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2018年3月10日土曜日

巫女の緋袴

巫女の緋袴がとてつもないエロスを喚起するのはアキラカデアルガ、「赤と青と緑とゴダール」にて、「赤」という発情色についてそれを理論的に示した。




わたくしは30年ほどまえ京都に住んでおり、京都のなかでは最も好みの神社・北野天満宮をしばしば訪れたが、あるとき「梅仕事」をする巫女の姿に雷を打たれたことがある。だがあれはごく自然な現象であったのである。




この姿にとことん魅せられるのは、ほとんどすべての男性諸君と同様であろう。ただし、もしアナタがかりにあの処女たちに、みづのをひもを解いてまた結んでいただき、幸運にも「禊ぎの聖水」を浴びたとしても、無暗に歓喜してはならない。

・七処女は、何のために召されたか。言うまでもなくみづのをひもを解き奉るためである。…みづのをひもを解き、また結ぶ神事があったのである。

・みづのをひもは、禊ぎの聖水の中の行事を記念している語である。

・そこに水の女が現れて、おのれのみ知る結び目をときほぐして、長い物忌みから解放するのである。(折口信夫『水の女』)

すなわち「男なんざ光線とかいふもんだ/蜂が風みたいなものだ」(西脇順三郎)なのであり、聖水を浴びた後には、すぐさま「イボタの繁みから女のせせら笑いが/きこえてくる」のである。実のところアレはたまさかの蜘蛛の巣払いにすぎない。

わたくしは大学入試のときに九段のさるホテルに一週間ほど泊まったのだが、そのときあの悪評高い靖国神社に訪れたことをここで白状しなくてはならない。

あの神社はじつに美的な構造をもっている。杣径、つまり森の鞘の参道先に神殿があるのは、おおくの神社でもそうであるのだろうが、それに瞭然と開眼させられたのは、あの神社を訪れたときが初めてである。




杣(そま、Holz)とは森(Wald)に対する古い名称のことである。杣にはあまたの径があるが、大抵は草木に覆われ、突如として径なきところに杜絶する。

それらは杣径 Holzwege と呼ばれている。(ハイデガー『杣径』)

そして、杣径の先の森の空地 Lichtungには、外立がある、《存在の開けた明るみ Lichtung の中に立つことを、私は、人間の「外立 Ex-sistenz」と呼ぶ。》(同ハイデガー)

外立、すなわちエク・スターシス ek-stasis とは、自身の外へ出てしまうことである。エクスタシー的開け(エクスターティッシュ・オッフェン ekstatisch offen)、忘我、恍惚、驚愕、狂気である。

18才の田舎者の少年が、緋袴のお尻をゆらめかせた巫女から、上品な流し目をおくられて神殿の奥に誘導サレタラ、どうして忘我恍惚とならずにいられよう? あれはロラン・バルトのいう沈黙のなかの叫び、「ゆらめく閃光 un éclair qui flotte」であった。




ああ、《竹藪に榧の実がしきりに落ちる/アテネの女神に似た髪を結う/ノビラのおつかさんの/「なかさおはいりなせ--」という》あの眼差し、あの言語外の仄かな言葉・・・(西脇順三郎「留守」)


ところで巫女たちが緋袴をはくように正式に取り決められたのは、明治以降らしい。それまでも赤い袴が主流ではあったらしいが。

いま画像を探ってみると、巫女の紺袴もあるようだ。




ああ、だがこれでは完膚なきまでのエロスの不在である。女性のみなさん、オトコを誘いたいときは、かならず赤い服を着ましょう!

紺袴では、「神の妻(メ)」・「一夜配偶(ヒトヨヅマ)」としてあきらかに失格である。もし朱色があからさまに猥褻だと感じてしまう繊細で上品な女性であるならば、京都下鴨神社の巫女にときにみられたあの臙脂色にすべきである。




邑落生活に於ける原始信仰は、神学が組織せられ、倫理化せられ、神殿を固定する様になつても、其と併んで、多少の俤は残らない地方はない程根強いものであつた。

常世からする神に対する感情は、寧「人」と言ふのが適してゐた。又、其が「人」のする事である事を知つて居たからかも知れない。我々の祖先は、之に「まれびと」と命けた。思ふに「まれびと」は、数人の扮装した「神」が村内を巡行する形になつて居るのが普通であるが、成年者の人員が戸数だけあつたものとして、家毎に迎へ入れられて一夜泊つたものと思はれる。さうして其家の処女或は主婦は、神の杖代として一夜は神と起臥を共にする。扮装神の態度から神秘の破れる事の多い為に、「神」となる者の数が減り、家毎に泊る事はなくなつたのであらう。だから邑落生活に於ける女性は、悉く巫女としての資格を持つてゐなければならなかつた。

巫女の資格の第一は「神の妻(メ)」となり得るか如何と言ふ事である。村の処女は必神の嫁として神に仕へて後、人の妻となる事が許されたのである。後期王朝初頭に於いて、民間に設ける事を禁じた采女(ウネメ)制度は、古くは宮廷同様国々の豪族の上にも行はれた事なのである。邑落々々の現神なる豪族が神としての資格を以て、村のすべての処女を見る事の出来た風が、文化の進んだ世にも残つてゐたのだ。数多の常世神が、一つの神となつて、神々に仕へた処女を、現神一人が見る事に改まつて来たのである。而も、明らかに大きな現神を戴かなかつた島々・山間では、今に尚俤の窺はれる程、近い昔まで処女の貞操は、まづ常世神に献ずるものとして居たのである。初夜権の存在は、采女制度の時代から現代まで続いてゐると見てよい。「女」になるはじめに、此式を経る事もある。裳着は成女となる儀式である。形式だけだが、宮廷にすら、平安中期まで、之を存してゐた。

神の常任が神主の常任であると共に、巫女も大体に於いて常任せられ、初夜の風習も単なる伝承と化してしまふ。すると、巫女なる処女の貞操は、神或は現神以外の人間に対しては、厳重に戒しめられる事になる。即「人の妻(メ)」と「神の嫁」とは、別殊の人となるのである。かうした風の生じる以前の社会には、常世神の「一夜配偶(ヒトヨヅマ)」の風が行はれてゐたものと思ふ事が出来る。其一人数人の長老・君主に集中したものが、初夜権なのである。(折口信夫『「とこよ」と「まれびと」と』)

なにはともあれ、「たたる」ことが肝要である。「祟り」とは、ハイデガーの「エク・スターシス ek-stasis」、すなわち「エクスタシー的開け(エクスターティッシュ・オッフェンekstatisch offen)」に違いないのである。


・後代の人々の考へに能はぬ事は、神が忽然幽界から物を人間の前に表す事である。

・たゝると言ふ語は、記紀既に祟の字を宛てゝゐるから奈良朝に既に神の咎め・神の禍など言ふ意義が含まれて来てゐたものと見える。其にも拘らず、古いものから平安の初めにかけて、後代とは大分違うた用語例を持つてゐる。最古い意義は神意が現れると言ふところにある。

・たゝりはたつのありと複合した形で、後世風にはたてりと言ふところである。「祟りて言ふ」は「立有而言ふ」と言ふ事になる。神現れて言ふが内化した神意現れて言ふとの意で、実は「言ふ」のでなく、「しゞま」の「ほ」を示すのであつた。

・此序に言ふべきは、たゝふと言ふ語である。讃ふの意義を持つて来る道筋には、円満を予祝する表現をすると言ふ内容があつたのだとばかりもきめられない事である。「たつ」が語原として語根「ふ」をとつて、「たゝふ」と言ふ語が出来、「神意が現れる」「神意を現す様にする」「予祝する」など言ふ風に意義が転化して行つたものとも見られる。さう見ると、此から述べる「ほむ」と均しく、「たゝふ」が讃美の義を持つて来た道筋が知れる。だから、必しも「湛ふ」から来たものとは言へないのである。(折口信夫『「ほ」・「うら」から「ほかひ」へ』)


そして恋とは、魂乞ひであり、巫女とはその至高の表象である。






こゝに予め、説かねばならぬ一つは、恋愛を意味するこひなる語である。

こひは魂乞ひの義であり、而もその乞ひ自体が、相手の合意を強ひて、その所有する魂を迎へようとするにあるらしい。玉劔を受領する時の動作に、「乞ひ度(わた)す」と謂つた用語例もある。領巾・袖をふるのも、霊ごひの為である。又、仮死者の魂を山深く覓め行くのも、こひである。魂を迎へることがこひであり、其次第に分化して、男女の間に限られたのが恋ひであると考へてゐる。うたがきの形式としての魂ごひの歌が、「恋ひ歌」であり、同時に、相聞歌である。(折口信夫「日本文学の発生」)


そういえば、巫女の映画というものを観たことはないのだが、かつてあったのだろうかと探れば、あるにはあるようだ、だが行き当たったものはごく最近の作品「巫女っちゃけん」である。



ーー実に教育的な映画でスバラシイ

わたくし京都時代の住まいから歩いて5分ほどの場所に「梅宮大社」というまったく「大社」ではないお酒の神様を祀る神社があって、当時は桝酒が無料で飲めた。散歩がてら、あるいは煙草を買いにいくついでにしばしば訪れたものである。楼門前は、おそらく生活のためだろう、月極駐車場になっていた(最近ではあの下鴨神社でさえ経営難らしいが)。

梅苑は、梅の季節以外でもその鄙びた(ほとんど手入れされていない)佇まいーー菖蒲や紫陽花がことに美しかったーーを愛してしばしば訪れた。ところが入苑料をはらう窓口に坐っている巫女さんがしばしば居眠りしていて呼びかけてもなかなかオメザメにならないのである(梅の季節以外は、である)。不在のときも多かった。仕方なしにほぼつねに無銭入苑をさせていただいたことを懐かしく想い起してしまった。





さて話を戻せば、日活ロマンポルノ・リブート・プロジェクトにおいても、ぜひ巫女映画をつくるべきである。かつての黄金時代でさえ、日活ポルノ・エース監督の神代辰巳による、巫女の変種としての「凡庸な」映像しかないのである。


(四畳半襖の裏張り、神代辰巳、1973)


くりかえせばーーわたくしの偏見ではーー、梅摘みをする巫女が映像がこよなく重要である。すなわち卵よりも梅のほうがずっと大切である。

季節の関係でやむえないにしろ、西脇は、薔薇や菫、林檎や栗につけくわえて梅の実を歌うべきではなかったか。

灌木について語りたいと思うが
キノコの生えた丸太に腰かけて
考えている間に
麦の穂や薔薇や菫を入れた
籠にはもう林檎や栗を入れなければならない。
生垣をめぐらす人々は自分の庭の中で
神酒を入れるヒョウタンを磨き始めた。

ーー西脇順三郎「秋」


わたくしの場合、キノコ型のヒョウタンを磨き始めるためには、栗より梅のほうがずっと適している。

ラカンは次のように言っている。

トカゲの自傷、苦境のなかの尻尾切り。享楽の生垣での欲望の災難 l’automutilation du lézard, sa queue larguée dans la détresse. Mésaventure du désir aux haies de la jouissance(ラカン,E 853)

すなわち欲望の審級から享楽への審級に「エクスタシー的開け(エクスターティッシュ・オッフェンekstatisch offen)」をするためには、人は梅の生垣に穴をあけねばならぬ。

人生の通常の経験の関係の世界はあまりいろいろのものが繁茂してゐて永遠をみることが出来ない。それで幾分その樹を切りとるか、また生垣に穴をあけなければ永遠の世界を眺めることが出来ない。要するに通常の人生の関係を少しでも動かし移転しなければ、そのままの関係の状態では永遠をみることが出来ない。(西脇順三郎「あむばるわりあ あとがき(詩情)」より)




もっとも巫女たちに梅摘みではなく、むしろ笛をふいていただく事により、こよなきエロスを喚起する場合があるのを否定するつもりはない。




ふと今思いついたが、神社神殿の大奥に「笛吹きの間」、「梅摘みの間」、あるいは折口の示唆を受けて「一夜配偶(ヒトヨヅマ)の間」を設ければ、21世紀における神社経営難などすぐさま解消するのではなかろうか。ようするに巫女・采女の「たたり」による「とこよ」ビジネス・「まれびと」ビジネスである。あの緋袴の乙女たちに雑事を与えることのみに終始してしまうのはいかにも勿体無く、本来の「魂乞ひ」の仕事をさせねばならない。

なにはともあれ肝腎なのは、折口のいう「「しゞま」の「ほ」」である。「とこよ」ビジネスとはなにも性交などしなくてもよいのである。この点、20世紀後半の至高のトウサク映画作家ベルトルッチは、わが日活ロマンポルノにはるかに先行していた。

たとえば Novecento である。



ひとはロバート・デ・ニーロとジェラール・ドパルデューのあいだにいる女性は巫女ではないかと思いを馳せてみなければならない。事実、彼女はこのあと神のたたりをおこすのである。




くりかえして強調すれば、実に折口的映像である。

たゝりはたつのありと複合した形で、後世風にはたてりと言ふところである。「祟りて言ふ」は「立有而言ふ」と言ふ事になる。神現れて言ふが内化した神意現れて言ふとの意で、実は「言ふ」のでなく、「しゞま」の「ほ」を示すのであつた。(折口信夫『「ほ」・「うら」から「ほかひ」へ』)


2018年1月5日金曜日

「忘れるな、身体よ」



ああまた白木蓮のつぼみの奥の
キチガイ雌しべがひらひらしている

ああまたあの音が聞こえる
ああまたわからなくなつた

「女から/生垣へ
投げられた抛物線は
美しい人間の孤独へ憧れる人間の
生命線である」

ああ すべては流れている
ああ また生垣の後ろで
頭を垂れた睡蓮が溜息をついている

土を思い白鳥のように
濡れて野にしやがむ
イセの木むすめの
「なかさおはいりなせ--」という
言葉がまたきこえてくる

ああかけすが鳴いてやかましい

風がたち丘のうなじが光る
盲目の小鳥は光の網を潜る





わたしのチューリップにたいする関係はリンチ風だね、あの花というのはほんとにムカつくよ。想像してみよう、あの類の花というのは、なんて言えばいいのか、ヴァギナ・デンタータだな、きみを呑み込むような畏れ多い歯のついたオメコさ。花というのはそもそも気分が悪くなる。人はわからないのかね、花がひどくおどろおどろしいものだというのが? 基本的に、すべての昆虫やら蜂やらを呼び込む口を開けた誘いだよ。「おいでよ、そして私を突いてよ」。わかるかい? わたしが思うには、花は子供たちには禁止すべきだね。(ジジェク 、Slavoj Žižek, Dreamboat, Thinks Flowers Are "Dental Vaginas Threatening to Swallow You"、2009

◆Valery Afanassiev - Schubert - Piano Sonata D664、8:09~



「忘れるな、身体よ……」 カヴァフィス(中井久夫訳)          

身体よ、忘れるな、受けた数多の愛だけではなく
横たわった多くの寝台だけでなく、
きみを見つめた眼の中に、
きみに語って震えた声の中に、
いかにも露わだった憧れのきらめきも--。

充たされなかったのはほんの偶然のせいだったが、
決定的な過去となった今では、
肌を合わせたようにも思えてくるではないか。

忘れるな、ああ、きみを見つめていた眼の中の、あの憧れのきらめき。
きみのためのあの声の中の、あの憧れの震え。忘れるな、身体よ。

 
◆Maryla Jonas plays Chopin - Mazurka in F major Op. 68, No. 3




2016年2月13日土曜日

生垣の「結び目をほどく」詩人

ラカンの「科学的言説のなかに穴を開ける現実界」«Réel qui fait trou dans le discours scientific » (Lacan,séminaire, livre XVIII).とは「象徴界のなかに穴を開ける現実界」« Réel qui fait trou dans le symbolique »と言い換えられる。

これは、言ってしまえば、欲望(象徴界)の垣根に穴を開ける享楽(現実界)のことだ。

ラカン理論における現実界と象徴界のあいだの関係は、いっそう首尾一貫した観点を提示してくれる。彼のジャー(壺)の隠喩は、ひとが分析の手間を省くことができないことの、より鮮明な例証となる(Lacan, The Ethics of Psychoanalysis : Seminar VII)。ラカンによれば、陶器作りのエッセンスは壺の面を形作ることではない。これらの面がまさに創り出すのは空虚なのであり、うつろの空間なのだ。壺は現実界における穴を入念に作り上げ探り当てる。このエラボレーション(練り上げること)とローカリゼーション(探り当てること)が、正統的な創造に相当する。(Lacan’s goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.、Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq)
神話において禁止の形式をとるものは、元来、失われたものです。禁止は失われたものについての神話です。「享楽の垣根における欲望の災難[Mesaventure du desir aux haies de la jouissance]」 とラカンが上品に呼んでいるのはこれです。欲望が享楽に向かって進もうとするときはいつでも、それはトカゲの尻尾のように落ちます[ca tombe]。これが-φの素晴らしい表現であり、また、対象a の表現でもあることを認めなければなりません。対象a とは、すなわち、空虚を埋める失われた対象です。また、ここで「同一化は欲動を満たすことなしに欲望によって決定される」とラカンが言うとき、フロイトの第二局所論についてのラカンの読みがその真価を発揮します。

欲望と欲動は混同されてはならない二つの異なった秩序なのです。(ジャック=アラン・ミレールーー「欲望と欲動(ミレールのセミネールより)」)

よく知られているように? 西脇順三郎もほとんど同じことをいっている。言語(象徴界)の垣根に穴を開ける「永遠=詩」と。

人生の通常の経験の関係の世界は
あまりいろいろのものが繁茂してゐて
永遠をみることが出来ない。
それで幾分その樹を切りとるか、
また生垣に穴をあけなければ
永遠の世界を眺めることが出来ない。
要するに通常の人生の関係を
少しでも動かし移転しなければ、
そのままの関係の状態では
永遠をみることが出来ない。(西脇順三郎「詩情」)

西脇順三郎の垣根に穴を開ける仕方とはたとえばこんな具合である。

旅人は待てよ
このかすかな泉に
舌を濡らす前に
考へよ人生の旅人
汝もまた岩間からしみ出た
水霊にすぎない
この考へる水も永劫には流れない
永劫の或時にひからびる
ああかけすが鳴いてやかましい
時々この水の中から
花をかざした幻影の人が出る
永遠の生命を求めるは夢
流れ去る生命のせせらぎに
思ひを捨て遂に
永劫の断崖より落ちて
消え失せんと望むはうつつ
さう言ふはこの幻影の河童
村や町へ水から出て遊びに来る
浮雲の影に水草ののびる頃

ーー西脇順三郎「旅人かへらず」

この象徴界のなかのいっけん淡々とした詩の運びの中途であらわれる「ああかけすが鳴いてやかましい」に震えないでいられる人がもしいるなら、享楽不感症というものである。

これは何も西脇順三郎だけではない。すぐれた詩人たちはそのことをとっくの昔から知っている(参照:神々しいトカゲ)。たとえば、谷川俊太郎の「詩の擁護又は何故小説はつまらないか」には、こうある。

詩はときに我を忘れてふんわり空に浮かぶ
小説はそんな詩を薄情者め世間知らずめと罵る
のも分からないではないけれど

小説は人間を何百頁もの言葉の檻に閉じこめた上で
抜け穴を掘らせようとする
だが首尾よく掘り抜いたその先がどこかと言えば、
子どものころ住んでいた路地の奥さ

そこにのほほんと詩が立ってるってわけ
柿の木なんぞといっしょに

ごめんね

エリオットは、詩の意味とは、「読者の注意をそちらのほうにひきつけ、油断させて、その間に本質的な何ものかが読者の心に滑り込むようにする、そういう働きのものだ」と言っているが、これも生垣に穴をあけるのと同じことをいっている。

谷川俊太郎を重ねて引用すれば「意識のほころび」とはそのことだ。

詩はなんというか夜の稲光りにでもたとえるしかなくて
そのほんの一瞬ぼくは見て聞いて嗅ぐ
意識のほころびを通してその向こうにひろがる世界を

「理想的な詩の初歩的な説明」より 

反哲学者、反科学的言説のラカンの《哲学的存在論と平行して動いている存在の「裏面 l'envers 」にて--、パラ存在(横にずれてあること[être à côté]) 》(参照)も、これらのヴァリエーションであるに相違ない。


このことが、かりに無意識的にせよ分かっているのは、なにも詩人たちだけではない。すぐれた「芸術家」たちは当然わかっている。

……だからぼくの立場はやはり形式主義ということになります。そんな得体の知れないものが対象としてあるように見えて、実際は掴むこともできないのはわかっている。よってそれを捉まえるよりも、具体的に手にすることのできる道具や手段でそれ---その現象を産みだすにはどうすればよいのか、そういうレヴェルでしか技術は展開しない。(岡崎乾二郎ーー共同討議「『ルネサンス 経験の条件』をめぐって」『批評空間』 第3期第2号,2001ーー「得体の知れないものは形式化の行き詰り以外の何ものでもない」)

この文を、たとえば、ジジェクの現実界の説明と「ともに」読んでみよう。ほとんど同じことを言っているのが分かるだろう。

ラカンにとって、現実界は、形式的論理を通してのみ、明示されうる。それは、直接的な方法ではなく、論理的形式化の袋小路を通してのみ、否定的に示されうる。すなわち、現実界は、裂け目・対立 antagonism の見せかけのなかにのみ、見分けうる。現実界の根源の地位は、障害物の地位である。現実界は、失敗の不在の原因ーーそれ自身のなかに、どんなポジティブな存在論的一貫性もない原因であり、しかし、その効果 effects を通してのみ/効果のなかにのみ、顕れるものである。簡潔に言えば、人は現実界を形式化しようと努め、失敗する。そして、現実界はこの失敗である。これが、ラカンの現実界において、対立物が合致する理由だ。つまり、現実界は、象徴化できないものであると同時に、この象徴化を邪魔する障害物である。(ジジェク、LESS THAN NOTHING,2012,私訳)

ここで忘れてはならない肝腎なことは、象徴界にのみ汲々とする科学的言説や哲学的言説などは無意味であるなどと思い込み、無闇に詩や芸術を顕揚してしまうマヌケにならないことだ。詩や芸術は、科学的言説の支配があってはじめてその効果を生む。それは、あくまで象徴界の生垣の「結び目を解く」作用をもたらすのであり、科学的言説や哲学的言説がなければもともこうもない。

哲学によって支えられた伝統的な存在論は、ある程度は、超えがたいものだ。パラ存在論は、その名がはっきり示しているように、哲学的存在論を打ち負かしたり揚棄するものではない。哲学的存在論が…無意味だとして、それを除去しようとする動きを装っているのでさえない。(……)そうではなく、パラ存在論はむしろ、哲学的存在論の「全体化への欲望」を弁証する(結び目を解く unsuture)のだ。そして、文字の偶然性と物質性を指差し、その裏面 envers を暴く。……(Lorenzo Chiesa、2014ーー「僕らしい」(ボククラシー je-cratie)哲学者たち)


ーーというわけで、オレは還暦近くになってようやくこんなことに気づいたよ、いささか遅すぎたな。とはいえ、フロイトの「死の欲動」は60歳時の仕事だし、ラカンの「享楽」も事実上、60歳以降だからな、真の「詩人」という例外の種族以外は、この年頃に気づくのさ


…………

※附記

オクシモロンも、象徴界に穴を開けるひとつの手法だろう。

修辞学で言うオクシモロンoxymoronという言葉は、語源の上ではギリシャ語で「鋭い」を表すoxyと「愚か」の意味のmOrosとが結びついたもので、「無冠の帝王」とか「輝ける闇」などの表現のように、通念の上では相反する、あるいは結びつき難い意味を持つ二つの言葉が結びつき、ぶつかりあいながら、思いがけない第三の意味を生み出すという一つの表現技法である。撞着語法とも、矛盾語法とも呼ばれる。(安永愛「 ポール・ヴァレリーのオクシモロンをめぐって」)

【シェイクスピアの例】

ああ喧嘩しながらの恋 、ああ恋しながらの憎しみ、ああ無から創られたあらゆるもの、ああ心の重い浮気、真剣な戯れ、美しい形の醜い混沌、鉛の羽根、輝く煙、燃えない火、病める健康、綺麗は汚い、汚いはきれい……


【ヴァレリーの例】

魅惑の岩、豊かな砂漠、黄金の闇、さすらふ囚われびと、おぞましい補ひ合ひ、昏い百合、凍る火花、世に古る若さ、はかない不死、正しい詐欺、不吉な名誉、敬虔な計略、最高の落下(以上、中井久夫訳ヴァレリー『若きパルク 魅惑』巻末の「「オクシモロンー覧表」」


「海辺の墓地」の鳩歩む海だって、その冒頭一連がオクシモロンのようなものだ。

鳩歩む この静かな屋根は
松と墓の間に脈打って
真昼の海は正に焔。
海、常にあらたまる海!
一筋の思ひの後のこの報ひ、
神々の静けさへの長い眺め 

最終連になって、鳩は、三角帆の漁船(foc)であることが知れる。

風が起こる……生きる試みをこそ
大いなる風がわが書(ふみ)を開き、閉じ、
波は砕けて岩に迸る!
飛び去れ、まこと眩ゆい頁(ページ)!
砕け、高波、昂(たか)まる喜びの水で
三角(さんかく)の帆がついばんでゐた静かな屋根を! (中井久夫訳)





2015年10月25日日曜日

歌まくら(歌麿の枕絵)

徳川氏の覇業江戸に成るや、爰に発芽せし文華をして殊に芸術の方面において、一大特色を帯ばしめたる者は娼婦と俳優なり。太平の武士町人が声色の快楽を追究して止まざりし一時代の大なる慾情は忽ち遊廓と劇場とを完備せしめ、更に進んでこれを材料となせる文学音曲絵画等の特殊なる諸美術を作出しぬ。

暫く事を歴史に徴するに、わが劇場の濫觴たる女歌舞伎の舞踊は風俗を乱すの故を以て寛永六年に禁止せられ、次に起りし美少年の若衆歌舞伎もまた男色の故を以て承応元年に禁止せられて野郎歌舞伎となりぬ。

日本演劇発生の由来は全く一時代の公衆が俳優の風姿を愛慕する色情に基きしといふも不可ならず。女優並に遊女の女歌舞伎、また玩童の若衆歌舞伎、いづれにせよそが存在の理由は専ら演技者の肉体的勢力にありて、歌舞音曲はその補助たりしや明かなり。

寛文延宝以降時勢と共に俳優の演技漸く進歩し、戯曲またやや複雑となるに従ひ、演劇は次第に純然たる芸術的品位を帯び昔日の如く娼婦娼童の舞踊に等しき不名誉なる性質の幾分を脱するに至れり。

これと共に公衆の俳優に対する愛情もまたその性質を変じて、例へば武道荒事の役者に対しては宛ら真個の英雄を崇拝憧憬するが如きものとなれり。古今東西の歴史を見るも実に江戸時代におけるが如く公衆の俳優を愛したる例証はこれあらざるべし

江戸の市人は俳優に対して不可思議なる熱情を有したり。彼らは啻に演劇を見て喜ぶのみならず更にこれを絵画に描きて眺め賞したり。浮世絵の役者似顔絵はこれら必然の要求に応じたるものにして、その濫觴は浮世絵板画の祖ともいふべき菱川師宣なるべし。(永井荷風『江戸芸術論』)

江戸芸術論所収の「浮世絵と江戸演劇」からであり、「大正三年稿」となっている。

この荷風には珍しくーーと言っておこうーー学究的色調さえある文章が書かれた「大正三年」(1914年)前後とは次のようなことが起こった時期であるようだ(荷風は 1879年生まれだから、35歳前後である)。

1912年
9月 - 本郷湯島の材木商・斎藤政吉の次女ヨネと結婚。

1913年
1月2日 - 父久一郎死去。家督を相続。
2月 - 妻ヨネと離婚。

1914年
8月 - 市川左団次夫妻の媒酌で、八重次と結婚式を挙げる。実家の親族とは断絶する。

1915年
2月 - 八重次と離婚。
5月 - 京橋区(現中央区)築地一丁目の借家に移転。

たとえば荷風はこんな指摘もしている。

喜多川歌麿も安永天明の間豊章の名を以てしばしば役者似顔絵またはせりふ役者誉詞の表紙絵を描きぬ。然れどもさしたる特徴なければ論ぜず。吾人は唯歌麿がかつて役者似顔絵を描かずとなせし『浮世絵類考』の選者が誤謬を明かにせんとするのみ。鈴木春信も役者絵を描かずとなされたれどこもまた誤れり。(同上)

※参照:「どこかにいい役者絵描きはいないかぇ

蔦屋に世に出してもらった恩義を感じる歌麿であるが、自分の強みは美人画と春画だけであることをよく知っていた。

実際、過去に何枚か役者絵を描いたことがあるが、さんざんな評価であった。蔦屋が苦しいのも良く判っているが二度と役者絵だけは描きたくなかった。馬琴の度重なる懇願は予想通り徒労に終わった。

どこかにいい役者絵描きはいないかぇ・・・・

…………



クリステイーズ 2010.3.24(浮世絵の値段は6 北斎と歌麿の枕絵



ーーとのことだ。

かつて歌麿のこの作品の画像がネット上に落ちていないかと探したのだが、色合いの劣るものか、足先が切れているものしか見当たらなかった。





昨晩ようやくブリティッシュ美術館所蔵なるサイトで遭遇できた。おそらく喜多川歌麿の最高傑作のひとつなのに、なぜネット上にないのだろうと不思議に思ったものだ。





もう一つの傑作はネット上にふんだんにある。




以前、上の画像を探したのは、「枕絵とフェティシズムーー春信と歌麿(加藤周一)」を記したときである。2013年6月1日投稿となっており、もう2年前だ。

ここに記念として加藤周一の文を再掲しておこう。

男女三歳にして席を同じくせず。これは西洋人のいわゆる「ヴィクトリア朝道徳」をさらに徹底させたタテマエである。タテマエはむろんそのまま実行できないから、徳川時代はウラの性風俗への関心を強めた。その制度化されたものが遊里である。その私的領域で栄えたものが枕絵である。遊里は、少なくとも徳川時代の後半には、歌舞伎の劇場と共に、町人社会の文芸・音楽・絵画の中心となった。枕絵は、同時代の高名な浮世絵版画家で、それを作らなかった者はほとんどいない。

しかしタテマエの非現実性だけが、枕絵の大量生産を説明するわけではないだろう。徳川時代の後半、殊に一八世紀後半から一九世紀初めにかけての町人社会は、物質的に繁栄していたと同時に、近い将来に体制の変革を期待していなかった。そこで人々の関心が私的領域に向かったのは、当然であり、私的領域におけるもっとも強い衝動の一つが、性的欲望であることは、いうまでもない。しかし性的なものへの強い関心は、必ずしも直ちに性的なものの豊富な表現を意味するとはかぎらない。表現は内面的衝動の外面化すなわち社会化であり、その形式は文化によって異る。性的なものが主として商品として表現される文化もあり、それが芸術として表現される文化もあるだろう。徳川時代の文化の特徴の一つは、性的表現の動機がしばしま芸術的表現のそれと結びついていた、ということである。

枕絵の多くは、絵としては稚拙である。しかしその多くは風俗史興味をひく。そこには、たとえば、二人の男女の組み合せばかりでなく、三人以上多人数の組み合せや女二人の組み合せもある。背景は屋内を主とするが、縁先、屋外、海中にまで及ぶ。当事者のうち女には、遊女が多いが、町屋や武家の女もあり、海女の例もある。日本の枕絵はほとんどすべて性器の大きさを著しく誇張する。おそらくそれは「フェティシズム」の直接の反映であるのかもしれない。しかしそういうこととは別に、絵として優れたものも少なくない。たとえば鈴木春信や喜多川歌麿の枕絵は、彼らのその他の作品、たとえば美人画とくらべて、緊密な構図、優美な線、微妙な色彩の、どの点から見ても、少しも劣らず、むしろしばしば勝ることがある。

春信は、相合傘の少年少女を描いたように、若い男女の情交を、室内の、――窓外の風景をも含めて、――細かく描きこんだ背景のなかに置き、情緒的な画面を作った。その人物が画面全体のなかに占める割合も大きくない。われわれは、人物と同時に、彼ら自身が見ていないだろう環境を、見るのであり、そのことがわれわれと人物との距離を大きくする。しかもそれだけではない。春信は、しばしば、情交の当事者の他に、彼らを観察する第三者を、画中に配する。その第三者の視線に、当事者が気づかぬ場合、たとえば柱のかげからもう一人の女が室内の様子を窺っているような場合には、われわれはその第三者の視線を通して、いわば間接に、当事者の行為を見ることになる。そのことがわれわれと対象との距離をさらに大きくするだろうことは、いうまでもない。当事者が意識している第三者は、たとえば遊女の行為を見ている禿〔かぶら〕である。その場合には、絵を見るわれわれではなくて、画中の当事者が第三者の視線を通して自分自身を見るということになろう。われわれはそういう当事者を、すなわち自己を対象化する主体を、対象化する。二重の対象化もまた、人物とわれわれとの距離を強化するにちがいない。

歌麿の方法は、春信のそれの正反対であった。大首絵の接近画法を美人画に用いた彼は、もつれ合う男女をも近いところから見た。その姿態は、画面の全体に拡がって、背景を描く余地をほとんど残さない。しかしそれは細部を観察するためではなかった。歌麿は対象に近づけば近づくほど、抽象化し、様式化し、二次元的な色面を駆使し、透視法――それはもちろん幾何学的であるとはかぎらないーーから遠ざかる。なぜなら当事者には背景が見えず(あるいは断片的にしか見えず)、相手と自分自身の着物や身体の一部だけが大きく視野のなかに入って来て、そこではどういう種類の透視法も成立し難いはずだからである。目的はあきらかに対象(当事者)と画家(したがって絵を見るわれわれ)との距離を大きくすることではなく、小さくすることにあった。あるいはむしろ愛の行為の当事者が見る世界を、絵を見るわれわれが見ることにあった、というべきだろう。そのために歌麿が駆使したのは、彼が知っていたあらゆる手法であり、そうすることで彼は、ほとんど浮世絵の枠を破り、表現主義的抽象絵画の領域にさえ近づくところまで行ったのである。

作品がワイセツであるかどうか、そんなことは私にとって何ら興味もない。私に興味があるのは、それが絵としてどれほど完成し、どれほど独創的であったか、ということである。歌麿のすべての版画のなかでも、これほど完成し、これほど独創的なものは、おそらく少い。(加藤周一「対象との距離」『絵のなかの女たち』所収)

ここでの文脈から言うまでもないだろうが、いま黒字強調した箇所のバラグラフの前に「歌まくら」の画像が掲げられている。

別の浮世絵について書かれている文だが、加藤周一はこうも言っている、《いずれにしても、一八世紀のヨーロッパは、まだかくも品位高く、かくも輝かしい黒という色を知らなかった》(「春信の女と歌麿の女の胸」)。

マネの黒の使い方と喜多川歌麿、鈴木春信の黒を比較もしているのだが、たしかに彼らの黒は美しい。

だが、わたくしは彼らの青や藍色にも魅せられる。

…………

この際ついでに、すこし前に記して、投稿せずのままの記事ーー「世界は光る、きらりと」と表題までつけてあったのだがーーをここに貼り付けておく。




世界は光る、きらりと、
朝まだき露の滴が山裾の野に光るように。

今、影が伸びる、神のため息のように、長く、いっそう長く。

ーーーエリティス「アルバニア戦線に倒れた少尉にささげる英雄詩」中井久夫訳)





ああ すべては流れている
またすべては流れている
ああ また生垣の後に
女の音がする(西脇順三郎「野原の夢」より『禮記』)
女から 生垣へ
投げられた抛物線は
美しい人間の孤独へ憧れる人間の
生命線である(「キャサリン」より『近代の寓話』)


喜多川歌麿


この小径は地獄へゆく昔の道
プロセルピナを生垣の割目からみる
偉大なたかまるしりをつき出して
接木している(夏(失われたりんぼくの実)」『近代の寓話』)

ーー「近代の寓話」に「形而上学的神話をやつている人々と/ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ」とあるのを、西脇順三郎自身から、《これは実は「猥談」をしている同僚のことだという説明をうかがって》、驚いた…(新倉俊一「記憶の塔」)。

ただ罌粟の家の人々と
形而上学的神話をやっている人々と
ワサビののびる落合でお湯にはいるだけだ
アンドロメダのことを私はひそかに思う
向うの家ではたおやめが横になり
女同士で碁をうっている
ふところから手を出して考えている
われわれ哲学者はこわれた水車の前で
ツツジとアヤメをもって記念の
写真をうつして又お湯にはいり
それから河骨のような酒をついで
夜中幾何学的な思考にひたったのだ
……





「享楽の垣根における欲望の災難[Mesaventure du desir auxhaies de la jouissance]」

ーー欲望は享楽の垣根にてトカゲの尻尾のよう落ちる。

Les objets à passer par profits et pertes ne manquent pas pour en tenir la place. Mais c’est en nombre limité qu’ils peuvent tenir un rôle que symboliserait au mieux l’automutilation du lézard, sa queue larguée dans la détresse. Mésaventure du désir aux haies de la jouissance, que guette un dieu malin.

ーーLacan, Écrits, « Du ‘Trieb’ de Freud et du désir du psychanalyste », Le Seuil, Paris, 1966, p. 853.




人生の通常の経験の関係の世界はあまりいろいろのものが繁茂してゐて永遠をみることが出来ない。それで幾分その樹を切りとるか、また生垣に穴をあけなければ永遠の世界を眺めることが出来ない。要するに通常の人生の関係を少しでも動かし移転しなければ、そのままの関係の状態では永遠をみることが出来ない。(西脇順三郎「あむばるわりあ あとがき(詩情)」より)




川の瀬の岩へ
女が片足をあげて
「精神の包皮」
を洗っている姿がみえる
「ポポイ」
わたしはしばしば
「女が野原でしゃがむ」
抒情詩を書いた
これからは弱い人間の一人として
山中に逃げる(吉岡実「夏の宴」--西脇順三郎先生に)




…………


今これら諸家の制作を見るに、美術としての価値元より春信清長栄之らに比する事能はざれど、画中男女が衣服の流行、家屋庭園の体裁吾人今日の生活に近きものあるを以て、時として余は直に自己現在の周囲と比較し、かへつて別段の興あるを覚ゆ。国貞国芳らの描ける婦女は春信の女の如く眠気ならず、歌麿の女の如く大形の髷に大形の櫛をささず。その深川と吉原なるとを問わず、あるひは町風と屋敷風とを論ぜず、天保以後の浮世絵美人は島田崩しに小紋の二枚重を着たるあり、じれつた結びに半纏を引かけたるあり、絞の浴衣を着たるあり、これらの風俗今なほ伝はりて東京妓女の姿に残りたるもの尠しとせず。その家屋も格子戸欞子窓忍返し竹の濡縁船板の塀なぞ、数寄を極めしその小庭と共にまた然り。これ美術の価値以外江戸末期の浮世絵も余に取りては容易に捨つること能はざる所以なり。(永井荷風『江戸芸術論』)


(歌川国芳)

国芳画中の女芸者は濃く荒く紺絞の浴衣の腕もあらはに猪牙の船舷に肱をつき、憎きまで仇ツぽきその頤を支へさせ、油気薄き鬢の毛をば河風の吹くがままに吹乱さしめたる様子には、いかにも捨身の自暴になりたる鋭き感情現れたり。湖龍斎が画中の美人の物思はしく秋の夜の空に行雁の影を見送り、歌麿が女の打連立ちて柔かき提灯の光に春の夜道を歩み行くが如き、安永天明における物哀れにまで優しき風情は嘉永文久における江戸の女には既に全く見ることを得ざるに至りぬ。(同上)




…………

浮世絵はいくらかの肉筆画以外はほとんど版画なのだから、絵師、彫師、摺師の分担があった。われわれが知るのは通常絵師の名にすぎない。

たとえば彫師について次ぎのような紹介がある(浮世絵ができるまで(2) - 彫師

さて、絵師の下絵が出来ると、次は彫師の出番。下絵の線に忠実に版木を彫っていきます。
ただし、彫りの場合は版木が(色数に応じて)複数枚必要なこともあって、通常は一人で行うのではなく、何人かで分担して作業にあたります。

この分担は職人の力量に合わせて決められたようで、たとえばもっとも大事な役者の顔や髪の部分を彫るのは熟練した職人、着物の柄や背景などはまだ若い職人、という具合に、熟練度にあわせた作業分担で連携して作業にあたっていたようです。

彫師として一人前になるには、少年の頃から親方のところに入門して十年ほどの修行が必要だったといわれます。

最初は背景などの比較的簡単な模様のない色版から始めて、次に模様彫り。やがて修行を積むと人物画の手足、それをこなせるようになるといよいよ難しいといわれる頭部(顔)、そして最後に最も難しいといわれる「髪の毛」に至ります。

ここまでこなせるようになれば、一人前として絵に彫師の名前を入れることができたそうです。



江戸時代とは不思議な時代だ。当時の日本はすくなくとも大衆文化としては、世界の最先端だったのだろう。

江戸幕府の基本政策はどういうものであったか。刀狩り(武装解除)、布教の禁と檀家制度(政教分離)、大家族同居の禁(核家族化)、外征放棄(鎖国)、軍事の形骸化(武士の官僚化)、領主の地方公務員化(頻繁なお国替え)である。(中井久夫「歴史にみる「戦後レジーム」」ーー「鎖国のすすめ」)
江戸時代という時代の特性…。皆が、絶対の強者でなかった時代である。将軍も、そうではなかった。大名もそうではなかった。失態があれば、時にはなくとも、お国替えやお取り潰しになるという恐怖は、大名にも、その家臣団にものしかかっていた。農民はいうまでもない。商人層は、最下層に位置づけられた代わりに比較的に自由を享受していたとはいえ、目立つ行為はきびしく罰せられた。そして、こういう、絶対の強者を作らない点では、江戸の社会構造は一般民衆の支持を受けていたようである。伝説を信じる限りでの吉良上野介程度の傲慢ささえ、民衆の憎悪を買ったのである。こういう社会構造では、颯爽たる自己主張は不可能である。そういう社会での屈折した自己主張の一つの形として意地があり、そのあるべき起承転結があり、その際の美学さえあって、演劇においてもっとも共感される対象となるつづけたのであろう。(中井久夫「意地の場について」『記憶の肖像』所収)

ーー《こういう社会構造では、颯爽たる自己主張は不可能である》とあるが、おそらく日本の「反知性主義」なるものの起源もこのあたりにあるのではないか。

……正確にいえば、学者でもタレントでもない「きわめて厄介な」ヌエのような存在。しかし、これまでの「知」あるいは「知識人」の形態を打ち破るものであるかに見える、このニュー・アカデミズムはべつに「あたらしい」ものではない。それは近代の知を越える「暗黙知」や「身体技法」や「共通感覚」や「ニュー・サイエンス」を唱えるが、これらは旧来の反知性主義に新たな知的彩りを与えたものにすぎない。そして、彼らは新哲学者と同様に、典型的な知識人なのである。(柄谷行人「死語をめぐって」ーー日本的「融合と共存」と母性的「ヤンキー」集団


大衆文化面で最先端だったどころか、経済面でも「世界最初の整備された先物市場」があったとする見解もある。

柄谷行人)江戸初期の体制はともかくとして、元禄(1688年から1704年)のころは、完全に大阪の商人が全国のコメの流通を握っていまして……

岩井克人)そうですよ。江戸の大名は参勤交代があって、一年に一回江戸に出てこなくちゃならない。しかも正妻と子供は江戸に残さなくちゃならないから、どうしてもお金が必要なんですね。領地でコメを収穫してもそれを大阪に回して、堂島のコメ市場で現金にかえて、さらにたりないぶんは両替屋にどんどん借金するんだけど、それでも収入が足りなくて、特産品を奨励するわけです。(……)(コメは)生産する側にとってみればたんなる食べ物ではなかったわけですよ。食べるものではなく、流通するものとして、ほとんどお金同然だったわけですね。

だから、大阪の堂島にはじつに整備された大規模なコメ市場が成立したわけです。たとえば、現代資本主義のシンボルとして、シカゴの商品取引所の先物市場がよくあげられるけれども、堂島にもちゃんと先物市場があったんですね。「張合い」といって、将来に収穫されるコメをいま売り買いするわけです。と言うか、堂島の張合い取引が世界最初の整備された先物市場であったという説さえある。(『終りなき世界』1990)