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2019年2月23日土曜日

愛とは両性の命がけの憎悪である

亭主とか女房なんてえものは、一人でたくさんなもので、これはもう人生の貧乏クヂ、そッとしておくもんですよ。…惚れたハレたなんて、そりや序曲といふもんで、第二楽章から先はもう恋愛などゝいふものは絶対に存在せんです。哲学者だの文士だのヤレ絶対の恋だなんて尤もらしく書きますけれどもね、ありや御当人も全然信用してゐないんで、愛すなんて、そんなことは、この世に実在せんですよ。(坂口安吾『金銭無情』1947年)

…………

愛とは本源的にはマゾヒズム、自己破壊欲動である(参照:なぜエロス欲動は死の欲動なのか)。

まずマゾヒズムについてのフロイト・ラカンの捉え方はこうである。
マゾヒズムはサディズムより古い。der Masochismus älter ist als der Sadismus…

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向 Tendenz zur Selbstdestruktioから逃れるために、他の物や他者を破壊する anderes und andere zerstören 必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい暴露だろうか!(フロイト『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」1933年)
享楽は現実界にある。la jouissance c'est du Réel. …マゾヒズムは現実界によって与えられた享楽の主要形態である。Le masochisme qui est le majeur de la Jouissance que donne le Réel, フロイトはこれを発見した。すぐさまというわけにはいかなかったが。il l'a découvert, il l'avait pas tout de suite prévu.(ラカン、S23, 10 Février 1976)

「すぐさまというわけにはいかなかった」というのは、1919年までのフロイトは、《マゾヒズムは、原欲動の顕れ primäre Triebäußerung ではなく、サディズム起源のものが、自我へと転回、すなわち、退行Regressionによって、対象から自我へと方向転換したものである》(『子供が打たれる』1919年)としていたからである。


プラトン=アリストパネスの定義上において、エロスとは、マゾヒズムあるいは自己破壊欲動と捉えうる。

すべての人の望みであり、みな自分がはっきりと言うことのできなかった望みの正体は、自分の愛する人と溶け合い、一つになることである。(プラトン『饗宴』)

一つになれば、つまり二者が一者に融合すれば、主体の死である。

エロスは接触 Berührung を求める。エロスは、自我と愛する対象との融合Vereinigung をもとめ、両者のあいだの間隙 Raumgrenzen を廃棄(止揚 Aufhebung)しようとする。(フロイト『制止、症状、不安』1926年)





エロスは二つが一つになることを基盤にしている。l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux (⋯⋯)

「一(L'Un)」(一つになること)、きみたちが知っているように、フロイトはしばしばこれに言及したが、それがエロスの本質 essence de l'Éros だと。融合 fusion という本質、すなわちリビドーはこの種の本質があるというヤツ、「二(deux)」が「一」になる faire Un 傾向をもつというヤツだ。ああ、神よ、この古くからの神話…まったくもって良い神話じゃない…一つになるなんてのは根源的緊張 tensions fondamentales を生むしかないよ (ラカン、S19、 03 Mars 1972 Sainte-Anne)
ひとつになることがあるとしたら、ひとつという意味が要素 élément、つまり死 la mort に属するものの意味に繋がるときだけだ。 S'il y a quelque chose qui fait l'Un, c'est quand même bien le sens, le sens de l'élément, le sens de ce qui relève de la mort.(ラカン、三人目の女 La troisième、1er Novembre 1974)

したがって、この融合欲動に対する分離欲動、タナトスが生まれる。

エンペドクレス Empedokles の二つの根本原理―― 愛 philia[φιλία]と闘争neikos[νεῖκος ]――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの原欲動 Urtriebe、エロスErosと破壊 Destruktion と同じものであ る。エロスは現に存在しているものをますます大きな統一へと結びつけ zusammenzufassenようと努める。タナトスはその融合 Vereinigungen を分離aufzulösen し、統一によって生まれたものを破壊zerstören しようとする。 (フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

ニーチェの愛の定義はここにある。

わたしがかつて愛Liebeにたいして下した定義を誰か聞いていた者があったろうか? それは、哲学者の名に恥じない唯一の定義である。すなわち、愛とはーー戦いを手段 Mitteln der Kriegとして行なわれるもの、そしてその根底において両性の命がけの憎悪Todhass der Geschlechterなのだ。(ニーチェ『この人を見よ』)
自分が愛するからこそ、その愛の対象を軽蔑せざるを得なかった経験のない者が、愛について何を知ろう!Was weiss Der von Liebe, der nicht gerade verachten musste, was er liebte! (ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「創造者の道」)

すなわち、フロイト曰くのエロスとタナトス(愛と闘争)の「欲動混淆 Triebvermischung」1924)である。前期フロイトは「愛憎コンプレクス. Liebe-Haß-Komplex」(1909)とも呼んでいる。

死の枕元にあったとされる草稿にはこうもある。

性行為 Sexualakt は、最も親密な融合 Vereinigung という目的をもつ攻撃性 Aggressionである。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

ここまで記してきたことは、次の文に収斂する。

エロス欲動は大他者と融合して一体化することを憧憬する。大他者の欲望と同一化し同時に己れの欠如への応答を受け取ることを渇望する。ここでの満足は同時に緊張を生む。満足に伴う危険とは何か? それは、主体は己自身において存在することを止め、大他者との融合へと消滅してしまうこと(主体の死)である。ゆえにここでタナトス欲動が起動する。主体は大他者からの自律と分離へと駆り立てられる。これによってもたらされる満足は、エロス欲動とは対照的な性質をもっている。タナトスの分離反応は、あらゆる緊張を破壊し主体を己自身へと投げ戻す。

ここにあるのはセクシャリティのスキャンダルである。我々は愛する者から距離をとることを余儀なくされる。極論を言えば、我々は他者を憎むことを愛する。あるいは他者を愛することを憎む。(ポール・バーハウ Paul Verhaeghe, Sexuality in the Formation of the Subject, 2005年)

もしこうでなければ、愛の関係ではなく事実上、友人関係となっている筈である。

もっともこの友人関係が一番望ましいという立場もあろう。




浮気っぽい私のことで、浮気は人並以上にやるだろうが、私が私の家へ回帰する道を見失うことは決してあり得ない。私は概ねブッチョウ面で女房に辛く対することはシキリであるし、茶ノミ友だち的な対座で満足し、女房と一しょに家にいて時々声をかけて用を命じる程度の交渉が主で、肉体的な交渉などは忘れがちになっているが、それは私の女房に対する特殊な親愛感や愛情が、すでに女というものを超えたところまで高まっているせいだろうと私は考えている。私はとッくに女房に遺言状すらも渡しているのだ。どの女のためよりも、ただ女房の身を思うのが私の偽らぬ心なのである。それはもう女という観念と質のちごうものだ。そして女房に献身のある限り、私の気質に変ることは有りえない。つまり私は決して私と女房とを平等には見ておらぬ証拠で、女房とは女房という職業婦人であるが、すでにカケガエのない唯一の職業婦人として他の女たちと質のちごう存在になっていることが確かなのである。(坂口安吾「安吾人生案内 その八 安吾愛妻物語」)

逆に愛とは、ボードレールのいうようなものである。

恋愛は拷問または外科手術にとても似ているということを私の覚書のなかに既に私は書いたと思う。(⋯⋯)たとえ恋人ふたり同士が非常に夢中になって、相互に求め合う気持ちで一杯だとしても、ふたりのうちの一方が、いつも他方より冷静で夢中になり方が少ないであろう。この比較的醒めている男ないし女が、執刀医あるいは体刑執行人である。もう一方の相手が患者あるいは犠牲者である。(ボードレール、Fusées)

2018年6月16日土曜日

その女なしでは記憶に戻って来なかったこと

フロイトの《愛のつながり Liebesbeziehungen》(感情的結びつき Gefühlsbindungen)ってのは、《享楽のカーテン voilement de la jouissance》(ラカン、S19)をすることさ、それしかないね。

 ボクに言わせれば、二流のフェミニスト系現代思想の書を読むなんて、百害あって一利なしだよ。あの連中ってのは、コプチェクのいうように、《性を中性化し(⋯⋯)、性差からセクシャリティを取り除いてしまった》 (Sexual Difference : Joan Copjec、2012)オネエサンたちだよ。20世紀後半の最大の不幸だね。いまだってその後遺症をひどく引き摺っている。

あれら「カボチャ頭」の思想家を読むなんて、「真の女にとっては」不幸になるだけさ。安吾でも読んでたほうがずっといい。

亭主とか女房なんてえものは、一人でたくさんなもので、これはもう人生の貧乏クヂ、そッとしておくもんですよ。…惚れたハレたなんて、そりや序曲といふもんで、第二楽章から先はもう恋愛などゝいふものは絶対に存在せんです。哲学者だの文士だのヤレ絶対の恋だなんて尤もらしく書きますけれどもね、ありや御当人も全然信用してゐないんで、愛すなんて、そんなことは、この世に実在せんですよ。(坂口安吾『金銭無情』1947年)

《エロスは二つが一になることだよ l'Éros se fonde de faire de l'Un avec les deux》、そんなことはありえないのだから、《きみはきみの幻想を享楽するだけだ Vous ne jouissez que de vos fantasmes》(Lacan, S19)

幻想を享楽する?

私は言いうる、ラカンはその最後の教えで、すべての象徴秩序は妄想だと言うことに近づいたと。…

ラカンは1978年に言った、 ‘tout le monde est fou, c'est-à-dire, délirant'、すなわち「人はみな狂っている、人はみな妄想する」と。…あなたがた自身の世界は妄想的である。我々は言う、幻想的と。しかし幻想的とは妄想的のことである。(ミレール 、Ordinary psychosis revisited、2009)

ようは妄想を剰余享楽するってことさ、あるいは《享楽欠如の享楽 jouir du manque à jouir》(コレット・ソレール、2013)をするってことだな。

すべてが見せかけsemblant(仮象)ではない。或る現実界 un réel がある。社会的つながり lien social の現実界は、性関係の不在(性的非関係)である。無意識の現実界は、話す身体 le corps parlant(欲動の現実界)である。象徴秩序が、現実界を統制し、現実界に象徴的法を課す知として考えられていた限り、臨床は、神経症と精神病とにあいだの対立によって支配されていた。象徴秩序は今、見せかけのシステムと認知されている。象徴秩序は現実界を統治するのではなく、むしろ現実界に従属していると。それは「性関係はない」という現実界へ応答するシステムである。(ミレー 2014、L'INCONSCIENT ET LE CORPS PARLANT)

ボクも妄想はすきさ、ああ、ボクノ情熱 passion! ボクノ受苦! 





そのあいだも私は、アルベルチーヌが私にわたしたブロック・ノートの紙きれの、「私はあなたが好きよ Je vous aime bien」のことを考えていた。(プルースト「花咲く乙女たちのかげにⅡ」)

とはいえボクのアルベルチーヌは、他の男の前で脱いじゃうんだな、ボクだけの前では梨のつぶてだったのに。





妄想を剰余享楽するのはいいさ、でもそれは妄想にすぎないってことを熟知しておかなくちゃな。それが安吾が次のように言ってることだよ。

私自身が一人の女に満足できる人間ではなかつた。私はむしろ如何なる物にも満足できない人間であつた。私は常にあこがれてゐる人間だ。

 私は恋をする人間ではない。私はもはや恋することができないのだ。なぜなら、あらゆる物が「タカの知れたもの」だといふことを知つてしまつたからだつた。

 ただ私には仇心があり、タカの知れた何物かと遊ばずにはゐられなくなる。その遊びは、私にとつては、常に陳腐で、退屈だつた。満足もなく、後悔もなかつた。(坂口安吾『私は海をだきしめてゐたい 』1947年)

でも安吾はこう言っておいて、舌の根も乾かぬうちに、1947年9月、向島の料亭の娘三千代さんと結婚して生涯の伴侶としたんだよな。ま、そういうもんさ、オトコってのは。



2017年12月13日水曜日

1947年の安吾

1947年6月1日

坂口安吾といふ三文々士が女に惚れたり飲んだくれたり時には坊主にならうとしたり五年間思ひつめて接吻したら慌ててしまつて絶交状をしたゝめて失恋したり、近頃は又デカダンなどと益々もつて何をやらかすか分りやしない。もとより鑑賞に堪へん。第一奴めが何をやりをつたにしたところで、そんなことは奴めの何物でもない。かう仰有るにきまつてゐる。奴めが何物であるか、それは奴めの三文小説を読めば分る。教祖にかゝつては三文々士の実相の如き手玉にとつてチョイと投げすてられ、惨又惨たるものだ。 

ところが三文々士の方では、女に惚れたり飲んだくれたり、専らその方に心掛けがこもつてゐて、死後の名声の如き、てんで問題にしてゐない。教祖の師匠筋に当つてゐる、アンリベイル先生の余の文学は五十年後に理解せられるであらう、とんでもない、私は死後に愛読されたつてそれは実にたゞタヨリない話にすぎないですよ、死ねば私は終る。私と共にわが文学も終る。なぜなら私が終るですから。私はそれだけなんだ。(坂口安吾「教祖の文学」 初出:「新潮 第四四巻第六号」1947(昭和22)年6月1日発行)
我々小説家が千年一日の如く男女関係に就て筆を弄し、軍人だの道学先生から柔弱男子などと罵られてゐるのも、人生の問題は根本に於て個人に帰し、個人的対立の解決なくして人生の解決は有り得ないといふ厳たる人生の実相から眼を転ずることが出来ないからに外ならぬ。(坂口安吾「咢堂小論」初出1947(昭和22)年6月1日)
哲学者だの文士だのヤレ絶対の恋だなんて尤もらしく書きますけれどもね、ありや御当人も全然信用してゐないんで、愛すなんて、そんなことは、この世に実在せんですよ。(坂口安吾「金銭無情」初出:「別冊文藝春秋 第二巻第三号」文藝春秋新社 1947(昭和22)年6月1日発行)


1947年1月1日
坂口安吾などというのが、本当はインチキそのものなので、私が偉そうに、先輩諸先生をヤッツケ放題にヤッツケているのなど、自分自身のインチキ性に対する自戒の意味、その悪戦苦闘だということを御存知ない。(坂口安吾「戯作者文学論――平野謙へ・手紙に代えて――」初出:「近代文学 第二巻第一号」1947(昭和22)年1月1日発行)
編輯者諸君は僕が怒りんぼで、ヤッツケられると大憤慨、何を書くか知れないと考へてゐるやうだけれども、大間違ひです。僕自身は尊敬し、愛する人のみしかヤッツケない。僕が今までヤッツケた大部分は小林秀雄に就てです。僕は小林を尊敬してゐる。尊敬するとは、争ふことです。(坂口安吾「花田清輝論」初出:「新小説 第二巻第一号」1947(昭和22)年1月1日発行)


1947年は安吾もっとも多作の年であり、かつまた梶三千代と出会い、結婚した年である(参照)。

私は知っている。彼は恋に盲いる先に孤独に盲いている。だから恋に盲いることなど、できやしない。彼は年老い涙腺までネジがゆるんで、よく涙をこぼす。笑っても涙をこぼす。しかし彼がある感動によって涙をこぼすとき、彼は私のためでなしに、人間の定めのために涙をこぼす。彼のような魂の孤独な人は人生を観念の上で見ており、自分の今いる現実すらも、観念的にしか把握できず、私を愛しながらも、私をでなく、何か最愛の女、そういう観念を立てて、それから私を現実をとらえているようなものであった。(坂口安吾「青鬼の褌を洗う女」 初出:「愛と美」朝日新聞社 1947(昭和22)年10月5日発行)





2017年11月5日日曜日

人間の実相

私が信頼を寄せれば、彼は正直な人間でいる。私が心のうちで彼をとがめていると、彼は私のものを盗む。どんな人間でも、私のあり方次第で私にたいする態度をきめるのである。(アラン「オプチミスム」)

いやあスバラシイ! 至高のモラリスト、わが青春のたぐいまれなる教師!《チョークの粉がつくる雲の中で教師然としているアラン!》(ラカン)

ひとはフロイトなど読んではならないのである。

われわれにとって隣人は、たんにわれわれの助手や性的対象たりうる存在であるばかりでなく、 われわれを誘惑して、 自分の攻撃欲動を満足させ、相手の労働力をただで利用し、相手をその同意をえずに性欲の道具として使用し、相手の持物を奪い、相手を貶め、苦しめ、虐待し、殺害するようにさせる存在でもある。 (フロイト『文化のなかの居心地の悪さ』1930年)

 ーー実にフロイトはヒドイことを言う。まるでマルキ・ド・サドみたいである。

我々は、自らを破壊しないように、つまり自己破壊欲動傾向から逃れるために、他の物や他者を破壊する必要があるようにみえる。ああ、モラリストたちにとって、実になんと悲しい暴露だろうか!(フロイト 1933、『新精神分析入門』32講「不安と欲動生活 Angst und Triebleben」)

われわれは通俗道徳の鑑、アランに従うべきである! 

これらの徳目(通俗道徳)の否定を口にするものに対してわれわれは自由人として敬意を表するにしても、否定の端的な実践者との交友は危険だと感じやすい。したがってわれわれの側も、この通俗道徳を一種の通行証として提出し、みずからの対人的安全保障を得る。(中井久夫『分裂病と人類』)

自由人、いわゆる青鬼の作品など読んではならぬ! 《人は幸福だから笑うのではない、笑うから幸福なのである》(アラン)。これこそ(旧?)モラリスト蚊居肢散人による、善人の皆さんへの至高の教訓である。

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変りはない。(坂口安吾『続堕落論』初出1946年ーー安吾の「無頼・アモラル・非意味」

ーーこっちのほうは、反面教師の言葉であるのは、皆さんはすぐお分りになったことであろう。

ホンモノの悪党は、悲痛なものだ。人間の実相を見ているからだ。人間の実相を見つめるものは、鬼である。悪魔である。この悪魔、この悪党は神に参じる道でもある。ついにアリョーシャの人格を創造したドストエフスキーは、そこに参ずる通路には、悪党だけしか書くことができなかったではないか。(坂口安吾『織田信長』初出1948年)

とはいえアリョーシャである、悪魔を知らねばアリョーシャは生まれないらしい・・・もちろん安吾によれば、であるが。いや小林秀雄も《悪魔が信じられないような人に、どうして天使を信ずる力があろう。諸君の怠惰な知性は、幾百万の人骨の山を見せられた後でも、「マイン・カンプ」に怪しげな逆説を読んでいる》(「ヒットラーと悪魔」)などとオッシャッテオラレル。

ヘーゲルも似たようなことを言っている・・・

精神は、否定的なものを見据え Negativen ins Angesicht schaut、否定的なもの Negativen に留まる verweilt からこそ、その力をもつ。このように否定的なものに留まることが、否定的なものを存在に転回する魔法の力 Zauberkraft である。(ヘーゲル『精神現象学』「序論」、1807年ーー血みどろになつた處

ーー「否定的なもの」とは、善人のみなさんの禁断の書き手ジジェクによれば、「死の欲動」であるが、ま、これを承諾しても、みなさんには何の問題もない。否定的なもの、人生のネガなど見て見ないふりをして人生を送ったらいいのである。皆さんには精神の魔法の力など毛筋ほども必要ない。

ラカンによれば哲学者でさえ目をそらしているそうだから、巷間の善人の皆さんにどうしてそんなことを求められようか?

真理における唯一の問い、フロイトによって名付けられたもの、「死の本能 instinct de mort」、「享楽という原マゾヒズム masochisme primordial de la jouissance」 …全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。(ラカン、S13, 08 Juin 1966ーー享楽という原マゾヒズム

もちろん瞳を逸らすことが必要なだけではない。耳にも栓をしなければならない。

世論と共に考えるような人は、自分で目隠しをし、自分で耳に栓をしているのである。(ニーチェ『反時代的考察』)

ようするに善人のみなさんは、ほどよく善人であればよいのである。つまりは美しき魂に専念せねばならぬ、《完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども》(ニーチェ)ーー気楽に、《父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行》けばよいのである。

われわれ現代日本人は、戦争もしらず、シリアに住んでもおらず、ユダヤ人でもない。安吾のいう「人間の実相」など知らんぷりでよいのである!

あのころは、まるでもう配給量が人間の値打を規定していたようなものだ。老人が孫の特配を盗んで野良猫のような罵倒をうける例は近隣でしばしば見かける風景であった。(坂口安吾「親が捨てられる世相」)

中井久夫は不幸にも「人間の実相」を知ってしまったらしい。 《最晩年の祖父は私たち母子にかくれて祖母と食べ物をわけ合う老人となって私を失望させた》。

ここでは父方であるが、多くを語るのがためらわれるのは、私の世代、つまり敗戦の時、小学五、六年から中学一年生であった人で「オジイサンダイスキ」の方が少なくないからである。明治人の美化は、わが世代の宿痾かもしれない。私もその例に漏れない。大正から昭和初期という時代を「発見」するのが実に遅かった。祖父を生きる上での「モデル」とすることが少なくなかった。

精神分析的にみれば、これは、子どもは父に対抗するために、弱い自我を祖父で補強するということになる。これは一般的には「祖先要求性」(Ahnenanspruch)というのであるが、祖先といっても実際に肌のぬくもりとともに思い出せるのは祖父母どまりであろう。「明治」を楯として「大正」に拮抗するといえようか。

最晩年の祖父は私たち母子にかくれて祖母と食べ物をわけ合う老人となって私を失望させた。昭和十九年も終りに近づき、祖母が卒中でにわかに世を去った後の祖父は、仏壇の前に早朝から坐って鐘を叩き、急速に衰えていった。食料の乏しさが多くの老人の生命を奪っていった。二十年七月一八日、米艦船機の至近弾がわが家をゆるがせた。超低空で航下する敵機は実に大きく見えた。祖父は突然空にむかって何ごとかを絶叫した。翌日、私に「オジイサンは死ぬ。遺言を書き取れ」と言い、それから食を絶って四日後に死んだ。(中井久夫「Y夫人のこと」初出1993『家族の深淵』所収)

われわれ幸福な現代日本人は、こんな風に人間の実相を知ることはない。またサラエボにも住んでいない。

耐え難いのは差異ではない。耐え難いのは、ある意味で差異がないことだ。サラエボには血に飢えたあやしげな「バルカン人」はいない。われわれ同様、あたりまえの市民がいるだけだ。この事実に十分目をとめたとたん、「われわれ」を「彼ら」から隔てる国境は、まったく恣意的なものであることが明らかになり、われわれは外部の観察者という安全な距離をあきらめざるをえなくなる。(ジジェク『快楽の転移』)

現代日本人は、稀には「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している」病人に出会うだろうが、ま、この程度の「人間の実相」ならなんとかやりすごせる筈である。善人のみさなん、ぜひとも通俗道徳に徹して生きながらえるべきである! 

器質的な痛苦や不快に苦しめられている者が外界の事物に対して、それらが自分の苦痛と無関係なものであるかぎりは関心を失うというのは周知の事実であるし、また自明のことであるように思われる。これをさらに詳しく観察してみると、病気に苦しめられているかぎりは、彼はリピドー的関心を自分の愛の対象から引きあげ、愛することをやめているのがわかる。(……)W・ブッシュは歯痛に悩む詩人のことを、「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している」と述べている。リビドーと自我への関心とがこの場合は同じ運命をもち、またしても互いに分かちがたいものになっている。周知の病人のエゴイズムなるものはこの両者をうちにふくんでいる。われわれが病人のエゴイズムを分かりきったものと考えているが、それは病気になればわれわれもまた同じように振舞うことを確信しているからである。激しく燃えあがっている恋心が、肉体上の障害のために追いはらわれ、完全な無関心が突然それにとってかわる有様は、喜劇にふさわしい好題目である。(フロイト『ナルシシズム入門』1914年)

ところで最近柄谷行人はこう言っている、《人間には無機質の状態に回帰しようとする欲動があり、これをフロ イトは「死の欲動」と名付けた。安吾を動かしているのは、この死の欲動です。》(柄谷行人氏ロングインタビュー <すべては坂口安吾から学んだ>、2017年10月26日

この死の欲動の解釈については、ラカンはやや異なるのだが(「「死の欲動」という「不死の欲動」」)、ま、それはこの際どうでもよろしい。

フロイトは最晩年まで確かに柄谷の言うように言ってるんだから。

破壊欲動の最終的な目標は、生きた物 das Lebende を無機的状態 anorganischen Zustand へ還元することだと想定しうる。この理由で、破壊欲動を死の欲動 Todestrieb とも呼ぶ。(フロイト『精神分析概説』草稿、死後出版1940年)

というわけで(?)、死の欲動に衝き動かされた坂口安吾などという作家は、善人の皆さんはけっして読んではならぬ、ここでの論旨はこれに尽きる! もちろん「作家」などという種族の書き物を読むべきではない、と言ってもよいが、とはいえ善人向きの「作家」もいるそうであるから、本を読むな、と言っているわけではない。

流行におもねり、支配的な党派のご機嫌をうかがって、自然から授かったエネルギーを捨てて、提灯持ちばかりやっている、卑しいごますり作家どもに災いあれ。(マルキ・ド・サド「文学的覚書」『ガンジュ侯爵夫人』所収)

ことさら支配的党派の「作家」でなくてもよい。善人の皆さんのうちでも支配党派に背を向けて小党派の高踏趣味に耽りたい方々もいるだろう、そういう方々は秘教的芸術集団に属する「作家」を読めばよいのである。

⋯⋯仲間の作品批評になると点が甘くなる。党派に依存するさもしさで、文学は常に一人一党だ。(坂口安吾『感想家の生れでるために』1948年)







2017年10月29日日曜日

安吾の「無頼・アモラル・非意味」

柄谷行人は、ごく最近、次のように言っている。

僕にとって、真に無頼派の名にふさわしいのは安吾ですね。この本の冒頭に書きましたが、 「無頼」という言葉は、一般に考えられているようなものではなく、「頼るべきところのないこと」 (『広辞苑』)です。つまり、それは他人に頼らないことです。その意味では、いわゆるヤクザは無頼とはほど遠い。組織に依存し親分に従い、他人にたかるのだから。その意味で、安吾はヤクザではなく、まさに「無頼」だった。太宰はそうではない。「無頼」であれば、そもそも共産党に入党しないし、転向もしない。彼は頼りっぱなしの人だった。自殺するときまで、他人に頼っている。そういうものを「無頼」とはいいません。言語の本来の意味では、「無頼派」 は安吾だけだったと思います。最初に読んだときから、自分には安吾が性に合っていた。(柄谷行人氏ロングインタビュー <すべては坂口安吾から学んだ>、2017年10月26日

無頼、すなわちアモラル、非意味だろう。

モラルがないといふこと自体がモラルであると同じやうに、救ひがないといふこと自体が救ひであります。

私は文学のふるさと、或ひは人間のふるさとを、こゝに見ます。文学はこゝから始まる――私は、さうも思ひます。 

アモラルな、この突き放した物語だけが文学だといふのではありません。否、私はむしろ、このやうな物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。…… だが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があらうとは思はれない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。そして、文学の批評も。私はそのやうに信じてゐます。(坂口安吾「文学のふるさと」1941)

柄谷は以前に書かれた安吾論でこう言っている。

彼がいう「ふるさと」は、普通の意味でのふるさとではない。たとえば、小林秀雄が「故郷喪失」という場合の「故郷」ではない。それは、われわれをあたたかく包み込む同一性ではなく、われわれを突き放す「他なるもの」である。それは意味でもなく無意味でもなくて、非意味である。(柄谷行人『終焉をめぐって』)
逆説的だが、「根を下ろす」ということは、「根」から突き放されることであり、いいかえればそのようにして「根」を感知することである。 (坂口安吾『坂口安吾と中上健次』)


とはいえ、安吾はーー再掲すればーーアモラルをそれほど高く評価しない、と言っている。

アモラルな、この突き放した物語だけが文学だといふのではありません。否、私はむしろ、このやうな物語を、それほど高く評価しません。なぜなら、ふるさとは我々のゆりかごではあるけれども、大人の仕事は、決してふるさとへ帰ることではないから。…… だが、このふるさとの意識・自覚のないところに文学があらうとは思はれない。文学のモラルも、その社会性も、このふるさとの上に生育したものでなければ、私は決して信用しない。(「文学のふるさと」)

ーーアモラルをそれほど高く評価しないが、このアモラルから生まれ育っていない文学は決して信用しない、と。これは、ヘーゲルが、人は「世界の夜 Nacht der Welt」に遭遇して、その否定性を見据えたときはじめて精神は力をもつ、というのとほとんど相同的である、とわたくしは思う。

精神は、否定的なものを見据え Negativen ins Angesicht schaut、否定的なもの Negativen に留まる verweilt からこそ、その力をもつ。このように否定的なものに留まることが、否定的なものを存在に転回する魔法の力 Zauberkraft である。(ヘーゲル『精神現象学』「序論」、1807年ーー血みどろになつた處

ラカンの格言《大他者の大他者はない il n'y a pas d'Autre de l'Autre》も、その究極的な意味合いは、神や存在の深淵に救いを求めてはならない、ということである。

柄谷の安吾論に出現する「非意味」とは、ラカン派も同様のことをいっている。《サントームの固有の享楽は意味からの排除(非意味)である。la jouissance propre au sinthome exclut le sens. 》(ミレール、2014)

後期ラカン自身の文なら次の通り。

la jouissance propre au symptôme. Jouissance opaque d'exclure le sens. (ラカン、AE570, JOYCE LE SYMPTOME、1975)

意味の排除、すなわち非意味(意味-不在 ab-sens)である。

フロイトは、非意味(意味-不在 ab-sens)が性を示すという手がかりをわれわれに与えてくれる。言葉が決着をつけるところでトポロジーが展開されるのは、この性的非関係(性不在-意味sens-absexe)の膨張によってである。 (ラカン、エトゥルディ、1972)

中期ラカンにおいては、《non-sensノンセンス》という言葉を使っているが、これも後期ラカンから遡及的に読めば、非意味のことであるだろう。

意味作用 signification の彼岸、あらゆるシニフィアンの彼岸、…非意味(ノンセンス)の、もはや還元されえぬ、トラウマ的なもの…これがトラウマの意味である。

au-delà de cette signification - à quel signifiant… non-sens, irréductible, traumatique, c'est là le sens du traumatisme (ラカン、S11、17 Juin 1964)

非関係 non-rapport、穴ウマ troumatismeという言葉もほぼ等価な表現である。すくなくともわたくしは(今のところ)そう考えている。

穴、それは非関係によって構成されている。un trou, celui constitué par le non-rapport(S22, 17 Décembre 1974)
我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を生む。

nous savons tous parce que tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ». (ラカン、S21、19 Février 1974 )

※参照:「反アナーキー的作家」のために

⋯⋯⋯⋯

ここで、安吾の《救ひがないといふこと自体が救ひ》という表現に反応して、ギリシャの小説家、詩人、政治家であったニコス・カザンザキスの「救いがないことが救い」を引用しよう。

最も重要な救済は、まさに救済の考え方からの救済である。(ニコス・カザンザキス Nikos Kazantzakis,Report to Greco,1973)

わたくしはさるラカン派の引用でこの言葉を知ったにすぎないが、この救いがないという救い(無)に直面してどうすべきなのか。

《なぜ我々は新しいシニフィアンを発明しないのか? たとえば、それはちょうど現実界のように、非意味 aucune espèce de sens のシニフィアンを。Pourquoi est-ce qu'on n'inventerait pas un signifiant nouveau? Un signifiant par exemple qui n'aurait, comme le réel, aucune espèce de sens?》(ラカン, S24 、17 Mai 1977)

ラカンはこの自己によって創造されるフィクションを、サントームと呼んだ。…新しいシニフィアン或いはサントームの創造の文脈における創造とは、大他者の欠如の上に築き上げられるものである。すなわち 「creatio ex nihilo 無からの創造」においてのみ。(ポール・バーハウ、Paul Verhaeghe and Declercq"Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way"2002)

上にあるように、「無からの創造 Creatio ex nihilo」(非関係・非意味に遭遇して主体自らが固有の支えを創造すること)、これがラカンのサントームである。あるいは、《最後のラカンにおいて、父の名はサントームと定義されている défini le Nom-du-Père comme un sinthome》(ミレール、2013、L'Autre sans Autre、PDF)、大他者の大他者、すなわち象徴的大他者を支える大他者(父の名)はサントームである。

もっともサントームには別に原症状の意味もあるが、ーー《症状(原症状)は身体の出来事である。le symptôme à ce qu'il est : un événement de corps》(ラカン、JOYCE LE SYMPTOME, AE.569、1975)

さて上のバーハウ他のサントーム論には「大他者の欠如」とあるが、これは最近の主流ラカン派による解釈に則れば、「大他者の穴」とするほうがより正確である。

◆ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え Le dernier enseignement de Lacan, 6 juin 2001」 LE LIEU ET LE LIEN Jacques Alain Miller Vingtième séance du Cours, pdfより

穴 trou の概念は、欠如 manque の概念とは異なる。この穴の概念が、後期ラカン教えを以前のラカンとを異なったものにする。

この相違は何か? 人が欠如を語るとき、場 place は残ったままである。欠如とは、場のなかに刻まれた不在 absence を意味する。欠如は場の秩序に従う。場は、欠如によって影響を受けない。この理由で、まさに他の諸要素が、ある要素の《欠如している manque》場を占めることができる。人は置換 permutation することができるのである。置換とは、欠如が機能していることを意味する。

欠如は失望させる。というのは欠如はそこにはないから。しかしながら、それを代替する諸要素の欠如はない。欠如は、言語の組み合わせ規則における、完全に法にかなった権限 instance である。

ちょうど反対のことが穴 trou について言える。ラカンは後期の教えで、この穴の概念を練り上げた。穴は、欠如とは対照的に、秩序の消滅・場の秩序の消滅 disparition de l'ordre, de l'ordre des places を意味する。穴は、組合せ規則の場処自体の消滅である Le trou comporte la disparition du lieu même de la combinatoire。これが、斜線を引かれた大他者 grand A barré (Ⱥ) の最も深い価値である。ここで、Ⱥ は大他者のなかの欠如を意味しない Grand A barré ne veut pas dire ici un manque dans l'Autre 。そうではなく、Ⱥ は大他者の場における穴 à la place de l'Autre un trou、組合せ規則の消滅 disparition de la combinatoire である。

穴との関係において、外立がある il y a ex-sistence。それは、剰余の正しい位置 position propre au resteであり、現実界の正しい位置 position propre au réel、すなわち意味の排除 exclusion du sensである。(ジャック=アラン・ミレール、後期ラカンの教えLe dernier enseignement de Lacan, LE LIEU ET LE LIEN , Jacques Alain Miller Vingtième séance du Cours, 6 juin 2001)

※より詳細には、 「S(Ⱥ)、あるいは欠如と穴」を見よ

さて主体$は大他者の穴、すなわちȺに遭遇したとき、大他者の穴だけではなく、主体自身の穴にも遭遇する(ほとんどの場合)。

この穴Ⱥとは、原対象aのことでもある。

対象aは、大他者自体の水準において示される穴である。l'objet(a), c'est le trou qui se désigne au niveau de l'Autre comme tel (ラカン、S18, 27 Novembre 1968)

人はラカン派の注釈を読むとき、対象aの両義性につねに注意しなければならない。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 vide をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016, pdf)

この対象aの両義性にじゅうぶん注意を払えば、ラカン理論の核心のひとつは次のように図示できる。




この図のaは、大他者と主体両方の穴としての原対象aであり、かつ幻想的穴埋めとしての対象aでもある。

欠如の欠如 Le manque du manque が現実界を生む。それは唯一、コルク栓(穴埋め bouchon)としてのみ現れる。このコルク栓は不可能の用語にて支えられている。

Le manque du manque fait le réel, qui ne sort que là, bouchon. Ce bouchon que supporte le terme de l'impossible(Lacan、1976 AE.573)
女性の享楽は非全体pas-tout の補填 suppléance を基礎にしている。(……)彼女は(a)というコルク栓 bouchon de ce (a) を見いだす(ラカン、S20、09 Janvier 1973)

こうして原対象a(穴Ⱥ)に遭遇したものは、主体の解任をする。

対象a としての分析家は、分析主体(患者)の言葉を⋯⋯脱主体化し、言葉から、一貫した主体の表白、意味への意図の質を奪い去る。目的はもはや分析主体が発話の意味を想定することではなく、非意味、不条理という非一貫性を想定することである。患者の地位は、脱主体化されてしまうのだ。ラカンはこれを「主体の解任 destitution subjective」と呼んだ。(ジジェク、LESS THAN NOTHING、2012、私訳)

だが「主体の解任」、あるいは「非意味」に遭遇したままほうっておいてはならない。ほうっておいたら「原マゾヒズム」に貪り喰われてしまう。「無頼・アモラル・非意味」と同一化しつつも、そこから距離を取ることが必要である。

分析の道筋を構成するものは何か? 症状との同一化ではなかろうか、もっとも症状とのある種の距離を可能なかぎり保証しつつである。症状の扱い方・世話の仕方・操作の仕方を知ること…症状との折り合いのつけ方を知ること、それが分析の終りである。

En quoi consiste ce repérage qu'est l'analyse? Est-ce que ce serait, ou non, s'identifier, tout en prenant ses garanties d'une espèce de distance, à son symptôme? savoir faire avec, savoir le débrouiller, le manipuler ... savoir y faire avec son symptôme, c'est là la fin de l'analyse.(Lacan, S24, 16 Novembre 1976)

こうして臨床的には次のようなことが言われる。

……精神分析実践の目標は、人を症状から免がれるように手助けすることではない……。正しい満足を見出すために症状から免れることではない。目標は享楽の不可能の上に異なった種類の症状を設置することである。(ポール・バーハウ PAUL VERHAEGHE,new studies of old villains A Radical Reconsideration of the Oedipus Complex,2009)

さて今示したような観点において、安吾は、ヘーゲル的な否定性、あるいはラカン的精神分析臨床には直接的にはかかわらないままで、だが彼等と相同的な内容を日本でいちはやく表現した作家である、とわたくしは考えている。

それは安吾の別の表現の仕方なら次のようなことでもある。

堕落自体は常につまらぬものであり、悪であるにすぎないけれども、堕落のもつ性格の一つには孤独という偉大なる人間の実相が厳として存している。即ち堕落は常に孤独なものであり、他の人々に見すてられ、父母にまで見すてられ、ただ自らに頼る以外に術のない宿命を帯びている。 

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変りはない。(坂口安吾『続堕落論』初出1946年)

ーーこれもラカン的にいえば、 「大他者の応答 réponse de l'Autre」としての生ではなく、「現実界の応答 réponse du réel」としての生ということになる。

⋯⋯⋯⋯

ラカンの大他者とは何か。最後にジャック=アラン・ミレールの注釈を掲げておこう。

なぜラカンは、その教えの出発点で、法へ情熱をもったのか。そして「大他者の大他者は いない」と言ったとき、なぜそれを捨て去ったのか。ラカンは異なった法(言語、パロール、 言説等の)を我々に教え、この表明に到った。…

第一に、言語学の法がある。ラカンがソシュールから借りてきたものだ。それはシニフィア ンをシニフィエから、共時性を通時性から区別することに導く。ヤコブソンに見出した法も またある。それは、隠喩を換喩から分節化し区別する。ラカンはこれらを法として・メカニズ ムとして語った。

第二に、弁証法的法がある。ラカンがヘーゲルのなかに探しにいったものだ。この法は告 げる、言説のなかで主体は、他の主体の仲介を通してのみ、彼の存在を想定しうる、と。ラ カンはこれを承認の弁証法的法と呼ぶ。

第三に、我々はラカンのなかに数学的法を見出す(これはある時期とても人気があったが、 もはや我々のものではない)。例えば、ラカンが、最初の図式とともに、「盗まれた手紙」に ついてのセミネールにて探求したような法だ。あの α, β, γ, δ の図式は、無意識の記 憶にとってのモデルを提供した。

第四に、社会学的法がある。ラカンがレヴィ=ストロースの『親族の基本構造』から採用し た同盟と親族の法である。

第五に、想定されたフロイトの法、エディプスがある。それは、初期ラカンが法へと作り上 げたものだ。すなわち「父の名」は「母の欲望」の上に課されなければならない。その条件 のみにおいて、身体の享楽は飼い馴らされ、主体は、他の諸主体と共有された現実の経 験に従いうる、と。

さて、私は面倒を厭わず、法の 5 つの領域を列挙した。言語学的・弁証法的・数学的・社 会学的・フロイト的である。ラカンが分析経験を熟考し始めたとき、少なくとも主体をめぐっ て教え始めたとき、この法の 5 つの領域は、彼にとって、象徴界と呼ばれるものを構成した。(……) なぜラカンは、このように法概念に中心的重要性を与えたのか。それは疑いなく、彼にとっ て法は合理性の条件だからだ。さらに具体的にいえば、科学の条件である。ラカンはあたかも「法がある場にのみ科学はある」という箴言に駆り立てられていたかのようだ。(ジャック=アラン・ミレール, L'Autre sans Autre (大他者なき大他者)、2013,pdf

もちろん大他者の大他者はない、あるいは無頼(「頼るべきところのないこと」 「他人に頼らないこと」)なのだから、究極的には、ラカンや安吾の考え方にも、人は頼るべきではない、ということになる。己自身によって無=穴に遭遇して、そして自らの支えを「無からの創造 creatio ex nihilo」しなければならない。

最も肝腎なのは、穴Ⱥ(穴ウマ=トラウマ)、あるいはȺ のシニフィアンS(Ⱥ) は、《ラカンがフロイトの欲動を書き換えたシンボル symbole où Lacan transcrit la pulsion freudienne》(ミレール、 LE LIEU ET LE LIEN, pdf)であり、各個人によって、欲動のあり方は異なることであるーー起源は個人単独的な《純粋な身体の出来事 pur événement de corps》(ミレール、2011)ーー、かつまたわれわれは《誰もがトラウマ化されている tout le monde est traumatisé》(ミレール、2013-2014セミネール)、つまり原症状のない主体はない。当然、この「Ⱥからの創造」も個人単独的なものとなる。ゆえに「無頼=他人に頼らないこと」なのだ。

ニーチェも「神の死=象徴界(仮象の世界)の支えはない」(象徴的大他者の支えとしての大他者はない)という認識に遭遇して、無からの創造を行おうとして作家であるだろう。《もし人が個性を持っているなら、人はまた、常に回帰する己れの典型的経験 typisches Erlebniss immer wiederkommt を持っている。》(ニーチェ『善悪の彼岸』70番)

「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)

クロソウスキーの言う「魂の調子 Stimmung」への応答を、わたくしはラカンの「現実界の応答 réponse du réel」とともに読む。《c'est le sujet, qui, comme effet de signification, est réponse du réel》(Lacan, L'étourdit)

《神の死 mort de Dieu》ーー「責任ある自我のアイデンティティを保証するものとしての神 du Dieu garant de l'identité du moi responsable」--その神の死は、…あらゆる可能な諸アイデンティティへと魂を切り開く。…ニーチェにおいて「神の死」は、「永遠回帰 Éternel Retour」のエクスタシー的刻限と同様に、(散乱する諸アイデンティティの)「魂の調子 Stimmung」への応答である。(クロソウスキー『ニーチェと悪循環』1969年)

2017年10月18日水曜日

オッカサマという「ふるさと」

いやあ、なにか言ってくるヤツがいるかなと心配したが、すぐに言ってくるんだな、どうせファルス秩序の囚人だろ

十六日には禁断症状の最初の徴候が現われ始めた。なぜ十六日と云う日をはっきり覚えているかと云うと二月十六日が彼の母の命日で、十六日の朝、彼が泣いていたからだった。ふとんの衿をかみしめるようにして彼が涙をこぼし、泣いていたからだった。

「今日はオッカサマの命日で、オッカサマがオレを助けに来て下さるだろう」

そう言って、懸命に何かをこらえているような様子であった。(坂口三千代『クラクラ日記』ーーオッカサマがオレを助けに来て下さる

で、なにが問題なんだい? こんなことはまともに「深淵」を見詰めたものには誰にでもある、《おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返す。》(ニーチェ『善悪の彼岸』146節)

たとえば終生「知的」であった小林秀雄にもな、《おっかさんという蛍が飛んでいた》

終戦の翌年、母が死んだ。母の死は、非常に私の心にこたえた。それに比べると、戦争という大事件は、言わば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少しも動かさなかった様に思う。(……)

母が死んだ数日後の或る日、妙な体験をした。仏に上げる蝋燭を切らしたのに気付き、買いに出かけた。私の家は、扇ヶ谷の奥にあって、家の前の道に添うて小川が流れていた。もう夕暮であった。門を出ると、行手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。この辺りには、毎年蛍をよく見掛けるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今まで見た事もないような大ぶりのもので、見事に光っていた。おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私は、もうその考えから逃れる事が出来なかった。

ところで、無論、読者は、私の感傷を一笑に付する事が出来るのだが、そんな事なら、私自身にも出来る事なのである。だが、困った事がある。実を言えば、私は事実を少しも正確には書いていないのである。私は、その時、これは今年初めて見る蛍だとか、普通とは異って実によく光るとか、そんな事を少しも考えはしなかった。私は、後になって、幾度か反省してみたが、その時の私には、反省的な心の動きは少しもなかった。おっかさんが蛍になったとさえ考えはしなかった。何も彼も当り前であった。従って、当り前だった事を当り前に正直に書けば、門を出ると、おっかさんという蛍が飛んでいた、と書く事になる。つまり、童話を書く事になる。

以上が私の童話だが、この童話は、ありのままの事実に基いていて、曲筆はないのである。妙な気持になったのは後の事だ。妙な気持は、事実の徒らな反省によって生じたのであって、事実の直接か経験から発したのではない。では、今、この出来事をどう解釈しているかと聞かれれば、てんで解釈なぞしていないと答えるより仕方がない。という事は、一応の応答を、私は用意しているという事になるかも知れない。寝ぼけないでよく観察してみ給え。童話が日常の実生活に直結しているのは、人生の常態ではないか。何も彼もが、よくよく考えれば不思議なのに、何かを特別に不思議がる理由はないであろう。(小林秀雄「感想」)

小林秀雄が「童話」という言葉を出してるようにおっかさんに「文学のふるさと」があるのさ→冥府という「ふるさと」、わかんねえだろうよ、お前さんには。

もちろん真顔でいえば「おっかさん」とはイマジネールなおっかさんではない。安吾や小林の発言はその隠された「真意」を読みとらねばならない。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

ま、世界には三人目の女のことにまったく関知しない木瓜が跳梁跋扈しているのは知ってるさ、

ここに描かれている三人の女たちは、男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係である。すなわち、生む女、性的対象としての女、破壊者としての女 Die Gebärerin, die Genossin und die Verderberin である。

あるいはまた、人生航路のうちに母の形象が変遷していく三つの形態であることもできよう。すなわち、母それ自身 Die Mutter selbst、男が母の像を標準として選ぶ愛人 die Geliebte, die er nach deren Ebenbild gewählt、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地 die Mutter Erde, die ihn wieder aufnimmt である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、女の愛 Liebe des Weibes をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者 die dritte der Schicksalsfrauen、沈黙の死の女神 die schweigsame Todesgöttin のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『小箱選びのモティーフ』、1913)

ま、巷間の学者だって大半三人目の女に関知してないから、どこかの馬の骨がそうであっても仕方がないがね、

学者というものは、精神上の中流階級に属している以上、真の「偉大な」問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。(ニーチェ『悦ばしき知識』)

いずれにせよ「最も静かな時刻」を知らない連中とかかわりあいたくはないね、正午の刻限を知らないヤツとはな、《正午にそれは起こった。「一」は「二」となったのである。Um Mittag war's, da wurde Eins zu Zwei...》(ニーチェ『善悪の彼岸』1886年「高き山々の頂きから Aus hohen Bergen」)

だいたいオレが《触らないで、というものを身に纏っている 処女》(ケベード)なのがわかんねえのかな、それを不感症だっていうんだよ

36歳のとき、わたしは、わたしの活力の最低点に落ちこんだーーまだ生きてはいたものの、三歩先を見ることもできなかった。当時――1879年のことだったーーわたしは、バーゼルの教授職を退いて、夏中まるで影のようにサン・モーリッツで過ごした。が、それにつづく、わたしの生涯でもっとも日光の希薄であった冬には、ナウムブルクで影そのものとして生きた。これがわたしの最低の位置だった。『さすらい人とその影』が、その間に生まれた。疑いもなく、わたしは当時、影とは何かをよく知っていたのである……(ニーチェ『この人を見よ』)
人生の真昼時に、ひとは異様な安静の欲求におそわれることがある。まわりがひっそりと静まりかえり、物の声が遠くなり、だんだん遠くなっていく。彼の心臓は停止している。彼の目だけが生きている、--それは目だけが醒めている一種の死だ。それはほとんど不気味で病的に近い状態だ。しかし不愉快ではない。(ニーチェ『さすらい人とその影』308番)
きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin の名だ。

……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」1884年)

2017年10月17日火曜日

オッカサマがオレを助けに来て下さる

私が精神病院へ入院したとき小林秀雄が鮒佐の佃煮なんかをブラ下げて見舞いにきてくれたが、小林が私を見舞ってくれるようなイワレ、インネンは毛頭ないのである。これ実に彼のヤジウマ根性だ。精神病院へとじこめられた文士という動物を見物しておきたかったにすぎないのである。一しょに檻の中で酒をのみ、はじめはお光り様の悪口を云っていたが、酔いが廻るとほめはじめて、どうしても私と入れ代りに檻の中に残った方が適役のような言辞を喋りまくって戻っていった。

ヤジウマ根性というものは、文学者の素質の一つなのである。是非ともなければならない、という必須のものではないが、バルザックでも、ドストエフスキーでも、ヤジウマ根性の逞しい作家は、作家的にも逞しいのが通例で、小林と福田は、日本の批評家では異例に属する創造的作家であり、その人生を創造精神で一貫しており、批評家ではなくて、作家とよぶべき二人である。そろって旺盛なヤジウマ根性にめぐまれているのは偶然ではない。

しかし、天性敏活で、チョコ〳〵と非常線をくぐるぐらいお茶の子サイサイの運動神経をもつ小林秀雄が大ヤジウマなのにフシギはないが、幼稚園なみのキャッチボールも満足にできそうにない福田恆存が大ヤジウマだとは意外千万であった。(坂口安吾『安吾巷談 07 熱海復興』)

⋯⋯⋯⋯

さて「『青鬼の褌を洗う女』のモデル」等にて引用を控えた『クラクラ日記』の残余の「愉快な」文ーーくり返せば、わたくしは手元にこの書がなくネット上から拾ったものであり、正確な引用がなされているものなのか否かは分からないことを断っておくーーをここに掲げる。もちろん冒頭に示唆したとおり、ヤジウマ根性からである。

彼はいかり狂ってあばれまわり始めると、必ずマッパダカになった。寒中の寒、二月の寒空にけっして寒いとも思わぬらしかった。皮膚も知覚を失ってしまうものらしい。それで恥ずかしいとも思わぬらしいのだが、私は恥ずかしかった。女中さんの手前もあるし、私は褌を持って追いかけて行く。重心のとれないフラフラと揺れる体に褌をつけさせるのは容易ではなかった。身につける一切のものはまぎらわしく汚らわしくうるさいと思うらしかった。折角骨を折ってつけさせてもすぐにまた取りさって一糸纏わぬ全裸で仁王さまのように突っ立ち、何かわめきながら階段の上から家財道具をたたき落とす。階段の半分くらい、家財道具でうずまる。
もう大分以前から彼は人に逢いたがらなかったのだが、私も彼を人に逢わせたくなかった。あさましい位、彼の外貌は変り果ててゆき、人の言葉をまともに聞くことはなくなった。すべては陰謀としか思えないらしく、私がそのあやまりを正すと悪鬼の如く、いかりたけると云うふうになり、当時の女中さんのしいちゃんは私の手下で、私としいちゃんとはしじゅぅ陰謀をはかり奸計をめぐらしていると云うふうにとるようになった。私が彼に出来ることは、彼の云いなりになると云うこと以外には何もない。
代りに用いていたものは、喘息の薬のセドリソと云う覚醒剤であった。朝から少量ずつ飲んで昼も少量飲み、それが蓄積されてやっと夕刻頃効いてくると云う薬だった。疲れて休息したい神経をむりやりたたきおこす薬で、二日でも三日でも徹夜に耐えうる神経にするための薬だ。そう云う薬で無理無態に仕事をしようとしていた。

(⋯⋯)睡眠薬と覚醒剤を交互に常用しているうちに、その性能が全く本来の姿とは異り、まるでアベコベに作用するようになっていた。すなわち睡眠剤を飲めば狂気にちかくなり、覚醒剤を飲んでモーローとするようになっていた。
十六日には禁断症状の最初の徴候が現われ始めた。なぜ十六日と云う日をはっきり覚えているかと云うと二月十六日が彼の母の命日で、十六日の朝、彼が泣いていたからだった。ふとんの衿をかみしめるようにして彼が涙をこぼし、泣いていたからだった。

「今日はオッカサマの命日で、オッカサマがオレを助けに来て下さるだろう」

そう言って、懸命に何かをこらえているような様子であった。
おかしかったのは、小林秀雄さんがお見舞に見えた時で、持続睡眠療法がおわり、後遺症状が未だ残っていて、毎日相当量のブドウ糖を打っていた時だが、彼がドモって思うように口がきけないのにひきかえ、小林さんにペラペラとベランメエでまくしたてられて、数十回も「テメエは大馬鹿ヤロウだ」といわれていた時だった。彼が何かドモリながら口をきこうとすると、小林さんはおっかぶせるように「テメエは大馬鹿ヤロウだよ」と追打ちをかけるものだから、しまいに彼が幾らか気の毒にもなった。

小林さんはドストエフスキーやゴッホのお話をしていたようだったが、ゴッホも分裂症だといわれているがテンカンではなかったかというようなことで、私にはむずかしすぎるのでよく覚えていない。小林さんは本郷に下宿していらした学生時代に、「毎日ベントウのオカズになっとうを一本ぶらさげて大学に通ったもんだよ」とおっしゃっていたのが印象に残っている。キリキリとひきしまった浅黒い顔が急に若い学生の小林さんの顔にみえ、その当時もこんなにきつい印象だったんだろうかと思ったりした。お土産の「鮒佐」のつくだ煮はおいしかったが、彼は小林秀雄は粋な人だから、といっていた。数十回の「テメエは大馬鹿ヤロウだ」が実は小林さん一流の励ましの文句であった。彼は終始嬉しそうにニコニコしていた。(坂口三千代「クラクラ日記」)

「おい、三千代、ライスカレーを百人前……」
「百人前とるんですか?」
「百人前といったら、百人前」
 云い出したら金輪際後にひかぬから、そのライスカレーの皿が、芝生の上に次ぎ次ぎと十人前、二十人前と並べられていって、
「あーあ、あーあ」
 仰天した次郎が、安吾とライスカレーを指さしながら、あやしい嘆声をあげていたことを、今見るようにはっきりと覚えている。(檀一雄『小説 坂口安吾』)

檀家の庭の芝生にアグラをかいて、坂口はまっさきに食べ始めた。私も、檀さんたちも芝生でライスカレーを食べながら、あとから、あとから運ばれて来るライスカレーが縁側にズラリと並んで行くのを眺めていた。

当時の石神井では、小さなおそばやさんがライスカレーをこしらえていて、私が百人まえ注文に行ったらおやじさんがビックリしていたがうれしそうにひき受けた。(坂口三千代『クラクラ日記』)

⋯⋯⋯⋯

ーーと引用して想い出したので、三人の作家の文を掲げておく。

心理学者の決疑論。――この者は一人の人間通である。いったい何のために彼は人間を研究するのであろうか? 彼は人間に関する小さな利益を引っとらえようと欲する、ないしは大きな利益をも。――彼は政略家にほかならない!・・・あそこのあの者もまた一人の人間通である。だから諸君は言う、あの者はそれで何ひとつ自分の利益をはかろうとしない、これこそ偉大な「無私の人」であると。もっと鋭く注意したまえ! おそらく彼はさらにそのうえ“いっそう良くない”利益を欲している、すなわち、おのれが人々よりも卓越していると感じ、彼らを見くだしてさしつかえなく、もはや彼らとは取りちがえられたくないということを欲しているのである。こうした「無私の人」は”人間軽蔑者”にほかならない。だからあの最初の者の方が、たとえ外見上どうみえようとも、むしろ人間的な種類である。彼は少なくとも同等の地位に身をおき、彼は“仲間入り”する。(ニーチェ『偶像の黄昏』「或る反時代的人間の遊撃」十五)
身ぶり、談話、無意識にあらわされた感情から見て、この上もなく愚劣な人間たちも、自分では気づかない法則を表明していて、芸術家はその法則を彼らのなかからそっとつかみとる。その種の観察のゆえ、俗人は作家をいじわるだと思う、そしてそう思うのはまちがっている、なぜなら、芸術家は笑うべきことのなかにも、りっぱな普遍性を見るからであって、彼が観察される相手に不平を鳴らさないのは、血液循環の障害にひんぱんに見舞われるからといって観察される相手を外科医が見くびらないようなものである。そのようにして芸術家は、ほかの誰よりも、笑うべき人間たちを嘲笑しないのだ。(プルースト「見出されたとき」井上究一郎訳)
認識と創造の苦悩との呪縛から解き放たれ、幸福な凡庸性のうちに生き愛しほめることができたなら。…もう一度やり直す。しかし無駄だろう。やはり今と同じことになってしまうだろう。-すべてはまたこれまでと同じことになってしまうだろう。なぜならある種の人々はどうしたって迷路に踏み込んでしまうからだ。(……)

私は、偉大で魔力的な美の小道で数々の冒険を仕遂げて、『人間』を軽蔑する誇りかな冷たい人たちに目をみはります。-けれども羨みはしません。なぜならも し何かあるものに、文士を詩人に変える力があるならば、それはほかならぬ人間的なもの、生命あるもの、平凡なものへの、この私の俗人的愛情なのですから。 すべての暖かさ、すべての善意、すべての諧謔はみなこの感情から流れ出てくるのです。(トーマス・マン『トニオ・クレーゲル』)

とはいえ、こうも引用しておかねばならない。

……私にとっては、或る人間について重要に思われることは彼の生涯における偶発的な諸事件ではなく、彼の生れとか、彼の恋愛事件とか、種々の不幸とか、その他、彼について実地に観察することができる事実の殆どすべては、私には何の役にも立たない。すなわちそれらの事実は、或る人間にその真価を与え、彼と彼以外のあらゆる人間との、また彼と私との決定的な相違を生ぜしめている事柄について、私に何事をも教えてはくれない。

そして私としてもしばしば、この種類の、我々の認識を実質的には少しも深めはしない生活上の消息について、相当な好奇心を抱くことがあるのだが、私の興味を惹く事柄が必ずしも私にとって重要なものであるとは限らないのであって、これは私だけでなく、だれの場合にしても同じことが言える。要するに、我々は、我々を面白がらせることに対して常に警戒していなければならない。(ヴァレリー『ドガ・ダンス・デッサン』 吉田健一訳)



『青鬼の褌を洗う女』のモデル

以下、ほぼ引用の列挙である。

まず『クラクラ日記』と『青鬼の褌を洗う女』から二つの文を並べる。

私くらいお前を愛してやれる者はいないよ。お前は今より人を愛す事があるかも知れないけど、今よりも愛される事はないよ」それは説得するような調子であった。私はしかし、それが本当の事だろうと思う。彼よりも私を愛してくれる人に再び会う事はないだろうと思う。 (坂口三千代『クラクラ日記』)
終戦後、久須美は私に家をもたせてくれたが、彼はまったく私を可愛がってくれた。そしてあるとき彼自身私に向って、君は今後何人の恋人にめぐりあうか知れないが、私ぐらい君を可愛がる男にめぐりあうことはないだろうな、といった。 

私もまったくそうだと思った。久須美は老人で醜男だから、私は他日、彼よりも好きな人ができるかも知れないけれども、しかしどのような恋人も彼ほど私を可愛がるはずはない。(⋯⋯)

私は誰かを今よりも愛すことができる、しかし、今よりも愛されることはあり得ないという不安のためかしら。(坂口安吾『青鬼の褌を洗う女』 初出:1947年10月5日)

坂口三千代さんが安吾の小説の叙述に引き摺られて回想録を書いたという可能性をまったく否定するつもりはないが、(ここでは素直に読めば)『クラクラ日記』の上の文は、『青鬼』とそっくりである。

『クラクラ日記』には、『青鬼』のモデルは三千代さん自身だという示唆がある(30年ほどまえにざっと読んだだけで手元にこの書がなく、殆どその内容を失念しているが、ネット上で探る範囲ではそうらしい)。

作中、安吾が新作の自著短篇小説『青鬼の褌を洗う女』の掲載された雑誌を三千代に差し出し、主人公は三千代がモデルであることを安吾が示唆する場面がある。掲載誌の発行日(1947年10月5日)から、1947年10月初旬のできごとである。同年、安吾と三千代は正式に結婚する。(WIKI「クラクラ日記」の項

だが安吾は次のように書いている。

「青鬼の褌を洗う女」は昨年中の仕事のうちで、私の最も愛着を寄せる作品であるが、発表されたのが、週刊朝日二十五週年記念にあまれた「美と愛」という限定出版の豪華雑誌であったため、殆ど一般の目にふれなかったらしい。私の知友の中でも、これを読んだという人が殆どなかったので、淋しい思いをしたのであった。(……)

「青鬼の褌を洗う女」は、特別のモデルというようなものはない。書かれた事実を部分的に背負っている数人の男女はいるけれども、あの宿命を歩いている女は、あの作品の上にだけしか実在しない。(坂口安吾「わが思想の息吹」1948)

基本的には安吾のいうのが「正しい」だろう。たとえばプルーストは次のように記している。

文学者はひとたび書けば、その作中の諸人物の、身ぶり、独特のくせ、語調の、どれ一つとして、彼の記憶から彼の霊感をもたらさなかったものはないのである。つくりだされた人物の名のどれ一つとして、実地に見てきた人物の六十の名がその下敷きにされていないものはなく、実物の一人は顔をしかめるくせのモデルになり、他の一人は片めがねのモデルになり、某は発作的な憤り、某はいばった腕の動かしかた、等々のモデルになった。 (プルースト「見出された時」)

とはいえ、『青鬼の褌を洗う女』には、三千代さんのことが直接的に書かれていると思われる叙述がふんだんにある。

私は病気の時ですら、そうだった。私は激痛のさなかに彼を迎え、私は笑顔と愛撫、あらゆる媚態を失うことはなかった。長い愛撫の時間がすぎて久須美が眠りについたとき、私は再び激痛をとりもどした。それはもはや堪えがたいものであったが、私はしかし愛撫の時間は一言の苦痛も訴えず最もかすかな苦悶の翳によって私の笑顔をくもらせるようなこともなかった。それは私の精神力というものではなく、盲目的な媚態がその激痛をすら薄めているという性質のものであった。七転八倒というけれども、私は至極の苦痛のためにある一つの不自然にゆがめられた姿勢から、いかなる身動きもできなくなり、生れて始めて呻く声をもらした。久須美は目をさまし、はじめは信じられない様子であったが、慌てて医師を迎えたときは手おくれで、なぜなら私はその苦痛にもかかわらず彼が自然に目をさますまで彼を起さなかったから、すでに盲腸はうみただれて、腹の中は膿だらけであり、その手術には三時間、私は腹部のあらゆる臓器をいじり廻されねばならなかった。(坂口安吾『青鬼の褌を洗う女』1947年)

この文は、1950年に書かれた次のエッセイ風文とともに読むことができる。
 
私は元々、女房と一しょに住むつもりではなかったのである。私はどのような女とでも、同じ家に住みたいと思っていなかった。 

私は彼女に云った。

「家をかりてあげる。婆やか女中をつけてあげる。私は時々遊びに行くよ」 

彼女はうなずいた。私たちは、そうするツモリでいたのである。

ところが、彼女をその母の家から誘いだして、銀座で食事中に、腹痛を訴えた。医者に診てもらうようにすすめたが、イヤがるので、私の家につれてきて、頓服をのませて、ねかせた。一夜苦しんでいたのだが、苦しいかときくと、ニッコリしてイイエというので、私は未明まで、それほどと思わなかった。超人的なヤセ我慢を発揮していたのである。私が未明に気附いた時には、硬直して、死んだようになっていた。
女房は腹膜を併発して一月余り入院し、退院後も歩行が不自由なので、母のもとへ帰すわけにいかず、私の家へひきとって、書斎の隣室にねかせて、南雲さんの往診をうけた。やがて、人力車で南雲さんへ通うことができるようになったが、部屋の中で靴をはいて纏足の女のような足どりで、壁づたいに一周したり、夜更けに靴をだきしめて眠っているのを見ると、小さな願いの哀れさに打たれもしたが、それに負けてはいけないのだ、という声もききつづけた。
 
しかし、こういう偶然を機会に、女房はズルズルと私の家に住みつくことゝなったのである。(坂口安吾『我が人生観 (一)生れなかった子供』1950年)

次の文は、三千代さんが安吾に向けて似たような形で言ったのかどうかは判然としないが、すくなくとも安吾が青鬼の主人公になりかわって自己批評しているという風に読めないでもない。

私は知っている。彼は恋に盲いる先に孤独に盲いている。だから恋に盲いることなど、できやしない。彼は年老い涙腺までネジがゆるんで、よく涙をこぼす。笑っても涙をこぼす。しかし彼がある感動によって涙をこぼすとき、彼は私のためでなしに、人間の定めのために涙をこぼす。彼のような魂の孤独な人は人生を観念の上で見ており、自分の今いる現実すらも、観念的にしか把握できず、私を愛しながらも、私をでなく、何か最愛の女、そういう観念を立てて、それから私を現実をとらえているようなものであった。 

私はだから知っている。彼の魂は孤独だから、彼の魂は冷酷なのだ。彼はもし私よりも可愛いい愛人ができれば、私を冷めたく忘れるだろう。そういう魂は、しかし、人を冷めたく見放す先に自分が見放されているもので、彼は地獄の罰を受けている、ただ彼は地獄を憎まず、地獄を愛しているから、彼は私の幸福のために、私を人と結婚させ、自分が孤独に立去ることをそれもよかろう元々人間はそんなものだというぐらいに考えられる鬼であった。

しかし別にも一つの理由があるはずであった。彼ほど孤独で冷めたく我人ともに突放している人間でも、私に逃げられることが不安なのだ。そして私が他日私の意志で逃げることを怖れるあまり、それぐらいなら自分の意志で私を逃がした方が満足していられると考える。鬼は自分勝手、わがまま千万、途方もない甘ちゃんだった。そしてそんなことができるのも、彼は私を、現実をほんとに愛しているのじゃなくて、彼の観念の生活の中の私は、ていのよいオモチャの一つであるにすぎないせいでもあった。(坂口安吾『青鬼の褌を洗う女』)

ーー《鬼は自分勝手、わがまま千万、途方もない甘ちゃんだった》という表現があるのに注目しておこう。

安吾は、矢田津世子を理想化した(参照:「ふたつの理想化(菊乃と津世子)」)。

男性作家たちは女に勝手な夢を託したり、女を勝手に解釈したりしてきたが、彼らが描いた 夢の女と現実の女性との距離の大きさこそが、男の内面の風景を絢爛たるものにしたのだ。( 水田宗子『物語と反物語の風景─文学と女性の想像力』1993 年)

『青鬼』の一か月前に『理想の女』というエッセイが発表されている。

⋯⋯私が理想の人や理想の女を書かうと思つて原稿紙に向つても、いざ書きだすと、私はもうさつきまでの私とは違ふ。私は鬼の審判官と共に言葉をより分け、言葉にこもる真偽を嗅ぎわけてをるので、かうして架空な情熱も思想もすべて襟首をつまんで投げやられてしまふ。 

私はいつも理想をめざし、高貴な魂や善良な心を書かうとして出発しながら、今、私が現にあるだけの低俗醜悪な魂や人間を書き上げてしまふことになる。

私といへども、私なりに、ともかく、理想の女を書きたいのだ。否、理想の人間を、人格を書きたいのだ。たゞ、それを書かうと希願しながら、いつも、醜怪なものしか書くことができないだけなのだ。 

虚しい一つの運動であるか。死に至るまで、徒に虚しい反覆にすぎないのか。書き現したいといふこと、意慾と、そして、書きつゞけるといふ運動を、ともかく私は信じてゐるのだ。それが私のものであるといふことを。(坂口安吾『理想の女』 初出:1947年(昭和22)年9月1日発行「民主文化 第二巻第六号」中外出版)

安吾は最後まで最も気に入った作品は『青鬼』だったそうだが、矢田津世子の理想化から逃れる試みとしてこの作品はあったとすることができるかもしれない。いや「青鬼の褌を洗う女」こそ真の「理想の女」を書く試みだったかも。

このまま、どこへでも、行くがいい。私は知らない。地獄へでも。私の男がやがて赤鬼青鬼でも、私はやっぱり媚をふくめていつもニッコリその顔を見つめているだけだろう。私はだんだん考えることがなくなって行く、頭がカラになって行く、ただ見つめ、媚をふくめてニッコリ見つめている、私はそれすらも意識することが少くなって行く。

私は谷川で青鬼の虎の皮のフンドシを洗っている。私はフンドシを干すのを忘れて、谷川のふちで眠ってしまう。青鬼が私をゆさぶる。私は目をさましてニッコリする。カッコウだのホトトギスだの山鳩がないている。私はそんなものよりも青鬼の調子外れの胴間声が好きだ。私はニッコリして彼に腕をさしだすだろう。すべてが、なんて退屈だろう。しかし、なぜ、こんなに、なつかしいのだろう。(坂口安吾『青鬼の褌を洗う女』)

数年後のエッセイには次のようにある。

私の女房は(⋯⋯)私と一緒のうちも浮気をしない、浮気をする時は、別れる時だ、ということを、かなりハッキリ覚悟している女であった。
彼女の魂は比類なく寛大で、何ものに対しても、悪意が希薄であった。私ひとりに対してなら、私は苦痛を感じ、その偏った愛情を憎んだであろうが、他の多くのものにも善意と愛情にみちているので、身辺にこのような素直な魂を見出すことは、時々、私にとっては救いであった。 

私のようなアマノジャクが、一人の女と一しょに住んで、欠点よりも、美点に多く注意をひかれて、ともかく不満よりも満足多く暮すことができたというのは、珍しいことかも知れない。(坂口安吾『我が人生観 (一)生れなかった子供』1950年
浮気っぽい私のことで、浮気は人並以上にやるだろうが、私が私の家へ回帰する道を見失うことは決してあり得ない。私は概ねブッチョウ面で女房に辛く対することはシキリであるし、茶ノミ友だち的な対座で満足し、女房と一しょに家にいて時々声をかけて用を命じる程度の交渉が主で、肉体的な交渉などは忘れがちになっているが、それは私の女房に対する特殊な親愛感や愛情が、すでに女というものを超えたところまで高まっているせいだろうと私は考えている。私はとッくに女房に遺言状すらも渡しているのだ。どの女のためよりも、ただ女房の身を思うのが私の偽らぬ心なのである。それはもう女という観念と質のちごうものだ。そして女房に献身のある限り、私の気質に変ることは有りえない。つまり私は決して私と女房とを平等には見ておらぬ証拠で、女房とは女房という職業婦人であるが、すでにカケガエのない唯一の職業婦人として他の女たちと質のちごう存在になっていることが確かなのである。(坂口安吾「安吾人生案内 その八 安吾愛妻物語」1951年

ーー愛妻物語の記述には、21世紀の現在なら大いに反撥が(なかんずくフェミニストたちなら)ありうるだろう。

歴史的に見れば、不在のディスクールは「女 la Femme」によって語りつがれてきている。「女」は家にこもり、「男」は狩をし、旅をする。女は貞節であり(女は待つ)、男は不実である(世間を渡り、女を漁る)。不在に形を与え、不在の物語を練り上げるのは女である。女にはその暇があるからだ。女は機を織り、歌をうたう。「糸紡ぎの歌」、「機織りの歌」は、不動を語り(「紡ぎ車」のごろごろという音によって)、同時に不在を語っているのだ(はるかな旅のリズム、海原の山なす波)。そこで、女ではなくて男が他者の不在を語るとなると、そこでは必ず女性的 féminin なところがあらわれることになる。待ちつづけ、そのことで苦しんでいる男は、驚くほど女性化 féminisé するのだ。男が女性化するのは、倒錯的になるinverti からでなく、恋をしている amoureux からである。(神話とユートピア、その起源は、女性的なところをそなえた主体 sujets en qui il y a du féminin のものであったし、未来もそうした人びとのものとなるだろう。)(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』)「不在の人」)

矢田津世子との恋愛においては、安吾は《驚くほど女性化 féminisé 》している。それは滑稽なほどである(参照)。《愛は、男性において常にいささか滑稽である》。

我々は愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。

愛するためには、あなたは自らの欠如を認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。

ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ l'amour est donner ce qu'on n'a pas 》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかの場に置く c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼方にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢」を引き受けねばならない。

そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジションからのみ真に愛する。愛することは女性化することである。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽である。(ミレール、2010, On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " Jacques-Alain Miller)

だが1947年以降の安吾はどうだっただろう?

わたくしは今なんらかの判断をするつもりはない。だが安吾にさえ「流行作家の宿命」の気配を読む人があっても不思議ではない・・・

文学作品をつくる場合、追究するテーマというものがあり、もちろんそれを追究する情熱というものがあるわけだが、これはいわば「近因」である。一方、その作者がむかし文学をつくるという場所に追い込まれたこと、そのときの激しい心持ち、それが「遠因」といえるわけで、その遠因がいつまでもなまなましく、一種の情熱というかたちで残っていないと、作品に血が通ってこない。追い込まれたあげくに、一つの世界が開かれるのを見るのである。だが(⋯⋯)一人前の作家として世間に認められたとき、『遠因』が消え失せてしまう、とおもわせるところがある。(吉行淳之介『「復讐」のために ─文学は何のためにあるのか─』

いずれにせよ、わたくしの偏った読み方からは、《二十七と三十一のバカらしさはすでにバカげた記録を綴っておいたが、これもそのうち静かに書き直す必要があろう》が(おそらく流行作家の多忙のせいもあったのだろう)実現されなかったのが残念である。

六ツ七ツ、十五六、二十一、二十七、三十一、四十四が手痛い出来事があった意味では特筆すべき年で、しかしジリ〳〵ときたものについて云えば全半生に通じていると申せましょう。(安吾人生案内 その八 安吾愛妻物語、初出1951年)
六ツ七ツというのは、私が私の実の母に対して非常な憎悪にかられ、憎み憎まれて、一生の発端をつくッた苦しい幼年期であった。どうやら最近に至って、だんだん気持も澄み、その頃のことを書くことができそうに思われてきた。

十五六というのは、外見無頼傲慢不屈なバカ少年が落第し、放校された荒々しく切ない時であった。

二十七と三十一のバカらしさはすでにバカげた記録を綴っておいたが、これもそのうち静かに書き直す必要があろう。

二十一というのは、神経衰弱になったり、自動車にひかれたりした年。

四十四が精神病院入院の年。(同上、1951年)

ーーもちろんたとえば1952年に書かれた『夜長姫と耳男』という「文学のふるさと」的傑作があるではないか、という安吾ファンがいるのを知らないわけではない。

⋯⋯⋯さてエッセイ『理想の女』に戻る。

批評家は、作家のめざしてゐるものを見よ。最高の理想をめざして身悶えながら、汚辱にまみれ、醜怪な現実に足をぬき得ず苦悶悪闘の悲しさに一掬の涙をそゝぎ得ぬのか。然り。そゝぎ得ぬ筈だ。おん身らは、かゝる苦闘を知らないのだから。日本文学の伝統などといふものを表面の字づらの上で読みとり、綴り合せて、一文を草することしか知らないのだから。 

島崎藤村や夏目漱石がロマンだなどゝは大間違ひです。彼らは、理想の女を書かうともしてゐないではないか。理想の女をもとめる魂、はげしい意慾のないロマンなどがあるものか。 

永井荷風が戯作者などゝは大嘘です。彼は理想の女をもとめてはゐない。現実の女を骨董品の如き好色慾をもつて紙上に弄んでゐるだけで、理想の女をもとめるために希願をこめて書きつゞけられた作品ではない。まだしも西鶴は八百屋お七を書いてゐる。(坂口安吾『理想の女』1947年)

安吾にとっての1947年ーー梶三千代との恋愛と結婚の年ーーは精神の高揚期である。

まことに、昭和二十二年は、坂口にとって画期的な年であった。長短あわせて六十余りの作品を書くという、彼の生涯の最も多産の年であり、また小説集八冊、評論集二冊(もちろん、それらに収められているのが、すべてこの年の作ではないにしても)の刊行も、彼の旺盛な創造のあとをしのばせるに十分だ。(兵藤正之助「坂口安吾論」)

ーーたしかに1947年は突出している。短いものだけではない。六十余りの作品のなかには探偵小説『不連続殺人事件』というひどく長い作品も含まれている( 参照:坂口安吾 全作品(小説・探偵小説・エッセイその他(発表年順)。

梶三千代とは1947年3月(あるいは4月)に出会っているそうだ(於新宿闇市のバー「チトセ」)。

今まで見た事もない顔だった。厳しい爽やかさ、冷たさ、鋭く徹るような、胸をしめつけられるような、もののいえなくなるような顔(『クラクラ日記』)

おそらく三千代さんとの出会いが安吾を支えたのだろう。

彼は亡くなるまで「青鬼の褌を洗う女」という作品を大切にしていた。それは作品の出来、不出来に関係はない。人に聞かれてあなたは御自分の作品中代表作はといわれると、「代表作などというものはないです。人が決めるものです」という。

ではお好きなのはと聞くと、「青鬼の褌を洗う女」という風に答える。

彼が時たま彼の部屋で仰向けに寝て「青鬼の褌」を読んでいるのを見た。

私はそんな時、私を愛しているからだろうか、と思ったりするのだが、違うかも知れないと思ったりもする。彼があの小説を愛するのは彼のあの当時の感動を愛しんでいるのかも知れないと思う。(坂口三千代「クラクラ日記」)

安吾は「魂の孤独」を語り続けて来た。

人性の孤独ということに就て考えるとき、女房のカツレツがどんなに清潔でも、魂の孤独は癒されぬ。世に孤独ほど憎むべき悪魔はないけれども、かくの如く絶対にして、かくの如く厳たる存在も亦すくない。僕は全身全霊をかけて孤独を呪う。全身全霊をかけるが故に、又、孤独ほど僕を救い、僕を慰めてくれるものもないのである。この孤独は、あに独身者のみならんや。魂のあるところ、常に共にあるものは、ただ、孤独のみ。 

魂の孤独を知れる者は幸福なるかな。そんなことがバイブルにでも書いてあったかな。書いてあったかも知れぬ。けれども、魂の孤独などは知らない方が幸福だと僕は思う。女房のカツレツを満足して食べ、安眠して、死んでしまう方が倖せだ。僕はこの夏新潟へ帰り、たくさんの愛すべき姪達と友達になって、僕の小説を読ましてくれとせがまれた時には、ほんとに困った。すくなくとも、僕は人の役に多少でも立ちたいために、小説を書いている。けれども、それは、心に病ある人の催眠薬としてだけだ。心に病なき人にとっては、ただ毒薬であるにすぎない。僕は僕の姪たちが、僕の処方の催眠薬をかりなくとも満足に安眠できるような、平凡な、小さな幸福を希っているのだ。(坂口安吾「青春論」初出1942年)
堕落自体は常につまらぬものであり、悪であるにすぎないけれども、堕落のもつ性格の一つには孤独という偉大なる人間の実相が厳として存している。即ち堕落は常に孤独なものであり、他の人々に見すてられ、父母にまで見すてられ、ただ自らに頼る以外に術のない宿命を帯びている。 

善人は気楽なもので、父母兄弟、人間共の虚しい義理や約束の上に安眠し、社会制度というものに全身を投げかけて平然として死んで行く。だが堕落者は常にそこからハミだして、ただ一人曠野を歩いて行くのである。悪徳はつまらぬものであるけれども、孤独という通路は神に通じる道であり、善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや、とはこの道だ。キリストが淫売婦にぬかずくのもこの曠野のひとり行く道に対してであり、この道だけが天国に通じているのだ。何万、何億の堕落者は常に天国に至り得ず、むなしく地獄をひとりさまようにしても、この道が天国に通じているということに変りはない。(坂口安吾「続堕落論」初出1946年)

名高い「文学のふるさと」ももちろん魂の孤独にかかわるだろう(参照:冥府という「ふるさと」)。

彼の孤独と向き合っていると、その淵の深さに身ぶるいすることがある。誰もひとを寄せ付けない。彼はいつもたった独りでいるような心のありさまで、お酒を飲んでわあわあと言ってる時でも、その奥にたった独りの彼が坐っている。私はそれをちゃんと見抜くことができる。私はいったい彼の何なんだろう。(坂口三千代『クラクラ日記』)


・彼の孤独と向き合っている私はやはり孤独であるのが当然だった。不思議なのは彼が悪鬼のように猛り狂う時、私のこの孤独感がふりおとされることだった。彼が私をののしりわめいている時、私はいつだって動転するが孤独ではなかった。

・彼が暴れ始めると相変わらず私は体が震えて足が変に軽くなってフワフワして来てしまう。もう、涙がふきこぼれてものも言えないということはなくなったが、馴れるということは絶対にできなかった。そのたびに私の心は宙に飛びあがってしまうのだ。

・彼が暴れる原因が何なのか、私にはわからなかった。 人間の心理としてはごく卑近なところのつまらないことに何か原因があったとしても不思議ではないから、あるいは私の故だろうかと思わずにいられない。

・いま考えれば貴方は死ぬためにもどられたようなものですね。十五日の晩おそくお勝手口の方からもどられて、「オーイ」と云ったのであわてて私はとび出して行きました。

そしておどろいたのは顔がちいさく茶いろく見えたことでした。つかれているなと思いました。鞄をあわてて受取ると「坊やは」とお聞きになった。「ええ起きておりますよ、待たしておいたのよ」と答えると、よほど嬉しかったらしく、何遍も坊やを抱きあげながら「よかった、よかった」とくりかえしおっしゃった。(坂口三千代『クラクラ日記』)


ーーこの写真は最晩年のものである(1954年(昭和29年)1月に二人のあいだに子供が出来ている。そして、安吾は1955年2月17日に脳出血で死んでいる)。

最後に中井久夫の二文を掲げておく。

作家の伝記における孤独の強調にもかかわらず、完全な孤独で創造的たりえた作家を私は知らない。もっとも不毛な時に彼を「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人はほとんど不可欠である。多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。(中井久夫「創造と癒し序説」)
おそらく、諸外国の作家よりもわが国の、特に現代の作家の、自己破壊(自殺、中毒など)が少ないとすれば編集者との関係がより治療的であることもあるのではなかろうか。他方、わが国の著者はいささか幼児的ではないかという気もしないではないが、何人〔じん〕であろうと、「デーモン」が熾烈に働いている時には、それに「創造的」という形容詞を冠しようとも「退行」すなわち「幼児化」が起こることは避けがたい。実際、著者の「創造的退行」の「創造性」をどのように維持するかが、唯一人「現場に関与する者」である編集者の役割である。(中井久夫「執筆過程の生理学」)

《鬼は自分勝手、わがまま千万、途方もない甘ちゃんだった》という安吾の『青鬼』のなかの文章と、中井久夫の《多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している》とともに、あるいは《著者の「創造的退行」の「創造性」をどのように維持するかが、唯一人「現場に関与する者」である編集者の役割》における「編集者」を《青鬼の褌を洗う女》に置き換えて読んでみたくなる誘惑にかられないでもない。

2017年10月16日月曜日

荷風と安吾への同一化

まず、ロラン・バルト『恋愛のディスクール』「同一化 Identifications」の項より。

いろいろな恋愛関係を眼にするたびに、わたしはこれを凝視し、自分が当事者だったらどのような場を占めていたかを標定しようとする。類似 analogies ではなく相同 homologies を知覚するのだ。 Xに対するわたしの関係は、 Zに対するY の関係に等しいことを確認するのである。そのとき、わたしとは無縁で未知ですらある人物、 Yについて聞かされることが、すべて、わたしに強い影響を与えることになる。わたしは、いわば鏡に捕らえられている。この鏡はたえず移動しており、双数構造 structure duelle のあるところならどこででもわたしを捕捉するのだ。さらに悪い状況を考えれば、このわたしが、自分では愛していない人から愛されていることもあるだろう。それは、わたしにとって助けとなる(そこから来るよろこび、あるいは気晴らしによって)どころか、むしろ苦痛な状況である。愛されぬままに愛している人の内に、自分の姿を見てしまうからだ。わたし自身の身振りを目のあたりにしてしまうからだ。今や、この不幸の能動的主辞 agent actif はわたしである。わたしには自分が犠牲者であって同時に死刑執行人でもあると感じられる。

このバルトの「同一化」の項は、おそらくフロイトの次の記述を参照している筈である。

自我が同一化のさいに⋯⋯この同一化は部分的で、極度に制限されたものであり、対象人物 Objektperson の一つの特色 einzigen Zug (一の徴)だけを借りていることも、われわれの注意をひく。(⋯⋯)そして、同情は、同一化によって生まれる das Mitgefühl entsteht erst aus der Identifizierung。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)

フロイトは同一化するから同情する、と言っている。これは同一化するから愛する、と言い換えることもできる。人は、愛するから同一化するのはなく、同一化するから愛するのである。

ーー《フロイトが「一の徴 einzige Zug」と呼んだもの(ラカンの trait unaire)、この「一の徴」をめぐって、後にラカンは彼の全理論を展開した。》(『ジジェク自身によるジジェク』2004、私訳)

われわれは、…次のように要約することができよう。第一 に、同一化は対象にたいする感情結合の根源的な形式であり、第二に、退行の道をたどっ て、同一化は、いわば対象を自我に取り入れる Introjektion ことによって、リビドー的対象結合 libidinöse Objektbindung の代用物になり、第三に、同一化は性的衝動の対象ではない他人との、あらたにみつけた共通点のあるたびごとに、生じることである。この共通性が、重大なものであればあるほど、この部分的な同一化 partielle Identifizieruitg は、ますます効果のあるものになるにちがいなく、また、それは新しい結合の端緒にふさわしいものになるにちがいない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』1921年)

ーーフロイトにとって肝腎なのは「部分的な同一化 partielle Identifizieruitg 」である。

⋯⋯⋯⋯

わたくしは中年過ぎから(真に)愛するようになった(日本の)作家に永井荷風と坂口安吾がある。荷風は三十歳前後、安吾はつい最近(三年ほど前)である。

「好き」であるなら前からそうだったかもしれない。今言っているのは、ロラン・バルトのいう意味での「愛する」である。

ストゥディウム studiumというのは、気楽な欲望と、種々雑多な興味と、とりとめのない好みを含む、きわめて広い場のことである。それは好き/嫌い(I like/ I don’t)の問題である。ストゥディウムは、好き(to like)の次元に属し、愛する(to love)の次元には属さない。ストゥディウムは、中途半端な欲望、中途半端な意志しか動員しない。それは、人が《すてき》だと思う人間や見世物や衣服や本に対していだく関心と同じたぐいの、漠然とした、あたりさわりのない、無責任な関心である。
プンクトゥム(punctum)、――、ストゥディウムを破壊(または分断)しにやって来るものである。(……)プンクトゥムとは、刺し傷 piqûre、小さな穴 petit trou、小さな斑点 petite tache、小さな裂け目 petite coupureのことであり――しかもまた骰子の一振り coup de dés のことでもあるからだ。ある写真のプンクトゥムとは、その写真のうちにあって、私を突き刺す(ばかりか、私にあざをつけ、私の胸をしめつける)偶然 hasard なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

ーー《バルトのストゥディウムとプンクトゥムは、オートマンとテュケーへの応答である。Les Studium et punctum de Barthes répondent à automaton et tuché》( jacques-alain miller 2011,L'être et l'un

※参照:プンクトゥム=テュケー

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以下、わたくしに強い同一化が起こった永井荷風と坂口安吾の文を掲げる(安吾は荷風を嫌っているが、それはどうでもよいことである)。


◆荷風『断膓亭日記』

大正七戊午年 (荷風歳四十)

八月八日。筆持つに懶し。屋後の土蔵を掃除す。貴重なる家具什器は既に母上大方西大久保なる威三郎方へ運去られし後なれば、残りたるはがらくた道具のみならむと日頃思ひゐたしに、此日土蔵の床の揚板をはがし見るに、床下の殊更に奥深き片隅に炭俵屑籠などに包みたるものあまたあり。開き見れば先考の徃年上海より携へ帰られし陶器文房具の類なり。之に依つて窃に思見れば、母上は先人遺愛の物器を余に与ることを快しとせず、この床下に隠し置かれしものなるべし。果して然らば余は最早やこの旧宅を守るべき必要もなし。再び築地か浅草か、いづこにてもよし、親類縁者の人〻に顔を見られぬ陋巷に引移るにしかず。嗚呼余は幾たびか此の旧宅をわが終焉の地と思定めしかど、遂に長く留まること能はず。悲しむべきことなり。
昭和十二年 (荷風歳五十九)

三月十八日。くもりにて風寒し。土州橋に往き木場より石場を歩み銀座に飯す。家に帰るに郁太郎より手紙にて、大久保の母上重病の由報ず。母上方には威三郎の家族同居なるを以て見舞にゆくことを欲せず。万一の事ありても余は顔を出さざる決心なり。これは今日俄に決心したるにはあらず、大正七年の暮余丁町の旧邸を引払ひ築地の陋巷に移りし際、既に夙く覚悟せしことなり。余は余丁町の来青閣を去る時その日を以て母上の忌日と思ひなせしなり。郁太郎方への二十年むかしの事を書送りてもせんなきことなれば返書も出さず。当時威三郎の取りし態度のいかなるかを知るもの今は唯酒井晴次一人のみなるべし。酒井も久しく消息なければ生死のほども定かならず。


◆坂口安吾「二十七歳」(1947年初出、安吾41歳)

英倫と一緒に遊びに来た矢田津世子は私の家へ本を忘れて行つた。ヴァレリイ・ラルボオの何とかいふ飜訳本であつた。私はそれが、その本をとゞけるために、遊びに来いといふ謎ではないか、と疑つた。私は置き残された一冊の本のおかげで、頭のシンがしびれるぐらゐ、思ひ耽らねばならなかつた。なぜなら私はその日から、恋の虫につかれたのだから。私は一冊の本の中の矢田津世子の心に話しかけた。遊びにこいといふのですか。さう信じていゝのですか。 

然し、決断がつかないうちに、手紙がきた。本のことにはふれてをらず、たゞ遊びに来てくれるやうにといふ文面であつたが、私達が突然親しくなるには家庭の事情もあり、新潟鉄工所の社長であつたSといふ家が矢田家と親戚であり、S家と私の新潟の生家は同じ町内で、親たちも親しく往来してをり、私も子供の頃は屡々遊びに行つたものだつた。私の母が矢田さんを親愛したのも、そのつながりがあるせゐであり、矢田さんの母が私を愛してくれたのも、第一には、そのせゐだつた。私は遊びに行つた始めての日、母と娘にかこまれ、家族の一人のやうな食卓で、酒を飲まされて寛いでゐた。 

その日、帰宅した私は、喜びのために、もはや、まつたく、一睡もできなかつた。私はその苦痛に驚いた。ねむらぬ夜が白々と明けてくる。その夜明けが、私の目には、狂気のやうに映り、私の頭は割れ裂けさうで、そして夜明けが割れ裂けさうであつた。 

この得恋の苦しみ(まだ得恋には至らなかつたが、私にとつてはすでに得恋の歓喜であつた)は、私の始めての経験だから、これは私の初恋であつたに相違ない。然し、この得恋の苦しみ、つまり恋を得たゝめに幾度かゞ眠り得なかつた苦しみは、その後も、別の女の幾人かに、経験し、先ほどの二人の女のいづれにも、その肉体を始めて得た日、そして幾夜か、睡り得ぬ狂気の夜々があつた。得恋は失恋と同じ苦痛と不安と狂気にみちてゐる。失恋と同じ嫉妬にすら満ちてゐる。すると、その翌日は手紙が来た。私はその嬉しさに、再び、ねむることができなかつた。 

そのころ「桜」といふ雑誌がでることになつた。大島といふインチキ千万な男がもくろんだ仕事で、井上友一郎、菱山修三、田村泰次郎、死んだ河田誠一、真杉静枝などが同人で、矢田津世子も加はり、矢田津世子から、私に加入をすゝめてきた。私は非常に不快で、加入するのが厭だつたが、矢田津世子に、あなたはなぜこんな不純な雑誌に加入したのですか、ときくと、あなたと会ふことができるから、と言ふ。私は夢の如くに、幸福だつた。私は二ツ返事で加入した。 

私たちは屡々会つた。三日に一度は手紙がつき、私も書いた。会つてゐるときだけが幸福だつた。顔を見てゐるだけで、みちたりてゐた。別れると、別れた瞬間から苦痛であつた。「桜」はインチキな雑誌であつたが、井上、田村、河田はいづれも善意にみちた人達で、(菱山は私がたのんで加入してもらつたのだ)私は特に河田には気質的にひどく親愛を感じてゐたが、彼は肺病で、才能の開花のきざしを見せたゞけで夭折したのは残念だつた。彼はすぐれた詩人であつた。 

インチキな雑誌であつたが、時事新報が大いに後援してくれたのは、編輯者の寅さんの好意と、これから述べる次の理由によるせゐだと思はれる。 

ある日、酔つ払つた寅さんが、私たちに話をした。時事の編輯局長だか総務局長だか、ともかく最高幹部のWが矢田津世子と恋仲で、ある日、社内で日記の手帳を落した。拾つたのが寅さんで、日曜ごとに矢田津世子とアヒビキのメモが書き入れてある。寅さんが手帳を渡したら、大慌てゞ、ポケットへもぐしこんだといふ。寅さんはもとより私が矢田津世子に恋してゐることは知らないのだ。居合せたのが誰々だつたか忘れたが、みんな声をたてゝ笑つた。私が、笑ひ得べき。私は苦悩、失意の地獄へつき落された。 

私がウヰンザアで矢田津世子と始めて会つた日、矢田津世子の同伴した男といふのが、即ち、時事の最高幹部なるWであつた。加藤英倫が私に矢田津世子を紹介し、そのまゝ別れて私が自席で友人達と話してゐると、矢田津世子がきて、時事のW氏に紹介したいから、W氏は一目であなたが好きになり、あの席からあなたを眺めて、すばらしい青年だと激賞してゐられるのです、と言つた。そこで私はWの席へ行き、話を交したのであつた。

「桜」の結成の記念写真が時事に大きく掲載された。私は特に代表の意味で、新しさだか、新しいモラルだか、文学だか、とにかく新しいといふことの何かに就て、三回だかのエッセイを書かされてゐた。それは寅さんの「桜」に対する好意であり、寅さんは又、私に甚だ好意をよせてくれたのだが(寅さんの本名を今思ひだした。彼は後日、作家となつた笹本寅である)私は然し寅さんの一言に眼前一時に暗闇となり、私が時事に書かされたことも実はWの指金であり好意であるやうな邪推が、――私は邪推した。せずにゐられなかつた。Wの好意を受けたことの不潔さのために、わが身を憎み、咒つた。

寅さんの話は思ひ当ることのみ。矢田津世子は日曜毎に所用があり、「桜」の会はそのため日曜をさける例であり、私も亦、日曜には彼女を訪ねても不在であることを告げられてゐたのである。 

如何なる力がともかく私を支へ得て、私はわが家へ帰り得たのか、私は全く、病人であつた。

ーー《時事の最高幹部なるW》とあるのは、当時「時事新報」の社会部長だった和田日出吉氏らしい。Wikiの木暮実千代の項ーー後年の和田氏の妻、《1944年、20歳年上の従兄・和田日出吉と結婚》ーーには次のような記述がある。

和田日出吉:時事新報入社後、中外商業新報の社会部長兼論説委員になる。二・二六事件の時首相官邸に乗り込み栗原安秀中尉と面会し、中央公論1936年8月号に手記を発表。その約2年後新聞記者をやめて満州に渡り、実千代と結婚し帰国する。

⋯⋯⋯⋯

同一化が起っている場合に最も注意すべきことは次のことである。

スピノザは『エチカ』第3部13定理でこう書いている、「精神は身体の活動能力を減少し阻害するものを表象する場合、そうした物の存在を排除する事物をできるだけ想起しようと努める」。

これはとりわけ当て嵌まるだろう、悪性のナショナリズム、あるいは主人の形象への強い同一化の場合に。主人の形象、例えば、ラカン、ジジェク、バディウ、ハイデガー、ドゥルーズ&ガタリ、デリダ等々である。

これらの形象の批判に遭遇した場合、精神は、あたかも批判を耳に入れることさえ出来ない。まるで殆どある種のヒステリーの盲目に陥ったかのようになる。その盲目は、例外としての法が去勢されることへの不可能性の幻想から湧き出る(幻想とは〈大他者〉(A)の去勢や分裂を仮面で覆い隠蔽する機能がある)。

結果として、思考に逸脱が生じる。即座に、かつ屡々ひどく無分別な仕草で、批判は的を外していると攻撃されることになる。そこに、ラカンが言ったことを観察したり聴いたりことは限りなく困難だ、すなわちラカン曰く「真理の愛は去勢の愛である」と。(Levi R. Bryant,Sexuation 3: The Logic of Jouissance (Cont.)

分かっていても難しい、ということは言える。

真理の愛とは、弱さの愛、弱さを隠していたヴェールを取り払ったときのその弱さの愛、真理が隠していたものの愛、去勢と呼ばれるものの愛である。

Cet amour de la vérité, c’est cet amour de cette faiblesse, cette faiblesse dont nous avons su levé le voile, et ceci que la vérité cache, et qui s’appelle la castration. (ラカン, S17, 14 Janvier 1970)

このラカン派的観点をとるなら、わたくしの場合、荷風や安吾の弱さを探さなくてはならない、ということになる。あるいはロラン・バルトの弱さを。




2017年10月13日金曜日

前夫とのあいだの子供(坂口三千代)

あとで泣くなというけれども私は泣くことは覚悟している。人を愛して泣かないで済むことを想像する方が難しい。まして坂口のような人と暮して泣かないで済むだろうとは思わない。彼は好きなように生きる人だ。(坂口三千代『クラクラ日記』)

坂口三千代さんの『クラクラ日記』は、わたくしの手元にない(上の文はネット上から拾ったものである)。30年ほど前に、この1967年に出版された書を読んだことはある。序文は石川淳が書いており、『夷斎小識』に所収されているその文章だけがわたくしの手元にある。

生活に於て家といふ觀念をぶちこわしにかかつた坂口安吾にしても、この地上に四季の風雨をしのぐ屋根の下には、おのづから家に似た仕掛にぶつかる運命をまぬがれなかつた。ただこれが尋常の家のおもむきではない。風神雷神はもとより當人の身にあつて、のべつに家鳴振動、深夜にも柱がうなつてゐたやうである。ひとは安吾の呻吟を御方便に病患のしわざと見立てるのだらうか。この見立はこせこせして含蓄がない。くすりがときに安吾を犯したことは事實としても、犯されたのは當人の部分にすぎない。その危險な部分をふぐの肝のやうにぶらさげて、安吾といふ人閒は强烈に盛大に生き拔いて憚らなかつたやつである。

家の中の生活では、さいはひに、安吾は三千代さんといふ好伴侶に逢着する因緣をもつた。生活の機械をうごかすために、亭主の大きい齒車にとつて、この瘦せつぽちのおくさんは小さい齒車に相當したやうに見える。亭主と呼吸を一つにして噛み合つてゐたものとすれば、おこりえたすべての事件について、女房もまた相棒であつたにひとしい。亭主が椅子を投げつけても、この女房にはぶつかりつこない。そのとき早く、女房は亭主から逃げ出したのではなくて、亭主の内部にかくれてゐたのだろう。安吾がそこにゐれば、をりをりはその屬性である嵐が吹きすさぶにきまつてゐる。しかし、その嵐の被害者といふものはなかつた。すなはち、家の中に悲劇はおこりえなかつた。それどころか、たちまち屋根は飛んで天空ひろびろ、安吾がいかにあばれても、ホームドラマにはなつて見せないといふあつぱれな實績を示してゐる。たくまずして演出かくのごときに至つたについては、相棒さんもまたあづかつて力ありといはなくてはならない。

安吾とともにくらすこと約十年のあとで、さらに安吾沒後の約十年といふ時閒の元手をたつぷりかけて、三千代さんは今やうやくこの本を書きあげたことに於て安吾との生活を綿密丁寧に再經驗して來てゐる。その生活の意味がいかなるものか、今こそ三千代さんは身にしみて會得したにちがひない。會得したものはなほ今後に持續されるだらう。この本の中には、亡き亭主の證人としての女房がゐるだけではない。安吾の生活と近似的な價値をもつて、當人の三千代さんの生活が未來にむかつてそこに賭けてある。この二重の記錄が今日なまなましい氣合を發してゐ所以である。(石川淳「坂口三千代著「クラクラ日記」序」)

ところで「坂口三千代」のWikiの項には次の記述がある。

1923年2月7日、千葉県銚子市に生まれる。千葉県立銚子高等女学校に通う。1943年、当時学生であった政治家の子息鈴木正人と結婚し、一女をもうける。のちに離婚した(『クラクラ日記』)。実家は向島で料亭を営む。

1947年3月初め、24歳のとき新宿のバー「チトセ」で坂口安吾と出逢い、毎週水曜日に荏原郡矢口町字安方127番地(現・大田区東矢口)の坂口家に通う秘書となる。4月に三千代が盲腸炎から腹膜炎となり緊急入院。一か月間病院で安吾が付きっきりで看病し、退院後も坂口家で養生し続け、そのまま9月頃から結婚生活に入る(岩波文庫年譜『風と私と二十の私・いづこへ他十六編』2008年)。

同年10月5日、雑誌『愛と美』(『週刊朝日』25周年記念号)において、安吾が発表した短篇小説『青鬼の褌を洗う女』は、三千代をモデルにしたとされているが(『クラクラ日記』)、作者の安吾自身は、「『青鬼の褌を洗う女』は、特別のモデルといふやうなものはない。書かれた事実を部分的に背負つてゐる数人の男女はゐるけれども、あの宿命を歩いてゐる女は、あの作品の上にだけしか実在しない」と語っている(『わが思想の息吹』)。

《当時学生であった政治家の子息鈴木正人と結婚し、一女をもうける》とある。わたくしも長い間そう思っていた。ところが最近いくらか安吾をまとめて読んでいるなかで、安吾自身が《私の女房は前夫との間に二人の子供がある》と記している文に行き当たった。さてどちらが本当なのだろう? ネット上をいくらか探る範囲では判然としない。

私の女房は前夫との間に二人の子供がある。又、前夫と私との中間には、幾人かの男と交渉があった。それを女房はある程度までは(と私は思うが)打ち開けていたが、私もそれを気にしなかったし、女房も前夫と結婚中は浮気をしなかった、私と一緒のうちも浮気をしない、浮気をする時は、別れる時だ、ということを、かなりハッキリ覚悟している女であった。
私は、一度だけ、女房に云った。「オレの子供じゃないだろうと疑っているのだ」「疑ってるの、知ってたわ。疑るなら、生まないから。ダタイするわ」「ダタイするには及ばないさ。生れてくるものは、育てるさ」「誰の子かってこと、証明する方法がある?」「生れた後なら判るだろう。血液型の検査をすればね」 私はこう云い残して、催眠薬をのんで眠ってしまったから、女房が泣いたか怒ったか、一切知らない。
私は半年ほど前にも、女房の前夫の子供をひきとるか否か、一週間ぐらい考えたことがあった。その子供は女房の母のもとに育っていた。五ツぐらいだろう。別に女房がひきとってくれと頼んだワケではないが、折にふれ子供を忘れかねている様子がフビンであったからである。

しかし、一日、遊びにきた子供を観察して、愛す自信がなかったので、やめることにした。「愛す自信があれば育てるつもりだったが、自信がないから、やめた」「頼みもしないのに。何を云うのよ」「人手に加工された跡が歴然としていて、なじめないし、可愛げが感じられないのだ。コマッチャクレているよ」「そんなこと云うのは、可哀そうよ。あの子の罪じゃなくってよ」 女房は、いささか、色をなして叫んだ。
私は元々、女房と一しょに住むつもりではなかったのである。私はどのような女とでも、同じ家に住みたいと思っていなかった。 

私は彼女に云った。

「家をかりてあげる。婆やか女中をつけてあげる。私は時々遊びに行くよ」 

彼女はうなずいた。私たちは、そうするツモリでいたのである。

ところが、彼女をその母の家から誘いだして、銀座で食事中に、腹痛を訴えた。医者に診てもらうようにすすめたが、イヤがるので、私の家につれてきて、頓服をのませて、ねかせた。一夜苦しんでいたのだが、苦しいかときくと、ニッコリしてイイエというので、私は未明まで、それほどと思わなかった。超人的なヤセ我慢を発揮していたのである。私が未明に気附いた時には、硬直して、死んだようになっていた。
女房は腹膜を併発して一月余り入院し、退院後も歩行が不自由なので、母のもとへ帰すわけにいかず、私の家へひきとって、書斎の隣室にねかせて、南雲さんの往診をうけた。やがて、人力車で南雲さんへ通うことができるようになったが、部屋の中で靴をはいて纏足の女のような足どりで、壁づたいに一周したり、夜更けに靴をだきしめて眠っているのを見ると、小さな願いの哀れさに打たれもしたが、それに負けてはいけないのだ、という声もききつづけた。 

しかし、こういう偶然を機会に、女房はズルズルと私の家に住みつくことゝなったのである。
私は、しかし、不満ではなかったと言えよう。彼女の魂は比類なく寛大で、何ものに対しても、悪意が希薄であった。私ひとりに対してなら、私は苦痛を感じ、その偏った愛情を憎んだであろうが、他の多くのものにも善意と愛情にみちているので、身辺にこのような素直な魂を見出すことは、時々、私にとっては救いであった。 

私のようなアマノジャクが、一人の女と一しょに住んで、欠点よりも、美点に多く注意をひかれて、ともかく不満よりも満足多く暮すことができたというのは、珍しいことかも知れない。 

女房は遊び好きで、ハデなことが好きであったが、私に対しては献身的であった。 ふだんは私にまかせきって、たよりなく遊びふけっているが、私が病気になったりすると、立派に義務を果し、私を看病するために、覚醒剤をのんで、数日つききっている。私はふと女房がやつれ果てていることに気附いて、眠ることゝ、医者にみてもらうことをすすめても、うなずくだけで、そんな身体で、日中は金の工面にとびまわったりするのであった。そして精魂つき果てた一夜、彼女は私の枕元で、ねむってしまう。すると、彼女の疲れた夢は、ウワゴトの中で、私ではない他の男の名をよんでいるのであった。 

私は女房が哀れであった。そんなとき、憎い奴め、という思いが浮かぶことも当然であったが、哀れさに、私は涙を流してもいた。
しかし一人の女と別れて、新しい別な女と生活したいというような夢は、もう私の念頭に九分九厘存在していない。残る一度に意味を持たせているワケではなく、多少の甘さは存在しているというだけのことだ。 

恋愛などは一時的なもので、何万人の女房を取り換えてみたって、絶対の恋人などというものがある筈のものではない。探してみたい人は探すがいゝが、私にはそんな根気はない。

私の看病に疲れて枕元にうたたねして、私ではない他の男の名をよんでいる女房の不貞を私は咎める気にはならないのである。咎めるよりも、哀れであり、痛々しいと思うのだ。 

誰しも夢の中で呼びたいような名前の六ツや七ツは持ち合せているだろう。一ツしか持ち合せませんと云って威張る人がいたら、私はそんな人とつきあうことを御免蒙るだけである。
女房よ。恋人の名を叫ぶことを怖れるな。(坂口安吾『我が人生観 (一)生れなかった子供』1950年)

三千代さんの前夫とのあいだの子供が何人あろうが、それは実のところどうでもいい。だがもしwikiの記述が正しいとしたら、上に引用したエッセイ風に書かれている文もフィクションの要素が混じり込んでいる書き物として読むべきか否かは(今のわたくしにとっては)どうでもよくはない・・・

ーーということのメモで、ここは終わろう。ネット上から拾った『クラクラ日記』の文の引用のいくらかは、またそのうち投稿することにする。

2017年9月23日土曜日

高麗笛



ーー ははあ、すばらしい。ビックリした。

だがなにがすばらしいのかは言わないでおく(内政にも外交にもとびきりのすぐれたメッセージであるなどと主張するつもりはない。あくまで天皇・皇后両陛下の私的旅行である)。

とはいえ高麗神社について、一週間ほどまえに読んだところだった、というのも「すばらしい」のうちのひとつである。

今日では埼玉県入間郡高麗村ですが、昔は武蔵の国の高麗郡であり、高麗村でありました。東京からそこへ行くには池袋駅から西武電車の飯能行きで終点まで行き、吾野行きに乗りかえ(同じ西武電車だが池袋から吾野行きの直通はなく、いっぺん飯能で乗りかえなければならない)飯能から二ツ目の駅が高麗です。
この高麗は新羅滅亡後朝鮮の主権を握った高麗ではなくて、高句麗をさすものである。(安吾の新日本地理 10 高麗神社の祭の笛――武蔵野の巻―― )


そのとき、読んだだけではなく、高麗神社の映像まで見ている。

◆高麗神社 桜の下で雅楽とあそぶ 2010年3月28日


改めて笛の音にきき入ると、モウイイカイ、マアダダヨオ、という子供たちの隠れんぼの声が、この笛の音律と舞いの内容に深いツナガリがあって民族のハラワタをしぼるようにして沁みでてきたものではないかと思われ、そう信じても不当ではないと言いきりたいような大きな感動に私はひきこまれていたのであった。

安吾の言うように高麗笛(こまぶえ)の響きは徹底的に美しい。

この民族の一部はすでに古くから安住の地をもとめて海を越え、日本の諸方に住みついていたと考えられます。高句麗は天智天皇の時代に新羅に亡ぼされたが、そのはるか以前からの当時の大陸文化をたずさえて日本に移住していることは史書には散見しているところで、これらの史書に見ゆるものは公式の招請に応じたものか、または日本のミヤコや朝廷をめざして移住してきたものに限られているのであろう。
霊亀二年五月に今の高麗村(以下コマ村と書く)がひらかれたという続日本紀の記事に於ても、決してその年に渡来したコマ人をそこに住ませたのではなく、「駿河と甲斐と相模と上総と下総と常陸と下野の七ヶ国のコマ人一千七百九十九人を武蔵の国にうつしてコマ郡をおいた」 とある通り、すでに各地に土着しておったコマ人を一ヶ所にまとめたにすぎない。 

これがコマ人の総数でなかったことは確かであろう。恐らくそれ以前に日本各地に土着したコマ人たちは、単に部落民として中央政府の支配下に合流して自らをコマ人、クダラ人、シラギ人などと云うことなく新天地の統治者に服従して事もなく生活していたに相違なく、これに反して、すでに日本の諸地に土着しつつも敢てコマ人と称して異を立てておった七ヶ国のコマ人一千七百九十九人の方が珍しい存在と云うべきであろう。彼らが土地を移して一ヶ所にまとめられた意味はそういうところにあるのかも知れない。(安吾の新日本地理 10 高麗神社の祭の笛――武蔵野の巻―― )

武満徹の秋庭歌も高麗笛(こまぶえ)を使っている。じつは三日ほどコマ笛の音色が頭のなかで鳴っていた。風で木の葉が揺れるとことさら鳴るのである、《民族のハラワタをしぼるようにして沁みでてきた》かのようなあの音色が。そしてわたくしの知らない「京城の深く青く凛として透明な空」に思いを馳せたのである。




2017年9月18日月曜日

ふたつの理想化(菊乃と津世子)

批評家は、作家のめざしてゐるものを見よ。最高の理想をめざして身悶えながら、汚辱にまみれ、醜怪な現実に足をぬき得ず苦悶悪闘の悲しさに一掬の涙をそゝぎ得ぬのか。然り。そゝぎ得ぬ筈だ。おん身らは、かゝる苦闘を知らないのだから。日本文学の伝統などといふものを表面の字づらの上で読みとり、綴り合せて、一文を草することしか知らないのだから。(坂口安吾「理想の女」初出1947年)

…………

以下、主にメモ(青空文庫にある安吾の作品を「あ」から読み返しているのだが、ようやく「あ」が終ったところでのメモである。かつて読んだ「あ」以外の印象が残っている作品についての引用もいくらかある)。

◆「安吾人生案内その六 暗い哉 東洋よ」より(初出:「オール読物 第六巻第一〇号」1951(昭和26)年10月1日発行)

塩谷先生は菊乃さんが自殺したと説をなす者を故人を誣いるものだとお考えのようであるが(同氏手記「宿命」――晩香の死について――週刊朝日八月十二日号)誰が自殺しても別にフシギはないし、自殺ということが、その人の、またはその良人の不名誉になることだとも思われない。
大詩人だの大音楽家だのと云ったって、その他人にすぐれているのは詩と音楽についてのことで、ナマの現身はそうは参らん。現身はみんな同じこと。否、現身に属する美点欠点にも差はあるだろうが、それは詩や音楽の才能と相応ずるものではありません。

漢学者塩谷温(1878-1962)は一部では《その研究史上の功労は日本人研究者においては京都大学の青木正児(1887-1964)、吉川幸次郎(1904-1980)といった学者に並ぶものだ》とされる方だそうだ(前川晶「塩谷温と『支那文学概論講話』について」)。ただし《知名度は…明らかに低い》。なぜなら《戦前支那学研究の基礎的作業に終始》にしたから、と。

前川晶氏の同じ論文には、塩谷温の晩年について、次のように記されている。

戦後不如意の生活を強いられつつも、国体と道徳の再興を叫んで意気軒高に過ごしていた塩谷は、古希を迎えて三十才半ばの花柳界出身の相手・長谷川菊乃(晩香)と再婚した。当時世に知られた二年足らずの「老いらくの恋」ののち昭和二六年(1951)七月、この菊乃が謎の死を遂げ、それが(老漢学者の若夫人自殺)と興味本位に騒がれて事件がスキャンダル化したとき、〈自殺と決めつける世人〉への反論として塩谷が書き散らかした手記のひとつ「宿命――晩香の死についてーー」(『週刊朝日』1951年8月12日号)を読んだ坂口安吾は、そこに示されたあまりにもアナクロな愛情表現に反発し、『安吾人生案内/暗い哉東洋よ』のなかで塩谷を厳しく論難した。

その文章を坂口はこのように締めくくっている。「人間の倫理は「己が罪」というところから始まったし、そうでなければならんもんだが、東洋の学問は王サマの弁護のために論理が始まったようなもんだから、分らんのは仕方がないが。 ああ、暗い哉。東洋よ。暗夜、いずこへ行くか。 オレは同行したくないよ。」(前川晶「塩谷温と『支那文学概論講話』について」2001,pdf

以下、ふたたび「安吾人生案内その六 暗い哉 東洋よ」より

塩谷先生は悪意はなかった。むしろ善意と、献身的な気持で溢れていたようだ。けれども、自分の美化した想念に彼女を当てはめて陶酔し、彼女のきわめて卑近な現実から自分の知らない女を発見したり、彼女の心の裏の裏まで見てやりはしなかったようだ。先生は彼女を詩中の美女善女のように賞揚して味っていたが、詩中の美女善女のような女は現実的には存在しないものである。 

現実的な人間は、もっともっと小さくて汚く、卑しいところもあるものである。それは肉慾の問題、チャタレイ的なことのみを指すものではありません。肉慾などよりも、精神的に甚しい負担が彼女にかかっていて、彼女はジリジリ息づまるように追いつめられていたのではありますまいか。それは詩の中の最上級の美女善女に仕立てられた負担であった。もっと卑しくて、汚らしくて、小さくて、みじめなところ、欠点も弱点も知りつくした上で愛されなくては、息苦しくて、やりきれまい。       
塩谷先生は菊乃の欠点もよく知っていた、全てを知った上で、彼女を美しきもの良きもの正しきものと観じて愛したのだ。と仰有るかも知れないが、私はそうではないと思う。 

先生の愛し方は独裁者の愛し方ですよ。たとえば軍人が、軍人精神によって、一人の兵隊をよき兵隊として愛す。ところがこの兵隊はよき軍人的であるために己れを偽って隊長の好みに合せている。その好みに合せることは良き軍人ということにはかのうが、決してよき人間ということにはかなわない。彼自身が欲することは良き人間でありたいということで、良き軍人ということではなかったのだが、この社会では軍人絶対であるから、どうにもならない。独裁者の意のままの人形になってみせなければ生きられないのである。

傑出した心理家坂口安吾といおう。

心理学者の決疑論。――この者は一人の人間通である。いったい何のために彼は人間を研究するのであろうか? 彼は人間に関する小さな利益を引っとらえようと欲する、ないしは大きな利益をも。――彼は政略家にほかならない!・・・あそこのあの者もまた一人の人間通である。だから諸君は言う、あの者はそれで何ひとつ自分の利益をはかろうとしない、これこそ偉大な「無私の人」であると。もっと鋭く注意したまえ! おそらく彼はさらにそのうえ“いっそう良くない”利益を欲している、すなわち、おのれが人々よりも卓越していると感じ、彼らを見くだしてさしつかえなく、もはや彼らとは取りちがえられたくないということを欲しているのである。こうした「無私の人」は”人間軽蔑者”にほかならない。だからあの最初の者の方が、たとえ外見上どうみえようとも、むしろ人間的な種類である。彼は少なくとも同等の地位に身をおき、彼は“仲間入り”する。(ニーチェ『偶像の黄昏』「或る反時代的人間の遊撃」)

たとえば《先生の愛し方は独裁者の愛し方ですよ》《独裁者の意のままの人形になってみせなければ生きられない》とする安吾の文は、理想化のメカニズムを見事に分析しているとしてよい。

誤った崇拝は理想化をうむ。それは他者の弱さを見えなくする──あるいは、それはむしろ、自己のいだく幻影を投影するスクリーンとして他者を利用し、他者そのものを見えなくする。(ジジェク『信じるということ』)

なぜこのようなすぐれた心理家が生まれたのか。安吾はひとりの女を徹底的に愛し、徹底的に苦しんだからである。わたくしは(今のところ)そう考えたい。《われわれは、無理に contraints、強制されて forcés、時間の中でのみ真実を探求する。真実の探求者とは、恋人の表情に、嘘のシーニュを読み取る、嫉妬する者である 。それは、印象の暴力に出会う限りにおいての、感覚的な人間である。》(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』ーー作家の手の爪の血

…………

◆二十七歳(初出:「新潮 第四四巻第三号」1947(昭和22)年3月1日発行)
さて、私は愈々語らなければならなくなつてきた。私は何を語り、何を隠すべきであらうか。私は、なぜ、語らなければならないのか。 

私は戦争中に自伝めく回想を年代記的に書きだした。戦争中は「二十一」といふのを一つ書いたゞけで、発表する雑誌もなくなつてしまつたのだが、私がこの年代記を書きだした眼目は二十七、それから三十であつた。つまり、矢田津世子に就てゞあつた。

私は果して、それが書きうるかどうか、その時から少からず疑つてゐた。たゞ、私は、矢田津世子に就て書くことによつて、何物かゞ書かれ、何物かゞ明らかにされる。私はそれを信じることができたから、私はいつか、書きうるやうにならなければいけないのだと考へてゐたのであつた。 

始めからハッキリ言つてしまふと、私たちは最後まで肉体の交渉はなかつた。然し、メチルドを思ふスタンダールのやうな純一な思ひは私にはない。私はたゞ、どうしても、肉体にふれる勇気がなかつた。接吻したことすら、恋し合ふやうになつて、五年目の三十一の冬の夜にたゞ一度。彼女の顔は死のやうに蒼ざめてをり、私たちの間には、冬よりも冷めたいものが立ちはだかつてゐるやうで、私はたゞ苦しみの外なにもなかつた。たかゞ肉体ではないか、私は思つたが、又、肉体はどこにでもあるのだから、この肉体だけは別にして、といふ心の叫びをどうすることもできなかつた。 

そして、その接吻の夜、私は別れると、夜ふけの私の部屋で、矢田津世子へ絶交の手紙を書いたのだ。もう会ひたくない、私はあなたの肉体が怖ろしくなつたから、そして、私自身の肉体が厭になつたから、と。そのときは、それが本当の気持であつたのかも知れぬ。その時以来、私は矢田津世子に会はないのだ。彼女は死んだ。そして私はおくやみにも、墓参にも行きはしない。 

その後、私は、まるで彼女の肉体に復讐する鬼のやうであつた。私は彼女の肉体をはづかしめるために小説を書いてゐるのかと疑らねばならないことが幾度かあつた。私は筆を投げて、顔を掩うたこともある。



◆三十歳(初出:「文学界 第二巻第五号」1948(昭和23)年5月1日発行)
私は「いづこへ」の女が夜の遊びをもとめる時に、時々逆上して怒った。「君はそのために生きているのか! そのためにオレが必要なのか!」 

私にとって、私がそのことを怒るべき時期であったに相違ない。あの女とは限らない。どの女であるにしても、その事柄を怒らずにいられない時期であったと思う。 

私は女の生理を呪った。女の情慾を汚らしいものだと思った。その私は、女以上に色好みで、汚らしい慾情に憑かれており、金を握れば遊里へとび、わざ〳〵遠い田舎町まで宿場女郎を買いに行ったりしていたのである。 

私はこうして女の情慾に逆上的な怒りを燃やすたびに、神聖なものとして、一つだけ特別な女、矢田津世子のことを思いだしていた。もとより、それはバカげたことだ。もとより当時からそのバカらしさは気付いていたが、そうせずにいられなかっただけである。 

一つの女体としての矢田津世子が、他のあらゆる女体と同じだけの汚らしさ悲しさにみちたものであることを、当時の私といえども知らぬ筈はない。それどころか、女の情慾の汚らしさに逆上的な怒りを燃やすたびに、私はむしろ痛切に、矢田津世子がそれと同じものであることを痛く苦く納得させられ、その女の女体から矢田津世子の女体を教えられているのであった。 

それにも拘らず、逆上的な怒りのたびに、矢田津世子の同じ女体を、一つ特別な神聖なものとして思いだしてもいるのだ。

《私は二十七まで童貞だった。 二十七か八のころから三年ほど人の女房だった女と生活したが、これからはもう散々で、円盤ややりや自動車の比ではない。窒息しなかったのが不思議至極で、思いだしても、心に暗幕がはられてしまう。》(坂口安吾「てのひら自伝」初出1947年)

矢田津世子と再会して、混乱の時期が収ったとき、私の目に定着して、ゆるぎも見せぬ正体をあらわしたのは、矢田津世子の女体であった。その苦しさに、私は呻いた。 

三年間、私が夢に描いて恋いこがれていた矢田津世子は、もはや現実の矢田津世子ではなかったのだ。夢の中だけしか存在しない私の一つのアコガレであり、特別なものであった。

今日の私はその真相を理解することができたけれども、当時の私はそうではなかった。私の恋人は夢の中で生育した特別な矢田津世子であり、現実の矢田津世子ではなくなっていることを理解できなかったのだ。私はたゞ、驚き、訝り、現実の苦痛や奇怪に混乱をつゞけ、深めていた。 

現実の矢田津世子は、夢の中の矢田津世子には似ず、呆れるほど、別れたばかりの女に似ていた。むしろ、同じものであったのだ。同じ女体であったから。私は然し、当時は、恋する人の名誉のために、同じ、という見方を許すことができなかったから、私の理解はくらみ、益々混乱するばかりであったのである。 

二十七歳のころは、私は矢田津世子の顔を見ているときは、救われ、そして安らかであった。三十歳の私は、別れたあとの苦痛の切なさは二十七のころと同じものであったが、顔を合せている時は、苦しさだけで、救いもなく、安らかな心は影だになかった。 

私はあの人と対座するや、猟犬の鋭い注意力のみが感官の全部にこもって、事々に、あの人の女体を嗅ぎだし、これもあの女に似てるじゃないか、それもあの女と同じじゃないか、私は女体の発見に追いつめられ、苦悶した。
私も、あの人も、大人になっていたのだ。私は「いづこへ」の女との二年間の生活で、その女を通して矢田津世子の女体を知り、夢の中のあの人と、現実のこの人との歴然たる距りに混乱しつゝも、最も意地わるくこの人の女体を見すくめていた。
私は然し、今日、私がこのように平静でありうるのも、矢田津世子がすでに死んだからだと信ぜざるを得ないのである。 

思えば、人の心は幼稚なものであるが、理窟では分りきったことが、現実ではママならないのが、その愚を知りながら、どうすることもできないものであるらしい。 

矢田津世子が生きている限り、夢と現実との距りは、現実的には整理しきれず、そのいずれかの死に至るまで、私の迷いは鎮まる時が有り得なかったと思われる。

私はどんな放浪の旅にも、懐から放したことのない二冊の本があった。N・R・F発行の「危険な関係」の袖珍本で、昭和十六年、小田原で、私の留守中に洪水に見舞われて太平洋へ押し流されてしまうまで、何より大切にしていたのである。 

私はこの本のたった一ヶ所にアンダーラインをひいていた。それはメルトイユ夫人がヴァルモンに当てた手紙の部分で「女は愛する男には暴行されたようにして身をまかせることを欲するものだ」という意味のくだりであった。
私の部屋はKホテルの屋根の上の小さな塔の中であった。特別のせまい階段を登るのである。 

せまい塔の中は、小型の寝台と机だけで一パイで、寝台へかける外には、坐るところもなかった。 

矢田津世子は寝台に腰かけていた。病院の寝台と同じ、鉄の寝台であった。 

私は、さすがに、ためらった。もはや、情慾は、まったく、なかった。ノドをしめあげるようにしてムリに押しつめてくるものは、私の決意の惰性だけで、私はノロ〳〵とにじりよるような、ブザマな有様であった。

私は矢田津世子の横に腰を下して、たしかに、胸にだきしめたのだ。然し、その腕に私の力がいくらかでも籠っていたという覚えがない。 

私は風をだきしめたような思いであった。私の全身から力が失われていたが、むしろ、磁石と鉄の作用の、その反対の作用が、からだを引き放して行くようであった。 

私の惰性は、然し、つゞいた。そして、私は、接吻した。 

矢田津世子の目は鉛の死んだ目であった。顔も、鉛の、死んだ顔であった。閉じられた口も、鉛の死んだ唇であった。 

私が何事を行うにしても、もはや矢田津世子には、それに対して施すべき一切の意識も体力も失われていた。表情もなければ、身動きもなかった。すべてが死んでいたのであった。 

私は茫然と矢田津世子から離れた。まったく、そのほかに名状すべからざる状態であったと思う。私は、たゞ、叫んでいた。

「出ましょう。外を歩きましょう」 

そして、私は歩きだした。私について、矢田津世子も細い階段を下りてきた。 

表通りへでると、私はたゞちに円タクをひろって、せかせかと矢田津世子に車をすゝめた。

「じゃア、さよなら」 

矢田津世子は、かすかに笑顔をつくった。そして、「おやすみ」 と軽く頭を下げた。 

それが私たちの最後の日であった。そして、再び、私たちは会わなかった。 

私は、塔の中の部屋で、夜更けまで考えこんでいた。そして、意を決して、矢田津世子に絶縁の手紙を書き終えたとき、午前二時ごろであったと思う。ねむろうとしてフトンをかぶって、さすがに涙が溢れてきた。 

私の絶縁の手紙には、私たちには肉体があってはいけないのだ、ようやくそれが分ったから、もう我々の現身はないものとして、我々は再び会わないことにしよう、という意味を、原稿紙で五枚くらいに書いたのだ。


安吾は、上の「三十歳」が書かれた三年後、「安吾人生案内 その八 安吾愛妻物語」(初出「オール読物 第六巻第一二号」1951(昭和26)年12月1日発行)にて次のように記している。《二十七と三十一のバカらしさはすでにバカげた記録を綴っておいたが、これもそのうち静かに書き直す必要があろう。》

ほぼ同じ時期の「安吾の新日本地理秋田犬訪問記――秋田の巻――」(初出:「文藝春秋 第二九巻第一五号」 1951(昭和26)年11月1日発行)には、次のような文がある。

私がフラフラ状態で秋田市へつき、旅館に辿りついたとき、いきなり秋田の新聞記者が訪ねてきた。「秋田市の印象はいかがですか」 (……)
 
しかし、着いたトタンに当地の印象いかがとは気の早い記者がいるものだ。その暗さや侘しさがフルサトの町に似た秋田は切ないばかりで、わずかばかりの美しさも、わずかばかりの爽かさも、私の眼には映らない。 

けれども私は秋田を悪く云うことができないのです。なぜなら、むかし私が好きだった一人の婦人が、ここで生れた人だったから。秋田市ではなく、横手市だ。けれども秋田県の全体が、あそこも、ここも、みんなあの人を育てた風土のようにしか思われない。すべてが私にとっては、ただ、なつかしいのも事実だから仕方がありません。汽車が横手市を通る時には、窓から吹きこむ風すらも、むさぼるばかりに、なつかしかった。風の中に私がとけてしまッてもフシギではなかったのです。秋田市が焼跡のバラック都市よりも暗く侘しく汚くても、この町が私にとってはカケガエのない何かであったことも、どう言い訳もなかったのです。

「秋田はいい町だよ。美しいや」 

私は新聞記者にそうウソをついてやりました。すると彼は、たぶん、と私が予期していたように、しかし甚ださりげなく、また慎しみを失わずに、あの人の名を言いだした。

「あゝ。あの人なら、知ってるよ。たぶん、横手のあたりに生れた人だろう」

私は何食わぬ顔で、そう云ってやった。むろん私はその記者に腹を立てるところなどミジンもなかった。私はこの土地であの人の名をハッキリ耳にきくことによって、十年前に死んだ、その人と対座している機会を得たような感傷にひたった。着いたトタンにいきなり新聞記者が訪ねて来たことも、そしていきなりあの人の名をきいてしまったことも、私とこの土地に吹く風だけが知り合っている秘密のエニシであるということをひそかに考えてみることなどを愉しんだのである。

上の1951年のエッセイに「十年前に死んだ」とあるが、矢田津世子は、1943年に肺炎で亡くなっている。

途中、傑出した心理家安吾としたが、傑出していても人は自分のことが見えなくなることは必ずある。《万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きている(Human being cannot endure very much reality ---T.S.Eliot)》(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』所収)

安吾が塩谷温氏の心理を鋭く分析しているからといって、自己分析が同様にできているとは必ずしもいえない。

他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫『世界における徴候と索引』)

かつまた上に引用した、「二十七歳」と「三十歳」は小説の記述であることに注意しなければならない。たとえば安吾三十歳の年、《昭和11年1月頃、しばらく途絶えていた安吾との交際が再開されたが、3月5日頃に本郷の菊富士ホテルに安吾をたずねたのを最後に、その後津世子のほうから安吾に絶縁の手紙が出される》とWIKIの矢田津世子の項に書かれているが、これは「三十歳」の叙述とはいささか齟齬がある。

私が「いづこへ」の女と別れる時には、私はどうしてもこの狂気の処置をつけなければならないことを決意していたのである。求婚の形でか、より激しく狂気の形でか、強姦の形でか、とにかく何か一つの処置がなければならぬことだけは信じていた。

矢田津世子も、たぶん、そうであったらしい。二人は別々に離れて、同じような悲しい狂気に身悶えていたらしい。 

あの人が訪ねてきたとき、私はちょうど、玄関の隣りの茶の間に一人で坐っていた。そして私が取次にでた。 

あの人は青ざめて、私を睨んで立っていた。無言であった。睨みつづけることしか、できないようであった。私の方から、お上りなさい、と言葉をかけた。(……)

「私はあなたのお顔を見たら、一と言だけ怒鳴って、扉をしめて、すぐ立去るつもりでした。私はあなたを愛しています、と、その一と言だけ」 (……)

「僕もあなたを愛していました。四年間、気違いのように、思いつづけていたのです。この部屋で、四年前、あなたが訪ねてこられた日から気違いのようなものでした。いわばそれから、あなたのことばかり思いつめていたようなものです」 

私がこう言い終ると、あの人がスックと立ち上ったように思ったが、実際は、あの人が顔を上げたゞけなのだ。その顔が青ざめはてて、怒りのために、ひきしまり、狂ったように、きつかったのだ。「四年前に、なぜ、四年前に」(「三十歳」)

ネット上には事実関係らしきものを記した安吾研究家の叙述がないではないが、ここではそれを引用することは敢えてしない。・・・いやひとつだけ面白いものがあるので引用しよう。

近藤富枝の「花影の人」によると、この時期に矢田津世子は次のようなメモを書き残しているという。

「私が彼を愛してゐるのは、実際にあるがままの彼を愛してゐるのではなくして、私が勝手に想像し、つくりあげてゐる彼を愛してゐるのです。だが、私は実物の彼に会ふと、何らの感興もわかず、何等の愛情もそそられぬ。

そして、私は実体の彼からのがれたい余り彼のあらばかりをさがし出した。しかしそのあらを、私の心は創造してゐたのである」

もしこれが事実だとすれば、安吾の「三十歳」の叙述、《現実の矢田津世子は、夢の中の矢田津世子には似ず、呆れるほど、別れたばかりの女に似ていた》は、先に矢田が言っていたことになる。

いやアこうやってメモしながら記していると、この文を記そうと思った当初の意図とは別の方向にいってしまう・・・《真理の愛とは、弱さの愛、弱さを隠していたヴェールを取り払ったときのその弱さの愛、真理が隠していたものの愛、去勢と呼ばれるものの愛である。》(ラカン、 S17, 14 Janvier 1970)

というわけでこのあたりで次の文を引用してやめておこう。

作品というものは、私の場合、私の全的なもので、自伝的作品といっても、過去の事実の単純な追想や表現ではないのである。事実の復原をめざして書くなどということは、私のてんから好まざるところ、左様な意味のものならば、私は自伝などは書かぬ。

私が自伝を書くには、書くべき文学的な意味があり、私の思想や生き方と、私の過去との一つの対決が、そこに行われ、意志せられ、念願せられているという、それを理解していただきたい。 

その対決のあげくが、どう落付きどう展開することになるか、それを私自身が知らず、ただ、それを行うところから出発する、そういう手段だけが、私の小説の、私に於ける意味なのである。(坂口安吾「わが思想の息吹」)


2017年9月15日金曜日

越後の毒消し売り

今日はすこしは風がある。だがまだひどく暑い。

数日前荷風を読もうとしたがどうもいけない。かわりに安吾を読んでいる。
以前に安吾の作品を集中的に読んだのはインド旅行のときだ。安吾の文章は暑さを吹き飛ばしてくれる。

今回は青空文庫のあいうえお順に読んでいる。まだ「あ」が終わらない。「あ」ではじまる作品が多いせいだ(安吾講談とか安吾新風土記とか)。

安吾新風土記に「富山の薬と越後の毒消し売り」の巻がある。

行商は商業の最も原始的な形態だ。現今でも押売りという行商が横行しているが、富山の薬は一風変っていて、代金は後廻しだ。まず薬袋を預けて行く。翌年見廻りにきて、のんだ分の代金をうけとって行くという仕組みである。代金後払いというところが一般の行商と類を異にしているから、どこの家庭でも押売りとは区別して考える。一つは歴史のせいもあろう。夏の金魚売りなぞと同じように、なくてはならぬ土地の風物化している親しさもあって、関東の農村では村々の入口に「押売りの村内立入りお断り」という高札がかかげてあるが、富山の薬売りと越後の毒消し売りは特別だ。毒消し売りは現金引き換えであるが、これもその歴史と、売り子が女という点に親しみがあるのであろう。毒消し売りはちょッとした美人系で、その伝説によっても名物化しているようだ。

ああそうなのか、富山の薬売りとは。
だが越後の毒消し売りのほうがもっと興味がある。つまり「ちょッとした美人系」とあるせいである。

だがネットを検索しても美人は出現しない。

かわりに次の写真を見出した。



坂口安吾は昭和29年より「新日本風土記」の連載を開始し、その取材で日本各地を訪れた。その訪問地の中で文字通り、最後の旅となった高知県の室戸岬における坂口安吾氏。安吾は高知の豪快な自然、気風を好んだが文章として書かれることはなかった。昭和30年2月の室戸岬での写真。高知から帰って四日後の昭和30年2月17日、脳出血で急逝した。(坂口安吾の最後の旅、-安吾新日本風土記、最後の訪問地の高知)。

安吾の晩年の写真をみて、わたくしは永らく50歳代の男だと錯覚していたが、1906年(明治39年)10月20日 - 1955年(昭和30年)2月17日)であり、49歳で亡くなっている。




高千穂では竹の筒に酒を入れて焚火でわかして野天で酒をのむ。これをカッポ酒という。この肴には鶏の丸焼を主として用いるということだ。(……)

私は鵜戸神宮の岩窟の中にチョロチョロと流れて溜っている神様の水をのんで以来猛烈に下痢をして弱っていた。安吾新日本風土記「第一回 高千穂に冬雨ふれり≪宮崎県の巻≫」






 昭和30年1月、「富山の薬と越後の毒消し」の取材のため、高岡を経て投宿した富山市の旅館での坂口安吾氏。世話になった堀田善衛氏の母親のために色紙を書いている。「梁塵秘抄」の一節が見える。(坂口安吾の最後の旅、-安吾新日本風土記、最後の訪問地の高知




2017年2月21日火曜日

ホホホホーー糸子/藤尾、あるいは嬲/嫐

さて夏目漱石の『虞美人草』における糸子と藤尾という二人の「理想の女」をめぐって、「呼んでもやってこない「理想の女」」にて長々と記したが、ここでは簡潔に、--マルクス・精神分析的にーー記しておこう。

まず「二種類の対象aとフロイトの快の獲得 Lustgewinnung」における記述から次の柄谷行人の『マルクス その可能性の中心』にかかわる文とジジェクの文を再掲する。

「対称的であり且つ合理的な根拠」/「社会的な、すなわち無根拠であり非対称的な交換関係」とは、「メッセージ(商品)-コード(貨幣)-メッセージ(商品)」/「コード(貨幣)-メッセージ(商品)-コード(貨幣)」である(C-M-C/M–C–Mʹ)。
ここで耐えねばならない誘惑は、C-M-C から M-C-M' への移行を、より基本的過程の疎外・脱自然化として捉えてしまうことである。一見自然で妥当に見える、人が生産しうるが自らにとっては実際の必要でない品を、他者によって生産された必要品と交換するのは。この全過程は私の欲求によって統制されている。だが事態は奇妙な転回を起す。それは仲介要素(貨幣)にすぎなかった筈のものが、目的自体になるときである。そのとき全運動の目的は、私の実際の欲求における拠り所を失い、二次的手段化であるべき筈のものの終わりなき自己増殖へと転じる…。

C-M-C を自然で妥当と見なしてしまう誘惑に対抗して、人は強調しなければならない。C-M-C から M-C-M' への反転(すなわち自己を駆り動かす貨幣の妖怪の出現)は、既にマルクスにとって、自己駆動化された人間の生産活動の倒錯的表現である。マルクス的観点からは、人間の生産活動の真の目標は、人間の欲求の満足ではない。むしろ欲求の満足は、ある種の理性の狡知のなかで、人間の生産活動の拡張を動機づけるために使われる。(ジジェク、2016)

(このジジェクの叙述はフロイト概念「快の獲得 Lustgewinnung」、ラカン概念「剰余享楽 plus-de-jouir」、マルクス概念「剰余価値 Merhwert」にかかわっている。)

①「メッセージ(商品)-コード(貨幣)-メッセージ(商品)」というのが想像界的な愛の様相であり、糸子を理想の女とする吉本隆明の解釈である(前回の叙述参照)。

②「コード(貨幣)-メッセージ(商品)-コード(貨幣)」というのが現実界的な愛の様相であり、坂口安吾的な解釈である。

前回、安吾による「理想の女」の叙述を引用したが、あの叙述の裏には次の文がある。

・矢田津世子よ。あなたはウヌボレの強い女であった。あなたは私を天才であるかのようなことを言いつゞけた。そのくせ、あなたは、あなたの意地わるい目は、最も世俗的なところから、私を卑しめ、蔑んでいた。
・私はあの人をこの世で最も不潔な魂の、不潔な肉体の人だという風に考える。そう考え、それを信じきらずにはいられなくなるのであった。

そして、その不潔な人をさらに卑しめ辱しめるために、最も高貴な一人の女を空想しようと考える。すると、それも、いつしか矢田津世子になっている。気違いめいたこの相剋は、平凡な日常生活の思わぬところへ別の形で現れてもいた。(坂口安吾「三十歳 」)

さて、もう一度、次の二つの様相文を再掲する。

①「メッセージ(商品)-コード(貨幣)-メッセージ(商品)」
②「コード(貨幣)-メッセージ(商品)-コード(貨幣)」

これはよく知られた、あまりにも簡潔な漢字表象を使えば、


ーーである。

愛することは、女になることである。

人は女性的ポジションからのみ本当に愛しうる。愛することは女性化することである。この理由で、男性においては、愛は常にいささか滑稽である(ミレール「愛について」Jacques-Alain Miller: On Love

このあたりの消息については、「すべての乳幼児にとって、母は「男」である」に記した。

というわけでもはやこれ以上何もいうことはない。

ただしこれを如実に身に染みて悟ことができるのは詩人の感性、あるいは愛の地獄の経験がなければならぬやもしれぬ。

女の二十四は男の三十にあたる。理も知らぬ、非も知らぬ、世の中がなぜ廻転して、なぜ落ちつくかは無論知らぬ。大いなる古今の舞台の極まりなく発展するうちに、自己はいかなる地位を占めて、いかなる役割を演じつつあるかは固より知らぬ。ただ口だけは巧者である。天下を相手にする事も、国家を向うへ廻す事も、一団の群衆を眼前に、事を処する事も、女には出来ぬ。女はただ一人を相手にする芸当を心得ている。一人と一人と戦う時、勝つものは必ず女である。男は必ず負ける。具象の籠の中に飼われて、個体の粟を喙んでは嬉しげに羽搏するものは女である。籠の中の小天地で女と鳴く音を競うものは必ず斃れる。小野さんは詩人である。詩人だから、この籠の中に半分首を突き込んでいる。小野さんはみごとに鳴き損ねた。(夏目漱石『虞美人草』)

詩人の感性に全く欠けている方々でも『虞美人草』を、その前年の1906年に書かれた『草枕』ーーグレン・グールドの死の枕元にあったとされるーーとともに読めば、いくらか悟りうるはずである。

都会に芸妓と云うものがある。色を売りて、人に媚びるを商売にしている。彼らは嫖客に対する時、わが容姿のいかに相手の瞳子に映ずるかを顧慮するのほか、何らの表情をも発揮し得ぬ。年々に見るサロンの目録はこの芸妓に似たる裸体美人を以て充満している。彼らは一秒時も、わが裸体なるを忘るる能わざるのみならず、全身の筋肉をむずつかして、わが裸体なるを観者に示さんと力めている。

今余が面前に娉婷と現われたる姿には、一塵もこの俗埃の眼に遮ぎるものを帯びておらぬ。常の人の纏える衣装を脱ぎ捨てたる様と云えばすでに人界に堕在する。始めより着るべき服も、振るべき袖も、あるものと知らざる神代の姿を雲のなかに呼び起したるがごとく自然である。(……)

しかもこの姿は普通の裸体のごとく露骨に、余が眼の前に突きつけられてはおらぬ。すべてのものを幽玄に化する一種の霊氛のなかに髣髴として、十分の美を奥床しくもほのめかしているに過ぎぬ。片鱗を溌墨淋漓の間に点じて、虬竜の怪を、楮毫のほかに想像せしむるがごとく、芸術的に観じて申し分のない、空気と、あたたかみと、冥邈なる調子とを具えている。(……)

輪廓は次第に白く浮きあがる。今一歩を踏み出せば、せっかくの嫦娥が、あわれ、俗界に堕落するよと思う刹那に、緑の髪は、波を切る霊亀の尾のごとくに風を起して、莽と靡いた。渦捲く煙りを劈いて、白い姿は階段を飛び上がる。ホホホホと鋭どく笑う女の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場を次第に向へ退く。余はがぶりと湯を呑んだまま槽の中に突立つ。驚いた波が、胸へあたる。縁を越す湯泉の音がさあさあと鳴る。(夏目漱石『草枕』)

ホホホホは藤尾の笑いであり、けっして糸子の笑いではない。

・「ホホホ」と突然藤尾は高く笑った。男はぎょっとする。

・「ホホホホ一番あなたによく似合う事」 藤尾の癇声は鈍い水を敲いて、鋭どく二人の耳に跳ね返って来た。(『虞美人草』)

こう記していて突然想起したが、藤尾も那美もソクラテスの技術をもっている。そしてこれが女性の本質であるのは、実は誰もが知っている。

ソクラテスは、その質問メソッドによって、彼の相手、パートナーを、ただたんに問いつめることによって、相手の抽象的な考え方をより具体的に追及していく(きみのいう正義とは、幸福とはどんな意味なのだろう?……)。この方法により対話者の立場の矛盾を露わにし、相手の立場を彼自身によって崩壊させる。(……)ヘーゲルが女は“コミュニティの不朽のイロニーである”と書いたとき、彼はこのイロニーの女性的性格と対話法を指摘したのではなかったか? というのはソクラテスの存在、彼の問いかけの態度そのものが相手の話を“プロソポピーア”に陥れるのだから。

会話の参加者がソクラテスに対面するとき、彼らのすべての言葉は突然、引用やクリシェのようなものとして聞こえはじめる。まるで借り物の言葉のようなのだ。参加者はおのれの発話を権威づけている奈落をのぞきこむことになり、彼らが権威化のありふれた支えに頼ろうとするまさにその瞬間、権威化は崩れおちる。それはまるでイロニーの聴きとれえない反響が、彼らの会話につけ加えられたかのようなのだ。その反響とは、彼らの言葉と声をうつろにし、声は、借りてこられ盗まれたものとして露顕する。

ここで想いだしてみよう、男が妻の前で話をしているありふれた光景を。夫は手柄話を自慢していたり、己の高い理想をひき合いに出したりしている等々。そして妻は黙って夫を観察しているのだ、ばかにしたような微笑みをほとんど隠しきれずに。妻の沈黙は夫の話のパトスを瓦礫にしてしまい、その哀れさのすべてを晒しだす。この意味で、ラカンにとって、ソクラテスのイロニーとは分析家の独自のポジションを示している。分析のセッションでは同じことが起っていないだろうか? (……)神秘的な“パーソナリティの深層”はプロソポピーアの空想的な効果、すなわち主体のディスクールは種々のソースからの断片のプリコラージュにすぎないものとして、非神秘化される。(……)彼は脱-主体化されてしまうのだ。これをラカンは“主体の脱解任”と呼んだ。

プロソポピーアとは、“不在の人物や想像上の人物が話をしたり行動したりする表現法”と定義される。(……)ラカンにとってこれは会話の性格そのものなのであり、二次的な厄介さなのではない。ラカンの言表行為の主体と言表内容の主体の区別はこのことを指しているのではなかったか? 私が話すとき、“私自身”が直接話しているわけでは決してない。私は己れの象徴的アイデンティティの虚構を頼みにしなければならない。この意味で、すべての発話は“胡散臭いindirect”。「私はあなたを愛しています」には、愛人としての私のアイデンティティーがあなたに「あなたを愛しています」と告げているという構造がある。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012、私訳)

そしてーーまた長くなってしまったがーー上の文はニーチェの次の文と「ともに」読むことができる。

女は真理を欲しない。女にとって真理など何であろう。女にとって真理ほど疎遠で、厭わしく、憎らしいものは何もない。――女の最大の技巧は嘘をつくことであり、女の最大の関心事は見せかけと美しさである。われわれ男たちは告白しよう。われわれが女がもつほかならぬこの技術とこの本能をこそ尊重し愛するのだ。われわれは重苦しいから、女という生物と附き合うことで心を軽くしたいのである。女たちの手、眼差し、優しい愚かさに接するとき、われわれの真剣さ、われわれの重苦しさや深刻さが殆んど馬鹿馬鹿しいものに見えて来るのだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』ーー真理と嘘とのあいだには対立はない

以上、またくどくなってしまったが、おバカな吉本隆明が証明された。すくなくとも愛をめぐって、女をめぐって。



2017年2月20日月曜日

呼んでもやってこない「理想の女」

漱石の『虞美人草』を今頃はじめて読み通した。彼の朝日新聞デヴュー作(1907年6月 - 10月)であるが、肩に力が入り過ぎていたのか、文体的に凝り過ぎている印象などもあり、かつてのわたくしには読みがたかった(この作品は若書きだと思いこんでいたが、1867年生れの漱石の40歳の作品であることも今頃知った)。以下はその読書による派生物である。

…………

ボードレールの名言として知られる「女と猫は呼ばない時にやって来る」。だが、これはたぶん誰かがそう意訳したのではなかろうか、正確にこの文に相当することをボードレールが言ったのかどうかは(わたくしには)不詳である。

いずれにせよこの文の核心は、女も猫も呼ばないときにやってくるだけではなく、呼んだときにやってこない、ときに拒絶する存在だということだろう。

行ったり来たりする母 cette mère qui va, qui vient……母が行ったり来たりするのはあれはいったい何なんだろう?Qu'est-ce que ça veut dire qu'elle aille et qu'elle vienne ?(ラカン、セミネール5、15 Janvier 1958)

漱石のほとんどの小説ーーおそらく例外はあるだろうがわたくしはその例外を失念したーーこの行ったり来たりする母=女を書いているのではなかろうか? 今は比較的初期の作品から《長い廊下を何度往き何度戻る》那美さんと、《男を弄ぶ》蛇女藤尾さんをめぐる叙述を掲げておく。

一分と立たぬ間に、影は反対の方から、逆にあらわれて来た。振袖姿のすらりとした女が、音もせず、向う二階の椽側を寂然として歩行て行く。余は覚えず鉛筆を落して、鼻から吸いかけた息をぴたりと留めた。 

花曇りの空が、刻一刻に天から、ずり落ちて、今や降ると待たれたる夕暮の欄干に、しとやかに行き、しとやかに帰る振袖の影は、余が座敷から六間の中庭を隔てて、重き空気のなかに蕭寥と見えつ、隠れつする。

女はもとより口も聞かぬ。傍目も触らぬ。椽に引く裾の音さえおのが耳に入らぬくらい静かに歩行いている。腰から下にぱっと色づく、裾模様は何を染め抜いたものか、遠くて解からぬ。ただ無地と模様のつながる中が、おのずから暈されて、夜と昼との境のごとき心地である。女はもとより夜と昼との境をあるいている。 

この長い振袖を着て、長い廊下を何度往き何度戻る気か、余には解からぬ。いつ頃からこの不思議な装をして、この不思議な歩行をつづけつつあるかも、余には解らぬ。その主意に至ってはもとより解らぬ。もとより解るべきはずならぬ事を、かくまでも端正に、かくまでも静粛に、かくまでも度を重ねて繰り返す人の姿の、入口にあらわれては消え、消えてはあらわるる時の余の感じは一種異様である。(夏目漱石『草枕』)
緑りの枝を通す夕日を背に、暮れんとする晩春の蒼黒く巌頭を彩どる中に、楚然として織り出されたる女の顔は、――花下に余を驚かし、まぼろしに余を驚ろかし、振袖に余を驚かし、風呂場に余を驚かしたる女の顔である。 

余が視線は、蒼白き女の顔の真中にぐさと釘付けにされたぎり動かない。女もしなやかなる体躯を伸せるだけ伸して、高い巌の上に一指も動かさずに立っている。この一刹那!(同『草枕』)
「清姫が蛇になったのは何歳でしょう」「左様、やっぱり十代にしないと芝居になりませんね。おおかた十八九でしょう」「安珍は」「安珍は二十五ぐらいがよくはないでしょうか」(……)

「私は安珍のように逃げやしません」 これを逃げ損ねの受太刀と云う。坊っちゃんは機を見て奇麗に引き上げる事を知らぬ。

「ホホホ私は清姫のように追っ懸けますよ」 男は黙っている。「蛇になるには、少し年が老け過ぎていますかしら」 

時ならぬ春の稲妻は、女を出でて男の胸をするりと透した。色は紫である。(夏目漱石『虞美人草』)
藤尾は男を弄ぶ。一毫も男から弄ばるる事を許さぬ。藤尾は愛の女王である。成立つものは原則を外れた恋でなければならぬ。愛せらるる事を専門にするものと、愛する事のみを念頭に置くものとが、春風の吹き回しで、旨い潮の満干で、はたりと天地の前に行き逢った時、この変則の愛は成就する。(夏目漱石『虞美人草』)

さて、いささか長い挿入となったがラカンに戻る。

(最初期の母子関係において)、母が幼児の訴えに応答しなかったらどうだろう?…母は崩落するdéchoit……母はリアルになる elle devient réelle、…すなわち権力となる devient une puissance…全能(の母) omnipotence …全き力 toute-puissance …(ラカン、セミネール4、12 Décembre 1956)
母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」

この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。(ポール・バーハウ1998,Paul Verhaeghe,Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE)

原初のトラウマ的体験ーー《経験された無力の(寄る辺なき Hilflosigkeit)状況を外傷的状況》ーーとは、行ったり来たりする「不気味な」母にかかわり、そしてそれは母なる全能性に変換される。

そしてその〈母〉は、極度に高い価値をもつ存在である。

……生物学的要因とは、人間の幼児がながいあいだもちつづける無力さ(寄る辺なさ Hilflosigkeit) と依存性 Abhängigkeitである。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我の分化が早い時期に行われ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない「愛されたいという要求 Bedürfnis, geliebt zu werden」を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』1926年 旧訳p.365、一部変更)

呼んでもやってこない「猫」と呼ばないときにやってくる「猫」とは、究極的には、分離不安と融合不安という人間の最も根源的な原不安にかかわる。

最初の母と子どもの関係では、子どもは、その身体的 somatic な未発達のため、必然的に、最初の〈他者〉の享楽の受動的対象として扱われる。この関係は二者-想像的であり、それ自体、主体性のための障害を表す。平明な言い方をすれば、子どもと彼自身の欲望にとっての余地がないということだ。そこでは二つの選択しかない。母の欲望に従うか、それともそうするのを拒絶して死ぬか、である。このような状況は、二者-想像的関係性の典型であり、ラカンの鏡像理論にて描写されたものである。

そのときの基本的動因は、不安である。これは去勢不安でさえない。「原不安」は母に向けられた二者関係にかかわる。この母は、現代では「最初に世話する人」としてもよい。無力な幼児は母を必要とする。これゆえに、明らかに「分離不安」である。とはいえ、この母は過剰に現前しているかもしれない。母の世話は息苦しいものかもしれない。

フロイトは分離不安にあまり注意を払っていなかった。しかし彼は、より注意が向かないと想定されるその対応物を見分けていた。母に呑み込まれる不安である。あるいは母に毒される不安である。これを「融合不安」呼んでみよう。もう一つの原不安、分離不安とは別にである。この概念はフロイトにはない。だがアイデアはフロイトにある。しかしながら、彼の推論において、最初の不安は分離と喪失に関係し得るにもかかわらず、フロイトは頑固に、去勢不安を中心的なものとして強調した。

このように、フロイト概念の私の理解においては、去勢不安は二次的なものであり、別の、原不安の、防衛的なエラボレーションとさえ言いうる。原不安は二つの対立する形態を取る。すなわち、他者は必要とされるとき、そこにいない不安、そして他者が過剰にそこにいる不安である。

ラカン理論は後者を強調した。そしてそれを母なる大他者 (m)Other に享楽される単なる対象に格下げされる幼児の不安として解釈した。それはフロイトの受動的ポジションと同様である。

これはラカン理論における必要不可欠な父の機能を説明する。すなわち第三者の導入が、二者-想像的段階にとって典型的な選択の欠如に終止符を打つ。第三者の導入によって可能になる移行は、母から身を翻して父に向かうということでは、それ程ない。むしろ二者関係から三者関係への移行である。これ以降、主体性と選択が可能になる。(PAUL VERHAEGHE,『New studies of old villains』2009PDF

フロイトにとって原初の母子関係における「受動的立場 passive Einstellung」とは原トラウマ的という意味である。

…………

「母の欲望」とは、事実上、「原穴(原トラウマ )の名 le nom du premier trou 」である。あるいはそれを母の法と呼び変えてもよい。

母の法 la loi de la mère…それは制御不能の法 loi incontrôlée…分節化された勝手気ままcaprice articuléである。(Lacan.S5)


我々は皆知っている。というのは我々すべては現実界のなかの穴を埋めるために何かを発明するのだから。現実界には「性関係はない il n'y a pas de rapport sexuel」、 それが「穴ウマ(troumatisme =トラウマ)」を作る。

nous savons tous parce que tous, nous inventons un truc pour combler le trou dans le Réel. Là où il n'y a pas de rapport sexuel, ça fait « troumatisme ». (ラカン、S21、19 Février 1974 )

ラカンは《身体は穴である corps……C'est un trou》(ラカン、1974)とも言っている、なぜ身体には穴が開いているのだろうか。

〈母〉、その底にあるのは、「原リアルの名 le nom du premier réel」である。それは、「母の欲望 Désir de la Mère」であり、シニフィアンの空無化 vidage 作用によって生み出された「原穴の名 le nom du premier trou 」である。

Mère, au fond c’est le nom du premier réel, DM (Désir de la Mère)c’est le nom du premier trou produit par l’opération de vidage par le signifiant. (コレット・ソレール、C.Soler « Humanisation ? »2013-2014セミネール)

大文字で書かれる「母の欲望 Désir de la Mère」とは、母子関係の最初期においては、実際の母の欲望とはあまり関係がない。むしろ全能の権力にかかわる。

ラカンによれば、《母の欲望 Désir de la Mère》を構成する「原-諸シニフィアン」は、イメージの領域における (子供の)欲求の代表象以外の何ものでもない。同じ理由で、これらの想像的諸シニフィ アン/諸記号は、刻印としての原抑圧を徴づける。(ロレンツォ・キエーザ2007,Subjectivity and Otherness: A Philosophical Reading of Lacan, by Lorenzo Chiesa)

いわゆる"去勢されていないnon‐castrated"全能の貪り食う母、真の母に関して、ミレール=ラカンは次のように注釈している。

満足していない母というだけでなく、またすべての力をもつ母である。そしてラカンの母の形象のおどろおどろしい様相は、彼女はすべての力を持ちかつ同時に不満足であることである。(Miller, “Phallus and Perversion,”)

ジジェクはこのミレールの文を引用して(『LESS THAN NOTHING』)、次ぎのように言っている。

ここには、パラドックスがある。母がよりいっそう"全能"として現れば現れるひど、彼女は不満足(その意味は欠如である)なのである。「ラカンの母はquaerens quem devoretと一致する。すなわち彼女は貪り食うために誰かを探し求める。そしてラカンは鰐として母を言い表す、口を開けた主体として。」(Jacques‐Alain Miller, “The Logic of the Cure,”)

だが男たちには究極的には、女に貪り喰われたい秘かな隠された願望があったらどうだろう?(参照:最愛の子供を奈落の底に落とす母の癖)。あるいはこう言ってもいい、《あなたを吸い込むヴァギナデンタータ(歯のはえた膣)、究極的にはすべてのエネルギーを吸い尽すブラックホールとしてのS(Ⱥ) 》(ポール・バーハウ1999)に吸い込まれたい願望と。S(Ⱥ)とはサントームの記号、原抑圧の記号である。

我々が、この機能について、ラカンから得る最後の記述は、サントームの Σ である。S(Ⱥ) を Σ として記述することは、サントームに意味との関係性のなかで「外立ex-sistence」(参照)の地位を与えることである。現実界のなかに享楽を孤立化すること、すなわち、意味において外立的であることだ。((ジャック=アラン・ミレール「後期ラカンの教え」Le dernier enseignement de Lacan' (‘Lacan's later teaching'、2002ーー基本版:現代ラカン派の考え方)


ラカン派でサントームと言われるもの、あるいはフロイトの原抑圧と呼ばれるものーーラカンはサントーム=原抑圧としている(S23)ーーとは、先ずなによりもこの「原穴(原トラウマ )の名 le nom du premier trou 」、あるいは「母の法 loi de la mère」として理解されなければならない。

サントームは、母の舌語に起源がある Le sinthome est enraciné dans la langue maternelle。話すことを学ぶ子供は、この言葉と母の享楽によって生涯徴付けられたままである。

これは、母の要求・欲望・享楽、すなわち「母の法」への従属化をもたらす Il en résulte un assujettissement à la demande, au désir et à la jouissance de celle-ci, « la loi de la mère »。が、人はそこから分離しなければならない。

この「母の法」は、「非全体」としての女性の享楽の属性を受け継いでいる。それは無限の法である。Cette loi de la mère hérite des propriétés de la jouissance féminine pas-toute : c’est une loi illimitée.(Geneviève Morel2005 Sexe, genre et identité : du symptôme au sinthome)


フロイトはこの徴をつける母を「誘惑者 Verführerin」と呼んだ。

誘惑者はいつも母である。…幼児は身体を清潔にしようとする母の世話によって必ず刺激をうける。おそらく女児の性器に最初の快感覚を目覚めさせるのさえ事実上は母である。(フロイト『新精神分析入門』1933)
母は、子どもを滋養するだけではなく、世話をする。したがって、数多くの他の身体的刺激、快や不快を子どもに引き起こす。子どもの身体を世話することにより、母は、子どもにとっての最初の「誘惑者」になる。この二者関係には、母の重要性の根が横たわっている。ユニークで、比べもののなく、変わりようもなく確立された母の重要性。全人生のあいだ、最初の最も強い愛-対象として、のちの全ての愛-関係性の原型としての母ーー男女どちらの性にとってもである。(フロイト『精神分析概説』( Abriß der Psychoanalyse草稿、死後出版1940、私訳)

この誘惑者による徴のことをラカンは、《享楽の侵入の記念物 commémore une irruption de la jouissance 》(S17)と呼び、あるいは次のようにも語った。

享楽はまさに厳密に、シニフィアンの世界への入場の一次的形式と相関的である。私が徴 marqueと呼ぶもの・「一の徴 trait unaire」の形式と。もしお好きなら、それは死への徴付けmarqué pour la mort としてもよい。

その徴は、裂目・享楽と身体とのあいだの分離から来る。これ以降、身体は苦行を被る mortifié。この「一の徴 trait unaire」の刻印の戯れ jeu d'inscription、この瞬間から問いが立ち上がる。(ラカン、S17、10 Juin 1970)

ここでの死とは何か?

私は言おう、死とは、ラカンが享楽と翻訳したものだ、と。(ミレール1988,Jacques-Alain Miller、A AND a IN CLINICAL STRUCTURES
死への道とは、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance (ラカン、S17)

母との(現実的には不可能な)融合があれば、そのとき主体は消滅する。それが死の意味である。

生の欲動 Eros は、融合と統一の状態への回帰を目指す。エロスは、分離した要素を結びつけることによって、これをする。それは、緊張(不安)の増加をもたらす。逆に、タナトスは、分離の状態への回帰を目指す。死の欲動は、結びついた要素のあいだのすべての結合を破壊することによって、これをする。それは、すべての緊張の低減をもたらす。もし、必要なら、ゼロ度まで。その意味は、事実上、死である。

ラカン理論は、この「生と死の問い」の言い直しを可能にさせてくれる。生の欲動は、「他の享楽l'autre jouissance」を目指す。結果として、大他者のなかに主体は消滅する。したがって、分離した存在としての主体の死をもたらす。死の欲動は「ファルス享楽la jouissance phallique」を目指す。それを通して、主体は大他者から己を分離する。したがって、この大他者から独立して、孤立した存在としての歩みを進める。このラカンの読解においては、生と死の概念は、ひどく相関的である。すなわち、フロイトの生の欲動は、主体の死、主体の消滅を意味する。フロイトの死の欲動は、主体の生の継続を意味する。(ポール・バーハウ2001、PAUL VERHAEGHE、Obsessional Neurosis. The Quest for Isolation).

…………

吉本隆明は漱石の理想の女について次のように言っている。

漱石の理想の女性像はだれかとか、作品の中ではどれだと考えてみると、僕らが客観的に考えれば、それは二人います。一人は、最初期の作品ですが、『虞美人草』のお糸さんという娘さんがいます。それが漱石の理想の女性像だと思います。それからやはり初期の作品ですが、もう少しあとの『坊ちゃん』の中に出てくるお清という婆やさんがいますが、これがやはり漱石の理想像だと思います。

この二人とも描かれた作品の中では、たとえ『虞美人草』の中では藤尾がモダンで、美人で、そして教養もありという新時代の女性ですが、この女性は悪いほうの代表というかたちで描かれています。いいほうの代表のお糸さんは、何も言わなくても男の考えている心の中をちゃんと察してくれて、かゆいところに手が届くようにしてくれる、そういう女性で、これは逆に女性のほうから見たら何てわがままなやつだと思うかもしれないように描かれています。でも漱石にとっての理想の女性像はそうなのです。

これは、現存する女流作家の人が、『虞美人草』の中でだれが理想の女性かということに対して、それは藤尾だと言っているのを読んだことがありますから、女の人から見るとそのほうが理想的なのかもしれないけれども、漱石から見るとどうも始末が悪い、どうしようもないという女性になっているわけです。(吉本隆明「作品に見る女性像の変遷」

だが「理想の女」というシニフィアンは、想像界的なもの、象徴界的なもの、現実界的なものの三つの観点から見なければならない。 お糸は想像界的な理想の女ーー内気を装い、欲望を掻き立てる女ーーであり、お清は象徴界的な理想の女ーー子供に食物を与える母であり、子供を見守る母ーーである。漱石は那美や藤尾という現実界的な理想の女ーー行ったり来たりする母であり、弄びはぐらかす(拒絶する)女ーーを初期から書いた。それは遺作『明暗』における清子に至るまで。

「どうしてあの女はあすこへ嫁に行ったのだろう。それは自分で行こうと思ったから行ったに違ない。しかしどうしてもあすこへ嫁に行くはずではなかったのに。そうしてこのおれはまたどうしてあの女と結婚したのだろう。それもおれが貰おうと思ったからこそ結婚が成立したに違ない。しかしおれはいまだかつてあの女を貰おうとは思っていなかったのに。………」
「君はあの清子さんという女に熱中していたろう。ひとしきりは、何でもかでもあの女でなけりゃならないような事を云ってたろう。そればかりじゃない、向うでも天下に君一人よりほかに男はないと思ってるように解釈していたろう。ところがどうだい結果は」
津田は思い切って声をかけようとした。するとその途端に清子の方が動いた。くるりと後を向いた彼女は止まらなかった。津田を階下に残したまま、廊下を元へ引き返したと思うと、今まで明らかに彼女を照らしていた二階の上り口の電灯がぱっと消えた。津田は暗闇の中で開けるらしい障子の音をまた聴いた。同時に彼の気のつかなかった、自分の立っているすぐ傍の小さな部屋で呼鈴の返しの音がけたたましく鳴った。 

やがて遠い廊下をぱたぱた馳けて来る足音が聴こえた。彼はその足音の主を途中で喰いとめて、清子の用を聴きに行く下女から自分の室の在所を教えて貰った。(夏目漱石『明暗』)

逆に呼ばないときにやってくる不気味な女も漱石にはふんだんにある。ここでは初期作品『三四郎』の叙述を想い起すだけにしておこう。

例の女が入口から、「ちいと流しましょうか」と聞いた。三四郎は大きな声で、「いえ、たくさんです」と断った。しかし女は出ていかない。かえってはいって来た。そうして帯を解きだした。三四郎といっしょに湯を使う気とみえる。べつに恥かしい様子も見えない。三四郎はたちまち湯槽を飛び出した。
それから西洋手拭を二筋持ったまま蚊帳の中へはいった。女は蒲団の向こうのすみでまだ団扇を動かしている。「失礼ですが、私は癇症でひとの蒲団に寝るのがいやだから……少し蚤よけの工夫をやるから御免なさい」 三四郎はこんなことを言って、あらかじめ、敷いてある敷布の余っている端を女の寝ている方へ向けてぐるぐる巻きだした。そうして蒲団のまん中に白い長い仕切りをこしらえた。女は向こうへ寝返りを打った。三四郎は西洋手拭を広げて、これを自分の領分に二枚続きに長く敷いて、その上に細長く寝た。その晩は三四郎の手も足もこの幅の狭い西洋手拭の外には一寸も出なかった。女は一言も口をきかなかった。女も壁を向いたままじっとして動かなかった。
元来あの女はなんだろう。あんな女が世の中にいるものだろうか。女というものは、ああおちついて平気でいられるものだろうか。無教育なのだろうか、大胆なのだろうか。それとも無邪気なのだろうか。要するにいけるところまでいってみなかったから、見当がつかない。思いきってもう少しいってみるとよかった。けれども恐ろしい。別れぎわにあなたは度胸のないかただと言われた時には、びっくりした。二十三年の弱点が一度に露見したような心持ちであった。親でもああうまく言いあてるものではない。(漱石『三四郎』

もちろんラカンの想像界・象徴界・現実界は、ボロメオの環が示すとおり、それぞれの環は重なってはいる。だが人は、現実界的なほうに傾いた「理想の女」を忘れがちである。それをすぐれて痛切にーー《手の爪には血》を滲ませてーー書こうとした代表的作家の一人は(日本近代においては)安吾だろう。

ある婦人が私に言つた。私が情痴作家などゝ言はれることは、私が小説の中で作者の理想の女を書きさへすれば忽ち消える妄評だといふことを。まことに尤もなことだ。昔から傑作の多くは理想の女を書いてゐるものだ。けれども、私が意志することによつて、それが書けるか、といふと、さうはたやすく行かない。

誰しも理想の女を書きたい。女のみではない、理想の人、すぐれた魂、まことの善意、高貴な精神を表現したいのだ。それはあらゆる作家の切なる希ひであるに相違ない。私とてもさうである。

だが、書きだすと、さうは行かなくなつてしまふ。

誰しも理想といふものはある。オフィスだの喫茶店であらゆる人が各々の理想に就て語り合ふ。理想の人に就て、政治に就て、社会に就て。

我々の言葉はさういふ時には幻術の如きもので、どんな架空なものでも言ひ表すことができるものだ。

ところが、文学は違ふ。文学の言葉は違ふ。文学といふものには、言葉に対する怖るべき冷酷な審判官がをるので、この審判官を作者といふ。この審判官の鬼の目の前では、幻術はきかない。すべて、空論は拒否せられ、日頃口にする理想が真実血肉こもる信念思想でない限り、原稿紙上に足跡をとゞめることを厳しく拒否されてしまふのである。

だから私が理想の人や理想の女を書かうと思つて原稿紙に向つても、いざ書きだすと、私はもうさつきまでの私とは違ふ。私は鬼の審判官と共に言葉をより分け、言葉にこもる真偽を嗅ぎわけてをるので、かうして架空な情熱も思想もすべて襟首をつまんで投げやられてしまふ。

私はいつも理想をめざし、高貴な魂や善良な心を書かうとして出発しながら、今、私が現にあるだけの低俗醜悪な魂や人間を書き上げてしまふことになる。私は小説に於て、私を裏切ることができない。私は善良なるものを意志し希願しつゝ醜怪な悪徳を書いてしまふといふことを、他の何人よりも私自身が悲しんでゐるのだ。

だから、理想の女を書け、といふ、この婦人の厚意の言葉も、私がそれを単に意志するのみで成就し得ない文学本来の宿命を見落してをるので、文学は、ともかく、書くことによつて、それを卒業する、一つづゝ卒業し、一つづゝ捨ててそして、ヨヂ登つて行くよりほかに仕方がないものだ。ともかく、作家の手の爪には血が滲んでゐるものだ。(坂口安吾『理想の女』)

このように記す安吾は、マゾヒズム的悦楽をよく知っている。とはいえマゾヒズム的悦楽と地獄とどう異なるのか? さあて・・・とはいえ地獄を経験したものでなければ愛は語りえない・・・

この安吾の側面については、「私の好きな女が、みんな母に似てるぢやないか!」にいくらか記した。

今はごく標準的に「常識的な」文ーー「女と猫は呼ばない時にやって来る・呼んだ時にやって来ない」のプルースト版ーーを引用しておくのみにする。

若い娘たちの若い人妻たちの、みんなそれぞれにちがった顔、それらがわれわれにますます魅力を増し、もう一度めぐりあいたいという狂おしい欲望をつのらせるのは、それらが最後のどたん場でするりと身をかわしたからでしかない、といった場合が、われわれの回想のなかに、さらにはわれわれの忘却のなかに、いかに多いことだろう。(プルースト『ゲルマントのほうⅡ』)
出奔した女は、いままでここにいた女とはおなじ女ではもはやなくなっている。(プルースト『逃げ去る女』)

…………

すぐれた批評家であったには相違ない吉本隆明ではあるが、理想の女についてはイマジネールな領域に閉じ籠っている、とわたくしは思う。他方、吉本が言っている、《現存する女流作家の人が、『虞美人草』の中でだれが理想の女性かということに対して、それは藤尾だと言っているのを読んだことがあります》という女流作家の見解を尊重したい。

人が何かを愛するのは、その何かのなかに近よれないものを人が追求しているときでしかない、人が愛するのは人が占有していないものだけである。(プルースト「囚われの女」)
女は口説かれているうちが花。落ちたらそれでおしまい。喜びは口説かれているあいだだけ。Women are angels, wooing: Things won are done; joy's soul lies in the doing.( シェイクスピア、Troilus and Cressida)
ファウスト

もし、美しいお嬢さん。
不躾ですが、この肘を
あなたにお貸申して、送ってお上申しましょう。

マルガレエテ

わたくしはお嬢さんではございません。美しくもございません。
送って下さらなくっても、ひとりで内へ帰ります。
(……)

ファウスト

途方もない好い女だ。
これまであんなのは見たことがない。
あんなに行儀が好くておとなしくて、
そのくせ少しはつんけんもしている。
あの赤い唇や頬のかがやきを、
己は生涯忘れることが出来まい。
あの伏目になった様子が
己の胸に刻み込まれてしまった。 それからあの手短に撥ね附けた処が、 溜まらなく嬉しいのだ。(ゲーテ『ファウスト』森鴎外訳)

ーーマルガレエテはのちに「魔女」に化けるのはよく知られている。

 男は誰に恋に陥るのか? 彼を拒絶する女・つれないふりをする女・決してすべてを与えることをしない女に恋に陥る。(ポール・バーハウ、Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  Paul Verhaeghe、1998、PDF

これらは穏やかに言えば、女の媚態にかかわるといってもいい。《媚態の要は、距離を出来得る限り接近せしめつつ、距離の差が極限に達せざることである》(九鬼周造『いきの構造』)。

媚態〔コケットリー〕とは何であろうか? それは相手に性的な関係がありうるとほのめかし、しかもその可能性はけっして確実なものとしてはあらわれないような態度と、おそらくいうことができるであろう。別ないい方をすれば、媚態とは保証されていない性交の約束である。(クンデラ『存在の絶えられない軽さ』)

もっとも『草枕』の那美さんと、『虞美人草』の藤尾さんは、さらに高度に戦略的な媚態の様相を呈した女であるといえるかもしれぬ・・・

自分は決して媚びないと知らせることは、すでに一種の媚びである(ラ・ロシュフーコー)

そしてその高度な戦略を見破ったつもりでいるほどよく聡明な=凡庸な男、修行が足りない若い男には嫌悪を催させることは十分ありうる。わたくしが那美にも藤尾にも抵抗がありつづけたのはそのせいではなかったか・・・

いずれにせよ今それなりに熱心に『虞美人草』を読めば、吉本隆明が理想の女とする糸子の媚態などひどく低レベルの媚態なのである。

「ホホホホそれでも家の兄より好いでしょう」「欽吾さんの方がいくら好いか分かりゃしない」と糸子さんは、半分無意識に言って退けたが、急に気がついて、羽二重の手巾を膝の上でくちゃくちゃに丸めた。「ホホホホ」

藤尾にあっさら見破られている。 この糸子の態度は、どの娼婦もよく知っている典型的な男性ファンタジー、「女の救出」願望を誘い出す二流の媚態、その変奏にすぎない。若きウブな男性の皆さんはくれぐれも用心しなければならない。この罠に嵌ったら安易に奈落の底に吸い込まれてしまう・・・仮に吸い込まれたい願望があるにしろ、これではいかにも狐に騙されたかのような底の浅い奈落であり、真の奈落の底、あの愛の悪魔的スキル・綱渡りの揺らめきから突如凋落して眩暈をもたらす深淵の底の感覚に徹底的に欠けている。いまどきの高級娼婦ーーたとえば祇園のバーの女、銀座の女は知らないが格の高い店の女ーーはこんな安手の媚びは使わないはずである・・・吉本隆明の修行の足りないのはこの点である・・・「ホホホホ」という気味の悪い笑いを連発する藤尾のほうがいいにきまってんじゃないか、ウブだねえ、彼は。「ホホホホ」による究極のマゾヒズム的悦楽を知らないなんて。

欲望に関しては、それは定義上、不満足であり、享楽欠如 manque à jouir です。欲望の原因は、フロイトが「原初に喪失した対象」と呼んだもの、ラカンが欠如しているものとしての「対象a」と呼んだものです。それにもかかわらず、複合的ではあるけれど、人は享楽欠如を楽しむことが可能です on peut jouir du manque à jouir。それはラカンによって提供されたマゾヒズムの形式のひとつです。(コレット・ソレール2013,Interview de Colette Soler pour le journal « Estado de minas », Brésil, 10/09/2013

とはいえ吉本隆明だけではなく、あのすぐれたマゾヒズム論を書いたドゥルーズでさえ、あと一歩のところで惜しくも核心を逃がしてしまっている、《愛の経験は、全人類の愛の経験であり、そこに超越的な遺伝 hérédité transcendante の流れが貫流している》などと記しているのだから。だがそうではない、最初の誘惑者による徴付けが愛の起源である。

母 mère に対する主人公の愛の中に、愛のセリーの起源 l'origine de la série amoureuse を見出すことは、常に許容される。しかしわれわれはそこでもまたスワンに出会うことになる。スワンはコンブレ―へ夕食に来て、子供である主人公から母の存在を奪うことになる。そして、主人公の苦しみ、母にかかわる彼の不安は、すでにスワンがオデットについて彼自身体験した苦しみであり不安である。《自分がいない快楽の場、愛するひとに会うことのできない快楽の場で、そのひとを感ずる不安、それを彼に教えたのは愛である。その愛にとって不安は或る意味で始めから運命として存在しているのだ。その愛によって、不安は独占され、特殊なものにされている。しかし、私にとってそうであるように、愛がわれわれの生活の中に現れて来る前に、不安がわれわれの内部に入ってくるとき、それはあいまいで自由なものとして、期待の状態で浮動している……》恐らく、母のイメージ image de mère は、最も深いテーマではなく、愛のセリーの理由でもないという結論がここから出されよう。確かに、われわれの愛は、母に対する感情を反復している。しかし、母に対する感情は、われわれ自身が経験したことのないそれとは別の愛を、すでに反復しているのである。母はむしろむしろひとつの経験からもうひとつの経験への移行として、われわれの経験の始まり方として現われるが、すでに他人のよってなされたほかの経験とつながっている。極限では、愛の経験は、全人類の愛の経験であり、そこに超越的な遺伝 hérédité transcendante の流れが貫流している。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)

もちろんここでドゥルーズの概念 「潜在的対象 l'objet virtuel」を持ち出して彼を救う手立てがないではない。だが今はそれに触れないでおく。

そもそもドゥルーズには、 次のようなより簡潔な文がある。

反復は本質的に象徴的なものであり、シンボルやシミュラークルは反復自体の文字 lettre である。la répétition est symbolique dans son essence, le symbole, le simulacre, est la lettre de la répétition même.(ドゥルーズ『差異と反復』)

この「文字」がーーそして母による文字の徴付けがーーわれわれの愛の起源である(参照:サントームSinthome = 原固着Urfixierung →「母の徴」)。

晩年のラカンの「文字lettre」理論とは、身体の上の欲動の「原固着(原抑圧)」あるいは「刻印」を理解しようとする彼なりの方法である。(バーハウ、2001、摘要)
無意識は「文字」によって翻訳されうる。l'inconscient peut se traduire par une lettre(ラカン、S22)

これが《ひとりの女はサントームである》の核心である。

une femme est un sinthome pour tout homme(Lacan,S23)
ラカンが症状概念の刷新として導入したもの、それは時にサントーム∑と新しい記号で書かれもするが、サントームとは、シニフィアンと享楽の両方を一つの徴にて書こうとする試みである。Sinthome, c'est l'effort pour écrire, d'un seul trait, à la fois le signifant et la jouissance. (ミレール、Ce qui fait insigne、The later Lacan、2007所収)


以上、いささか断定的に記したが、わたくしの記すことは常に《真理と嘘とのあいだには対立はない》でいくらか詳述化したことがベースとなっているので、蛇足ながらふたたび強調するためにここで断っておく。ようするに「このおっさん、なにをバカなこと言ってんだ!」と嘲弄しながら読まなければならぬ。