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2018年11月18日日曜日

世界のあのつぶやき

じっと耳を傾けて、世界のあのつぶやきのほうへかがみこみ、けっして詩とならなかったあの多くのイマージュ、けっして覚醒状態の色調をおびなかったあの多くのファンタスムを知覚する努力をしなければならないだろう。(フーコー『狂気の歴史』)

きわめて美しい文だ。戦慄する。

ほかのことを調べているなかで、EVERNOTEの引き出しのなかに見出したのだが、EVERNOTEにメモを入れ出した最初期のものであり、前後は何を言っていたのだろうと、埃をかぶった『狂気の歴史』を書棚から取り出しても、ざっと見たかぎりでは、この文が見出せない。しかたがないから、ネットから『狂気の歴史』仏原文のPDFをダウンロードし、いくつかの語彙、たとえば「ファンタスム」や「詩」などで検索してみても、同じ文はない。

というわけで、『狂気の歴史』からではないのかもしれない。そうではあってもいかにもフーコーらしく、フーコーの文にはちがいないと思う。

なにはともあれ、人は《けっして覚醒状態の色調をおびなかったあの多くのファンタスム》をもっているはずだ。そしてファンタスム(幻想)には二種類あることに、人は最大限の注意を払わなければならない。これがこのところ繰り返している(ラカン派でさえ、殆どの人が気づいていない)ボロメオの環の読み方である。






SENSEが、象徴界に構造化されたファンタスム(見せかけ semblant)である。「真の穴 vrai trou」が象徴界の外部にある原ファンタスム(トラウマへの固着)である。フーコーがどちらのファンタスムを言っているかは明らかだろう。

「トラウマへの固着 Fixierung an das Trauma」と「反復強迫 Wiederholungszwang」は…絶え間ない同一の傾向 ständige Tendenzen desselbenをもっており、「不変の個性刻印 unwandelbare Charakterzüge」 と呼びうる。(フロイト『モーセと一神教』1939年)

トラウマ、ーーここで中井久夫の、あまりにも見事で簡潔明瞭なトラウマの定義を掲げよう。すなわち《人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶》あるいは《語りとしての自己史に統合されない「異物」》である。

PTSDに定義されている外傷性記憶……それは必ずしもマイナスの記憶とは限らない。非常に激しい心の動きを伴う記憶は、喜ばしいものであっても f 記憶(フラッシュバック的記憶)の型をとると私は思う。しかし「外傷性記憶」の意味を「人格の営みの中で変形され消化されることなく一種の不変の刻印として永続する記憶」の意味にとれば外傷的といってよいかもしれない。(中井久夫「記憶について」1996年)
外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 P.53)

この中井久夫の二つの文が、わたくしの知る限りで、フロイトの「異物 Fremdkörper 」を最も的確に表現したものである。

トラウマ、ないしその記憶は、異物 Fremdkörper ーー体内への侵入から長時間たった後も、現在的に作用する因子として効果を持つ異物のように作用する。(フロイト『ヒステリー研究』予備報告、1893年)
たえず刺激や反応現象を起こしている異物としての症状 das Symptom als einen Fremdkörper, der unaufhörlich Reiz- und Reaktionserscheinungen(フロイト『制止、症状、不安』1926年)

そして、語りとしての自己史に統合されない「異物」であるがゆえに、反復強迫がおこるのである。

反復を、初期ラカンは象徴秩序の側に位置づけた。…だがその後、反復がとても規則的に現れうる場合、反復を、基本的に現実界のトラウマ réel trauma の側に置いた。

フロイトの反復は、心的装置に同化されえない inassimilable 現実界のトラウマである。まさに同化されないという理由で反復が発生する。(ミレール 、J.-A. MILLER, - Année 2011 - Cours n° 3 - 2/2/2011 )


少し前に戻れば、ボロメオの環における真の穴に相当する場は「表象代理」である。

表象代理 Vorstellungsrepräsentanzは、原抑圧の中核 le point central de l'Urverdrängung を構成する。フロイトは、これを他のすべての抑圧が可能 possibles tous les autres refoulements となる引力の核 le point d'Anziehung, le point d'attrait とした。 (ラカン、S11、 03 Juin 1964)

この原抑圧(欲動の固着)が、人の生の引力としてわれわれを支配している。これがフロイト・ラカン理論の核心である。

最も肝腎なのは、世界が表象になる前に、表象代理(欲動代理 Triebrepräsentanz)があることである。
世界が表象 représentation(vótellung) になる前に、その代理 représentant (Repräsentanz)ーー私が意味するのは表象代理 le représentant de la représentationであるーーが現れる。A. (ラカン, S13, 27 Avril 1966)

ーーこのことを把握すれば、現実界が表象の裂け目に現れるものだけでは全くないことがすぐさま瞭然とする。

そして、《欲動代理 Triebrepräsentanz は、(原)抑圧により意識の影響をまぬがれると、もっと自由に豊かに発展する。

それは暗闇の中に im Dunkeln はびこる wucher 異者 fremdのようなものである》(フロイト『抑圧』1915年ーー「リビドーのトラウマへの固着」)のである。


さあ、もう理論的な話はやめにしよう。「世界のあのつぶやき」でよいのである。

もちろん、あの世界のつぶやきがきこえない「刺激保護膜 Reizschutzes」の厚すぎる連中もあまたいるんだろうがね、《あんた方はみんなつんぼだっていったんだ。そら、あれが聞こえないのかい? 》(バルトーク)


真の作家、真の芸術家とは、「世界のあのつぶやき」に強迫されて書き続けている種族にちがいない。

そもそも肉体に宿る感情を、一体どうすれば言葉にすることができるといのだろうか? たとえばあそこの空虚さを、どうように表現すればいいのか?(リリーの眺める客間の踏み段は恐ろしく空虚に見えた。)あれを感じ取っているには身体であって、決して精神ではない。そう思うと、踏み段のむき出しの空虚感のもたらす身体感覚が、なお一層ひどくたえがたいものになった。(ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』)
・にいやんはしんだん。うっすらと青い記憶の酸が、ひかりをはぎとり、傷つけ、蒸発させてしまおうとする。

・僕はすべてのものを憎んでいる。姉を悲しませ、兄を殺し、僕をまでも辱しめ苦々しく窒息させたすべてのものを憎んでいる。あの頃から僕は僕自身のための神話をなくしたのだ。僕の体には、人々にみすてられた廃屋の井戸のように雑草がぴっしり生えはじめたのだ。

・僕はあの時のことを忘れない。怒りと狂気を妊んだ海のことも、二十六歳のにいやんの惨めな屍のことも僕は忘れない。(中上健次『海へ』)

これらの文が、最後期ラカンの現実界、--《現実界は形式化の行き詰まり impasse de la formalisation》とした72歳までのラカンではなく、それ以後のラカンの現実界である(参照)。

現実界は書かれることを止めない。 le Réel ne cesse pas de s'écrire (ラカン、S 25, 10 Janvier 1978)
私は…問題となっている現実界 le Réel は、一般的にトラウマ traumatismeと呼ばれるものの価値を持っていると考えている。…(ラカン、S.23, 13 Avril 1976)


⋯⋯⋯⋯

※付記

フロイト・ラカン派においては、人にほとんど知られていない決定的な叙述があるものである。上に記した欲動代理をめぐるRICHARD BOOTHBYの次の文は、もはやこれだけでよいのではないかとさえ感じられるほど決定的な文である。

『心理学草稿 Entwurf einer Psychologie』1895年以降、フロイトは欲動を「心的なもの」と「身体的なもの」とのあいだの境界にあるものとして捉えた。つまり「身体の欲動エネルギーの割り当てportion」ーー限定された代理表象に結びつくことによって放出へと準備されたエネルギーの部分--と、心的に飼い馴らされていないエネルギーの「代理表象されない過剰」とのあいだの閾にあるものとして。

最も決定的な考え方、フロイトの全展望においてあまりにも基礎的なものゆえに、逆に滅多に語られない考え方とは、身体的興奮とその心的代理との水準のあいだの「不可避かつ矯正不能の分裂 disjunction」 である。

つねに残余・回収不能の残り物がある。一連の欲動代理 Triebrepräsentanzen のなかに相応しい登録を受けとることに失敗した身体のエネルギーの割り当てがある。心的拘束の過程は、拘束されないエネルギーの身体的蓄積を枯渇させることにけっして成功しない。この点において、ラカンの現実界概念が、フロイトのメタ心理学理論の鎧へ接木される。想像化あるいは象徴化不可能というこのラカンの現実界は、フロイトの欲動概念における生(ナマ raw)の力あるいは衝迫 Drangの相似形である。(RICHARD BOOTHBY, Freud as Philosopher METAPSYCHOLOGY AFTER LACAN, 2001)


上に、欲動は《「心的なもの」と「身体的なもの」とのあいだの境界にあるもの》とあるが、フロイトにおいてはたとえば次の叙述がある。

欲動 Trieb は、心的なもの Seelischem と身体的なもの Somatischem との「境界概念 Grenzbegriff」である。(フロイト『欲動および欲動の運命』1915年)
欲動 Triebeは、心的生 Seelenleben の上に課される身体的要求 körperlichen Anforderungen を表す。(フロイト『精神分析概説』死後出版、1940年)
(原)抑圧 Verdrängung は、過度に強い対立表象 Gegenvorstellung の構築によってではなく、境界表象 Grenzvorstellung の強化Verstärkungによって起こる。(Freud Brief Fließ, 1. Januar 1896)

ラカン的語彙における原症状(サントーム)に相当する表現としては、フロイトのフリース宛書簡に現れる最初期の「境界表象 Grenzvorstellung」、すなわち「境界シニフィアン」が最も相応しい表現であるのが、面白い。