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2019年2月23日土曜日

愛とは両性の命がけの憎悪である

亭主とか女房なんてえものは、一人でたくさんなもので、これはもう人生の貧乏クヂ、そッとしておくもんですよ。…惚れたハレたなんて、そりや序曲といふもんで、第二楽章から先はもう恋愛などゝいふものは絶対に存在せんです。哲学者だの文士だのヤレ絶対の恋だなんて尤もらしく書きますけれどもね、ありや御当人も全然信用してゐないんで、愛すなんて、そんなことは、この世に実在せんですよ。(坂口安吾『金銭無情』1947年)

…………

愛とは本源的にはマゾヒズム、自己破壊欲動である(参照:なぜエロス欲動は死の欲動なのか)。

まずマゾヒズムについてのフロイト・ラカンの捉え方はこうである。
マゾヒズムはサディズムより古い。der Masochismus älter ist als der Sadismus…

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい暴露だろうか!(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, フロイトはこれを発見した。すぐさまというわけにはいかなかったが。il l'a découvert, il l'avait pas tout de suite prévu.(ラカン、S23, 10 Février 1976)

「すぐさまというわけにはいかなかった」というのは、1919年までのフロイトは、《マゾヒズムは、原欲動の顕れ primäre Triebäußerung ではなく、サディズム起源のものが、自我へと転回、すなわち、退行Regressionによって、対象から自我へと方向転換したものである》(『子供が打たれる』1919年)としていたからである。


プラトン=アリストパネスの定義上において、エロスとは、マゾヒズムあるいは自己破壊欲動と捉えうる。

すべての人の望みであり、みな自分がはっきりと言うことのできなかった望みの正体は、自分の愛する人と溶け合い、一つになることである。(プラトン『饗宴』)

一つになれば、つまり二者が一者に融合すれば、主体の死である。

エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚 Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)





エロスは二つが一つになることを基盤にしている。l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux (⋯⋯)

「一(L'Un)」(一つになること)、きみたちが知っているように、フロイトはしばしばこれに言及したが、それがエロスの本質 essence de l'Éros だと。融合 fusion という本質、すなわちリビドーはこの種の本質があるというヤツ、「二(deux)」が「一」になる faire Un 傾向をもつというヤツだ。ああ、神よ、この古くからの神話…まったくもって良い神話じゃない…一つになるなんてのは根源的緊張 tensions fondamentales を生むしかないよ (ラカン、S19、 03 Mars 1972 Sainte-Anne)
ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死 la mort に属するものの意味に繋がるときだけだ。 S'il y a quelque chose qui fait l'Un, c'est quand même bien le sens, le sens de l'élément, le sens de ce qui relève de la mort.(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

したがって、この融合欲動に対する分離欲動、タナトスが生まれる。

エンペドクレス Empedokles の二つの根本原理―― 愛 philia[φιλία]と闘争neikos[νεῖκος ]――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの原欲動 Urtriebe、エロスErosと破壊 Destruktion と同じものであ る。エロスは現に存在しているものをますます大きな統一へと結びつけ zusammenzufassenようと努める。タナトスはその融合 Vereinigungen を分離aufzulösen し、統一によって生まれたものを破壊zerstören しようとする。 (フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

ニーチェの愛の定義はここにある。

わたしがかつて愛Liebeにたいして下した定義を誰か聞いていた者があったろうか? それは、哲学者の名に恥じない唯一の定義である。すなわち、愛とはーー戦いを手段 Mitteln der Kriegとして行なわれるもの、そしてその根底において両性の命がけの憎悪Todhass der Geschlechterなのだ。(ニーチェ『この人を見よ』)
自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう!Was weiss Der von Liebe, der nicht gerade verachten musste, was er liebte! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「創造者の道」)

すなわち、フロイト曰くのエロスとタナトス(愛と闘争)の「欲動混淆 Triebvermischung」1924)である。前期フロイトは「愛憎コンプレクス. Liebe-Haß-Komplex」(1909)とも呼んでいる。

死の枕元にあったとされる草稿にはこうもある。

性行為 Sexualakt は、最も親密な融合 Vereinigung という目的をもつ攻撃性 Aggressionである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

ここまで記してきたことは、次の文に収斂する。

エロス欲動は大他者と融合して一体化することを憧憬する。大他者の欲望と同一化し同時に己れの欠如への応答を受け取ることを渇望する。ここでの満足は同時に緊張を生む。満足に伴う危険とは何か? それは、主体は己自身において存在することを止め、大他者との融合へと消滅してしまうこと(主体の死)である。ゆえにここでタナトス欲動が起動する。主体は大他者からの自律と分離へと駆り立てられる。これによってもたらされる満足は、エロス欲動とは対照的な性質をもっている。タナトスの分離反応は、あらゆる緊張を破壊し主体を己自身へと投げ戻す。

ここにあるのはセクシャリティのスキャンダルである。我々は愛する者から距離をとることを余儀なくされる。極論を言えば、我々は他者を憎むことを愛する。あるいは他者を愛することを憎む。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Sexuality in the Formation of the Subject, 2005年)

もしこうでなければ、愛の関係ではなく事実上、友人関係となっている筈である。

もっともこの友人関係が一番望ましいという立場もあろう。




浮気っぽい私のことで、浮気は人並以上にやるだろうが、私が私の家へ回帰する道を見失うことは決してあり得ない。私は概ねブッチョウ面で女房に辛く対することはシキリであるし、茶ノミ友だち的な対座で満足し、女房と一しょに家にいて時々声をかけて用を命じる程度の交渉が主で、肉体的な交渉などは忘れがちになっているが、それは私の女房に対する特殊な親愛感や愛情が、すでに女というものを超えたところまで高まっているせいだろうと私は考えている。私はとッくに女房に遺言状すらも渡しているのだ。どの女のためよりも、ただ女房の身を思うのが私の偽らぬ心なのである。それはもう女という観念と質のちごうものだ。そして女房に献身のある限り、私の気質に変ることは有りえない。つまり私は決して私と女房とを平等には見ておらぬ証拠で、女房とは女房という職業婦人であるが、すでにカケガエのない唯一の職業婦人として他の女たちと質のちごう存在になっていることが確かなのである。(坂口安吾「安吾人生案内 その八 安吾愛妻物語」)

逆に愛とは、ボードレールのいうようなものである。

恋愛は拷問または外科手術にとても似ているということを私の覚書のなかに既に私は書いたと思う。(⋯⋯)たとえ恋人ふたり同士が非常に夢中になって、相互に求め合う気持ちで一杯だとしても、ふたりのうちの一方が、いつも他方より冷静で夢中になり方が少ないであろう。この比較的醒めている男ないし女が、執刀医あるいは体刑執行人である。もう一方の相手が患者あるいは犠牲者である。(ボードレール、Fusées)

2016年11月23日水曜日

プラトンのなかのフロイト・ラカン

プラトンの邦訳文には「快楽」と「欲望」という語が次のように現れる。ここには「Wunsch(願望と欲望)とLust(快と欲望)」にて引用したニーチェやフロイトがすでにいるといってよいだろう。

ソクラテス) 諸君、ひとびとがふつう快楽と呼んでいるものは、なんとも奇妙なものらしい。それは、まさに反対物と思われているもの、つまり、苦痛と、じつに不思議な具合につながっているのではないか。

この両者は、たしかに同時にはひとりの人間には現れようとはしないけれども、しかし、もしひとがその一方を追っていってそれを把えるとなると、いつもきまってといっていいほどに、もう一方のものをもまた把えざるをえないとはーー。(プラトン『パイドン』60B 松永雄二訳)
いつかぼくはある話を聞いたことがあって、それを信じているのだよ。それによると、アグライオンの子レオンティオスがペイライエウスから、北の城壁の外側に沿ってやって来る途中、処刑吏のそばに屍体が横たわっているのに気づき、見たいという欲望にとらえられると同時に、他方では嫌悪の気持がはたらいて、身をひるがそうとした。そしてしばらくは、そうやって心の中で闘いながら顔をおおっていたが、ついに欲望に打ち負かされて、目をかっと見開き、屍体のところへ駆け寄ってこう叫んだというのだ。「さあお前たち、呪われたやつらめ、この美しい観物を堪能するまで味わうがよい!」(プラトン『国家』439c 藤沢令夫訳)

ーーもちろん原語がどうなっているのかは調べていないが、ニーチェやフロイト・ラカン文脈を念頭におけば言いたいことがとてもよくわかる文である。「快楽」は「享楽」、そして「欲望」は「欲動」に置きかえることができるとしてもよい。

※欲動と享楽の微妙な相違については「欲動と享楽の相違」を参照。

ラカンはフロイトの「女性的マゾヒズム」を享楽 jouissance とした。

……この女性的マゾヒズムは、原初の、性的 erotogenicマゾヒズム、苦痛のなかの快である。Der beschriebene feminine Masochismus ruht ganz auf dem primären, erogenen, der Schmerzlust, (フロイト『マゾヒズムの経済的問題』1924)
現実界の享楽は…フロイトが観察したように…マゾヒズムを包含している。…マゾヒズムは現実界によって与えられる主要な形式である。

la Jouissance du réel comporte… ce dont FREUD s'est aperçu …comporte le masochisme… Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, (Lacan, S23, 10 Février 1976)
私が享楽と呼ぶものーー身体が己自身を経験するという意味においてーーその享楽は、つねに緊張・強制・消費の審級、搾取とさえいえる審級にある。疑いもなく享楽があるのは、苦痛が現れる始める水準である。そして我々は知っている、この苦痛の水準においてのみ有機体の全次元ーー苦痛の水準を外してしまえば、隠蔽されたままの全次元ーーが経験されうることを。

… ce que j'appelle jouissance au sens où le corps s'éprouve, est toujours de l'ordre de la tension, du forçage, de la dépense, voire de l'exploit. Il y a incontestablement jouissance au niveau où commence d'apparaître la douleur, et nous savons que c'est seulement à ce niveau de la douleur que peut s'éprouver toute une dimension de l'organisme qui autrement reste voilée.(ラカン,Psychanalyse et medecine,1966)

「苦痛のなかの快」--プラトンが言っている通りである。

そして、Trieb(欲動・衝迫)とは、何かが主体を駆り立てることである、自分自身が行きたくない処にまで。

フロイト曰く「欲動は我々の神話だ」と。これは、アンリアル l'irréel への言及として理解してはならない。何故なら、神話的に欲動するものがリアル le réel だから。神話が通常そうであるように。ここには現実界がある。主体と喪われた対象とにあいだの関係において、神話=欲動のなかに再生産によって欲望を創出するリアルである。(ラカン、Écrits, 853« Du ‘Trieb' de Freud et du désir du psychanalyste », 1966)

これだけでは分かりにくいかもしれない。ヴェルハーゲの叙述で補おう。

我々のなかには抵抗できない何か起こる。理性と意志を超えた何かが。私のなかにある無思慮の気まぐれ。しかしながら、それは私の意志に反してして私を占領する。…欲動は現れるとき、意識・自己統御は占領されてしまう。…

欲動とは、何か別のものに駆り立てられて、そのなすがままになるということだ。統御不能の得体の知れないどこか別の場所から来るもの。欲動の領野は意識の外部に横たわっている。奇妙なしかし不可避の混淆、攻撃性とエロスの融合。 (Paul Verhaeghe,Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE ,1998,私訳ーー享楽に対する防衛

まさにプラトンは既にこれらのことを記している。

べつに『パイドロス』からも引こう。

……魂の似すがたを、翼を持った一組の馬と、その手綱をとる翼を持った馭者とが、一体になってはたらく力であるというふうに、思いうかべよう。――神々の場合は、その馬と馭者とは、それ自身の性質も、またその血すじからいっても、すべて善きものばかりであるが、神以外のものにおいては、善いものと悪いものとがまじり合っている。そして、われわれ人間の場合、まず第一に、馭者が手綱をとるのは二頭の馬であること、しかもつぎに、彼の一頭の馬のほうは、資質も血すじも、美しく善い馬であるけれども、もう一頭のほうは、資質も血すじも、これと反対の性格であること、これらの理由によって、われわれ人間にあっては、馭者の仕事はどうしても困難となり、厄介なものとならざるをえないのである。(プラトン『パイドロス』)

ああ、なんというフロイト的プラトン!




おそらくフロイトはプラトンをパクったのである。

自我の、エスにたいする関係は、奔馬を統御する騎手に比較される。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行う、という相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(フロイト『自我とエス』1923)

晩年のフーコーはドゥルーズに対して《自分は欲望 désir という言葉に耐えられない(……)僕が「快楽 plaisir」と呼んでいるのは、君たちが「欲望」と呼んでいるものであるのかもしれないが、いずれにせよ、僕には欲望以外の言葉が必要だ》と語ったそうだが(ドゥルーズ「欲望と快楽 Désir et plaisir」)、『性の歴史』でギリシャまで遡ったのフーコーが、その「快楽」概念でこういったことを考えていなかったはずはない。

フーコーがギリシャ文化から取り出した概念、enkrateia(克己)、sophrosyne(節制)などは、欲望の統御ではなく、「エスという奔馬を統御する騎手」、すなわち欲動の統御(自己陶冶)にかかわると捉えうる。





2016年6月28日火曜日

享楽に対する防衛

この投稿も前回に引き続き「在庫」整理の一環。

…………

欲望は防衛である。享楽へと到る限界を超えることに対する防衛である。[ le désir est une défense, défense d'outre-passer une limite dans la jouissance.](ラカン、E825)

ラカンの最初の教えは、存在欠如 manque-à-êtreと存在欲望 désir d'êtreを基礎としている。それは解釈システム、言わば承認 reconnaissance の解釈を指示した。(…)しかし、欲望ではなくむしろ欲望の原因を引き受ける別の方法がある。それは、防衛としての欲望、存在する existe ものに対しての防衛としての存在欠如を扱う解釈である。では、存在欠如であるところの欲望に対して、何が存在 existeするのか。それはフロイトが欲動 pulsion と呼んだもの、ラカンが享楽 jouissance と名付けたものである。(L'être et l'un notes du cours 2011 de jacques-alain miller)

…………

《Trieb(欲動・衝迫)。何かが主体を駆り立てる、己自身が行きたくない場にまで。≫(ヴェルハーゲ、1998)

いつかぼくはある話を聞いたことがあって、それを信じているのだよ。それによると、アグライオンの子レオンティオスがペイライエウスから、北の城壁の外側に沿ってやって来る途中、処刑吏のそばに屍体が横たわっているのに気づき、見たいという欲望にとらえられると同時に、他方では嫌悪の気持がはたらいて、身をひるがそうとした。そしてしばらくは、そうやって心の中で闘いながら顔をおおっていたが、ついに欲望に打ち負かされて、目をかっと見開き、屍体のところへ駆け寄ってこう叫んだというのだ。「さあお前たち、呪われたやつらめ、この美しい観物を堪能するまで味わうがよい!」(プラトン『国家』439c 藤沢令夫訳)

ーーもちろん、このプラトンの「欲望」という訳語はここでの文脈では、別の語に置き換えねばならない。

《過去には公開処刑と拷問は、多くの観衆のもとで行われた。…これは、ほとんどの我々のなかには潜在的な拷問者がいるということだ。≫ (ヴェルハーゲ、1998)

……残忍ということがどの程度まで古代人類の大きな祝祭の歓びとなっているか、否、むしろ薬味として殆んどすべての彼らの歓びに混入させられているか、他方また、彼らの残忍に対する欲求がいかに天真爛漫に現れているか、「私心なき悪意」(あるいは、スピノザの言葉で言えば、《悪意ある同情》)すらもがいかに根本的に人間の正常な性質に属するものと見られーー、従って良心が心から然りと言う! ものと見られているか、そういったような事柄を一所懸命になって想像してみることは、飼い馴らされた家畜(換言すれば近代人、つまりわれわれ)のデリカシーに、というよりはむしろその偽善心に悖っているように私には思われる。より深く洞察すれば、恐らく今日もなお人間のこの最も古い、そして最も根本的な祝祭の歓びが見飽きるほど見られるであろう。(……)

死刑や拷問や、時によると《邪教徒焚刑》などを抜きにしては、最も大規模な王侯の婚儀や民族の祝祭は考えられず、また意地悪を仕かけたり酷い愚弄を浴びせかけたりすることがお構いなしにできる相手を抜きにしては、貴族の家事が考えられなかったのは、まだそう古い昔のことではない。(ニーチェ『道徳の系譜』)

《あなたは義務という目的のために己の義務を果たしていると考えているとき、ひそかかに我々は知っている、あなたはその義務をある個人的な倒錯した享楽のためにしていることを。法の私心のない(公平な)観点はでっち上げである。というのは私的な病理がその裏にあるのだから。例えば義務感にて、善のため、生徒を威嚇する教師は、密かに、生徒を威嚇することを享楽している。≫ (『ジジェク自身によるジジェク』)

人はよく…頽廃の時代はいっそう寛容であり、より信心ぶかく強健だった古い時代に対比すれば今日では残忍性が非常に少なくなっている、と口真似式に言いたがる。…しかし、言葉と眼差しによるところの障害や拷問は、頽廃の時代において最高度に練り上げられる。(ニーチェ『悦ばしき知』)  

…………

我々のなかには抵抗できない何か起こる。理性と意志を超えた何かが。私のなかにある無思慮の気まぐれ。しかしながら、それは私の意志に反してして私を占領する。…欲動は現れるとき、意識・自己統御は占領されてしまう。…

欲動とは、何か別のものに駆り立てられて、そのなすがままになるということだ。統御不能の得体の知れないどこか別の場所から来るもの。欲動の領野は意識の外部に横たわっている。奇妙なしかし不可避の混淆、攻撃性とエロスの融合。 
いわゆる「非人間的振る舞い」、それはしばしば「動物的振る舞い」と叙述されるが、自然界における動物には決して現れない。それは人間に固有のものだ。…欲動は、主体によって欲望されない「快」の源泉である。…

欲望の主体は、欲動の主体のなかの己自身を認知しない。欲動の主体は、「彼の外部」にある。
誰が、あるいは何がここで快を楽しむのだろう? …自我にとって、この享楽の最初の出現は、不安・己れ自身の消滅の先触れ以外の何ものでもない。私は消滅する。何かに占領される。何の不思議でもない、享楽は自我が欲しないものであることは。代価は自我として存在することを辞めつつあることだ。この不安はエクスタシーへと変容される事実は、支払わなければならない代価を減らしはしない。

この光の下では、欲望は欲動と享楽に対する防衛として見られるべきである。人に快を提供する何かに対する防衛。もっとも、この文脈において「人」という語は全く明瞭ないし、「快」概念もまた奇妙である。(Paul Verhaeghe,Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE ,1998,私訳)

「彼の外部」とあるが、正確には、「彼の外立」であるだろう(おそらくヴェルハーゲは、この一般向けに書かれた書物(八か国語に翻訳されている)では、そこまでの議論は不要としたのだろう)。

ラカン用語の外立ex-sistenceは、ハイデガーの Exsistenz からだが、起源はギリシャ語 έκστασηからであり、エクスタシーという意味(参照:ラカンのExtimité とハイデガーのExsistenz)。

また、ラカンの使用するex-sistenceの意味合いは、Extimité(外密)、あるいはフロイトのFremdkörper(異物)とほぼ同一と捉えうる(参照:防衛と異物 Fremdkörper)。

たとえばジジェクは、Extimité(ex‐timate)という語を次のように使う。これが現代ラカン派の「正規」の使用法だろう(ラカンの文が愉快なので併せて引用しておく)。

享楽の現実界とは、言語の外部に単純にあるものどころか(現実界は、むしろ言語に関して「外密 ex‐timate」である)、言語のなかで象徴化に抵抗する何かであり、言語のなかに異物の核として居残ったものである。現実界は、裂け目、切れ目、隙間、非一貫性、不可能性として現れる。《私はどの哲学者にも挑んでいる。シニフィアンの出現と享楽が存在にかかわる仕方とのあいだにある関係を、この今確認するために。…どの哲学も、言わせてもらえば、今日、我々に出会えない。哀れにも流産した哲学のオタクどもThe wretched aborted freaks of philosophy(仏原文 ces misérables avortons de philosophie) 。我々はその哲学を後ろに引き摺っているのだ、前世紀(19世紀)の初めから、ボロボロになった習慣として。あの哲学オタクとは、むしろこの問いに遭遇しないようにその周りを踊る方法にすぎない。この問いとは、真理についての唯一の問いである。それは、死の欲動と呼ばれるもの、フロイトによって名付けられたもの、享楽の原マゾヒズム…。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。(Jacques Lacan, seminar of June 8, 1966, in Le séminaire, Livre XIII: L'objet de la psychanalyse (unpublished).(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

とはいえ、ラカンは数年後、次のように言っていることを付け加えておこう・・・

《私が哲学を攻撃してるだって? そりゃひどく大袈裟だよ!≫(ラカン、Seminar XVII)


2015年2月3日火曜日

「さあお前たち、呪われたやつらめ、この美しい観物を堪能するまで味わうがよい!」(プラトン)

ソクラテス) 諸君、ひとびとがふつう快楽と呼んでいるものは、なんとも奇妙なものらしい。それは、まさに反対物と思われているもの、つまり、苦痛と、じつに不思議な具合につながっているのではないか。

