奴隷制のいい面」は何かとか「労働者の集団としての権利を削減する必要性」といったことは論じるべきでないことを強調しておこう。その立場は、ここでは非常にあっけらかんと「教条的」であり「テロリズム的」である。 スラヴォイ・ジジェク『幻想の感染』松浦俊輔訳 p.49-50)

さて、ここまで社会規範の座標軸を変容させる言動の実践者として野間易通氏をいささか過剰に顕揚したが、彼自身はこう言っていることを付け加えておく。

@kdxn 2014.11.14
とはいえ、安倍政権にしろネトウヨにしろ決して復古主義はなく、自分たちのほうが古い左翼的価値観を打破する最新思想だと思っているので、あながち適用できないわけでもないか。ここ何回も強調しとくけど、現在の日本においては保守を名乗る極右こそが革命勢力で、リベラルは反革命/保守勢力です!

だが、野間易通氏は気づかずに、あるいは「無意識的」に、ニーチェの能動的ニヒリズムのような姿勢、すなわち動脈硬化に陥っている既成秩序の座標軸をーー破壊とはいうまいーー、ずらそうとする、社会的現実への介入実践者の「役割」をとりつつある、とわたくしは「斜めから」憶測する。またそれがーー当人が気づいていないのがーー逆に尊いとさえ言い得る。だがこれも過信であるのかもしれない、にもかかわらず敢えてこう書いておこう。

…………

最後に、フロイトとジジェクを交互に並べておこう。

集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる(……)。彼の情緒は異常にたかまり、彼の知的活動はいちじるしく制限される。そして情緒と知的活動と二つながら、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な衝動の抑制が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原始的集団における情緒の昂揚と思考の制止という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)
……フロイト自身、ここでは、あまりにも性急すぎる。彼は人為的な集団(教会と軍隊)と“退行的な”原始集団――激越な集団的暴力(リンチや虐殺)に耽る野性的な暴徒のような群れ――に反対する。さらに、フロイトのリベラルな視点では、極右的リンチの群衆と左翼の革命的集団はリピドー的には同一のものとして扱われる。これらの二つの集団は、同じように、破壊的な、あるいは無制限な死の欲動の奔出になすがままになっている、と。フロイトにとっては、あたかも“退行的な”原始集団、典型的には暴徒の破壊的な暴力を働かせるその集団は、社会的なつながり、最も純粋な社会的“死の欲動”の野放しのゼロ度でもあるかのようだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』(2012)の最終章(「CONCLUSION: THE POLITICAL SUSPENSION OF THE ETHICAL」)より私意訳
集団の道義を正しく判断するためには、集団の中に個人が寄りあつまると、個人的な抑制がすべて脱落して、太古の遺産として個人の中にまどろんでいたあらゆる残酷で血なまぐさい破壊的な本能が目ざまされて、自由な衝動の満足に駆りたてる、ということを念頭におく必要がある。しかしまた、集団は暗示の影響下にあって、諦念や無私や理想への献身といった高い業績をなしとげる。孤立した個人では、個人的な利益がほとんど唯一の動因であるが、集団の場合には、それが支配力をふるうのはごく稀である。このようにして集団によって個人が道義的になるということができよう(ルボン)。集団の知的な能力は、つねに個人のそれをはるかに下まわるけれども、その倫理的態度は、この水準以下に深く落ちることもあれば、またそれを高く抜きんでることもある。(フロイト『集団心理学と自我の分析』) 
“退行的な”原始集団は最初に来るわけでは決してない。彼らは人為的な集団の勃興の“自然な”基礎ではない。彼らは後に来るのだ、“人為的な”集団を維持するための猥雑な補充物として。このように、退行的な集団とは、象徴的な「法」にたいする超自我のようなものなのだ。象徴的な「法」は服従を要求する一方、超自我は、われわれを「法」に引きつける猥雑な享楽を提供する。(同ジジェク)


もちろんジジェクは、ラカンがフロイトの『集団心理学と自我の分析』を「ヒトラー大躍進への序文」と評したことを忘れているわけではない。

…………

ところで、社会学者やら政治学者やら、あるいはその卵やらがツイッター上でやっているのは、似非能動性の一種ではないか、《人びとは何にでも口を出し、「何かをする」ことに努め、学者たちは無意味な討論に参加する》。

人は何かを変えるために行動するだけでなく、何かが起きるのを阻止するために、つまり何ひとつ変わらないようにするために、行動することもある。これが強迫神経症者の典型的な戦略である。現実界的なことが起きるのを阻止するために、彼は狂ったように能動的になる。たとえばある集団の内部でなんらかの緊張が爆発しそうなとき、強迫神経症者はひっきりなしにしゃべり続ける。そうしないと、気まずい沈黙が支配し、みんながあからさまに緊張に立ち向かってしまうと思うからだ。(……)

今日の進歩的な政治の多くにおいてすら、危険なのは受動性ではなく似非能動性、すなわち能動的に参加しなければならないという強迫感である。人びとは何にでも口を出し、「何かをする」ことに努め、学者たちは無意味な討論に参加する。本当に難しいのは一歩下がって身を引くことである。権力者たちはしばしば沈黙よりも危険な参加をより好む。われわれを対話に引き込み、われわれの不吉な受動性を壊すために。何も変化しないようにするために、われわれは四六時中能動的でいる。このような相互受動的な状態に対する、真の批判への第一歩は、受動性の中に引き篭もり、参加を拒否することだ。この最初の一歩が、真の能動性への、すなわち状況の座標を実際に変化させる行為への道を切り開く。(ジジェク『ラカンはこう読め!』P54)。

もっともツイッターという装置は、誰もがこの罠に嵌りがちであり、そこでは、受動性のなかに引き篭もること、前のめりにならないことは、とても困難ではあるだろう。

われわれに求められるのは、前のめりにならないこと、つまり、このじかに目に飛び込んでくる「主観的」暴力、誰によってなされたかが明確にわかる暴力に目を奪われないことである。われわれに必要なのは、そうした暴力の噴出の背景、その概略をとらえることなのだ。ジジェク(『暴力――6つの斜めからの省察』)

…………

※追記(2015.01.09)

野間易通氏の大きな「弱味」は、経済音痴だということだろう。あるいは「経験」論者でありすぎることか(社会学者はそこをついたらよいのになぜしないのかーー、すなわち彼らもともに経済音痴だからである)。もし経済にすこしでも関心があり、かつ長期的な視野があれば、無闇に「消費税」反対(たとえば共産党支持)などということはありえないはずだ。彼が「政治的」に大きく羽搏くことがありうるなら、その意味ですぐれたブレーンが必要ではある。以下のツイートを本日読んだので、ここに附記しておく。

‏@kdxn
経済の話と日本史の話が始まると、貝のように口を閉ざす。

‏@kdxn
知ったかぶりするネタすら持っていない。

参考: