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2017年8月21日月曜日

血みどろになつた處

折口信夫は坂口安吾マインドをもっていた人であるのを、今頃知った。作家たちのなかに熱烈な折口ファンがいるのはこういうところに(も)あるのだろうと思う。

・《自分の生活を低く評價せられまいと言ふ意識を顯し過ぎた作品を殘した作者は、必後くちのわるい印象を與へる》

・《唯紳士としての體面を崩さぬ樣、とり紊さぬ賢者として名聲に溺れて一生を終つた人などは、文學者としては、殊にいたましく感じられます》

・鴎外の作品は《現在の整頓の上に一歩も出て居ない、おひんはよいが、文學上の行儀手引き……もつと血みどろになつた處が見えたら、我々の爲になり、將來せられるものがあつた》

・《あきらめやゆとり(鴎外博士のあそび)や、通人意識・先覺自負などからは、嗜かれる文學が出て來ない》

・漱石の《あの捨て身から生れて來た將來力》

これらの表現が出現する「好惡の論」を以下に引用する。

鴎外と逍遙と、どちらが嗜きで、どちらが嫌ひだ。かうした質問なら、わりに答へ易いのです。でも、稍老境を見かけた私どもの現在では、どちらのよい處も、嗜きになりきれない處も、見え過ぎて來ました。それでやつぱり、かうした簡單な討論の方へ加はれさうもありません。だからまして、廣く大海を探つて一粟をつまみあげろと言つた難題には、二の脚を踏まずには居られません。さあだれが嗜きで誰が嫌ひ。そんな印象も殘さない樣な讀み方で、作品を見續けて來た幾年の後、靜かにふりかへつて見ても、假作・實在の人物の性格や生活に、好惡を考へ分ける事が出來なくなつてゐます。(……)
だが強ひて申さば、自分の生活を低く評價せられまいと言ふ意識を顯し過ぎた作品を殘した作者は、必後くちのわるい印象を與へる樣です。

文學上に問題になる生活の價値は、「將來欲」を表現する痛感性の強弱によつてきまるのだと思ひます。概念や主義にも望めず、哲學や標榜などからも出ては參りません。まして、唯紳士としての體面を崩さぬ樣、とり紊さぬ賢者として名聲に溺れて一生を終つた人などは、文學者としては、殊にいたましく感じられます。のみか、生活を態度とすべき文學や哲學を態度とした増上慢の樣な氣がして、いやになります。鴎外博士なども、こんな意味で、いやと言へさうな人です。あの方の作物の上の生活は、皆「將來欲」のないもので、現在の整頓の上に一歩も出て居ない、おひんはよいが、文學上の行儀手引きです。もつと血みどろになつた處が見えたら、我々の爲になり、將來せられるものがあつた事でせう。
逍遙博士はまだ生きて居られるので、問題にはしにくいと思ひますが、あの如何にも「生き替り死に變り、憾みを霽らさで……」と言つたしやう懲りもない執著が背景になつて、わりに外面整然としない作物に見失はれがちな、生活表現力を見せてゐます。つまりは、あきらめやゆとり(鴎外博士のあそび)や、通人意識・先覺自負などからは、嗜かれる文學が出て來ないのです。この意味の「嗜かれる」といふことは、よい生活を持ち來す、人間の爲になる文學、及び作者の評言といふ事になるのです。(……)
馬琴の日記を見ても、いやな根性や、じめ/\した、それでゐて思ひあがつた後世觀なども、却て、其文學の背景を色濃くし、性格的必然性を考へさせる樣になつて來ました。小づらにくい小言幸兵衞のもでるの樣な爺さまも、文學者として浮きぼりせられて來たのです。だから生活が知れるといふ事は、作者と作物との關係、生活の將來力と個性の表現傾向などが、長い人生の參考や、暗示や動力になるのです。此點において、私の考へる文學の目的に大なり小なり叶うて來るのです。
文學の目的は、私はかう申します。人間生活の暗示を將來して、普遍化を早める事です。此が、私の考へる文學の普遍性で、同時に、文學價値判斷の目安なのです。だから、結局、日記や傳記によつて、文學作品が註釋せられて、作者の實力が知られると言ふのは、抑文學者として哀れな事で、作品其物に、人間共有の拂ひがたい雲を吸ひよせる樣な、當來の世態の暗示を漂はしてゐる文學でなくてはならないのです。
芥川さんなどは若木の盛りと言ふ最中に、鴎外の幽靈のつき纏ひから遁れることが出來ないで、花の如く散つて行かれました。今一人、此人のお手本にしてゐたことのある漱石居士などの方が、私の言ふ樣な文學に近づきかけて居ました。整正を以てすべての目安とする、我が國の文學者には喜ばれぬ樣ですが、漱石晩年の作の方が遙かに、將來力を見せてゐます。麻の葉や、つくね芋の山水を崩した樣な文人畫や、詩賦をひねくつて居た日常生活よりも高い藝術生活が、漱石居士の作品には、見えかけてゐました。此人の實生活は、存外概念化してゐましたが、やつぱり鴎外博士とは違ひました。あの捨て身から生れて來た將來力をいふ人のないのは遺憾です。(折口信夫「好惡の論」初出1927年)

折口のいう漱石と鴎外との比較の正否は、それぞれ人が判断したらよい。だが、漱石より鴎外を好んだ作家たちはおおむね、《紳士としての體面を崩さぬ樣》な、《とり紊さぬ賢者として名聲》を希求した人たちだったのではないかと、いま思いを馳せてみるのは、わたくしの場合、三島由紀夫、石川淳、加藤周一の顔を想起することによる(困ったことに、わたくしの最も愛する作家のひとり荷風も鴎外を上に置いたのだが)。

もっともこれらの作家たちーー《作家の手の爪には血が滲んでゐる》(坂口安吾『理想の女』)--彼等の爪に血が滲んでいることが少ないなどと(安易には)いうつもりは毛ほどもない。

ここでは中野重治の簡潔な文を掲げるのみにしておく。

世間には、漱石は通俗であつても鴎外は通俗でないといつたふうな俗見が案外に通用している傾きがある。実地には、漱石や二葉亭はなかなかに通俗ではなかつた。鴎外が案外に通俗であつた。(中野重治「鴎外その側面」)

…………

《血みどろになつた處》という折口の表現に反応してヘーゲルを引用しておこう。

人間存在は、すべてのものを、自分の不可分な単純さのなかに包み込んでいる世界の夜 Nacht der Weltであり、空無 leere Nichts である。人間は、無数の表象やイメージを内に持つ宝庫だが、この表象やイメージのうち一つも、人間の頭に、あるいは彼の眼前に現れることはない。この夜。幻影の表象に包まれた自然の内的な夜。この純粋自己 reines Selbst。こちらに血まみれの頭 blutiger Kopf が現れたかと思うと、あちらに不意に白い亡霊 weiße Gestalt が見え隠れする。一人の人間の眼のなかを覗き込むとき、この夜を垣間見る。その人間の眼のなかに、 われわれは夜を、どんどん恐ろしさを増す夜を、見出す。まさに世界の夜 Nacht der Welt がこのとき、われわれの現前に現れている。 (ヘーゲル『現実哲学』イエナ大学講義録草稿 Jenaer Realphilosophie 、1805-1806)

折口は《血まみれの頭 blutiger Kopf》の人であったと同時に《白い亡霊 weiße Gestalt》の人でもあった(たとえば『死者の書』)。

だれにでも自己の内部にあるはずのこの「血まみれの頭」と「白い亡霊」、--それを見て見ないふりをして人生を送るべきかどうかは、人の生き方によるだろう。

力なき美は悟性を憎む。なぜなら、悟性は、美にそれがなし得ないことを要求するからである。だが、死を前にしてしりごみし、破滅から完璧に身を守ろうとするような生ではなく、死を耐え抜き、そのなかに留まる生こそが精神の生なのである。精神が己の真理を勝ちとるのは、ただ、自分自身を絶対的分裂 absoluten Zerrissenheit のうちに見出すときにのみなのである。

精神がこの力であるのは、否定的なもの Negativen から目をそらすような、肯定的なものであるからではない。つまりわれわれが何かについて、それは何物でもないとか、偽であるとか言って、それに片をつけ、それから離れて、別のものに移って行く場合のようなものであるからではない。そうではなく、精神は、否定的なものを見すえ Negativen ins Angesicht schaut、否定的なもの Negativen に留まる verweilt からこそ、その力をもつ。このように否定的なものに留まることが、否定的なものを存在に転回する魔法の力 Zauberkraft である。(ヘーゲル『精神現象学』「序論」、1807年)

このヘーゲルの二つの文を要約していえば、人は「世界の夜」 に留まり、「血まみれの頭」、「白い幽霊」を見すえなければならない。そのとき初めて精神の偉大な力が生まれる、ということになる。

フロイトはヘーゲルのこの「否定性」ーーゴダールの表現ならポジに対するネガーー、「世界の夜」「血まみれの頭」に相当するものを、「原始時代のドラゴン Drachen der Urzeit wirklich 」(参照)、あるいは「欲動の根 Triebwurzel」「我々の存在の核 Kern unseres Wesens」(参照)等と呼んだ。

そしたわたくしの考えでは、ニーチェの《わたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin》や《メドゥーサの首 Medusenhaupt》も、ヘーゲルの「血まみれの頭」、折口の「血みどろになつた處」と相同的である(参照)。

きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrinの名だ。

……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」)

2017年7月16日日曜日

「もののあはれ」と「あばたもえくぼ」

恋せずば 人は心もなからまし 物のあはれも これよりぞ知る (藤原俊成)

「もののあはれ」は語りにくい。それはまず惚れることにかかわるからだ。

阿波礼といふ言葉は、さまざまいひかたはかはりたれども、其意はみな同じ事にて、見る物、聞く事、なすわざにふれて、情(こころ)の深く感ずる事をいふ也。俗にはたゞ悲哀をのみあはれと心得たれ共、情に感ずる事はみな阿波礼也(本居宣長『石上私淑言』)

だが惚れたら「あばたもえくぼ」になる。批評精神が働かなくなる。あの批評精神のかたまりのような小林秀雄の渾身の作『本居宣長』でさえ、あばたをえくぼとしているのではないかと疑いたくなる箇所がないではない。

おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返す。(ニーチェ『善悪の彼岸』146節)

小林秀雄は「本居宣長」を11年半も書き続けた。本居宣長はあきらかに小林秀雄を見返しているのである。

これをラカン派なら次のように言う(参照:眼差しとしてのプンクトゥム)。

主体の眼差しは、常に-既に、知覚された対象自体にシミとして書き込まれている。「対象以上の対象のなか」に。その盲点から対象自体が主体を眼差し返す。《確かに絵は、私の目のなかにある。だが私自身、この私もまた、絵のなかにある。le tableau, certes est dans mon oeil, mais moi je suis dans le tableau. 》 (ラカン、S11)

(ジジェク、パララックス・ヴュ―、英文より

ジジェクは次の文であばたがえくぼになるどころか、「あばた」こそ愛する原因となる、すくなくともその場合があると言っている。

欲望の対象と欲望の対象-原因(対象a)のギャップというのは決定的である、その特徴が私の欲望を惹き起こし欲望を支えるのだから。この特徴に気づかないままでいるかもしれない。でも、これはしばしば起っていることだが、私はそれに気づいているのだけれど、その特徴を誤って障害と感じていることだ。

たとえば、誰かがある人に恋に落ちるとする、そしてこう言う、「私は彼女をほんとうに魅力的だと思う、ただある細部を除いて。――それが私は何だかわからないけれど、彼女の笑い方とか、ジェスチュアとかーーこういったものが私をうんざりさせる」。

でもあなたは確信することだってありうる、これが障害であるどころか、実際のところ、欲望の原因だったことを。欲望の対象-原因というのはそのような奇妙な欠点で、バランスを乱すものなのだが、もしそれを取り除けば、欲望された対象自体がもはや機能しなくなってしまう、すなわち、もう欲望されなくなってしまうのだ。こういったパラドキシカルな障害物。これがフロイトがすでに「一の徴 der einzige Zug」と呼んだものと近似している。そして後にラカンがその全理論を発展させたのだ。たとえばなにかの特徴が他者のなかのわたしの欲望が引き起こすということ。そして私が思うには、これがラカンの「性関係がない」という言明をいかに読むべきかの問題になる。(『ジジェク自身によるジジェク』ーー「愛の心理学:「女の笑い方、ジェスチャ」」)

いずれにせよ人は対象のなかに自分が書き込まれていなければ、愛さない。この自分が書き込まれていることをラカンは《絵のなかのシミ tache dans le tableau》=盲点と呼ぶ。そして当時の「学会」や「学者」への批判をしつづけた独学者「本居宣長」という対象には、あきらかに小林秀雄自身のシミが書き込まれている。

44歳の江藤淳は『本居宣長』の「新潮」連載がおわったあとの小林秀雄と対談で二度、森鴎外の『渋江抽斎』の名を出して小林秀雄に問いかけている、《私は……この御本を読みながら何度か鴎外の『渋江抽斎』のことを想いました》《さっきも申しあげたように、『本居宣長』を読みながら、しばしば鴎外の『渋江抽斎』を思い出したのですが、鴎外はなぜ渋江抽斎というような、ほとんど世間に知られていない考証家に惹かれたのかということを考えてみますと、……結局鴎外が自分の六十年近い生涯を振り返ったとき、本当の学問をしていたのは抽斎のほうで、自分ではなかったという痛恨を禁じ得なかったからではないか、と思うようになりました》。

この江藤淳の二度の問いかけに小林秀雄は無言のままである。渋江抽斎に鴎外が書き込まれているのはたしかであり、「あばたもえくぼ」の箇所がふんだんにあるのもたしかである。

あばたといわずにも、「もののあはれ」を語れば、人は女々しくなる。

おほかたの人の情といふ物は、女童のごとく、みれんにおろかなる物也、男らしく、きつとして、かしこきは、実の情にあらず、それはうはべをつくりひ、かざりたる物也、実の心のそこを、さぐりてみれば、いかほどかしこき人も、みな女童にかはる事なし、それをはぢで、つゝむとつゝまぬとのたがひめ計也(本居宣長『紫文要領』)

《男らしく、きつとして、かしこきは、実の情にあらず》とあるが、通念としての男のあるべき姿は《きつとして、かしこき》ことだろう。だが惚れるとは女になることなのである。

我々は愛する、「私は誰?」という問いへの応答、あるいは一つの応答の港になる者を。

愛するためには、あなたは自らの欠如を認めねばならない。そしてあなたは他者が必要であることを知らねばならない。

ラカンはよく言った、《愛とは、あなたが持っていないものを与えることだ l'amour est donner ce qu'on n'a pas 》と。その意味は、「あなたの欠如を認め、その欠如を他者に与えて、他者のなかの場に置く c'est reconnaître son manque et le donner à l'autre, le placer dans l'autre 」ということである。あなたが持っているもの、つまり品物や贈物を与えるのではない。あなたが持っていない何か別のものを与えるのである。それは、あなたの彼方にあるものである。愛するためには、自らの欠如を引き受けねばならない。フロイトが言ったように、あなたの「去勢」を引き受けねばならない。

そしてこれは本質的に女性的である。人は、女性的ポジションからのみ真に愛する。愛することは女性化することである。この理由で、愛は、男性において常にいささか滑稽である。(On aime celui qui répond à notre question : " Qui suis-je ? " Jacques-Alain Miller janvier 2010

宣長は愛する人だった。

事しあれば うれしかなしと 時々に うごく心ぞ 人のまごころ
うごくこそ 人の真心 うごかずと いひてほこらふ 人はいは木か
真ごころを つつみかくして かざらひて いつはりするは 漢のならはし
から人の しわざならひて かざらひて 思ふ真心 いつはりべしや  

――本居宣長「玉鉾百首」

小林秀雄はこの漢ごころに対する大和魂賛美を、たとえば次の文などを引用して語っているが、漢ごころとは《きつとして、かしこき》孟子風の態度であり、宣長は孔子はまったく違うと言っている。だから必ずしも「漢」自体の批判ではない。

孟子ニ、不動心ト云ルハ、大ナル偽ニシテイミジキヒガ事也、心ハモトヨリ動クガソノ用也、動カザルハ死物ニテ、木石ニ異ナル事ナシ、孟子ガ王道ヲ行ハシメムト思フモ、則心ヲ動カスニアラズヤ、又養浩然之気ト云ルモツクリ事也、孔子ニハ、カヤウノウルサキ事ハ、露バカリモ見ヘズ、聖人ノ意ニアラズ、コレモ、カノ心ヲ動カワズト云ト同ジタグイノ、自慢ノ作リ事也(本居宣長『玉勝間』)

…………

ここで精神分析ごころにかなり汚染されているここでの記述にさらに追い打ちをかけることにする(本居宣長も小林秀雄もそんな振舞いをゆるしてはくれないだろうが)。

ジジェク2016年の「私は哲学者だろうか AM I A PHILOSOPHER?」、PDF からである。

我々が「真の哲学者」をストア的に動じない主人の言説と同一とするなら、カントやヘーゲルのような哲学者はもはや哲学ではない。

カント以後「古典的あるいは新古典的なスタイルに哲学」、すなわち「全現実の基本構造」の大いなる透視図としての「世界的視点」の哲学は、議論の余地なくもはや不可能である。

…要するに、カントとともに、哲学はもはや主人の言説ではない。全哲学体系は、内在的不可能性、欠陥、非一貫性の閂によって旋転させられている。ヘーゲルとともに、事態はさらにいっそう展開する。ヘーゲルは(カント派が非難するように)プレ批判的な合理的形而上学へと回帰しているどころか、全ヘーゲルの弁証法は、「主人」の土台のヒステリー的な掘り崩しの一種である(ラカンはヘーゲルを《最も崇高なヒステリー》と呼んだ)。つまりあらゆる哲学的主張の内在的自己破壊と自己超克である。要するに、ヘーゲルの「体系」とは哲学的企画の欠陥を通した体系的ツアー以外の何ものでもない。(ZIZEK, AM I A PHILOSOPHER?  2016)

主人の言説からヒステリーの言説への移行とは、まさに男性的《きつとして、かしこき》態度から女性的《心ヲ動カス》態度への移行である。

ラカン派においては、下の図の上段が男性の論理、下段が女性の論理であり、S1は主人、$はヒステリーである(参照)。




上の文にあらわれているように、ジジェクにとって、ヘーゲルとは大いなる世界の透視図を描く合理的形而上学者ではけっしてなく(かつまた孟子風の「不動心」の哲学者でもなく)、「世界の闇」の哲学者、あるいは次の文にあらわれる否定性、欠如、空虚に「動かされる」哲学者である(バディウも同様である、《よいヘーゲルは「切り裂く」ヘーゲルである。すなわち、より高い統一へと昇華し得ない「非対称的矛盾」のヘーゲルである》(Théorie du sujet))。

意識において自我 Ichとその対象である実体 Substanz との間におこる不等性 Ungleichheitは…否定的なもの Negative 自体である。このネガ Negative は両者の欠如 Mangel と見なしうるが、しかし両者の魂 Seele であり両者を動かす。この理由で若干の古人は空虚 Leere をもって動因と解した。もっとも彼らは…このネガを自己 Selbst としてはとらえなかったが。(ヘーゲル『精神現象学』)

いやあシマッタ・・・、ヘーゲルなどまともに読んでいないにもかかわらずもっともらしく引用してしまった。これこそ「もののあわれ」に反する態度である!

すべて男も女も、わろものはわづかに知れる方の事を残りなく見せ尽くさむと思へるこそいとおしけれ(源氏「帚木」)

そもそも冒頭の百頁ほどしか読まずに長いあいだほうったらかしてあった小林秀雄の『本居宣長』をようやく読んだばかりのところでこうやってすぐさま記すのも「もののあはれ」にすこぶる反する振舞いである! これはなにやらと「さわいでいるだけ」の文である。《かぢとり、もののあはれも知らで、おのれ酒をくらひつれば、はやくいなむとて、しほみちぬ、風もふきぬべしと、さわげば》云々(紀貫之『土佐日記』)


2017年7月5日水曜日

言語による「物の殺害」

ラカンは1953年のローマ講演で、言語記号 symbole は《物の殺害 meurtre de la chose》と言明したが、これはもともとヘーゲルの《物の殺害 Mord am Ding》に由来することになっている。

だが《das Wort ist Mord am Ding》というたぐいの文をネット上で検索してみても直接には出てこない。どうやらコジューヴ経由の「物の殺害」であり、コジューヴは『精神現象学』(1807年)の記述を要約してこう言ったらしい。すこし眺めてみただけだが、たしかにヘーゲルには「物の殺害」と似たような事を言っている(参照:Phänomenologie des Geistes)。

今はほとんど読んだことのないヘーゲルの文を引用することはしない。ジジェク文を掲げて置く。

ヘーゲルが何度も繰り返して指摘したように、人が話すとき、人は常に一般性のなかに住まう。この意味は、言語の世界に入り込むと、主体は、具体的な生の世界のなかの根を失うということだ。もっとパセティックな言い方をするなら、私は話し出した瞬間、もはや感覚的に具体的な「私」ではない。というのは、私は、非個人的メカニズムに囚われるからだ。そのメカニズムは、常に、私が言いたいこととは異なった何かを私に言わせる。前期ラカンが次のように言うのを好んだように。つまり、私は話しているのではない。私は言語によって話されている、と。これは、「象徴的去勢」と呼ばれるものを理解するひとつの方法である。すなわち、主体が「聖餐式における全質変化 transubstantiation」のために支払わなければならない代価。ダイレクトな動物的生の代理人であることから、パッションの生気から引き離された話す主体への移行である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING, 2012)
人間が動物を凌駕するのは暴力の能力の点においてであり、それがほかならぬ言葉を使うせいだとすればどうだろう。数多ある言語の暴力的特性を中心的なテーマにしたてた哲学者・社会学者には、ブルデューからハイデガーまでいる。しかしながら、ハイデガーが見落とした言語の暴力的特性がある。それこそラカンによる象徴界の理論の焦点である。その象徴界の理論を通じて、ラカンは存在の家としての言語、つまり言語は人間の創造物でも道具でもなく、人間のほうが言語の中に「暮らし」ている、というハイデガーのモチーフを変奏している。「精神分析は、その主体となるものがなかに住まう言語の科学であるべきです」。ラカンが「パラノイア的な」加えたひねり、ラカンがフロイトのようにして 加えたねじの回転は、この〔ハイデガーの〕家に折檻の家という特徴を与えた点に求めら れる。《フロイトの視点に立てば、人間は言語によって囚われ拷問を被る主体である。l'homme c'est le sujet pris et torturé par le langage(ラカン、S3、1956)》。(ジジェク 「詩に歌われる言語の折檻所」

ーーと引用してみたが、すこし前何度か引用したニーチェの言明は何もニーチェ独自のものではないことを示したいだけである。すくなくともニーチェの前にはヘーゲルがいる。

言語はレトリックである。というのは、 言語はドクサのみを伝え、 何らエピステーメを伝えようとはしないからである。

Die Sprache ist Rhetorik, denn sie will nur eine doxa, keine episteme übertragen“ (Nietzsche: Vorlesungsaufzeichnungen 講義録(WS 1871/72 – WS 1874/75)
言語の使用者は、人間に対する事物の関係を示しているだけであり、その関係を表現するのにきわめて大胆な隠喩を援用している。すなわち、一つの神経刺戟がまず形象に移される! これが第一の隠喩。その形象が再び音において模造される! これが第二の隠喩。そしてそのたびごとにまったく別種の、新しい領域の真只中への、各領域の完全な飛び越しが行われる。(ニーチェ「道徳外の意味における真理と虚偽について Über Wahrheit und Lüge im außermoralischen Sinn」1873年)

ニーチェは数学や科学についても同じことを言っているのが目新しいといえるのかもしれないが、これ自体、数学や科学は「言語記号」を扱うのだが当然といえば当然である。

論理学は、現実の世界にはなにも対応するものがないような前提、たとえば同等な物があるとか、一つの物はちがった時点においても同一であるというような前提にもとづいている。…数学についても同じことがいえる。もしひとがはじめから厳密には直線も円も絶対的な量もないことを知っていたら、数学は存在しなかっただろう。(ニーチェ『人間的な、あまりに人間的なMenschliches, Allzumenschliches』 1878年)
・科学が憩っている信念は、いまだ形而上学的信念である。daß es immer noch ein metaphysischer Glaube ist, auf dem unser Glaube an die Wissenschaft ruht

・物理学とは世界の配合と解釈にすぎない。dass Physik auch nur eine Welt-Auslegung und -Zurechtlegung

・我々は、線・平面・物体・原子、あるいは可分的時間・可分的空間とかいった、実のところ存在しないもののみを以て操作する。Wir operieren mit lauter Dingen, die es nicht gibt, mit Linien, Flächen, Körpern, Atomen, teilbaren Zeiten, teilbaren Räumen (ニーチェ『 悦ばしき知 Die fröhliche Wissenschaft』1882年)

このところフロイトによる「テキストの改竄」、「現実の改竄」をめぐって記したが、これもまた、ヘーゲル・ニーチェ視点からいえば、とくに目新しくないということが言えるのかもしれない。

抑圧とその他の多くの防衛機制との関係は、本文を棄却することと歪曲することAuslassung zur Textentstellungとの関係に相当するということができる。すなわちわれわれは、このような種々の形をとって現われる改竄 Verfälschung の中に、自我の変化の多様性との類似を見出すことができるのである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』)
自我の防衛機制 Abwehrmechanismen は、内的知覚 innere Wahrnehmung を改竄 verfälschenし、われわれのエスについての、欠陥だらけで歪曲された知識 mangelhafte und entstellte Kenntnis を可能にするだけと定められている。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』1937年)

ラカンは《科学的言説は見せかけ semblant の言説か否かさえ悩まずに進んでゆく》と言っている。

ラカンの見せかけ semblant とは、独語では仮象 Scheinと訳される。

《見せかけ semblant、それはシニフィアン自体のことである! Ce semblant, c'est le signifiant en lui-même ! 》(Lacan,S18, 13 Janvier 1971)

→ Die­ser Schein ist der Si­gni­fi­kant an sich selbst

仮象とはニーチェに頻出する語である。

「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)
わたしにとって今や「仮象 Schein」とは何であろうか! 何かある本質の対立物では決してない。Was ist mir jetzt »Schein«! Wahrlich nicht der Gegensatz irgendeines Wesens(ニーチェ『悦ばしき知』1882年)

→《真理は見せかけ semblant の対立物ではない La vérité n'est pas le contraire du semblant.》(ラカン、S18, 20 Janvier 1971)


ラカン曰くの《科学的言説は見せかけの言説か否かさえ悩まずに進んでゆく le discours scientifique progresse sans plus même se préoccuper s'il est ou non semblant》も、ニーチェの言っている《科学が憩っている信念は、いまだ形而上学的信念である》と相似形である。

分節化ーー見せかけsemblantの代数的 algébrique分節化という意味だがーー、これによって我々は文字 lettres だけを扱っている。そしてその効果。これが実在 réelと呼ばれるものを我々に提示可能にしてくれる唯一の装置である。何が実在 réel かといえば、この見せかけに穴を開けること fait trou dans ce semblant である。

科学的言説であるところの分節化されたこの見せかけ ce semblant articulé qu'est le discours scientifique のなかに 、科学的言説は、それが見せかけの言説か否かさえ悩まずに進んでゆく。

しばしば言われるように、科学的言説がかかわる全ては、そのネットワーク・その織物・その格子によって、正しい場所に正しい穴が現れるようにすること fasse apparaître les bons trous à la bonne place である。

この演繹によって到達される唯一の参照項は不可能である。この不可能が実在 réelである。我々は物理学において、言説の装置の助けをもって、実在 le réel であるところの何かを目指す。その厳格さのなかで、一貫性の限界に遭遇する rencontre les limites de sa consistance のである。(ラカン、セミネール18、20 Janvier 1971、私訳)



2017年6月6日火曜日

世界の闇

ここでの記述は、まずジジェク経由の断片的ヘーゲルをめぐっている(ようするにわたくしはヘーゲルをよく知らない)。

すなわちジジェクの「原テキスト」とでもいうべきーーとてもしばしばくり返して引用されるーーヘーゲルの二文を抜き出す。どちらもヘーゲルの「 否定性 Negativität」にかかわる。

第一に「世界の闇(世界の夜 Nacht der Welt)」である。

ヘーゲルは、 1770年生れであり、次のように言ったときは、35歳前後である。

人間存在は、すべてのものを、自分の不可分な単純さのなかに包み込んでいる世界の闇 Nacht der Weltであり、空無 leere Nichts である。人間は、無数の表象やイメージを内に持つ宝庫だが、この表象やイメージのうち一つも、人間の頭に、あるいは彼の眼前に現れることはない。この闇。幻影の表象に包まれた自然の内的な闇。この純粋自己 reines Selbst。こちらに血まみれの頭 blutiger Kopf が現れたかと思うと、あちらに不意に白い亡霊 weiße Gestalt が見え隠れする。一人の人間の眼のなかを覗き込むとき、この闇を垣間見る。その人間の眼のなかに、 われわれは闇を、どんどん恐ろしさを増す闇を、見出す。まさに世界の闇 Nacht der Welt がこのとき、われわれの現前に現れている。 (ヘーゲル『現実哲学』イエナ大学講義録草稿 Jenaer Realphilosophie 、1805-1806、既存訳をいくらか変更)
Der Mensch ist diese Nacht der Welt, dies leere Nichts, das alles in ihrer Einfachheit enthält, ein Reichtum unendlich vieler Vorstellungen, Bilder deren keines ihm gerade einfällt oder die nicht als gegenwärtige sind. Dies ist die Nacht, das Innere der Natur, das hier existiert – reines Selbst. In phantasmagorischen Vorstellungen ist es ringsum Nacht; hier schießt dann ein blutiger Kopf, dort eine andere weiße Gestalt hervor und verschwinden ebenso. Diese Nacht erblickt man, wenn man dem Menschen ins Auge blickt – in eine Nacht hinein, die furchtbar wird; es hängt die Nacht der Welt einem entgegen.(Hegel, Jenaer Realphilosophie, 1805/6)

第二に、ジジェクの著書の表題『否定的なもののもとへの滞留 tarrying with the negative』と訳される《否定的なものNegativenに留まること verweilt》である。

これもヘーゲルの1807年の著作『精神現象学』からであり、まだ若い(ヘーゲルは1831年死去である)。

力なき美は悟性を憎む。なぜなら、悟性は、美にそれがなし得ないことを要求するからである。だが、死を前にしてしりごみし、破滅から完璧に身を守ろうとするような生ではなく、死を耐え抜き、そのなかに留まる生こそが精神の生なのである。精神が己の真理を勝ちとるのは、ただ、自分自身を絶対的分裂 absoluten Zerrissenheit のうちに見出すときにのみなのである。

精神がこの力であるのは、否定的なもの Negativen から目をそらすような、肯定的なものであるからではない。つまりわれわれが何かについて、それは何物でもないとか、偽であるとか言って、それに片をつけ、それから離れて、別のものに移って行く場合のようなものであるからではない。そうではなく、精神は、否定的なものを見すえ、否定的なもの Negativen に留まる verweilt からこそ、その力をもつ。このように否定的なものに留まることが、否定的なものを存在に転回する魔法の力である。(ヘーゲル『精神現象学』「序論」、1807年、既存訳をいくらか変更)
Die kraftlose Schonheit hasst den Verstand, weil er ihr dies zumutet, was sie nicht vermag. Aber nicht das Leben, das sich vor dem Tode scheut und von der Verwustung rein bewahrt, sondern das ihn ertragt und in ihm sich erhalt, ist das Leben des Geistes. Er gewinnt seine Wahrheit nur, indem er in der absoluten Zerrissenheit sich selbst findet.

Diese Macht ist er nicht als das Positive, welches von dem Negativen wegsieht, wie wenn wir von etwas sagen, dies ist nichts oder falsch, und nun, damit fertig, davon weg zu irgend etwas anderem ubergehen; sondern er ist diese Macht nur, indem er dem Negativen ins Angesicht schaut, bei ihm verweilt. Dieses Verweilen ist die Zauberkraft, die es in das Sein umkehrt.(Hegel, Phänomenologie des Geistes, “Vorwort”,1807)

この二つの文を混淆させて言えば、われわれは先ず、「世界の闇 Nacht der Welt」 に留まりverweilt、「血まみれの頭 blutiger Kopf 」、「白い幽霊 weiße Gestalt」を見すえなければならない。そのとき初めて精神の偉大な力は生まれる、ということになる。

それはゴダールが言っているとおりである。



ゴダールは『JLG/自画像』で、二度、ネガに言及している。一度目は、湖畔でヘーゲルの言葉をノートに書きつけながら、「否定的なもの(le négatif)」を見すえることができるかぎりにおいて精神は偉大な力たりうると口にするときである。二度目は、風景(paysage)の中には祖国(pays)があるという議論を始めるゴダールが、そこで生まれただけの祖国と自分でかちとった祖国があるというときである。そこに、いきなり少年の肖像写真が挿入され、ポジ(le positif)とは生まれながらに獲得されたものだから、ネガ(le négatif)こそ創造されねばならないというカフカの言葉を引用するゴダールの言葉が響く。とするなら、描かれるべき「自画像」は、あくまでネガでなければならないだろう。(蓮實重彦『ゴダール マネ フーコー 思考と感性とをめぐる断片的な考察』)

…………

さてここでニーチェへと転回する。

ヘーゲルの「世界の闇 Nacht der Welt」 における、「血まみれの頭 blutiger Kopf 」、「白い幽霊 weiße Gestalt」とは何か?

一匹の蛇である。恐ろしい女主人である。そう断言してみることにする。

…正午の太陽が彼の頭上にかかった。そのときかれは問いのまなざしを空にむけたーー高みに鋭い鳥の声を聞いたからである。と、見よ。一羽の鷲が大いなる輪を描いて空中を舞っていた。そしてその鷲には一匹の蛇がまつわっていた。鷲の獲物ではなく、友であるように見えた。鷲の頸にすがるようにして巻きついている。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第一部「序説」、1883年)
きのうの夕方ごろ、わたしの最も静かな時刻 stillste Stunde がわたしに語ったのだ。つまりこれがわたしの恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin の名だ。

……彼女の名をわたしは君たちに言ったことがあるだろうか。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部 「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」1884年)

「血まみれの頭 blutiger Kopf 」、「白い幽霊 weiße Gestalt」とは、「メドゥーサの首 Kopf der Medusa」である。それが女主人であり蛇である。

ニーチェのツァラトゥストラをめぐる草稿には次の文がある。

In Zarathustra 4: der große Gedanke als Medusenhaupt: alle Züge der Welt werden starr, ein gefrorener Todeskampf.[Winter 1884 — 85]

すなわち《「メドゥーサの首 Medusenhaupt」 としての偉大の思想。すべての世界の特質は石化(硬直 starr)する。「凍りついた死の首 gefrorener Todeskampf」》(ニーチェ、KSA11.360.31 [4])、これはまさに「世界の闇 Nacht der Welt」のことである。

ニーチェは、ヘーゲルのパクリがあまりにもミエミエなので、遠慮してツァラトゥストラ本文には使用しなかったのではなかろうか・・・(もちろん、フロイトにも『メドゥーサの首』(Medusenhaupt)という未発表の草稿があることを今では誰もが知っている。)





メドゥーサの首は、「正午」にも「真夜中」にもあらわれる。

正午にそれは起こった。「一」は「二」となったのである。Um Mittag war's, da wurde Eins zu Zwei...(ニーチェ『善悪の彼岸』1886年「高き山々の頂きから Aus hohen Bergen」)
月明りのなかで偶然、自分の顔を鏡の中に見ること以上に不気味なものはない。(ハイネ)

Es gibt nichts Unheimlicheres, als wenn man, bei Mondschein, das eigene Gesicht zufällig im Spiegel sieht. (Heinrich Heine: Reisebilder

われわれは実は誰もが知っている。あの「影 Schatten」を、あの「ネガ Negativen」を。

……そのとき、声なき声がわたしに語った Dann sprach es ohne Stimme zu mir「おまえはそれを知っているではないか、ツァラトゥストラよ: Du weisst es, Zarathustra? -」--(ニーチェ『ツァラトゥストラ』第二部最終章「最も静かな時刻」)

ーー《おまえは、来らざるをえない者の影 Schatten として歩まねばならぬ。》(同「最も静かな時刻」)

「一」は「二」となるとは、「一」であったイマジネールな私は、「私と影」の「二」になることである。

人生の正午 Mittag、ひとは異様な安静の欲求におそわれることがある。まわりがひっそりと静まりかえり、物の声が遠くなり、だんだん遠くなっていく。彼の心臓は停止している。彼の目だけが生きている、--それは目だけが醒めている一種の死だ。それはほとんど不気味でunheimlich、病的に過敏 krankhaftだ。しかし不愉快 unangenehmではない。(ニーチェ『漂泊者とその影』308番Der Wanderer und sein Schatten)

あの「影 Schatten」、あの「ネガ Negativen」、あの「血まみれの頭 blutiger Kopf 」、あの「白い幽霊 weiße Gestalt」、あの「私の恐ろしい女主人 meiner furchtbaren Herrin」、あの「メドゥーサの首 Medusenhaupt」--これらを「狼の足 pas de loup」と言っても同じことである。

鳩が横ぎる。ツァラトゥストラの第二部のまさに最後で。「最も静かな時刻 Die stillste Stunde」。

最も静かな時刻は語る。私に語る。私に向けて。それは私自身である。私の時間。私の耳のなかでささやく。それは、私に最も近い plus proche de moi。私自身であるかのようにcomme en moi。私のなかの他者の声のようにcomme la voix de l'autre en moi。他者の私の声のように comme ma voix de l'autre。

そしてその名、この最も静かな時刻の名は、《わたしの恐ろしい女の主人》である。

……今われわれはどこにいるのか? あれは鳩のようではない…とりわけ鳩の足ではない。そうではなく「狼の足で à pas de loup」だ…(デリダ、2004, Le souverain bien – ou l’Europe en mal de souveraineté La conférence de Strasbourg 8 juin 2004 JACQUES DERRIDAーー鳩の足と狼の足)

決定的な文がツァラトゥストラ第四部の「酔歌 Das Nachtwandler-Lied」--いわゆる『ツァラトゥストラ』全体のグランフィナーレーーに現れる。

静かに! 静かに! いまさまざまのことが聞えてくる、昼には声となることを許されないさまざまのことが。いま、大気は冷えおまえたちの心の騒ぎもすっかり静まったいまーー

Still! Still! Da hört sich Manches, das am Tage nicht laut werden darf; nun aber, bei kühler Luft, da auch aller Lärm eurer Herzen stille ward, –

ーーいま、それは語る、いま、それは聞こえる、いま、それは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる、ああ、ああ、なんという吐息をもたらすことか、なんと夢を見ながら笑い声を立てることか。

– nun redet es, nun hört es sich, nun schleicht es sich in nächtliche überwache Seelen: ach! ach! wie sie seufzt! wie sie im Traume lacht!

ーーおまえには聞えぬか、あれがひそやかに、すさまじく、心をこめておまえに語りかいるのが? あの古い、深い、深い真夜中が語りかけるのが?

おお、人間よ、心して聞け!

– hörst du's nicht, wie sie heimlich, schrecklich, herzlich zu dir redet, die alte tiefe tiefe Mitternacht? Oh Mensch, gieb Acht!
おお、人間よ、心して聞け!
深い真夜中は何を語る?
「わたしは眠った、わたしは眠ったーー、
深い夢からわたしは目ざめた。--
世界は深い、
昼が考えたより深い。
世界の痛みは深いーー、
悦びーーそれは心の悩みよりもいっそう深い。
痛みは言う、去れ、と。
しかし、すべての悦びは永遠を欲するーー
ーー深い、深い永遠を欲する!」

Oh Mensch! Gieb Acht!
Was spricht die tiefe Mitternacht?
»Ich schlief, ich schlief –,
»Aus tiefem Traum bin ich erwacht: –
»Die Welt ist tief,
»Und tiefer als der Tag gedacht.
»Tief ist ihr Weh –,
»Lust – tiefer noch als Herzeleid:
»Weh spricht: Vergeh!
»Doch alle Lust will Ewigkeit
»will tiefe, tiefe Ewigkeit!«


《それは語る、いま、それは聞こえる、いま、それは夜を眠らぬ魂のなかに忍んでくる》

「それ Es」とは何であったか?

ニーチェにおいて、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エス Es がいつも使われている。(フロイト『自我とエス』)

ここでヘーゲルが「世界の闇 Nacht der Welt」を、「純粋自己 reines Selbst」と等価なものとして扱っていたことを想い起しておこう。

そして「悦び(悦楽 Lust)」とは、フロイトの《苦痛のなかの快 Schmerzlust》(『マゾヒズムの経済的問題』1924年)、ラカンの《享楽 jouissance》 のことである。

世界は深い、
昼が考えたより深い。
世界の痛みは深いーー、
悦び Lustーーそれは心の悩みよりもいっそう深い。
痛みは言う、去れ、と。
しかし、すべての悦び Lust は永遠を欲するーー
ーー深い、深い永遠を欲する!

《すべての悦楽は永遠を欲する alle Lust will Ewigkeit》!!!

フロイトにとっての「永遠回帰 ewige Wiederkehr」は「反復強迫 Wiederholungszwang」である[参照]。

ラカンにとっての永遠回帰は享楽回帰のことである。

反復は享楽回帰 un retour de la jouissance に基づいている・・・それは喪われた対象 l'objet perdu の機能かかわる・・・享楽の喪失があるのだ。il y a déperdition de jouissance.(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

ラカンは、このフロイトの『快原則の彼岸』に再訪している講義にて、次のようにも言っている。

死への道は、享楽と呼ばれるもの以外の何ものでもない。le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance(ラカン、S17、14 Janvier 1970)

ここでヘーゲルの『精神現象学』「序論」には次のようにあったことを想い起しておこう。

だが、死を前にしてしりごみし、破滅から完璧に身を守ろうとするような生ではなく、死を耐え抜き、そのなかに留まる生こそが精神の生なのである。

Aber nicht das Leben, das sich vor dem Tode scheut und von der Verwustung rein bewahrt, sondern das ihn ertragt und in ihm sich erhalt, ist das Leben des Geistes.(ヘーゲル、イエナ草稿「世界の闇 Nacht der Welt」

ラカンとヘーゲルの「死」の意味合いが異なる、などという戯言は金輪際お断りする。

死というのは一点ではない、生まれた時から少しずつ死んでいくかぎりで線としての死があり、また生とはそれに抵抗しつづける作用である。(ピシャ、ーーフーコー『臨床医学の誕生』より)
死とは、私達に背を向けた、私たちの光のささない生の側面である。(リルケ「ドゥイノの悲歌」)
有機体はそれぞれの流儀に従って死を望む sterben will。生命を守る番兵も元をただせば、死に仕える衛兵であった。(フロイト『快原理の彼岸』)

ヘーゲルの「世界の闇 Nacht der Welt」とは、ニーチェの「悦楽(悦び lust)」、フロイトの「死の欲動 Todestrieb」、あるいはラカンの「享楽 jouissance」(=死への回り道)と(ほとんど)等価である。ヘーゲルに無知な身として敢えて「ほとんど」と丸括弧つきでつけくわえたが、実はそんな括弧はいらないはずである。

私は、欲動 Trieb を「享楽の漂流 la dérive de la jouissance」と翻訳する。(ラカン、S.20、08 Mai 1973)

そして、《すべての欲動は、潜在的に死の欲動である。toute pulsion est virtuellement pulsion de mort.》(Lacan E848、1964)

ヘーゲル研究者たちは、なぜこの程度のことに気づかないのだろう?

フロイトやラカンの欲動とはいうまい。だが「世界の闇」における「血まみれの頭 blutiger Kopf」「白い幽霊 weiße Gestalt」が「メドゥーサの首 Kopf der Medusa」であることはあまりに明らかではないか?

《人間存在は世界の闇であり空無である。Der Mensch ist diese Nacht der Welt, dies leere Nichts》!!!

彼らが「世界の闇」に不感症なのは、彼らの長年の「症状」に由来する。彼らは「理性の光」のみがお好きなのである。表層を滑るのはそれはそれでよろしい。だがその裏側、その背後も表面であることを知らない。その理性の「光」とコインの表裏である「影」はお嫌いなのである。しかし人間は誰もが影をもっている。どうやって「影」を忘れることができよう? どうやってそれを見すえないまま生を送れよう? ゴダールの言うとおり、《否定的なもの(le négatif)」を見すえることができるかぎりにおいて精神は偉大な力たりうる》のである。

連中は精神の中流階級でしかない。

学者というものは、精神上の中流階級に属している以上、真の「偉大な」問題や疑問符を直視するのにはまるで向いていないということは、階級序列の法則から言って当然の帰結である。加えて、彼らの気概、また彼らの眼光は、とうていそこには及ばない。(ニーチェ『悦ばしき知識』1882年)

なんと呼ぼうといいのである、あの「影」を。「否定性(ネガ)」と呼ぼうが、「世界の闇」と呼ぼうが、「私の恐ろしい女主人」と呼ぼうが、「メドゥーサの首」と呼ぼうが、あの「血まみれの頭」、あの「白い幽霊」と呼ぼうが。

(ここで論理的ヘーゲルの《もしA がそれ自体と同じなら、どうして 反復する必要があるというのだ?》(ヘーゲル『論理の科学』)をパラフレーズしておこう。「一」が「一」自体なら、どうしてわれわれは常に反復する生を送っているのだ、と。われわれが反復するのは「影(ネガ)」があるせいである。)

ラカンの対象aとはこれらと相似的である。《常に「一」と「他」、「一」と「対象a」がある。il y a toujours l'« Un » et l'« autre », le « Un » et le (a) 》 (ラカン、S20、16 Janvier 1973)

対象a …この対象は、哲学的思惟には欠如しており、そのために自らを位置づけえない。つまり、自らが無意味であることを隠している。Cet objet est celui qui manque à la considération philosophique pour se situer, c'est à dire pour savoir qu'elle n'est rien. .(ラカン「哲学科の学生への返答 Réponses à des étudiants en philosophie」 1966)
私はどの哲学者にも挑んでいる。シニフィアンの出現と享楽が存在にかかわる仕方とのあいだにある関係を、この今確認するために…どの哲学も、言わせてもらえば、今日、我々に出会えない。哲学の哀れな流産 ces misérables avortons de philosophie 。我々はその哲学を後ろに引き摺っているのだ、前世紀(19世紀)の初めから、ボロボロになった習慣として。あの哲学オタクとは、むしろこの問いに遭遇しないようにその周りを踊る方法にすぎない。この問いとは、真理についての唯一の問いである。それは、死の本能 l'instinct de mort と呼ばれるもの、フロイトによって名付けられたもの、享楽の原マゾヒズムmasochisme primordial de la jouissance …。全ての哲学的パロールは、ここから逃げ出し、視線を逸らしている。(Lacan, Le séminaire, Livre XIII, L’objet de la psychanalyse, inédit)

 ラカンの《対象aは穴である l'objet(a), c'est le trou》( Lacan, S16, 27 Novembre 1968)とは、対象aは、厳密さを期さずに言ってしまえば、「世界の闇」ということである。

そしてその穴としての闇、すなわち深淵を《おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返す。》(ニーチェ『善悪の彼岸』146番)

私は欲動の現実界 réel pulsionnel を穴の機能 la fonction du trou に還元する。欲動は身体の空洞 orifices corporels に繋がっている。誰もが思い起こさねばならない、フロイトが身体の空洞 l'orifice du corps の機能によって欲動 la pulsionを特徴づけたことを。(Lacan, à Strasbourg le 26 janvier 1975 en réponse à une question de Marcel Ritter
我々はあまりにもしばしば混同している、欲動が接近する対象について。この対象は実際は、空洞・空虚の現前 la présence d'un creux, d'un vide 以外の何ものでもない。フロイトが教えてくれたように、この空虚はどんな対象によっても par n'importe quel objet 占められうる occupable。そして我々が唯一知っているこの審級は、喪われた対象a (l'objet perdu (a)) の形態をとる。対象a の起源は口唇欲動 pulsion orale ではない。…「永遠に喪われている対象objet éternellement manquant」の周りを循環する contourner こと自体、それが対象a の起源である。(ラカン、S11, 13 Mai 1964)

※付記:上にラカンが言っているように対象aには両義性がある。

対象a の根源的両義性……対象a は一方で、幻想的囮/スクリーンを表し、他方で、この囮を混乱させるもの、すなわち囮の背後の空虚 void をあらわす。(Zizek, Can One Exit from The Capitalist Discourse Without Becoming a Saint? ,2016, pdf)



2016年1月15日金曜日

Acheronta movebo 冥界を動かせ!

【アンダーグランドの手記】
 ところで諸君、きみらが聞きたいと思うにしろ、思わないにしろ、僕がいま話したいと思うのは、なぜぼくが虫けらにさえなれなかったか、という点である。まじめな話、ぼくはこれまで何度虫けらになりたいと思ったか知れない。しかし、ぼくはそれにすら値しない人間だった。誓っていうが、諸君、あまりに意識しすぎるのは、病気である。(ドストエフスキー『地下室の手記』)
四十三歳の時、偶然仏訳を手にしたドストエフスキイの「地下室の手記」、この三番目の書を読んだ当時の手紙で、彼は昂奮して書いている、他に言いようがないから言うのだが、これは私を歓喜の頂まで持って行った血の声だと言う。(小林秀雄「ニーチェ雑感」)


 【血まみれの頭が飛び出す闇夜】
人間存在は、この夜、その単純さの中にすべてを包含しているこの空無である。そこには表象やイメージが尽きることなく豊富にあるが、そのどれ一つとして人間の頭に、あるいは彼の眼前にあらわれることはない。この夜。変幻自在の表象の中に存在する自然の内的な夜。この純粋な自己。そこからは血まみれの頭が飛び出し、あちらには白い形が見える。(……)人は他人の眼を覗き込むとき、この夜を垣間見る。世界の夜を対立の中に吊るす、恐ろしい夜。(ヘーゲル『現実哲学』草稿)

…………

◆ニーチェ『道徳の系譜』より(いくらか区分けして小題をつけているが、一連の文章である)。


【地上という地下室】
地上においてどんな風にして理想が製造されるかという秘密を、少しばかり見下ろしたいと思う者が誰かあるか。その勇気をもっている者が誰かあるか…… よろしい! ここからはその暗い工場の内がよく見える。わが物好きの冒険家君よ、暫く待ちたまえ。貴君の眼は、まずこのまやかしのちらちらする光に慣れなければならない…… そうか! ではよろしい! さあ、話してみたまえ! 下では何が起こりつつあるのか。最も危ない物好き屋君よ、貴君の眼に映る事柄を話してみたまえーー今度は私が聴き役だ。――

――「何も見えません。それだけによく聞こえます。用心深い、陰険な、低い囁きと呟きがあらゆる隅々から聞えてきます。私にはごまかしを言っているように思われます。どの声もすべて猫撫声です。弱さを嘘でごまかして手柄に変えようというのですーー確かにそうに違いありませんーー全くあなたのおっしゃるとおりです。」


【美しい魂の猫撫声】
――それから!

――「そして返報をしない無力さは『善さ』に変えられ、臆病な卑劣さは『謙虚』に変えられ、憎む相手に対する服従は『恭順』(詳しく言えば、この服従の命令者だと奴らが言っている者に対する恭順、――奴らはこれを神と呼んでいます)に変えられます。弱者の事勿れ主義、弱者が十分にもっている臆病そのもの、戸口に立って是が非でも待たなければならないこと、それがここでは『忍耐』という立派な名前になります。そしてこれがどうやら徳そのものをさえ意味しているようです。『復讐をすることができない』が『復讐をしたくない』の意味になり、恐らくは寛恕さえも意味するのです(『かれらはその為すところを知らざればなりーーかれらの為すところを知るはただわれらのみ!』)。その上、『敵への愛』を説きーーそしてそれを説きながら汗だくになっています。」


【贋金造りども】
――それから!

――「すべてこららの陰謀家や隠れ場の贋金造りどもは惨めです。それは疑いありません。奴らは一緒に蹲まって温まり合ってはいるのですけれどーーしかし奴らの言うところによりますと、奴らの惨めさは神意によって選ばれた特別の扱いであって、一番可愛がられる犬が打ちゃく(手偏+鄭)されるのと変わりがない。恐らくこの惨めさもまた一つの準備、一つの試練、一つの訓練なのだろう。のみならず恐らくーーやがては償われ、莫大な利子を附けて、黄金で、いや幸福で払い渡される代物なのだろう、というのです。それを奴らは『至福』と呼んでいます。」


 【わるい空気です! わるい空気です!】
――それから!

――「今度は、私にこんなことを仄めかします。奴らはその唾を舐めていなければならない(恐怖からではない、断じて恐怖からではない! むしろ、神がおよそお上〔かみ〕を敬えと命じたまうたからだ)あの地上の有力者、支配者たちより、単により善いばかりではない。――単に『より善い』ばかりでなく、更に『より幸福』でもある。少なくともいつかはより幸福になるだろう、と。だが、もう沢山です! もう沢山です! もう我慢ができません。わるい空気です! わるい空気です! 理想が製造されるこの工場はーー真赤な嘘の悪臭で鼻がつまりそうに思われます。」


【最も欺瞞に充ちている窖の獣ども】
――だめだ! もう暫く! 貴君はあらゆる黒いものから白いものを、乳液やら無垢を作り出すあの魔術師たちの出世作についてまだ何も話さなかった。――貴君は奴らの《精巧な》仕上げ、奴らの最も大胆な、最も細微な、最も巧妙な、最も欺瞞に充ちている窖の獣どもーー奴らがほかならぬ復讐と憎悪から果たして何を作り出すか。貴君はかつてこんな言葉を聞いたことがあるか。貴君が奴らの言葉だけに信頼していたら、貴君は《反感〔ルサンチマン〕》をもつ人間どもばかりの間にいるのだということに感づくであろうか……

――「わかりました。もう一度耳を欹てましょう(ああ! これは! どうだ! 鼻をつまもう)。奴らがすでに幾たびとなく繰り返したあの言葉が今やっと聞えます。『われわれ善き者――そのわれわれこそ正しき者だ』と。奴らの欲するもの、それを奴らは報復と呼ばず、却って『正義の祝勝』と呼びます。奴らの憎むもの、それは奴らの敵ではないのです。そうです! 奴らは『不正』を憎み、『背神』を憎むのです。奴らが信じかつ望むもの、それは復讐への希望、甘美な復讐(――『蜜より甘き』とすでにホメロスが呼んだ)の陶酔ではなくして、むしろ『神を無みする者に対する、神の、義しき神の勝利』なのです。奴らにとって愛すべきものとして地上に残されているもの、それは憎悪における同胞ではなくして、むしろ『愛における同胞』であり、奴らの言うところによれば、地上におけるすべての善くかつ正しい者なのです。」


【 もう沢山だ! もう沢山だ!】
――では、奴らにとってこの世のあらゆる苦しみに対する慰めとなるもの、奴らが幻に描いて当てにしている未来の至福――、それを奴らは何と呼んでいるか。

――「どうでしょうか。私の耳に間違いないでしょうか。奴らはそれを『最後の審判』、自分らの国、すなわち『神の国』の到来と言っています。――しかも奴らは、それまでの間は『信仰に』、『愛に』、『希望に』生きるのです。」

――もう沢山だ! もう沢山だ! (ニーチェ『道徳の系譜』第一論文「善と悪」・「よいとわるい」)

…………

【フロイトによる精神分析とニーチェの洞察の近似性の指摘】
私は思弁のみに身を任せてしまったのではなく、逆に分析による資料を重視し、臨床的な技法的テーマを取り扱うことをやめなかった。私は哲学に近づくことは避け、大切な点ではフェヒナーに頼ることにしていた。精神分析がショーペンハウアーの哲学と広汎な一致があるとしても(彼は感情の優位性と性愛の意義を重視し、抑圧のメカニズムも知っていた)、私が彼の本を読んだのはずっと後になってからだ。ニーチェの洞察も精神分析の成果と驚くほど合致するのだが、だからこそ公正さを保持するために避けてきた。(フロイト『自己を語る』1925)


【精神分析など知りたくないという防衛】
ラカン理論に固有の難解な特徴は、その典型的に抽象的なスタイルにあるとされる。これは部分的にしか正しくない。誤解の真の原因は、むしろ粘り強い、防衛的な「知りたくないnot-wanting-to-know」にある。というのは、彼の理論は、われわれの仕事の領域だけではなく、まさに人生の生き方においてさえ、数多くの確信を揺らつかせるので、これが概念上の孤立無援を齎している。(Paul Verhaeghe, On Being Normal and Other Disorders A Manual for Clinical Psychodiagnostics 私訳)

ーーその能力の差はあるのかもしれない、そしてそのスタイルへの違和がある人もあるだろう、また一時期似非精神分析的言説が溢れ返ったための嫌悪もあるのかもしれない。だが、現在、ドストエフスキー、ヘーゲル、ニーチェ、フロイト、ラカン系譜の仕事をまともにやっている稀な人物のひとりはジジェクだろう。多くの「思想家」は、相変らず「知りたくない」の態度を保ったままだ。


◆Tolerance as an Ideological Category ,2007,Slavoj Zizekより(私訳


【闇の奥】
…こうして我々は慣習の「闇の奥」に至ることになる。思い起こしてみよう、カトリック教会を掻き乱すペドフィリアのおびただしい事例を。その代理人たちは、これらの事例はひどく嘆かわしいが、教会内部の問題であると主張し、その取り調べにおいて、警察との共同捜索にひどく気が進まない様子だ。

彼らはある意味では正しい。カトリック神父の小児性愛は、単にその「人物」に関わる何かではない。組織としての教会に無関係な私的履歴による偶発的な理由せいで、たまたま神父という職業を選ぶことになったのではない。

それは、カトリック教会それ自体にかかわる現象、社会-象徴的組織としてのまさにその機能に刻印されている現象である。個人の「私的な」無意識にかかわるのではなく、組織自体の「無意識」にかかわるものなのだ。ペドフィリアは、組織が生き残るために、性的衝動生活の病理上現実に適応しなければならない何かではない。そうではなく、組織自体が自らを再生するために必要な何かである。


 【ペドフィリア生産装置としての教会】
人は充分に想像できるだろう、「ストレートな」(非小児性愛者の)神父が、その職を何年か勤めた後、小児性愛に溺れこむことを。というのは、組織の論理そのものが彼をそうするように誘惑するから。このような組織的無意識は、猥褻な否認された裏面を示している。まさに否認されたものとして、それは公的組織を支えているのだ(軍隊におけるこの裏面は、性的虐待などの猥褻な性化された儀式で成り立っており、それが集団の連帯を支えている)。

言い換えれば、単純にはこうではない。すなわち、教会は、体制順応主義者的な理由で、当惑させられるペドフィリア醜聞をもみ消そうとするのではない。(逆に)自身を守るとき、教会は内密の猥褻なな秘密を守ろうとしているのだ。これが意味するのは、この秘かな面に自身を同一化することが、キリスト教神父のまさにアイデンティティの構成物であるということだ。もし神父が深刻に(ただの修辞的な深刻さではなく)これらの醜聞を非難したら、彼は聖職コミュニティから締め出される。彼はもはや「我々の一員」ではない(1920年代の米国南部のある町の市民と全く同じように、である。もし市民が、クー・クラックス・クラン(黒人排斥の白人史上主義秘密結社)を警察に告発したら、彼はコミュニティから締め出された。すなわち基本的連帯の裏切者になった)。


 【敢えて地下室を動かせ!】
したがって、スキャンダルの捜索にひどく気の進まない教会への応じ方は、「我々は犯罪事例を扱っている」とただ難詰するのみにすべきではない。そうではなく、もし教会がその捜索に十分に参加しないなら、犯行の共犯者であると応じるべきだ。さらに、組織としての教会「それ自体」が取り調べを受けるべきだ。あのような犯罪への条件をシステム的に作った仕方に関しての取り調べである。

慣習の猥褻なアンダーグランドは、実に変えるのが困難なものだ。この理由で、すべてのラディカルな解放策は、 フロイトが夢解釈にとっての標語として選んだ Virgil からの引用文と同じである。すなわち「Acheronta movebo(冥界を動かす)」ーー、敢えてアンダーグランドを動かせ!

途中、軍隊における「冥界」について触れている箇所があるが、より詳しくは「拷問とイニシエーション儀式」を見よ。


…………

ところで、なぜ組織自体の「無意識」、その慣習の猥褻な冥界が生まれるのだろう。その直接的な説明ではないが、ヒントのひとつは下記のいくつかの文章にある。


【原始的集団的情緒の昂揚と思考の制止】
集団内部の個人は、その集団の影響によって彼の精神活動にしばしば深刻な変化をこうむる(……)。彼の情緒は異常にたかまり、彼の知的活動はいちじるしく制限される。そして情緒と知的活動と二つながら、集団の他の個人に明らかに似通ったものになっていく。そしてこれは、個人に固有な衝動の抑制が解除され、個人的傾向の独自な発展を断念することによってのみ達せられる結果である。この、のぞましくない結果は、集団の高度の「組織」によって、少なくとも部分的にはふせがれるといわれたが、集団心理の根本事実である原始的集団における情緒の昂揚と思考の制止という二つの法則は否定されはしない。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)


【死の欲動のゼロ度】
……フロイト自身、ここでは、あまりにも性急すぎる。彼は人為的な集団(教会と軍隊)と“退行的な”原始集団――激越な集団的暴力(リンチや虐殺)に耽る野性的な暴徒のような群れ――に反対する。さらに、フロイトのリベラルな視点では、極右的リンチの群衆と左翼の革命的集団はリピドー的には同一のものとして扱われる。これらの二つの集団は、同じように、破壊的な、あるいは無制限な死の欲動の奔出になすがままになっている、と。フロイトにとっては、あたかも“退行的な”原始集団、典型的には暴徒の破壊的な暴力を働かせるその集団は、社会的なつながり、最も純粋な社会的“死の欲動”の野放しのゼロ度でもあるかのようだ。(ZIZEK、LESS THAN NOTHING』、2012、最終章(「CONCLUSION: THE POLITICAL SUSPENSION OF THE ETHICAL」より、私訳)


【集団形成の善悪両面】
集団の道義を正しく判断するためには、集団の中に個人が寄りあつまると、個人的な抑制がすべて脱落して、太古の遺産として個人の中にまどろんでいたあらゆる残酷で血なまぐさい破壊的な本能が目ざまされて、自由な衝動の満足に駆りたてる、ということを念頭におく必要がある。しかしまた、集団は暗示の影響下にあって、諦念や無私や理想への献身といった高い業績をなしとげる。孤立した個人では、個人的な利益がほとんど唯一の動因であるが、集団の場合には、それが支配力をふるうのはごく稀である。このようにして集団によって個人が道義的になるということができよう(ルボン)。集団の知的な能力は、つねに個人のそれをはるかに下まわるけれども、その倫理的態度は、この水準以下に深く落ちることもあれば、またそれを高く抜きんでることもある。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)


【人為的な”集団を維持するための猥雑な補充物】
“退行的な”原始集団は最初に来るわけでは決してない。彼らは人為的な集団の勃興の“自然な”基礎ではない。彼らは後に来るのだ、“人為的な”集団を維持するための猥雑な補充物として。このように、退行的な集団とは、象徴的な「法」にたいする超自我のようなものなのだ。象徴的な「法」は服従を要求する一方、超自我は、われわれを「法」に引きつける猥雑な享楽を提供する。(同ジジェク)

ーー楽しみを強制するものはない、超自我を除いて。超自我は享楽の命令である。「楽しめ!」(ラカン『セミネールⅩⅩ アンコール』)

Rien ne force personne à jouir, sauf le surmoi. Le surmoi c'est l'impératif de la jouissance : « jouis ! »(Lacan, Seminar XX)


…………

以下は別の記事にしようと思ったもので、上での話題とはそれほど関係がない(曖昧なままなので、敢えて別に投稿せず、ここに掲げる)。


しかしそれでは、享楽はどこから来るのか? 〈他者〉から、とラカンは言う。〈他者〉は今異なった意味をもっている。厄介なのは、ラカンは彼の標準的な表現、「〈他者〉の享楽」を使用し続けていることだ、その意味は変化したにもかかわらず。新しい意味は、自身の身体を示している。それは最も基礎的な〈他者〉である。事実、我々のリアルな有機体は、最も親密な異者である。

ラカンの思考のこの移行の重要性はよりはっきりするだろう、もし我々が次ぎのことを想い起すならば。すなわち、以前の〈他者〉、まさに同じ表現(「〈他者〉の享楽」)は母-女を示していたことを。

これ故、享楽は自身の身体から生じる。とりわけ境界領域から来る(口唇、肛門、性器、目、耳、肌。ラカンはこれを既にセミネールXIで論じている)。そのとき、享楽にかかわる不安は、基本的には、自身の欲動と享楽によって圧倒されてしまう不安である。それに対する防衛が、母なる〈他者〉the (m)Otherへの防衛に移行する事実は、所与の社会構造内での、典型的な発達過程にすべて関係する。

我々の身体は〈他者〉である。それは享楽する。もし可能なら我々とともに。もし必要なら我々なしで。事態をさらに複雑化するのは、〈他者〉の元々の意味が、新しい意味と一緒に、まだ現れていることだ。とはいえ若干の変更がある。二つの意味のあいだに汚染があるのは偶然ではない。一方で我々は、身体としての〈他者〉を持っており、そこから享楽が生じる。他方で、母なる〈他者〉the (m)Otherとしての〈他者〉があり、シニフィアンの媒介としての享楽へのアクセスを提供する。実にラカンの新しい理論においては、主体は自身の享楽へのアクセスを獲得するのは、唯一〈他者〉から来るシニフィアン(「徴づけmarkings」と呼ばれる)の媒介を通してのみなのである。これが説明するのは、なぜ母なる〈他者〉the (m)Otherが「享楽の席the seat of enjoyment」なのか、その〈他者〉に対して防衛が必要なのに、についてである。(PAUL VERHAEGHE, New studies of old villains 2009、私訳)

あくまで参考であり、今掲げたヴェルハーゲとジジェクとのあいだにはたとえば欲動についての考え方は(少なくとも一読は)異なる、→「フロイトの欲動二元論と一元論をめぐって

二人はある時期まで(すくなくとも2002年頃くらいまでは)互いに褒め合っていた。

たとえば、前世紀末にヴェルハーゲの書のひとつが英訳にて上梓されたが、それに対するジジェクの書評はかくの如し。

◆Does the Woman Exist? From Freud's Hysteric to Lacan's Feminine By Paul Verhaeghe

“A miraculous answer to the confusions surrounding Freud's and Lacan's theory of feminine sexuality . . . After reading this book, it should be clear that, far from being outdated, the psychoanalytic approach to feminine sexuality enables us to find our way in the . . . deadlocks of our allegedly ‘permissive' postmodern society . . . A must for anyone who wants to grasp what psychoanalysis has to say today.” – Slavoj Žižek

二人の「蜜月」が終った契機のひとつは、欲動、あるいは享楽の解釈の相違が決定的だろうとわたくしは見る。それはラカンのセミネールⅩⅩからⅩⅩⅢにかけての移行をどう読むかにもかかわる。

最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoensと Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 ( Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesa)
われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』2012ーー「超越論的享楽(Lorenzo Chiesa)」)。

臨床的ラカン派ヴェルハーゲとは異なり、哲学的ラカン派ロレンツォ・キエーザは2002年の時点で、ヴェルハーゲの論文を含むラカンのサントーム理論解釈をまとめたLuke Thurstonによる論文集書評で次のように記している。

one has to underline how the jouissance of the barred Other differs from phallic jouissance without being "beyond" the phallus.(Lacan Le-sinthome(Re-inventing the Symptom - Essays on the Final Lacan, edited by Luke Thurston, New York: Other Press, 2002) by Lorenzo Chiesa、PDF

この書評にはヴェルハーゲ批判もある。主にラカンの「サントームとの同一化」の捉え方である(ただしわたくしには、その批判はやや酷だと思えるが、その内容には今は触れない)。もっと決定的なのは享楽が“beyond the phallus” なのかそうでないのかの点だろう。このあたりはわたくしには曖昧なままである。そのときの核心のひとつは内容と形式の相違である。形式としてファルスの彼岸に残っているものを、「ファルスの彼岸」と言ってはまずいのだろうか?

幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説(中井久夫ーー「現実界とはゼロのことである」)

この文は、「享楽は内容としては消去されたが、享楽のシステム自体は残存し、象徴界の非一貫性との直かの遭遇の際に顕在化して働く」と変奏できる。

私たちは成人文法性成立以前の記憶には直接触れることができない。本人にとっても、成人文法性以前の自己史はその後の伝聞や状況証拠によって再構成されたものである。それは個人の「考古学」によって探索される「個人的先史時代」である。縄文時代の人間の生活や感情と同じく、あて推量するしかない。これに対して成人文法性成立以後は個人の「歴史時代」である。過去の自己像に私たちは感情移入することができる。(中井久夫「外傷性記憶とその治療ーー 一つの方針」初出2003年『徴候・記憶・外傷』所収)

享楽、あるいは現実界は「先史時代」であり「考古学」の対象、象徴界は「歴史時代」、つまり「歴史学」の対象であるとすれば、「先史時代」がないと言ってよいものだろうか・・・

ーーこれらの享楽は現実界とも言い換えられる。そしていまはこの二つの概念の相違は曖昧なままにしておく。ジジェクの簡潔な言い方なら次の通り。

現実界としての享楽は失われている。というのは、象徴秩序に住む人びとは決して直接には与えられない等々だから。しかしながら、享楽のまさに喪失がそれ自身の享楽、剰余享楽(plus‐de‐jouir)を生む。だから享楽は同時に、常に既に失われている何かであり、かつまたそれから決して免れえない何かである。フロイトが反復強迫と呼んだものは、この根源的に曖昧な現実界の地位に基づいている。それ自体を反復する何かが、現実界自体である。そしてそれはまさに最初から失われており、何度も何度も回帰して、しつこく己れを主張し続ける。(ジジェク、2012、私訳)

なおかつ中井久夫の文の変奏も、「原トラウマ」ーー、ヴェルハーゲの言い方なら「構造的トラウマ」(システム的トラウマ)ーーをそのまま享楽と同じものとはできないことは十分承知の上での変奏である)。

トラウマは常に性的な特質をもっている。もっとも「性的」というシニフィアンは、「欲動と関係するもの」として理解されなければならない。(……)我々の誰もが、欲動と心的装置とのあいだの構造的関係のために、性的トラウマ(構造的トラウマ)を経験する。我々の何割かはまた事故的トラウマaccidental traumaを、その原初の構造的トラウマの上に、経験するだろう。(Paul Verhaeghe、TRAUMA AND PSYCHOPATHOLOGY IN FREUD AND LACAN Structural versus Accidental Trauma,2001)

ーーJENSEITS DES PHALLUS?

Jenseits des Lustprinzips(快原理の彼岸)?
Jenseits von Gut und Böse(善悪の彼岸)?

「善悪」の彼岸…… あれは少なくとも「よい・わるいの彼岸」ということではないのだ。--(ニーチェ『道徳の系譜』)

ロレンツォ・キエーザは、上の書評を記した頃から「ジジェク組」となっている(参照:Slavoj Žižek: "The Animal Doesn't Exist" (respondent: Lorenzo Chiesa)

(ロレンツォよ! 名前が致命的だよ、きみは。教会 chiesa のロレンツォだって?)


ヴェルハーゲの「先史時代」をめぐる考え方は次ぎの通り。

要約しよう。このトラウマに関するラカン理論は次の如くである。欲動とはトラウマ的な現実界の審級にあるものであり、主体はその衝動を扱うための十分なシニフィアンを配置できない。構造的な視点からいえば、これはすべての主体に当てはまる。というのは象徴秩序、それはファリックシニフィアンを基礎としたシステムであり、現実界の三つの諸相のシニフィアンが欠けているのだから。この三つの諸相というのは女性性、父性、性関係にかかわる。Das ewig Weibliche 永遠に女性的なるもの、Pater semper incertuus est 父性は決して確かでない、Post coitum omne animal tristum est 性交した後どの動物でも憂鬱になる。これらの問題について、象徴秩序は十分な答を与えてくれない。ということはどの主体もイマジナリーな秩序においてこれらを無器用にいじくり回さざるをえないのだ。これらのイマジネールな答は、主体が性的アイデンティティと性関係に関するいつまでも不確かな問いを処理する方法を決定するだろう。別の言い方をすれば、主体のファンタジーが――それらのイマジネールな答がーーひとが間主観的世界入りこむ方法、いやさらにその間主観的世界を構築する方法を決定するのだ。この構造的なラカンの理論は、分析家の世界を、いくつかのスローガンで征服した。象徴秩序が十分な答を出してくれない現実界の三つの諸相は、キャッチワードやキャッチフレーズによって助長された。La Femme n'existe pas, 〈女〉は存在しない、L'Autre de l'Autre n'existe pas, 〈他者〉の〈他者〉は存在しない、Il n'y a pas de rapport sexuel,性関係はない。結果として起こったセンセーショナルな反応、あるいはヒステリアは、たとえば、イタリアの新聞はラカンにとって女たちは存在しないんだとさ、と公表した、構造的な文脈やフロイト理論で同じ論拠が研究されている事実をかき消してしまうようにして。たとえば、フロイトは書いている、どの子供も、自身の性的発達によって促されるのは、三つの避け難い問いに直面することだと。すなわち母のジェンダー、一般的にいえば女のジェンダー、父の役割、両親の間の性的関係。(Paul Verhaeghe ”TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN ”ーー「ラカンにおける特殊相対性理論から一般相対性理論への移行」より)



2015年11月13日金曜日

言説の横断と愛の徴

…ce discours psychanalytique, y'en a toujours quelque émergence à chaque passage d'un discours à un autre.t……l'amour c'est le signe de ce qu'on change de discours (Lacan,Séminaire ⅩⅦ Staferla 版 P.33)



セミネールアンコールの第二章で、ラカンはわたしたちに教えてくれます、ひとは毎度ひとつの言説から他の言説に移ることを。そのときなのです、分析家の言説が現われるのは。対象a から $ への決意を掴み取る可能性としての分析家の言説です。アンコールの同じパラグラフで、ラカンはこう教えています、言説のどの横断もまた愛の徴だ、と。その考え方とともに、あとはよろしく!(ポール・ヴェルハーゲ,1995、私訳

…………

人はそのつど言説を変えている。いや変えなくては、分析家の言説はあらわれない。

分析家の言説? なんだ、それは。

ーー何も精神分析治療の話をしたいわけではない。分析家の言説とは、究極的には、〈あなた〉が、以前には知られていなかった〈あなた〉自身の存在に遭遇することである。

…………

言説とは、まずは間主体的な発話行為の「形式」であり、その言説の場に置かれれば、自らがどう思っていようと、必然的にある言説の「場」を占める。

個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。(マルクス『資本論』第一巻「第一版へのまえがき」)

ここでラカンが後年示した斜交いの矢印をふくめた四つの言説の基盤にある形式的構造の説明を示しておこう。


Serge Lesourd は次ぎのようなとても簡明な解釈をしている。

話し手は他者に話しかける(矢印1)、話し手を無意識的に支える真理を元にして(矢印2)。この真理は、日常生活の種々の症状(言い損ない、失策行為等)を通してのみではなく、病理的な症状を通しても、間接的ではありながら、他者に向けられる(矢印3)。

他者は、そのとき、発話主体に生産物とともに応答する(矢印4)。そうして生産された結果は発話主体へと回帰し(矢印5)、循環がふたたび始まる。 (Lesourd, S. (2006) Comment taire le sujet? )


さてもとの文脈にもどれば、たとえばヒステリー者がヒステリーの言説をつねに話すわけではない。ときに主人、ときに大学人の言説を話す。

ところでどうやって言説を移行させるのか。

技法的にいえば、主人の言説ーー言説構造の基本であり、四つの言説の基盤である形式的構造と重なるーーにおけるシニフィアンの動き(S1-S2)において必然的に生じてしまう剰余としての対象aの位置を変えて言説を転回する、というふうに捉え得る。

具体的にいえば、ある人が他人から質問を受けるとする。問いとはヒステリーの言説であり、その受け手は、構造的には、主人の場に立たされる($ → S1)。すなわち質問の受け手は、S1だ。

そのままS1として語れば、S1 → S2 という主人の言説になる。これは構造的には、主人→奴隷の言説だ。

それを大学の言説に移行させるとは、欲望の原因 a に向けて語るということだ(S2 → a )。その a を真理のポジションにもってくれば(抑圧され隠蔽された真理として扱うということ)、ヒステリーの言説になる。



ーーたとえば家族の会話を思い浮かべよ。息子は父へ向けて何かを問う。これは構造的には $ → S1だ。父が息子の問いにシンプルに応じれば、どうしても手始めは「主人の言説」(S1 → S2、つまり主→奴)になりがちだ。それを移行させるにはどうしたらよいか、と。

aの位置を移行させて、息子を欲望の原因(あるいは飼い馴らされていない主体 a)として扱えば、大学人の言説になる(S2 → a)。

そしてこれはジジェク流の捉え方だが、自らを欲望の原因 a として差し出して分裂した主体 $ に向ければ、分析家の言説の変種である倒錯者の言説になる。

倒錯の言説の公式は、分析家の言説の公式と同じである。ラカンは倒錯をひっくり返した幻想として定義した。ラカンによる倒錯の公式は a – $ であり、それはまさに分析家の言説の上部にある。

倒錯者と分析家の社会的紐帯 social link のあいだの相違は、ラカンにおける対象a の根源的な両義性に根ざしている。対象a は、イマジネール・幻想的な囮/スクリーンでもあれば、この囮が曖昧化されたもの、囮の背後にある空虚であったりする。

こういうわけで、我々が倒錯から分析家の社会的紐帯へと移行するとき、エージェント(分析家)は自身を空虚に還元する。空虚、すなわち主体を彼の欲望の真理に直面するように誘い込む空虚である。(ラカンの「四つの言説」における「機能する形式」(ジジェク)


いずれにせよ、みずからの置かれたポジションをふり返ってみること。そしてそのポジションを移行させてみること。これはユーモア的態度をとるということでもある。

ユーモアとは、同時に自己であり他者でありうる力の存することを示すこと。(ボードレール)

ユーモアとは笑いとは関係がない。

ヒューモアとは、フロイトがいうように「精神的姿勢」であって、むしろ「笑い」とは関係がない。たぶん、われわれにとって、子規の『死後』を読んで笑うことは難しい。しかし、ある条件のもとでは、それがひとを笑わせることはあるだろう。たとえば、ソクラテスの死に立ち会ったとき、弟子たちは笑いをこらえることができなかったといわれる。また、カフカが『審判』を読み上げたとき、聴衆は笑いころげ、カフカ自身も笑いころげたという(ドゥルーズ『サドとマゾッホ』)。子規の友人たちもあのエッセイを読んで笑いころげたかもしれない。そうだとしたら、それは、彼らがそこに「同時に自己であり他者でありうる力」を感じとったからである。(柄谷行人『ヒューモアとしての唯物論』)

ユーモアとは、横にずれることだ。ラカンによる言説の移行のすすめとは、ユーモア的な「精神的姿勢」としても捉え得る。かつまた、それは超越的(イロニー的)ではなく、超越論的(ユーモア的)である。

他の人間が夢をみているだけだから眼ざめさせねばならぬと考える者、つまり自らを”超越的”な立場にあるとみなす者こそ、夢をみているだけなのだ。デカルトは、そのような人々の間にまじって「真理」を説くことを回避したが、というのも、彼の懐疑は、どのような共同体(システム)にを属さない空=間においてしか根拠がなかったからである。それは、さまざまな真理を幻想とみなすメタレベルではありえない。

夢のなかで夢をみていることを自覚しても、なおひとが夢をみていることには変わりない。デカルトは、ひとが完全にめざめる(夢の外部に出る)ことができるなどとは考えない。つまり、彼は超越的立場を斥ける。彼の方法は、カントやフッサールの用語でいえば、超越論的なのである。超越論的な方法によってしか、幻想を幻想とみなす、逆にいえば真理を基礎づけることはできない。が、超越論的とは、上方や下方に向かうことではない。それはいわば横に出ることだ。(柄谷行人『探求Ⅱ』)

たとえば、身近なところではツイッターでの発話。えんえんと同じ言説で語るのではなく、--これはマジメなインテリなどにたまに見られる、彼らはえんえんと大学人の言説で語っているーー自らの発話の形式を振りかえってみること。わずか140字のなかでさえ、その言説構造を前半と後半で移行させることさえできる。

ラカンはセミネールⅩⅦで、ヘーゲルの例を出して、ヘーゲルはヒステリーの言説だとか、大学人の言説だとか、はてさて主人の言説だとか、あれやこれやと言っている。なんだ、いい加減にしてくれよ、いったいヘーゲルのスタイルはなんなのだ、と言いたくなる。

そのラカンの首尾不一貫性ぶりをジジェクは次ぎのように説明している。

Spinoza, Kant, Hegel and... Badiou! Slavoj Zizek より

ラカンはセミネールXVII(精神分析分析の裏面)で、いっけん非一貫的な叙述をしている。最初はヘーゲルを「最も崇高なヒステリー者」とし、数頁のちに、典型的な主人の形象とする。そして最後に、何十頁もあとで、大学人の言説のモデルとしている。ーーそして各々の叙述が、それ自身の用語において、いかに正当化されているのかを見ることができる。

①大学人の言説:ヘーゲルのシステムは、個別の話題をそれ自身の正当な場に配置しつつの、あらゆるものを網羅する普遍的知の究極の事例だ。

②主人の言説:もし哲学の歴史において、聳え立つ主人の形象があるなら、それはヘーゲルだ。

③ヒステリーの言説:そしてヘーゲルの弁証法的な一連の処理方法は、半永久的なヒステリー化として最もよく決定づけられる。すなわち、ヘゲモニーを握った主人の形象へのヒステリー的な絶えざる問いとして。

とすればこれらの三つのポジションのどれが、「本当の」ヘーゲルなのか? 答は明瞭だ。四番目のポジション、分析家の言説だ。(……)

ラカンは主張している、分析家の言説はたんに四つのなかのひとつではない、と。それは同時に、ある言説からほかの言説へと移行するとき現れる(たとえば、主人の言説から大学人の言説へ)。分析家の言説がある言説から別の言説への通り抜け、移行においてまさに位置づけられるのなら、ヘーゲルの本当のポジションーー主人であったり、ヒステリーであったり、大学人の言説のエージェントであったりする彼のポジションは、これらの三つをひっきりなしに通り抜けるポジション、分析家のポジションだろ?


なぜこんなことを考えるのか、ふつうにやったらいいじゃん? --そうだろうな。自然にできている人もいるのだから。その人物はユーモア的(超越論的)態度がふんだんにあるのだよ。

…技術の本があっても、それを読むときに、気をつけないといけないのは、いろんな人があみ出した、技術というものは、そのあみ出した本人にとって、いちばんいい技術なのよね。本人にとっていちばんいい技術というのは、多くの場合、その技術をこしらえた本人の、天性に欠けている部分、を補うものだから、天性が同じ人が読むと、とても役に立つけど、同じでない人が読むと、ぜんぜん違う。努力して真似しても、できあがったものは、大変違うものになるの。(……)

といっても、いちいち、著者について調べるのも、難しいから、一般に、著者がある部分を強調してたら、ああこの人は、こういうところが、天性少なかったんだろうかな、と思えばいいのよ。たとえば、ボクの本は、みなさん読んでみればわかるけれども、「抱える」ということを、非常に強調しているでしょ。それは、ボクの天性は、揺さぶるほうが上手だね。だから、ボクにとっては、技法の修練は、もっぱら、「抱えの技法」の修練だった。その必要性があっただけね。だから、少し、ボクの技法論は、「抱える」のほうに、重点が置かれ過ぎているかもしれないね。鋭いほうは、あまり修練する必要がなくて、むしろ、しないつもりでも、揺さぶっていることが多いので、人はさまざまなのね。(神田橋條治「 人と技法 その二 」 『 治療のこころ 巻二 』 )

…………

さて、ある言説からほかの言説へと移るということは、誰でもやっているが、たとえばポール・ヴェルハーゲは比較的長く大学人の言説を続ける。

だがジジェクはそれに耐えられない。みずからのひどい「超自我的性格」(“I am a sort of superego personality”『ジジェク自身によるジジェク』にすぐさま恥じ入るからだ。

飼い馴らされていないお勉強家の諸君には、大学人の言説で続けてくれるほうがわかりやすいさ。ジジェクのわかりにくさは、言説のたえまない移行にある。

私の深い不信は、ハイデガーのようなパセティックなスタイルだ。私には物事を俗化させたい純然たる強迫がある。その俗化とは、物事を単純化するという意味ではなく、<物>へのパセティックな同一化を崩壊させたいという意味である。だから私は、最も高級な理論から、最も低劣な事例に、唐突に飛ぶのを好むのだ。(『ジジェク自身によるジジェク』2004 私訳)

だからお勉強家の諸君には、不向きなんだよ

でもジジェクの言説の移行を楽しまなくっちゃな。その「楽しみ方」は、パララックス・ヴュー(視差的視点)を取るということだ。

以前に私は一般的人間悟性を単に私の悟性の立場から考察した、今私は自分を自分のでない外的な理性の位置において、自分の判断をその最もいそかなる動機もろとも、他人の視点から考察する。両方の考察の比較はたしかに強い視差を生じはするが、それは光学的欺瞞を避けて、諸概念を、それらが人間性の認識能力に関して立っている真の位置におくための、唯一の手段でもある。(カント『視霊者の夢』ーー括弧入れとパララックス(超越論的態度)(柄谷行人=ジジェク)

いずれにせよ、「イロニーの頂点は真面目であることだ」(シュレーゲル)であり、そこにはユーモアがない。 それとあの連中な、ーー庶民的正義派の連中のツイートというのは、めったに言説の移行がない、

《恋する人とテロリストにはユーモア感覚が欠如している。》(アラン・ド・ボトン『恋愛をめぐる24の省察』)


…………

※附記

【分析家の言説】をめぐって

さて最後の言説、分析家の言説である。これは主人の言説と上下左右が逆転だ。エージェントのポジションには、対象a、欲望の原因がある。この失われた対象が分析家の聞くポジションを基礎づける。それは他者を自らが分割された存在であることを考慮するように余儀なくさせる。この理由で、我々は他者のポジションに分割された主体を見出す(a → $)。

エージェントと他者のあいだのこの関係性は不可能である。というのはそれは分析家を他者の欲望の原因へと変える、つまり主体としての彼を抹殺して、シニフィアンを超えた単なる残余、屑にさえ還元するのだから。

ここにラカンが、分析家であることは不可能であり、あなたができる唯一のことは限られた時間のあいだ誰かにとってそのように機能することだけだ、と明言した理由のひとつがある。対象aから分割された主体へのこの不可能な関係は、転移の展開を基盤とする。転移を通して、主体は彼の対象の周りを廻るencircle his object。これが分析の目的のひとつ、"la traversée du fantasme 幻想の横断"、基本的幻想を通した旅である。

ふつうは、すなわち規範を設置する主人の言説に従えば、主体と対象とのあいだの関係は無意識的であり、不能の乖離 $ // aを構成する。

分析家の言説は、主人の言説を反転することで、この関係性を逆の形で前面にもってくる。不能から不可能へ向かう。 それはひとつの不可能である。とはいえ分析家の言説の効果のなかで探索し得る不可能である。 “Ce qui ne cesse pas de ne pas s'écrireそれは書かれぬことをやめぬもの”なのだ。

この言説の産出物は主人のシニフィアンである。フロイト用語では、その主体にとってエディプス的な決定因的な点determinant particular だ。主体をこの点までもってくるのが分析家の機能である。もっとも逆説的な方法であるが。分析的ポジションは主体としての非-機能を通して機能するのであり、対象のポジションに還元された存在を通して機能するのだから。

これが分析家の言説の最終結果がラディカルな相違がある理由である。見せかけの世界、“ le monde du semblant”、そこでは人は皆ナルシシスティックに相似しているが、その世界を超えて、我々は根源的に異なるようになる。

分析家の言説はひとつの主体を産みだす。分析過程を通して、それ自身を構築したり脱構築したりしながら。他の関係者は踏み石にすぎない。

私に想い起こさせるのは、いくつかの民話や妖精の物語だ。そこでは愛された人、欲望の対象はあれやこれやの理由でもはや話すことができない。そのため主人公は解決策を創造しなければならない。その解決策において、彼は、以前には知られていなかった彼自身の存在に遭遇する。……(「四つの言説」(ラカン)概説(Paul Verhaeghe)

《分析家の言説が「産出する」ものは、主人のシニフィアンである。患者の知の「脱線-逸脱物 swerve」、患者の真理のレヴェルでの知の場にある剰余要素である。主人のシニフィアンが産出されたのち、知のレヴェルではなにも変わらなくてさえ、以前と「同じ」知が異なったモードで機能しはじめる。》(ラカンの「四つの言説」における「機能する形式」(ジジェク)




2015年8月24日月曜日

ラカン派の三種類の他者、あるいはデリダの猫

以下、ほぼ資料の列挙。

唯一ヘーゲルだけである、欲望の根源的で構成的な「再帰性reflexivity」を考慮したのは(欲望とはいつも-すでに欲望の欲望、欲望のための欲望である。すなわちその用語のありとあらゆるヴェリエーションの下の「〈他者〉の欲望」である。私は私の〈他者〉が欲望することを欲望する。私は私の〈他者〉によって欲望されたい。私の欲望は大文字の〈他者〉――私が埋め込まれている象徴的領野――によって構造化されている。私の欲望はリアルな〈他者―モノ〉の深淵によって支えられている)。 (ZIZEK『LESS THAN NOTHING』2012 私訳)

ジジェクはヘーゲリアンとしてこのように言っている。通常、ヘーゲルの他者はイマジネールな(想像的)他者とされてきたが(コジューヴ、ラカンなどによる)、ジジェクは、いやそうではない、ヘーゲルの他者には象徴的な他者もあれば、リアルな他者もあるといっていることになる。

ヘーゲルの他者は欲望する者として主体も同様の欲望をもつことを必要とします。主体から承認を受けるためです。他者が欲するものはaです。ここにあらゆる袋小路の元凶があります。「わたしが対象として承認されるのであれば、そしてこの対象は見てのとおりそもそも意識、自己意識ですから、暴力以外による解決はありえません … ふたつの意識のあいだで裁断を下すことがどうしても必要になる」からです。(……)

何度も指摘してきましたが、倒錯は政治の領域にまで及んでしまうのです。想像界にだけ捕われてそこから出発するとそうなるのです。というのもこう言えば的を得ているでしょう。つまり、奴隷の隷属は影響力大で、これは絶対知にまでも影響を及ぼすのです。言い換えれば、奴隷は世の果てまで奴隷で居続けることになるのです。ヘーゲルさんへマをやらかしました!ヘーゲルの定式の真の姿、これをキルケゴールはちゃんとした形で表します。これはヘーゲルの真理ではなく不安の真理となります。不安こそが分析でいう欲望についての考察へとわれわれを導くのです。(ラカン「不安」のセミネール)

ジジェクによるヘーゲルの他者理解は、とても難解である。それは「否定の否定」にかかわり、わたくしにはいまだ手に負えていない(参照:難解版:「〈他者〉の〈他者〉は外-存在する」(ジジェク=ラカン))。今はただヘーゲル他者の可能性の中心はここにある、--ジジェク解釈ならばーーとだけ言っておく。

さて一般的なヘーゲル他者理解については、たとえば80年代の柄谷行人は次ぎのように説明している。そしていまでもこの理解が標準的だろう。

私はここでくりかえしていう。「意味している」ことが、そのような《他者》にとって成立するとき、まさにそのかぎりにおいてのみ、“文脈”があり、また“言語ゲーム”が成立する。なぜいかにして「意味している」ことが成立するかは、ついにわからない。だが、成立したあとでは、なぜいかにしてかを説明することができるーー規則、コード、差異体系などによって。いいかえれば、哲学であれ、言語学であれ、経済学であれ、それらが出立するのは、この「暗闇の中での跳躍」(クリプキ)または「命がけの飛躍」(マルクス)のあとにすぎない。規則はあとから見出されるのだ。

この跳躍はそのつど盲目的であって、そこにこそ“神秘”がある。われわれが社会的・実践的とよぶものは、いいかえれば、この無根拠的な危うさにかかわっている。そして、われわれが《他者》とよぶものは、コミュニケーション・交換におけるこの危うさを露出させるような他者でなければならない。

この《他者》は、サルトルのいうような他者とは区別されねばならない。後者は、もともと、ヘーゲルの「主人と奴隷」にかんする考察――すなわち自己意識ともう一つの自己意識との相克――に発している。そして、この場合、一つの自己意識ともう一つの自己意識は、互に置きかえ可能であり、同質的なのである。いいかえれば、対称的な関係にある。しかるに、われわれのいう《他者》は、異質であり、われわれが“考えている”ように考えているという保証はない。相克に終始しようと、妥協や和解に終ろうと、そもそも《他者》との間に、「ゲーム」が成立するか否かが不明なのだ。

サルトルは、他者の眼差がわれわれ(対自存在)を凝固させるという。しかし、たとえば猫の眼差ではなぜそうならないのだろうか。そこでは「言語ゲーム」がほとんど成立しないからだ。比喩的にいえば、《他者》は猫に似ているといってよいかもしれない。われわれに時たま関心をよせるかと思えば、まったく無関心であるような猫に。

また、《他者》は、超越的な神、あるいは全知の神の如きものではない。たとえば、神秘的体験において、ひとは、それに対して抗いようのないような神の声を“聞く”。あるいは、強迫的妄想(作為体験)において、ひとは他者の声をありありと聞き、そこからのがれることができない。しかし、そのような他者の声は、実のところ自分の声である。「自分が話すのを聞く」(デリダ)のに、それを「他人が話すのを聞く」かのように受けとっているのだ。その場合、他者に対する通常の“距離”はありえない。その他者は、私をすべて見透しており、私はそこから隠れる余地がない。

ビンスワンガーは、「共同世界から注目されない(見られない、聴かれない、一般的にいえば、捉えられない)ような在り方で実存したいという願望は、私には分裂病的実存様式の根本問題の一つをふくんでいるように思われる」といっている(「精神分裂病」)。そのような患者は、「他者に対して自己を隠そうとする願望」をもちながら、そうすることができない。すべてが見透されているので、自分であることができない。しかし、私が共同世界から隠れられないというのは、私が私自身から隠れられないというのと同じことである。

このような極端な例は、右のような他者が、結局自己意識にほかならないことを示している。他者(神)が全知なのは、私が私の考えていることを知っていることと同じである。しかし、私は私の考えることを知っているのだろうか? というより、「内的な過程」が実在するだろうか?

そのような「聞く立場」の明証性をくつがえすものこそ、《他者》である。《他者》は、私の「心の中」を隈なく見通すどころか、それをまったく疑わしいものとする。ウィトゲンシュタインのもちだす懐疑論者は、そのような《他者》にほかならない。それは、「内省」から出発する、あるいは事後的に見出される規則から出発する思考(哲学)に対する、またその内部で他者や外部を考えてしまう思考に対する、根本的な異議申し立てである。(柄谷行人『探求 Ⅰ』pp.40-42)

柄谷行人解釈のヘーゲル=サルトルの他者理解は黒字強調した通り、「自己意識」とありこれは想像的他者のことである。

ここでの柄谷行人の区分けに従えば、ヴィトゲンシュタインの《他者》がリアルな他者、ヘーゲルの他者がイマジネールな他者、そしてさらに言えばーー厳密さを期さずに敢えて言えば、ということであり、柄谷行人の他者解釈をラカン派の他者概念枠に収めるとすれば、という意味であるーー超越的な神という他者が象徴的他者となるかもしれない(フロイト用語ならヘーゲルの他者が理想自我、神という他者は自我理想か?)。

ジジェクの説明ならこうなる。

<理想自我>は主体の理想化された自我のイメージを意味する(こうなりたいと思うような自分のイメージ、他人からこう見られたいと思うイメージ)。

<自我理想>は、私が自我イメージでその眼差しに印象づけたいと願うような媒体であり、私を監視し、私に最大限の努力をさせる<大文字の他者>であり、私が憧れ、現実化したいと願う理想である。

<超自我>はそれと同じ媒体の、復讐とサディズムと懲罰をともなう側面である。

この三つの術語の構造原理の背景にあるのは、明らかに、<想像界><象徴界><現実界>というラカンの三幅対である。理想自我は想像界的であり、ラカンのいう<小文字の他者>であり、自我の理想化された鏡像である。自我理想は象徴界的であり、私の象徴的同一化の点であり、<大文字の他者>の中にある視点である(私はその視点から私自身を観察し、判定する)。超自我は現実界的で、無理な要求を次々に私に突きつけ、なんとかその要求に応えようとする私の無様な姿を嘲笑する、残虐で強欲な審級……((『ラカンはこう読め』2006)

さてもう一度柄谷行人の文に戻れば、そこには、ヴィトゲンシュタインの《他者》は猫に似ているともある。

ここでデリダの遺著『動物ゆえにわれあり(L’animal que donc je suis)』の猫の話をめぐるジジェクの文を抜き出そう。

……デリダはこのくすんだ「薄明ゾーン」の踏査を、ある種の原光景におけるレポートを以て始める。すなわち、目覚めた後、彼はバスルームで裸になるが、猫がついて来ている。そこで気まずい心持に襲われる瞬間が起こる。それは彼の裸を見詰めている猫の前に立っているという瞬間だ。

この状況に耐えられなく、デリダは腰の周りにタオルをつけて猫を追い払ってからシャワーを浴びる。猫の眼差しは〈他者〉の眼差しーー非人間的眼差しを表す。だがこの理由でいっそうあらゆる深淵的な不可解さをもった〈他者〉の眼差しなのだ。

動物に見られている己れを見ることは〈他者〉の眼差しとの深淵的遭遇である。というのはーーまさに我々の内的経験を動物にたんに投影すべきではないためーー何かが根源的な〈他者〉であるところの眼差しを回帰させているからだ。(ZIZEK,LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

ジジェクは、デリダの猫の眼差しはリアルな他者の眼差しである、と言っていることになる。とすればヴィトゲンシュタインの《他者》と同質なものなのだろうか。それは超越論的、あるいは物自体にかかわるはずだがーーとはいえ柄谷行人によるヴィトゲンシュタインの《他者》の説明はややそれとはニュアンスが異なるようにも感じられるーー、いまは断言は慎んでおく。


ここでジジェクが三つの他者の次元(想像的他者、象徴的他者、リアルな他者)をより詳しく説明している文を抜き出してみよう。

他者をめぐる話題は、他者の想像的〔イマジナリー〕、象徴的〔シンボリック〕、現実界的〔リアル〕側面を目に見えるようにする一種のスペクトル的分析の対象となるはずだ。そうした分析はおそらく、これら三つの次元を結びつけるボロメオの結び目というラカンの概念を説明する究極的な事例となるだろう。

第一に、想像的他者が存在するーー「私に似た」他の人々、競争や相互承認といった鏡像的関係を結ぶ私の同類たちである。

次に、象徴的(大他者)が存在するーーわれわれの社会的存在の実体であり、人間の共存を調整する諸規則の非人称的集合体である。

最後に、<現実的なもの〔リアル〕>としての<他者>、不可能な<モノ>、非人間的パートナー、象徴的<他者>に媒介された対称的な対話など不可能な<他者>、が存在する。

そして、これらの三つの次元がいかにして繋ぎ留められているかを理解することは決定的に重要である。<モノ>としての隣人は次のようなことを意味している。私の似姿、鏡像としての隣人の裏側にはつねに、根源的<他者性>、飼いならすことのできない怪物的<モノ>の計り知れない深淵が潜んでいるということだ。ラカンはこの次元をセミネール第三巻で指摘している。

《どうして〔<他者>を〕大文字のA〔<他者>(Autre)を表す〕とするのでしょうか。言語によって与えられる記号を補足(代補)する記号を導入しなければならないときはいつもそうなのですが、妄想的な[mad]理由があるからです。妄想的な理由とは次のようなものです。「君は僕の妻だ」、これについて皆さんは結局何を知っているのでしょうか。「あなたは私の師だ」、このことについて実際それほど確信が持てますか。これらのことばに創設的な価値を持たせているものは次のことです。つまり、このメッセージにおいて目指されていることはーーそれはメッセージが見せかけの場合でもはっきりしていることですがーー絶対的な<他者>としての他者がそこに存在しているということです。絶対的とは、この他者は再認(recognaized)されてはいるが、知られてはいないということです。同様に、見せかけを見せかけたらしめているもの、それは結局、見せかけか否かを皆さんは知らないということです。発話が他者へと向けられる水準での発話関係を特徴づけているのは、本質的には他者の他性(alterity)に在るこの未知の要素なのです。》

価値を創設することば(the founding word)―――あなたに象徴的な肩書きを与え、そうやってあなたをあなた(妻、師)たらしめる言明――というラカンの概念は、五〇年代初頭から、パフォーマティヴ〔行為遂行的言明〕の理論(ラカンとパフォーマティヴという概念の作者であるJ.L.オースティンとのリンクは、エミール・バンヴェニストだった)の影響を受けたものとして通常は理解されてきた。しかしながら、ラカンがそれ以上のものを目指していることは先の引用から明らかだ。われわれが出会う他者は、想像的似姿であるだけでなく、相互的交換が成り立たない<現実的なモノ>〔Real Thing〕としての、捕らえ所のない絶対的<他者>でもあり、まさしくそうしたことを前提としたときのみ、パフォーマティヴィティ〔行為遂行性〕や象徴的なものの関与〔媒介〕に頼る必要が生じるのである。<モノ>と共存する耐え難さを最小限に抑えるためには、<第三者>としての象徴的秩序、すなわち調停役の媒介者the symbolic order qua Third, the pacifying mediatorが介入しなければならない。<他者―モノ>を飼いならして普通の人間にするには、<他者―モノ>の双方が従う第三の審級the third agencyがまず必要になるーー非人称的な象徴<秩序>なくして、相互主観性(人間同士が共有する対称的な関係)は存在しない。だから、第三項なくして二つの項を結ぶ軸は存在しえないのだ。大文字の<他者>の機能が停止すれば、友好的な隣人は怪物的な<モノ>へと早変わりする(アンティゴネーの場合)。人間的なパートナーとして関係を結べる隣人がいなければ、象徴<秩序>そのものが怪物的な<モノ>となって直接私に寄生する(ダニエル・パウル・シュレーバーの神のように、私を直接支配し、享楽(jouissance)の光線で私を貫く)。象徴的に規制された、他者たちとの日常的交換を下から支える<モノ>がなければ、われわれはハーバマス的宇宙、平板で活気のない〔無菌状態の〕宇宙の住人となる。そこでは、主体は、過剰な情熱から成る傲慢さを奪われ、コミュニケーションという規制されたゲームにおける死んだ駒になってしまう。アンティゴネーーシュレーバーーハーバマス。本当に不気味な三角形だ。(ジジェク『メランコリーと行為』)

《私の似姿、鏡像としての隣人の裏側にはつねに、根源的<他者性>、飼いならすことのできない怪物的<モノ>の計り知れない深淵が潜んでいる》とある。私の似姿、鏡像としての隣人とはイマジネールな他者であり、《根源的<他者性>、飼いならすことのできない怪物的<モノ>の計り知れない深淵》とはリアルな他者である。

これはラカンのボロメオ結びのR(リアル)とI(イマジネール)の重な合いの場所にあるJȺ (jouissance de l'Ⱥutre)もしくはaということになるのだろうか(参照:「享楽について語ろうじゃないか、ボウヤたち!」)





いやそれ以外にもジジェクは《大文字の<他者>の機能が停止すれば、友好的な隣人は怪物的な<モノ>へと早変わりする》としている。とすれば、SとRの重なり場所には、JΦ(jouissance phallique)もしくはaがある。両方の記述を重ね合わせれば、結局対象aにかかわることになる(参照:「対象aの五つの定義(Lorenzo Chiesa)」)。

いや漠然と対象aというよりーー比較的頻繁に使用される語でありながら多くの場合よく理解されているとは思えないーーextimate(外密)やEx-sistenz(外立)と言っておくほうがいいかもしれない。

要するに、私たちのもっとも近くにあるものが、私たちのまったくの外部にあるのです。ここで問題となっていることを示すために「外密extime」という語を使うべきでしょう。(ラカンS16)
おそらく対象aを思い描くに最もよいものは、ラカンの造語"extimate."である。それは主体自身の、実に最も親密なintimate部分の何かでありながら、つねに他の場所、主体の外exに現れ、捉えがたいものだ。(Richard Boothby)
Ex-sistenz のEx はaus,heraus,hinaus を、即ち「外に出る」ことを意味している。ハイデガー自身の説明によればーー「存在の真理のなかに出で立つこと」 Hinausstehen in die Wahrheit des Seins と言い、Das stehen in der Lichtung des Seins nenne ich die Wahrheit des Seinsと言っている。(塚越敏)

※より詳しくは「ラカンのExtimité とハイデガーのExsistenz」を参照。

とはいえ、このボロメオ結びはラカン派内でも納得できる形で説明している論者は稀である。わたくしが漸く見出したジジェクの弟子筋のLorenzo Chiesaに目が覚めるような解釈はあるがいまだ納得するというところまでは言っていない(参照:「超越論的享楽(Lorenzo Chiesa)」)

そもそもボロメオ結びについては次ぎのような見解さえある。

後期ラカン読むときに結び目の理論を勉強する必要はまったくないと思う。あれを真面目に受け取ってるのはヴァップローとか一部の超マニアックなラカニアンだけで、ミレールはじめ普通のラカニアンはあれを無視した上で、singularitéの議論とか、使えそうなところだけを取り出してる (松本卓也)

だがジジェクがいうように他者の様態に思いを馳せれば、《これら三つの次元を結びつけるボロメオの結び目というラカンの概念を説明する究極的な事例》であるに相違なく、そう簡単に捨て去るわけにはいかない。なぜなら、われわれは日常的にも、どの他者に向けて語っているか、想像的他者なのか象徴的他者なのか、それとも現実界的な他者なのか、ーーそしてそれがどんな具合に重なり合っているのか、とはまさにボロメオ結びが参照点になるからだ。

ほかにも例えば、ジジェクは ラカンのボロメオ結びを援用して“the Imaginary of democratic ideology, the Symbolic of political hegemony, the Real of the economy”ともかつては言っている(Zizek Iraq)。イデオロギー・ヘゲモニー・エコノミーが、想像界・象徴界・現実界とされれば、これまた柄谷行人のネーション・ステート・資本を想起することもできる(他にも柄谷はカントの仮象・形式・物自体をラカンの三位一体と結びつけている(参照:「仮象(想像的なもの)、形式(象徴的なもの)、物自体(リアルなもの)(柄谷行人=ラカン)」)。

資本=ネーション=ステートは、人間の「交換」がとる必然的な形態に根ざしている。容易に、この環を出ることはできない。マルクスがその出口を見いだしたのは、第四の交換のタイプ、すなわち、アソシエーションである。(柄谷行人『トランスクリティーク』)

こう引用すればーー今気づいたのだがーー、マルクスのアソシエーションは、ラカンのサントームに近づけて解釈できないかという問いも生れる(参照:「ラカン派の二種類のサントーム・症状」).。




さてここではジジェクとLorenzo Chiesaは次のように現実界(リアル)を言っていることだけ示しておく。

最後のラカンにとって、現実界は、象徴界の「内部にある」ものである。Dominiek Hoensと Ed Pluth のカント用語にての考察を捕捉すれば、人は同じように、最後のラカンは現実界の超越的概念から、超越論的概念に移行した、と言うことができる。 ( Lacan Le-sinthome by Lorenzo Chiesa)
われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』2012)

柄谷行人はどうなのか。彼にとっては物自体がリアルである。

物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。それは自分の顔のようなものだ。それは疑いもなく存在するが、どうしても像(現象)としてしか見ることができないのである。したがって重要なのは、「強い視差」としてのアンチノミーである。それのみが像(現象)でない何かがあることを開示するのだ。(『トランスクリティーク』)

この文だけを抜き出せば、柄谷行人とジジェクとLorenzo Chiesaの三者のリアルの理解はほぼ同じであるということがいえる。デリダの猫もウィトゲンシュタインの《他者》もこの視点から捉えうるかどうか、--そのあたりがわたくしには曖昧なままである。

最後にジジェク解釈のヘーゲルをもう一度持ち出せば、核心(のひとつ)は次ぎの文にあるように思う。

ラカンが「知と享楽のあいだに、波打ち際 littorale がある」と言うとき、jouis‐sense の 喚起を聞かねばならない。サントーム、享楽のシニフィアン化する形式 signifying formula of enjoyment に還元された文字の jouis‐sense を、である。

ここに後期ラカンの最終的な「ヘ ーゲリアン」の洞察がある。二つの相容れない領域(現実界と象徴界)の一つへの収束 convergence は、まさに不一致 divergence によって支えられている。というのは差異は己れが差異化するものを構成しているのだ。あるいはもっと形式的用語で言うなら、二つの領野のあいだのまさに横断点が、二つの領野を構成しているのだ。(ZIZEK,LESS THAN NOTHINGーー「“A is A” と “A = A”」)




2014年12月19日金曜日

民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である

二〇〇七年の秋、チェコ共和国で、米軍レーダー基地建設をめぐって世論が沸騰した。国民の大多数(ほぼ七〇パーセント)が反対しているのに政府はプロジェクトを強行した。政府代表は、この国防問題に関わる微妙な問題については投票だけでは決められない――軍事の専門家に判断をゆだねるべきだとして、国民投票の要求をはねつけたのだ。この論法に従っていくと、最後には、おかしな結果になる。すると投票すべき対象として何が残るというのか?たとえば経済に関する決定は経済の専門家に任せるべき、という具合にどの分野にもあてはまるのではないか? (ジジェク『ポストモダンの共産主義』)

で、やはりエリートや専門家にまかせるべきなのだろうか。それとも国民投票やら「理想的な」直接選挙などでの判断を尊重すべきなのだろうか。たとえば「経済」の問題、――消費税やら所得税やらを上げなければならず、社会保障費を削減しなければならないという「専門家」の判断(彼ら曰く「理論的には」絶対的に正しい、たとえば本日(2014.12.19付で「消費税10%では財政再建の道筋はまったく見えない 本来は消費税率を30%近くにする必要がある野口悠紀雄 緊急連載・アベノミクス最後の博打」などという記事が上がっているがね)ーー、これは、国民投票で受け入れられるはずがないのではないか。ヘーゲルのいうように「国家の最高官吏たち」に任せておいたほうがよいのではないか。

国家の最高官吏たちのほうが、国家のもろもろの機構や要求の本性に関していっそう深くて包括的な洞察を必然的に具えているとともに、この職務についてのいっそうすぐれた技能と習慣を必然的に具えており、議会があっても絶えず最善のことをなすに違いないけれども、議会なしでも最善のことをなすことができる。(ヘーゲル『法権利の哲学』)

たとえば「教育ある」理性的な公衆なら、明日の生活に不都合なことでも、--すなわち、消費税によって物価が上がったり、年金の手取りが下がったり等々ーー、やむ得ず「正しい」判断をするだろうか。将来世代(未来の他者)へ負担を先送りすることをやめるだろうか。

高級官僚たちにも、判断ミスや破廉恥な権力欲があるに決まっているのだからーー《どんな高徳な人と言われているものも、恐ろしい、無法の欲望を内に隠し持っている、という事をくれぐれも忘れるな》(プラトン=小林秀雄)--、《「真理」は得体の知れない均衡によって実現される》という立場をとるべきなのだろうか。

どの国でも、官僚たちは議会を公然とあるいは暗黙に敵視している。彼らにとっては、自分たちが私的利害をこえて考えたと信ずる最善の策を議会によってねじ曲げられることは耐え難いからである。官僚が望むのは、彼らの案を実行してくれる強力且つ長期的な指導者である。また、政治家のみならず官僚をも批判するオピニオン・リーダーたちは、自分たちのいうことが真理であるのに、いつも官僚や議会といった「衆愚」によって邪魔されていると考えている。だが、「真理」は得体の知れない均衡によって実現されるというのが自由主義なのだ。(柄谷行人『終焉をめぐって』)

上に書いた将来世代(未来の他者)へ負担を先送りするというのは、簡単に言えば、《公的債務とは、親が子供に、相続放棄できない借金を負わせることである》(ジャック・アタリ)にかかわる。

簡単に「政治家が悪い」という批判は責任ある態度だとは思いません。

 しかしながら事実問題として、政治がそういった役割から逃げている状態が続いたことが財政赤字の累積となっています。負担の配分をしようとする時、今生きている人たちの間でしようとしても、い ろいろ文句が出て調整できないので、まだ生まれていない、だから文句も言えない将来世代に負担を押しつけることをやってきたわけです。(経済再生 の鍵は 不確実性の解消 (池尾和人 大崎貞和)ーー野村総合研究所 金融ITイノベーション研究部2011ーー二十一世紀の歴史の退行と家族、あるいは社会保障)

これに関しては、公衆の判断ではほとんど無理に決まってる、そしておそらく政治家の判断も同じく。

現実の民主主義社会では、政治家は選挙があるため、減税はできても増税は困難。民主主義の下で財政を均衡させ、政府の肥大化を防ぐには、憲法で財政均衡を義務付けるしかない。(ブキャナン&ワグナー著『赤字の民主主義 ケインズが遺したもの』)

環境問題程度なら、場合によっては「未来の他者」を慮るようなことがあるかもしれないが、肝心かなめの「金」に関わってくると、「公共的合意」などあり得るはずがないのではないか。《お金があらゆる善の根源だと悟らない限り、あなたがたは自ら滅亡を招きます。》(アイン・ランド『肩をすくめるアトラス』)

…ハーバーマスは、公共的合意あるいは間主観性によって、カント的な倫理学を超えられると考えてきた。しかし、彼らは他者を、今ここにいる者たち、しかも規則を共有している者たちに限定している。死者や未来の人たちが考慮に入っていないのだ。

たとえば、今日、カントを否定し功利主義の立場から考えてきた倫理学者たちが、環境問題に関して、或るアポリアに直面している。現在の人間は快適な文明生活を享受するために大量の廃棄物を出すが、それを将来の世代が引き受けることになる。現在生きている大人たちの「公共的合意」は成立するだろう、それがまだ西洋や先進国の間に限定されているとしても。しかし、未来の人間との対話や合意はありえない。(柄谷行人『トランスクリティーク』P191-192)

「未来の他者」だと? すくなくともベルリンの壁崩壊をへて市場原理主義が猖獗する現在ーー資本の欲動の席巻の時代ーー、誰が「未来の他者」などを考慮するだろう? --《後はどうとでもなれ。これがすべての資本家と、資本主義国民の標語である。だから資本は、社会が対策を立て強制しないかぎり、労働者の健康と寿命のことなど何も考えていない。》(マルクス ツイッターbotより)

ノーム・チョムスキーは次ぎのように言っている、《国民参加という脅威を克服してはじめて、民主制につい てじっくり検討することができる》(Noam Chomsky, Necessary Illusions”)


バディウは、《現代における究極的な敵に与えられる名称は資本主義や帝国あるいは搾取ではなく、民主主義である》と言っているそうだ(「永遠の経済的非常事態」 スラヴォイ・ジジェク 長原豊訳

これらの言葉に触れたことがなくても、プラトン=ソクラテスが、大衆を「局所的な意見の混沌」のなかであがく一匹の巨大な獣 か迷える獣の群れとしているのは誰もが知っているだろう。

もっとも冒頭のジジェクの文は、大衆が、巨大な獣か迷える獣であって彼らの判断が信じられないにせよ、いまはエリートの判断さえ信じられなくなったことにあるという文脈のなかで書かれているものであり、それは2011年以来、この極東の島国ではことさら顕著なことだろう。

いわゆる「民主主義の危機」が訪れるのは、民衆が自身の力を信じなくなったときではない。逆に、民衆に代わって知識を蓄え、指針を示してくれると想定されたエリートを信用しなくなったときだ。それはつまり、民衆が「(真の)王座は空である」と知ることにともなう不安を抱くときである。今決断は本当に民衆にある。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』)
トロツキーの議会制民主主義に対する批難は大筋で正しかった。すなわち、この制度は教育のない大衆に力を与えすぎることではなく、むしろ、逆説的にいえば、大衆を受身化して、国家権力機構の支配にゆだねるものだ。(トロツキー『テロリズムと共産主義』」(同上)


ところで、きみたちには、《教育者面をしたり指導者面をしているソフィスト達を許す事が出来な》いってことないのかい? たとえば選挙前に「日本人は民主主義を捨てたがっているのか? 」の類のことを叫ぶ連中だがね。こいつらの言う「民主主義」ってなんなのだろう? やっぱり「衆愚」政治のことかい? 「識者」として《大衆は立て続けに話されると,巧みな口舌に惑わされ,事の理非を糾す暇もないままに,一度かぎりのわれらの言辞に欺かれる》(ツキジデス『戦史』)ってヤツの実践かい?

チョムスキーを再掲しておくがね、《国民参加という脅威を克服してはじめて、民主制についてじっくり検討することができる》と。

あるいは柄谷行人を引用してもいいけどさ、議会民主主義を疑ったことがないわけじゃないだろ? 直接投票にしなくちゃなんていうなよな、都知事や大阪府知事でどんな首長が選ばれているかシッテルだろ? まあせめて主張するなら「くじ引き」程度のことは言えよ。要するに、あいつらバカジャナイノ? との錯覚に閉じこもることが多いんだよな。


もし匿名投票による普通選挙、つまり議会制民主主義がブルジョア的な独裁の形式であるとするならば、くじ引き制こそプロレタリア独裁の形式だというべきなのである。アソシエーションは中心をもつが、その中心はくじ引きによって偶然化されている。かくして、中心は在ると同時に無いといってよい。すなわち、それはいわば「超越論的統覚X」(カント)である。(柄谷行人『トランスクリティーク』P282-283ーー「バカジャナイノ?」)

実際、アテネでは「くじ引き」やってたらしいからな。

われわれはアテネの民主主義から学ぶべきことが一つある。アテネの民主主義は、僭主制を打破するところから生まれたと同時に、僭主制を二度ともたらさないような周到な工夫によって成立している。アテネの民主主義を特徴づけるのは議会での全員参加などではなく、行政権力の制限である。それは官吏をくじ引きで選ぶこと、さらに、同じくじ引きで選ばれた陪審員による弾劾裁判所によって徹底的に官吏を監視したことである。実際、こうした改革を成し遂げたペリクレス自身が裁判にかけられて失脚している。要するに、アテネの民主主義において、権力の固定化を阻止するためにとられてシステムの核心は、選挙ではなくくじ引きである。くじ引きは、権力が集中する場に偶然性を導入することであり、そのことによってその固定化を阻止するものだ。そして、それのみが真に三権分立を保証するものである。かくして、もし匿名投票による普通選挙、つまり議会制民主主義がブルジョア的な独裁の形式であるとするならば、くじ引き制こそプロレタリア独裁の形式だというべきなのである。(『トランスクリティーク』p283~)

まずは「議会民主主義=ブルジョワ独裁」を潰すことさ、そこから出発だぜ、真の「民主主義=大衆の支配」というものが仮にあるのなら、--とまでは言わないでおくけどさ。大衆の支配とは、ファシズムかもしれないからな、ワカンネエなあ、政治音痴のオレには。

《ファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない》(カール・シュミット)

…議会と大統領との差異は、たんに選挙形態の差異ではない。カール・シュミットがいうように、議会制は、討論を通じての支配という意味において自由主義的であり、大統領は一般意志(ルソー)を代表するという意味において民主主義的である。シュミットによれば、独裁形態は自由主義に背反するが民主主義に背反するものではない。《ボルシェヴィズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない》。《人民の意志は半世紀以来極めて綿密に作り上げられた統計的な装置よりも喝采によって、すなわち反論の余地を許さない自明なものによる方が、いっそうよく民主主義的に表現されうるのである》(シュミット『現代議会主義の精神史的位置』)。

この問題は、すでにルソーにおいて明確に出現していた。彼はイギリスにおける議会(代表制)を嘲笑的に批判していた。《主権は譲りわたされえない、これと同じ理由によって、主権は代表されえない。主権は本質上、一般意志のなかに存する。しかも、一般意志は決して代表されるものではない》。《人民は代表者をもつやいなや、もはや自由ではなくなる。もはや人民はいなくなる》(『社会契約論』)。ルソーはギリシャの直接民主主義を範とし代表性を否定した。しかし、それは「一般意志」を議会とは違った行政権力(官僚)に見いだすヘーゲルの考えか、または、国民投票の「直接性」によって議会の代表性を否定することに帰結するだろう。(『トランスクリティーク』p226~)
一般的にいって、匿名状態で解放された欲望が政治と結びつくとき、排外的・差別的な運動に傾くことに注意すべきです。だから、ここから出てくるのは、政治的にはファシズムです。(柄谷行人「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)
浅田彰)ルソーが一般意志というけれど,具体的なモデルとしては小さい共同体を考えているわけで,それを無視して直接民主主義を乱暴に拡大すると,ファシズムと限りなく近いものになってしまうわけです.

たとえば,リンツで「アルス・エレクトロニカ」というのをやっているんだけれど,あそこはヒトラーが生まれた所だから,ヒトラーが演説した広場があって,前回は,そこに巨大なスクリーンを立てて,インタラクティヴなゲームをやったんですね.みんなに赤と緑の反射板を持たせて,全員でTVゲームをやったりね. そこで,市長の人気投票とか,直接民主主義制のゲームもやったんですが,まさに柄谷さんがおっしゃったような感じで,みんながそのつど結果を見て補正するから,およそ一定しないわけです.(「ハイパーメディア社会における自己・視線・権力」)

さてようやくここで表題にその一部を掠め取った「たしかに民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である」(チャーチル)を引用することができる。じつはそれに続く《問題は、他のどのシステムも民主主義以上ではないことだ》が肝腎なんだが。

ウィンストン・チャーチルの有名なパラドックス( ……)。民主主義は堕落とデマゴギーと権威の弱体化への道を開くシステムだと主張する人びとにたいして、チャーチルはこう答えた。「たしかに民主主義はありとあらゆるシステムのうちで最悪である。問題は、他のどのシステムも民主主義以上ではないことだ」。この発言は「すべてが可能だ。いやもっと多くのことが可能だ」という全体集合を提示する。その中では問題の要素(民主主義)は最悪のように見える。第二前提によれば、「ありとあらゆるシステム」という集合はすべてを包含しているわけではなく。付加的な要素と比べてみれば件の要素がじゅうぶん我慢できるものであることがわかる。この論法は次の事実に基づいている。すなわち付加的要素は「ありとあらゆるシステム」という全体集合に含まれているものと同じであり、唯一の相違はそれらはもはや閉じられた全体の要素としては機能していないという点である。政府のシステムの全体の中では民主主義は最悪であるが、政治システムの全体化されていない連続の中には民主主義以上のものはない。したがって、「それ以上のものはない」という事実から、民主主義が「最良」であるという結論を引き出してはいけない。民主主義の利点はまったく相対的なものでしかないのである。この命題を最上級で定式化しようとしたとたん、民主主義の特質は「最悪」となってしまうのである。(ジジェク『斜めから見る』 P62ーー民主主義の中の居心地悪さ


まあツイッターなどで《教育者面をしたり指導者面をしている》連中がバカにみえるのは、オレがバカなせいかもしれないがね。とはいえ、あの連中は、こうやって散々語られてきたことを外して、無知なのかなんだか知らないが、ナイーヴに「自分の考え」なるものを主張するんだな。

僕は國分功一郎というのに驚いたんだけど、「議会制民主主義には限界があるからデモや住民投票で補完しましょう」と。

21世紀にもなってそんなことを得々と言うか、と。あそこまでいくと、優等生どころかバカですね。

……住民投票による「来るべき民主主義」とか、おおむね情報社会工学ですむ話じゃないですか。哲学や思想というのは、何が可能で何が不可能かという前提そのものを考え直す試みなんで、可能な範囲での修正を目指すものじゃないはずです。(浅田彰
僕は昔から、先行研究を踏まえた手堅い優等生研究ってのは好きじゃなかったんだけど、國分は、驚くべきことに、ドゥルーズやネグリのみならず、古典的なスピノザ研究の蓄積についてもほとんど言及せず、ひたすら「僕のスピノザ」を大声で得々と語るわけ-腐っても人文研の研究会で。 思わず「あなた、バカって言われない?」と聞いちゃった。(同 浅田)

でも國分くんはまだましなほうさ、ツイッターで「民主主義」なんたらしきりに寝言いってる「識者」のなかでは。

まあオレもえらそうなことはマッタク言えないんだ、そもそもネグリなんて一度も読んだことがないんだから。でもあれら《教育者面をしたり指導者面をしている》連中は、いくら政治音痴、経済音痴でもせめてジジェクやら柄谷行人やらは読んでいてよさそうなはずだがねえ。

というわけで、もうごたごた言わずに、小林秀雄=プラトンでも引用しておくだけにするよ。


◆小林秀雄「プラトンの「国家」」より


「国家」或は「共和国」とも言われているこの対話篇には、「正義について」という副題がついているが、正義という光は垣間見られているだけで、徹底的に論じられているのは不正だけであるのは、面白い事だ。正義とは、本当のところ何であるかに関して、話相手は、はっきりした言葉をソクラテスから引出したいのだが、遂にうまくいかないのである。どんな高徳な人と言われているものも、恐ろしい、無法の欲望を内に隠し持っている、という事をくれぐれも忘れるな、それは君が、君の理性の眠る夜、見る夢を観察してみればすぐわかる事だ、ソクラテスは、そういう話をくり返すだけだ。

そういう人間が集まって集団となれば、それは一匹の巨大な獣になる。みんな寄ってたかって、これを飼いならそうとするが、獣はちと巨き過ぎて、その望むところを悉く知る事は不可能であり、何処を撫でれば喜ぶか、何処に触れば怒りだすか、そんな事をやってみるに過ぎないのだが、手間をかけてやっているうちには、様々な意見や学説が出来上り、それを知識と言っているが、知識の尺度はこの動物が握っているのは間違いない事であるから、善悪も正不正も、この巨獣の力に奉仕し、屈従する程度によって定まる他はない。何が古風な比喩であろうか。

プラトンは、社会という言葉を使っていないだけで、正義の歴史的社会的相対性という現代に広く普及した考えを語っている。今日ほど巨獣が肥った事もないし、その馴らし方に、人びとが手を焼いている事もない。小さな集団から大国家に至るまで、争ってそれぞれの正義を主張して互いに譲る事が出来ない。真理の尺度は依然として巨獣の手にあるからだ。ただ社会という言葉を思い附いたと言って、どうして巨獣を聖化する必要があろうか。

ソクラテスは、巨獣には、どうしても勝てぬ事をよく知っていた。この徹底した認識が彼の死であったとさえ言ってよい。巨獣の欲望に添う意見は善と呼ばれ、添わぬ意見は悪と呼ばれるが、巨獣の欲望そのものの動きは、ソクラテスに言わせれば正不正とは関係のない「必然」の動きに過ぎず、人間はそんなものに負けてもよいし、勝った人間もありはしない。ただ、彼は、物の動きと精神の動きとを混同し、必然を正義と信じ、教育者面をしたり指導者面をしているソフィスト達を許す事が出来なかったのである。巨獣の比喩は、教育の問題が話題となった時、ソクラテスが持出すのだが、ソクラテスは、大衆の教育だとか、民衆の指導だとかいう美名を全く信じていない。巨獣の欲望の必然の運動は難攻不落であり、民衆の集団的な言動は、事の自然な成行きと同じ性質のものである以上、正義を教える程容易な事があろうか。この種の教育者の仕事は、必ず成功する。彼は、その口実を見抜かれる心配はない、彼の意見は民衆の意見だからだ。

もし、ソクラテスが、プロパガンダという言葉を知っていたら、教育とプロパガンダの混同は、ソフィストにあっては必至のものだと言ったであろう。言うまでもなく、ソクラテスは、この世に本当の意味での教育というものがあるとすれば、自己教育しかない、或はその事に気づかせるあれこれの道しかない事を確信していた。もし彼が今日まで生きていたら、現代のソフィスト達が説教している事、例えばマテリアリズムというものを、弁証法とか何とか的とか言う言葉で改良したらヒューマニズムになるというような詭弁を見逃すわけはない。事実を見定めずにレトリックに頼るソフィストの習慣は、アテナイの昔から変わっていない、と彼は言うだろう。

イデオロギイは空言でも美辞でもない、その基底には、歴史の必然による要請がある、と現代のソフィスト達は、口をそろえて言うだろうが、ソクラテスの炯眼をごまかすわけにはいくまい。嘘をつかない方がよい、基底には、君自身が隠し持っている卑屈な根性がある。君達は自己欺瞞がつづき、君たちのイデオロギイが正義の面を被っていられるのも、敵対するイデオロギイを持った集団が君達の眼前にある間だ。みんな一緒に、同じイデオロギイを持って暮さねばならぬ時が来たら、君達は、極く詰らぬ瑣事から互いに争い出すに決っている。そうなってみて、君達は初めて気がつくだろう。歴史的社会という言葉は、一匹の巨獣という言葉より遥かに曖昧な比喩だという事に気がつくだろう。

社会は一匹の巨獣である、では社会学にはならぬ。そんな事を言って、プラトンを侮るまい。いよいよ統計学に似て来る近代社会学には、統計学の要求に屈して、人間を、計算に便利な人間という単位で代置する誘惑が避け難い。この傾向は、人間について何が新しい発見を語る事なのか、それとも来るべきソフィスト達の為に、己惚れの種を播く事なのか。一応疑ってみた方がよいだろう。

ソクラテスの話相手は、子供ではなかった。経験や知識を積んだ政治家であり、実業家であり軍人であり、等々であった。彼は、彼らの意見や考えが、彼等の気質に密着し、職業の鋳型で鋳られ、社会の制度にぴったりと照応し、まさにその理由から、動かし難いものだ、と見抜いた。彼は、相手を説得しようと試みた事もなければ、侮辱した事もない。ただ、彼は、彼等は考えている人間ではない、と思っているだけだ。彼等自身、そう思いたくないから、決してそう思いはしないが、実は、彼等は外部から強制されて考えさせられているだけだ。巨獣の力のうちに自己を失っている人達だ。自己を失った人間ほど強いものはない。では、そう考えるソクラテスの自己とは何か。

プラトンの描き出したところから推察すれば、それは凡そ考えさせられるという事とは、どうあっても戦うという精神である。プラトンによれば、恐らく、それが、真の人間の刻印である。ソクラテスの姿は、まことに個性的であるが、それは個人主義などという感傷とは縁もゆかりもない。彼の告白は独特だが、文学的浪漫主義とは何の関係もない。彼は、自己を主張しもしなければ、他人を指導しようともしないが、どんな人とも、驚くほど率直に、心を開いて語り合う。すると無智だと思っていた人は、智慧の端緒をつかみ、智者だと思っていた者は、自分を疑い出す。要するに、話相手は、皆、多かれ少かれ不安になる。そういう不安になった連中の一人が、ソクラテスに言う。
「君は、疑いで人の心をしびれさせる電気鰻に似ている」
ソクラテスは答える。
「いかのもそうだ、併し、電気鰻は、自分で自分をしびれさせているから、人をしびれさせる事が出来る、私が、人の心に疑いを起こさせるのは、私の心が様々な疑いで一杯だからだ」と。
(……)
お終いに、ソクラテスが、民主主義政体について語っているところ、これはまことに精妙であって、要約は難しいが(「国家」第八巻)、附記して置こうか。言うまでもなく、この政体の最大の所有物は平等と自由とであるが、この政体に最も適した人間は、自分の内に持つ様々な欲望を平等に自由に解放している人間に相違なく、それ故、又、人間性格の様々な類型を、一人で演ずる事の出来るような人間であり、元気で敏感で、先生は生徒に媚び、老人は青年に順応し、亭主は女房を恐れ、女房は飼犬を尊敬し、というような事は一番苦もない事と言える人間達だ。政治関係にしても、為政者は、圧制者の評判をとるのが一番恐いから、まるで被治者のような治者が尊敬されるだろうし、逆に、自由の名の下に、為政者に反抗する、治者のような被治者が一番人気を集めるだろう。

政治は普通思われているように、思想の関係で成立するものではない。力の関係で成立つ。力が平等に分配されているなら、数の多い大衆が強力である事は知れ切った事だが、大衆は指導者がなければ決して動かない。だが一度、自分の気に入った指導者が見つかれば、いやでも彼を英雄になるまで育て上げるだろう。権力慾は誰の胸にも眠っている。民主主義の政体ほど、タイラントの政治に顛落する危険を孕んでいるものはない。では、何故、指導者がタイラントになるか。この諧謔を交えた仮借ない分析を辿るには全文を要するのだが、プラトンの政治思想の骨組は、はっきり透けて見える。

ソクラテスの定義によれば、指導者とは、自己を売り、正義を買った人間だ。誰が血腥いタイラントになりたいだろう。だから、誰もなるものではない、否応なくならされるのだ、とソクラテスは言う。正義に酔った指導者が、どうして自分のうちに、人間を食う欲望のひそんでいる事を知ろうか。「狼の山」に建てられた神殿にそなえられた生贄の肉の中に、子供の内臓が混じっていたのを知らずに食べたものは、狼になるのが運命だ。彼の運命は劇的でもあり、悲壮でもあるので、よく芝居などにも仕組まれるのさ。

政治の地獄をつぶさに経験したプラトンは、現代知識人の好む政治への関心を軽蔑はしないだろうが、政治への関心とは言葉への関心とは違うと、繰返し繰返し言うであろう。政治とは巨獣を飼いならす術だ。それ以上のものではあり得ない。理想国は空想に過ぎない。巨獣には一かけらの精神もないという明察だけが、有効な飼い方を教える。この点で一歩でも譲れば、食われて了うであろう、と。