 この両者は、たしかに同時にはひとりの人間には現れようとはしないけれども、しかし、もしひとがその一方を追っていってそれを把えるとなると、いつもきまってといっていいほどに、もう一方のものをもまた把えざるをえないとはーー。(プラトン『パイドン』60B 松永雄二訳)

《2001911日後の数日間、われわれの視線が世界貿易センタービルに激突する飛行機のイメージに釘づけになっていたとき、誰もが「反復強迫」がなんであり、快楽原則を越えた享楽がなんであるかをむりやり経験させられた。そのイメージを何度も何度も見たくなり、同じショットがむかつくほど反復され、そこから得るグロテスクな満足感は純粋の域に達した享楽だった。》(ジジェク『 〈現実界〉の砂漠へようこそ』)


(Fallujah is the cemetery for Americans)


いつかぼくはある話を聞いたことがあって、それを信じているのだよ。それによると、アグライオンの子レオンティオスがペイライエウスから、北の城壁の外側に沿ってやって来る途中、処刑吏のそばに屍体が横たわっているのに気づき、見たいという欲望にとらえられると同時に、他方では嫌悪の気持がはたらいて、身をひるがそうとした。そしてしばらくは、そうやって心の中で闘いながら顔をおおっていたが、ついに欲望に打ち負かされて、目をかっと見開き、屍体のところへ駆け寄ってこう叫んだというのだ。「さあお前たち、呪われたやつらめ、この美しい観物を堪能するまで味わうがよい!」(プラトン『国家』439c 藤沢令夫訳)





蠅も、白く濃厚な死の臭気も、写真には捉えられない。一つの死体から他の死体に移るには死体を飛び越えてゆくほかはないが、このことも写真は語らない。
その臭いは年寄りには親しみやすいものらしい。それは私を不快にしなかった。だが、何という蠅の群……ところが、死体の側に身をかがめるなり、腕か指を動かすなり、死体に向けてちょっとした身ぶりを示すと、途端にそれは非常な存在感を帯び、ほとんど友のように打ち解ける。(ジャン・ジュネ『シャティーラの四時間』)

The Sabra and Shatila massacres


※別のシャティーラの画像は、「レヴィナスの滑稽な大失態(ジジェク)」を見よ。


……残忍ということがどの程度まで古代人類の大きな祝祭の歓びとなっているか、否、むしろ薬味として殆んどすべての彼らの歓びに混入させられているか、他方また、彼らの残忍に対する欲求がいかに天真爛漫に現れているか、「私心なき悪意」(あるいは、スピノザの言葉で言えば、《悪意ある同情》)すらもがいかに根本的に人間の正常な性質に属するものと見られーー、従って良心が心から然りと言う! ものと見られているか、そういったような事柄を一所懸命になって想像してみることは、飼い馴らされた家畜(換言すれば近代人、つまりわれわれ)のデリカシーに、というよりはむしろその偽善心に悖っているように私には思われる。より深く洞察すれば、恐らく今日もなお人間のこの最も古い、そして最も根本的な祝祭の歓びが見飽きるほど見られるであろう。(……)

死刑や拷問や、時によると《邪教徒焚刑》などを抜きにしては、最も大規模な王侯の婚儀や民族の祝祭は考えられず、また意地悪を仕かけたり酷い愚弄を浴びせかけたりすることがお構いなしにできる相手を抜きにしては、貴族の家事が考えられなかったのは、まだそう古い昔のことではない。(……)

――序でに言うが、このような思想でもって、私はわが厭世家諸君のぎしぎしと調子はずれな音を立てている厭世の水車に新しい水を引いてやる気は毛頭ない。私は却って残忍をまだ恥じなかったあの当時の方が、厭世家たちの現れた今日よりも地上の生活は一層明朗であったということを証拠立てようと思う。人間の頭上を覆う天空の暗雲は、人間の人間に対する羞恥の増大に比例してますます拡がってきた。倦み疲れた悲劇的な眼差し、人生の謎に対する不信、生活嫌悪の氷のように冷たい否定――これらは人類の最悪時代の標徴ではない。それらはむしろ、沼地の植物として、その生育に必要な沼地が出来るとき初めて日の光を見るのだ。――私の言っているのは、「人間」獣をしてついにそのすべての本能を恥じることを学ばしめたあの病的な柔弱化と道徳化のことなのだ。「天使」(ここではこれ以上に酷い言葉は用いないでおこう)になる途中で人間はあのように胃を悪くし、舌に苔を出かしたために、ただに動物の歓びや無邪気さを味わえなくなったばかりか、生そのものをも味気ないものにしてしまった。(ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳 p73-76)

さあて、この「わたくし」はこうやって引用して何が言いたいというのか。《今日もなお人間のこの最も古い、そして最も根本的な祝祭の歓びが見飽きるほど見られ》たではないか? 今年になって起こったふたつのムスリムによる事件により。

そして、ドゥルーズがある種の「知識人」にひどく激怒をしたように、ーー「強制収容所と歴史の犠牲者を利用して」いる、あるいは「屍体を食い物にしている」とーー、あの事件を餌にもっともらしく「正義」を語る評論家連中よりは、無邪気に興奮して「無意識的に」祝祭気分になっている公衆のほうが天真爛漫で好感がもてるということはないか。まず「出発」はここからだ。よおく考えてみよう。「似非知識人」のルソー派たちよ、→「ルソー派とニーチェ派

ーー《とにもかくにも、嘘を糧にしてわが身を養って来たことには、許しを乞おう。そして出発だ。》(ランボー)

…………

2004年の浅田彰による発言「イラク人質問題をめぐる緊急発言」(憂国呆談)は、リンク切れになっているが(http://dw.diamond.ne.jp/yukoku_hodan/20040416/index.html)、その「コピペ」に行き当たったので、ここに貼り付けておこう。



Photos from Fallujah, March 31, 2004

イラクで日本の民間人3人がイスラム過激派と見られる連中に拘束され、3日以内に日本政府が自衛隊を撤退させなければファルージャで黒焦げの死体を吊るされた4人のアメリカ人よりひどいやりかたで生きたまま焼き殺すっていう脅迫状とともにヴィデオが送りつけられてきた。最悪の事態になっちゃったね。ただ、自衛隊派兵の時点でこういうことが起こることは当然予想されたわけで、いまこの事件に衝撃を受けるなんて言ってるやつがいることに衝撃を受ける。イラクの人々を助けるためと称し、実はブッシュ政権に従う姿勢を示すために自衛隊を派遣して、現実にイラクの人々を助けるために行動してた民間人なんかの命を危険にさらす結果になっちゃったわけだから、本当に最低だと思うよ。前に「自衛隊」は小泉"X-JAPAN"純一郎が玩具として振り回す「J隊」だって言ったけど、これではむしろアメリカのための「他衛隊」じゃない? いや、自分たちだけを守るために基地にひきこもりを決め込んでるんだからこれこそまさに「自衛隊」というべきか「自閉隊」というべきか。

 ところが、政府は最初から、テロリストに屈することはない、ここで引いたらテロリストの思う壺だから自衛隊は撤退しない、と言い切って、アメリカのドナルド・ラムズフェルド国防長官やディック・チェイニー副大統領からさっそくお褒めの言葉にあずかってる。要するに、日本政府は日本国民を守るよりアメリカ政府の歓心を買うために行動するってことがはっきりしたわけだ。そもそも断固としてテロリストと戦うと称してアメリカがイラクに攻め込んだために、それこそオサマ・ビンラディンの思う壺で、かえってイラクがテロリストの巣窟と化しちゃったわけでしょ。そのアメリカのお先棒を担ぐことで、誘拐犯の脅迫状にもある通りもともと親日的だったアラブ人を敵に回したちゃったんだから、愚かと言うほかない。

 その意味でもともと自衛隊派兵は大間違いだし、われわれは一貫して反対してきたわけだけど、今からでも遅くはないんで、むしろ今度の人質事件をきっかけに撤退する勇気をもつべきじゃないか。1977年にダッカで日本赤軍のハイジャック事件が起きたとき首相だった福田赳夫は「人命は地球より重い」っていう「迷言」を吐いて超法規的にテロリストの要求を呑んだわけだけど、実はあれはなかなかの「名言」でもあるんで、アメリカやイスラエルをはじめとする各国の批判と軽蔑を浴びつつあそこまで踏み切ったのは大したものだとも言える。ところが、その息子である現・官房長官の福田康夫は、ブッシュ・ジュニアがサダム・フセインを倒せなかったブッシュ・シニアを乗り越えようとしてイラク戦争に突入したように、ダッカ事件のトラウマを埋めようとするかのごとく従米強硬路線一本やり。小泉も前言を訂正したり撤回したりする勇気のないナルシシストだから福田と同じだし、川口順子なんてのは外相って言ったって北朝鮮拉致被害者の面倒を見てる中山恭子内閣官房参与程度のお飾りでしかないしね。

 だいたい、今回は超法規的どころか、完全に合法的に撤退できる──というか、撤退すべきなの。幸か不幸か人質事件の起きる直前にサマーワの自衛隊の野営地が砲撃された。本格的な攻撃じゃなく、被害もなかったとはいえ、これで明らかにサマーワは(実はイラク全土が)戦闘地域になり、「非戦闘地域」というイラク特別措置法の要件を満たさなくなった。だから、法律に従って一時的に撤退する。で、防衛庁としては、これは人質事件とは別問題なんで脅迫に屈したんじゃない、人質事件についてはわれわれは直接関知しない、二つがリンクしていると見るのは勝手だけれど、われわれはたんに法律に基づいて粛々と行動しているだけだ、とか何とか、むりやり強弁しとけばいいわけよ。それも、自衛隊をすぐ帰国させるんじゃなく、クウェートあたりで半月ほど待機し、再び「非戦闘地域」という条件が満たされればただちにサマーワに復帰する、とか何とか、適当に恰好をつけとけばいい。いや、もちろんわれわれはもともと派兵反対だけど、最低いまの政権でもその程度のことは言えるんじゃないの?

 もちろん、いちばん悪いのは民間人を人質にとる武装集団だよ。だけど、妥協なしにテロと戦うっていうだけでは、問題は解決しない。だいたい、アメリカの始めた「テロとの戦争」に加担した日本政府が、アメリカに義理立てするため結果的に日本国民を見殺しにしちゃうんだとすれば、自国民の保護っていう最大の目的を放棄したに等しい。いやまあ、国家なんてものはもともとそういう怪物なんだけどさ。

 ……っていう話をしてから一週間たったところで、イラクのイスラム聖職者(法学者)協会の仲介が効を奏して、日本人の人質3人が解放されたし、彼らの後で拘束された日本人2人も解放された。本当によかったと思うよ。ただ、各国の人質を合わせると何十人にもなって、とくにイタリア人の人質は4人のうちまず1人殺されてるから、状況はまだまだ厳しい。とにかく、アメリカの占領政策が完全に失敗して事態が泥沼化する一方なのに、まだ力で押さえ込めると思ってるところが救い難いよ。

 そもそも、今回の危機の発端は、ファルージャでアメリカ人4人(イタリア人の4人の人質同様、民間人といっても警備担当者で、いわばセキュリティ関係のアウトソーシングが進んでる証しだけど)が殺され、黒焦げの死体が引き回されて橋から吊るされた事件だった。ソマリアのモガディシオで同じように米兵の死体が引き回されたときは、世論が耐えられなくなってクリントン政権はアメリカ軍を引き上げたわけだけど、それよりひどい事態になり、しかもソマリアからおめおめと逃げ帰ったトラウマは繰り返せないってんで、ブッシュ政権はヒステリックな報復攻撃に出て、ファルージャを包囲し、一説では600人もの死者を出す「ファルージャの虐殺」を引き起こしちゃったわけね。モスクまでミサイルで攻撃しちゃって、その結果、犬猿の仲だったスンニ派とシーア派を反米の一点で結束させる始末。イスラエルがハマスの指導者のアハマド・ヤシン師を殺したのもえげつないけど、あのときでさえモスクは攻撃してない。ヤシン師がモスクから出てクルマか何かで移動中にミサイルを撃ち込んだ。後継者のアブドルアジズ・ランティシ師をさっそく殺した手口もそれと同じ。モスクを攻撃するのは、いたずらに宗教的反感を煽るし、そもそも個人をヒットするには精度が低すぎる、と。それと比べてもアメリカのやりかたは乱暴で粗雑としか言いようがない。この件も含め、ブッシュ政権は軍の増派で反対派を押さえ込み、スケジュール通りにイラク人への政権移譲を進めようとしてるけど、そう簡単にはいかない。むしろ、短期的には「ヴェトナム化」とさえ言われる泥沼化の様相が強まる一方じゃない? さすがになりふりかまわず国連にすがることになり、自分たちが勝手に選んだ統治評議会じゃなく国連が主体となって選ぶ暫定政府が来年1月の選挙まで政権を担当するっていうブラヒミ提案を呑んだけど、それでさえうまくいくかどうかはまだわかんないよ。

 そういう意味では、日本がアメリカの尻馬に乗ってイラク軍事占領の片棒をかつぐんじゃなくあくまで人道支援に徹するんだってことを明確にし、まずイラク国民から支持されることがいちばん大事でしょう。そのためにもやっぱり「非戦闘地域」という要件が満たされなくなったサマーワから自衛隊を少なくとも一時的に撤退させるのがいいんだけどな。撤退要求をしてた誘拐犯が人質を解放したんだから、要求に屈するのではなく法的要件が満たされなくなったので撤退するっていう詭弁が通じやすくなったわけだしさ。でもまあ、来日したチェイニーに釘をさされただろうし、小泉は相手の要求に屈しないまま人質解放を勝ち取ったつもりで舞い上がってるだろうから、とてもそんなことはしないだろうけど。


2015年1月6日火曜日

君があらゆる悪をなしうることを信ずる。それゆえに君から善を期待する

まずは、プラトン『国家』(藤沢令夫訳)から引用してみよう。

アデイマントス)生まれつき不正を忌み嫌うような性質を神から授かっているか、あるいは知を得て不正から身を遠ざける人の場合は例外として、一般には、みずからすすんで正しい人間であろうとする者など一人もいないのだ、ただ勇気がなかったり、年を取っていたり、その他何らかの弱さをもっていたりするために、不正行為を非難するけれども、それは要するに、不正をはたらくだけの力が自分にないからなのだ(366D)

ニーチェは、プラトンやソクラテスの思想について、賛否混淆のニュアンス溢れることを言っているのだが、すくなくともこのアデイマントスの発言は、「ルソー派とニーチェ派」で引用した次の言葉の、あたかも起源のひとつであるかのようだ。

まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)

だがニーチェから読みとるべき肝腎な点は、 《不正をはたらくだけの力》=攻撃欲動が己れに反転して自己統禦の力となるということである。

たとえば、浅田彰はフロイトの死の欲動、あるいはニーチェの権力への意志、さらにはフーコーやドゥルーズのニーチェ解釈から、《力が自由に展開されるとき、それが自分自身に回帰して、自分自身を律するようになる》と読み取っているわけだ(同「ルソー派とニーチェ派」参照)。もちろん浅田彰はフーコーの『性の歴史』におけるギリシア文化における欲動の節制(自己陶冶)やら克己Enkrateia、節制Sophrosyneの概念などを想起しつつこのように語っているはずだ。

われわれの攻撃欲動を無力化するため、どんな方法がとられているだろうか。…われわれの攻撃欲動を取りこみ、内面化する方法である。しかし実のところこれは、攻撃欲動をその発祥地へ送り返すこと、つまり自分自身へと向けることに他ならない。(フロイト『文化への不満』フロイト著作集3 人文書院)
粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを人間自身の方へ向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、――これらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、これこそ「良心の疚しさ」の起源である。(ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳)

同じ『ツァラトゥストラ』における、《わたしは君があらゆる悪をなしうることを信ずる。それゆえにわたしは君から善を期待するのだ》とは、この解釈の光の下で読むべきだろう。

これにはかねてより数多くの変奏がある。たとえば熱心なプラトン読みであったアランは次のように言っている。

節制ということが勇気の妹ということ……この妹は勇気ほど尊敬されない。なぜか。けだし、節制はつねに拒否へとかたむくもので、それゆえこれは、充分欲しないということからも、あるいは結果をあまりおそれすぎるということからも生じうるものなのだから。だが、そうしたものはすこしも力ではない。すこしも徳ではない。吝嗇家が節制なのは、自分の生活の節約と一種の心のまずしさによってである。(アラン「四つの徳」

もっとも上の文と対照させるために、《生まれつきよく出来た人といわれている人間は、自己統御をまったく怠ると、最悪のところまで、しかもひとより早く達することが、しばしばある》(アラン)とも抜き出しておこう。すなわち「<力>への意志」の器の大きな人間は、場合によっては最悪の処へ突き進んでいく。

ここで、日本の「思想家」の言葉を拾ってもよい。

「枯淡」は衰えの美称にすぎず、「老成円熟」は積年の習慣の言い換えにすぎないだろう。(加藤周一「老年について 」1997)
停滞をとりあえず成熟と呼ぶことで、みんながおのれの貧しさを肯定しあ(う)(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

ところで、われわれは次ぎの文をどう読むべきだろうか。

いたわりつつ殺す手を見たことのない者は、人生をきびしく見た人ではない。(ニーチェ『善悪の彼岸』竹山道雄訳)

Man hat schlecht dem leben zugeschaut, wenn man nicht auch die Hand gesehn hat, die auf eine schonende Weise - tödtet.

読んでいない著者や著作の断片を無闇に貼り付けるのは、あまり好まないのだが、次のような見解をウェブ上から拾ったので、ここに示しておこう。

なぜ人を殺してはいけないのか。これまでその問いに対して出された答えはすべて嘘である。道徳哲学者や倫理学者は、こぞってまことしやかな嘘を語ってきた。ほんとうの答えは、はっきりしている。「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければやむをえない」―誰も公共の場で口にしないとはいえ、これがほんとうの答えである。だが、ある意味では、これは、誰もが知っている自明の真理にすぎないのではあるまいか。ニーチェはこの自明の真理をあえて語ったのであろうか。そうではない。彼は、それ以上のことを語ったのである。(中略)ニーチェは「重罰になる可能性をも考慮に入れて、どうしても殺したければやむをえない」と言ったのではない。彼は、「やむをえない」と言ったのではなく、究極的には「そうするべきだ」と言ったのである。(中略)反社会的な善というものがあるのだ。いや、あるどころではない。善とは、最終的・究極的には、反社会的なものである。(永井均『これがニーチェだ』)

《善とは、最終的・究極的には、反社会的なものである》とは、おそらく次ぎのようなことではないか。

行為とは、不可能なことをなす身振りであるだけでなく、可能と思われるものの座標軸そのものを変えてしまう、社会的現実への介入でもあるのだ。行為は善を超えているだけではない。何が善であるのか定義し直すものでもあるのだ。(ジジェク「メランコリーと行為」『批評空間』2001 Ⅲ―1所収

ジジェクのこの小論には次のような文もある。

根源的悪とは、最も極端な場合、規範を乱暴に破ることではなく、パトローギッシュな理由(感性的動因による配慮(罰の恐れ、ナルシシスティックな満足、仲間からの賞賛等々:引用者)から規範に服従することなのである。間違った理由から正しいことを行うこと、自分の利益になるから法に従うということは、たんに法を侵犯するよりもはるかに悪いことなのだ。(ジジェク『メランコリーと行為』)

ここで日本の代表的なユマニスト渡辺一夫の穏やかな言葉をも抜き出しておこう。

秩序は守られねばならず、秩序を乱す人々に対しては、社会的な制裁を当然加えてしかるべきであろう。しかし、その制裁は、あくまでも人間的でなければならぬし、秩序の必要を納得させるような結果を持つ制裁でなければならない。

更にまた、これは忘れられ易い重大なことだと思うが、既成秩序の維持に当たる人々、現存秩序から安寧と福祉とを与えられている人々は、その秩序を乱す人々に制裁を加える権利を持つとともに、自らが恩恵を受けている秩序が果たして永劫に正しいものか、動脈硬化に陥ることはないものかどうかということを深く考え、秩序を乱す人々のなかには、既成秩序の欠陥を人一倍深く感じたり、その欠陥の犠牲になって苦しんでいる人々がいることを、十分に弁える義務を持つべきだろう。(渡辺一夫「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」


社会秩序が動脈硬化に陥っているとき、その既存秩序を破壊しよう、あるいはその秩序の座標軸を変えようとする行為は、その秩序にとっては「悪」とならざるをえないだろう。そもそも殆んどのひとは、《パトローギッシュな理由(感性的動因による配慮(罰の恐れ、ナルシシスティックな満足、仲間からの賞賛等々)から規範に服従》しているだけではないか。

The time is out of joint: O cursed spite,
That ever I was born to set it right,(Hamlet 1.5.189-190)

この世の関節がはずれてしまったのだ。なんの因果か、
それを直す役目を押しつけられるとは!(シェイクスピア 福田恆存訳)
世界はまちがいもなく脱臼してしまっている。暴力的な動きによってのみ、それをふたたびはめ込むことができる。ところが、それに役立つ道具のうちには、ひとつ、小さく、弱くて、軽やかに扱ってやらなきゃならないものがあるはずだ。(ブレヒト『真鍮買い』)

もちろんブレヒトのように繊細な道具を使って「暴力的」な叛旗をひるがえすこともありうる。だがブレヒトのような「美的」な抵抗では効果がなかったら? いまはますますそれでは効果がない時代だろう。

私たちがますますもって必要としているのは、私たち自身に対するある種の暴力なの だということです。イデオロギー的で二重に拘束された窮状から脱出するためには、ある種の暴力的爆発が必要でしょう。これは破壊的なことです。たとえそれが身体的な暴力ではないとしても、それは過度の象徴的な暴力であり、私たちはそれを受け入れなければなりません。そしてこのレヴェルにおいて、現存の社会を本当に変えるためには、 このリベラルな寛容という観点からでは達成できないのではないかと思っています。おそらくそれはより強烈な経験として爆発してしまうでしょう。そして私は、これこそ、 つまり真の変革は苦痛に充ちたものなのだという自覚こそ、今日必要とされているのではないかと考えています 。(『ジジェク自身によるジジェク』)

ジジェクの言っていることは、ニーチェの能動的ニヒリズムの文脈で捉えうるものだ。

ニヒリズム。それは二義的だ。
A 高揚した精神力のしるしとしてのニヒリズム。すなわち能動的ニヒリズム
B 精神力の衰退と退化としてのニヒリズム、すなわち受動的ニヒリズム。(権力 22番 秋山英夫訳)
ニヒリズムは一つの正常な状態である。

それは強さのしるしでありうる。精神力が伸びきつて、これまでの目標(「信念」とか、信仰信条など)が身たけに合わなくなったという場合である。(――というのは、信仰は一般に、ある生物がそのもとで繁栄し、生長し、権力をうるような状況が示す権威に服従すること、すなわち生存の諸条件の強制をあらわすものだからだ。)

他方ニヒリズムはまた、創造的自主的に、あらためて一つの目標を、一つの「何のために」を、一つの信念を打ちたてるにたるだけの強さをもっていないしるしでもある。

能動的ニヒリズムは、破壊の暴力として、その力の最大限に達する

これに対立するのが、もはや攻撃することをしない疲れたニヒリズムであろう。その最も有名な形式は仏教であろう。受動的ニヒリズムとして、弱さのしるしとして。精神力が疲れ、消耗しきってしまった結果、在来の目標や価値が合わなくなり、それがもはや信ぜられなくなるという場合である。――価値と目標の綜合(すべて強い文化はこの綜合にもとづく)が解体して、その結果、個々の価値がたがいに戦いあう、すなわち崩壊することになるのだ。――活気づけ、治療し、安心をあたえ、麻痺させるようなすべてのものが、宗教的とか、道徳的とか、政治的とか、美的とか、その他さまざまの扮装をして、前景に出てくるのだ。(権力 23番)

いまこういったことをやろうとしているグループがようやく出てきたのではないか。すなわち社会秩序の座標軸を変えようとする動きを先導するグループが。ここではつねに、彼らが“退行的な”原始集団の避けがたい帰結、残酷で血腥い破壊的な衝動に絡めとられないかどうかを危惧を覚えつつも、わたくしは《旧「レイシストをしばき隊」<首謀者>野間易通》という男を、彼のやっている事を、あるいはやろうとしている事をーー時に彼の言葉には齟齬を感じることを否定するつもりはないがーー強く支持したい。彼が旧「しばき隊」を一年も経たないうちに解散したのは、集団に生じる退行性の臭気への極度の敏感さのためであると、わたくしは「錯覚」に閉じ篭り得ている。

野間易通@kdxn: ネット上の左派やリベラルが、消化不良のポストモダンで相対主義の泥沼にはまりこみ、「おまえも本当は差別者だ」とお互いを指差し糾弾しあっている間に、難しいこと考えなくていいネトウヨが大増殖、現在に至る。これがこの15年に起きた出来事である。

(2011.9.5 読売新聞)

ツイッター上での発言(罵倒)が過激すぎるって?

野間易通@kdxn 2015.01.06
死ねよゴミ。RT @sangituyama: で、どう関係ないの?RT@kdxn: 「どう関係ないの?」ってそんな質問があるかボケが。「こういう関係がある」と言えない時点でおまえは関係ないんだよ。こんなこといちいち説明させんなオッサン。@sangituyama”

たしかに行き過ぎもあるのかもしれない、だがこうも言っておこう。

《Ever tried. Ever failed. No matter. Try again. Fail again. Fail better.》--Samuel Beckett "Worstward Ho" (1983)

何度やってもダメだって、それがどうしたというんだい? 
もう一度やって、もう一度ダメになればいいじゃねえか。
以前よりマシだったら、それでいいさ(ベケット)


そもそも野間易通氏は次ぎのようにも言っている(@cracjpnの内部は野間氏である)。

C.R.A.C.@cracjpn 2014.12.31
社会学者やヘサヨと呼ばれる頭の悪い人文系院生たちと論争していると、「理論より行動だ」とカウンターが主張していると誤解する人が多いのですが、実際にはアカデミシャンはカウンターの人たちに「おまえの理論は間違っている」と批判されているのです。理論vs行動ではなく理論vs理論です。

ここまで言われて社会学者がダンマリを決め込んでいるのは、あまりにも情けないではないか。

野間易通@kdxn 2014.11.29
ほんと、社会学者はまじめに考えなおしたほうがいいよ。アカデミアに閉じこもって、趣味の同好会じゃないんだからさ。一応、日本の未来に責任を負ってるんじゃないですか?

もっとも、わたくしも一面的に、すなわちあまりにも野間易通サイドに寄りかかりすぎているのかもしれない。

だが加藤周一が四十年以上前、その自伝『羊の歌』で書いたような、ーー《しかじかの理くつにもとづいて、はるかに遠い国の子供たちを気にしなければならぬということではない。彼らが気になるという事実がまずあって、私はその事実から出発する》ーーこれ同じような態度を取っている、すなわち、レイシズムの餌食になっている人たちやネオナチの振舞いがどうしても気になって仕方がないという事実から出発している人間と、そうでない人間ーーたんなる研究対象としている人たちーーの相違というのは大きい。

@gonoi: あれら先生方の言動で不思議なのは、カウンターの一挙手一投足にはダメ出しをしてくるのに、なぜかレイシストには直接対決しにいかないところ。あれでは避けているという印象を与えるし、何よりも説得力がない。RT @cracjpn なめてかかってんだろうね。学会ごと派手に批判してあげます。

ーーこのように書いているわたくし自身、海外からの傍観者にすぎないということは自覚的ではある。わたくし自身、この阿呆、死ね!と言われないかどうかを怖れつつ書いている。ーーだが、言われたっていいじゃないか、《以前よりマシだったら、それでいいさ》(ベケット)

私が思うに、最も傲慢な態度とは「ぼくの言ってることは無条件じゃないよ、ただの仮説さ」などという一見多面的な穏健さの姿勢だ。まったくもっともひどい傲慢さだね。誠実かつ己れを批判に晒す唯一の方法は明確に語り君がどの立場にあるのかを「独断的にdogmatically 」主張することだよ。(「ジジェク自身によるジジェク」私訳)

次のような態度だけは取るまいとは念じている。

@kdxn: 外に出られないとして、なんでツイッターでネトウヨのデマを批判したりネトウヨに攻撃されてるマイノリティをサポートしたりせずに、カウンターの論評ばっかりえんえんとやってんだよってことだよ。RT @heboya: 誰でも彼でも、ほいほい外に出れる人間だと思うなよ!

@kdxn: ひとことでいうと、なんでおまえらえらそうに言うわりになんの役にも立たないの?ってことです。「意図」がないことが問題。本当に無神経だと思う。RT @heboya: 居丈高に要求するような意図はまったくありませんでしたが、そのように感じられたのでしたら、その点申し訳ありませんでした。(野間易通)

やはりネトウヨには、「死ね!」というべきではないか。《とるべき戦略はあのような言い方ができないようにすること》ではないか。そしてネトウヨの繁殖に貢献するような「インテリ」諸子の言説に対しても、徹底抗戦すべきではないか。

たとえば次ぎのような発言をもっともらしく言い放つインテリくんーー彼はたぶん「社会学」者予備軍のつもりなのだろうが、ある意味でマイノリティに属する人間でもあるので、ここではアカウント名を伏せておくがーーを放っておいてよいものだろうか(もちろん彼だけではない、たまたま以前にツイッター上でフォローしていた人物なのでここでその一例として掲げる)。

いじめや差別にも言えることだが――集団的暴力については、メタなスローガンや「思い込み」はどうでもいい。左派が「自分は正義だ」と思い込んだところで、彼らは実際にひどいことをやっている。それは(いわば)唯物論的に検証すべきことで、彼らの自意識はどうでもいい。
差別の再生産装置として、左翼・リベラルの言説こそが、ひどい機能を果たしている。たったこれだけのことすら、まったく論じられていません。

これは、《闘ってるやつらを皮肉な目で傍観しながら、「やれやれ」と肩をすくめてみせる、去勢されたアイロニカルな自意識ね。いまやこれがマジョリティなんだなァ。》(浅田彰『憂国呆談』)とどう異なるのだろう。そもそも《左派が「自分は正義だ」と思い込んだところで、彼らは実際にひどいことをやっている》だって? そしてこの己れの主張は絶対的に「正しい」と思い込んでいる口調がある。かつまた《(いわば)唯物論的に検証すべき》などという戯言を……。


だがこれ以上の批判は慎んでおこう。ただ野間易通の「正義」をめぐるツイートをここではひとつだけ抜き出そう。

@kdxn: 「正義感」というのは、たとえば痴漢にあってる女の人を見たら痴漢を捕まえるとか、無理なら車掌や警察に通報するとか、そういうときの感覚を言う。そう考えると、疑うべき「正義」と疑いのない「正義」があるとわかるはずなのに、「正義感は目を曇らせる」とか言ってるやつはそのへんが雑い。

人はこれに反論できるだろうか。もっとも街頭での《集団いじめへの「選択的非注意」》に浸りきっている連中までを批判するつもりはない。勇気と卑怯は紙一重なのだから。

…………

ここで避けなければならない誘惑は、「公然と自分の(人種差別的、反同性愛的)偏見を認めている敵の方が、人は実は密かに奉じていることを公には否定するという偽善的な態度よりも扱いやすい」という、かつての左翼的な考え方である。この考え方は、外見を維持することのイデオロギー的・政治的意味を、致命的に過小評価している。外見は「単なる外見」ではない。それはそこに関係する人々の、実際の社会象徴的な位置に深い影響を及ぼす。人種差別的態度が、イデオロギー的・政治的言説の主流に許容されるような姿をとったとしたら、それは全体としてのイデオロギー的指導権争いの釣り合いを根底から変動させるだろう。 (……)

 今日、新しい人種差別や女性差別が台頭する中では、とるべき戦略はそのような言い方ができないようにすることであり、それで誰もが、そういう言い方に訴える人は、自動的に自分をおとしめることになる(この宇宙で、ファシズムについて肯定的にふれる人のように)。「アウシュヴィッツで実際に何人が死んだのか」とか「奴隷制のいい面」は何かとか「労働者の集団としての権利を削減する必要性」といったことは論じるべきでないことを強調しておこう。その立場は、ここでは非常にあっけらかんと「教条的」であり「テロリズム的」である。 スラヴォイ・ジジェク『幻想の感染』松浦俊輔訳 p.49-50)

さて、ここまで社会規範の座標軸を変容させる言動の実践者として野間易通氏をいささか過剰に顕揚したが、彼自身はこう言っていることを付け加えておく。

@kdxn 2014.11.14
とはいえ、安倍政権にしろネトウヨにしろ決して復古主義はなく、自分たちのほうが古い左翼的価値観を打破する最新思想だと思っているので、あながち適用できないわけでもないか。ここ何回も強調しとくけど、現在の日本においては保守を名乗る極右こそが革命勢力で、リベラルは反革命/保守勢力です!

だが、野間易通氏は気づかずに、あるいは「無意識的」に、ニーチェの能動的ニヒリズムのような姿勢、すなわち動脈硬化に陥っている既成秩序の座標軸をーー破壊とはいうまいーー、ずらそうとする、社会的現実への介入実践者の「役割」をとりつつある、とわたくしは「斜めから」憶測する。またそれがーー当人が気づいていないのがーー逆に尊いとさえ言い得る。だがこれも過信であるのかもしれない、にもかかわらず敢えてこう書いておこう。

…………

最後に、フロイトとジジェクを交互に並べておこう。

集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる(……)。彼の情緒は異常にたかまり、彼の知的活動はいちじるしく制限される。そして情緒と知的活動と二つながら、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な衝動の抑制が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原始的集団における情緒の昂揚と思考の制止という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)
……フロイト自身、ここでは、あまりにも性急すぎる。彼は人為的な集団(教会と軍隊)と“退行的な”原始集団――激越な集団的暴力(リンチや虐殺)に耽る野性的な暴徒のような群れ――に反対する。さらに、フロイトのリベラルな視点では、極右的リンチの群衆と左翼の革命的集団はリピドー的には同一のものとして扱われる。これらの二つの集団は、同じように、破壊的な、あるいは無制限な死の欲動の奔出になすがままになっている、と。フロイトにとっては、あたかも“退行的な”原始集団、典型的には暴徒の破壊的な暴力を働かせるその集団は、社会的なつながり、最も純粋な社会的“死の欲動”の野放しのゼロ度でもあるかのようだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』(2012)の最終章(「CONCLUSION: THE POLITICAL SUSPENSION OF THE ETHICAL」)より私意訳
集団の道義を正しく判断するためには、集団の中に個人が寄りあつまると、個人的な抑制がすべて脱落して、太古の遺産として個人の中にまどろんでいたあらゆる残酷で血なまぐさい破壊的な本能が目ざまされて、自由な衝動の満足に駆りたてる、ということを念頭におく必要がある。しかしまた、集団は暗示の影響下にあって、諦念や無私や理想への献身といった高い業績をなしとげる。孤立した個人では、個人的な利益がほとんど唯一の動因であるが、集団の場合には、それが支配力をふるうのはごく稀である。このようにして集団によって個人が道義的になるということができよう(ルボン)。集団の知的な能力は、つねに個人のそれをはるかに下まわるけれども、その倫理的態度は、この水準以下に深く落ちることもあれば、またそれを高く抜きんでることもある。(フロイト『集団心理学と自我の分析』) 
“退行的な”原始集団は最初に来るわけでは決してない。彼らは人為的な集団の勃興の“自然な”基礎ではない。彼らは後に来るのだ、“人為的な”集団を維持するための猥雑な補充物として。このように、退行的な集団とは、象徴的な「法」にたいする超自我のようなものなのだ。象徴的な「法」は服従を要求する一方、超自我は、われわれを「法」に引きつける猥雑な享楽を提供する。(同ジジェク)


もちろんジジェクは、ラカンがフロイトの『集団心理学と自我の分析』を「ヒトラー大躍進への序文」と評したことを忘れているわけではない。

…………

ところで、社会学者やら政治学者やら、あるいはその卵やらがツイッター上でやっているのは、似非能動性の一種ではないか、《人びとは何にでも口を出し、「何かをする」ことに努め、学者たちは無意味な討論に参加する》。

人は何かを変えるために行動するだけでなく、何かが起きるのを阻止するために、つまり何ひとつ変わらないようにするために、行動することもある。これが強迫神経症者の典型的な戦略である。現実界的なことが起きるのを阻止するために、彼は狂ったように能動的になる。たとえばある集団の内部でなんらかの緊張が爆発しそうなとき、強迫神経症者はひっきりなしにしゃべり続ける。そうしないと、気まずい沈黙が支配し、みんながあからさまに緊張に立ち向かってしまうと思うからだ。(……)

今日の進歩的な政治の多くにおいてすら、危険なのは受動性ではなく似非能動性、すなわち能動的に参加しなければならないという強迫感である。人びとは何にでも口を出し、「何かをする」ことに努め、学者たちは無意味な討論に参加する。本当に難しいのは一歩下がって身を引くことである。権力者たちはしばしば沈黙よりも危険な参加をより好む。われわれを対話に引き込み、われわれの不吉な受動性を壊すために。何も変化しないようにするために、われわれは四六時中能動的でいる。このような相互受動的な状態に対する、真の批判への第一歩は、受動性の中に引き篭もり、参加を拒否することだ。この最初の一歩が、真の能動性への、すなわち状況の座標を実際に変化させる行為への道を切り開く。(ジジェク『ラカンはこう読め!』P54)。

もっともツイッターという装置は、誰もがこの罠に嵌りがちであり、そこでは、受動性のなかに引き篭もること、前のめりにならないことは、とても困難ではあるだろう。

われわれに求められるのは、前のめりにならないこと、つまり、このじかに目に飛び込んでくる「主観的」暴力、誰によってなされたかが明確にわかる暴力に目を奪われないことである。われわれに必要なのは、そうした暴力の噴出の背景、その概略をとらえることなのだ。ジジェク(『暴力――6つの斜めからの省察』)

…………

※追記(2015.01.09)

野間易通氏の大きな「弱味」は、経済音痴だということだろう。あるいは「経験」論者でありすぎることか(社会学者はそこをついたらよいのになぜしないのかーー、すなわち彼らもともに経済音痴だからである)。もし経済にすこしでも関心があり、かつ長期的な視野があれば、無闇に「消費税」反対(たとえば共産党支持)などということはありえないはずだ。彼が「政治的」に大きく羽搏くことがありうるなら、その意味ですぐれたブレーンが必要ではある。以下のツイートを本日読んだので、ここに附記しておく。

‏@kdxn
経済の話と日本史の話が始まると、貝のように口を閉ざす。

‏@kdxn
知ったかぶりするネタすら持っていない。

参考:

2014年12月19日金曜日

民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である

二〇〇七年の秋、チェコ共和国で、米軍レーダー基地建設をめぐって世論が沸騰した。国民の大多数(ほぼ七〇パーセント)が反対しているのに政府はプロジェクトを強行した。政府代表は、この国防問題に関わる微妙な問題については投票だけでは決められない――軍事の専門家に判断をゆだねるべきだとして、国民投票の要求をはねつけたのだ。この論法に従っていくと、最後には、おかしな結果になる。すると投票すべき対象として何が残るというのか?たとえば経済に関する決定は経済の専門家に任せるべき、という具合にどの分野にもあてはまるのではないか? (ジジェク『ポストモダンの共産主義』)

で、やはりエリートや専門家にまかせるべきなのだろうか。それとも国民投票やら「理想的な」直接選挙などでの判断を尊重すべきなのだろうか。たとえば「経済」の問題、――消費税やら所得税やらを上げなければならず、社会保障費を削減しなければならないという「専門家」の判断(彼ら曰く「理論的には」絶対的に正しい、たとえば本日(2014.12.19付で「消費税10%では財政再建の道筋はまったく見えない 本来は消費税率を30%近くにする必要がある野口悠紀雄 緊急連載・アベノミクス最後の博打」などという記事が上がっているがね)ーー、これは、国民投票で受け入れられるはずがないのではないか。ヘーゲルのいうように「国家の最高官吏たち」に任せておいたほうがよいのではないか。

国家の最高官吏たちのほうが、国家のもろもろの機構や要求の本性に関していっそう深くて包括的な洞察を必然的に具えているとともに、この職務についてのいっそうすぐれた技能と習慣を必然的に具えており、議会があっても絶えず最善のことをなすに違いないけれども、議会なしでも最善のことをなすことができる。(ヘーゲル『法権利の哲学』)

たとえば「教育ある」理性的な公衆なら、明日の生活に不都合なことでも、--すなわち、消費税によって物価が上がったり、年金の手取りが下がったり等々ーー、やむ得ず「正しい」判断をするだろうか。将来世代(未来の他者)へ負担を先送りすることをやめるだろうか。

高級官僚たちにも、判断ミスや破廉恥な権力欲があるに決まっているのだからーー《どんな高徳な人と言われているものも、恐ろしい、無法の欲望を内に隠し持っている、という事をくれぐれも忘れるな》(プラトン=小林秀雄)--、《「真理」は得体の知れない均衡によって実現される》という立場をとるべきなのだろうか。

どの国でも、官僚たちは議会を公然とあるいは暗黙に敵視している。彼らにとっては、自分たちが私的利害をこえて考えたと信ずる最善の策を議会によってねじ曲げられることは耐え難いからである。官僚が望むのは、彼らの案を実行してくれる強力且つ長期的な指導者である。また、政治家のみならず官僚をも批判するオピニオン・リーダーたちは、自分たちのいうことが真理であるのに、いつも官僚や議会といった「衆愚」によって邪魔されていると考えている。だが、「真理」は得体の知れない均衡によって実現されるというのが自由主義なのだ。(柄谷行人『終焉をめぐって』)

上に書いた将来世代(未来の他者)へ負担を先送りするというのは、簡単に言えば、《公的債務とは、親が子供に、相続放棄できない借金を負わせることである》(ジャック・アタリ)にかかわる。

簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

 しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(経済再生 の鍵は 不確実性の解消 (池尾和人 大崎貞和)ーー野村総合研究所 金融ITイノベーション研究部2011ーー二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障)

これに関しては、公衆の判断ではほとんど無理に決まってる、そしておそらく政治家の判断も同じく。

現実の民主主義社会では、政治家は選挙があるため、減税はできても増税は困難。民主主義の下で財政を均衡させ、政府の肥大化を防ぐには、憲法で財政均衡を義務付けるしかない。(ブキャナン&ワグナー著『赤字の民主主義 ケインズが遺したもの』)

環境問題程度なら、場合によっては「未来の他者」を慮るようなことがあるかもしれないが、肝心かなめの「金」に関わってくると、「公共的合意」などあり得るはずがないのではないか。《お金があらゆる善の根源だと悟らない限り、あなたがたは自ら滅亡を招きます。》(アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』)

…ハーバーマスは、公共的合意あるいは間主観性によって、カント的な倫理学を超えられると考えてきた。しかし、彼らは他者を、今ここにいる者たち、しかも規則を共有している者たちに限定している。死者や未来の人たちが考慮に入っていないのだ。

たとえば、今日、カントを否定し功利主義の立場から考えてきた倫理学者たちが、環境問題に関して、或るアポリアに直面している。現在の人間は快適な文明生活を享受するために大量の廃棄物を出すが、それを将来の世代が引き受けることになる。現在生きている大人たちの「公共的合意」は成立するだろう、それがまだ西洋や先進国の間に限定されているとしても。しかし、未来の人間との対話や合意はありえない。(柄谷行人『トランスクリティーク』P191-192)

「未来の他者」だと? すくなくともベルリンの壁崩壊をへて市場原理主義が猖獗する現在ーー資本の欲動の席巻の時代ーー、誰が「未来の他者」などを考慮するだろう? --《後はどうとでもなれ。これがすべての資本家と、資本主義国民の標語である。だから資本は、社会が対策を立て強制しないかぎり、労働者の健康と寿命のことなど何も考えていない。》(マルクス ツイッターbotより)

ノーム・チョムスキーは次ぎのように言っている、《国民参加という脅威を克服してはじめて、民主制につい てじっくり検討することができる》(Noam Chomsky, Necessary Illusions”)


バディウは、《現代における究極的な敵に与えられる名称は資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義である》と言っているそうだ(「永遠の経済的非常事態」 スラヴォイ・ジジェク 長原豊訳

これらの言葉に触れたことがなくても、プラトン=ソクラテスが、大衆を「局所的な意見の混沌」のなかであがく一匹の巨大な獣 か迷える獣の群れとしているのは誰もが知っているだろう。

もっとも冒頭のジジェクの文は、大衆が、巨大な獣か迷える獣であって彼らの判断が信じられないにせよ、いまはエリートの判断さえ信じられなくなったことにあるという文脈のなかで書かれているものであり、それは2011年以来、この極東の島国ではことさら顕著なことだろう。

いわゆる「民主主義の危機」が訪れるのは、民衆が自身の力を信じなくなったときではない。逆に、民衆に代わって知識を蓄え、指針を示してくれると想定されたエリートを信用しなくなったときだ。それはつまり、民衆が「(真の)王座は空である」と知ることにともなう不安を抱くときである。今決断は本当に民衆にある。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)
トロツキーの議会制民主主義に対する批難は大筋で正しかった。すなわち、この制度は教育のない大衆に力を与えすぎることではなく、むしろ、逆説的にいえば、大衆を受身化して、国家権力機構の支配にゆだねるものだ。(トロツキー『テロリズムと共産主義』」(同上)


ところで、きみたちには、《教育者面をしたり指導者面をしているソフィスト達を許す事が出来な》いってことないのかい? たとえば選挙前に「日本人は民主主義を捨てたがっているのか? 」の類のことを叫ぶ連中だがね。こいつらの言う「民主主義」ってなんなのだろう? やっぱり「衆愚」政治のことかい? 「識者」として《大衆は立て続けに話されると,巧みな口舌に惑わされ,事の理非を糾す暇もないままに,一度かぎりのわれらの言辞に欺かれる》(ツキジデス『戦史』)ってヤツの実践かい?

チョムスキーを再掲しておくがね、《国民参加という脅威を克服してはじめて、民主制についてじっくり検討することができる》と。

あるいは柄谷行人を引用してもいいけどさ、議会民主主義を疑ったことがないわけじゃないだろ? 直接投票にしなくちゃなんていうなよな、都知事や大阪府知事でどんな首長が選ばれているかシッテルだろ? まあせめて主張するなら「くじ引き」程度のことは言えよ。要するに、あいつらバカジャナイノ? との錯覚に閉じこもることが多いんだよな。


もし匿名投票による普通選挙、つまり議会制民主主義がブルジョア的な独裁の形式であるとするならば、くじ引き制こそプロレタリア独裁の形式だというべきなのである。アソシエーションは中心をもつが、その中心はくじ引きによって偶然化されている。かくして、中心は在ると同時に無いといってよい。すなわち、それはいわば「超越論的統覚X」(カント)である。(柄谷行人『トランスクリティーク』P282-283ーー「バカジャナイノ?」)

実際、アテネでは「くじ引き」やってたらしいからな。

われわれはアテネの民主主義から学ぶべきことが一つある。アテネの民主主義は、僭主制を打破するところから生まれたと同時に、僭主制を二度ともたらさないような周到な工夫によって成立している。アテネの民主主義を特徴づけるのは議会での全員参加などではなく、行政権力の制限である。それは官吏をくじ引きで選ぶこと、さらに、同じくじ引きで選ばれた陪審員による弾劾裁判所によって徹底的に官吏を監視したことである。実際、こうした改革を成し遂げたペリクレス自身が裁判にかけられて失脚している。要するに、アテネの民主主義において、権力の固定化を阻止するためにとられてシステムの核心は、選挙ではなくくじ引きである。くじ引きは、権力が集中する場に偶然性を導入することであり、そのことによってその固定化を阻止するものだ。そして、それのみが真に三権分立を保証するものである。かくして、もし匿名投票による普通選挙、つまり議会制民主主義がブルジョア的な独裁の形式であるとするならば、くじ引き制こそプロレタリア独裁の形式だというべきなのである。(『トランスクリティーク』p283~)

まずは「議会民主主義=ブルジョワ独裁」を潰すことさ、そこから出発だぜ、真の「民主主義=大衆の支配」というものが仮にあるのなら、--とまでは言わないでおくけどさ。大衆の支配とは、ファシズムかもしれないからな、ワカンネエなあ、政治音痴のオレには。

《ファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない》(カール・シュミット)

…議会と大統領との差異は、たんに選挙形態の差異ではない。カール・シュミットがいうように、議会制は、討論を通じての支配という意味において自由主義的であり、大統領は一般意志(ルソー)を代表するという意味において民主主義的である。シュミットによれば、独裁形態は自由主義に背反するが民主主義に背反するものではない。《ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない》。《人民の意志は半世紀以来極めて綿密に作り上げられた統計的な装置よりも喝采によって、すなわち反論の余地を許さない自明なものによる方が、いっそうよく民主主義的に表現されうるのである》(シュミット『現代議会主義の精神史的位置』)。

この問題は、すでにルソーにおいて明確に出現していた。彼はイギリスにおける議会(代表制)を嘲笑的に批判していた。《主権は譲りわたされえない、これと同じ理由によって、主権は代表されえない。主権は本質上、一般意志のなかに存する。しかも、一般意志は決して代表されるものではない》。《人民は代表者をもつやいなや、もはや自由ではなくなる。もはや人民はいなくなる》(『社会契約論』)。ルソーはギリシャの直接民主主義を範とし代表性を否定した。しかし、それは「一般意志」を議会とは違った行政権力(官僚)に見いだすヘーゲルの考えか、または、国民投票の「直接性」によって議会の代表性を否定することに帰結するだろう。(『トランスクリティーク』p226~)
一般的にいって、匿名状態で解放された欲望が政治と結びつくとき、排外的・差別的な運動に傾くことに注意すべきです。だから、ここから出てくるのは、政治的にはファシズムです。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)
浅田彰)ルソーが一般意志というけれど,具体的なモデルとしては小さい共同体を考えているわけで,それを無視して直接民主主義を乱暴に拡大すると,ファシズムと限りなく近いものになってしまうわけです.

たとえば,リンツで「アルス・エレクトロニカ」というのをやっているんだけれど,あそこはヒトラーが生まれた所だから,ヒトラーが演説した広場があって,前回は,そこに巨大なスクリーンを立てて,インタラクティヴなゲームをやったんですね.みんなに赤と緑の反射板を持たせて,全員でTVゲームをやったりね. そこで,市長の人気投票とか,直接民主主義制のゲームもやったんですが,まさに柄谷さんがおっしゃったような感じで,みんながそのつど結果を見て補正するから,およそ一定しないわけです.(「ハイパーメディア社会における自己・視線・権力」)

さてようやくここで表題にその一部を掠め取った「たしかに民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である」(チャーチル)を引用することができる。じつはそれに続く《問題は、他のどのシステムも民主主義以上ではないことだ》が肝腎なんだが。

ウィンストン・チャーチルの有名なパラドックス( ……)。民主主義は堕落とデマゴギーと権威の弱体化への道を開くシステムだと主張する人びとにたいして、チャーチルはこう答えた。「たしかに民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である。問題は、他のどのシステムも民主主義以上ではないことだ」。この発言は「すべてが可能だ。いやもっと多くのことが可能だ」という全体集合を提示する。その中では問題の要素(民主主義)は最悪のように見える。第二前提によれば、「ありとあらゆるシステム」という集合はすべてを包含しているわけではなく。付加的な要素と比べてみれば件の要素がじゅうぶん我慢できるものであることがわかる。この論法は次の事実に基づいている。すなわち付加的要素は「ありとあらゆるシステム」という全体集合に含まれているものと同じであり、唯一の相違はそれらはもはや閉じられた全体の要素としては機能していないという点である。政府のシステムの全体の中では民主主義は最悪であるが、政治システムの全体化されていない連続の中には民主主義以上のものはない。したがって、「それ以上のものはない」という事実から、民主主義が「最良」であるという結論を引き出してはいけない。民主主義の利点はまったく相対的なものでしかないのである。この命題を最上級で定式化しようとしたとたん、民主主義の特質は「最悪」となってしまうのである。(ジジェク『斜めから見る』 P62ーー民主主義の中の居心地悪さ


まあツイッターなどで《教育者面をしたり指導者面をしている》連中がバカにみえるのは、オレがバカなせいかもしれないがね。とはいえ、あの連中は、こうやって散々語られてきたことを外して、無知なのかなんだか知らないが、ナイーヴに「自分の考え」なるものを主張するんだな。

僕は國分功一郎というのに驚いたんだけど、「議会制民主主義には限界があるからデモや住民投票で補完しましょう」と。

21世紀にもなってそんなことを得々と言うか、と。あそこまでいくと、優等生どころかバカですね。

……住民投票による「来るべき民主主義」とか、おおむね情報社会工学ですむ話じゃないですか。哲学や思想というのは、何が可能で何が不可能かという前提そのものを考え直す試みなんで、可能な範囲での修正を目指すものじゃないはずです。(浅田彰
僕は昔から、先行研究を踏まえた手堅い優等生研究ってのは好きじゃなかったんだけど、國分は、驚くべきことに、ドゥルーズやネグリのみならず、古典的なスピノザ研究の蓄積についてもほとんど言及せず、ひたすら「僕のスピノザ」を大声で得々と語るわけ-腐っても人文研の研究会で。 思わず「あなた、バカって言われない?」と聞いちゃった。(同 浅田)

でも國分くんはまだましなほうさ、ツイッターで「民主主義」なんたらしきりに寝言いってる「識者」のなかでは。

まあオレもえらそうなことはマッタク言えないんだ、そもそもネグリなんて一度も読んだことがないんだから。でもあれら《教育者面をしたり指導者面をしている》連中は、いくら政治音痴、経済音痴でもせめてジジェクやら柄谷行人やらは読んでいてよさそうなはずだがねえ。

というわけで、もうごたごた言わずに、小林秀雄=プラトンでも引用しておくだけにするよ。


◆小林秀雄「プラトンの「国家」」より


「国家」或は「共和国」とも言われているこの対話篇には、「正義について」という副題がついているが、正義という光は垣間見られているだけで、徹底的に論じられているのは不正だけであるのは、面白い事だ。正義とは、本当のところ何であるかに関して、話相手は、はっきりした言葉をソクラテスから引出したいのだが、遂にうまくいかないのである。どんな高徳な人と言われているものも、恐ろしい、無法の欲望を内に隠し持っている、という事をくれぐれも忘れるな、それは君が、君の理性の眠る夜、見る夢を観察してみればすぐわかる事だ、ソクラテスは、そういう話をくり返すだけだ。

そういう人間が集まって集団となれば、それは一匹の巨大な獣になる。みんな寄ってたかって、これを飼いならそうとするが、獣はちと巨き過ぎて、その望むところを悉く知る事は不可能であり、何処を撫でれば喜ぶか、何処に触れば怒りだすか、そんな事をやってみるに過ぎないのだが、手間をかけてやっているうちには、様々な意見や学説が出来上り、それを知識と言っているが、知識の尺度はこの動物が握っているのは間違いない事であるから、善悪も正不正も、この巨獣の力に奉仕し、屈従する程度によって定まる他はない。何が古風な比喩であろうか。

プラトンは、社会という言葉を使っていないだけで、正義の歴史的社会的相対性という現代に広く普及した考えを語っている。今日ほど巨獣が肥った事もないし、その馴らし方に、人びとが手を焼いている事もない。小さな集団から大国家に至るまで、争ってそれぞれの正義を主張して互いに譲る事が出来ない。真理の尺度は依然として巨獣の手にあるからだ。ただ社会という言葉を思い附いたと言って、どうして巨獣を聖化する必要があろうか。

ソクラテスは、巨獣には、どうしても勝てぬ事をよく知っていた。この徹底した認識が彼の死であったとさえ言ってよい。巨獣の欲望に添う意見は善と呼ばれ、添わぬ意見は悪と呼ばれるが、巨獣の欲望そのものの動きは、ソクラテスに言わせれば正不正とは関係のない「必然」の動きに過ぎず、人間はそんなものに負けてもよいし、勝った人間もありはしない。ただ、彼は、物の動きと精神の動きとを混同し、必然を正義と信じ、教育者面をしたり指導者面をしているソフィスト達を許す事が出来なかったのである。巨獣の比喩は、教育の問題が話題となった時、ソクラテスが持出すのだが、ソクラテスは、大衆の教育だとか、民衆の指導だとかいう美名を全く信じていない。巨獣の欲望の必然の運動は難攻不落であり、民衆の集団的な言動は、事の自然な成行きと同じ性質のものである以上、正義を教える程容易な事があろうか。この種の教育者の仕事は、必ず成功する。彼は、その口実を見抜かれる心配はない、彼の意見は民衆の意見だからだ。

もし、ソクラテスが、プロパガンダという言葉を知っていたら、教育とプロパガンダの混同は、ソフィストにあっては必至のものだと言ったであろう。言うまでもなく、ソクラテスは、この世に本当の意味での教育というものがあるとすれば、自己教育しかない、或はその事に気づかせるあれこれの道しかない事を確信していた。もし彼が今日まで生きていたら、現代のソフィスト達が説教している事、例えばマテリアリズムというものを、弁証法とか何とか的とか言う言葉で改良したらヒューマニズムになるというような詭弁を見逃すわけはない。事実を見定めずにレトリックに頼るソフィストの習慣は、アテナイの昔から変わっていない、と彼は言うだろう。

イデオロギイは空言でも美辞でもない、その基底には、歴史の必然による要請がある、と現代のソフィスト達は、口をそろえて言うだろうが、ソクラテスの炯眼をごまかすわけにはいくまい。嘘をつかない方がよい、基底には、君自身が隠し持っている卑屈な根性がある。君達は自己欺瞞がつづき、君たちのイデオロギイが正義の面を被っていられるのも、敵対するイデオロギイを持った集団が君達の眼前にある間だ。みんな一緒に、同じイデオロギイを持って暮さねばならぬ時が来たら、君達は、極く詰らぬ瑣事から互いに争い出すに決っている。そうなってみて、君達は初めて気がつくだろう。歴史的社会という言葉は、一匹の巨獣という言葉より遥かに曖昧な比喩だという事に気がつくだろう。

社会は一匹の巨獣である、では社会学にはならぬ。そんな事を言って、プラトンを侮るまい。いよいよ統計学に似て来る近代社会学には、統計学の要求に屈して、人間を、計算に便利な人間という単位で代置する誘惑が避け難い。この傾向は、人間について何が新しい発見を語る事なのか、それとも来るべきソフィスト達の為に、己惚れの種を播く事なのか。一応疑ってみた方がよいだろう。

ソクラテスの話相手は、子供ではなかった。経験や知識を積んだ政治家であり、実業家であり軍人であり、等々であった。彼は、彼らの意見や考えが、彼等の気質に密着し、職業の鋳型で鋳られ、社会の制度にぴったりと照応し、まさにその理由から、動かし難いものだ、と見抜いた。彼は、相手を説得しようと試みた事もなければ、侮辱した事もない。ただ、彼は、彼等は考えている人間ではない、と思っているだけだ。彼等自身、そう思いたくないから、決してそう思いはしないが、実は、彼等は外部から強制されて考えさせられているだけだ。巨獣の力のうちに自己を失っている人達だ。自己を失った人間ほど強いものはない。では、そう考えるソクラテスの自己とは何か。

プラトンの描き出したところから推察すれば、それは凡そ考えさせられるという事とは、どうあっても戦うという精神である。プラトンによれば、恐らく、それが、真の人間の刻印である。ソクラテスの姿は、まことに個性的であるが、それは個人主義などという感傷とは縁もゆかりもない。彼の告白は独特だが、文学的浪漫主義とは何の関係もない。彼は、自己を主張しもしなければ、他人を指導しようともしないが、どんな人とも、驚くほど率直に、心を開いて語り合う。すると無智だと思っていた人は、智慧の端緒をつかみ、智者だと思っていた者は、自分を疑い出す。要するに、話相手は、皆、多かれ少かれ不安になる。そういう不安になった連中の一人が、ソクラテスに言う。
「君は、疑いで人の心をしびれさせる電気鰻に似ている」
ソクラテスは答える。
「いかのもそうだ、併し、電気鰻は、自分で自分をしびれさせているから、人をしびれさせる事が出来る、私が、人の心に疑いを起こさせるのは、私の心が様々な疑いで一杯だからだ」と。
(……)
お終いに、ソクラテスが、民主主義政体について語っているところ、これはまことに精妙であって、要約は難しいが(「国家」第八巻)、附記して置こうか。言うまでもなく、この政体の最大の所有物は平等と自由とであるが、この政体に最も適した人間は、自分の内に持つ様々な欲望を平等に自由に解放している人間に相違なく、それ故、又、人間性格の様々な類型を、一人で演ずる事の出来るような人間であり、元気で敏感で、先生は生徒に媚び、老人は青年に順応し、亭主は女房を恐れ、女房は飼犬を尊敬し、というような事は一番苦もない事と言える人間達だ。政治関係にしても、為政者は、圧制者の評判をとるのが一番恐いから、まるで被治者のような治者が尊敬されるだろうし、逆に、自由の名の下に、為政者に反抗する、治者のような被治者が一番人気を集めるだろう。

政治は普通思われているように、思想の関係で成立するものではない。力の関係で成立つ。力が平等に分配されているなら、数の多い大衆が強力である事は知れ切った事だが、大衆は指導者がなければ決して動かない。だが一度、自分の気に入った指導者が見つかれば、いやでも彼を英雄になるまで育て上げるだろう。権力慾は誰の胸にも眠っている。民主主義の政体ほど、タイラントの政治に顛落する危険を孕んでいるものはない。では、何故、指導者がタイラントになるか。この諧謔を交えた仮借ない分析を辿るには全文を要するのだが、プラトンの政治思想の骨組は、はっきり透けて見える。

ソクラテスの定義によれば、指導者とは、自己を売り、正義を買った人間だ。誰が血腥いタイラントになりたいだろう。だから、誰もなるものではない、否応なくならされるのだ、とソクラテスは言う。正義に酔った指導者が、どうして自分のうちに、人間を食う欲望のひそんでいる事を知ろうか。「狼の山」に建てられた神殿にそなえられた生贄の肉の中に、子供の内臓が混じっていたのを知らずに食べたものは、狼になるのが運命だ。彼の運命は劇的でもあり、悲壮でもあるので、よく芝居などにも仕組まれるのさ。

政治の地獄をつぶさに経験したプラトンは、現代知識人の好む政治への関心を軽蔑はしないだろうが、政治への関心とは言葉への関心とは違うと、繰返し繰返し言うであろう。政治とは巨獣を飼いならす術だ。それ以上のものではあり得ない。理想国は空想に過ぎない。巨獣には一かけらの精神もないという明察だけが、有効な飼い方を教える。この点で一歩でも譲れば、食われて了うであろう、と。